カクテルキッス4-ふたりの約束-

この記事は約10分で読めます。

定時を一時間ほど過ぎてしまった。
それでも仕事の量を考えれば頑張った方で、これ以上何か仕事を押しつけられる前にと、だいぶ痛みの引いた腰をかばいつつ席を立つ。
いちばん始めに、千景にLIMEを送った。三秒ほどで既読がついて返信があった。〝ロビーで。今降りるから〟と。OKのスタンプを返せば、少しの間を置いてにっこり笑顔のウサギのスタンプが送られてきて、思わず噴き出した。
(先輩、可愛い)
こんな一面があったなんて知らなかった。まだまだ知らないことがたくさんあるのだろうなと思うと、これからの生活が楽しくてしょうがない。
明確に〝恋人〟と呼べる間柄の相手ができたのも初めてで、何をどうするのが正解なのかも分からないが、千景だってきっと同じようなものだろう。一緒に悩みながら歩んでいけたらいいと、エレベーターに乗り込んだ。
一階に着いて、観賞用に植えられた木を避けてひょいと覗き込めば、そこのベンチに腰をかけた千景がいた。長い足を組んで、携帯端末を操作している。そんな姿さえ様になるのがズルイ。そして同時に、胸のあたりがくすぐったい。
改めて千景のスペックを認識してしまい、密やかに優越感を味わった。
「先輩、遅くなってすみません」
「お疲れ茅ヶ崎、頑張ったな。まあ想定内だったよ」
褒められているのか貶されているのか分からないが、そっと髪を撫でてくれるその手が嬉しい。
だけどそこでハッとして、緩みそうだった?をきゅっと引き締めた。うっかり気を抜けば、周りに気づかれてしまう。
「ほら、キー貸して。どこか寄るところある?」
「あ、お願いします。今日は特に……コーラのストックもあるし」
「じゃあまっすぐ帰るか」
連れ立って駐車場へと向かい、千景が当然のように運転席へ回る。
朝に比べたら腰もだいぶ治ったし、自分が運転してもいいのだけど、と言いかけたけれど、ここは千景に甘えておこう。
甘やかさないと言いながらも、こうして甘えさせてくれる恋人に。
(は~まだ慣れない。……恋人って単語。俺には無縁のものだと思ってた)
助手席のシートに体を沈めて、至はシートベルトを締める。
そこから眺める千景の姿が、実はとても好きだ。
「なに、じっと見つめて」
「いやなんでもないです。……いや、なんでもなくないですけど。あの、こ、恋人になる前にも散々ドキドキしたのに、なんで今もこんなにドキドキそわそわするのか……先輩ズルイ」
「俺に怒るなよ。俺だって、お前にはドキドキしっぱなしなんだけどね」
「?でしょ」
「どっちかな」
ふふ、と笑いながら千景はアクセルを踏む。こうやってはぐらかすのは千景の得意技だ。
自分に都合の良い方に捉えておこうと、至は正面に向き直る。
「あ、ごめん茅ヶ崎、コンビニ寄っていい?」
「全然構いませんけど、何買うんです?」
「さっき真澄からLIME来てさ、ゼリー飲料買ってきてって頼まれたんだ」
「え、真澄から? めっずらし。……いや、アイツの当たりがキツいのは俺に対してだけかな」
それでも第二回公演の頃に比べたら随分柔らかくなったけど、とブツブツ言いつのれば、千景が肩を震わせた。
「真澄のあれは、甘えてる部分もあるんじゃない? お前が怒らないラインはちゃんと弁えてるし」
「その発想はなかった。なるほど可愛いヤツめ。そんな可愛い真澄のお願いを聞く先輩、ほんと甘いですよね」
「真澄用じゃないぞ。綴がまたパソコンと同化しててご飯食べてないって言うから」
「あ、なーる。綴のお世話係も板についたなー。っていうか綴大丈夫なのか? 今公演決まってるものないでしょ」
カンパニーの看板劇作家である皆木綴は、本当にいい脚本を書いてくれる。集中し出すと他のことが何もできなくなるのが心配だけれど、ルームメイトである碓氷真澄が、最悪の事態にならないように世話を焼いてくれているのだ。
だが、今は冬組の、カンパニー初の海外公演が終わったばかりで、次の公演は決まっていないはず。彼は何をそんなに一生懸命書いているのだろうか。
「ザフラの王宮すごかったから、感覚を忘れないうちにいろいろ書きためておきたいみたいだよ」
「あ、そういうことか。俺も王宮に泊まってみたかったな、……っ」
そこまで言って、至はあの夜のことを思い出し声を詰まらせた。
あの夜、王宮に泊まってほしいと言われたが、荷物を取りに戻る道すがら、千景に想いを告げて、告げられて、ホテルに戻ってそのまま体を重ねたのだ。
王宮には泊まれなかったが、恋人になって初めての夜を国外でという貴重な体験をした。傍に他の団員の荷物もある中でという、若干背徳感をミックスした状態で。
「茅ヶ崎、顔が赤い」
「うるさいですよ!」
何を思い出してしまったか分かっているくせに、千景は意地が悪い。くすくすと笑う横顔もいいなと思ってしまうあたり、責める理由が弱くなる。
この想いが通じてから、どんどん大きくなっているような気がした。もう抑えなくていいのだと思うと、貪欲に千景を想ってしまう。
信号待ちで、千景の左手がステアリングから離れる。それは膝に置いていた至の右手にそっと触れ、指を絡めてきた。至は驚いて千景を振り向くけれど、彼はなんでもないように前だけを見据えていた。至も指を絡め返して、視線を正面に戻す。
「……千景さん、好きです」
「うん」
ほんの少し俯いて、言えなかった時間の分の想いを音にする。千景はただ相づちのように頷くだけだった。
だけど、絡む指の強さが変わる。至には、それで充分だった。
〝一度しか言えない〟
そう言った千景の気持ちは分かるから、それでいい。音じゃなくても、こんなに想いを示してくれる。それが分かる距離にいたいと、信号が青に変わる直前に手を離した。
「そういえば、右腕の怪我大丈夫か?」
車を発進させて、千景が訊ねてくる。至は心当たりがなくて、首を傾げた。ややあって、思い出す。そういえば先月右腕を怪我していたのだと。
「全然、なんともないです。忘れてました、そんなこと」
「……本人が忘れてるくらいだから、大丈夫か」
「痕もたぶん残ってませんよ。怪我っていうほどのものじゃなかったでしょ」
ジャケットとシャツの袖を捲って、患部を確認する。どこだっけと思うほどには大したものではなくて、だけど、気をつけて見てみれば、うっすらと痕のようなものが見える。
それは、とある痴情のもつれに巻き込まれ、一方的な悪意をぶつけられたものだ。至に好意を寄せている女性の元カレだかストーカーだかが、刃物を持って追いかけ回してきたことがある。
幸いにも、通行人たちが通報してくれて現行犯逮捕されたが、今考えただけでも刃物のきらめきが恐ろしい。
だけどザフラでは、千景を助けるためにとっさにナイフを投げることができた。まあ結果的に千景に投げ直されただけだったが、気持ちひとつで刃物のきらめきさえ恐ろしいとは思わなくなるのだと、改めて感じた。
(とっさだったとはいえ、ためらわなかった……。それってヤバくないか? 気をつけないと、先輩の望んでる日常じゃなくなる)
この体力と経験で千景の役に立てることはもうないだろうが、怖い。
千景のためならと、ためらいもせずに誰かを傷つける日がくるかもしれないのだ。
それは茅ヶ崎至の日常ではないし、卯木千景の望む日常でもない。
(俺は体力皆無の引きこもり廃人ゲーマー、猫かぶりのエリート商社マン。あ、でも体力はつけたい。稽古とか公演のためにも)
千景のことが好きだから、千景の守りたい茅ヶ崎至でありたい。
〝立派に相棒してくれた〟と言われて、嬉しかったあの気持ちは、あの瞬間限りでいいと、至は袖を元に戻して腕をぎゅっと握った。
「今度何かあったら、ちゃんと言えよ茅ヶ崎。心配かけたくないとか、そういうのはいらないから」
「あ、……はい。あんなこと、そうそうあってもらっちゃ困るんですけどね」
「は、どうだかな。弊社の王子様は女性社員全員虜にしてるだろ」
「いや全員は盛り過ぎだし、先輩だってそういう女の子いっぱいじゃないですか」
「嬉しくない」
「でしょうね」
千景はもともと、女性が苦手なタイプだ。会社では軽くあしらっているようだが、本音はそんなところだろう。至は肩を震わせて笑った。
「あ~、でもそういえば一昨日? 帰る途中でやけに背後が気になったな……なんか、見られてる気がして」
「……なんだと」
千景の声が低くなる。至はそれを不思議に思って、振り向いた。そこには、目を見開いてぎゅっと強くステアリングを握る千景がいた。
「どこで」
「え? あ、どこらへんだったかな……会社出てすぐくらい? 尾行つけられてんのかなーとか、そういうのちらっと考えましたけど。中二病なんで」
「なんでそういうのすぐに言わないんだ!」
「……っ」
