カクテルキッス4-ふたりの約束-

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「茅ヶ崎っ……!!」
ド、と心臓を撃ち抜かれたような気分だった。いちばん始めに視界に飛び込んできたのは、何も映っていないテレビのモニター。黒い画面には千景の姿がぼんやりと映り込んでいた。
「あっ……」
先ほどまでの暗闇はなく、ルームライトの薄明かりが部屋を温かく包み込んでくれている。千景は恐る恐る自身の手を見下ろした。手にも、シーツにも、血などついていない。
「は、あ、っはあ、はぁ……っ」
夢、だったのだと、ようやく呼吸をした。
けれど。
あるはずのものが、ない。
あのはちみつ色の髪。いくつもの赤い花を散らしたあの白い肌。抱いていたはずの恋人の姿がない。
千景は青ざめて、ベッドを飛び降りた。
「茅ヶ崎!」
考えたくない。もうあんな思いはしたくない。あれは夢だ、夢でしかない、現実になどさせやしない。
どうか、――どうか、かみさま。
「あれっ、先輩起きちゃったんですか」
バスルームの方から、ローブを羽織った至が顔を出す。それはいつもと変わらない笑い顔で、どこにも怪我などしていないように見えた。
「珍しいですよね、先輩が寝こけちゃうなんて。お疲れだったんです?」
そう言って歩み寄ってくる動作にも、なんの違和感もない。千景は震える手をどうにか持ち上げて、彼の喉に触れてみた。傷はない。触れても、血の流れた痕はない。
「先輩?」
「茅ヶ崎……っ!」
間違いなく夢だったのだと、指先に触れる温もりが教えてくれる。だけどそれだけでは足りなくて、強く抱き寄せて唇を塞いだ。
「んんっ?」
突然のことに驚いたのか、くぐもった声が鼻から抜けていく。シャワーをしていたのか、しっとりと濡れた唇を舐めて、強引に入り込んで、舌を捕らえた。呼吸を奪って、隙間を埋めて、押しつける。
「ん、はっ……ぅ」
乾いていない髪に指を梳き入れて、強く力を込める。離れていたくない。茅ヶ崎至という男を、この腕の中に感じていたい。
「茅ヶ崎……茅ヶ崎」
「わ、ちょっと、せんぱ……んぅっ」
そのまま傍のベッドに二人で倒れ込んだ。スプリングのバウンドをお互いの体で相殺して、千景は至の素肌に手を滑らせる。傷ひとつない、きめ細やかな肌に。
「ん、んむ」
その間にも手のひらは、指先は至を暴いていく。ぎ、とベッドが軋んで、至の指先が肩に回ってくる。驚きはしているようだが、拒む様子はなくてホッとした。もっとも、拒まれても強引に押し進めていただろうが。
「茅ヶ崎」
「っも、先輩、なに……ちょっと乱暴……っ」
「悪い、抱かれて」
「あっ、待っ……!」
肌に吸いついて、喉に痕を残す。そうしてから失敗したと思った。喉の赤い痕――どうかすると血痕に見えてしまう。
それを視界に入れないようにと、千景は至に覆い被さって、体で押さえつけて彼の体を性急に暴いていった。
「先輩待って、あの、んっ……ふ、う」
待ってやれない。至がこの腕の中にいてくれる時間をひとときも逃したくない。声を、体温を、汗を、匂いを、欲をすべて飲み込んでしまいたい。たとえこれで嫌われてしまってもいい、生きているということを、この体ぜんぶで確認したいのだ。
肩に立てられる爪の痛みも、安堵に変わっていく。のけぞる体を追って抱きしめ、何度も何度も突き上げた。髪があちこちに揺れ、汗が飛び散る。絶え絶えに呟かれる呼称にぞくぞくと背筋を震わせ、もう一回、もう一度、とねだってイかせた。
手を貸してと言われても、応えられずに夢中でむさぼっていたら、至の足を抱えていた手を引き?がされて、手のひらを重ね、指を絡められた。そこでやっと彼の望みを理解し、愛しさがこみ上げる。ようやく優しいキスを降らせて、何度も中に流し込んで、もう無理だと音を上げて気を失った至から、自身を抜いた。
間違いなく生きている至の髪を撫で、口づける。
茅ヶ崎至という男が恐ろしい。
こんなふうに、周りが見えなくなるほど激しい想いを、彼は受け止めてしまう。
こんな感情が自分の中にあったことも驚愕だが、至はそれを包み込んでしまう。だからこそ、甘えてしまうのだろう。
「冗談だろ……」
千景は頭を抱えて細く息を吐き出した。
恋なんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。相手の一挙一動に右往左往して、顔を赤らめて青ざめさせて、他のことが何も見えなくなるなんて、そんなこと、愚かの極みだと思っていた。
それを、茅ヶ崎至は長くない時間で覆してしまった。
失いたくない。巻き込むわけにはいかない。
それは分かっているのに、この手を離せない。
叶わないと思っていた恋が叶ってしまったから、余計にずぶずぶと沼にはまり込んでいくようだった。
だが、あんな思いはもう二度としたくない。
夢だと分かった今でさえ、思い出すとこんなに寒気がする。
至は、千景にとって弱点になり得る。
いや、もう手遅れだ。至の存在が組織に知られたら、上の連中はまだしも、自分の存在をよく思っていない連中には恰好の標的だ。
エージェントとしてそれなりの成績を残してきた。それをよく思わない――有り体に言えば、嫉妬とプライドを〝任務遂行〟というシートにくるんでぶつけてくる連中がいる。
そんなものを気にしたことはなかったが、それがまた彼らの神経を逆なでするのだろう。
「どうすればいい……どうやれば、茅ヶ崎を」
守り抜けるのか。
二人きりの時以外は、仲のいい劇団仲間として接して、職場では極力接触を控えるべきか。
劇団の仲間たちにも、絶対に知られてはいけない。知られれば知られるだけ、秘密が漏れる。
(知っているのは、万里と……紬か。あと、密。……アイツに頼めば、茅ヶ崎のガードくらいしてくれるだろうか。いや、だが……アイツこそ巻き込めない。組織のことに、関わらせるべきじゃないんだ。これは、俺が全部処理しないと)
自分一人では、至を守りきれないかもしれない。四六時中傍にいられるわけではないのだ。状況が許すなら、そうするところだが、と苦笑した。
(俺は、茅ヶ崎を閉じ込めたいわけじゃない。あの時……ザフラで俺の助けになろうとしてくれた茅ヶ崎を、そんなふうには扱えない。惚れた男のひとりも守れないで、何が〝約束〟だ)
密と、約束をしている。あの劇団はなにがあっても潰させない。メンバーの誰も傷つけさせない。守り抜いてみせると。
閉じ込めて守れるのは、肉体だけだ。
感情が渦巻く舞台を演じる魂と熱い心は、閉じ込めていては死んでしまう。ゲームがいちばんだと言う至も、芝居は別物らしい。それは、千景自身よく分かる。
(茅ヶ崎……)
いったいどうすれば。眉間に深くしわを寄せて考え込む千景の傍で、至が寝返りを打つ。ぶつかった千景の腕に、当然のようにすり寄ってきた。千景は目をぱちぱちと瞬いて、すっと細める。
温もりを求めているのは自分だけではないのだと、無意識下でも教えてくれる至を、心の底から愛おしく思った。

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