- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
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俺のCandy Star!-035-
そっと肩を抱き、万里は紬と視線を合わせる。
いい? と小さく囁いてくる万里に、紬はほんの少し躊躇ってから、目蓋を落とした。
(大丈夫、万里くん上手いし。……平気)
そのまま待機していれば、万里の口唇がそっと重なってきたのが分かる。
ぴく、と指先が強張ってしまったけれど、気づかれただろうか。きっと分かってるんだろうなと思いつつ目蓋を持ち上げれば、万里の瞳と出逢ってしまった。慌てて目を閉じると、万里の体が離れていってしまう。
(え、あれ? す、するんじゃないの……?)
不思議に思って再度目蓋を持ち上げたら、困ったような表情の万里がいた。もしかして今の態度が気に障ったのだろうかと、紬はシャツの裾をきゅっと握った。
「万里くん……? しないの?」
「そりゃ、俺はしたいけど。ほんとにいーのかよ? そんなガチガチに緊張してて。嫌なんだったら、……しねーからさ」
紬は驚いて目を丸くした。
緊張しているのは事実だが、イコール嫌だというわけではないのに。
摂津万里という年下の男の子は、いつもこうして確認してくる。いきなり押し倒されるよりはずっといいけれど、なぜこの件に関することだけ、万里は自信がないのだろう。
「嫌だなんて……言ってないよ? あ、でもいいとも言ってないのか。ごめん……万里くんだから、言わなくても態度で分かると思っちゃった……」
「え、だから、態度で」
「嫌じゃなくても緊張はするじゃない。幕が上がる前とか、楽しいけど緊張するでしょ?」
「その例え」
紬さんらしいけど、と万里は笑う。それでも、いつもの自信に満ちたものではなかった。
紬は、どうすれば彼が安心して触れてくれるのかが分からない。
万里の不安がどこにあるのか分からなければ、それは紬にも伝染する。
自分が慣れていないから、万里に負担をかけてしまっているのではないか。自分がはっきりしないから、好きではなくなってしまったのではないか。
「俺、ほんとに紬さんのこと好きなんすよ。だから……嫌なことはしたくない」
珍しく視線を逸らして、眉間に皺を寄せて、決まりが悪そうに呟く。
紬はそんな万里には申し訳ないが、ホッとした。少なくとも、好きでなくなったわけではないのだと。
万里の気持ちは何度も聞いていたのに、やっぱり不安というものは伝染するのだろう。
ならば、逆もしかり。
「あのね万里くん、確かに俺まだ、その……慣れたわけじゃないんだけど……ただ、万里くんが一生懸命俺を好きでいてくれるんだなって、そういうの伝わってきて、嬉しいから。大丈夫だよ」
マイナスの思考が伝染するなら、プラスの思考も伝染したっていいはずだ。紬は万里の頬を包み正面を向かせ、じっと瞳を見つめ呟いた。
「……嫌じゃないすか、俺とするの」
「嫌じゃないよ。ほんとに嫌だったら、きみを殴り倒していくことくらい、えーと……できると、思う……一応俺も男だし……」
「いやその前に拳止めっし。でも、じゃあ……殴る素振りさえ見せないってのは、そういうふうに捉えていいんすよね」
うん、と紬が頷くと、万里は嬉しそうに笑った。いつもの自信満々なものでなく、他人を落ち着かせようとしてのものでなく、子供のような笑い顔。
時折見せてくれるそんな表情を、紬は好ましいと思っていた。
(もう、万里くんは。大人っぽいのか子供っぽいのか、どっちかにしてくれないと、困るな。……かわいくて、困るな)
「紬さん、もっかい訊くけど、……抱いていいっすか」
「……はい。あっ、でもちょっと待って、ごめん!」
念を押すためにか、万里が確認してくる。それに合意を返しておきながら、紬は慌てて万里との間に手のひらを差しいれて接触を控えた。
「なん……っすかぁこのタイミングで! なに焦らしてんの!?」
万里は当然出鼻をくじかれて項垂れる。今さら駄目だと言われても、気持ちはもう止まらないのに。
それは紬にもある程度分かっていて、だからこそ謝ったのだが、万里は聞き入れてくれるだろうか。
「あの、ごめん、するのがどうとかじゃなくて、いつもの……言ってほしいだけ」
駄目かな? と小首を傾げると、万里がぽかんと口を開けて、次いで噴き出した。
「ぶっは、なにそれ、なにそれアンタもー、可愛い通り越してマジ可愛い」
「……同じじゃない……?」
「違うの。好きだぜ紬さん。大好き」
可愛いとマジ可愛いの違いが分からなくて、困ったように首を傾げる紬に、万里はいつもの調子で呟いた。
紬はそれに、ホッとして目を細め、そして閉じた。
万里から何度も聞いた恋の告白。だから彼の気持ちを疑っているわけではない。
疑ってしまうのは、万里に好きでいてもらえる自分であるのかどうか。それを確認するように、紬はいつもその言葉を求めてしまう。
だけど万里はそれを気にした風もなく、いつも嬉しそうに伝えてえくれる。それに甘えてしまっているのは自覚していて、だからこそ、求めてくる万里には応えてあげたい。
万里の口唇がそっと触れてくる。
最初のキスよりお互い心構えができているせいか、緊張はそれほどなかった。
「ん……」
万里はゆっくりと口唇を押し当て、押しつけ、離す。そうして右端に、次に左端に、ちゅっと音を立てて触れた。くすぐったい、と紬が身をよじるのを見越していてだ。
案の定、笑いながら肩を押しやったら、その油断した隙にすっぽりと口唇を覆ってくる。
下の口唇を食み、上の口唇に挨拶をし、舌先で丁寧に舐める。端から端まで、ゆっくりと。開いた桜貝の中に押し入って、紬の舌を探し当てて舐ねぶった。
「んっ……ぁ」
(キスは気持ちいいんだけど……やだな、この声。万里くん、嫌じゃないかな……)
万里はあの日から本当に、キャンディみたいにいろいろなキスをしてくる。
ゆっくりと触れるだけのもの、不意打ちに頬や額へするもの、息ができなくなるような、深いもの。
そのどれもが紬には気持ち良くて、毎回変な気分になってしまう。気持ち良くてしがみつきたい思いと、こんな声を出してしまって、嫌われやしないかという思いがない交ぜになって紬の心をかき乱す。
「紬さん、好き……」
だけどそのたびに、万里からそっと漏れる声。この胸の内に気づかれているとは思わないから、万里が宥めるために言ったのではないと分かる。
きゅう、と胸が締めつけられて、万里の背を抱かずにはいられない。
嬉しい。
すんなりと入り込んでくるその感情。それを伝えたくてか、無意識にか、紬は自ら万里と舌を絡めた。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-034-
案の定、紬の姿を中庭に見つける。自身が世話をしている花たちに、今日の報告をしていたのだろうか。
