カクテルキッス4-ふたりの約束-

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携帯端末の画面をタップして、至はゲーム画面を閉じた。これで今日のデイリーは全部回収したはずだ。
「はああぁあぁぁぁ??」
「すっげえため息」
ごろりとソファに寝転がると、自然と息が漏れてくる。座部を背もたれにして床に座っていた万里が、その大きなため息を聞いて顔だけで振り向いてきた。至はクッションを抱きかかえて、携帯端末を手放す。
「至さんどうしたんすか。今日はあんまりノらねーカンジ?」
「いや、ちょっと心臓が忙しい」
「把握」
「把握すんな。っていうか、俺ヤバくね? LIMEひとつでこんなに浮かれてんの。しかもリアタイじゃないヤツな」
手放したはずの端末を再び手探りで持ち上げて、LIMEを立ち上げる。昼間のトークが残っていた。もちろん千景とのだ。
他愛のない、昼食の誘い。それは以前もあったはずで、別段変わりないように見える。それなのに、メッセージのひとつひとつが嬉しくなってしまう。
「だいぶ重症だなアンタ。初恋? なんだっけ?」
訳知り顔の万里が、面白そうに訊ねてくる。視線は端末画面に固定したままだ。確かに万里の言う通り、これは初めてと言っていい恋だ。
今までも、もしかしたら恋らしきものを経験したかもしれないが、明確に恋だと認識できるのは、これが初めて。
「何か自分が馬鹿になったみたいで悔しい。両想いじゃなかったら、まだ抑えてられたのに、全然ダメ」
「いいんじゃないすか。まだ付き合ってあんま経ってねーだろ。半月くれぇ?」
「十日です。だってなんかさ、先輩の声っていうか、顔っていうか、仕種っていうか、もうそういうのが全部甘ったるいんだよ。ナニコレ。世の中の、こ、恋人同士って毎日こんな思いしてんの?」
恋人という単語に、まだ言葉が詰まる。それに気がついて、万里が噴き出した。「小学生かよ」と。できれば中学生あたりまで上げてほしいとは思うが、どれだけも変わらない。
「付き合い始めはそうかもな。でも、分かるっすよ、LIMEのメッセひとつでも嬉しいって思うのは。俺だっていまだに顔が緩む」
「ものすごいのろけを食らった」
「いやアンタのが先だわ」
はあ、とため息をつくけれど、憂鬱なものではない。肩の力が抜けていく。
正直、こんなふうに話せるとは思っていなかった。恋が叶ったからということもあるが、まだあまり一般的でない想いを、ゲームやおやつを楽しむかのように会話にできるなんて。
「いつになったら慣れるんだろコレ。先輩ここ数日LIMEの量が増えたっつーか」
「へぇ。なんにしても意外だな、千景さんがそんなに恋愛方面にハマり込むなんてよ。だいぶなくなったけど、なんか一線引いてる感じあるだろ、俺らにも」
「それな。だからギャップっていうか、この甘やかし状態に心臓が忙しいんだっつってんだろ」
昼食時には必ず誘ってくれる。
通勤時にも運転をしてくれる。
残業をしたって待っていてくれる。
一緒にいる時間が増えるのは純粋に嬉しくて、車内で二人っきりの時には、恋人らしい会話も交わされる。
世の恋人たちは、こんなふうに過ごしているのか。
恥ずかしくも照れくさくもあり、あまり気の利いたことができていないのも確かだが。
「で、千景さんは? 今日も一緒に帰ってきたよな」
「え? ああ、ちょっと出掛けてる。ここ数日、夜はそんな感じ。たぶん、ここじゃ騒がしくて片付けられない仕事片しに行ってんだろ」
「ふーん。浮気とか心配しねーんだ」
「それはない。だってあんな、…………なんでもない、今のナシ」
思わずガバリと起き上がって抗議しかけたが、とんでもないことを口走りそうになってまた寝転がる。
浮気だのなんだの、考えたこともなかった。
浮かれていて意識の片隅にもなかったのが本音だが、あんなに激しく愛してくれておきながら、他の男に目が行くとは思えないのだ。
(それに、たぶん……ここ数日いないのって、向こうの仕事だろうなって思うんだよね。邪魔するわけにはいかないじゃん。劇団が関わってない限り、俺は部外者だし)
この一〇三号室に着くまでは、千景はいつもと変わりない表情でいる。
