カクテルキッス4-ふたりの約束-

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千景が目を開けると、辺りはすっかり明るい。
ぼうっとした頭で起き上がり、充電していた携帯端末に目をやれば、何かメッセージが届いていた。至からだ。
『おはようございます。珍しくすやすや寝てたんで、起こすの可哀想だったから、そのままにしときますね。行ってきます』
?がったもう一つのベッドを見れば、足下に追いやられた掛け布団が見えるが、持ち主はすでにいない。時刻を確認すればもう午前十時。平日なのだ、当然もう出勤していなければいけない時間帯。
至の立てただろう物音にも気づかないくらい、ぐっすり眠っていたようだ。
千景はベッドを降り、着替えをすませてから談話室へと向かう。学生組はすでに登校しているからか、静かなものだった。昨日の騒がしさが?のようだ。
「あれっ、千景さん。はよっす」
「おはよ、万里。えっと……大学生だっけ。コマ空いてるの?」
その時、ひょいと万里が顔を出す。彼は大学で演劇の勉強をしているらしいのだが、今の時間は講義がないのだろうか。
「あー、これから。やっぱ朝はタリィわ」
「学業との両立は大変そうだね」
「アンタだって社会人だろ。俺もリーダーとしての役割はあるけど、幸なんかガッコと衣装と役者だし、莇はメイクだし、綴なんかホント頭上がんねーわ。至さんも至さんで仕事と廃人ゲーマー兼任て感じだし」
二人でトーストを作って、ヨーグルトを分けて、サラダにドレッシングをかける。万里が手際よく目玉焼きを作ってくれた。
「ありがとう。至のゲーム好きには少し驚いたよ。いつもあんな感じなのかな」
「……まぁ、そうだな。千景さんがあの人のこと至って呼ぶの、ちょいびっくりしたけど」
「え?」
「前は茅ヶ崎って呼んでたぜ」
「そうなのか? ……至、何も言わなかったけど……気を遣わせたかな。茅ヶ崎って呼んだ方がいいんだろうか」
多くが彼を至と呼んでいたから、なんの思惑もなく倣ったが、至にしてみれば苦痛だったかもしれない。以前とは違うということを、まざまざと実感させられる。
「至さんがそれで返事してんなら、いいんじゃねーの。むしろ、茅ヶ崎呼びの方が、今の至さんにはキツいかもな」
マーガリンを塗ったトーストを?張りながら、万里が肩を竦める。どういうことかと訊ねようとしたその時、パタパタと慌ただしい足音。
「あっ、よかった万里くんまだいたっ……あのね俺のスマホ、あ、千景さんおはようございます」
困った顔をして顔を出したのは、月岡紬。彼が万里より七つも年上だと聞いた時は驚いた。仲が良さそうに見えるから、てっきり歳が近いのだと思っていたのに。
「おはよう、紬」
「どしたんすか、紬さん」
「あのっ、俺のスマホ動かなくなっちゃって、どうしたらいいのか」
「は~? なに、見せてみ」
万里は嫌な顔一つせずに、むしろ頼りにされて嬉しそうに、紬の端末を受け取る。動作を確認して、十秒ほどで問題を解決したようだった。
「直ったぜ」
「えっ、なんで!? ありがとう、何がダメだったのかな。ごめん、俺ホント機械に弱くて」
「処理が多すぎてフリーズしてただけっすよ。強制終了して電源入れ直した」
「そ、そうなんだ……ごめんね、こんなこと万里くんに頼んじゃって。もうちょっと詳しくなるよう頑張るから」
あんなに悪戦苦闘したのに、と紬は肩を落とす。それを見て、万里は紬の手を指先でつつき、優しく笑った。
「いいっすよ別に。いつでも訊いて」
「……うん」
それに、紬も嬉しそうに笑って返す。
千景は、不思議な感覚にとらわれた。不自然なようでいて、それが当たり前のような彼らの仕種。違和感が仕事をしてくれない。
「あ、やべ、俺ももう出ねーと」
「これから大学? 俺も一緒に出るよ、客演先の稽古なんだ」
「おー、じゃあ途中まで。ちょっと待ってて」
万里は慌ててヨーグルトを平らげ、ガタリと席を立つ。食器をまとめ始める彼に、千景はハッとして声をかけた。
「いいよ万里、置いといて。俺も片付けくらいはできる」
「あ? そっすか? ん……じゃまあ、頼もうかな。サンキュ千景さん」
「うん、いってらっしゃい、二人とも」
バタバタと身支度を調えて、万里と紬も寮を出ていく。千景は彼らの出ていった方向をじっと眺め、テーブルに?杖をつき、視線を泳がせた。
(なんだろう、今の)
妙に親しげな様子だった。組のリーダー同士、話も合うのだろうか。それでも、二人のお互いを見る視線の優しいこと。
(…………まさかね)
思い当たる答えはあるけれど、それを形にしてしまうのはなぜだか怖い。
偏見のある方だとは思わないが、以前の自分はどうだっただろう。
千景はサラダを片付けて、万里の食器と一緒に洗い、棚にしまう。さすがに片腕だけでは時間がかかった。
これから何をしよう、と考え込んで、一度部屋に戻る。
自分が過ごしていた空間だ、いちばん落ち着ける。
千景はタブレットを開き、閲覧履歴を見てみた。ネットニュースやブログに混じって、スパイス専門店がいくつかブックマークされている。地図を確かめると、そう遠くない。
気分転換もかねて少し近所を散歩してみようと、テーブルに書き置きを残して外に出た。
昨日は夕方に帰ってきたからか、日射しの関係で景色が違ってさえ見える。
舗装された道路、手入れされたよその花壇、電柱にはどこかの劇団のフライヤーなどが下がっており、演劇の聖地だというのがよく分かる。掲示板にも、所狭しと催し物のお知らせが貼ってあった。
「演劇、ねえ……」
いまだに、自分が劇団に所属していたということに実感が湧かない。
稽古や演目をこの目で見てみれば、また違うのだろうかと、千景はじっと手を見つめた。
何度か、この手が血まみれになっている錯覚を覚えた。事故で負った怪我の程度は重くなかったようだし、腕も裂傷も経過は良好だ。
「血のりでも使った演目でもあったのかな」
そうだとすれば、体が覚えているということになる。まだ何も思い出せないが、早くすべてを思い出したい。
いや、欠片だけでもいい。あの暖かな仲間たちの輪の中に、早く溶け込みたいのだ。
この道を歩いていた自分も思い出せない。仕事をしていた自分も、芝居をしている自分も。
前にも横にも後ろにも、進むべき道などないように思えてしまう。早く思い出さなければと、千景はぎゅっと拳を握った。
そうして、迷わない程度に近所を散歩した。木の匂い、土の匂い、花の匂い。病院にはなかったそれら自然の恵みを、全身で感じ取りながら。

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