カクテルキッス4-ふたりの約束-

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「千景さん、退院おめでとうございます!」
パンパンと、そこかしこでクラッカーが音を立てる。飛び出してきた紙切れや紙テープが舞って、千景の髪や肩に降り立った。
「あ、ありがとう……飾り付けまでしてくれたの?」
事故から数日後、千景は無事に退院した。
怪我の経過は概ね良好で、後遺症も見受けられかったようだ。ヒビの入った左腕はまだ吊ったままだが、それ以外に問題があるとすれば、千景の記憶がまだ戻ってこないことくらい。
談話室は、千景の退院パーティーだとかで綺麗に飾り付けられており、テーブルにはところ狭しと美味しそうな料理が並んでいる。
千景は、すんと鼻を揺らす。何か、懐かしい匂いがした気がして。それは生活感なのか、料理の匂いなのか、仲間たちが集まった温かさなのか。
「千景さん退院おめっす! 落ち着いたらまた脱出ゲーム行こうぜ」
「千景、おかえり。ねえお酒は飲んでも大丈夫なのかな。いいお酒が手に入ったから、平気そうだったらボクの部屋に来てね。いつでも歓迎するよ」
「千景さん、一応消化の良い物作ったので、好きなの取ってください。あ、でも激辛料理はなくて……すみません」
「退院直後に激辛なのとか、あんまりよくないんじゃないかな……?」
団員たちが、わらわらと周りに集まってくる。どの顔も公式サイトで見た顔ばかりなのに、違和感が拭えない。本当にここで過ごしていたのかと、疑ってしまう。
「あの……ごめん、俺まだ全然思い出せてないんだ。俺の言動とか、戸惑うとは思うけど、いろいろ教えてほしい」
改めてみんなに向き直り、正直な心の内を明かした。公式サイトのおかげで顔と名前は分かるけれど、その人たちとこれまでどう過ごしてきたのか、どう過ごしていくべきなのか、何も分からない。
もしかしたら面倒だったり、薄情だと離れていかれる可能性だってあった。
千景はぺこりと頭を下げる。これだって、以前の自分なら取らない行動だったかもしれないのに。
「大丈夫ですよ、千景さん! 思い出せなくても、これから覚えていけばいいんです!」
明るい声がして、千景は顔を上げる。そこには、花のように笑う佐久間咲也がいた。
確か、春組のリーダーだったはずだと思い出し、なるほどと腑に落ちる。至が言った言葉が、そのまますとんと体の中に落ち着いた。
「そうッスよ千景サン、また一緒に公演とかできるんッスから、嬉しいッス~!」
「まあそうは言っても、卯木が殊勝だと落ち着かないけどな」
「丞さんって結構言うよな」
「ちかげ、お祝いのサンカク~」
「ねえ、入院で変に痩せたり太ったりしてないよね? 採寸とか面倒なんだけど」
「幸、お前そればっかりだな。ちょっとはねぎらうとか」
「うるさいポンコツ役者」
どれにどう答えていいのか分からないくらいに、ぽんぽんと会話が進んでいく。いっそ当事者を無視して進められていくそれに、千景は口の端を上げた。
(そうか、こういうところで暮らしてたのか)
騒がしさの中に、確かな暖かみ。これはここに居着きたくなってもしょうがないなと、まだ実感できなかった自分の役者人生を思い描いてみた。
そうして、乾杯が行われる。退院直後なのでとジュースを持たされたことが若干不満ではあったが、ありがたくもあった。
我先にと美味しそうな料理に手を伸ばす団員たち。なんとこのプロ顔負けの料理の数々を、伏見臣が作ったというのだから驚きだ。
「これ、全部? 職業間違えてない?」
「ハハ、俺は趣味でやってるので。料理とかしてると、楽しいんですよね」
「美味しい。ありがとう」
「いえ、無理のない程度に、好きに食べてくださいね」
食欲をそそるローストビーフ。口に運ぶと、柔らかな歯ごたえとタレが中に広がる。コレは胃袋を掴まれてしまっても仕方ない。
見れば食べ盛り育ち盛りの青少年ばかりで、食事も大変だろうなと肩を竦めた。