だけど「少し出掛けてくる」と言って踵を返す彼は、表情が硬い。
ほんのわずかの変化かもしれないが、傍で見てきた至には分かる。声に、若干の焦りが感じられるのも。
(危ないヤツじゃないといいんだけど。……心配くらいはいいよな、したって。あ、怪我とかしてたらどうしよう、俺手当てとか分かんないわ、……って、あの人が怪我した状態でこっち帰ってくるわけねーか)
抱えたクッションに顔を埋めて、改めて自分のスキルの低さを実感した。
エリート面はしていても、普段の生活の中で至は実はそうスキルの高い方ではない。
料理はからっきしだし、掃除も駄目だし、洗濯も面倒くさい。
ゲームだけして生きていければいいなんて思っていた弊害が、ここにきて出てきてしまった。怪我の手当てなんかやり方が分からない。傷口に触れさせてももらえなかったのだ。
組織の仕事に関わらせたくないのは分かっているが、何かあった時にくらい力になりたい。千景にはそんなこと言えやしないけど。
「至さん?」
「……なあ万里、お前さ。紬の力になりたいって思ったことある?」
相談相手がいてくれることを、本当にありがたく思う。初めてのことばかりで、どうしたらいいのか分からない。こんなことを思っていていいのか分からない。
他の人はどうなのだろうと、至は万里を振り向いた。
「紬さんの? あー……あるっちゃあるけど、あの人ほんとに芝居馬鹿だから、どうしてもそっち方面になるんだよな。エチュードとか、脚本ほん読みとかな。結果として俺の技術も上がってくから、ありがてーっすよ」
「そっか……万里と紬は、カフェ巡りって趣味も合うしな」
彼らも、そうなるまでには時間がかかっただろう。自分たちは体の関係だけ長くて、心を通わせ合ってまだ日が浅いだけだ。
きっといつか、並の恋人同士のようになれる。千景が好きだという気持ちがあれば、きっと、いつか。
「アンタも、千景さんの力になりたいとか思ってんの?」
「そりゃな。助けたいってことはあるけど、あの人チートすぎて俺の手なんかイラネってハナシ。……なんで俺のこと好きになってくれたんだか、分かんない」
「そういうの、紬さんも思ってんのかな」
「あ?」
「ほら、俺も割となんでもできっから」
「自慢おつ。でも紬の場合ほら、それこそ芝居のキャリアは万里よりあるわけだし、そういうとこで力にはなれるだろ。俺の場合、本当になにもできないんだよ。趣味も合わないし食べ物の好みだって合わない。合うのは体の相性くらいかな」
千景の気持ちを疑っているわけではない。疑ってしまうのは、彼に好きでいてもらっている〝自分〟だ。
何が彼の琴線に触れたのだろう。同性相手のセックスは千景が初めてで、技術も何もあったもんじゃない。
踏み込み過ぎないという、弁え方が気に入ったのだろうか。だったらそれは買いかぶりだ。他人と関わるのが苦手だっただけだし、踏み込む勇気がないだけだ。
踏み込んで、千景を困らせたくない。積極的に踏み込みたいかと問われればノーと返すし、千景との距離感が分からなくなった。
「セフレだった時は、こんなこと思わなかったのにな。手を放しても、放されても、すぐ立ち直れるように壁作ってたんだと思う」
「……両想いになったら、タガが外れちまったってことかよ?」
「たぶん。今までどうやって隣にいたんだっけ、って考えないと普通にしてらんないの、ヤバいわ。その内バレそうで怖い」
千景とのことは秘密の約束だ。目一杯考えて、気をつけて、神経を張り詰めていないと、すぐふにゃふにゃになってしまう。それでも職場では、もともと被っていた猫のおかげで随分楽なのだ。切り替えスイッチがあるらしい。
「そのうち慣れるだろ。紬さんも最初そうだったぜ。〝万里くんごめんねちょっと待って心臓落ち着けるから〟ってしゃがみ込むの、すげー可愛かったけど。今じゃあのニコニコ顔で俺を煽ってくるんすから」
「ぶはっ、紬の手のひらの上で転がされてんじゃんお前」
「アンタも頑張って千景さん転がせば?」
「無理だろ、いや可愛いけど。……可愛いな? 先輩が照れるとことか見てみたい」
あの千景を操ることなんてできそうにないけれど、想像するのは楽しい。
これからもっと楽しいことが増えていくのだと思うと、嬉しくてしょうがなかった。
