カクテルキッス4-ふたりの約束-

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腰が痛い。この痛みは尋常じゃないと、至は自身のデスクにもたれかかり腰を押さえた。じんじん、じんじんと内側から叩くような刺激を味わって、ぐぬうと小さくうなりを上げる。
「茅ヶ崎さん、大丈夫ですか? なんだか具合悪そう……」
デスクの傍を通りかかった同僚に声をかけられて、慌てて、だがそうと感づかれないように顔を上げて、王子様の笑顔を作ってみせた。
「あ、いや、大丈夫。今朝ちょっと階段から落っこちちゃって」
平気だよと小さく手を振れば、周りの女性陣から悲鳴のような声が上がる。
親しみやすいエリートイケメン王子様を演じるのも楽ではない。
「茅ヶ崎さんでもそんなことあるんですね! あんまり痛むようだったら病院行かなきゃですよ!」
「うん、ありがとう」
そう言って、至はなんでもないようにチェアに深く座り直し、パソコンのモニターに向かった。
きゃいきゃいとはしゃぐ女性陣たちの声が煩わしかったが、ここで顔を崩すわけにはいかない。
気を引き締めていないと、昨夜のことを思い出しそうになる。
この腰の痛みは、階段から落っこちたせいではない。昨夜の激しい行為のおかげだ。
(昨夜の……)
思い出さないようにと思った傍から思い起こしてしまって、至は項垂れて顔を覆った。
(先輩の馬鹿、あんなに激しくすることないだろっ……!)
拒めなかった自分が恨めしい。拒ませない千景が憎たらしい。上がってしまった顔の熱を、どうやって冷ませばいいのか。
つい一週間ほど前、ずっと好きだった相手と恋人同士になれた。卯木千景とだ。
まさか両想いだとは思わずに、ザフラでの告白は、あの瞬間本当に一生の不覚だった。
ずっと言わないでいるつもりだったのに、シトロンを無事に救い出せたこと、その時に若干ゲーム展開になってしまった非日常の興奮が、気持ちを高ぶらせたのだろう。
さらに、千景に〝立派に相棒してくれた〟なんて言われてしまって、抑えが効かなかったのだ。
戯れ言だと、聞き流してほしいと前置きをした状態で、千景が好きだと告げた。
そのまま追い越して逃げ出したかった体を、千景の両腕が抱きしめてくれた時は、なんの冗談かと思ったものだ。
もっとも、そんな思いはほんの一瞬だけで、すぐに千景の本当の想いに気がついた。
自分と同じ想いでいてくれる。なぜそれに気がつかなかったのかと不思議に思うくらい、千景の方からもあふれていた。
恋人としてセックスをして、恋人として手を?いで、恋人として視線と口づけを交わして、ひとつ、約束をした。
みんなの前では変わらないでいること。
テレビのニュースやネットなどで、何かと性的少数者が取り沙汰される昨今だが、いまだに壁は厚い。至自身、劇団の仲間たちにこの関係を告げる勇気はないのだ。
軽蔑されるかもしれないという思いや、未成年の教育によろしくないという大人ぶった建前、秘密を共有したいという子供じみた優越感。
それらいろんなことが混ざり合って、千景との約束はわざわざ言葉にするまでもなかった。
このことを知っているのは、至と仲が良い摂津万里、彼と交際している月岡紬、千景とただならぬ関係の御影密。
(いや、別に今さら密と先輩のことどうこう言うつもりはないけど。俺には入り込めない部分がある)
もちろん、千景と密の間に恋愛感情があるとは思っていない。大事な家族なのだろう。
分かっていても、自分の知らない千景を知っているという嫉妬は生まれてくるもので、やるせない。
千景が、あまりよろしくない組織に所属しているのは知っている。以前からそう匂わせる発言はあったし、怪我を隠して帰ってこなかった日もあった。
ザフラでのあの行動は、とても一介の商社マンとは思えなかったし、何よりも、千景が言った言葉。
〝一度しか言えない〟
絞り出すようにして告げられた言葉。その理由は、理解しているつもりだ。