千景が、珍しく声を荒らげる。思わず体が強張って、声が詰まった。
それに気がついたのか、千景はハッとしたように息を吸い込んだように見える。
「……悪い、ちょっと、心配で」
「大袈裟だな、先輩。確かに嫌な視線でしたけど、五分くらいでなくなりましたし」
「……お前を好きな子かな。あんまり気を持たせるようなことするなよ茅ヶ崎」
自意識過剰だと笑われるかと思ったが、千景は本当に心配してくれているらしい。以前のことがあるから余計にだろうと解釈し、深刻になりすぎない程度に頷いておいた。
「万里にも言われてるんですよね。千景さんを好きになってから、艶が増してるって。ハハッ、艶ってなんだよ、ワロス」
「それは万里に同意かな。茅ヶ崎、抱くたびに色気が増していったから。そうか、それ、俺のせいだったんだ」
「なにちょっと嬉しそうな顔してるんですか。腹立つ」
片想いだと思っていた時期が自分にあるのと同様に、千景にもあるのだと改めて実感させられて、至の方こそ顔が緩んでいく。
好きな人に好かれているという事実が、こんなにも幸せなものだなんて。
これから先、どんなに可愛らしい女性、美しい女性、癒やしてくれる女性に好意を向けられても、応えられることはないのだろうなと思うと、件の視線の主にも申し訳ない気持ちがある。
(だけど俺は今、この人しかいないから)
誰になんと言われようと、せっかく捕まえたこの手を放すつもりはない。こんなに好きになるなんて思わなかったけれど、それは至の本音だった。
そうして、無事にMANKAI寮の駐車スペースにたどり着く。無事じゃなかったのは、高鳴る至の心臓だけだ。
「お疲れ、茅ヶ崎」
「ありがとうございます、運転」
言い合ってシートベルトを外し、ドアのノブに手を伸ばしたところで、ぐっと腕を掴まれて引かれる。千景の方へ傾いだ顔に影がかかって、唇が触れた。そっと触れて、押しつけられるだけのキスだった。
「せん、ぱ……」
「恋人同士はここまでな」
「え、あ、は、はい」
すぐに離れた唇と、千景の笑顔。至はほんのりと?を染めて、車を降りる。深呼吸で心を落ち着けてから、寮の玄関へと向かった。
ここから先、千景とはただの劇団仲間でいなければならない。
千景が、至より少し遅れて玄関に向かってくるのも、落ち着く時間をくれているのだろうと解釈して、至は玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
「あっ、おかえりなさい至さん、千景さん! ご飯できてますよ!」
「ただいま。今日は何のカレー?」
「チキン煮込みにしました」
総監督であるいづみが、ドヤ顔で迎えてくれる。今日もカレーかと項垂れる至と、楽しみだなとご機嫌の千景。
どうしてこんなにも違う自分たちが、こんなことになったのかなと、心の内で考えた。
「ひとまず着替えてくるわ。あ、咲也、あとでガチャよろ。限定きてるんだ」
「あっ、オレでよければ」
いづみの楽しそうな顔と咲也のふわふわの笑顔。仲間たちの談笑する声。
千景と二人きりだったドキドキをそれらで充分に癒やして、薄めて、至は着替えに部屋へと向かう。
千景はいづみと何か話し込んでいるようで、またスパイスの話題かなと肩を竦めながら。
「スパイスの話題には入り込めないもんな~」
少しだけ寂しい気持ちを呟きながらも、まだ片想いを引きずっていることに気がついて、ふるふると首を振った。話題に入り込めないからといって、嫉妬する必要はないのにと。
恋人になれたのだから、違うところで、もっと深く?がれている。
千景がこの劇団を大切にしているのは分かっているし、至だってそれは同じだ。自分だけの千景ではない。千景だけの自分ではない。
浮かれ気分は最高潮だけれども、恋人という距離感を、少しずつ、ゆっくり味わって、自然なものにしていけたらいい。
人と深く関わるのが苦手だった自分が、こんなことまで思い始めるなんて。きっと姉あたりが知ったら天変地異の前触れかなどと言い出すのだろう。
その気持ちはよく分かるが、天変地異など起こりませんようにと祈るのみ。ただでさえここ最近おかしなことが起こり過ぎているのだ、ゆっくり心を落ち着けたい。
そう思いながら、着替えを終えてダイニングへと戻るのだった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました