華家
-HANAYA-
好きなものを好きな時に
No.390
千至WEB再録 2018.10.07
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。 寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて…
千至WEB再録
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さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。
寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて朝食をとって、今日は電車で出勤してきた。
座れないのもしんどかったが、この状態で車を運転する気力も、安全性もなかったのだ。
そういえば、朝食も無理やり詰め込んだような状況で、若干消化不良ぎみ。
時間が経つにつれて、体の痛みが増しているような気がした。腰と、肩と、足の付け根。
今日は、どんな顔をして千景に逢えばいいのかと考えると、恋をしているにも関わらず、彼に逢いたくないなんて思ってしまう。
ため息交じりにデスクに肘をつけば、袖口から手首が覗いてハッとする。慌てて手首を下ろしたのは、拘束された痕がついているからだ。
右手首はどうにか時計で隠せたが、左がどうにもならなかった。場所的に、包帯を巻くわけにもいかない。余計な誤解を生んでしまう。リストバンドなど持っていないし、そもそもスーツには合わない。
今日一日隠し通せれば土日の連休に入るし、気をつけていなければ。
パソコンの電源をつけて、必要なファイルを開くも、少しも頭に入ってこない。このファイルで何をしなければいけないのだっけと、初っぱなから躓いた。
数字が、文章が、混ざって頭の中に入り込んでくるようだった。
(思ったより……ショックだったのかな)
最近、千景の触れてくる手が優しくなっていた中での、あの行為。
優しさを、変に勘違いしたら駄目だと思っていたはずなのに、どこかで期待していたのだろうか。
心臓が痛い。こんなことになるなら、気づかなければ良かった。
(恋とか、馬鹿みたいだし……先輩の中には、俺の居場所なんかない)
至は髪をかき混ぜて、はあーと長く息を吐く。
千景の中には、大事な人がいる。〝オーガスト〟という、八月の名を持った人。口にさえさせてくれない名を持つ人だ。
その人以外は必要ないとでも言わんばかりの、千景の壁は、越えられない。触れることさえ許してくれない。
(……え、でも、待って……先輩昨夜、アイツを殺したお前が、とか言ってなかったっけ)
あまり思い起こしたくないことだが、ふとあることに思い当たる。千景が口にした、〝ディセンバー〟という音。ディセンバーとやらに似た人が、劇団の写真の中にいたのだと推察するしかなかったが、それ以前に重要なことがあった。
(殺した……? ディセンバーが、もしかして、オーガストさん、を……?)
さっと血の気が引いていく。
殺した、殺された、という単語はひどく非日常的で、実感が湧かない。ゲームの中でならまだしも、至の日常にそんな危険な言葉は飛び交わない。
(オーガストさん、亡くなってる、の、か……?)
そんな非日常の真実がどこに在るのかはさておき、ひとつ、大事なことがある。
千景が、あんなにも悲痛な声でオーガストの名を呼んでいたのは、もう逢えない相手だからではないだろうか。
(だから、あんなに……)
その仮定は、千景の昨夜の様子で確信に近づいていく。
ディセンバーに似た誰かを見て、オーガストを亡くしたことを思い出してしまったのかもしれない。
ディセンバーがオーガストを殺したというなら、憎くてたまらないだろう。
どうして生きているんだと言っていたような気がする。オーガストがいないのに、どうしてのうのうと生きているのだと。
(……先輩……大丈夫かな……それに、もしかしたら、ディセンバーって人も、元は友達だったりしたんじゃないのか? だって、八月に十二月ってのがあだ名だとしたら、仲悪い人たちに似たようなのつけないだろ)
至は、ぐ、と唇を噛んだ。ファイルを見るのは諦めて目を閉じ、千景を想う。
胸が痛い。心臓を直に握られているかのように、痛い。
これは至の推測にすぎないが、大切なオーガストが、大切にしていたかもしれないディセンバーに殺された――その絶望は、どんなものだろうか。
オーガストの存在を知ったとき、なぜ千景の傍にいてくれないのかと思ったが、そんなに単純なものではなかったようだ。
千景の孤独は、簡単には癒やせない。
会社の後輩でしかない至では、ただのセフレでしかない至では、到底無理な話だ。千景の心に入り込めないのは最初から分かっていたが、願うことさえ難しいのかもしれない。
千景が、幸福でありますように。
(祈るだけなら、簡単だよ……!)
千景の心の傷をえぐるトリガーを引いたのは、自分なのかもしれないと思うと、心臓がズキズキと痛んだ。
劇団に、ディセンバーに似た相手がいるなんて知らなかったし、オーガストがもういないのも知らなかったことだが、きっと千景を傷つけてしまったに違いない。
(顔……合わせづらいな……先輩、今日出張とかあればいいのに)
先ほどとは違う理由で、千景に逢いたくないと思ってしまう。昨夜のことをなかったことにはできないのに、記憶をごっそり抜き取ってほしいなんて祈ってしまった。
「茅ヶ崎くん、顔色悪いけど大丈夫? 体調悪そう」
隣のデスクから、同僚が声をかけてくれる。至はハッとして顔を上げ、笑顔を貼り付けた。
「あ、平気です、今日終われば休みだし」
「今日外出予定とかある? あ、ないのか、デスクワークならまだマシかもね。あんまり辛かったら課長に言って帰った方がいいよ」
「ありがとうございます」
そうは言うものの仕事はたまっていく。月曜に持ち越したくないものばかりで、至は軽く拳を握ることで、意識を仕事モードに戻すことにした。
そうして、なんとか昼休憩まで過ごしたわけだが、ランチをどうしようかと悩む。
無理やり詰め込んだ朝食のせいか、空腹感はないし、食欲も湧かない。そもそも立つことさえ億劫なのだが、これを逃したら定時までキツいだろうと、体にムチをうって立ち上がった。
ひとまずコンビニでも行って、適当にサンドイッチでも買おうとエレベーターの方へ向かう。そこで、聞きたかった、聞きたくない声がかけられた。
「茅ヶ崎」
びく、と体が強張る。振り向かなくても分かる、卯木千景の声。
「お、はよ……ございます」
「ちょっと、こっち来て」
「え?」
顔を合わせづらくて、視線を逸らしたままで千景に答えれば、腕を掴まれて非常階段の方へ歩かされる。
肩の痛みはまだあって、腰の鈍痛や脚の付け根の違和感で、相当歩きづらかったのだが、人の波に逆らうように千景の後を追った。
非常階段のドアを開けてすぐの踊り場で、ようやく腕を解放してもらえる。やっぱり昨夜のことを怒っているのかと、至は歯を食いしばった。
「あ、の……」
「これ、ホテルの洗面台に置き忘れてたぞ。コンタクト」
何を言われるかと思えば、どうやら忘れ物を届けてくれたらしい。ワンデータイプの箱を、置き忘れてきていたようだ。
「あ、す、すみません……」
至はそれを受け取って、ホッとした。気まずさはあるけれど、千景は概ね普段通りでいてくれる。
「……茅ヶ崎、ちょっと訊きたいんだけど」
「はい?」
「昨夜のこと、その……」
「あ、あの、すみません、俺、余計なことしたかもしれないですけど、できれば、忘れて、くれると……」
やはり話題は昨夜のことになってしまって、早口でまくし立てた。
忘れてほしいなんて言うのは、無責任だと分かっているが、言わずにはいられない。
千景を傷つけただろうことを、自分自身も忘れてしまいたい。
「……茅ヶ崎? それ、忘れなきゃいけないようなことが……あったってことか?」
「え?」
「昨夜のこと、ほとんど覚えてなくて――」
目を瞠る。
(な……に? 何言ってんの、先輩)
記憶をごっそり抜き取ってほしい、と祈ったのは事実だが、千景が本当に何も覚えていないなんて。
そういえば珍しく寝入っていたし、状況を考えれば、相当なショックがあったことは、理解ができる。
「なんだかひどく疲れてるみたいだけど、俺……そんなに無茶させたのか? 悪い、そんなふうにしたのに、覚えてないとか」
千景から発せられる気まずさは、覚えていないことに対する後ろめたさだったようだ。
