カクテルキッス4-ふたりの約束-

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そうして千景は職場にも劇団の稽古にも復帰し、たくさんのおめでとうを受け取ったようだった。
至は万里に「良かったな」と励まされ、紬に「本当に良かった」と泣かれ、左京に「これからも大変だぞ」と脅された。
千景は千景で、密からの無言の圧力を受けていたし、気づいている東にも、意味深な笑みを向けられていた。
至は結局、千景から組織のことを詳しく聞いていない。〝いつかでいい〟と言ったのは本音だし、記憶のなかった千景があんなにショックを受けるほどのことを、簡単に話せるはずもないだろう。
ただ、千景は以前よりも一〇三号室で過ごす時間が増えた。愛機を至の前で広げ、あまつさえ隣に腰をかけメールを確認したりする。以前は絶対にしなかったことだ。
「茅ヶ崎、あのな、……」
そしてときおり、何かを言いかけてやめる。何も察していない振りをして、至は何ですかと訊ね、千景になんでもないと返される日々が続いている。
生い立ちや組織のことを話そうとしてくれているのだろうとは思うが、無理をしてほしくない。どうやっても、彼にだって楽しい話ではないだろうし、至は少しも急いでいない。
?を吐くのが得意な男だったはずなのに、最近それがほころび始めているようだった。それはけして悪い意味ではなく、自分の傍で素のままの顔を見せてくれ始めているのが嬉しかった。
「あー……、その」
そして、今日も千景は言いよどむ。
「せーんぱい。無理しなくていいんですよ。俺はいつでも傍にいるわけですし。あ、それとも浮気ですか? 他に誰か可愛いコでも見つけたわけじゃないでしょうね」
千景の負担と不安を少しでも減らしてやれたらいいと、至はついに言及した。あり得ないだろう可能性を付け加えて。
「そんなわけないだろ、怒るぞ」
即座に否定してくれた千景にふっと笑って、唇にそっとキスをした。
「大丈夫、知ってますよ。俺が素直じゃなくても可愛くなくても、あなたは俺がいいんでしょ。俺が、素直じゃなくても可愛くなくても、千景さんしか考えられないのと同じですよ」
「……お前ね。はあ、否定はできないけど」
ため息を吐き肯定する千景に、至は心の中で前言撤回。傍にいればいるほど、千景の素直さと可愛さがどんどん見えてくる。
たとえその手が罪にまみれていようと、千景しか考えられないのは本当だ。
「あの……茅ヶ崎、明日空いてる? 仕事終わった後……できれば時間空けてほしい」
「へ? ……あ、いて、ますけど」
「そう、良かった。終わったらそっち行くから」
ホッとした表情を見せる千景に、至は首を傾げる。改まって、いったいなんだろうと。
しかし、千景がわざわざ時間を空けてほしいと言うならば、大事な用件なのだろう。ここ数日思い悩んでいた、組織のことに違いない。
となれば至も心の準備をしなければいけなくて、こうして事前に了解を取ってくれたことに感謝した。当日いきなりでは、心の準備も何もない。
だがたとえどんな話をされようと、別れ話以外ならきっちり受け止めてみせようと、千景の肩にこめかみを預けて想いを示した。

◇ ◇ ◇

ドキンドキンと胸が鳴る。一日かけて心の準備はしたつもりだったけど、いざ定時が近づいてくると、鼓動はいつも以上に騒がしい。
それでも仕事はきっちり片付けて、イケメンエリートの顔は崩さなかった。
「茅ヶ崎、お待たせ」
「えっ、あっ、はい」
宣言通り千景が迎えにきてくれて、そろってフロアを後にする。予想に反して、千景の顔に悲壮感は漂っていなかった。
至は、自分の考えすぎだったんだろうかとエレベーターの中で千景の横顔を見やる。
緊張はしているようだったが、そんなに深刻なものではないように見えた。
「先輩? 駅向こうですけど」
「いや、帰るわけじゃないから」
「それは分かりますけど、向こうの家に行くのだって、電車使うでしょ」
「向こうの家? ……ああ、違うよ茅ヶ崎。期待させたかもしれないけど、その手の話をしたいわけじゃない」
今日は珍しく電車通勤だった。何か話があるのは分かっていたから、二人きりになれる車を使わないことにも疑問はあったが、やはり、どうも組織絡みの話題ではないようだ。
人に聞かれていい内容ではないから、話すのならばアジトへ向かうものだと思っていたのに。
「あ、違うんですか? なんだ……めちゃくちゃ緊張して損した。それならそうと言ってください」
肩からすっと力が抜けていく。昨日から頑張った心の準備は無駄になってしまったが、ならば千景はなぜ、改めて時間を空けてほしいなどと言ったのか。
「うん……まあ、絡みが全くないわけでもないのかな」
「え?」
「立ち話もあれだから、移動しようか。明日休みだし、二人で飲もう」
「当然奢りですよね?」
「ちゃっかりしてるな。まあ、俺持ちで」
深刻な内容でないのなら、至は緊張をする必要もないと口の端を上げる。会社絡みの飲み会は苦手だけれど、恋人と二人きりなら大歓迎だ。
そこまで思って、急激に顔が赤くなった。
(恋人、なんだよなぁ??、マジで)
いったんは離れてしまったものの、この手はまた?がった。引き留めることができた。もういいやと諦められるものではなかったから、戻ってきてくれてよかったと心から思う。
堂々と恋人宣言できる間柄ではないけれど、心はちゃんと?がっている。
「どうしたんだ、じっと手なんか見つめて」
「え、あ、いや……先輩のことつなぎ止められて良かったなあって。何を諦めるにも努力が必要なら、その分を体力作りに回そうかなと、……まあ、まだ思ってるだけなんですけどね」
千景の傍にいるには、体力があって困ることはない。それを抜いても稽古や公演で体力は必要となる。なかなか実行に移せないでいるのだが、少しずつでも体力作りをしてみようと思っていた。
「そういうことなら、喜んで協力するけどね」
「いやなんかキツそうなんでお断りします」
「失礼な。丞まではいかないレベルだよ」
「確実に死ぬでしょ俺っ」
そんなことを言い合っている内に、千景がすっと立ち止まる。そこは、どこにでもありそうな一軒のバーの前。
「えっ……」
至は目を瞠った。
「入ろう、茅ヶ崎」
促され、至はぼんやりとしながらも足を踏み入れた。
そこは、始めて千景と肌を合わせるきっかけとなった店だった。千景の行きつけとは言っていたが、あれ以来来ることのなかった場所。
あの時と同じ、カウンターの席。都合良く空いているなんて、予約でもしていたのだろうかと思うと面映ゆい。
ここは、始まりの場所と言っても過言ではない。
そんなところに連れてきて、千景はいったいなんの話をしたいのか。
「あの、千景さん……」
「懐かしいな。あの頃は、お前と二人で飲むのはやめにしておこうなんて思ったけど」
千景はそう言って笑う。確かに店を出た後にそう言われたことを思いだした。二人で飲むどころか、うっかり恋人にまでなってしまって、人生というものはどこでどう転ぶか分からない。
「さて、何を飲もうか〝修司〟」
「あの時は、本当に一夜限りで終われないことになるなんて、思いもしませんでしたよ、〝貴史〟」
あの時演じた役の名前で呼び合って、二人で笑う。
至はディアブロを、千景はイスラ・デ・ピノスをそれぞれ頼み、喉を潤した。
「思い出巡りがしたかったんですか? 先輩にそんな趣味があるとは思いませんでした」
「そういうつもりはなかったけど、結果的にそうなるのかな。この後、行くだろ?」
どこへとは口にされない。至は千景の言いたいことを察して、?を染めながらもはいと頷いた。
ここで喉と腹と心を満たした後は、初めて体を重ねた場所に行くのだろう。
千景は、一緒に過ごしてきた場所をたどることで、改めて自分の中の感情を認識しようとしているのだろうか。二人にとって悪い方向へ進むのでなければ、千景の気が済むまで付き合おうと心に決めた。
「思い出巡りなら、ザフラにも行くんですかね。さすがに王宮は無理かもですけど」
「そういえば、城っぽいところに泊まりたいんだっけ? じゃあそれは新婚旅行かな」
「まさかの展開ワロ、…………え?」
コトリと、手元に何かが置かれる。
それは手のひらに収まるくらいの小さなケース。
見慣れたものではないが、テレビ画面の向こうで見たことはある。その程度の認識しかないものが、なぜ手元に置かれるのか。
「え、なにこれ……千景さん」
「リングケース」
「見れば分かります。いや、あの、そうじゃなくて、なんで……」
至の手元に千景が置いたものは、贈ったことも贈られたこともないシロモノ。交際をしている男女ならば、タイミングを見計らって婚姻の申し込みをするのに、いちばん分かりやすいものだ。
だが至と千景は、交際はしていても世間一般とはかけ離れている。最近は同性のパートナーを認めるところも増えてきてはいるけれど、それを抜いても重要で重大な問題があるというのに。
「俺の覚悟、かな……生涯ただひとりのパートナーとして、一緒にお互いを守っていきたい」
守り抜く自信がないと言って別れを切り出した千景が、今は一緒に守っていきたいと言ってくれる。正式な婚姻を結べるわけではないが、そこは気持ちの問題だ。
守り切れないと言った千景。触れてほしくないと言った千景。
それを覆して、本来苦手だろう〝形〟にしてくれた。
「あ、の……開けてもいいですか」
「いいけど、中身は入ってないよ」
「は!?」
千景の申し出を断る理由などないと、受け取って確認しようとしたところへ、まさかの発言。至は慌ててケースを開け、受け取るべき中身がないことを確認した。
「ちょ、待ってなんのイジメ。ガワだけとか、なんなんですか、からかってるんなら、タチが悪すぎ――」
「もし、お前の気持ちが今も変わらないのなら、明日一緒に選びに行こう、茅ヶ崎。指輪一つじゃ安いけど、これから先の俺の人生に――巻き込まれてほしい」
ケースを握った手の上に千景の手を重ねられ、至は目を瞠った。
お互いを一緒に守っていく約束の印は、二人で選びたいという千景。恐らくこの数日、ずっと悩んでいたのはこれだったのだろう。
至はあふれそうになった涙をぐっとこらえて、ケースをぎゅっと握りしめた。
「もう、とっくに巻き込まれてるでしょ」
上手く笑えはしなかったけれど、ホッとした表情を見せてくれた千景には、ちゃんと伝わったはずだ。
千景の手が腰に回る。至は素直に体を預け、アルコールで濡れた唇を重ね合わせた。
「ねえ、もう一杯頼んでもいいですか? 飲みたいものがあるんです」
「もちろん。アキダクトかな」
「んなわけないでしょ、一夜限りじゃ終われない」
ワンナイトラブを誘う意味を持つカクテルを挙げられて、至はむっと眉間にしわを寄せる。あの日流し込まれたカクテルは、恋心となって今も体中に染み渡っていた。
「たぶんこれが最後の恋なので」
「これ以降、別れの言葉は口にしない」
「させませんよ、千景さん」
「心強いよ、茅ヶ崎。すみません、オーダー」
肩を竦めた千景がバーテンダーに声をかける。気を利かせて離れていたその男に、千景と至は声を揃えてこう言った。

「カクテル・XYZを――」

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