カクテルキッス4-ふたりの約束-

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眠れるわけがないと思ったが、ふっと意識が浮上する。浮上するということは、落ちていたはずで、どれだけかは眠れたらしいと、至はベッドの上に体を起こした。
ぼーっと、?がったもうひとつのベッドを見ると、遣われた形跡のない布団。ホテルか、と思うようなベッドメイクがなされたそこは、相変わらず生活感のない印象を与えた。
「帰ってこなかったんだな……」
短く息を吐き、放っていた携帯端末で時刻を確認する。なんということだろう、目覚ましより一時間も早い。ここで二度寝をしたら、きっと会社に遅刻してしまう。
至は仕方なくベッドを降りて、シャワーを浴びにいくことにした。ついでに溜まった洗濯物を持っていこうと、ゆっくりとした手つきで拾い上げる。
散らかっているな、と拾い上げながら思う。シャツや靴下はもちろんのこと、ゴミ箱に入れ損ねたゴミや飲みかけのペットボトルが転がっている。
足の踏み場はあるけれど、世辞にも綺麗だとは言えないこの部屋。
どちらかというと潔癖そうな千景が、よくこの部屋で過ごしたものだと思う。片付けてはいたが、そうした傍から散らかっていくのを、呆れた眼差しで見つめていたことを思い出した。
「こんなだから、愛想尽かされたんだろうな……」
今さら遅いけど、とゴミも一緒に片付ける。それだけで広くなった印象のある部屋を後にした。

「おはよ」
「おはようございま……って、え、至さん!? どうしたんですか!」
「至さんおはようございます、今日は早いんですね!」
シャワーを終えてダイニングに向かえば、仲間たちがおはようを返してくれる。
若干失礼な物言いのような気もしたが、いつもは割とギリギリまで起きてこないことを鑑みれば、それも致し方ない。
「あ、おはよう至くん。今日早いの? 俺も今日は客演先の稽古で早いんだよね」
紬が、パンにマーガリンを塗りながら声をかけてくる。彼も割と朝が弱かったはずだが、芝居のこととなると違うらしい。
「うん、まあ、ちょっとね」
目覚ましより早く起きた朝には、幸せが待っているなんて言うけれど、そんなものは嘘っぱちだ、と椅子を引いて座る。
会社に行けば、同じフロアの千景と顔を合わせてしまうかもしれない。一日中デスクに座っていようかとさえ考えてしまう。
「パン焼きますか?」
「あ、ごめん、ちょっと……食欲ねーわ。サラダだけでいい」
咲也が気を利かせて、パンの袋に手を伸ばしてくれる。だが至はそれをやんわりと断り、テーブル上のサラダボウルに手を伸ばす。皿にほんの少し取り分けて、ドレッシングを手に取った。
「え、食欲がないって、大丈夫なの? 仕事休めないのかな」
「あー、平気平気、ちょっと疲れてるだけ。ありがと紬」
心配そうな顔を向けられて、居心地が悪い。無理にでも詰め込むべきだったかとも思うが、後で全部戻してしまいそうだ。
昨夜から続く胃痛は、まだ治まらない。何も食べないのも良くないかと思ったのだが、サラダさえ食べるのが億劫だ。
原因は分かっている。千景とのことだ。夢ではなかったのだと、シャワーをして頭も冴えた。
千景にフラレたのだという事実を、どうにか受け入れなければならない。
むしろ、想いが叶った数日の方が夢で、実際は何も起こっていなかったのではないかと思うほど、短い期間。咀嚼して飲み込んだはずのサラダが、至の思考と連動するように逆流してくる。
受け入れたくない。
そんな思いが、食べることを拒んだようで。
「……っ」
至は席を立ち、水を汲んでゆっくり口に含む。そうして流し込むように、飲み込み直した。
(やべ……マジかよ)
失恋したくらいで、こんなふうになってしまうなんて。そんなに重大なことだろうか。例えば、ゲームができなくなる方が至に取っては重大だ。
(振り出しに戻っただけだろ、先輩とは別れたけど、俺は先輩を……)
そこまで考えて、はたとグラスを持った手を下ろす。
(……俺、このまま先輩のこと好きでいるの? しんどくない?)
忘れてほしいとは言われたが、好きでいることもやめてほしいとは言われていない。
千景の気持ちは離れてしまったが、至の気持ちはまだ千景に向かっている。叶わないと分かっている想いが。期待をする余地もない状態で、千景を好きでい続けることができるだろうか。
(いや、別に好きじゃなくなれば、それはそれでいいわけで。でも……なんでだろ、好きで、いたい……)
いつか気持ちが薄れていけば、誰か他の人を愛して、千景ともただの劇団仲間になれる日がくるかもしれない。千景もそれを望んでいる。
だけどどうしても、千景を好きでなくなる未来が見えてこない。
それは意地でなく、盲目的な愛というわけでもなく、ただ傍にいたいという思いだけ。
「至さん大丈夫ですか? 薬出してきます?」
なかなか戻ってこない至を心配して、咲也が声をかけてくる。至はハッとして振り向いた。テーブルの方からも、紬やいづみの心配そうな視線が感じられた。
「うん、そうだな……念のため飲んでおくよ。ごめん咲也、心配かけて」
「いえっ、お仕事忙しそうですし、あんまり無理しないでくださいね」
咲也にありがとうと返して、常備薬の箱に手を伸ばす。気休めくらいにはなるだろうと、至は胃薬を飲んで、テーブルの食器を片付けた。
(普通にしてないと。心配かけるし、紬にはバレそうだしな。そんで万里にまでツーカーで伝わるだろ。あのお節介に知られたらマズイわ)
はあ、と息を吐いて、出勤の支度をする。
(普通に、普通に。……どうやるんだっけ、普通って)
千景と恋人同士でなかった頃、もっと言えばセフレになる前を思い出そうとするけれど、気分が沈むばかり。
「あ、至……おはよ……」
玄関へ向かうと、密がドアを開けて入ってくる。至はぎくりと体を強張らせた。
「お、おはよう密。外行ってたの?」
「……庭で猫が鳴いてたから……見たら、怪我、してた。あとで病院連れてく」
「そうなんだ、気をつけてね。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい……」
すれ違う瞬間、密の視線が突き刺さるような錯覚を味わう。
万里にも紬にも悟られてはいけないけれど、密にも知られたくなかった。
(やっぱ落ち着かない……見透かされそうでホント怖い)
密も、なんだかんだ言って千景のことを大切にしているのは知っている。そんな千景と、どれだけもしないうちに別れてしまったことを、責められそうで怖い。
必然的に千景とのことを考えてしまって、崩れそうになる。
(どんだけ頑張ればいいかな……。別れたことはちゃんと話すべきだとは思うけど、まだ無理だわ……頑張るのしんどい)
昨夜のことを思い出して、胸がズキズキと痛む。泣きそうになって、気がついてぶんぶん首を振る。
(無理、ここで泣いたら男が廃る。っつーか、……フラれた感が強くなって立ち直れん)
今日は電車で行こうと、少し早めに寮を出た。いつまた胃痛で気を取られるか分からないし、この状態で運転するのは危ない。
何より、いつも千景との通勤で使っていた車に、今は乗りたくない。どうしても思い出してしまう。
優しかった千景。笑いかけてくれた千景。じゃあ茅ヶ崎帰りに、とネクタイのゆがみを直してくれた千景。
駅までの道のりを歩きながらでさえ、思い起こされてくる。
(ハハ、結局過去のあの人に縋ってんじゃん俺。あれだって、憐れみだったかもしれないのに)
現実を見なければ、と唇を引き結んで、チャージした交通系ICカードで電車に乗り込んだ。