「だ、大丈夫です」
「でも、ふらふらしてるぞ。仕事、できてるか?」
「……はい……」
至は次第に俯いていく。
忘れてほしいと思ったものの、本当に全部忘れられてしまうのも寂しいなんて、身勝手なことを考えた。
(なにこれ……)
傷ついたことは忘れてほしい。だけど、ひどい行為でも熱を分けたあの時間のことは、忘れてほしくなかったのだと気がついて、きゅっと唇を噛みしめる。
「しんどいなら、医務室へ」
「――千景さん、ちょっとだけ、寄りかかってもいいですか……」
「ああ」
立っているのがそれほど辛いわけではなかった。だけど千景は、迷いもせずに抱き寄せてくれる。至は千景の肩に額を預け、ゆっくりと、小さく、息を吐き出した。
(忘れてるんだ、本当に……)
千景と呼んでも、何ら変わった反応を見せなかった。昨夜「お前には許可してない」と言ったはずなのに、呼ばせてくれる。
(忘れよ……その方がいい。先輩が忘れたいなら、俺が覚えてたってしょうがない)
オーガストという名も、ディセンバーという名も、心の奥底に閉じ込めておこう。
至はそっと目蓋を閉じて、スーツ越しの体温を感じた。
「もう、大丈夫です。お昼ご飯の時間なくなっちゃいますから、行きますね」
そうして千景の体を押しやり、にこりと笑ってみせる。
「茅ヶ崎」
心配そうな顔をする千景を押しのけて、フロアに出るドアノブを握った。
そのまま千景の傍を離れるつもりだったが、突然腕を掴まれて、叶わなくなる。
「……これなに、茅ヶ崎」
千景が、至の手首を胸元まで引き上げる。引きつるような痛みに顔をしかめたが、もう隠す余裕がない。
「なんでこんなのついてるんだ」
時計で隠せなかった左手首、時間が経って濃くなってきてしまった拘束の痕。
うかつだったと後悔しても、もう遅い。千景が気づいてしまった。
「もしかして、俺が……?」
千景は眉を寄せて、思い出せない昨夜の行為を思い出そうとしているようだ。
至は掴まれた腕を振り払って、こんなのは何でもないとまっすぐに千景を睨(ね)めつける。
「覚えてないなら、別に構いませんよ。気にしないでください」
「そんなわけにはいかないだろう、おい茅ヶ崎!」
「俺が頼んだからとか、考えないんですか? 先輩にとって、楽しくはなかったんだろうなって思うだけですけど」
千景に、思い出してほしくない。どうしてあんな乱暴な行為に至ったのか、認識してほしくない。
こんな、いつか消えてしまう傷なんかより、千景の心につくだろう深い傷の方が耐えきれない。
「じゃあ、ホントに食いっぱぐれるんで、行きます。コンタクト、ありがとうございました」
言って、まだ納得していなそうな千景を振り切る。階段のドアを閉めて、無理に足早に踏み込んだ。追いかけてこないところをみると、この傷のことを気にしてしまっているのだろうと推察できた。
(覚えてないなら……その方がいいのに。でも、もし思い出したら、先輩の傷に、俺でも少しは関われるのかな、とか……馬鹿みたい。みたいっつーか、馬鹿)
オーガストのことを、ディセンバーとやらのことを考えるたびに、千景は傷を深くしているに違いない。もし昨夜のことを思い出したら、必然的に傷が深くなる。その原因に、自分が少しでも関われる。
傷ついてほしくないと思う傍らで、その傷に触れていたいとも思う。相反したふたつの気持ち。
至は再度エレベーターの方へ向かい、どうしたらこの気持ちが消えてくれるのかと、ぼんやり考えた。
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