カクテルキッス4-ふたりの約束-

この記事は約7分で読めます。

寮に戻ると、談話室で愛機を広げネットサーフィンをしている千景に出くわした。
「あれ、早いね至」
「え、あ、ちょっと、半休もらって」
「体調でも悪い? ご飯とか食べられる?」
「平気です。密見かけてません? 今日バイトかな……」
いつもよりだいぶ早い帰宅に不思議がりつつも、安堵の表情を見せる千景が気にかかったけれど、まずは密に確認しなければいけない。賄賂としてマシュマロもゲットしてきたのだ。
「今日は見かけてないな。部屋で寝てるんじゃない?」
どこかそわそわとしている千景に礼を言って、至は密たちの部屋がある二階への階段を上がり掛ける。数段上ったところで、ちょうど起きてきたらしい密と鉢合わせた。
「密、よかったいてくれて」
「至? 今日仕事はいいの……」
「いやそれどころじゃないっていうか、ちょっと聞きたいことがあって」
内容が内容なだけに、至は声を潜める。平日の真っ昼間ということもあって寮内は静かだが、誰がどこで聞いているか分からない。
「密、教えて。任務の依頼って、いつも電話でくる?」
組織からのとは言わなかった。もし誰かに聞かれても、ごまかせるように。
「……至」
密の眉間に、しわが刻まれる。咎めるための視線は、彼にしては珍しいものだった。
「ごめん、俺が踏み込む領域じゃないのは分かってる。でも、知っておかないと先輩を守れない」
千景からそれを遠ざけるにしても、プロセスがないと何もできない。
危険なことだとは分かっているのだが、それを避けて千景が千景でなくなることの方がつらい。
「密、お願い」
「……三人でいたときは、オーガストが持ってきた。メールなのか、電話なのか、手紙なのか、オレには分からない」
密も思うところがあったのか、渋々といったふうではありながらも口を開いてくれる。だけど、有益そうな情報ではなかった。
「向こうの人たち、今の先輩の状態、知らないんだろ? そんなんで、任務とか来たら……危ないよね」
「……千景の様子は見てた。退院してから、特に変わったことはなかったと思う。今はまだ……大丈夫だと思う。でも、至の言う通り、コンタクトに何も返さなかったら、アイツらは簡単に裏切り者の烙印を押す」
密の目つきが鋭くなる。それは至の知っている御影密ではなくて、きっとディセンバーとしての感情があるのだろう。役者として別人になりきるのは日常茶飯事だが、コレは、本当に別人のように思えた。
ゾッとして、至は思わず自身の腕を握りしめた。
「至……怖い? オレたちのこと」
「えっ、あ、……怖くない、とは言えないけど、違うんだ、そうじゃなくて。先輩もそういう顔ときどきしてたから、大丈夫……ただ、そのまま戻ってこなかったらどうしようって、そっちのが怖い」
千景が、組織からの任務を受けた場面に、一度だけ遭遇したことがある。どこの国の言葉か分からない会話と、鋭くなる千景の瞳。行為の最中に放置されていって、憤慨したものだ。
その時はちゃんと戻ってきてくれて、隣で眠らせてくれたけれど、次はどうか分からない。
行ってらっしゃいを言えないかもしれない。
おかえりなさいを言わせてくれないかもしれない。
「先輩が、記憶をなくしたの、少しだけ嬉しかったんだ。組織のこと忘れて生きていけるなら、それでいいんだって……でも、向こうはそうはいかない」
悲しさも寂しさも当然あったけれど、それで千景が普通の人間として生きていけるのなら、思い出させるべきではないと思った。それは本当のことだ。
思い出しても、至と千景の関係はもう終わっているのだから、胸が痛むことには変わらないと。
こんな弊害があるなんて、考えていなかった。
「知らないってことが、こんなに危ないことなんて」
悔しさを紛れ込ませて呟いて、――気がついた。
ひゅ、と何かが下からせり上がってくるような感覚を味わう。足下から脳天に突き抜けたそれは、すとんと落ちて至の中にじわりと染み込んでくる。
「あ……」
至は思わず声を上げて、その口を押さえた。
「知らない、から……」
知らないということが、時として自分の身に危険を及ぼす。危険だと知らなければ、回避できない。日常が突然終わりを告げるなんて、誰も知らない。
例えば、川の増水は危険だと知らなければ、回避できない。機械の使い方を知らなければ、怪我をする可能性もある。
踏み込んでいいライン、手を触れてはいけない部分、回避すべき事象。
至はそれを何も知らない。
(先輩、もしかして)
もしかして、千景は――そう思った時、談話室の方から千景が顔を出す。先に気がついたのは、密の方だった。
「千景、どうしたの」
その声に、至もハッと顔を上げる。そこには、困ったような顔をした千景がいた。もしかして今の会話を聞かれたのかとも思ったが、彼の手には彼自身のパソコンが乗っている。