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「あ、あのっ、茅ヶ崎さん!」
昼食に出ようと思ったところで、後ろから声をかけられる。緊張して変に上ずった声は、あまり心地のよいものではなかったが、至はにっこり笑顔の仮面をつけて振り向いた。
振り向いたそこには、〝何度か見たことはある〟程度の女性社員。どこの部署なのかも知らない。
「なにかな」
「あ、あの、私……この間ですね、あの、警察の方に事情聴取? ってヤツ、されちゃって」
警察? 事情聴取? と至は首を傾げた。
突飛な話題で、どう切り返すべきなのか分からない。至には心当たりが――
「以前、その、私の元カレが茅ヶ崎さんにご迷惑をかけたって聞いて」
「あ」
心当たりが、あった。
そういえば、以前彼女にプレゼントをもらったことを思い出した。顔もあまり覚えていなかった薄情な男に、恋心なんて抱かないでほしいと、彼女を可哀想にさえ思う。
そうしてハッとする。
(あ~こういうことか~。憐れみ、ねぇ……)
千景の言う憐れみは、こんな気持ちだっただろうか。もっとも、至は憐れみで誰かと交際を始めることはないけれど。
「すみませんすみません、一度警察の方に注意していただいてからは、なんていうかその……ストーカーみたいなことはなかったんですけど、まさか茅ヶ崎さんに怪我させるなんて」
「いや、大丈夫だよ、怪我って程のものじゃなかったし。かすり傷? 痕も残ってないから、気にしないで」
どうも、この彼女にストーカー行為を働いていた勘違い野郎に、一度襲われたことがある。ナイフを持って追いかけ回されたあの日。千景が〝仕事〟でセックスを途中放棄した日だ。
「でも、あの、お、お詫びに食事とか、そのっ……奢らせてほしいなって。ずっと声かけられなくて、お詫び遅くなってすみません……」
至は仮面の下でげんなりとした。詫びなど口実にすぎないのだろう。もっとも、彼女に詫びてもらう理由もないのだが。
そうして気がつく。ここ最近のまとわりつくような視線の主は彼女だったのかと。
(またストーカーの方かと思ったわ。ビビッて損した)
千景には何でもないように告げていたが、内心また巻き込まれたらと思うと恐ろしかったのだ。
「いや、本当に気にしないで。大丈夫だから」
「だけどそれじゃ私……っ」
「ごめんね、女の子と二人でご飯とか、恋人に怒られちゃうから」
至は申し訳なさそうな顔をして、平気で?をつく。あ、と彼女が口を押さえた。
「ごめんなさい、彼女が……」
「うん。気持ちだけもらっておくね。あと、ストーカーの対策とか、もう一度警察とか弁護士さんに相談した方がいいよ」
がっくりと肩を落とした女性に笑いかけ、至は再び歩き出す。
恋人に怒られる――なんて、自分で発した言葉に割とダメージを受けながら。
(あ~何が恋人だよ。今はフリーだろうがああぁあ)
とはいえ、好意を寄せてくる女性を撥ねのけるにはいちばん手っ取り早い。
昨日までいた恋人らしきものとは、あれから一切の言葉を交わしていないというのに。LIMEでさえだ。
エレベーターで自分の部署があるフロアまで上がり、どうしても通ってしまう千景の部署の前を、そそくさと通り抜ける。
見ないようにしていたのに、ちらりと千景のデスクを見やってしまったのは、癖だろう。
彼は、何でもないように書類に目を通していた。
ちゃんといた、とどこかホッとしてデスクにつく。
声がかけられない。勇気が出なくて、視線を向けられる前に逸らしてしまったけれど、胸はまだ高鳴る。
嫌いにはなれない。一方的に、身勝手に別れを告げられても、至の気持ちだけが続いていく。
ズキンズキンと痛む心臓を押さえ、周りに気づかれないように深呼吸を繰り返した。
(大丈夫、平気……しんどいけど、先輩がいなくなるとかなくて良かった)
自分とのことで気まずくなって、またあの時みたいに出て行かれたままだったらどうしようかと思っていた。
部屋では逢えなくても、少なくとも職場で、寮の共有スペースで、レッスン室で、逢える。それでいい。
ひとときだけでも夢を見られた。
(もともと深く関わるのなんか苦手だし、よりにもよってあの人だし。難攻不落って感じだったじゃん。一生続く片想いってだけだろ)
最後に大きく息を吐き出して、仕事に取りかかった。

時計の針が、もう少しで退社時刻を指す。だが思ったように進まなかった仕事は、定時で抜け出せる状態ではなかった。
今日は春組の稽古はないし、仲間に迷惑をかけることはないだろうと至は思うが、正直言って自分の心と体には大迷惑だ。
(あァ? ふざけんなクソが!)
さらに、タイミング悪く新規の案件がメールで届く。思わず舌を打って、冷や汗をかいた。幸い周りの誰にも聞こえていなかったようだが、やはり猫をかぶるのも楽ではない。
以前はそれでも平気だったのだ。家以外で本性をさらけ出すことがなかったから、猫かぶりも板についた状態だった。
だが今は、居心地の良すぎる寮がある。本性をさらけ出しても、彼らは何も咎めない。本性をさらけ出している時間が長くなったせいなのか、ときおりこうして顔を出してしまうのだ。
猫を被ることに、あまり意識をやれないのが、原因のひとつでもある。
いつ千景と接触するか分からない。
接触した時に、普通にしていなければと思う気持ちが大きくて、神経をすり減らしているのだろう。自分でも無意識のうちにだ。
昼食も喉を通る気配がなくて、せっかく買った惣菜パンが、デスクの隅でしょんぼりしている。空腹は感じているが、どうにも胃が受け付けてくれなそうなのだ。
寮に戻ったら誰かにあげようと至は息を吐く。育ち盛りの太一や、こういうものになじみのなさそうな天馬あたりなら、喜んでもらってくれるだろう。駄目なら万里に押しつけてやろうとさえ。
(思ったより堪えてんのな……乙女か)
そんなことを思っているうちに、退社していい時刻が過ぎる。周りのデスクもぽつぽつと空き始め、羨ましく思った。
優先度の高い仕事から順に片付けていこうと思うが、手が度々止まる。
どうしても、千景のことが気になってしまう。
腰を上げて千景のデスクの方を見やれば、彼の姿はなかった。ホッとしたような、寂しいような。
結局今日は一度も言葉を交わしていない。同じ職場、同じフロアにいながらだ。昼食の誘いも来ず、行けもせず、視線も交わしていない。
突然の別ればかりか、徹底的な拒絶とも思える。
キリキリと胃が痛んだ。
居心地の良かった寮に帰れば、千景がいるだろうか。それとも自分を避けて、アジトの方に行っているだろうか。
(帰りづらいわ……)
このまま目一杯まで残業をして帰ろう。千景に憐れみの目を向けられるのも、これ以上拒絶されるのも怖い。ちょうど本当に仕事も溜まっているしと、至は今日のタスクを更新した。

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「あれ、茅ヶ崎まだ戻ってないのか?」
一仕事終えて寮に戻れば、団員たちが温かく迎えてくれた。
千景はホッとしつつ冷蔵庫を開ける。ストックしているミネラルウォーターを手にしたとき、おかしなことに気がついた。
至が大好きなコーラが昨日と同じ本数で鎮座している。三本だ。なくなったら買ってくるタイプの至が、一本買って一本飲んでいるということは考えにくく、まだ職場から戻っていないのだと分かる。
「今日はまだ帰ってきてないね。残業かな?」
大変だねと東が時計を仰ぐ。すでに二十一時を回っており、いくらなんでも遅すぎると千景は体を硬直させた。
(まさか、何かあったのか!?)