「つーむーぎーさん」
「あっ、万里くん」
「なにやってんすか、今日の主役がこんなとこで」
声をかけると、紬は振り向いて笑ってくれる。
控えめな印象は抜けないが、入団当初の自信喪失していた紬とは、まるで別人のようだった。
「んー、熱気にあてられちゃって。みんなすごいんだもん」
「あーそうだな、大人組なんか、あれぜってー朝までコースだぜ」
紬が世話をしている花壇の前で、万里は隣に並ぶ。
少しの沈黙のあと、先に口を開いたのは紬の方だった。
「今日、どうだった?」
「愚問じゃね? 結果が物語ってんじゃん。前楽みたいな演技だったら、あんなに票はもらえねーよ」
「うん、それは分かる。……万里くんが、どう思ったかなって」
「俺? やっぱすげーなって思ったよ。アンタ自信なさげな顔して、ああいうときクソ度胸があんだな。ミカエルが彼女を好きだっていうのが、すっげぇ伝わってきたし。身内っていうひいき目抜いても、結末知ってても、ミカエルの恋が叶うといいなって、マジで思ってた」
あの広い劇場で、客席全部を巻き込んでいった紬たちの世界。
そこに居合わせられたことが幸福だった。
恋を知る前には、ラブストーリーなんて、しかも悲恋なんてつまらない、退屈だとさえ思っていたのに、紬はそれを根本から変えてしまったのだ。
「同時に俺は、ミカエルみたいな恋はできねーなと思ったよ。見てるだけなんて、マジで無理。相手が幸福ならいいとは思うけど、俺がミカエルだったら、議会も何もねじ伏せて人間界に降りて、規則なんざ知るかって彼女と出逢う道を選ぶ。触れたい、好きになってもらいたい、恋人になりたい。そう思うのは、俺が今人間だからかもしれねーけどさ」
清らかなイメージの天使なんて、万里にはできない。そっと目蓋を伏せ、持ち上げて、紬に向き直る。
「俺は真剣に、アンタが幸せならいいと思う。でもできれば、俺が幸せにしたいんだ。紬さん、今好きな人がいねーなら、俺、アンタのカレシに立候補してもいいっすか」
初めて恋を告白したあの日、紬は真剣に捉えてくれなかった。
今、同じ言葉で紬に告げる。
顔だけで振り向いて、紬は困ったように笑った。
無理か、と思った万里に、追い打ち。
「好き、まではいかないけど……気になってるひとがいるんだ」
「……俺、全然望みねーの? どんな人?」
「優しい子だよ。趣味っていうか、好みも全然合わないんだけどさ、一緒にいると楽しいっていうか」
「…………そっか」
「それでね、俺が落ち込んでる時とか、連れ出してくれるんだ。こういうとこ好きかと思ってって」
「…………え?」
(それって)
花壇の花を見下ろしたまま、紬が続ける。万里は、言葉を詰まらせた。それは万里がよくやっていることではないのか。
「俺はその子と美味しいコーヒー飲むのが、今とても好きなんだよね」
「つ、むぎ、さん……?」
紬が体の向きを変えて、正面から万里を見つめてくれる。紬が言わんとしていることに気がついて、万里は顔を幸福そうに歪ませた。
「昨日きみが俺を見つけてくれたときは、本当に嬉しかったよ、万里くん」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、思わず両腕を伸ばして紬を抱き締める。
「紬さん……!」
昨日は片腕でしか触れられなかった。今日はきちんと両腕で。
「紬さん、嬉しい、俺今すっげぇ嬉しい……!」
「あっ、あの、あのね万里くん、ここ中庭っ……」
中庭なんかで告白を受け止めておいて、紬は今さら慌て出す。
だけど万里も今紬を放す気はなくて、両腕にぎゅうっと力を込めた。
「大好きだ、紬さん」
もう何度目になるのか分からない。
紬は万里の気持ちを受け止めてくれた。「好き」まではまだいってないらしいが、そんなものすぐにオトしてみせる。
「あの、あのね万里くん……俺あの、あんまりこういうの慣れてなくて……万里くんに任せるしかなくなってくるんだけど、いいのかな」
万里の腕の中で少し身じろぎながら、紬が気まずそうに口にする。万里はようやく腕の力を緩めて、じっと紬を眺めた。
「俺に任せたら、しょっぱなからすっげーことになるけど?」
「ゆっくり! ゆっくりでお願いします……」
「あはは、ジョーダンだっての。俺だって、無理強いしてぇわけじゃねーし。ならひとまず、――キスから?」
「場所! 中庭っ……!」
「みんな打ち上げだって。な?」
万里は顔を真っ赤に染める紬に笑って、両の頬をそっと包む。
視線が左に泳ぎ、右に泳ぎ、仕方ないなあというため息のあとに、紬はそっと目蓋を落としてくれた。
その仕草にさえ胸をときめかせて、紬が混乱しないように、ゆっくりと口唇を触れ合わせる。
夢に見た。
だけど、感触までは追えていなかったのだと気づいて、押し当てる力をさらに強くして、紬を味わった。
「紬さん……もう一回……」
「……ん……」
押し当てて、離れて、口の端に、反対側に、真ん中に、触れていく。
紬の腕が万里の背を抱いてくれて、緊張がほぐれたことを知った。
「ふぁ……っ」
調子に乗って口唇を開けさせてみるけれど、紬からは小さな抵抗さえ返ってこない。
「んっ……」
口唇を舐めたそのまま舌を差し入れれば、戸惑いながらも受け入れてくれる。
マジか、と思いつつ、ここぞとばかりに入り込んで、紬の舌と絡め合って、吸い上げた。
「ん、ふぁ……」
ちゅ、ちゅ……と音を立ててついばめば、紬は恥ずかしそうに身をよじる。
クン、とジャケットを引っ張られて、万里はようやく紬を解放した。
くてんと万里の肩にこめかみを預け、紬は熱っぽい吐息を聞かせてくれた。
「もう、万里くんの馬鹿……手が早すぎだよ……」
「ははっ、悪い悪い。でも、慣れるには回数こなすのがいちばんだろ?」
抗議する紬にも、万里は悪びれさえしない。幸福さで、今はどんな抗議も罵声も、劇場の拍手に聞こえてしまうのだ。
「なあ紬さん。さっきも言ったけど、俺はアンタに無理強いしたいわけじゃない。少しずつ慣れていってくれたらいい。だから、キスいっぱいしようぜ。キャンディみたいなヤツ」
そう言って紬の顔を覗き込む万里。紬は、その形容に不思議そうに首を傾げた。
「キャンディ……? 甘いってこと?」
「あー、それもあるけど。キャンディって、甘いのだけじゃねーじゃん。ミントのヤツとか、酸っぱいヤツとか、果物のヤツも。いろんなの」
「えっと…………いろんなキス、っていう意味かな……」
「そゆこと。飽きがこねーだろ?」
「飽きるほどするつもりだったんだ……万里くんて俺より年下だよね」
「経験の差ってやーつ……なに紬さん。妬いてくれてんの?」
「別に妬いてない」
「妬いてる」
笑う万里に、紬はむくれてそっぽを向く。
「かわいい」
「わっ……」
その頬に、油断も隙もない万里の口唇がそっと当てられた。
「ねぇ、予告してくれないかな。びっくりする……」
