カクテルキッス4-ふたりの約束-

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しんどい。
至がそうこぼしたのは、千景が退院してから四日目のことだった。
万里はゲームの共闘に付き合いながら、どう声をかけていいか迷う。
「こんなにランク下がったの初だわ」
「そっちかよ」
項垂れつつも手は止めない至が、低くそう呟くのに呆れて、だが安堵もしてしまった。
恋人が記憶をなくしているという状況は、どんなに寂しいだろうかと思っていたのに、ゲームのランクの方が彼に取っては重要らしい。
(あ、別れてんだっけ。とてもそうは思えねーけど……何が原因だったんだろ)
千景が事故に遭う直前に、彼らは関係を解消していたのだったと思い出し、至があまりダメージを受けていないように見える違和感を拭う。
「千景さんどこ行ってんの?」
「なんで俺に訊くんだよ」
「ルームメイトじゃん」
「じゃあお前、十座が今どこで何してるか知ってんの?」
「は? 知ってたら怖ぇわ!」
「俺だって先輩の全部知ってるわけねーじゃん。たぶん病院かなとは思うけど。検査」
何だかんだで把握していることを、至は気がついているだろうか。千景の怪我の経過は良いようで、痕もさほど残らないとか。
だけど記憶は一切戻っていない。
談話室で、中高組の宿題を見てやっている場面に遭遇したが、以前と変わらない光景に思えたし、カレー地獄も最初不思議そうにしていたが、もうすでに受け入れているように見えるし、他の団員たちも遠慮などしていないように感じた。
以前と違うところがあるとすれば、まだ職場に復帰していないのと、至との関係性だろう。
「正直……このままでいいかなって思うんだよね」
至は、万里のそんな心配を読んだかのように、ぼそりと呟く。ちょうど最後の敵キャラを倒したところで、お互いが手を止めた。
「でもアンタ、千景さんのことまだ好きなんだろ」
「まあ、そうなんだけど。なんていうかさ、前とあんま変わんないっつーか。いやむしろ先輩が俺を甘やかしてくるっていうか」
「のろけか」
至が言葉に詰まる。万里はぱちぱちと目を瞬いた。
てっきり否定されると思っていたのに、至は気まずそうに視線を泳がせるだけ。
「勘違いかもしんないんだけど、先輩からの視線が甘ったるいっていうか、その……いくら俺でも気づくっていうかさ」
「あ~、なる。千景さん、至さんのこと好きなんだな。確かに前より雰囲気柔らかくなったっつーか、そういうのはあるかも」
愛されてんじゃん、と言いかけて、万里は首を傾げる。
「アンタら、なんで別れたんだ?」
「知らんわ」
記憶をなくしても、また至に好意を寄せているようなのに、どうして千景は、至を突き放したのだろうか。何かやむを得ない事情があったのかもしれない。
「でもまあ、ヨリ戻すにしたって、千景さんには前のことちゃんと話してからの方がいいんじゃね?」
「……あぁ、そうだな……」
至の顔が曇る。声が沈む。
千景からの好意は嬉しく思っているようなのに、ヨリを戻さないのはなぜだろうか。前のことを話せない理由がさっぱり分からない。
今までずっと片想いだと思ってきたせいで、千景からの明け透けな好意を楽しんでみたいのだろうか。
「上手くいくといいな」
「……サンキュ」
苦笑する至の頭をぽんぽん叩いて、激励をしてやるくらいしか、今はできそうになかった。

千景からの好意には気づいている。優しい目でずっと追いかけられれば、誰だって気がつくだろう。そういう視線には慣れているし、何より交際していた実績があるのだから。
至の方も、万里に言われた通りにまだ千景のことが好きで、大好きで、できれば以前みたいな関係になれたらと思っている。
だけど、そうするにはまず以前のことを話さなければならない。
セフレだったこと、片想いだと思ってきたけど実は両想いだったこと、恋人同士になれたこと、そして――突然別れを告げられたことなどを。
至はベッドの上でごろりと寝返りを打ち、小さく息を吐いた。
話すとなれば、ザフラでのできごとをごまかすことができない。綴のように、話を構成する力があれば別だったかもしれないが、隠したまま千景を納得させるだけの話術がない。
ザフラでのことを話すならば、千景の裏の仕事も話さなければならないだろうか。
踏み出せないいちばんの理由はそこだった。
「う……」
至は、自分のではうめき声に気づいて、顔を上の方に向ける。そこは千景が寝ているベッドだ。
「先輩」
至は体を起こして、千景の状態を確認する。胸の辺りでシャツを握りしめ、不快そうに歯を食いしばっているようだった。
「先輩、しっかり」
ベッドの仕切りから乗り出して、千景の肩を揺さぶる。
千景は、寮に戻ってきてからずっと、うなされている。もしかしたら、病院でもそうだったのかもしれない。夜眠るのが怖いと言っていたこともあるし、明らかに安眠ではない。
「千景さん」
至は少し大きめの声で彼を呼び、ぐっと肩を掴んで強く揺さぶった。
「あ……っ」
それで気がついた千景が、勢いよく目を開けて起き上がる。荒い呼吸で空気が揺れて、肩が上下しているのが見えた。起こしてくれたのが至だと認識してからは、それが次第に落ち着いてくる。
ずっとそんなことの繰り返しだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「至……俺、またうなされてた……?」
「盛大に。怖い夢でも見たんですか」
「……思い出せない。真っ暗だったことしか分からない」
目を覚ました後は何も覚えていないようで、ただ不快さと不安だけが残っているのだという。
「至、ごめん、起こした……」
「いえ、まだ寝てなかったし。平気ですよ」
「あの……さ、至」
肩を撫でて落ち着かせようとした至の手を取り、ぎゅっと強く握ってくる。
「なんですか?」
「め、迷惑かもしれないけど……傍にいてほしい。いなくならないでくれ……」
至は目を瞠る。これはいったいどいう感情からのものだろうかと。不安からなのか、それとも純粋に恋心からなのか。
「……大丈夫ですよ、ここにいますから。何度でも起こしてあげるんで、眠ってください」
「うん、ありがとう……」
千景は大きく深呼吸をし、再びベッドに寝転がる。
それを確認してから、至も布団に潜り直して、皮肉なものだなと唇を引き結んだ。
劇団内の誰よりもいなくなりそうな男が、「いなくならないで」とは。
記憶がない不安は、そこまで彼をむしばんでいるのか。
(傍にいてほしいなんて……あの人なら絶対に言わなかっただろうな……でも、心のどこかで、そう思ってくれてたのかも)
みんなの前では普通にしている彼だけど、うなされ方は日に日にひどくなっているような気がする。起きたあと、必ず自分の手のひらを確認しているのは、血に濡れていないかを確かめているかのようにも思えた。
記憶をなくしても、あの組織は千景の平穏を邪魔してくれる。
憎たらしいと、よく知りもしない組織に悪態をついて、至も浅い眠りに就いた。

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