こんなに遅くまで残業していたことはあるだろうか。千景の知る限りでは、ない。そんなに大変な案件を抱えていた記憶もない。
ドクンと心臓が鳴る。そういえば妙な視線を感じたと言っていた。どうして彼を一人置いてきたのだろうと、千景はいったん一〇三号室へ向かう。
重い仕事道具を置き、愛機と携帯端末のみ持ち上げる。
LIMEメッセージは何も入っていない。組織の方からも、何も変わった連絡などない。震える指で、LIMEメッセージを送信した。
『茅ヶ崎、今どこ』
彼とのやり取りはいつも簡潔なものだったが、これほどに早く、明快な答えが欲しいと思って送ったものはない。
(茅ヶ崎、頼む)
既読がまだつかない。スマホ中毒と言ってもいい彼が、触れられない状況にあるというのだろうか。全身から汗が噴き出してくるかのようだ。
「……っ」
あの夢が、頭の中にフラッシュバックする。
なくしたくない。誰よりも大切にしたい人なのに。傍にいさせたらいけない相手――いなくならないでほしい。
「茅ヶ崎……っ」
こらえきれずに、通話のボタンを押そうとしたその時、既読のマークが付く。
千景はハッとして、祈るように両手で端末を握りしめた。
『どこって、まだ会社ですけど。そろそろ上がります』
返ってきたメッセージに、体から力が抜けていく。はあ~と大きく息を吐き、崩れ落ちそうだった体を踏ん張って支えた。
『残業してたのか。迎えに行くから、エントランスで待ってろ』
素早くそう打ち返したのは、夜遅く至を一人で歩かせたくないせいだ。
遅いと言っても二十一時過ぎ。今から帰る準備をして会社を出るにしても、深夜というわけではない。成人男性の帰路を心配する時刻ではなかった。
『なんで』
短く返されて、返答に困る。心配だからと素直に返していいのか、怖いと深く心を明け渡していいのか。
『先輩、別れた男にそうやって優しくするのやめてください。デリカシーの欠片もないな』
ズキリと心臓が痛む。昨日告げた別れは、至の頭にしっかりと残っているらしい。今日一日少しも視線が合わなかったことからも、裂けているのだとは分かるし、そうさせているのは千景自身だ。それなのに、こんなにも胸が痛むなんて。
(……こんな身勝手な男に、恋なんてするからだよ、茅ヶ崎)
傷つけただろう。唐突な別れに、納得なんてしていないはずだ。むしろそうであってほしいとさえ思う。
恨んでも、憎んでもいいから、自分とのことは忘れて、いつか他の相手と幸せになってほしいと思う反面、ずっと捕らわれてほしいと願う、身勝手さ。
『ちょうどそっちに行く用事があるんだよ。いいから待ってろ』
?をついて、深呼吸をして、部屋を出ようとしたそこで、ドアが開かれた。
千景は息を飲む。珍しい客だった。
「密……」
「至、いないの」
至とのことを知っている、数少ない人物。大切にしたい仲間で、家族で、共犯者でもある密だ。手にはマシュマロの袋を抱えており、彼は部屋を見渡す。
「まだ会社だ。今から迎えに行く。アイツに用があるんだったら、伝えるけど」
どうしても密相手だと、言葉が雑になる。仮面をつけていない状態で出逢って、仮面をつけていない状態でずっと一緒に過ごしてきたせいだ。それは密の方も同じようで、目つきが少し鋭くなる。
「朝……ご飯食べられなかったみたいだから、マシュマロなら食べられるかと思って、持ってきた」
「え?」
密は大事そうに袋を抱え直す。至にあげるつもりなのだろうが、その力に未練が見られる。だが彼が大事なマシュマロを差し出すほどに、重大な事柄だったのだろう。
朝は、アジトの方から直接出勤したせいで、朝の至の様子は知らない。
食べられなかったというのは、時間的な問題だろうか。そう思いかけたが、そんなのはいつものことで、密が心配するような日常ではない。
「さっき紬が言ってた。サラダ、少ししか食べなかったって……風邪なのかなって、心配そうに」
千景は目を瞠る。そういえば、会社でも昼食を取った様子がなかった。
ランチの時間に席を外していたものの、コンビニの小さな袋を提げてすぐに戻ってきていた。
だがそれにも関わらず、通りかかった時にちらりと見やった彼のデスクに、食べるはずだった惣菜パンが置かれていたのだ。昼をだいぶ過ぎた、三時頃。
食事を取る暇もないほど忙しかったのなら、この残業も頷ける。だけど朝も昼も食事を抜いて、さらに夕食はどうしているのだろう。
固形の栄養補助食品なんかでごまかしていないといいが、と眉を寄せた、その時。
「千景。至に何をしたの」
密の低い声が耳に届いて、はじかれたように顔を上げた。すぐ傍まで詰め寄られていて、その気配に気づかなかったことが悔しくてたまらなかった。
「なっ、……んで、だ」
「朝すれ違った時、至泣きそうな顔してた……お前が何かしたんでしょ」
鋭い爪でえぐられたように、ズキ、と心臓が痛む。至がそんな顔をしているところは、見たことがない。泣かせたことはあるけれど、それはベッドの上だけだ。
「至がそんなふうになる理由、お前しかない。至を傷つけないでって言ったのに」
密の手が、千景のネクタイのノットを掴む。声の低さと強さが、本気で責め立てているのだと気づかせた。
何より、防ぐ余裕もなかったことからも、密の怒りを伝えてくる。
居場所を与えてくれたカンパニーのみんなを、密はとても大切に思っている。
なかなか表には出してこないが、危機に陥れば千景と同様、何を置いても救い出すだろう。至だけが特別というわけではない。
いや、千景が関わっているところから、他のメンツより少しだけ気にかけていたのかもしれない。千景はその手を振り払って言い放つ。
「仕方ないだろう、あれ以上は無理だった」
「……何をしたの、大事な家族だろ」
「っ……大事だから、家族に戻っただけだ! ただの家族なら……アイツを、狙う理由も、なくなる」
言葉がうまく出てこない。出そうとするのに、痛む喉が邪魔をする。詰まるような感覚は、その決定的な言葉を音にさせてくれない。
密が目を瞠ったのが分かる。〝狙う〟という単語は、自分たちにとってあまりにも日常的なものだった。
「至、誰かに狙われた? いつ、どこで」
密はすぐに、千景の言わんとしていることを悟り、ガッと腕を掴んでくる。その力の強さは、焦りと困惑が混じっていた。
千景はふるふると首を振る。
「違う、まだ……平気、だと思う。だけどこのまま一緒にいたら、いつかそうなる。俺のことを気にくわないヤツがいたの、知ってるだろ」
「だから至を捨てたの?」
「捨ててない! だけど俺に茅ヶ崎は無理だって、茅ヶ崎にも俺は無理だって、お前が言ったんだろう!」
こんなこと言いたくない。選んだのは自分自身だ。茅ヶ崎至を守る、唯一の方法。大切だから、彼を失うことが何よりも怖い。自分の人生に巻き込んで、あの優しい男をこれ以上傷つけられない。
今、離れてしまうのがいちばんいいのだと、導き出した結論だった。
「俺の力になりたいなんて思わせてる。冗談じゃない、なんで危険だってことが分からないんだ、アイツは」
昨日、万里との会話を聞いてしまった。ザフラで力になってくれたことはありがたいけれど、あれは運が良かっただけだ。
ただでさえ体力のない一般人を、これ以上巻き込むわけにはいかない。
「アイツは、俺に……縛られるべきじゃない。俺のことは忘れて、誰か他のヤツと幸せになってほしいんだよ。女だって抱けるだろうし、結婚して、子供育てて、芝居に打ち込んで、ゲームにのめり込んで、笑っててくれればいい」
「千景の幸せは……どこなの」
「はぁ……そんなの考えるだけ無駄だろ。アイツを迎えに行ってくる。待たせてるんだ」
眉を寄せて得心のいかない表情を隠さない密を押しのけて、千景は一〇三号室を後にする。
これ以上傷つけないために別れを選んだ。傷が深くなる前の方がいいに決まっていると、千景は至の車に乗り込んでエンジンをかけた。
傍にいれば、深く関係すれば、いつか気づかれる。自分だけでは至を守り切れないと悟ったから、今のうちに離れただけだ。
これ以上進んだら、あの夢が現実になったとき、耐えられない。立ち直ることさえできない。
自分がいないところでなくしてしまったオーガストとは違い、至はまったくの民間人なのだ。巻き込めない。
「……茅ヶ崎、早く忘れて……」
アクセルを踏みながら、待っているであろう至を思い浮かべた。

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何を考えているのだろうと、至はエントランスのベンチに腰をかけて、携帯端末を眺めた。
LIMEのトーク画面は、千景とのやり取りを映し出している。
(迎えにって、ほんとなに? 俺ら昨日別れたよな? マジで一方的に、飽きたとか言いやがったくせに、なにこれふざけてんの?)