これも、キャンディみたいなキスのうちに入るのかななんて、紬は万里の口唇が触れた頬を指先でなぞる。
「キスに予告って。ん~……ま、覚えてたらな。ほら、もう中に戻ろうぜ。怪しまれる。っつーかメシ食いっぱぐれる」
「そう言いながら、手をつなごうとしてこないの。言葉と行動がめちゃくちゃだよ、万里くん」
そんなことを言い合いながら、万里と紬は寮の中に戻る。
談話室では、すでに大人組ができあがってしまっており、呆れ果てる臣たちや、あんな大人にはならないと反面教師にするつもりの学生組、あんな調子で飲んで大丈夫なのかと、左京を心配そうに眺める十座がいた。
「あーあ、仕方ないな……」
「どんだけ飲んでんだよ……」
「明日大丈夫かな……二日酔いとか」
「あ、なあ紬さん、明日カフェ行こう。どこでもいーから」
「うん、たまには行きずりで入ってみようか?」
「行きずりとかウケる」
残り物の料理をつまんで食べながら、万里と紬は、初めてのデートの約束をした。
冬の夜、熱気にあてられたカンパニーの寮で、恋の花が今まさに、満開に咲いている――。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-033-
GOD座の演目が終わる。
無名の劇団相手に、嫌みなほど金をかけ、最大限の力で挑んできた。客席からの感嘆の声も、納得できる出来ではあった。さすがに業界トップクラスと言ったところか。
セット組み替えの間、客席は休憩時間に入る。GOD座で満足してしまった、あれに勝てる劇団なのかという疑問も多い。
それが紬たちの耳に入らないといいが、と思いつつ、万里は楽屋へと向かった。
しかし万里の心配をよそに、楽屋で衣装に着替えている冬組のメンツは、案外落ち着いていた。
「万里、セットは組み終わったの?」
「えっ、あ、ああ、もうすぐ」
「あの広い板の上で演じるワタシのメタトロンを、早く観客に見せたいものだ」
「アリスは大袈裟すぎる……」
「まあ、舞台映えするって意味じゃ、いいけどな……」
「あはは、確かに誉さんの容姿っていうか、立ち居振る舞いは、いい意味で目立つよね。誉さんだけじゃない、東さんも、密くんも。丞はもちろんね」
「紬だってそうでしょ、ふふっ、本当にきみは控えめだよね」
東の笑いに、紬がそうですか? と首を傾げる。
もっと緊張しているかと思ったけれど、この分なら大丈夫だ、と壁際で一緒になって笑っているいづみに目をやると、それに気づいて頷いてきた。万里はホッとして、時計を覗き込んだ。
「そろそろだぜ。もう行った方がいい」
万里の声に、全員の顔が引き締まる。
ドアを開けてやると、いづみが行きましょう皆さん、と出ていく。ありがとうと東が。いってきますと密が。さすがに緊張してきたよと誉が。昨日は助かったと丞が出ていく。
「俺のミカエルを演じてくるよ、万里くん」
そして、リーダーである紬が。
「ああ、いってらっしゃい」
万里はそうやって全員を見送り、客席へと戻った。
ああ、と万里はホッとする。
(紬さんのミカエルだ)
板の上、昨日の前楽とは正反対の、いつもの紬のミカエルがいた。
いや、いつものとも、少し違うような気がした。
仕草が細かいところはいつも通りだ。
ミカエルが指さした方向を観客たちが追う。
人間界の彼女を見つめているだろう視線に、胸が痛くなるほどの切なさが加わっていた。
ラファエルにもそれが伝わっているのか、諫めるだけだった声に、親友を心配する不安さも混じっている。
強い意志のもと、メタトロンやウリエルも折れて、ミカエルを人間界に下ろしてしまう。
彼女に手紙は渡せないよと告げるフィリップも、ミカエルの失恋を労るようなまなざしだ。
あの広い板の上、ミカエルの恋心が確かに存在している。
それは客席を巻き込み、ハンカチを取り出す女性の多いこと。
同じ列で観ている太一なんかは、ボロボロと泣きじゃくっていて、隣の臣にタオルを差し出される始末。カンパニーの全員が、食い入るように、祈りを込めてその世界を見守っていた。
叶いますように。
あの恋が、この願いが。
とりわけ脚本を手がけた綴は強く手を握りしめて、衣装を創り上げた幸は、しわになりそうなほどスカートを握りしめて。そして、恋をしている者は――自分の恋を重ねて。
間違いなく、今日あの板の上が、この劇場の中が、最高の仕上がりだ。
『お前はもう天使には戻れない。お前という存在は消えてしまうんだぞ?』
『それでも、初めて愛した人を守れて、親友のキミに魂を送ってもらえるんだから、僕は幸せだよ』
『ミカエルの……大馬鹿者……!』
ミカエルの魂は消え、ラファエルの静かな嘆きが板の上に残り、幕が下りる。
静寂。
そして、割れんばかりの拍手喝采。
湧き起こるブラヴォー、思わず立ち上がる観客たち。地響きか、と思うほどの振動が伝わってくる。
鳴りやまない拍手で耳が痛くなるなと息を吐いた頃、隣に座っていた十座が、ただ一点を見つめているのに気がついた。左京だ。叶わない恋か、と万里はせめて視線をそらしてやる。
号泣状態の太一は臣になだめられているし、同じく目元を隠しながら泣いている綴は、涙目の至に笑われているし、椋は泣きながらもきらきらとした笑顔でいるし、やせ我慢している幸と天馬は、泣きたいなら泣けよとお互いに言い合っているし、咲也は真澄にすごかったねと感想を言っているし、普段クールぶっている真澄も素直にそれに応じている。
三角はなみださんかく~とわけの分からない感動をしているし、シトロン賞をあげたいヨ~とこちらも意味の分からないことを呟いている男もいるし、ミカエルやばたん……と声を震わせている一成もいたし、ごまかすように眼鏡を押し上げる左京もいた。
(まったくウチの連中は)
そう心で思う万里も、目頭をそっと拭った。
会場スタッフの誘導に従って、観客たちの投票が行われる。
万里たち関係者は、観客席で観てはいても、当然投票することができない。一般観客は抽選制だし、本当に実力だけの勝負だ。
結果は、GOD座四六七票。MANKAIカンパニー四六九票。
僅差。
たったの二票差で、MANKAIカンパニーの勝利だ。驚きは、舞台の上の演者はもちろんのこと、客席にまで広がった。
まさかトップクラスのGOD座が、無名の劇団に負けるだなんて――いや、それよりも、無名の劇団が客席を巻き込んだ世界を創り出して、見事な勝利を収めただなんて――。
どよめきはやがて歓声に変わり、プレスたちは我先にとインタビューの申し込みに詰め寄る。何しろこれ以上ない下克上だ。なぜ今までこんな劇団が、ほぼ無名だったのかと、不思議がっている。
勝利の余韻にひたりつつも、それに困惑しているメンバーの様子に気がつき、最初に動いたのは左京だった。無言で十座と万里を指さし、呼ぶ。
万里は腰を上げ、十座も気がついて、左京のあとについた。臣も立ち上がろうとしたが、号泣状態の太一をなだめてろ、と視線で訴えられて諦めたようだった。