「まだ始まって間もねえんだし、ゆっくり行けば? 相談とかは乗るけど、のろけは勘弁な」
「いやお前も大概のろけすごいぞ。……いちばんのろけ激しいのは紬だけどね」
「あーあれは無意識っつーか……だから余計にタチ悪いっつーか……」
「それな。万里、顔真っ赤」
「うっせぇ」
耳まで赤くなっているような気がする、貴重なゲーム仲間をからかう。
彼らのように自然な風が流れる間柄になれるまで、どれだけかかるかなと、至は少し息を吐いた。
その時、小さなノックのあとに部屋のドアが開かれる。二人でそろって振り向けば、渦中の人物の姿があった。
「おっ、千景さんおかえりっす。邪魔してるぜ」
「お、おかえりなさい先輩。おつです」
どうしても声が上ずってしまって、至は項垂れて顔を覆う。おかえりなさいと出迎えるのがどうしてこんなに照れくさいのか。
それを見て腹を抱えて笑う万里の背中に、蹴りを入れてやった。
「ただいま」
ややあって、千景の口から小さく呟かれる音。至は、少し違和感を覚えた。千景の声は、呆れ百パーセントのように思えたが、その中にわずかに疲労が感じられて。
やはり裏の仕事だったのだろうかと瞬けば、千景と目が合って、逸らされた。後ろ暗いことがあるのか、千景は眼鏡のブリッジを押し上げる。
深く訊くつもりはないのだから、いつも通りにしていてくれればいいのにと、至はソファの上で体を起こした。
「じゃあ、俺戻るわ。邪魔しちゃ悪いし」
「はっ? ば、馬鹿かお前、いいのに」
「んなわけにいくかよ。じゃ、おやすみ~」
そうやって万里が部屋を出ていってしまって、千景と二人きりになってしまう。二人でいる時間が増えるのは嬉しいのだが、なんだか居たたまれない。
「き、気を遣わせちゃってますね。別にいいからって、アイツに言っておきます」
「……ああ」
千景が、疲れた様子で隣に腰を下ろす。
そういえば、入団当初はこのソファに座ることさえなかったのになと、部屋の片隅に置かれた白いチェアに視線をやった。そもそもこの部屋で過ごすことさえなくて、分厚い壁を感じていた。
それが、今は、隣に座ってくれている。
確実に距離は縮まっていて、嬉しい反面落ち着かない。本当に、今までどうやって千景の傍で過ごしてきていたのか、分からなくなった。
必要のない力が体に入って、変に強張らせる。カチンコチンとまではいかずとも、ぎこちないのは自覚していた。万里が変に気を遣うから、余計に緊張してしまう。明日は文句を言ってやろうと、小さく拳を握りしめた。
「茅ヶ崎」
「はひっ?」
呼ばれて、声が上ずる。
変な声を上げてしまったと?を染めて振り向いたが、千景の顔は背けられていて、自分一人が浮かれているのかと羞恥が襲ってきた。
「……」
「あ、あの……? なんです? まさか〝呼んだだけ〟なんて甘いこと言わないですよね? キャラじゃないわ」
だが、呼んだにも関わらず、千景からはそのあと何も言われない。顔を背けたまま、呼吸だけしているように思えた。
至は、おかしなことに気づく。いつもなら、愛機を足の上に乗せてネット住民になっているのに、今日はそれがない。
かといってイチャイチャしたいという雰囲気でもない。そもそも、寮内ではそういうことをしない約束をしているのだから、それは別に構わないのだが、先ほどから千景の様子がおかしい。
(先輩、どうしたんだろ……)
千景の心の中など読めやしない。何かあったのだろうことは分かるが、それは踏み込んでもいいことなのか。聞いてほしいことがあるのなら、千景は?を交えた真実を告げてくる。それもない。
促すために、千景のジャケットをツンッと引っ張ってみる。それを振り払うように千景はソファから立ち上がり、至に背中を向けた。
「先輩?」
途端に不安が襲ってくる。心臓が嫌な音を立てて、振り払われた手には汗が浮かんだ。
「なあ茅ヶ崎」
千景は振り向かないままで、声だけ投げてくる。硬くて冷たい声で、振り向かない背中で、拒絶されているように思えた。
そしてそれは、
「……別れよう」
最悪の形で音になって至の耳を支配した。
「…………――え?」
何を言われたのか分からない。至は、たった今耳に届いた音を、ひとつひとつ反芻した。
「わ、か……、れ、……って、え、なにそれ、待って、何でですか!?」