そんな中、自家製ピザに手を伸ばしている男が見えて、千景は歩み寄っていった。
「至」
「え? あ、先輩退院オメデトウゴザイマス」
それは茅ヶ崎至。この寮に戻ってきてから、交わした第一声がこれだ。
なぜだか千景の胸がチクリと痛む。
おめでとうとは言ってくれながらも、他のメンバーのように、手放しで喜んでくれている様子が見られなかった。
「どうしたんですか?」
「……あれから、一度も来てくれなかったの、なんで」
「へ?」
ピザを?張ったまま、至が振り向いてくる。目を丸くして、ぱちぱちと瞬く。ラズベリーピンクの瞳が、揺れ動いた。
「劇団のこと教えてって言ったのに、来なかったじゃないか……」
入院していたのは数日だ。至が見舞いに来てくれたのは事故の翌日だけで、そのあとは、いづみや左京が入れ替わり立ち替わり来てくれただけ。
面会時間が終わるまで、至が顔を出したのはあれっきりで、日に日に気分が沈んでいったのを、彼にどう説明すればいいだろう。
「……もしかして、待ってました? すみません、仕事忙しくて。連絡入れれば良かったですね」
「仕事……」
「残業続きだったんですよ。面会時間に間に合わなかったので」
すみませんと彼は軽く頭を下げる。千景が待っているとは思っていなかったのだろう。見舞いの約束をしたわけではなかったし、彼にも彼の生活があると、言い聞かせはしていたけれど、寂しさだけが抜けていかなかった。
「じゃあ、面倒じゃない? えっと……部屋も同じなんだろ、もし至が嫌なら俺、どこか他のところで」
「うわホントだ、先輩が殊勝だと落ち着かない。なにこれキモチワル」
先ほど丞が言った言葉を引き継いで、至は真顔でそう呟く。千景なりに気を遣ったつもりなのだが、無駄な気遣いだったようだ。
「言うね」
「まあ、戸惑わないって言ったら?になりますけど。先輩チートだから、すぐに環境に慣れるでしょ。そしたら以前と変わらなくなりますよ」
「……そう。度々至の手を借りることになると思うけど、遠慮しなくていいってことかな」
「遠慮とかするような間柄じゃなかっ……、あ……、いえ、別に、遠慮とか、なくていいので……」
至が言葉を途切れさせ、不自然に顔を背ける。また千景の胸が痛んだけれど、その痛みをちゃんと認識したくて、至の横顔をじっと眺めた。
そうして夜も更け、パーティーは終わりを告げる。片付けを手伝おうと思ったのだが、主役が何を言っているのかと追い出されてしまった。至が笑いながら部屋へと案内してくれる。
一〇三号室。ここが、至と一緒に過ごしていた部屋のようだ。
「中庭まであるんだ。劇団ていうから、もっとこぢんまりしたところかと思ってたんだけど」
「維持費はそれなりにかかるでしょうね。最初劇団の借金膨れ上がってましたから。はい、おかえりなさい」
至がドアを開けてくれる。千景はお邪魔しますと言いかけて、口を噤んで開き直した。
「た、ただいま……?」
おずおずと足を踏み入れる。
すぐに黒いソファが目に入って、パソコンだとかゲームのコントローラーが視界を覆う。二つ?がったロフトベッドと、隅の方に白いチェア。テーブルの上に、飲みかけのコーラ。
「先輩のスペース、そっち側です。最初一人部屋だったんで、俺の私物多くてすみません」
「え、いや……それは別に構わないっていうか……なにこれ」
「一応片付けて掃除はしたんですけど」
「そこじゃなくて……俺の私物って、これだけなの?」
千景のスペースだという場所には、チェアとトランク、ウサギの置物。
衣服はクローゼットなのだろうが、いくらなんでも少なすぎやしないだろうか。
「……そうですね。あんまり物に執着しないタイプだったんじゃないですか?」
「……眼鏡たくさんあるけど……度が入ってないし、伊達眼鏡なんだよね……そのくせ服とか小物がたくさんあるわけでもない。俺って男がますます分からない」
「無理に昔の先輩に戻ることないでしょう。パーティーでも、みんな普通だったじゃないですか」
至の言う通り、少しぎこちなさはあったものの、それは千景の気負いだけだった。
退院パーティーという特性上、主役扱いではあったが、客扱いはせずに、会話が途切れることもなく、以前の話を不自然に持ち込んでくることもなかった。
「寮ではよくパーティーとかするの?」
「あー、わりと」
至がドサリとソファに腰を下ろす。一人掛けではないそのソファに、座ってもいいのかどうか。
「どうぞ。さっきも言ったけど、遠慮とかそういうの要らないんで。したいことがあれば言えばいいし、知りたいことがあればいつでも教えますよ」
戸惑いに気がついたのか、至が振り仰いで、促してくれる。
千景はゆっくりと至の隣に腰を下ろした。背もたれに体を預けると、ようやく心が落ち着いた気がした。
「やっぱり、落ち着く……至の声」
「それ、女の人に言ったらアウトなヤツ」
「だからそういう意味じゃな、……い……」
と至を振り向けば、彼はポータブルのゲーム機で何かのゲームを楽しんでいた。どうしてだか、胸がズキズキと痛む。
傍にいると肩の力を抜けるのは本当なのに、後ろめたさがわき上がる。
(なんで、至だけ……)
こんな感覚、他の団員たちには感じなかった。
見舞いによく来てくれて、接し方が分かってきたというのなら説明はつくが、さっき文句のように呟いてしまったように、至が来てくれたのは一度きり。
いづみたちの方が、頻繁に来てくれていて、だいぶ打ち解けてきた感じはあった。
「先輩、今日楽しかったですか? 退院早々ああ騒がしいんじゃ、疲れたかな」
「え? あ、ああ……楽しかったし、嬉しかったよ。わざわざ飾り付けまでしてくれて」
「ははっ、ここ、ホントに何かっていうとパーティーですからね。公演の打ち上げしかり、団員の誕生日しかり。夏にはバーベキューとかしますし。みんなね、何か理由をつけて騒ぎたいんですよ」
どうりで片付けなども手慣れているはずだと、千景は苦笑する。
「ああ、だからなのかな。クラッカー慣らされた時、なんだか懐かしい匂いがしたんだ。そんなに頻繁なら、以前の俺もあの輪の中にいたんだろうね」
「え……?」
千景は、あの時感じた懐かしさを思い出して目を閉じる。団員たちの誕生日には、自分もクラッカーを鳴らしたりしてたのだろうか。家族がいないと聞いたが、ここの団員たちが家族のようなものだ。随分と大家族だけどと、知らないうちに口許が緩む。
このカンパニーでならば、記憶がなくても幸福に過ごしていくことができるだろうと、そこまで思って、違和感。
(カンパニー……? って、こんなだったっけ……? なんだろう、モヤモヤしてる)
カンパニーという単語が、頭に引っかかる。こんなに暖かなものだっただろうか。
もっと別の何かがあったような気がするのに、思い出せない。
「せ、先輩疲れてるでしょ。もう寝た方がいいですよ」
「うん……至はまだ寝ないの? 明日仕事なんじゃ」
「このクエスト終えたら寝ますよ。さっき飲み過ぎたし」
違和感が拭えない千景の頭を、至の手がぽんぽんと叩いてくれる。優しくあやすような笑顔に、胸が締めつけられた。
「夜更かしは良くない」
「えええこれでも早く寝る方ですけど」
「いつもそんなに遅いの? 若いうちだけだぞ」
「お父さんかよ。いや、まあ、お父さんか……ハハッ」
「なにそれ、俺は至のお父さんなの?」
「明日話してあげますよ。今日はもうゆっくり寝てください」
千景が至の父親であるはずはないのだが、劇団の演目の話だろうか。まだまだ知らないことばかりで、明日はどうなるか分からない。
「…………そのクエストってのが終わるまで待ってる」
「えっ……いやいや先輩どうしたん……」
至が、信じられないというように顔を上げて、振り向いてきたけれど、その顔は次第に真剣なものに変わっていった。
「先輩……もしかして、夜とか寝られなかったりしました?」
「……ちょっと」