千景の行動の真意が、少しも分からない。
自分が飽きたからといって、こちらが割り切れているとでも思っているのだろうか。むしろ傷心の真っ最中だというのに。
人の心を推し量ることが壊滅的にできないひとなんだなと、腹立たしさを隠しもせずに足を組む。
そろそろ正面ゲートが閉められてしまう時刻なのだが、千景はまだ現れない。運転中かなと思えば電話をすることもできないし、メッセージを送ったって無駄だろう。
(ッあ??ほんと何考えてんだよ! 別れたんだから放っとけよクソが。新手のイジメか。こっちはまだ好きなんですよ、どうしようもないくらいに好きなんですよ)
千景の迎えなど無視して、電車で帰るから大丈夫ですとメッセージだけ残して帰ろう――とならないのは、千景への気持ちが、いまだに至の中で育っているからだ。
フラれた状態で彼と一緒にいるのは苦しいけれど、嬉しくもある。今日は一日中顔が見られていない。視線も交わせていない。会話もだ。
少しくらい笑いかけてくれるかなと期待してしまうのは、どうしようもない。
(マゾっぽいな俺。イタイの嫌なんだけど)
もうすぐ着く頃だろうかと思うと、ドキドキとソワソワとズキズキが一緒にやってくる。
それと同時に、守衛がやってくる。ビルの見回りを終えたのだろう。正面のドアが閉められる時刻らしい。以降、残るのならば守衛に連絡をして、帰る時に裏口を開けてもらわなければいけないのだ。
それは面倒だなと、至はベンチから腰を上げ、もう出ますと守衛に告げて自動ドアをくぐった。
夜の冷たい風が?を撫でていく。その時、ちょうど到着した千景に声をかけられた。
「茅ヶ崎、遅くなって悪い。車、パーキングに停めてるから」
至は携帯端末から顔を上げて、スーツのままの千景を見やる。自分より早く退社したのに、スーツのままだとは。どこに寄っていたのだろうと、苦笑する。
だが、それを深く訊ける立場にはない。
「先輩って、本当に勝手な男ですよね」
「え?」
「あんまり優しくしないでくれません? ヨリ戻ることないんでしょ。さっきまでは平気かなって思ってたけど、やっぱ無理だわ。先輩と車の中で二人っきりって、かなりしんどい。電車で帰ります」
迎えに来てもらって悪いですけれどと続け、千景を通り過ぎかける。だけど腕を掴まれて、叶わなかった。
「……悪いとは思ってる。だけど夜遅いし、この間変な視線感じたって言ってただろ。最短ルート通るから、一緒に帰ろう」
至は目を見開いて、ついでぱちぱちと瞬いた。何の気なしに言ったことを覚えていたのか。それで危ないからと心配して、着替えることもなく迎えに来てくれたのか。
嬉しいと思ってしまう自分が情けない。?の筋肉が緩みそうになるのを押さえたせいで、変に歪んだ。
入団当初はあの部屋に帰ることもなかった千景が、まさか〝一緒に帰ろう〟だなんて。
「あ、の……それは、原因分かりました、し。もうなくなると思います」
「……そう。茅ヶ崎のこと好きなヤツとか? まあ、でもここまで来たから、行こう」
最短ルートを通ってくれるなら、二人きりでいる時間は少なくなるだろうし、心配をかけてしまったのは至の責任でもあって、何よりこの力強い手が逃がしてくれそうにない。
電車代だって浮くし、といろんな言い訳を探して、至はこくんと頷いた。
「あ、その前にあそこのコンビニ行っていいです?」
「ああ、もちろん。そうか、お前メシ食ってないんだろ。食欲がないなら、えっと、おかゆとかの方が」
「……なんで知ってんですか」
「密に聞いた」
「…………そうですか」
二人でそろって歩き出す。至が行きたがっているコンビニは、道路を挟んだ向こう側。こちら側にもコンビニは見えるが、少し遠い。信号待ちの時間を考えても、向こう側の店舗がいちばん近かった。
横断歩道の手前で立ち止まり、至は俯く。同じように道路を渡りたい人々が、わらわらと集まってくる喧噪の中、至は細く息を吐き出した。
隣にいることが苦しい。傍にいられることが嬉しい。この矛盾は、どうやったら消化できるのだろう。
「……別れたこと、言った方がいいんですかね」
「…………密には、話した。アイツはお前のことを気にかけていたからな」
「いや、俺っていうか先輩のことでしょ。嫌みじゃなくて……密は先輩のこと大事だから……その延長で俺を気にかけてくれてただけで」
千景と密の間には、誰も入り込めない。たとえこの先どちらかに恋人ができても、家族ができても、二人の絆は別のカテゴリにある。至も、今でさえそれには嫉妬する。
「茅ヶ崎、俺は」
「俺は先輩を知る前に、フラれちゃいましたけどね」
その絆が強い理由は、理解しているつもりだ。だからこそ、羨ましいと思うだけで留めていられる。千景の世界に踏み込めない至では、どうしようもない。
「……お前は、こっちに入ってこなくていい」
「――分かってますよ。俺だって危ないのなんかごめんです」
千景自身も、至が踏み込んでこないことを望んでいる。それが分かっていたから、彼の日常でありたかった。
これからは、会社の後輩として、劇団の仲間として、ルームメイトとしてしか、接することができない。
「分かってるならいい」
押し殺した千景の声が耳に届く。
視線を落とした先で、千景が太腿の横で拳を強く握りしめるのが目に入った。
至は顔を上げて千景の顔を見やりかけたが、その時ちょうど歩行者用の信号が青に変わる。我先にと慌ただしく道路を渡りかける人たちにつられて、至たちも足を踏み出した、その時。
右の方から、ギッギャアアァァと悲鳴のようなブレーキ音。続いて何かがぶつかるような、雷か爆発か、そんな轟音が辺りを支配した。
それは、ほんの一瞬のできごとだった。
「茅ヶ崎!!」
何かに押されて、視界が揺れる。体のどこかに、痛みを感じた気がした。
どよめきは悲鳴に変わり、至の視界がクリアになっていく。
道路の向こう側、ガードをなぎ倒してコンビニに突っ込んだ車が見える。
巻き添えを食らった車たちが、鼻先を明後日の方向に向けて立ち往生している。
歩行者用の信号は青の点滅を始めるが、道路にいる人々は動けないでいた。
「救急車! 警察っ……!」
「だ、誰か……タオル、ハンカチとか! 服でもなんでもいいから止血できるもの!」
道路を渡ろうとしていた数人が、車の追突に巻き込まれて、倒れ込んでいる。
携帯端末で電話をかける者、不謹慎にも写真や動画に収める者、倒れた人に声をかけ救護に当たる者。
「あの、大丈夫ですか、しっかりして」
肩を揺さぶられた気がするけれど、至の頭は認識してくれない。
どうして。
そこに倒れているのは、自分だったはずではないのか。
あの時押された気がしたのは、まさか、彼の――。
「せ、ん……ぱ」
視線の先で、千景が倒れている。周りの人が声をかけているのが見える。
幸いにも意識はあるようだと、その唇がうごめくのを確認して、至ははじかれたように駆け寄った。
「先輩!!」
「ちが、さき……怪我、してないか」
駆け寄ってすぐ、第一声がこれだ。この期に及んで他人の心配とは、どこまで馬鹿な男なのだろう。
「俺は平気です、それより、先輩がっ……なんでこんな」
「だいじょうぶ……きたえてる、から、これくらいで死ぬことは、ない」
「そういう問題じゃないでしょうが!」
そう叫ぶが、ホッとした。千景の綺麗な髪を血が濡らしていくが、意識はあるし、手も動いている。どこか骨折くらいはしているかもしれない。
軽症ではないが、すぐに命に関わるような状態には見えなかった。
程なくして、救急車とパトカーが、けたたましくサイレンを鳴らしながらやってくる。
至の頭には入っていなかたが、この大惨事を起こした車の運転手は、車を放って逃げ出したらしい。
数人が追いかけ確保されたようだが、飲酒運転かそれとも薬物使用か。それは今後のニュースなどで知ることになるだろう。千景の怪我の様子を見ながら、事情聴取もあるはずだ。
千景が、ぎゅっと至の手を握りしめてくる。少し荒い呼吸は、彼の苦痛を伝えてきたが、至にはその手を強く握り返すしかできなかった。
そうして、到着した救急車に一緒に乗り込み、受け入れ先の病院まで付き添った。
千景は救急車の中で意識を失ったが、救急隊員の話では骨折と打撲が主な症状らしい。倒れ込んだ拍子に頭を打った可能性があるらしく、そちらの方が心配だとか。
千景が処置室に運ばれていってから、至はようやく意識がはっきりとし出す。
びっしょりと汗をかいている背中にシャツが張り付いて気持ちが悪い。
「事故に遭われた方ですか? 怪我されてますね。手当てしますので、こちらへどうぞ」
「え、あ……でも、かすり傷なんで」
看護師に声をかけられ、至は初めて自分も怪我をしていることに気がついた。突き飛ばされて地面に転がった時にでもすりむいたのだろう。千景に比べたら何てことはないものだ。
だが、重症か軽症かを判断するのは自分たちだと言われて、素早く手当てをしてもらった。幸い、本当に大したことはなかったようだ。
千景が、かばってくれたおかげで。
千景の方は、まだ治療が続いているらしい。処置室傍の長椅子にドサリと腰を下ろし、ポケットの携帯端末を取り出した。画面も無事で、傷は付いていない。
「えっと……ここ、スマホ……」
使っていい場所なのかどうか分からず、忙しなく走り回る看護師たちに聞くのも憚られ、至は念のため場所を移した。
手が震える。今の時間ならみんなまだ起きているはずだが、ひとまず第一にいづみへ連絡をしなければと、LIMEの無料通話を開始した。
『至さん? どうしたんですか、こんな時間に? あれ? もしかしてまだお仕事ですか!?』
「ごめんね監督さん、落ち着いて聞いて。先輩が……千景さんが事故に遭って、今病院なんだ」
『……――え!? 事故!?』
三秒ほどの間を置いて、いづみの驚愕した声が返ってくる。談話室にいたのか、向こう側がどよめいたのが聞こえてきた。
『じ、事故って、何があっ……えっと、千景さん大丈夫なんですか!?』
『監督さん、代われ』
『あ、は、はい』
動揺を隠せないいづみのすぐ傍で、左京の声がした。
『茅ヶ崎、怪我の具合はどうなんだ。病院は』
いづみと替わった左京が、簡潔に用件を音にする。さすがにこういった病院沙汰は慣れているのかと、至も短く病院名を口にした。
「命に関わるようなものじゃない、とは思います。救急車到着するまで、意識もちゃんとあったので……ただ、骨折とか、そういうのはありそうです」
『分かった、待機してろ。俺も行く』
慌ただしく通話が切られる。冷静に思えた左京も、実際は動揺しているらしい。至は処置室の方へと戻り、ただ忙しなく行き交う人々の中、無言で立ち尽くした。

「えっ、千景さんが? それで、容態はっ……」
「今、病院で治療中みたいなの。わたしと左京さんでひとまず行ってきます」
紬は青ざめて、口を押さえた。
命に別状はないようだが、どんな状態なのか。いづみたちだけで大丈夫だろうか、と思考をぐるぐると巡らせる。
組は違うが、大事な仲間なのだ、無事であってほしい。できれば、これからも芝居を続けていける状態ならば嬉しいが、と唾を飲んだ。
「警察の方から連絡があったんですか? ひどい事故だったのかな」
「いえ、至さんから……至さんを迎えに行った先でらしいので、詳しく聞いてないんです」
「えっ、至くんから!?」
紬は目を瞠った。瞬時に頭をよぎったのは、二人の関係だ。
いづみは彼らのことを知らないし、左京もどうだか分からない。至を支えられるのは、今この場に自分しかいないのだ。いてもたってもいられず、紬は口を開いた。
「監督、俺も行きます」
こんな時に限って万里がいない。足が震えているけれど、至はもっとつらい思いをしているはずだと、自分を奮い立たせる。
そうして玄関へと向かう途中、談話室が騒がしい。きっと千景のことでみんな動揺しているのだろう。
「左京さん、俺も」
「てめぇはここにいろ、何ができるわけでもねえだろ」
「それは、そうッスけど……」
十座が心配そうに眉を下げたのが見える。紬は、密と目が合った。そういえば、彼は千景と何かしらの?がりがあるのだったと思い出し、駆け寄った。
「密くん、ひとまず俺が様子見てくる。連絡入れるね」
「……アイツは、大丈夫だと思う。至のこと、頼みたい」
「えっ……、と、密くん、もしかして……知ってる?」
密がこくんと頷く。千景の心配より至の方を気にするということは、恐らく千景は大丈夫だろうという根拠のない自信が湧いてきた。
丞のようにとまではいかないが、かなり体を鍛えているようだし、彼の身体能力に期待をしたい。
だけど、至はそうもいかないだろう。恋人が目の前で事故に遭って、平気なわけがない。
「分かった……俺で力になれるか分からないけど。行ってくるね」
紬は拳を握りしめ、寮を出る。すぐ後から、左京も足早に出てきた。
「十座くん、なだめられたんですか?」
「アイツが行ってもしょうがねえだろ。こっちのヤツらうまくなだめとけって頼んできた。伏見もいるし、大丈夫だろうとは思うが。ああ、監督さんは後ろだ、運転すんな」
三人で車に乗り込み、紬は助手席でシートベルトを締めた。
そうして紬は、万里にLIMEメッセージを送る。千景が事故に遭ったこと、至が一緒だったということ、今自分が病院に向かっていることを。
こういったツールは未だに慣れないが、ちゃんと伝わるように言葉を選んで送ったつもりだ。
至を支えないといけないと思いつつも、やはり心細い。万里も大学の付き合いがあるだろうが、余裕があれば来てくれないだろうかと考えてしまった。
(また万里くんに甘えてる。俺の方が年上なんだから、しっかりしないといけないのに。こんなんじゃ、至くんを支えられない)
紬の心細さより、至の不安の方が絶対に大きい。紬は端末をぎゅっと握り締めて、重苦しい車内の雰囲気の中、至を思った。

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バタバタと騒がしい足音が聞こえる。いづみたちが到着したのだろうかと考えられるくらいには、意識ははっきりしていた。
至は長椅子から腰を上げ、彼女たちを迎える心の準備をした。
「あっ、至さん!」
「茅ヶ崎!」
「至くん大丈夫!?」
予想より多いメンツに矢継ぎ早に声をかけられ、気圧される。
「院内は走らないでくださーい。うん、たぶん先輩は大丈夫だと思う」
だが仲間たちの顔を見て安堵したのも本当で、ようやく大きく呼吸をしたように思う。
「よか、よかった――……!」
いづみが大きく息を吐き出して胸をなで下ろし、「そうか」と左京も眼鏡を押し上げる。予想外にいたメンツである紬も、ホッとした表情だった。
「それで、何があったんだ。デカい事故だったのか?」
ここに運び込まれた患者が多いことに気づいたのか、左京が険しい顔をして訊ねてくる。
至は長椅子に座り直し、横にいづみが座り、反対隣に紬が腰をかける。そっと腕を握ってくれる紬に、もしかして彼は、至を心配してきてくれたのだろうかとようやく分かった。
「よくある信号無視ですよ。歩行者信号は確かに青で、何人もの人が道路を渡ろうとしてた。そこに、追い越しプラス信号無視の車が突っ込んできたんです」
「よくあっちゃ困るだろう。よく無事だったな」
「別の車にぶつかった反動で、って感じでした。避ける暇も……なかった人たちが大半だったんだと……」