思わずソファから腰を上げる。千景の背中に混乱をぶつけ、何故突然そんなことを言い出したのか問いただした。
「なんで、こんないきなりっ……俺、先輩の気に障ること何かしました!?」
別れよう、と千景は言ったのだ。いくらなんでも突然過ぎる。気持ちが冷めていたり、倦怠期でも挟んでいれば、まだ納得できたかもしれない。
だけど、冷める余裕なんてない。倦怠期を挟む暇すらなかった。
踏み越えてはいけないラインを、知らずに踏み越えてしまったのだろうか。これ以上はダメだという千景からのサインを、うっかり見逃していたのだとしたら。
「し、仕事で何かあっ……、すみ、ま、せん、こんなこと訊くつもりじゃなくて、あの、えっと」
裏の仕事で何かあったのかもしれないと思い、訊ねかけて口を噤んだ。
たった今、踏み越えてはいけないラインを越えたのかという考えが、頭をよぎったばかりだというのに。
「どうして、突然」
「……お前が悪いわけじゃない。ただ、俺が、……――飽きた、だけだ」
掴んだ手をやんわりと外して、千景はゆっくりと言い放つ。
冷水を浴びせられたような気がする。ようやく振り向いてくれた瞳が、?を含んでいるのか、探ることさえできなかった。
「飽き、た……って、なにそれ……」
ガンガンと頭が痛む。右から左から、鈍器で殴られてでもいるようだった。
目の前がチカチカするけれど、セックスで達した時とはまるで違う。衝撃は似たようなものだが、不愉快で仕方がない。
「飽きたってなんですか! なにそれ、ほんと、マジで言ってるんですか!? この間だってあんな、……俺にあんなことしたくせにっ……!」
飽きるほど一緒にいただろうか。体の関係だけは長いせいで、若干マンネリ化していたかもしれない。だけど数日前、翌日に響くほどの行為をしたのを覚えている。飽きたというなら、あれは何だったのか。
「お前に欲情はするよ。ただ、たぶんそれは愛情じゃない。恋情でもない。ただの性欲だ」
「だったらセフレに戻ったっていいじゃないですか!」
「お前はそれに耐えられるのか? 一度でも俺と心が通ったと錯覚した状態で、愛情の欠片もないセックスをして、イけるわけないだろう」
「錯覚……って、な、なかったことにするつもりじゃ、ない、ですよね」
愕然とした。心は確かに通い合ったと思っていたのに。体で?がってきた分以上に、これから心も通わせられると思っていたのに。
「茅ヶ崎は知らないだろうけど、戦闘後とかミッション完了したあとって、そういう意味で興奮してるんだよ。ザフラでのあれは、それに流されただけってこと。それに気づかずに浮かれてるお前が、憐れに思えてきてね」
何かを成し遂げた後は、気分が高揚するのは理解ができる。ザフラの夜は至にとっては非日常で、興奮だってしていた。
だけど、告げた想いは本物だ。受け入れてもらえるなんて、抱きしめられたあの瞬間まで考えていなかった。
「錯覚だって言うなら、最初から突き放せよ、クソが……っ!」
あの時の温もりも、震えていた声も、まっすぐ見つめてくれた瞳も、全部が〝興奮のせい〟だったと言うのか。それならいっそ、あの時突き放してほしかった。
「サイ、アク……最低、先輩がそんな人だなんて思わなかった」
「俺の本質を見極められなかった、お前の落ち度でもあるだろ」
「俺のせいにすんのかよ、このペテン師!」
「褒め言葉かな」
罵っても、にらみつけても、千景の瞳は揺らがない。本当に、別れるつもりなのだと至の声が詰まった。
「茅ヶ崎、俺とのことはもう」
「なんで、ですか……だって、あの時」
「……茅ヶ崎」
小さく、ふるふると首を振る。
飽きた、性欲だけだった、憐れだから、なんて、そんなもので納得なんかできやしない。
想いが錯覚でもなんでも、千景はあの時確かに言ったのだ。
「俺のこと愛してるって言っ――……」
「茅ヶ崎!」
言うか言わないかのうちに、千景の両手で?を掴まれ、乱暴に唇が塞がれる。思わず目を閉じてしまったのは、反射的なものもあったし、慣れもあった。
「んっ、う、う……!」
千景の熱い舌が入り込んでくる。至の舌はすぐに搦め捕られて、呼吸さえ奪われた。舌の裏を、表を、脇を舐ねぶられて、自身の舌先で上顎を愛撫するはめになってしまう。