「何か、メール届いてるんだけど、これ俺宛てなのか分からなくて……至が何か知ってたらと思ったんだけど。職場の関係?」
「え、メールですか? まあ会社のアカウント見れるようにしてる人たちはいますけど……先輩そんなのしてたかな。たいてい主任とか課長とか、そういう管理者クラスの人たちですよ」
「そうなのか……じゃあ迷惑メールかな? Apr.って、これエイプリル、かな……」
一緒に千景の端末を覗き込めば、ずらりと並ぶメールタイトル。
未読のままのそのひとつに、至は目を見開いた。
エイプリル――それは千景のもうひとつの名前だ。
「密、これ……!」
千景から端末を取り上げて、密に向けてみせる。密も、険しい顔でそのタイトルを睨みつけていた。
「千景、これ中身見た?」
「え、いや、まだ……危ないもの? その添付ファイル、ウイルスとかそういうヤツかな」
「……うん、そんな感じ」
密が、低く呟いて肯定する。密がそう言うのなら、これは組織からの任務に違いないのだと、至はこくりと唾を飲んだ。
いったいどんな任務なのだろう。これを千景にやらせるわけにはいかないのだが、どう返信すればいいのか分からない。
「至、車出して。ここじゃ処理できない」
「えっ、俺!?」
密がメールを確認し、至を振り向いてくる。処理をするというのは、密がこの任務を受けると言うことだろうか。
「向こうの家の方がいい」
「え、あ……うん、分かった」
「あと、千景も一緒にきて。説明する」
「え?」
向こうの家というのは、千景が使っていたアジトのことだろう。密が記憶をなくすまで、もう一人の仲間がいなくなってしまうまで、そこは一緒に使われていたのかもしれない。
寮よりは安心して仕事ができるのかもしれないと、至は玄関に向かいかけ、密の発した言葉に驚いて向き直る。
「密、先輩に言うの?」
「知らないっていうのは、危ないこと……至もさっき言ってた」
「そうだけど! だけど、先輩は」
「ねえ、なに? 説明って、これ、前の俺がやってたことなの? なら、知っておいた方がいいよね。次は俺ができるかな」
千景は忘れたかったかもしれない。せっかく忘れられたのに。そうは思うが、危険だと思うのも本当だ。
「知って、お前がどうするかは、お前が決めればいい。しばらくはオレが代わりにやる」
「分かった。ありがとう密」
「……お前が素直にお礼言うとか、やっぱり薄ら寒い。千景、早く思い出せ」
「できる限りの努力をするよ」
心底嫌そうに顔を歪める密に、千景が肩を竦めて苦笑する。そんな千景の手を引いて、密が至を追い越して玄関を出ていく。至も仕方なく、彼らを追って寮を出た。
向こうに着くまで眠るという密の横で、千景が困ったように彼を眺める。それをバックミラーでチラリと見やり、至はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
密は千景の愛機をぎゅっと胸に抱え込み、千景がそれ以上のことをまだ知らないように守っているように見えた。そんな密を、千景は不安そうに見つめていた。
「至、どこまで行くんだ」
「割と近くですよ。変なとこじゃないんで、安心してください。もう一つの家、かな。オレは一度しか行ったことありませんけど」
「そっか……」
家という単語で、千景は幾分安堵したようだった。何も知らない状態で、行き先も知らないのでは、不安が募るばかりだろう。
そんな彼に、告げていいのかどうか。いや、もう告げておくしかないのだが、迷う。千景の心の平穏を奪うことになる。
「先輩、一応訊きますけど。……記憶、あった方がいいですか?」
ずるい訊き方だと思った。
記憶がないというのがどんなに不安なことか、千景の様子を見ていて分かっているのに、千景からの後押しが欲しい。
千景の過去を告げることは、千景が望んだことなのだからと逃げてしまえる。
「そりゃ、あった方がいい。何も思い出せないのは……つらいよ」
「……どんな記憶でも?」
「怖いこと言うな」
「例えば俺と先輩は付き合ってたとかでも?」
「えっ……?」
あくまでたとえとして口にする。
けれど答えを聞く前に、アジトの方に着いてしまった。至は車を停め、密に声をかける。
「密、着いたよ。俺はここで待ってるから」
至の声に、密がむくりと起き上がる。マシュマロなしでも起きたのは、事態が事態だからだろうか。
「至も来て。大丈夫だから」
「は? え……俺も行くの? 監視とか、そういうのは」
「オレが守る」
以前ここに来たときは、千景に薬を飲まされて、意識のない状態で連れ出された。〝生きた状態の誰か〟と一緒に帰るのはマズイのだと言っていたが、そんな危険を冒してもいいのだろうか。
「密、巻き込んでごめん……」
危険、なのかもしれない。密はそれでもふるふると首を振り、促してくる。至は車を降り、千景の後ろからついていった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました