カクテルキッス4-ふたりの約束-

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またミスをした。至は打ち込んでいた文章を消して、打ち直す。が、何度も変換ミスをして、余計な時間がかかった。
至は項垂れて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜる。
朝からずっと、仕事に集中できないでいた。
(あ~……ほんとどうしよう。マジでヤバいんじゃないのあの人……)
原因は、千景だ。
朝出勤する際、ものすごく不安そうな顔をされた。どうしてか引き留めたそうな顔をして、だけど引き留めることはせずに〝気をつけて〟と言ってきただけ。
(なんだったんだろ、あれ。今日はできるだけ早く帰ろうかな)
千景の記憶は、まだ戻っていない。夜にうなされる以外は何も問題がないし、それでいいと思っていた。自分と恋人だった痕跡は消したし、まっさらな状態でいるのがいいと。
千景が忘れたかったのならば、望むようにした方が彼のためなのだと。
(うなされてんのは、プレッシャーか、それとも……いや、向こうの仕事のことかな。……先輩があっちの仕事でどこまでヤッてんのか知らないけど……手が血まみれになるような、こと、も……あったんだろ……)
思い出したいという気持ちが、重圧になっていることもあるだろう。だけど、起きた後に自分の手を確認してホッとしているところを見るに、体の記憶と脳の記憶の齟齬そごが彼を不安にさせているのだ。
(クラッカーの匂いが懐かしいとか、たぶん火薬だよな……銃、なのかな。使ってたんだろうな……)
恋人だった期間は短かった。だけど体の関係はそこそこあって、それなのに千景のことを何も知らない。
推測でしかないが、千景は所属している組織の命令でいろんな犯罪に手を染めてきたのだろう。
そこを深く追求するつもりはない。私利私欲のためというならば話は別だが、そうではないはずだ。好きでやっていたとは思いたくない。
千景が忘れたかったのならば、忘れたまま、ただの一般人として暮らしていけるのならば、その方がいいに決まっている。
だけど、千景の体は覚えているのだ。においを、感覚を。いったいどのくらいその組織で過ごしてきたのかも知らない。千景の中に根を張るそれらが、今になって恨めしい。
(いいだろ、先輩が忘れたがってんだから、解放くらいしてくれたって! もしこの先記憶を取り戻したとしても、別に組織の秘密とかバラさないだろうし、普通に役者として過ごさせてくれよ)
犯罪に手を染めた組織から、簡単に抜けられないのは分かる。裏切り者には死の制裁をというのは、よく聞く話である。
ただそれは至にとって、ラノベや漫画、ゲームの中の話だった。
それでも、それが千景には日常だったのだ。
(住む世界が違う……分かってたつもりなんだけど、こういう時どうすればいいのか分からない。先輩は、どうしたかったのか。ちゃんと聞いておくべきだったのかな)
千景が忘れたからといって、組織から抜けたかったかどうかは、至には分からない。至の思う〝当たり前〟と、千景の考える〝最善〟は違うかもしれない。
今まで生きるために、利用され、利用してきた環境。そこを離れて、千景の世界は保たれるだろうか。
デスクについた両手で額を支え、至は唇を噛みしめる。
千景のためには、どうするのがいちばんいいのか。
恋人だったことも、組織のことも、密との間にあった確執も、何も話さないままでいていいのかどうか。
そこまで思って、至はハッとして顔を上げた。
(待って……全然考えてなかったけど、あの人向こうの仕事どうしてんだ? いや、どうしてんだって何もしてないに決まってんだけど、それヤバくないか? 組織のヤツら、先輩が記憶ないって知ってんの? 知らないよな? いきなり仕事とか入ってきたら、どうすれば)
今の今まで気がつかなかった。記憶のない今、裏の仕事をよこされても対応ができない。千景と組織が、どのようにしてコンタクトをとっていたのかも分からないのでは、向こうに知らせることもできない。
(メール? 電話? 何か暗号文? 前は電話かかってきてたよな)
ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。
どれくらいの頻度で仕事が舞い込むのかも分からず、心構えもできない。
もし組織からの命令があっても、今の千景では可否を返すこともできないだろう。いや、否を返せるものではないのだろうが、何もアクションを起こさなかったら、裏切り者として扱われることにならないだろうか。
最悪の場合、そこから劇団に手を伸ばしてくるかもしれない。
それは、千景がいちばん避けたかった状態のはずだ。
(ど、どうしよう……踏み込んじゃいけないなんて言ってる場合じゃない)
至は、千景の日常でありたかった。彼が守りたかった日常を謳歌している恋人でありたかった。それこそが、千景が千景であることを守ることになると思っていたけれど。
(密なら知ってるかな、組織のこと。……先輩は密を巻き込みたくないかもしれない。いちばん守りたいひとだって分かってる。でも……ごめん先輩、俺だけじゃ無理だ、先輩を守れない)
千景のことをもっとよく知っておけばよかったと、悔しさがこみ上げてくる。体だけ立派に知り尽くして、心の方がついていかなかった。
(そりゃフラレるわ……浮かれてるばっかりだったしな)
こんな自分に、愛想を尽かしてしまったのかもしれないと、至は苦笑する。そうして、いつもの三倍速で仕事の量を把握して片付け、外面と日頃の行いの良さで半休をもぎ取った。

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