本来なら、至も避ける暇なく轢かれていたはずなのだ。それを千景が全部引き受けてくれた。
「あと、たぶん運転手は飲酒か薬物かやってたんだと思います……逃げ出したの捕まえられて、連れていかれたみたいですけど」
「あァ?」
左京の声が三段階ほど低くなる。
「事故現場……うちのシマにかすってやがんな……ふざけたマネしやがって」
「さ、左京さん?」
「ヤクの売買が関わってんなら、会長さんが黙ってるわけにゃいかねえ。ちょっと警察のヤツらとも話してくる」
左京がそう言って踵を返しかけた時、処置室のドアが開き中から医師が出てくる。至は反射的に腰を上げた。
「あのっ、先輩は」
「心配いりませんよ、腕の骨に少しヒビが入ったのと、背中の裂傷くらいでしょうか。頭を打っていたようなので、検査入院していただくようになりますが……えっと、ご家族の方は」
千景の受けていた怪我の様子を話してくれる医師に、やはり命に関わることではなかったのだと、四人で胸をなで下ろした。
「あ、えっと……彼、その、家族がいなくて……所属している劇団の責任者なんですけど」
おずおずといづみが名乗りを上げる。ここに咲也がいたら、オレたちが家族ですとでも言ってくれるだろうか。至は顔を背けた。
「そうですか。では手続きお願いしますね」
「こちらへお願いします」
「あ、はい」
「監督さん、俺も行こう」
いづみと左京が、看護師と連れ立っていってから間もなく、千景の乗せられたストレッチャーが出てくる。麻酔が効いているのか、意識はないようだった。
「あの、背中の裂傷ってひどかったんですか」
「背中というか脇腹にかけてこう、切れていましてね。恐らく車の割れた部分が裂いたのではないかと。ただ、かなり体を鍛えておられたようで、深いことはなかったです」
医師が指で患部を示してくれる。どれくらいの傷なのか分からないが、ゾッとした。至だったら、筋肉が守ってくれることもなく、深く臓器に達していたかもしれない。
「ここにも何名か運ばれましたが、命に関わるような重体の方はいませんでした。警察の方の事情聴取などもあるでしょうが、安静にさせてください」
至は頭を下げ、紬もありがとうございましたと震える声で礼を告げる。頭を下げたまま、ゆっくり息を吐き出したら、緊張の糸が切れた。
「わっ、至くん!」
至は崩れるようにそこに座り込んでしまう。うまく力が入らずに、立ち上がることもできない。危うく紬を巻き込むところだった。
「だ、大丈夫? ごめん、支えられなくて」
「いやごめん……大丈夫……情けない、腰が抜けたっぽい……」
「仕方ないよ、千景さんが無事で良かった」
紬が手を貸してくれるけれど、やっぱり上手く立てない。膝がガクガクと揺れて、自分のものではないようだった。
「あ、いた! 紬さん!」
その時、知った声が聞こえる。摂津万里のものだった。
「万里くん、来てくれたんだ。ごめんね忙しいのに」
「んなこと言ってる場合かよ、千景さんは!?」
紬が連絡したのかと、その会話から悟る。至は床にへたり込んだまま万里を振り仰いだ。
「平気だよ、先輩は。替わりに俺が大丈夫じゃありません……」
「何やってんすかアンタ……」
「腰が抜けました……ちょっと肩貸してください……」
「アハハ……俺じゃ支えられなくて。ごめんね万里くん」
しょうがねえなと言いつつ、万里はしゃがみ込んで至の腕を肩に担ぎ引き上げてくれる。大学に入って体幹もさらにしっかりとしてきたのか、ふわりと持ち上げられる感覚は、むしろ心地悪かった。
「で、千景さんは?」
「今病室に運ばれたとこ。腕の骨にヒビ入ったのと、背中の怪我? と、頭打ってるんだって。脳しんとうってヤツなのかな?」
いづみと左京が入院の手続きをしてくれていると紬が続ければ、耳のすぐ傍で、万里のホッとした吐息が聞こえてきた。
「なんだ、そっか。よかった……。だってさ、密さん」
万里がそう名を呼び、振り向く。至は目を見開いた。視線の先に、佇む密の姿。
「あ、密くん連れてきてくれたんだ、万里くん」
「おー、LIME見たの寮のすぐ傍だったからさ。丞さんに車出してもらった」
「え、丞は?」
「大勢で行ったってしょうがないだろ、だとよ。心配そうだったけど、まあそれも一理あるし。入院すんなら、個室だって全員来たら入れねーわ」
「そ、そうだね……」
丞なりに気を遣ってくれたのだろう。密が千景と仲がいいのは、誰だって知っている。至はさっと青ざめた。支えてくれていた万里から腕を外し、密の元へ駆け寄る。
「密っ……ごめ、ごめん、俺がいたからあのひとっ……先輩、俺のことかばったんだ、本当ならこんなことにはなってなかったのに」
ぶつかるようにして密の両腕を握る。いや、密の腕を握ることで、自身を支えているようにも思えた。
彼を大事に思っている、彼が大事にしている密のことをようやく認識したなんて情けない。最低だと至は俯いた。自分のことしか頭になかった。何も考えられなかった。
自分ひとりが彼を想っているわけではなかったのに。
「俺がいなきゃ、あの人はちゃんと避けられていたはずなんだよ。俺があの人に怪我させた……ごめん密……っ」
千景が一人だったら、かばう相手がいなかったら、こんなことにはならなかった。救護に回るはずだっただろう。
「……至のせいじゃないし、オレは別に千景のこと心配なんかしてない。うん……大したことなくて良かったとは思うけど」
密の手が、髪に触れて撫でる。それは思いのほか優しくて、温かくて、不意に――涙があふれてきた。
「至」
「やべ、ごめ……ちょっと、気が抜けて」
拭っても、拭ってもあふれてくる。情けなくて恥ずかしくて、至は俯いた。そうすることで余計に、あふれるものが多くなった。
「ほんとごめん……あークソ、止まれよ」
「別に止めなくてもいいんじゃねーの。彼氏が事故ってんだ、無事で良かったって気ぃ抜けるのも、気持ちが高ぶって泣いちまうのもしょうがねえじゃん」
万里も、頭をぽんぽんと軽く叩いてくれる。至は別の意味で頭を抱えたくなった。
言っておくべきか、黙っておくべきか。しかしこのタイミングで言わなければ、後々タイミングを逃してしまうだろう。
だがおかげで頭が冷えて、涙も引っ込んでくれた。至は?を拭って、深呼吸を繰り返した。
「……話しづらいんだけどさ。ていうか、病室行こう、ここ邪魔になる」
まだ治療を続けている事故の患者がいる。千景の処置は終わったのだし、どうも個室のようだし、そちらに行った方がいい。途中で寝そうになっている密を万里に引っ張ってもらって、千景の病室へと向かった。
「摂津もきたのか。御影まで……わらわらと大所帯だな」
病室へ入れば、ちょうど手続きを終えた左京と鉢合わせた。ベッドには千景が寝かせられており、非日常を窺わせた。
「監督さんは?」
「電話しに行った。さっき医者に聞いたが、骨折というかヒビが入ったみたいだな、腕。退院しても、しばらく稽古は休ませた方がいいだろう。首や背骨に異常はなかったそうだ」
それを聞いてホッとした。外傷はなくても内に傷があるかもしれないと危惧していたが、それもないようで。
「ただ、頭打ってるからな。意識が戻ってからもう一度検査するらしい。この程度で済んだのは運が良かったとさ」
「こんなとこまでチートなんですかね……」
至はベッドの傍に佇み、包帯の巻かれた千景の頭に触れた。そして、擦り傷のついた?へ。指先で鼻筋を撫で、唇を押す。
彼の意識がある時には、もう触れられない場所だ。
「千景さん、早く目ぇ覚めるといいね、至くん」
「つーか、左京さんとか密さんて、知ってんの、これ」
背後で、紬と万里が呟く。そういえば密は知っているが、左京はどうだっただろうと、至はようやく思い至った。