こんなことを言うのは情けないけど、と千景は視線を逸らして肯定する。
病院にいる間中ずっと、ゆっくり眠れたことなどない。記憶がないということが、自分で認識しているよりも負担になっているのか、心が安まる瞬間などなかった。
それは、眠ろうと目を閉じても同じことらしい。
「眠るのが怖い……というか、目を開けるのが怖い。誰もいなかったら怖いって思ってた」
至が、ゲーム機を置いて俯く。中断させる気はなかったのだが、言ってから、こんなことを呟けばゲームをする気にもならないだろうと苦笑した。
「見舞い……行けなくてすみません」
「いや、仕事忙しかったんだろ? 病院も、まあ誰かしらいるわけだしね。まったくの他人だけど」
病院という場所柄、個室ではあるもののドアひとつ隔てて常に誰か行き来していた。
夜はさすがに静かだったが、救急車や入院患者の往来で、他人の存在を感じることはできたのだ。
「事故に遭ったからなんだろうけど、ときどき自分が血まみれのような気がして、飛び起きることもあった。怪我の程度から、そんなに重症だったわけないのにね」
室内灯を消していたにも関わらず、生暖かい血液が鮮明に見えた夜もあった。すぐに自分の状態を確認して、なんともないことにホッとしたけれど、心臓に悪かったと、思い出して口許を覆う。
「せん、ぱ……それって」
「本当に情けないな、ごめん……」
至の声が震えているような気がして、千景はハッと我に返る。
弱音を吐くつもりはなかったと至を振り向けば、彼は不安そうに顔を強張らせていた。
「至? ごめん、怖がらせた?」
「え、あ、……あ、いえ、違います。先輩でも、そういう普通の感覚あったんだなって」
「どういう意味だよ、まったく」
「じゃあ、もう寝ましょう。疲れてるでしょ。俺も寝ますから」
至は、そう言ってソファから腰を上げる。夜着に着替えるのか、服の裾に手を伸ばした。
「でも至、さっきの……クエスト、いいの?」
「大事なデイリーは消化したし、いいです。やり出すと止まらないんで、軽く二時間くらい経ちますよ。先輩をそこまで付き合わせるわけにもいかないでしょ」
「そんなにゲーム好きなのか」
「俺の人生ですから」
至は勝ち気に笑って、脱いだ服の代わりに夜着を身に着ける。どうしてか目をそらせなくて、至の体を上から下まで眺めてしまった。
「何見てんですか。エロ」
「は? え、あ、いや、……ごめん、なんでだろ。見たかった……?」
「いや意味が分からん。ほら先輩も早く着替えて。手伝いますか?」
「だ、大丈夫……」
自分でも分からない、と千景は額を押さえて、促されるままに着替え、ゆっくりとロフトベッドに上った。
「狭いんで、一緒にとは言えませんけど」
「いや、ないだろ一緒にとか。野郎同士で」
「それな。ま、うなされてたら起こしてあげますから」
「うん……お願い」
そう言って、至が横になったのを確認してから、千景も布団の上に横になる。病院のベッドより落ち着くのは、自分の匂いがあるからだろうか。
「あ、先輩」
「なに?」
「おやすみなさい」
「……うん、おやすみ至」
なにかと思えば、おやすみの挨拶。何げないことで、至には当然のことなのかもしれない。
だけど、数日を病院で過ごした千景には、それ以前の記憶がない千景には、とても新鮮で、ものすごく特別なことのように思えた。
傍に誰かがいてくれる。自分のことを何も知らない他人ではなく、今の自分よりも自分を知っている誰かがいるのは、想像していたよりずっと心を落ち着かせてくれた。
至が寝返りを打てば、シーツがこすれる音がする。やがて規則正しい寝息が聞こえ始める。
それだけのことが、どうしようもないほど嬉しくて、こみ上げてくるものがあった。
だけど、せっかく至がゲームをやめてまで眠る時間をくれたのだ。その厚意を無駄にしないように、千景はゆっくりと眠りについていった。

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