「取材ならきちんと手順を踏め」
「あとでコメントさせっから」
「おい勝手に衣装触んな」
そう言ってプレスたちを声の圧力で押さえ込み、紬たちから引きはがす。さすがにこのメンツにすごまれて、食い下がってくるような輩はおらず、監督であるいづみに苦笑させた。
「あと、まさかこのまま帰れると思ってねぇだろうな、主宰さんよ」
そうして左京が、GOD座の主宰である神木坂に詰め寄る。
「金をよこせ。ウチは劇団の存続を賭け、そちらさんは売り上げを賭けたんだ。約束は守ってもらうぞ」
「あ、そういえば!」
忌ま忌ましい、というように神木坂は表情を歪ませたが、小切手に金額を書いて手渡してくる。左京はそれを確認し、明細を要求する。あとで送る! と吐き捨てて、神木坂は背を向けて行ってしまった。
そうして左京は、そんな男には目もくれずに、迫田にパソコンを用意させる。
「左京さん?」
「……数字だらけで何がなんだか分からねぇ」
「出納帳? アンタ案外几帳面すよね」
「今回の賭け、売り上げで良かったな。利益の方だったら、足りなかったぜ、監督さん」
「え?」
「完済だ」
得意げに口の端を上げる左京に、いつの間にか傍にきていた劇団メンツの歓声が続く。
「借金完済おつ」
「おめ!」
「すごいね、勝負に勝てたどころか、借金までなくなるなんて」
「今日は盛大に祝わないとな」
「よし、今日は腕を振るうぞ。十座、何かデザートのリクエストあるか?」
「ティラミス」
「即答」
「うるせぇ」
そんないつもの言い合いをしながら、片付けと着替えを終えて、幸せ絶頂気分で寮に戻った。
フルール賞という新たな目標もできて、これからもみんなと一緒に過ごせるのが、全員それぞれに嬉しいようだ。
「改めまして、冬組公演の成功と、タイマンACTの勝利と、それから借金完済を祝して! 打ち上げを開催したいと思います!」
「多いな」
「まあ、祝い事だし多くてもいいじゃないか」
寮内に、笑い声が響く。
笑い声しかないなんて、滅多にないことだ。みんながみんな、良くも悪くも他人で、心がひとつにつながることなんて難しいのだから。
そうして準備ができたところで、冬組リーダーの紬が乾杯の音頭を取る。
「今回無事に勝利できたのは、みんなのサポートのおかげだと思う。本当にありがとう。これからもどうぞよろしく」
「こちらこそ!」
「公演、良かったぜ。夏組も負けないからな」
「秋組だって手加減しねーぜ?」
「あはは、お互いに切磋琢磨して、MANKAIカンパニーを今以上に盛り上げていきましょう! 乾杯!」
いくつもの、乾杯の声が重なる。グラスがぶつかり合う音がする。早速臣の作った料理に手を伸ばし、勝利を祝う。
「このあんかけ美味いっすね、チリソース?」
「ああ、何にでも合うんだ。白飯にかけてもいいし、焼きそばとか、パスタもいいな。隠し味にママレード入れてあるんだ」
「女子力……つか、ピザがもうなくなりそうなんすけど……どんだけ食うんだアイツら」
「あー……第二弾焼いてくるか。あ、十座、これ左京さんに持ってってやってくれ。お前も手伝ってくれたチヂミな」
「……にんじん切っただけっすけど」
「充分手伝いだろ。ほら早く」
万里の視界の片隅で、ぎこちない動作で左京に器を持っていく十座が映る。
ほんの少し躊躇って受け取る左京に、嬉しそうな顔をした。バツが悪そうに顔を背ける左京も見えて、万里はこっそりと笑う。
さて自分の想い人に、飲み物のおかわりでも注ぎに行こうかと談話室を見渡せば、紬の姿がない。
ワインや日本酒を開けている東たち大人組の中にも、おにぎりの具について語り合っている集団の中にも、食事の追加を作っているキッチンの方にもいない。
珍しく、丞の隣には咲也。演技のことについて話しているようだが、やっぱり紬の姿はどこにもなかった。
トイレかなとも思ってみたが、それにしては五分以上経っても戻ってこない。
万里はふと思い当たって、グラスを置きそっと談話室を抜け出した。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-032-
「だけど、俺は紬さんみたいには演じられない。丞さんにだってだ。紬さん、アンタのミカエルを演じろよ。俺、ちゃんと最後まで観てるからさ」
ざわりと肌があわ立つ。
自分のミカエル――そんなに簡単なことを、どうして紬は見失ってしまったのだろうか。
今、万里が演じたミカエルが、紬のものとは違っていたように、きっと丞が演じても同じものにはならないだろう。あの力強さは、ストーリーを根本から変えてしまうかもしれない。
今の万里だって、天使としての儚さは欠片もなくて、初めての恋を楽しんでいるだけのように思えた。
真似なんかさせない。そんな芝居してない。
強気な万里の声が、頭の中でこだまする。
(俺の、ミカエル……)
紬は視線を右にやり、下にやり、上を向いて左に泳がせ、そうして正面、万里の目をじっと眺めた。
「ん? オッケ?」
「……万里くん、一個だけ頼みがあるんだけど」
「めっずらし、何よ、アンタの頼みなら何だって叶えてやるぜ?」
紬の珍しいおねだりに、万里はピュウと口笛を吹く。
そんなに難しいことじゃないんだけどと苦笑して、紬は口を開いた。
「あのね、いつもの……言ってくれないかな。それだけ。一回だけでいいから」
「いつもの?」
万里がぱちぱちと目を瞬く。
いつもの、でちゃんと伝わるかどうか分からなかったけれど、紬にはまだ、そうやって頼むことしかできない。
いつもの、という謎かけみたいなおねだりに、万里は最初答えが分からなかったみたいだが、気がついてナルホドと指を鳴らした。
「そんなんでいいのかよ?」
「だめかな」
「んなわけねーじゃん。紬さん、好きだぜ。すっげぇ好き。紬さん自身も、紬さんの演技も、好きだ」
これが万里の、いつもの。
紬が願った、いつもの。
夜とはいえ街中で、何度目かの告白だ。
よく照れないなあと、紬は今まで思ってきた。
だけど、今は万里の気持ちがよく分かる。ミカエルの気持ちが、よく分かる。
明日はきっと、今までのどのミカエルよりも、ミカエルらしいミカエルになれるだろう。
「……ありがとう万里くん。明日、頑張るね、俺のミカエルで」
「ああ、超楽しみだな。元気になったみたいでよかった。んじゃ、帰ろうぜ。さすがに怒られるわ」
LIMEいっぱい入ってっし、と携帯端末の画面を見て顔を引きつらせる。丞に別の意味でも怒られるんだろうなと思うと気が重いが、それはふたりの責任だ。
数歩先で振り向いて待っていてくれる万里を追って、寮への道をふたりで歩いた。
「なあ紬さん」
寮の前、ぴたりと万里が立ち止まる。どうしたのだろうと振り向いて、バツの悪そうな万里をそこに見つけた。
「万里くん?」
「俺もさ、一個だけお願いしてもいいすか」
ずっとそれを言いあぐねていたのか、どうりでここまで口数が少なかったわけだ。
しかし万里の頼み事とは、いったい何だろう。いつもいつでも力をくれる彼の頼み事なら、聞いてあげたい。
「うん? 俺ができることかな」
「そう難しいことでもないんだけどさ」
先ほどの紬を真似たつもりか、ぽりぽりと頬をかいて苦笑する万里。そうして気まずそうに口を開き、
「あのさ……ちょっと、抱き締めさせて」
「えっ!?」
「ほんとにちょっとだけでいいんだよ、ぎゅってするだけ……それ以上なんにもしねーし、後ろからでもいーから」
まさかそんなことだとは思わず、紬はうろたえる。考えてみれば、万里からは恋を告白されているのだし、抱き締める以上のことを望んでくる可能性だって、あったのだ。
むしろ抱き締めるだけですむならいいじゃないかと、わけの分からないことを自分に言い聞かせようとしてしまう。
「……ダメっすか?」
「あっ、う、ううん、大丈夫……さっき俺のお願い聞いてもらったし、お返しってことなら」
そうは言ったものの、どうしていればいいか分からない。
どうぞと両腕を広げるのもおかしいし、目を閉じてしまったら、キスでも待っているようになってしまう。
紬は結局、脚の横で軽く握った手を揃え、万里の腕を待った。
「サンキュ……」
半歩、万里が歩み寄ってくる。距離が縮まって、紬の視界は万里の肩で隠された。
片腕を背中に回し、万里は大切そうに紬を抱き締めてくる。
万里の両腕が伸びてくると思っていた。だけど小さく呟かれた礼のあと、互いの隙間を埋めたのは、万里の右腕だけだった。
「……好きだ、紬さん……」
耳元の囁く声に、万里のすべてが詰め込まれているような気がした。
恋心、不安、嫉妬と熱情。
本当なら両腕で抱き締めて、自分のものにしてしまいたい――そんな情動が伝わってくるようだった。片腕なのは、万里のせめてもの防衛ラインなのだろう。
(万里くん……)
「俺にとっては紬さんがスターだからさ、紬さんのミカエル、観せて。いつか……同じ板に立たせてくれよな」
万里はそう言って、今一度紬を強く抱き締めた。
(あったかいな、万里くん……)
冬の夜、凍えるほどの寒さではないのに、抱いてくれる万里の腕の暖かさが胸にしみいってくる。紬は素直に体を預け、脚の横で揃えていた腕を、そっと上げた。
そっと腰を抱く程度、今の紬にはそれが精一杯だ。
「ありがとう、万里くん」
万里の腕が緩む。紬は体を離し、正面からじっと眺めた。困惑したような顔をする年下の男の子に微笑んで、半歩後ずさった。
「俺、ちょっと劇場の方行ってくるね。今日の反省してこなきゃ」
「あ、う、うん……?」
「おやすみなさい、万里くん」
あんなに重苦しかった体の闇が、紬の中から全部出ていってくれる。紬はひらひらと手を振って、万里に背を向けた。
「…………今、俺……抱き返された……?」
そんな紬の背中を見送って、その事実を自分に都合のいいように取るべきか、単に礼のつもりなのかを計りかねて、万里はただそこに立ち尽くした。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-031-
「万里くん……どうして……?」
「あ? 何が」
「どうして何も訊かないの? 俺、今日あんな……あんなふうに舞台を壊したのに……楽しみにしててくれたじゃない。怒らないの?」
万里は瞬きをひとつして、コトンとカップをテーブルに置く。
「確かに今日の紬さんおかしかったし、どうしたんだろうって思ったぜ。丞さんの真似みたいなことしてさ。紬さんの良さが、ぜんぜん活かせてなかったじゃん? それは、アンタも自覚してんだろ?」
「うん……」
「戸惑ったし、どっかで戻るかなって観てたけど、怒るってより、悲しかった、かな……今も」
「え……」
紬は息を飲む。
怒りより悲しさの方が多いというのは、一体どういうことか。そもそも、何が悲しかったのか分からない。多分万里は、紬がそれを分からないこと自体も、悲しいのだろう。
責めるようなまなざしと、ほんの少しテーブルの真ん中で出逢って、そして別れた。
「紬さん、今まで俺が言ってきたこと、真面目にとってくれてなかったのかなって、すげぇしんどい。なあ、言ったよな? 俺、紬さんが好きだって。紬さんの演技が好きだって。それなのに、なんでアンタは……自分の演技好きになってくれねーのかなって」
目を見開いた。
「あ……」
万里はあの日から何度も、好きだと言ってくれた。
ループしていたことを考えれば、万里が自覚している以上に、その言葉を聞いてきたのに。その大切な言葉を、否定するようなことをしてしまったのだと、ようやく気がつく。
万里の言葉を信じていなかったわけではない。それを上回ってしまうほど、自身が弱かっただけだ。
「万里くん……」
「自惚れろってんじゃねーよ、ただ、自分のこと、もうちょっと好きになってもいんじゃね? 俺じゃ、力不足なんだなって実感したけどよ」
ハハハと万里は笑い、ブレンドを飲み干す。珍しく諦めたような笑い方をする万里に、紬の胸がズキンと痛んだ。
(そんな顔をさせたいわけじゃない。俺が自分に自信がないことで、万里くんにまで……そんな顔させたくないよ……)
「出よう、紬さん。もうそろそろ帰らねーと、明日の勝負に響くぜ」
万里が伝票を持って立ち上がる。もたついているうちに、万里は二人分の会計を済ませてしまって、紬は店を出てから財布を取り出し、万里に声をかける。
「万里くん、お金」
「いーから。んな小さいこと気にするヒマがあったら、明日のこと心配してな」
「小さいって……」
こっちは働いてるのにな、と続けるが、言い出した万里が引かないのも知っている。少し迷って、ごちそうさまと小さく呟いた。
「どうせくれるんだったら、指先くれたらいいのによ」
「え? どういう……」
お金を渡そうとした指先が、万里に攫われていく。
あ、と言うより早くそっと握られて、紬は息を飲んだ。万里は紬の手を握ったまま歩き出してしまって、紬は慌てて脚を踏み出す。
「ば、万里くん、手……っ、街中、っていうか、あの、ちょっと」
恋人同士でもないのに、そもそも男同士で、と紬の思考がぐるぐると回り出す。それでも万里は離してくれない。
「だーめ、アンタ逃げるから」
「にっ、逃げないよ!」
捕まえとかないとと、万里はやっといつものように笑ってくれて、紬の心臓がさっきとは違った意味で跳ねた。逃げないようになんて言っておきながら、きっと自分が手をつなぎたいだけに違いないのに。
「万里くん。あの、もう、逃げないから、あの、えっと」
街中では人目がある――気にかかるのがそこだということを、紬は自覚していただろうか。
「万里くん」
ねえ、と続ける紬の一歩先で、万里が立ち止まった。不思議に思って覗き込めば、万里の指先がゆっくりと離れていく。ほんの少し寂しい気持ちになった紬だが、次の瞬間そんなことは消し飛んでいった。
『それでもいい。たとえ自分が不幸になっても、彼女を幸せにしたいんだ』
今まで紬の手を握っていた手をじっと見つめて、万里は――いや、ミカエルがそう呟いた。
『ねえラファエル、馬鹿なことだと思うかい? 彼女のことを考えるだけで、視界の色が違うんだ。胸の奥がくすぐったくて、指先が熱い。きみも恋をすれば分かるよ』
口許にその手を当て、くくくとおかしそうに笑う。紬は瞬きを忘れて、ミカエルの仕草を眺める。
紬のミカエルは、ここではにかんで笑う。だけど万里のミカエルは、違う笑い方をした。
『恋なんてしない。そんなことをしても、天使の格が上がるわけでもないのに。いや、むしろ下がるかもしれないんだぞ』
そうして、紬はラファエルとしてミカエルに返す。
何度も稽古を通して接してきた台詞だ、出てこないわけがない。紬がそうしたことに、万里は口の端を上げたように見えた。
『いくら好きになったって、天使と人間じゃ報われない。ミカエル、さっさと諦めた方がいいぞ』
『彼女の恋人になりたいわけじゃないよ、ラファエル。言っただろう、ボクは彼女が幸せならそれでいいんだ』
『お前の考えていることがさっぱり分からん。せっかく忠告してやっているのに』
『ありがとうラファエル、でも、ボクは大丈夫だよ。あの人を見ていられる――それで幸せだから』
ラファエルのため息で、暗転のシーンだ。
唐突なエチュードはそれで終幕するが、紬は初めて触れる他人の「ミカエル」に愕然とした。
そして、初めて演じる「ラファエル」の役に、ただ茫然とした。
「万里くんは……すごいな、やっぱり……台詞全部覚えてるんじゃない?」
当て書きで作られた脚本とはいえ、ミカエルを掴むのにそれなりに時間がかかったというのに、台本をまともに読んだことのないはずの万里は、きっちりと役をこなしていた。
器用というにも程がある、と俯いたら、力強い万里の声。
「ま、俺がやるとこんなんってことで」
「ほんとにスゴイよ……とても真似できない」
苦笑して、改めて自分の不器用さと、不甲斐なさを思い知る。気まずくて髪を梳いたら、万里にその手を取られた。
「真似なんてさせっかよ。そんな簡単に真似できるような芝居なんて、してねーからな」
責めるようにさえ、万里の視線が突き刺してくる。
びく、と体を強張らせたが、万里の視線が和らぐことはなかった。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-030-
だが結局、違和感の残るまま幕は降り、ホームでの演目は不完全燃焼のまま終わってしまった。
明日はGOD座の劇場での勝負だ、道具をすべて向こうに運ばなければいけない。
カンパニー総出で小道具、大道具を運び出す。雄三や鉄郎まで駆り出して、すべてを運び終わる頃には月が空を飾っていた。
「摂津、紬を知らないか」
寮へ戻る途中、丞から声をかけられて万里は振り向く。
「は? 紬さん? え、……もしかして、いねーの?」
「楽屋、飛び出してったままなんだ。LIMEも返信ないし、電話にも出ない」
「なっ……」
万里は目を見開いた。
てっきり、冬組メンツで反省会でもしているのだろうと思っていたのに。
丞の慌てようからすると、反省会どころではなかったようだ。
「既読はつくんすか? あー、見てはいるんだ……どこ行ってんだろ、心当たりないんすか」
「寮のレッスン室にも、もちろん部屋にもいなかった。最近お前と仲がいいみたいだったから、もしかしてと思ったんだが……」
「マジかよ……」
万里はガシガシと髪をかき混ぜる。
紬の性格を考えると、また考え込んでしまっているのだろう。後悔をひとりで背負い込んで溜め込むのは、紬の悪い癖だ。
万里は自分の携帯端末を取り出して確認するが、連絡なんて当然来ていない。LIMEでコールしてみるも、出てくれない。
「丞さん、俺が絶対連れて帰るから、冬組メンツのフォローしといてくんねぇ? あ、あと監督ちゃんにも。ぜってー心配してっだろ」
「だけど紬は俺にとって大事な幼馴染みだ。待ってるなんてできないぞ」
「知ってるよ、紬さんがいちばん信頼してんのも、丞さんなんだから。俺が見つけるより早く帰ってくるかもしれねーだろ。そんとき、アンタが出迎えてやらねーでどうすんだっつの」
とん、と丞の胸を叩く。
「仲直り」してからの二人は、本当に幼馴染みというだけかと思うほど、仲が良くなった。いや、良くなったというより、戻った、のだろう。
正直それを、心穏やかに見ていることはできなかったが、紬と丞の仲を変に疑うことはしたくなかった。紬が言わないのなら、違うのだと。
「摂津……」
「アンタは、明日に備えてちゃんと休んでな。紬さん帰ってきたら連絡してくれ」
万里は、丞の了解も取らずに、夜の街へと駆け出していった。
はあ、とため息を吐く。淹れてもらったマンデリンは冷めかけていて、カップを持っても温かくはなかった。
どうしよう、と紬は俯く。
静かなジャズの流れる店内、客足はまばら。それぞれが思い思いの時間を過ごしている中、紬の頭の中は絵筆を洗ったあとの水のように、濁りきっていた。
(どうして、どうしてあんなことしちゃったんだろう。俺の勝手で、わがままで、せっかくのホームでの楽を壊してしまった……)
芝居を良くしたかった。観ているひと全員が、納得して帰ってもらえるように、改良しようとしたつもりだった。丞のように舞台を引っ張っていけたら――そう思っていたのに、結果は散々だ。
見る人が見れば、今日の舞台は最悪の出来だっただろう。何か記事を書かれるとしたら、酷評される未来しか見えない。
「丞みたいにはなれないな……」
GOD座の主宰に言われた、才能がないという言葉は、真実だったんだと、紬は口唇を噛む。
華がないことなんて演技でカバーしてみせる、と言い切れるほどの力なんてない。
明日、またあの人に言われてしまうのかと思うと、怖い。才能がないと、役者なんてやめてしまえと、遥か高みから見下ろされるのが怖い。
紬はそこで、両手で持っていたカップを置いた。
(違う……あの人が怖いんじゃない……才能がないって言われるのが怖いんじゃない……)
自分に嘘をついて、昔のトラウマを持ち出して、怖がる理由をこじつけているだけだと、口唇を引き結ぶ。
本当は、
(本当は、また丞に嫌われるのが怖いんだ……。今日だってあんなに怒らせて、失望させたかもしれない……せっかく、俺と芝居したいって言ってくれたのに、絶対にすごく怒ってるよね……)
逃げ出した過去を掘り起こして、また後悔をして、今日最後に見た丞の顔を思い出す。
どうしてあんなことをした、と軽蔑さえしそうな顔で怒鳴りつけてきた。
自分が悪いのだからそれは仕方ない、丞が怒るのも無理はない。
そこまで思って、紬は冷水でも浴びたかのように、急速に体が冷えていく錯覚を味わった。
ざわりと、鳥肌が立つ。
(万里くんも……?)