「っは、あ……んぅ、ん」
は、と千景の吐息が耳に届く。ちゅ、ちゅうと小さな水音が聞こえる。衣擦れがくすぐったい。
もしかして、千景の悪戯なのではないだろうか。
それにしたってタチが悪いが、まだこんなキスをしてくれるのに。至は腕を持ち上げて、千景の背中に回そうとした。
「あっ……ふ」
それを察知したのか、一度吸い上げてから体が押しやられる。乱れた呼吸を整える余裕がない。千景が、濡れた唇を親指でグイと拭うのを見てしまったせいで。
「悪い茅ヶ崎。俺とのことは、忘れてほしい」
その顔が、苦痛そうに歪む。そうしてそのまま、千景は部屋を出ていってしまった。
パタンと閉まったドアを眺め、至は茫然と佇む。何が起こっているのか、頭が認識してくれない。
右を見て、左を見て、この部屋に一人きりだということは把握した。ゆっくり、ゆっくりと振り返り、そっとソファに腰を下ろした。
「フラレ、た、のか……」
千景は部屋を出ていった。別れた男となんか一緒にいられないということだろう。唇を拭うほど、苦痛そうに顔を歪めるほど嫌だったキスで至を黙らせて、愛してるの言葉も聞いてくれないまま、一方的に別れを告げていった。
たった十日ほど。
両手の指で足りるくらいしか、千景と恋人同士でいられなかった。
至はぼんやりと一〇三号室の天井を見上げ、ゆっくりと深呼吸をした。
きっと夢だったのだ。それでなければ、彼が言うように憐れみでしかなかったに違いない。
ルームメイトの想いを無碍にできなかっただけなのだろう。無碍にしてもらった方が良かったが、ひとときでも、浮かれた気分でいられた。
「………………もう、寝よ」
髪をくしゃくしゃとかき混ぜて、ロフトベッドを見上げる。さすがにゲームをする気分にもなれなかった。
ズキンズキンと痛む心臓を押さえて、なんとか着替えを終え、動きの鈍い手足でどうにか梯子を登った。倒れ込むようにしてベッドに寝転がれば、先ほど見上げた天井がもっと近くに見える。
至が千景と恋人同士でいようが、憐れみの目を向けて別れを告げられようが、この天井は変わらない。きっと千景の態度は、初めて肌を合わせたあの日以前と変わらなくなるはずだ。
この部屋で眠るかどうかは分からない。いや、きっと帰ってこないのだろうと、一度だけ行ったことのある彼のアジトのことを思い浮かべた。今もそこに向かっているに違いない。
「遠い、なぁ……無理、歩けない、もうこのベッドから降りられないかもしんない」
あんまりだ、と抗議しに行こうかと思ったが、その気力が湧いてこない。抗議したって、千景の気持ちは変わらないのだろうから、行くだけ無駄である。
そもそもが何を考えているか分からない男なのに、真意を確かめに危険を冒してまであそこへは行けない。
「やっぱ、俺じゃ、無理かぁ……」
息を吸って、吐く。千景を引き留めるだけの力はない。これ以上傷つく勇気もなくて、腹の上で拳を握る。
いつだか、密に言われた。彼の傍にいるつもりなら覚悟が必要だと。それはこういったことも含まれていたのだろうか。
お互いコミュニケーションが苦手なのは分かっているが、どうしたらいいのか分からない。一方的な別れに納得は当然いかないが、受け入れるしかない。すがりついてまで引き留められない。
(俺にだってメンツってもんがあるし、人並みにプライドもあるしね。……カッコつけておきたい時がある)
なりふり構わずに千景にすがりついて、体だけ引き留めたってしょうがない。千景の体だけが欲しいのではない。心も、全部欲しい。
〝忘れてほしい〟と言ったあの男が、すがりついたくらいで意志を変えてくれるわけもない。
まだ、千景の声がこだまする。
忘れてほしい。忘れてほしい。忘れてほしい。
ごろりと寝返りを打って、ぐぎゅうと締めつけられるような痛みを擁する胃を押さえる。
勝手な男だ、と歯を食いしばった。
忘れてほしいと言いながら、あんなキスをしていくなんて。まるで恋人同士みたいな熱いキス。
「……すれ、られるわけ、ないだろ、クソがッ……!」
ギリギリと痛む胃を抱え込むようにして、至は強く目をつむった。

 

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