「オレは知ってた……千景の様子がおかしかったから」
「……まあ、薄々な。寮の秩序は乱してねえみたいだし、そこはその、俺がどうこう言えたもんじゃねえ」
「ははっ、確かにな」
左京も、同性の恋人が劇団内にいる。その事実は至も知っているけれど、彼らから直接聞いたわけではない。あまり深くは突っ込まないようにしてやろうと、口の端を上げた。
「このメンツだから言うけどさ。俺……先輩とは別れたんだ」
別れた、という音を、当事者以外に発するのはこれが初めてだ。途端に事実を認識して、体が急激に冷えていく。
「え……は!? なに、言って」
「えっと……どういうこと、至くん」
「そんな素振りなかったと思うが……事実、コイツは夜遅いからってお前を迎えに行ったんじゃねえのか」
万里が肩を掴んで振り向かせてくる。紬は目を大きく見開いて、左京は眉間に深いしわを刻んでいた。
「どうもこうも、言葉の通り、別れた。一方的なものだったけど……忘れてほしいって言われたよ」
「はあァ!? なんッだそれ、ふざけんな!」
「ば、万里くん落ち着いて。至くんに言ってもしょうがないじゃない。でも、どうしてそんな……ザフラで、ちゃんと気持ち確かめ合ったんじゃないの?」
至が怒れなかった分、万里が怒ってくれる。至が訊けなかった分、紬が訊いてくれる。
「突然だったから、俺だって驚いたよ。まだ納得できてない。でも、先輩の気持ちは変わらないんだろうなって思って、優しくするのはやめてくださいって言った矢先だったんだよね、事故」
「そりゃ納得なんかできねえだろう。距離を置くならまだしも、過保護に迎えに来るようじゃ」
「そうなんですよね……余計なことしやがって、クソが……」
至は傍にあった椅子に腰をかけて、息を吐いて肩を落とす。結局、千景の真意は聞けていない。どういうつもりで抱いていたのか、なんのつもりで迎えになんか来たのか。
目が覚めたら、いの一番に訊いてやろうと、千景の寝かされたベッドに突っ伏す。千景の匂いがしないベッドは、落ち着かなかった。
「至……千景は、至のこと」
押し黙っていた密が、ぼそりと呟く。何か知っているのかと思ったのは、密がいちばん千景に近かったからだ。
仕事で何かあったのか、今ここで訊ねるわけにもいかないが、至は体を起こして密を振り返った。
「至のことが、大事なだけ……」
「は? いや意味が分からん」
思わず口をついて出た。大事だと言うならば、ちゃんと納得させてほしい。そう思った時、
「う……」
千景のうめく声。腕に触れていた指先が、その腕と一緒に浮き上がり、落ちる。
「千景さん!」
「摂津、ナースコール!」
紬が嬉しそうな声を上げる。左京が素早く指示を出す。万里がすぐさまボタンに手を伸ばし、密もベッドの近くへ歩み寄ってきた。
そして、至は。
「せん、ぱい……」
重たそうに持ち上がった腕が、額に乗るのを見て、ようやく声を発した。
千景の意識が戻った。
命に別状はないと分かっていても、不安で仕方なかったものが、全部払拭された。
千景の真意を問いただそうとは思っていたものの、今はそんなことどうでもよくなってくる。千景が意識を取り戻してくれた。それだけで、充分だと。
「千景さん、大丈夫っすか。痛みは? すぐ医者とか来っから」
「ちょっと入院が必要だそうなんで、あとで荷物とか準備してきますね」
「千景……大丈夫……?」
「てめぇら、怪我人の頭の上で騒ぎ立てんじゃねえ!」
諫める左京の声がいちばん大きい、と万里が反論をする前に、コールを聞きつけた看護師たちが駆けつける。至たちは、千景の症状を確認するより先に、病室の隅に追いやられてしまった。
そうして、寮への報告を終えてきたいづみも加わり、手狭感が否めない。だけど千景が無事であることを確認するまで、立ち去ることもできやしない。
「と、とにかく目が覚めて良かったね。骨のヒビも、千景さんなら明日には治ってるかもしれないし」
「いやそれはねーわ」
「いくら千景さんでも、それはちょっと……」
「現実を見ろ、監督さん」
いづみの突拍子もない物言いに脱力する面々の中、医師たちは意識の戻った千景に、自覚症状を聞いているようだった。痛み、違和感、不快感など。機械の検査だけでは分からないことも多々あるのだろう。
そして、一瞬医師たちの声が静まりかえった瞬間があった。
「どうしてこんなところにって、ここは病院だよ。何があったか覚えている?」
「……いえ、分かりません……」
それは確かに、医師と千景の声だった。え、と短く息を吐き、全員でそれを振り向く
。医師は看護師に何かを伝え、看護師は慌ただしく病室を出て行った。
「え……なに、今の」
「ど、どうしたんでしょう、何かあったのかな」
万里が顔を引きつらせる。紬が不安そうに、看護師の出ていった扉を見つめる。
至は足を踏み出して、医師の元へ歩み寄った。
「先生、あの、何かあったんですか」
「え、ああ、いえ……その、どうも記憶が混乱しているようで、なぜ自分がここいいるのか分からないみたいなんですよ。自分は専門外なので、今担当医を呼びにやっています」
「記憶が、混乱……」
「事故のショックで、一時的なものなのかもしれません。えぇと……自分の名前は言えるかな」
医師は千景を振り向く。千景は少し首を傾げ考え込み、きょろりと辺りを見回し、ベッドの柵に掲げられた表を見て呟いた。
「卯木千景と書いてあります。それが俺の名前ですか?」
言えた、とは言っても、それを自分の名前として認識している様子はない。
「なに、も、覚えて、ない……ん、ですか」
至は震える声でどうにか言葉にし、訊ねる。千景が振り向いて、じっと見つめてきた。
「何も。きみは俺のなんなんだ?」
愕然とした。自分の名前も言えないような状態で、ある程度覚悟はしていたが、こうまではっきりと言われてしまうと、感情のやり場がない。
千景が、何もかも忘れてしまった。
ぐらりと視界が揺れる。崩れかかった体を支えてくれたのは万里で、それに甘えてしまいそうになった。
「……千景。全部忘れてる……?」
「千景さん、えっと、わたしたちMANKAIカンパニーっていう劇団で一緒にお芝居してたんですよ。みんな心配してます。覚えてないですか?」
密は眉を寄せ、いづみは眉を下げ、それぞれ千景に訊ねる。千景はふるふると首を振り、
「ごめん、思い出せない」
そう、小さく呟いた。
至は血の気が引いていく思いだった。自分のことはともかく、密のことまで忘れているなんて。千景は?をつくのが得意なペテン師だが、こんな状況でタチの悪い?を吐くような男ではない。
本当に、自分が何者なのかも分からないようだった。
「マジで忘れてんのかよ……」
「ど、どうしよう、一時的なものだといいんだけど……」
事故のショックが大きいのだろうと、紬は思いたいようだった。確かに、物理的にも精神的にも衝撃的なできごとで、普通の生活をしてきた人間なら、それも仕方ないかもしれない。
だけど、千景は普通の世界で生きてきた男ではない。
至が想像する以上の修羅場をくぐり抜けてきたのだろうことが、眉を寄せた密から伺いしれる。ただの交通事故のショックで、記憶まで飛ばしてしまうなんて思いたくなかった。
いくら千景でも記憶のコントロールまでできるわけはないと分かっていても、強靱な肉体と精神をしていると思っていたのに。
「ひ、ひそ……か、ごめん……」
至は俯いたままぼそりと呟く。密の顔は見ることができなかった。
千景自身が何よりも大切にしていた、密のことまで忘れてしまった。どれだけ腸が煮えくり返っているだろう。
「オレのことはともかく、至のことまで忘れるとは思わなかった、千景」
(……え……?)
密が、責めるように呟く。それは至が千景が密を忘れたことに対して思ったのと同じことで、自身のことには触れられない。
「お前が守りたかったのって、至なの、それとも自分なの」
言って、密は病室を出ていく。至は思わず後を追った。
「密! 今の、なに……どういう意味」
廊下で、呼び止めた密の背中に問いかける。守りたかったというのは、どういうことだろう。
「至……ごめん、アイツはただ、臆病なだけ……。オレたち三人の中で、いちばん情が深かった」
「三人……え、あ、……オーガスト、さん」
密は立ち止まって振り向き、こくりと頷いた。彼らがどうやって出逢い、どうやって暮らしてきたか、至は知らない。踏み込んではいけない領域だと思っている。
「……密は、怒ってる? 先輩が忘れちゃったこと。大事な家族なんでしょ」
「別に怒ってはない……でも、アイツが落ち着いたら、謝らなきゃいけないとは……思ってる」
「え、なんで……」
「オレも千景を忘れてた。再会するまで。再会しても、怖がって思い出すのを拒絶した」
あ、と至は思い出す。そういえば、密も記憶喪失だったのだと。
何がきっかけで、どこまで思い出しているのか至は知らないが、劇団の稽古や、彼の所属している冬組との関係性に、支障はなさそうで気にしていなかった。
「オレがあそこでのんびり暮らしてる間、千景もこんな思いをしてたんだって……気づいたから、怒っては、ない……寂しいのはあると思うけど、言ってなんかやらない」
ずきりと胸が痛んだ。記憶がない間、密の周りにはたくさんの仲間がいた。千景はそれを、どんな思いで見ていただろうか。
「至、ごめん……」
「なんで密が謝るの。俺だって、先輩を怒る気持ちなんかないし。突然一方的に別れられたことに関しては、怒ってるけど……今はそんなこと言ってる場合じゃない」
別れを切り出しておいて優しくするような無責任な男ではあるが、それと記憶喪失の件は別問題だ。
「日常生活には、たぶん問題ないと思う……オレがそうだったからって、アイツがそうだとは限らないけど。受け答えもしっかりしてたし、医者がいいって言えばすぐ出られる……」
「そっか……」
記憶喪失経験者――というのはおかしいかもしれないが、密がそう言うなら、千景の日常生活に関しては、それほど心配したことでもないのかと、肩の荷が下りた。
「じゃあ、オレは帰る……ここにはマシュマロがない」
そう言って、密はくるりと踵を返す。帰る理由が密らしいなと肩を竦め、至は病室へと戻る。
だがそうしても、やっぱり千景の記憶は戻らないままだった。
「物事に対する知識はしっかりありますから、生活に問題はないでしょう。自分自身と、周りの環境を覚えていないようで、一時的なのか、それとも長期的になるのか」
医師は言葉を濁して、いづみたちに説明をしていた。不安そうにする面々の中で、左京は比較的落ち着いて状況を把握し、今後必要なことを確認している。
ひとまず検査のためもあり入院は必要なようで、身の回りのものを準備しなければいけない。
「着替えなら俺取ってきますね。先輩、ほんとに私物ないんで、そこらへんは楽でいいわ」
「茅ヶ崎……お前、大丈夫か?」
左京なりに気を遣って、具体的な言葉にはしない。その気持ちはありがたいが、至は苦笑した。
「平気です。それと、あのことは内緒にしてくださいね。混乱させるべきじゃない」
「至さん、どこ――」
「いったん戻る。俺の車、パーキングだし。あ~……会社に連絡しなきゃいけないのか……明日出勤したら即だな……」
至も、千景に背を向けて病室をあとにする。心配して、紬と万里が追いかけてきた。
「至くん、ねえ、さっきの話」
「どの話?」
「とぼけんのかよ、別れたってやつ、マジなのか?」
「それと、千景さんには内緒にしておくっていうの、本気なの?」
エントランスへ向かう階段を下りながら、至はややあってうんと頷く。
納得していないとはいえ別れたのは事実だし、そのことを今の千景に言うつもりもない。
「見た? あの先輩が、めいっぱい不安そうな顔してんだよ。自分のことも分からない、周りには知らないヤツばっか。怪我までしてんのに、なにがあったのかさえ思い出せない。そんな状況で、なにを言えって言うんだよ」
首を傾げ、目を細め、不審げに片眉を上げて見つめられた。本当に知らない男を見るような瞳は、不安でいっぱいだった。後ろにいた万里たちには、それは分からなかったかもしれない。
「そりゃ、今は混乱させるだけだって分かるけどさぁ! アンタこのままでいいのかよ!」
万里の苛立った声が耳に届いて、至は自動ドアの前で勢いよく万里を振り向いた。
「いいわけないだろ! たった一度の初恋なんだぞ!」
万里が、紬が、息を飲む。
この先、もしかしたら恋をするかもしれない。千景ではない別の相手と。
だけどそれは初めての恋ではなくなるし、千景はどうしても至の心に住み着くだろう。
「でも、先輩が望むんだったら俺は忘れたふりして生きてくわ」
忘れてほしい――そう言ったあの時の千景の声が、まだ耳にこびりつく。
忘れてほしいと言った彼の方こそが、すべてを忘れてしまったのは、なんとも皮肉な話だ。
しかし、スイッチを切り替えるように、すべてを思い出させることなんてできやしない。
奇しくも自分たちは、客の前で別人を演じる舞台役者ではあるが、実際の生活では早着替えもシナリオも存在しないのだ。
「悪い、万里、紬。ちょっと一人にしてくれ」
それだけ言って、至は病院の自動ドアをくぐり抜けた。悔しそうに、寂しそうに二人が立ち尽くしているのは気配で分かったけれど、今の至には彼らを気遣う心の余裕がない。
だけど思ったよりも自分の足取りはしっかりしていて、千景が車を停めたであろうパーキングまで、たどり着くことはできた。
ひとまず精算と出庫を終え、寮へと向かう。
気づけば時刻は午前三時。
終電もとっくに終わっていて、この車がなければ人数的にタクシーを使うしかなかった。その点だけは、車を持ってきてくれた千景に感謝しておこう。無駄な出費はしたくない。
信号をいくつかやりすごして、横断歩道は特に慎重に走らせて、強くステアリングを握る。
自身の手にも巻かれた包帯が、現実を知らせてくる。
じんじんと痛み出す擦り傷が、胸の痛みにすり替わっていく。
運転している時にあまり考え事はしたくないと、できるだけ速く、それでも法定速度で車を走らせた。
寮の駐車スペースに着いてようやく、至はシートに体を沈めた感覚を味わう。
ステアリングから手を放そうとすると、ガチガチに固まっていることに気がついた。そんなに緊張していたのかとゆっくり息を吐き、吸い込み、止めて、唾を飲み込んでまた息を吐いた。
「……っ」
途端、あふれてくる涙。
「やば……ヤバい、駄目だ」
手のひらで目元を覆う。その手のひらがどんどん濡れていき、せき止めていられなくなり、?を雫が伝った。
――寂しい。
悔しさより、悲しさより、何よりも寂しさが先立つ。怒りなんてない。千景が千景であることを最優先した結果なのだと、納得したい。
至は腰を折って、ステアリングに額を当てる。ボタボタと滴り落ちる涙が、スーツにシミを作っていった。
「……っ、ふ、う……ぅ、うぅ」
――寂しい。
一度知ってしまった彼の温もりを、どうやれば忘れられるだろう。距離を置けば、口を利かなければ、いっそ彼のようにすべてを忘れられたらいいのにと、口の端を上げて笑う。
「せんぱい……そんなに、忘れ、た、かった、のかな……っ」
記憶の喪失は潜在意識と防衛本能だと何かで読んだことがある。
それが大学の講義資料だったのか、はたまたラノベだったのかさえ思い出せないが、それが本当なのだとしたら、千景は至とのことを忘れたかったということになる。
それが、千景が千景であるための衛りだというのなら、なおさら無理に思い出させることはできない。
混乱は混乱を呼び、取り戻せる記憶さえ閉じ込めてしまうかもしれない。
また一から始められるなんて前向きなことはまだ思えないけれど、受け入れるしかなかった。
ただ少しここで泣き納めだと、至はステアリングに爪を立て、声を殺して一人で泣いた。

 

 

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