つい先日この席の向かい側に座って、笑ってくれていたあの年下の男の子も、丞同様に怒っているだろうか。
いや、怒っていないはずがない。あんな演技をしてしまって、楽しみにしてくれていた彼が、怒らないわけがないのだ。
(ど、どうしよう……万里くんにまで、合わせる顔がなくなるなんて)
さすがに涙がこみ上げてくる。軽蔑されただろうか。
それはなくても、もう笑ってここに誘ってくれることはなくなるかもしれない。
大好きなコーヒーの話を、してくれなくなるかもしれない。
稽古のあと、LIMEでお疲れと送信してくれることも、朝食のたまごやきを分けてくれることも、中庭の花たちのことで楽しく言葉を交わすことも、なくなるかもしれない。
(どうしよう、やだ……いやだ、嫌だ、万里くん……っ)
涙を我慢して俯いて、紬はあのカフェラテ色の髪をしたひとを思う。
いてほしい時に傍にいてくれた、優しい男の子。
負けそうになった時、「なんとかなるんじゃね?」と夕食のメニューでも話すかのような気楽さで、引き上げてくれていた。
いてほしかった。今、ここに。
平気っしょ、なんでもねーって――なんて、あの明るい笑顔で言ってほしい。
(絶対怒ってるのに、無理……きっとあの眉つり上げて、どうしてあんな演技したのって言ってくるに違いないのに……なのに、俺っ……)
紬は背中を丸めて、吐息と一緒に呟いた。
「……逢いたい……」
万里に逢いたい。
温かくなくてもいい、美味しいコーヒーを飲みたい。
会話なんてなくてもいい、万里の世界にいることを許容してほしい。
(逢いたい……)
「紬さん! いた!」
幻聴かと思った。万里の声がする。
紬は思わず顔を上げて、声のした方を振り向く。
そこには、息を切らせた万里が確かに立っていた。
「え……万里くん……? ……どうして、なんでっ?」
「どうしてじゃねーよアンタもー、心配すっだろ、電話にくらい出ろ!」
ズカズカとフロアを突っ切り、万里はすぐに窓際のテーブルまでやってくる。ダン、とテーブルを叩かれて、やっぱり怒っているのだと、紬は肩を竦めた。震えていた端末は、どうせ丞や監督からの連絡だろうと思っていたのに、まさか万里からも来ていたなんて。
「ご、ごめん……俺、でも、よくここが」
あ、と紬は気づく。万里の背後、カウンターの向こう側で、この店のマスターがホッと安堵したような表情を見せたのを。
きっとマスターが心配して、万里に連絡してくれたのだろう。
「……帰ろ、紬さん。みんな心配してっから。つか丞さんがすげぇ慌ててんだよ。あ、連絡しとかねーと。紬さん確保、っと」
万里はそう言って、端末でLIMEを操作する。
紬はその様子を、信じられないものでも見るような思いで眺めていた。万里から、思っていたほどの怒りが感じられない。紬を見つけて、安堵して忘れているだけなのだろうか。
「心配……」
「そーだよ、あんな演技して。楽屋飛び出してったんだって? 心配、すんだろ。あ、マスター、ブレンド」
万里は丞への連絡を終えて、大仰なため息とともに椅子を引き、紬の向かい側に腰をかけた。
え、と紬は目を瞠る。
万里とは、もうこうやって一緒にコーヒーを飲むことはできないと、ついさっき思ったばかりなのに。当の本人に、それを覆されてしまった。
「一杯だけつきあって、紬さん」
万里は目の前で、笑ってくれる。軽蔑も怒りもなく、かといって見放したわけでもない。
紬は、不思議でしょうがなかった。あんな失態を犯した自分に、どうしてまだ笑いかけてくれるのだろうか。
マスターが運んできてくれた、熱いブレンドのカップを持ち上げて、万里はやっと一息ついたようだった。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-029-
そっと握りしめられたミカエルの手が、胸に当てられる。
『それでもいい。たとえ自分が不幸になっても、彼女を幸せにしたいんだ』
きゅう、と胸が締めつけられた。それは今この演目を観ている全員に言えることだろう。
「月岡紬」の演じる天使・ミカエルは、人間の女の子に恋をして、たとえ自分がどうなってもいいから、彼女を助けたいと切に願う役だ。
天使という儚いイメージのある役に、紬の繊細な演技はまさにハマり役だった。儚さの中にも、芯の強さを感じられる。
紬の演技に引っ張られてか、誉や密、東の演技にも磨きがかかっている。本当にそこに、その役として存在しているかのような静かな力強さが、冬組の公演にはあった。
(秋組の、勢いで引き込んでいくものとは違うな……役者の年齢層が高いってのもあんのか、しっとり……してる……)
万里はそれを舞台袖で眺めながら、自分の指先が動くのを自覚していた。
演じたい。
こんなに芝居をしたいと思ったのは、秋組の一人芝居を観た時以来だ。
(あん時とも、ちょっと違うか)
あの時はただただ衝撃で、負けたくないと思った。今は、あの人と一緒に演じてみたい。そんなふうに気持ちが変化している。
(俺にはあんなふうにできねぇ。こんなふうに観客を引き込めない……)
作風がまったく違うのだ、観客の感じ方も全然違うだろうことは理解できる。だが、紬には一生敵わないのだろうと分かった。
(すっげぇ綺麗。丞さんみたいな存在感はないって思ってたけど、全然、あんじゃん……)
舞台の上で、ひときわ目立つのはやはり主役だ。だがそれを抜いても、紬に目が惹かれる。
ミカエルに共感して、泣きそうになっている観客の、なんと多いことか。
(また、惚れちまった。何度目だよ、これ)
観客すべてをその世界に引き込む力を持ったひとを、好きになれた幸福。人生がイージーモードだなんてとんでもない。こんな気持ちを知らなかったせいだ。
この恋が叶うかどうか分からない。だけど紬に恋をできた、それが誇らしい。
まるで、人間に恋をして、自分が滅ぶと分かっていても、幸福そうに消えていったミカエルのようだと、泣き出しそうな想いをこくりと飲み込んだ。
(いつか、アンタと同じ舞台に立てたらいい)
万里の心に、新しい芽が吹く。
組が違えば共演は難しいかもしれない。それでもいつか、舞台の上であの演技に応えてみたいのだ。
そのためには、MANKAIカンパニーが存続していることが前提条件。
GOD座との勝負に勝てるよう、全力でサポートしようと、万里は紬の演技をじっと眺めた。
そうして、あっという間に前楽を迎えてしまう。
明日はGOD座の劇場で演じて勝負をすることになっており、カンパニーの劇場でこの演目をやるのはこれが最後だ。
複数回観に来てくれる客も増え、昨日より今日、今日より明日、と芝居をよりよくしていかなければという想いが、紬の中に闇を生んでしまった。
昨日、GOD座からの丞のファンが不満を漏らしているのを聞いてしまって、収まったと思った後悔の種が芽吹いてしまったのだ。
(主役を変えてほしい、か。確かに俺の演技に丞が合わせる形でしかない。あれじゃ、丞が死んでしまう。ファンにしてみたら当然の不満だよね……)
自分の演技では、丞の良さを引き出すことができない。
丞の勝ち気で派手なオーラは、舞台の上で最高の武器だ。それを活かせていないことが、悔しい。
(もっと、丞みたいにできたら……!)
華がない、才能がない、やめてしまった方がきみのためだ。そう言われたことが、いまだに胸の奥に残っている。
(そうだ、丞みたいに)
芝居を良くしたい。お客さんに満足してもらいたい。
「あの、監督、今日の芝居、少し変えてみてもいいですか……?」
「え? 変えるって……どんなふうに?」
「任せてもらえませんか」
「うん……? 紬さんが、そう言うなら」
不安そうないづみの声も、今の紬には届かない。ホームでの最後の演技、紬が選んだのは悪手だった――。
舞台の上で、紬が沈んだのが手に取るように分かる。
あ、と思った時にはもう、紬のミカエルではなくなっていた。違う、と思っているのに、紬自身も止められないのか、仕草がどんどん荒くなっていく。
(紬さん、どうしたんだよ……!? そんなん、アンタらしくねぇっ……!)
万里は裏方として照明や音響をチェックしている中、これまでの紬とは、正反対のミカエルがそこにいるのに瞬時に気づくのに、どうすることもできないでいた。
舞台は冬組のものだ。自浄するならば、冬組のメンバーでなければいけない。
それができないのなら、GOD座との勝負なんて、負けるのが目に見えている。
(いつもの紬さんなら、ここで声を張り上げたりしない。切なそうに微笑んで言うのに……、なんで……!)