千景は生涯、大切な人間は作らないつもりだったのだろう。それを覆してしまったのが自分なのかと思うと申し訳なくも思うが、嬉しくてしょうがない。
だから、言葉なんてなくても大丈夫だった。一度だけと決めたそれを、自分にくれたのだから。
(っていうか、言葉以上に態度っていうか、熱量がね、すごいから……)
まだ顔が火照っている。
今日も仕事だったのに、昨夜ホテルに連れ込まれて激しい熱を分け与えられた。セフレ時代でさえ、そういう逢瀬は翌日が休みの日だったのに、平日ど真ん中にあんなにするなんて。
おかげで今日の仕事がつらい。体が痛くて怠くて重い。開いた文書ファイルの文面すら頭に入ってこない。
それでも千景を責める気になれないのは、浮かれているからだろう。
恋が叶って、幸せ絶頂の今。
どこかで大きなどんでん返しでもあったらどうしようとは思うものの、二人きりの時はあんなに分かりやすく愛情を示してくれる千景に、思いきり甘えていたい。
「茅ヶ崎、ほら」
その時、頭のすぐ横でガサリとビニール袋の音。そちらを振り向けば、有名なファストフード店のハンバーガー。
「これで良かった? あんまりああいうところ入らないから、新鮮だった」
「ありがとうございます、先輩」
それは、千景が買ってきてくれた至の昼食。期間限定のハンバーガーとポテトとドリンクのセット。
会社から近いところに店舗があるが、今日この腰の状態で歩いていくのがつらかったのだ。さらに昼食時ともなれば、レジにはたくさんの客が並んでいるだろう。十分ほど並ぶだろうことは明白で、避けたかった。
それはコンビニも、うどん屋も、定食屋も、恐らく同じだろう。
「まったく、先輩をパシリに使うなんて、お前くらいだぞ」
「ははっ、可愛い後輩の役に立てて良かったじゃないですか」
「自分で言うな」
LIMEで欲しいものを頼んだ時には、自分で行けと返ってきたが、腰が痛くて動けないと嫌みも含めて返信したら、これである。何だかんだで、千景は至に甘い。
「あれ、先輩も?」
「ああ、ついでだし。このエビのヤツ美味しそうだったから」
「じゃあここどうぞ。今日出張でいないんで」
「そう? じゃあ椅子だけ借りようかな」
そう言うと、千景は素直に至の隣のデスクから椅子だけ借りてくる。広くはない至のデスクで、膝をつき合わせてイケメン二人がハンバーガーにかぶりつく光景というのは、そんなに物珍しいのか、女性陣どころか男性陣からも何やらキラキラとした視線を向けられているような気がした。
「わりとサクサクしてるんだな。うん、悪くない」
「そうでしょ。やみつきになりますよ」
「茅ヶ崎じゃあるまいし」
「ちょ、ここ職場なんで猫かぶらせてくださいよ」
「ジャンクフードとコーラ頼んでおきながら、何を言ってるんだか」
千景と一緒にいると、どうしても気が抜けてしまう。加えて食べ慣れたジャンクフード。イケメンエリートの仮面が取れてしまいかねない。気を引き締めて、ポテトを一本口へと運んだ。
「今日、定時で上がれそうか?」
他愛のない会話を交わしながら、昼食休憩終わりの時間を迎える。ゴミを小さくまとめるあたりが千景らしいなと思いつつ、至は振り向く。
「え? えーと……ちょっと定時は難しいかもしれないです。書類溜まってて」
「手伝わないぞ」
「今の、手伝う流れじゃなかったんですか」
「俺はお前を甘やかさないことに決めてるから」
これのどこがだろう、と至の分のゴミまでまとめて捨ててくれる千景に、それは言わないでおいた。
「じゃあ待ってるから、終わったらLIMEしろ。一緒に帰るぞ」
「へっ? あ、先輩」
ひらひらと手を振って、千景は自分の部署がある方へ行ってしまう。終わるまで待っていてくれるのか、という嬉しさと、至が断ることを想定しない気安さと強い想い、恐らく腰のことを気遣ってくれているのだろう優しさが、体中に染み渡っていく。
できるだけ早く仕事を終わらせようと、溜まっている仕事の量と優先度を把握するところから始めることにした。

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