「おい、紬さんどうかしたのか。いつものと違う」
その異変に気づいているのは、万里だけではない。
「わっかんねぇよ、客は喜んでるみたいだけど……」
「板の上でも、困惑してるな、あいつら。有栖川たちは、まだ軌道修正できるほどの力付けてねえんだろ」
「丞サンが、どうにか引き戻してくんないッスかね!?」
「だけど丞さんも、紬さんの演技に戸惑ってるみたいだが……」
秋組のメンツはもちろん、当然監督であるいづみ、勘のいい他の組のメンバーは気がついていた。
「摂津、お前何か変なこと言ったんじゃねぇのか」
「なンでだよッ、昨日は普通だったんだぜ、あの人」
紬に想いを寄せていることを知っている十座が、不審そうに声をかけてくる。
まったくもって心外だ。いつものように好きだという言葉と、明日も楽しみにしてるという期待と、頑張れよという発破をかけただけ。
そういえば、心なしか元気がなかったかなと思うけれど、万里の言葉で気分が落ち込んだわけではないと思いたい。
(紬さん、なんで……?)
芝居をよりよくしようと、演技を変えるのはままあることだと思う。秋組だってアドリブてんこ盛りで千秋楽を終えたのだ。やりすぎなければ、それは悪いことではない。
だが今の紬は、アドリブを挟むというレベルではなかった。万里は板の上の困惑をどうすることもできずに、祈るように見守るだけだった。
#シリーズ物 #ウェブ再録
俺のCandy Star!-028-
そうして、GOD座とのタイマンACTのテーマも天使に決まり、皆木綴はかつてないスピードで脚本を仕上げてきた。気合いの入り方が違うということだろうか。
「天使」をテーマに戦うということで、衣装係の瑠璃川幸も熱が入る。予算の引き上げを渋る左京でさえ、補填は後でもできるなどと言う始末。
「すごいね、これ……」
「カンパニー総出で挑む感じだからな。演じるのはアンタら冬組だけど、俺ら他の組は裏方でサポートするぜ」
熱気、という言葉をこれほど痛感したことはないと紬は思う。
外せなかったバイトの帰り、買い出しに出掛けていたらしい万里とばったり出逢ってしまったのは、本当に偶然だった。
その手には、大量の布が詰め込まれた買い物袋。これから幸と、最終的な衣装チェックなのだとか。
「幸くん、こういうのは自分で買い付けるのかと思ってたけど」
「今手が離せないんだとよ。素材さえ決まってりゃ、店員に訊けるからって」
「な、なんだか申し訳ない感じだな……こんなに大事になるとは思ってなかった」
「なに言ってんだ、主役がよ。俺は楽しんでるけどな。衣装とか手伝うのもいいもんだ」
そう言って笑う万里に、紬は少し先の方向を指さす。
「えっと、じゃあ……お茶に誘うのも難しい、かな。息抜き?」
万里が驚いて目を瞬く。そして間を置かずに「んなわけねーじゃん」と返してきた。
「紬さんから誘ってくれんの久々じゃね? ここしばらく時間合わなかったし」
「そうだね、特に俺が脚本読みで時間取られてたから。一杯だけ、つきあってくれる?」
「おつきあいなら喜んで」
「そういう話じゃなくてね」
そんなことを言い合いながら、お気に入りのカフェに向かう。
会話の端々に、分かりやすいアプローチを挟んでくる万里のあしらい方も、慣れてしまった。
よく飽きないなあと思うほど、万里はことあるごとに想いを告げてくる。
優しい声は耳に心地良く、勝ち気な笑顔は怖いものなんてないと勇気をくれた。
「初日、明後日だな。台詞もうバッチリすか?」
このカフェに来るのは紬は三度目。薫り高いブレンドは、もちろん万里のおすすめだった。
「うん、入ってる。昨日また変えられたけどね」
「あー、丞さんと綴がやりあってたな。どっちの言い分も分かるけど。アドリブでやらない辺り丞さんらしい」
「最初はひとまず堅実にっていうのが、丞とのやり方だからかな。慣れてくるとひどいよ?」
「そーなんすか? ……さすが幼なじみ、よく分かってんのな」
珍しくむくれる万里に首を傾げ、その理由を探してみる。まさかとは思いつつ、やきもち? と笑ってみたら、否定は返ってこなかった。
(かわいい。万里くんて、大人っぽいなって思ってたけど、案外子供なところもあるよね。きっとまだ知らない顔を隠してるんだ)
その時、テーブルにコトリと小さなスコーンが運ばれてくる。
「あ? マスター、何これ」
だが紬はオーダーしていない。万里もだ。
それを運んできたのは、この店を取り仕切るマスター。口許のヒゲがなんとも渋い男だった。
「はい、サービスね」
「えっ? でも」
「万里ちゃん、今日はつむちゃんも来られたのね、良かったじゃない」
少し女性的な話し方をするこのマスターは、どうも万里を気に入っているらしく、「万里ちゃん」と呼ぶ。劇団の誰もしない呼び方だ。
万里はそれが気に食わないらしく、「万里ちゃんはヤメロ」と睨むが、マスターの方は気にも留めていない。
まるで親戚のおじさんが、甥っ子をかわいがるかのような言動を、紬は初めてこのカフェに来たときから微笑ましく眺めていた。
「えっ、あれ、今日は、って……?」
そして、いつも一人で来る万里と連れ立ってきたという理由でか、紬のことをつむちゃんと呼ぶ。
そんな可愛らしい愛称で呼ばれる年齢でもないのだが、不愉快なものではない。
紬はマスターを振り仰ぎ、言葉の真意を訊ねてみた。
「万里ちゃんねぇ、ここ数日は一人で来てたのよ。毎回そこに座ってね。つむちゃんとここ来た時のこと思い出して嬉しそうにしたり、向かい側につむちゃんがいないから寂しそうにしたりねぇ……かわいいったらなかったわ」
「えっ……」
「んな顔してねぇって!」
抗議する万里だが、顔が赤い。この席は、初めて万里につれてきてもらってから以来の、お決まりの場所だ。
窓際、隅っこ、カウンターからちらりと見える。そんな静かな場所。
窓際に並べられた鉢植えは、手入れが行き届いており、紬は毎回、元気に咲く花を見るのが好きだった。
万里はここで、紬と過ごした時のことを、これから過ごせることを思って、コーヒーを飲んでいたのだろうか。
「万里くん……」
「……だぁから、別に、深い意味はねぇんだっつの……紬さんがこの席好きみたいだったから、空いてりゃ選ぶだけで」
「一昨日なんかね、空くまでカウンターで飲んでたのよ、この子」
「今言うか……っ……!」
自然と、紬の口許が緩んでいく。
万里は本当に、一生懸命好きでいてくれる。
自分のどこをそんなに気に入ってくれたのか分からないが、その気持ちを嬉しいと思うほどには、万里が近くなっていた。
「公演始まったら、頻繁には来られなくなっちゃうかもだけど、また誘ってね、万里くん」
そう言って、スコーンをサービスしてくれたマスターに礼を告げて口へと運ぶ。悪くない反応だと万里も気づいてか、笑ってくれた。
「トーゼンっしょ」
明後日が初日だというのに、緊張よりも楽しみの方が勝っている。
そんなポジティブな思考は、我ながら珍しいなと思いつつ、紬は嬉しそうにブレンドをすする万里を、ずっと眺めていた。
#シリーズ物 #ウェブ再録
