- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.550, No.549, No.548, No.547, No.546, No.545, No.544[7件]
ここで重なり合うもの
テニラビの周年記念曲がものすごかったので。
混ざり合っていた音が、不意に解かれた。止まってしまった演奏に、跡部は顔を上げる。視線をやれば、そこにはバツが悪そうな顔をした男がいた。
「すまない、音を飛ばした」
素直にそう謝罪を入れてくる相手に口の端を上げて、跡部も手を止める。肩の力を抜いて譜面を見直すと、確かに運指が難しい箇所だった。それでも懸命に弾こうとする彼は、とても好ましい。
「構わねーぜ、手塚。慣れねえことだしな。少し休憩するか」
斜めにかけていたギターを下ろし、傍に置いていたドリンクを手塚に向かって放ってやると、左手で器用に受け取ってくれた。
「ああ。しかし、難しいな……ギターを弾きながら歌うというのは」
テニスの合宿に来ているというのに、自分たちは今ギターと歌唱の練習をしている。というのも、協調性を高めてチームの力を伸ばし独創的なプレイで評価を得られる可能性、という突拍子もない提案のせい……もといおかげである。
結束力を高めるというには良いことかもしれないし、楽器を演奏することで筋力の強化ができるというメリットはあった――というのは、建前で通るかどうか。三船入道のお達しを拒否できるわけもないという以前に、フェスと聞いて食いつく男たちが多数いるのだ。
チームを組んでより良い演奏をと言われ、何にでも真剣に取り組み高みを目指す跡部が熱を入れない理由はなかった。
それともうひとつ、同じチームに手塚がいるということが、跡部を熱くさせる理由。
テニス以外は不器用と思われがちな男だし、それは概ね事実でもある。
それでも釣りや登山といった集中力や技術のいる趣味があるのも知っていた。だから一度始めてしまえば、手塚ならばさほど時間をかけずにマスターできるだろうと思ったのだ。
それでも、ギター演奏と歌唱とを同時に行うのは大変らしい。
「さすがのお前も苦戦してるみたいじゃねーの」
くくっと笑いながらそう口にすると、普段からあまり変わらない表情にほんの少し変化が起こる。わずかに目が細められ、眉間にしわが寄ったのだ。本当に、かすかな変化。それを感じ取れる距離が心地良い。
「ただでさえ慣れないことを、同時に二つも行っているんだ。仕方がないとは言いたくないが、もっと鍛錬が必要だ」
「クソ真面目が。ノリでどうにかしようとは思わねえんだよな、お前は」
ため息が混じった前向きな発言に、跡部は苦笑する。手塚という男は妥協を知らないのだ。やるからには全力で、怠慢も油断もなくやり遂げたいという不器用な男である。そんなところが本当に愛おしい。
「同じチームにお前がいるからな。余計に手など抜けないだろう」
それと同時に、憎たらしい。
この男は自覚なく、最高の賛辞を投げてくる。跡部は頭を抱えたくなったが、これしきのことでめげていては手塚と付き合ってなどいられない。
跡部がいるから余計にという気持ちも純粋に嬉しくて、素直に受け止めるだけにしておいた。
「それにしても、お前はなんでもできるのだな。弾けるのはピアノだけではないのか」
「アーン? 俺様を誰だと思ってやがる。コツさえ掴めばなんでもねーよ」
「それならなおさら、俺がギターとボーカルを兼ねる必要はないと思うが」
お前一人でいいのでは? と首を傾げる手塚に、「音に厚みを出したいと言ってるだろう」と反論してみせる。
木手はドラム、徳川はベース、とリズム隊はそろっていて、ギターとボーカルが必要なのは誰にでも分かる。二人でどちらもすることはないのではと手塚は言うが、せっかく面白くできそうなメンツなのにもったいないと説いたのは跡部だ。
「手塚、まさかテメェ、俺様と一緒ってのが嫌だって言うんじゃねえだろうな」
「そんなこと言ってないだろう。ただ、お前がうまくできるものを、俺のつたない演奏や歌で邪魔をしたくない」
「つたな……い、って、お前なあ……」
跡部は今度こそ項垂れて頭を抱えた。
この男は自分というものを分かっていない。譜面の読み方を秒で覚え素早い運指でさえこなしているのに、どこがどうつたないというのだろうか。そもそもこの跡部景吾が、できない男に大事なポジションを任せるわけもないというのに。
「あー、まあ確かに、お前と一緒に演りてぇし歌いたいっていう俺様の私情も多分に入ってるぜ。けどな、俺はお前にならできるって思ったから任せたんじゃねーか」
跡部は手塚へと歩み寄り、先ほどまで弦をはじいていた左手を取って指を絡める。そうして、ひとつひとつの指先にそっと口づけた。
「無茶して怪我をするのは許さねーが、お前なら大丈夫だ」
「…………何を根拠に言うんだ」
「この指先が何よりも情熱的で器用なことは、俺様がいちばんよく知ってるからな」
なあ? と煽るように覗き込んでやれば、含んだ意味に気がついたようで、手塚が目を瞠る。この手がどれほど器用にうごめくのか、知っているのは跡部景吾しかいない。
「はしたないぞ、跡部」
「アーン? 今なにを考えやがった?」
いったいどんなはしたない格好になっているところを想像したのだろう。もちろんそうやって想像するだろうことを見越しての言動だったが、手塚の声に僅かな動揺が混ざったことが思いのほか嬉しい。
「事細かに言ったら恥ずかしいのはお前だと思うが」
しかし返ってきた言葉にぱちぱちと目を瞬く。手塚もいつまでもからかわれっぱなしではないということか。
もう少しからかう算段だったが、逆に散弾を食らった気分だ。二人きりでの練習とはいえ、自身の痴態を言葉にされるのは御免被りたい。跡部は絡めていた指を外し、両の手のひらを向けてみせる。降参だ、と。機嫌を損ねた手塚が面倒くさいのはよく分かっているし、ケンカをしたいわけではない。
「でも言ったことは本当だぜ。お前ならできると思ってるし、俺様と演やりあえるのはお前しかいねえ」
音楽で高みを目指そうとは思わないが、最高の演奏をというのなら相手は手塚しかいない。
相手の音を聞き、追いかけ、重ねる。
考えただけでゾクゾクする。
「それにな、俺様はテメェが思ってるよりずっとテメェの声に惚れてんだよ」
冷静に見える男の、熱のこもった声。
日常の中で跡部と呼ぶ声にすら胸が高鳴ってしまうこの事実を、いつか言ってやろうと思っていた。悔しいほどに惹かれているのだと。
「なあ……聴かせろよ、手塚ァ」
その声を聴き、追いかけ、重ねる。
想像するだけでソワソワする。
テニスだけでなく、この男とならどんな世界でも熱くなれるだろうと思った。
跡部は手塚に体を寄せて、耳元で「手塚」と囁く。そうして正面から視線を合わせ、唇を重ねた。触れるだけの柔らかなキスだけれども、気持ちは充分伝わるだろう。
「聴かせろと言いながら口を塞ぐのはどうかと思うが」
至極真面目な顔をしてそんなことを言うのに、腕はしっかり腰に回して抱き寄せてくる素直な恋人に、跡部も寄り添った。
一秒の視線の交錯。同じタイミングで目蓋を伏せて、唇を触れあわせる。押しつけて、離れて、もう一度合わせた後には互いの舌先を誘い込んだ。
吐息と吸い合う音。心音は何よりも近いところで重奏し、離れがたい思いをあふれさせた。
それでもこれ以上触れあっていたらまずいことになる。互いの理性で軽く舌を噛み合い、名残惜しげに体を離した。
「……俺は自分で思っているよりお前に好かれているのだな」
こつりと額を合わせてくる手塚が愛しくて、跡部は楽しそうに口の端を上げる。
「今頃気づいたかよ?」
「こういうことには慣れていないから、何が正解か分からない」
「お前はもう少し自惚れてもいい。お前の中の“俺”に間違いはねえ」
鼻先にちゅっと音を立ててキスを贈れば、手塚はぱちりと目を瞬く。
「すべてが俺の生き様、……いや、俺たちの生き様ということか?」
「ハッ、覚悟があればいいってヤツか。どんな愛し方でも構わねーぜ、手塚。俺とお前が永遠に共にいるためならな」
歌詞を唇で追い、指先で旋律をなぞる。手塚の瞳に強い光が灯ったのを、跡部は見逃さなかった。
「跡部。今回のフェスも俺にできるすべての力をもって挑もう。お前に負けるわけにはいかない」
「くくっ、お前のそういうとこ、ホント愛してるぜ」
やってやろうじゃねーの、と高らかに声を上げて、二人は短くて濃密な休憩を終わらせた。
#両想い #ラブラブ #テニラビ
そのすべてを覚えたら
11月11日、午後11時11分。手塚国光は、つきあって11年目の恋人の前で、正座をしていた。
「お前なあ……」
恋人は細くはない腰に手を当て、上から見下ろしてくる。今日もその瞳は綺麗だななんて思うが、これは口に出さない方がいいのだろうと手塚は口を引き結んだ。
怒っている、のだろう。それは明白だ。原因は、恐らく、アレだ。テーブルの上の、菓子の箱。
「なんだってこんなに大量に買ってくんだよ!? お前元々こういうのハマってるわけじゃねえだろ!」
それをビシッと指さして、恋人――跡部景吾は声を荒らげた。跡部の言うことは確かなので、手塚はこくりと小さく頷く。まるで悪びれていない様子に、跡部の眉間のしわがさらに深くなった。
「1つや2つならまだしも、なんで駄菓子が7,……8、9個もあんだよ!?」
「駄菓子ではない、季節限定のは高級チョコを使ってあると書いてある」
「俺様には充分駄菓子だ! なんなんだよ……甘いの食いたかったにしても、多過ぎんだろ……」
跡部が駄菓子というのは仕方がない気がする。彼の口に入る物はほぼほぼが高級品だからだ。大きなため息を吐きながら跡部は一つの箱を取る。サクサクのビスケットを芯にチョコレートをコーティングしてあるものだ。同じ商品なら、何か買う個数によって特典でもつくのかと考えるだろうが、手塚が大量に購入してきたのは銘柄もメーカーも違う物。だからこそ跡部も首をひねっているのだろう。
「スーパーに寄ったら安売りをしていたので、つい買ってしまった」
「は?」
告げた事実に、跡部が素っ頓狂な声を上げる。予想外の答えだったのだろう。ぽかんとした顔からは、すっかり怒気が失せていた。
「3つ買うと安くなる仕組みだったんだが、選び切れなくて、その数になったんだ。すまない。賞味期限はまだ先だから、無駄にすることはないと思うが」
「は、いや、しょ……あのな……」
これがナマの食材だったらどうなっていただろうか。サステナブルどころではない。一緒に暮らしているとはいえあまり時間が合わないせいか、久しぶりにゆっくりできるということに浮かれてしまった感もある。勝手をしたということで、ケンカから別れ話になる可能性だって……いや、な……ある、かもしれない。手塚は膝の上で拳を握った。
「俺はそんなことで怒ってんじゃねえ。……というか怒ってるつもりもなかったんだが……悪い、大きな声を出しすぎたな」
跡部は天井を仰ぎ、片手で顔を覆う。あー……という抑揚のない声がリビングに吸い込まれていった。
そうして顔を正面に戻した跡部の瞳が、もう一度見下ろしてくる。
「本当にそれだけが理由なんだな?」
「ああ、そうだが」
「……ならいい。お前がらしくねえことするから、何か悩みでも抱えてんのかと思った。メンタルにくるようなことがあったのかと……」
手塚は目を瞠った。くしゃりと歪む顔は本当に心配していたようで、胸が痛む。
こんな時、不謹慎ながらも実感する。この男は本当に全力で愛してくれているのだと。
手塚はゆっくりと立ち上がり、そっと左手を跡部の右頬に伸ばす。
「……跡部、触れてもいいか?」
答えを聞く前に、跡部が頬をすり寄せてきてくれる。指の腹で目立つ黒子を撫でれば、安心したように跡部が目を伏せた。手塚はそのまま跡部の体を抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
「心配をかけてすまない。愛されているな、俺は」
「分かってんだったらおかしなことすんじゃねえ。くそ、なんだって安売りなんか」
無駄に消耗しちまったじゃねーかと跡部が小さく悪態を吐く。手塚はその言葉で、ふと思い出すものがあった。
そういえば、商品ワゴンのところにポップが貼られていたなと。しかも、珍しく手書きでだ。
「関係しているか分からないが、今日はポッキーの日とかいうものらしい」
「は? ポッキーって、この菓子か? なんで……」
「11月11日だからじゃないのか。日付が棒状になる」
「あーなるほどね。ったく、そんな戦略にまんまと引っかかりやがって」
変わらない体温を感じて満足したとでも言うように、跡部がぐいと体を押しやってくる。心配させたことにほんの少し怒ってはいるらしい。だが深刻な事態は回避できたようで、手塚は内心ホッとしつつスーパーのポップに書いてあった見慣れない言葉をスマートフォンで検索し始めた。
ポッキーゲームというのはなんだろう。そんなことを思いながら。
検索してすぐに表示されたところを見るに、メジャーなゲームのようだ。〝ポッキーゲームとは〟という分かりやすそうなリンクをタップして、読み進める。
そうしたのを後悔した。
ポッキーゲームの正体を知った手塚は項垂れ、頭を抱える。決してそういうつもりではなかったのだが、レジを担当してくれた店員にはどう思われたことだろう。
「手塚? どうした」
「いや……スーパーで見慣れない言葉を見たので、検索してみたんだが」
「あん?」
「ポッキーゲームというもので、今日この日、よく行われるらしい」
ゲームと聞いて、跡部の目の色が変わる。ゲーム=勝負と捉えてしまうのは仕方のないことだ。しかも、お互いに。
「ポッキーゲームだぁ? なんだよ、面白そうじゃねーの。ああ、だからこの菓子が安売りされてたのか。どんなゲームなんだ?」
言いながら、跡部はすっと手を伸ばしてくる。ポッキーゲームとやらのやり方を検索した画面を見せろということらしい。手塚はほんの少しためらって、顛末を渡した。
「跡部、言っておくが俺は知らずに買ってきたんだからな」
「やけに及び腰じゃねーの。そんなにおかしなもんなのか? …………は……ん、なるほどな?」
跡部は説明のページを見て理解したようで、にやにやと楽しそうに口の端を上げている。揶揄う腹づもりなのが丸わかりだ。
「キスしたいならそう言やいいじゃねーの」
「だから、俺はそういうつもりで買ってきたんじゃない」
「まあいいじゃねーか。せっかくあるんだし、やるか? ポッキーゲームとやらを」
「やらん。食べ物で遊ぶんじゃない」
「相変わらず堅いヤツだな」
む、と尖らせた唇にはキスをしたいが、このゲームの趣旨はそういうものではないはずだ。
「これはたぶん、恋人でない者たちがやるのだろう。恋人ならこんなものを口実にせずともキスができるだろう」
好意を持っている相手への分かりやすすぎるアプローチ、もしくは罰ゲームという位置づけになるはずだ。手塚と跡部では、このゲームが成り立たない。
「ん、まあ……そうだな。俺たちはキスすんのに口実なんていらねえからな」
跡部が、両腕を首の後ろに回してくる。「ん?」と促すように小首を傾げる仕草が可愛らしくて、手塚は跡部の腰に腕を回した。
「何度してきたんだろうな、キス」
「さあ……数えているわけではないからな」
「感触も温度も、もう覚えちまってる」
「そうか? 俺はまだ覚えられていないかもしれない」
「なんだとてめぇ」
ピキリと音がしそうな動きで眉が寄せられる。誤解は早めに解こうと、指先で跡部の唇をなぞった。
「だから覚えさせてくれ。ここに触れたい」
跡部の目が、ぱちぱちと瞬かれる。それはややあって幸福そうに細められた。
「いちいち回りくどいんだよ、てめぇは。……唇だけじゃなく、俺のすべてを覚えてろ」
そう言って、そっと眼鏡を外してくれる。丁寧につるをたたんでくれる仕草に、やはり全力で愛されているのだと思う。
ならばこちらも全力で愛そうと、唇を覆った。ベッドまで行く時間さえ惜しくて、そのまま二人でソファに倒れ込む。
この感触と温度を覚えるために、今日はどれだけ肌を合わせようか。
たとえ疲れてしまっても、糖分ならここにたくさん積んであるから、心配はいらないはずだ。
「なぁ、あれ……あとで一緒に食べような」
「ああ……そうだな。俺がお前のすべてを覚えたら」
「ふふ、ばぁか……」
覚えたい唇の感触がだんだんと濡れていく。新しい感覚がやってくる。いったいいつ、すべてを覚えられるだろうか。そんなことを思いながら、手塚は丁寧に跡部に触れていった。
跡部が、その後棒状のチョコ菓子にハマってしまったのは、想定外のようなそうでもないような。
#両想い #ラブラブ #未来設定 #ポッキーの日
恋を羽織る
「狭いな」
部屋に通されて最初の言葉がそれだとは、さすが跡部景吾だ。
「お前の部屋に比べたら、どこでも狭いだろう」
知らないが。手塚はそう付け加えて小さくため息を吐く。跡部はそれに、「冗談だ」と返してきた。
手塚も、それほど跡部の言動を気にしているわけでもない。ベッドと勉強机とチェスト。一般的な広さと家具だし、何も不便などない。そもそも『跡部景吾』の言動をいちいち気になどしていられるものか。何しろ日本屈指の財閥の御曹司だ。狭いというのも、本音ではあるのだろう。
生活環境や価値観などは、違っていて当然だ。
違うからこそ、惹かれてしまう。
きょろりとゆっくり部屋を見渡す跡部を、ちらりと視線だけで見やる。少し前からは考えられないことだ。跡部景吾が自分の部屋にいるなんて。落ち着かない気分で学ランを脱ぎ、畳んでチェストの上に置いた。
どうしてか視線を感じて振り向くと、パッと逸らされる。若干気分が降下しながらも、跡部の視線が自身の上着に移ったのに気づいた。
「……上着、かけておくか?」
くつろげないだろうとハンガーを手に取れば、跡部が苦笑しながらボタンに手をかける。指先で器用に外して腕を抜いていく様を、じっと凝視してしまった。おかしな思考にならないうちにハンガーを手渡して、手塚は踵を返す。
「座ってろ、お茶を入れてくる」
「ん、ああ」
ハッとして跡部が返事をしてくる。ぎこちないと思ったのは、初めて訪れた場所だからだろうか。そう思いながら、跡部を部屋に残して階段を降りた。制服姿をまだ見慣れていないせいか、心臓が必要以上に速い気がする。
落ち着かなければいけない。何も特別なことはないのだから。今日はただ、跡部が読みたがっていた本を貸すことになって、初めてテニスを絡めずに同じ時間を過ごすというだけだ。
だからこの厄介な恋情は、今は押し込めていないといけない。
キッチンへ差しかかった辺りで、なぜ、と思う。なぜ抑えないといけないのだろう。手塚国光が跡部景吾を好きだという事実は、もう何をしようと変わらないのに。それならばむしろ、言わない方が不誠実なのではないだろうか。
「珍しいのね国光。お友達連れてくるなんて。学校も違うようだし」
「氷帝の……他校のテニス部部長なんです。試合を経て、……親しく、なれたと」
「そう。もっと仲良くなりたい相手、ということね。国光、嬉しそう」
母親がお茶を入れてくれる。このカステラは父の好物ではなかったかと彼女の顔を見やったら、内緒ねと唇に人差し指を当てられた。母親というものには敵わないと、こんな時いつも思う。きっと、気づかれたのだろう。
「そうですね」
否定することはせず、入れてもらった紅茶とカステラ、フルーツのゼリーをトレーに載せ階段を上がった。
「跡部、入るぞ」
「ああ」
声をかけると、跡部がドアを開けてくれる。普段は開けてもらう側だろうに、こうやって気の利くところは好ましい。
「すまない、助か……」
だが、次の瞬間そんなほのかな想いが吹き飛んでいった。手塚は目を瞠る。トレーを落とさなかったのは、褒められてもいいくらいだろう。
「な、……にをしてる、跡部」
何しろ、跡部が学ランを羽織って待ち構えていたのだ。それは間違いなく手塚のものだろう。困惑ばかりが襲いかかってくる。
「ん? ああ、これかよ。悪い、ちょっと気になっちまってな」
硬直した手塚に気づいたのか、跡部の視線が肩の学ランに落ちる。それでも脱ごうとはせず、手塚は頭の中の混乱を結んでぽいと放り投げ、ため息一つで平静さを取り戻した。
「ああ、氷帝はブレザーだしな。だからといって何も人のを勝手に羽織ることもないだろう」
「怒るなよ」
「怒ってはいない。呆れているんだ。ほら、脱……いや、いいが」
脱げと言い掛けて、破廉恥な思考になりそうで踏みとどまる。跡部がそうしたいというなら放っておこうと、小さなテーブルを出して紅茶を置き、カステラとゼリーを並べた。
「サンキュ。美味そうじゃねーの」
「桃と葡萄、どちらがいい?」
「桃がいいな。そっちも一口くれ」
桃のゼリーを跡部の方に差し出して、手塚は再び硬直する。違う方も食べてみたいという気持ちは理解できるが、心臓に悪い。だが断る理由もない上に、非常に可愛らしくて頷いてしまった。
跡部のスプーンが葡萄のゼリーをすくっていく。つるりと吸い込まれていく唇に、どうしても目が行ってしまった。
「ほら手塚、こっちもやるよ」
「え、あ、ああ」
「食わせてやろーか?」
「結構だ」
どうにか平静を装って、桃のゼリーをすくって食べる。あまり味がしないのは、緊張していたせいかもしれない。
跡部はどうも学ランが気に入ってしまったようで、ずっと肩に羽織ったままだ。寒いというわけでもないだろうに、たびたび指先で触れる仕種が目に入る。氷帝のシャツの上に羽織られる青学の学ランというのは、愉快な光景だ。
跡部の体を、自分の学ランが包んでいるというのは、良くない光景だ。そんなことは絶対にないのに、跡部を抱きしめているような錯覚に陥ってしまう。
「なあ。そういやこういう学ランて、卒業式に第二ボタン分捕られるって聞いたが、そうなのか?」
ふと思い出したように、跡部が第二ボタンを見下ろして撫でる。分捕られるという表現はどうなんだと思いつつ、手塚は眼鏡の位置を直した。
「どこからの情報だ。まあ確かに、昔からそういう風習はあるようだが。意中の相手の、心臓にいちばん近いところのボタンをもらいたいという想いかららしい。もちろん、男の方からボタンをやるというのもあるな」
「ふぅん? 心臓に近いっていったら、中のシャツでもいいようなもんだが。そこはロマンてヤツか?」
手塚も跡部も、中学三年生。あと何ヶ月かすれば、中等部を卒業しなければいけない。卒業式には、いくつかのボタンが飛び交うことになるのだろう。基本的には持ち上がりの高等部に進学するというのにだ。
しかし、手塚は卒業したら青学の高等部には上がらずドイツに行くと決めている。もっと強くなるために。
この恋はここに置いていかなければいかなければならないだろうか。せっかく初めての恋だというのに。
やはり、告げておいた方がいいかと思う。告げられないまま離れたら、きっとずっと引きずってしまう。せっかく二人きりなのだし、今言ってしまおうかと、口を開いた。
「跡部」
「第二ボタン、お前も誰かにやる予定あんのか?」
出鼻をくじかれた気分だ。話の流れとしてはおかしなものでもないが、このタイミングでは勘弁してほしかったと、手塚は頭を抱える。
「いや、やる……というか、もらってほしい相手はいるが……」
「へえ、そういう相手がいんのかよ。お前も隅に置けねえなあ」
ふっと笑いながら跡部が言う。これは脈も何もないなと、手塚は盛大にため息を吐いた。いっそ卒業式に氷帝学園に行ってボタンを押しつけてやろうかとさえ思う。
どうするのが正しいのだろうか。脈もないのに告げて、跡部は困らないだろうか? もう友人としてさえつきあえなくなるのは、嫌だ。それならば、黙っていた方がいいのかもしれない。初めての恋だが、初めてだからこそ壊したくない。
逃げるのか、と言われても、そうだとしか返せない。
あと少しだ。あと少ししか一緒にいられないのだから、その間くらいは〝親しい〟のだと錯覚させてほしい。衣服を羽織られるだけで触れているような気になる、そんな馬鹿げた錯覚でも構わない。
「……そっか……いんのか……」
跡部の、沈んだ声が耳に届く。いつも強気な彼にしては、珍しいものだった。
「行く当てがねえんなら、可哀想だから俺様がもらってやっても良かったんだけどな」
「………………は……?」
何を言われたのか分からない。もらってやっても良かったというのは、どういう感情からなのだろうか。
「大石とか、不二とか、引く手数多だろ。ふふ、てめェはどうだよ、手塚ァ」
真意を訊ねようとしたところで、もういつもの口調に戻った跡部が笑う。単純に、欲しがる相手がいるかどうかということらしい。もう何も期待するものかと眉間にしわを寄せた。
「そういうお前はどうなんだ、跡部。氷帝には、そういう習慣はないのか?」
「ウチはネクタイだな。卒業式でなくても、恋人とネクタイ交換して着けてるヤツはいるみたいだぜ」
言いながら、跡部は指先でネクタイをすくい上げる。絡んだそれは、運命の赤い糸のように見えた。
「誰かにあげるのか」
「いや、誰にも。跡部景吾が誰か一人のものになるわけにはいかねーだろ」
跡部景吾という男が、多くの人間に慕われているのは知っている。それらに平等に接しているらしいことも。もしや自分もその中の一人なのかと思うと、無性に腹が立った。同時に、悔しくて仕方がない。このままでは、跡部の中でなんの意味もない存在になってしまう。
「お前の博愛主義をどうこう言うつもりはないが、それなら俺が欲しいといってももらえないのだな」
「………………は……?」
「俺は跡部のネクタイが欲しい」
「な、に、言って」
跡部の目が大きく見開かれる。逆に、手塚の目はすっと細められた。
「意味が分からないほど馬鹿じゃないだろう」
「テメーこそ意味分かって言ってんのかよ! 俺のっ……ネク、タイ、欲し、い、とか」
「氷帝そちらの風習を充分に理解した上で言っている」
跡部の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。それは珍しいものを見たと思わせ、手塚はぱちぱちと目を瞬いた。青い瞳はゆらゆらと泳ぎ、唇が震えているように見える。
「だ……って、お前、ボタンやりたいヤツがいるって……今言ったばっかじゃねえかよ……」
「いや、だからそれは」
「俺の首欲しがるってんなら、お前も心臓よこすのが筋ってもんだろ! 学ランごとよこせ!」
跡部は言いながら、第二ボタンごと学ランを握りしめる。手塚は目を見開いた。
言葉で、まっすぐな瞳で、分かりやすい仕種で、欲しがってくれている。一瞬遅れてそれを理解して、思わず学ランごと引き寄せていた。
「んっ……」
気がついた時にはもう唇同士が触れていて、ほんのりとフルーツゼリーの味がする。思いがけず叶ってしまった恋は、この唇でこれからゆっくり語り合えるだろうか。
唇を離すと、感触を確かめるように指先で撫でながら、跡部が右肩に寄りかかってくる。
「……手が……早ぇ……!」
押し殺したような声は、責めているのか喜んでいるのか分からない。手塚はひとまず自分に都合の良いように解釈してから、跡部の体を学ランごと抱きしめた。これで、錯覚なのではなくなる。確かに自分の腕が抱いているのだと実感して、耳元で囁いた。
「好きだ、跡部」
ややあって、応えるように跡部の腕が背中に回ってくる。
「……俺も、好きだぜ手塚」
抱き合った互いの体温はシャツ越しでも温かかったが、そんな恋人たちの傍では紅茶が徐々に冷めつつあった。
#両片想い
指を絡めた後に
荒い息が、コートに響く。どちらがどれだけポイントを取っているか、もう忘れてしまった。
この男とのテニスなら勝敗にはこだわりたいけれど、それ以上にいつまでも続けていたい。勝敗か、時間か。どちらが大切かなんて、決められない。
汗がしたたり落ちる。それがたまらなく美しく見えて、心臓がドクンと音を立てた。
高揚する気分が、おかしなものまで連れてくる。その感情の存在には気づいていたけれど、言いたくない。音にしてしまったら、もう絶対に止められないのが分かっている。
いつまでも続けていたい。そう感じているからこそ、この一人きりの勝負に負けるわけにはいかなかった。
汗で、握ったラケットが滑る。ボールはフレームに当たって高く弧を描き、狙い澄ましたスマッシュで撃ち抜かれてしまった。
「いったん切り上げるか? もうこんな時間じゃねーの」
「……そうだな」
油断していた、とラケットを握り直すけれど、ネットの向こうの相手――跡部景吾はラケットを下ろしてしまう。仕方なくネットへと歩み寄って、右手を差し出した。真ん中で重なる手は、汗ばんでいる。それが不快でないのは、テニスに打ち込んだ証明だからだろう。跡部の方はどう思っているか知らないが。
「……お前の手って、わりとでかいな」
「そうだろうか? 普通だと思うが」
手を持ち上げられて、手のひらを上向かされる。そんなことはないと思うが、そういえば誰かと比べてみたことはなかったかもしれない。
「人差し指が俺より少し長い」
俺の右手と跡部の左手が向かい合わせで重なる。ぴったりと合わさって、じんわりと汗が混ざった。息を呑んだ音は、聞こえていないといいんだが。
そんな俺をよそに、跡部は指先を順番に合わせてくる。親指、人差し指、小指、中指、薬指。丁寧に触れられて、胸がざわついた。
「ほら」
「人差し指が長いだけで、俺の手が大きいとは判断できないだろう。それを言うなら、お前は薬指の方が長いんだな」
「あ……本当だ」
曲がっていた関節がぴんと伸びて、指先が少しだけずれる。指の長さは人によって違うと聞いたが、こんなふうに見る機会はなかった。
この手がラケットを握っているのかと思うと、なんとも言えない気分になる。敬いたい気持ちと、純粋な興味と、純粋でない欲望が自分の中でせめぎ合う。
このまま握り締めて引き寄せてしまおうか。
……できるわけがない。
この手はラケットを握るためにあるのであって、俺が指を絡めるためにあるわけではないんだ。
不埒な欲望に、跡部景吾を巻き込むわけにはいかない。この気持ちは抑えこまなければならない。
人差し指が、ピクリと動く。我慢しようと思えば思うほど緊張して力がこもってしまった。
そうしたら、同じように居跡部の薬指が僅かに揺らぐ。不思議に思って跡部を見やれば、なぜか困ったように片眉を上げていた。
「跡部?」
「…………なあ手塚、嫌なら拒んでくれていいんだがよ。この指……絡めてみてもいいか」
何を言われたのか分からない。俺の気持ちが、そのまま音になってしまったのかと思った。
都合の良いように解釈してもいいのだろうか。いや、跡部は単に指を絡めることに興味があるというだけなのかもしれない。……どんな興味だ。
「構わないが……一つ頼みがある」
「な、んだよ」
「――俺も指を絡めてみてもいいだろうか」
思い切って音にしてみれば、跡部が目を見開く。ああ、綺麗な青だ。さっとわずかに染まった頬は、やはり期待していいものか。
「……ああ、いいぜ」
許諾されて、ドキンドキンと胸が胸が鳴る。
そうして俺たちは、互いに見つめ合ったまま指を絡め合った。ゆっくりと、ゆっくりと。
そんなことで何か分かるのか。
こんなことで何か変わるのか。
指の付け根まできゅっと絡ませ合い、ひとつ瞬く。
たぶんそれが、二度目の交錯を認識した瞬間だったんだ。
一度目は、あの夏の暑い日。
長いタイブレークを交わした試合の中で、テニスに対するお互いの思いを知った。
そして、今日。
俺たちは言葉もなく、唇を重ね合わせた。
#両片想い #BOOST🙏
ただの好意かそれとも恋か2

いつかみた永遠のあと2ndにて発行
『ただの好意かそれとも恋か』続編。一応これで完結、旧テニの世界線です。
【装丁】文庫サイズ/206P/R18/1000円(対面イベント価格)
【自家通販】BOOTH(https://hanaya0419.booth.pm/items/422502...)匿名性なし
書店:フロマージュブックス様(https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/de...
【あらすじ】まっすぐすぎる手塚の想いに触れて、跡部は恋人としてつきあうことを承諾した。そうなった以上は手塚を好きになってやりたいが、どうすればいいのか分からない。卒業まであまり時間もなく、離れる前に恋人らしくなりたいけれど、気持ちが追いついてこない。それでも手塚からの想いは嬉しくて、
心が傾きかける。そんな中、もうすぐ互いの誕生日で──?
他人の体温が、こんなに落ち着くものだとは思っていなかった。
そう表現するとあらぬ誤解を受けそうではあるが、あながち誤解というわけでもないような気はする。
跡部は手塚の背を抱いて撫でながら、はあーとゆっくり息を吐いた。
まさか、手塚国光と恋人として交際をすることになるとは思っておらず、受け入れておきながら若干展開についていけない。
勢いだったと言うつもりはさらさらないけれど、この状況をどうしたらいいのだろう。
自分を抱いてくる手塚の腕は先ほどよりさらに強くなっているし、小さく「跡部」と呟く声は、震えているようにも感じられる。それほどに歓喜しているのかと思うと、胸が締めつけられた。
「……手塚。なあ、いったん離れろ……少し、苦しい」
なだめるように背中をぽんぽんと叩けば、手塚はハッと我に返ったように体を強張らせ、慌てて距離を置く。跡部はそれがおかしくて、口の端を上げた。
「す、すまない。夢ではないかと思って」
「アーン? 夢じゃねえだろ。今さら撤回するつもりはねぇぜ、俺様は」
手塚に好きだと言われて、応えてやれないことが苦しいと思うくらいには、手塚に好意を持っている。それならば受け入れた方がいっそ楽だと思ったのだ。
間違いなく恋ではないが、手塚はそれでも構わないと言ったはず。相変わらず自信満々に「恋に変えてやれば問題ない」などとのたまいながら。
二人でソファに座り直し、同時に息を吐く。示し合わせたわけでもないのにタイミングが重なってしまったことに、どこかむずがゆさを感じた。
「真似すんなよ」
「してないだろう」
「……ふん。なあ、ところで手塚よ」
「なんだ」
「つきあうってのはいいんだが、お前は具体的に何をしたいんだ」
ソファの背にもたれふんぞり返ってそう呟けば、手塚は珍しく表情を崩す。「何を言っているんだこの男は」とでも言いたげなその顔は珍しくて、後から写真でも撮っておけばよかったと思ったことだろう。
「なんだ、その顔は」
「いや、跡部お前……交際というものの意味くらい分かるだろう」
言いながら手塚はポケットから携帯端末を取り出し、何かを打ち込み始める。
そうして、跡部にも見やすいようにと端末を互いの真ん中辺りに移動させてくる。跡部は反射的にそれを覗き込んだ。
「親密な関係を前提とした、互いの適合性を確認することを目的としたつきあいの段階……フン、なるほどね。って、そうじゃねーよバーカ。さすがに意味は分かる」
どういう解釈をしたら、交際そのものの意味が分からないと思うのだろうか。跡部は自身が世間一般の常識から若干外れているだろうことは自覚しているものの、そこまで世間知らずではない。
「俺が言ってんのはそこじゃねえ。つきあうってなったらいろいろ、その、あんだろーがよ」
「いろいろか。俺とお前では、一緒に登下校というのは無理だな……休日にどこかへ出掛ける……今までもそうしていた気がするが。……跡部、もしかして俺たちはとっくにつきあっていたのではないのか?」
「んなわけあるか! こういうのは双方の合意が必要だろうが。俺が頷いてやったのはついさっきだぜ。……そういうとこでもねえんだよ手塚、テメーは幼稚園児か」
会話が成り立っているような成り立っていないような。跡部は呆れたように項垂れて、額を押さえる。手塚がそこまで考えていないということはないはずだ。頭の中でどうこうしようが構わないと言った言葉に、すまないと返してきたことがあるのだから。
「どういうことだ、跡部」
「察しの悪いヤツだな。恋人同士ってことは、肉体的なつきあいもあるのがほとんどだ。俺がお前を抱くか、お前が俺を抱くかとか、いろいろあんだろ!」
何を言わせるんだと眉をつり上げ、声を張り上げる。
恋人になることを承諾した以上、そこは重要な部分ではないだろうか。きちんと役割が決まっている男女とは違って、自分たちは男同士だ。どちらがどちらになるかというのは、あらかじめ話し合っておかないと、認識のズレで大変なことになる。
「そうか、分かった。では俺がお前を抱こう」
至極真面目な顔で頷きながら、手塚はさも当然のことのように返してくる。跡部は今度こそ本当に呆れてしまった。最大限譲歩したような口ぶりで、少しも譲る気のない言葉は、手塚らしいとも思ったけれど。
「テメェ俺様を抱く気でいんのか」
「そうだが」
「こっちだって抱く側の性別なんだよ」
「知っている。……待て跡部、お前も俺を抱きたいのか?」
「そういうことを言ってんじゃねーよ! さも当然のように俺を女役にすんなっつってんだ!」
そもそもたった今恋人同士になったばかりなのに、抱きたいかどうかなどと分かるはずもない。
話題にしておいてあれだが、考えたことがなかった。
もし抱けと言われたら抱く努力をしてみようとは思うが、努力をしなければならない段階ではそんな行為はしたくない。何をするにもお互いの合意が必要だ。
「交際を承諾されたばかりでこんなことを言うのもどうかと思うが、俺は跡部を抱きたい。お前は俺を抱きたいわけではないと言う。それならば、抱きたいという明確な思いを持っている俺がお前を抱くべきだろう」
テニス馬鹿だとばかり思っていたこの男にも、人並みの欲望があったのだな――なんてことを言うつもりはないが、ここまで押しが強いとは思っていなかった。
プレイスタイルを考えればそう不思議なことではないのかもしれないが、手塚国光という男に抱いていたイメージというものが、ガラガラと音を立てて崩れつつある。
「なるほどね。……いや違う、納得すんな。くそ、もっともらしいこと言いやがって……。じゃあ訊くが、もしこの先俺がお前を抱きたいって言ったらどうするつもりなんだよ。大人しく抱かれんのか、テメーは?」
「……お前がそう望むのなら、……努力は、する。お前とは、対等でありたい」
眉間にしわを寄せて険しい顔をし、めいっぱい躊躇いながらも、手塚は頷く。
どうせ突っぱねるのだろうと思っていただけに、跡部は「努力する」と言われたことに驚いた。自分の願望を何が何でも押し通したいわけではないようで、毒気を抜かれた気分になる。
「だから跡部、お前はまず俺を好きになってくれないか。順番で言ったらそこからだろう」
「あー……そこは前向きに考えておいてやるぜ。言っておくが、つきあうのを承諾したのは、テメーがめんどくせぇからだ」
「考える余地があるという時点で、俺の勝ちが決まったようなものだな。覚悟をしておけ」
「アーン? 早々に勝利宣言とは、いい度胸してんじゃねえか手塚ぁ! 俺様が負けるわけねえだろうが!」
「いや、俺は必ず勝つ」
ソファの上でお互いに向き合いながら、不毛な争いが始まる。勝ちだの負けだのの言葉に過敏に反応してしまうのは、プレイヤーとしての性だろうか。
「上等だ、コート行くぜ手塚!」
「勝負か、受けて立とう」
ザッと跡部が腰を上げれば、手塚も同じ勢いで立ち上がる。視線はお互い相手を捉えたままで、一触即発と言っても過言ではない雰囲気だ。ことの発端がベッドの中での役割の話だったなどと、この状況で誰が思うだろう。
それでも二人は、意気揚々と部屋を出て跡部家のテニスコートへと向かっていった。
汗が飛び散る。荒い呼吸が空気を揺らす。握りしめる手に力がこもる。荒い吐息の中で相手の名を呼んで、足を大きく――踏み出す。
「まだだ、跡部……っ」
「……くっそ……!」
頭より先に体が反応して、受け止める。もちろん、小さな黄色いボールを、だ。
長いラリーになった。お互い負けるわけにはいかないと、意地でつながっていくボール。恐らく二人ともが、どこからこんなことになったのかもはや覚えていないのだろう。
ただネットを挟んだそこに相手がいる。ラケットがある。ボールがある。
それだけで、この瞬間すべてを懸けるに値した。
この広い世界の中で、そう思えるものに――そう思える相手に巡り会えたのは僥(ぎよう)倖(こう)だ。
なくしたくない。繋がりを断ちたくない。好意を向けられているのなら、受け止めてでも。
そう頭の隅で考えた瞬間、ボールが足元を撃ち抜いた。跡部はハッとして、転がったボールを振り向いた。
「油断しているお前が悪い」
「…………してねーよ」
チッと舌を打ち、ボールを拾い上げる。まったく厄介な相手だと思いながら、ぐいと汗を拭った。なんとも思っていない相手ならば、突き放すことなんて簡単なのに。手塚国光だというだけで、それが難しくなる。
ぽんとボールを放ってよこすと、手塚はぱしりと受け止めただけでサーブ位置に向かうことはしなかった。不思議に思って首を傾げたら、責めるような眼差しで突き刺された。
「勝負の最中に考え事とは、随分余裕だな、跡部」
「アーン?」
「打球が軽くなった。言い直すぞ。今お前の足元を抜けたのは、お前の油断じゃない。慢心だ」
わずかに怒りが混じる声に眉が寄る。頭ごなしに言われるのは不愉快だ。心当たりがあるとしても、だ。
「何を考えていた? 本調子ではないお前に勝っても、嬉しくないな」
「てめーが勝つこと前提かよ。…………いや、悪い、まだ少し……受け止め切れていねえんだろうな」
挑発するように笑ってみたものの、すっきりしなくて跡部は視線を逸らす。ひとつ深呼吸をして、非を認めた。
せっかく手塚と打ち合っているのだ、集中したい気持ちはもちろんある。勝ちたい気持ちも、叩きのめしたい気持ちも大きい。
だけど、心のどこかで引っかかっている。
「受け止めきれないというのは、俺がお前を好きだということをか?」
ネット際まで歩んできた手塚を見やり、小さく首を振った。手塚の気持ちを疑うことはない。何しろ視線も気持ちも、痛いほど自分に向かってくるのだから。
「受け止めきれねえってのは、俺の……自分の狡さだ」
そんなまっすぐな気持ちに応えられないことを、ずっと心苦しく思っていた。ただ種類が違うだけでこちらもちゃんと好意を持っているというのに。
だからもういっそ受け入れてやれと思ったのは、勢いだけではない。手塚ならばいい、本当にそう思っている。
後悔はしていないのに、引っかかる。
「俺はお前に恋してねえ。お前とテニスがしたい、お前をつなぎ止めておきたい、この糸を断ち切りたくねえ。そんな自己欲を満たすために、お前の気持ちを利用している。……お前じゃなけりゃあ、もっと簡単だったろうにな」
自嘲気味に笑い、己の矮小さに初めて気づく。跡部景吾ともあろうものが、そんな形のないものに縋るだなんて滑稽だ。
らしくないと呆れられるだろうか。
真剣な想いを利用するなと怒るだろうか。
手塚に応えたいと思う傍ら、応えられなかった時のことを思うと怖い。きっとこの糸は切れてしまう。切りたくないから、応えたい。だけど――と無限ループに陥ってしまいそうだった。
「お前のそれがずるいということならば、俺はもっとずるくて卑怯な男ということになるが」
ややあって、呆れも怒りもまじっていない声が耳に届いた。跡部は反射的に俯けていた顔を上げ、正面に手塚国光を見た。
「アーン……? 卑怯って、てめぇがか」
「そうだ。俺はお前が俺とのテニスを望んでくれていることを知っている。純粋に嬉しいと思う横で、テニスを引き合いに出せばお前が断らないと分かっていて、ラケットを握る。テニスにそんな感情を持ち込みたくはないが、お前の瞳が俺の動きを追う様を見るのは気分が高揚する。恐らく、快感と言っていいものだろう」
「かっ……」
思いも寄らない言葉が返ってきて、ボッと頬が染まるのを実感する。当の手塚は恥ずかしげもなくまっすぐに見つめてきているから、余計に羞恥が増大した。
「跡部、俺はお前を好きになってからずっと、己の中の相反する心と戦っている。テニスを利用することへの怒りや不甲斐なさや、純粋に楽しみたいのにできないもどかしさが、常にあるんだ」
跡部の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。テニス馬鹿だとばかり思っていた手塚が恋をしていることもそうだが、そんなふうに考えていたなんて。
ぐっとボールを握りしめるその拳の強さは、そのまま彼の中の葛藤を表しているのだろう。手塚の中でいちばん大切なものと、大切にしたい相手、そしてその相手が大切にしているものが、複雑に絡み合っているに違いない。
「相手がお前でなければもっと簡単だっただろう。もっと上に行きたい――それだけだったのに、テニスをする理由が増えてしまった」
「理由……?」
跡部がひとつ瞬いて再度手塚に目をやれば、互いの真ん中で視線がぶつかる。絡んで、結ばれて、引き剥がせないところにまできてしまった。
「お前に負けたくない。お前と同じだけの熱量でこの世界にいたい。俺はこの先一人で歩いていくものだと思っていたが、できればお前とずっと共に歩めたらと、そう思っている」
すうっと、乾いていた土に水が染み込むようにその言葉が体の中に入ってくる。緩やかに体を潤していくそれは、指先にまで到達した。
テニスにかける熱量はお互い同じ。そこに恋愛感情を混じらせたくないという思いも、利用してしまうことへの葛藤も、同じなのか。ずるくて卑怯だと言いつつも、手塚はどこか満足げで、楽しそうですらある。
跡部は顔を下向けてはあーと息を吐いた。
同じだというのならば、もういいかと。
テニスをお互いの不埒な想いに巻き込みたくはなかったが、手塚はそんな自身さえ受け入れている。手塚にできて、自分にできないわけがないと、跡部は顔を上げてキッと手塚を睨みつけた。
「中学生の分際でプロポーズとは、大した度胸だなあ、手塚ァ!」
「プロポ…………そういうつもりで言ったわけではない」
「んだよ、そこまで考えてねえってか?」
「違う、お前にプロポーズするなら、もう少しちゃんと言いたいというだけだ。今のをプロポーズなどと思ってもらっては困る」
揶揄ったつもりが、撃墜された気分だった。頬が火照るのを自覚したが、悔しくて顔を背けられない。負けたような気分になってしまう。
「……ハ、口下手なテメェがどんなプロポーズするつもりなんだか。いいか手塚よ、俺は跡部の後継者なんだぜ。それなりの覚悟で――」
「分かった。では予約だけしておこう。お前にいちばん初めにプロポーズするのは俺だ、覚えておいてくれ」
二の句が継げない。交際を承諾したその日のうちに、プロポーズの予約とは。
その単語を出してしまったのは跡部だが、後悔した。手塚は本気でそうするつもりでいる。
まっすぐに、強く、強く、見つめてくる瞳に、ぞわぞわと肌があわ立った。毎度のことながら、すさまじい自信だ。断られることなど微塵も考えていないようなオーラが腹立たしくて、恥ずかしくて、悔しい。
「……テメェの相手すんのは、疲れるな」
「それはこちらの台詞だ。お前相手だと、いつも気を張っていなければならない。ひとつの油断がお前に嫌われることにならないかと……そんなことばかり考えている」
跡部がため息を吐けば、手塚がその倍ほどの量を吐き出す。
跡部は目を見開いた。あの自信満々の声の底で、そんなことを考えているというのか。まったく、内側が少しも読み取れない男だ。
間抜けにもぽかんとしていた己に気がついて、我に返り跡部は肩を竦めて小さくハッと笑う。そうしてネット際まで歩み、手塚の額を指先ではじいた。
「……っ、何を、するんだ」
「ばぁーか。テメェを嫌いになんかなりやしねえよ。安心しな」
それなりに痛かったのか、額を押さえる手塚に自信たっぷりに言ってみせる。
この男に恋をできるかどうかは分からない。だけど、嫌いになることだけはないと、胸を張って言ってやれる。
「たとえ何らかの罪を犯しても、張り倒してやるだけで、嫌いにはならねえ」
「……俺はそんなことしない」
「たとえっつってんだろ。だが、そうだな……俺が手塚国光を嫌いになることがあるとしたら――ひとつだけだな」
手塚がひとつ瞬き、先を促してくる。
跡部もひとつだけ瞬き、言葉を舌に載せた。
「お前が、テニスを嫌いになったら、俺はお前を好きではいられねえ」
ぐっとラケットを握る。
この先テニスを続けていく中で、ずっと同じテンションでプレイできるとは限らない。体に限界が来て、辞めざるを得ない時もくるだろう。
だが、だからといってそれを責めるようなことはしない。責めたいとも思わない。それが手塚の選ぶものならば、納得ができる。
「テニスができなくなってもいい。テニスを好きじゃなくなってもいい。だがテニスを憎むような男にはなるな。そうすりゃ俺は、死ぬまでテメェを嫌いになることはねえ」
「テニスを……嫌いになるという発想がなかった。あり得ない話だ。安心しろ、俺にはテニスとお前しかないからな」
「……っちゃっかりさらっと口説き文句入れてくんじゃねーよ」
無意識だったと、眉を寄せた手塚の困ったような顔に、胸の辺りがくすぐったくなった。ついうっかり口に出てしまうほど、自然に想ってくれていることが、嬉しいと思ってしまった。
「手塚、今日はこれくらいにしておこうぜ。叩きのめしてやりてぇっつー気持ちが萎えちまったからな」
「お前こそ、ちゃっかり自分の勝ちで終えようとしているが」
「そうだったか?」
そもそもどうしてこんなことになったのだったか、忘れてしまった。確かに跡部の方が多くポイントを取っていて、勝敗をつけるのならば跡部の勝ちだ。
それを面白くなさそうにする手塚を、どう受け止めたらいいのだろう。
頑固だと言えばいいのか、融通が利かないと言えばいいのか、大人げないと言えばいいのか。それとも、可愛らしいと思ってしまってもいいのか。
「次に取っときゃいいだろ」
「次だって、お前は負けるつもりがないんだろう」
「当然だ。まあ、そうむくれんなよ。今日はテメェにとっちゃ最高に幸せな日だろ? 何しろこの俺様を手に入れられたんだからよ」
「俺に恋をしていないというお前をな」
言いながらも、続けるつもりはないらしい手塚は、タオルを取りにベンチへと向かいかける。恋に変えさせるなどと強気なことを言っていても、そこは気にしているようだ。
「手塚」
跡部は、体を翻しかけた手塚の腕をつかんでぐいと引き、振り向かせる。少しだけ踵を上げて伸び上がり、汗の浮かぶ額に唇を寄せた。先ほど指先ではじいた場所に。
こんなことで痛みは消えないだろうし、らしくないことをしているということも分かっている。
触れて、二秒。離した唇の端を上げた。
「せいぜい頑張って落としてみせな。今はこれで我慢しておけ」
至近距離で見た手塚の表情は茫然としており、一秒後にはカッと頬が染まって見えた。
「…………跡、部っ……!」
「そんな反射神経で、よく俺様のライバルなんてやってられるよなあ。ほらもう戻るぜ」
掴んでいた腕を放せば、らしくなく手塚がよろめく。ネットを掴んで支えにしつつ、手塚は項垂れていた。
まったく愉快な光景だと、跡部は気分が良い。あの手塚国光が、額へのキスひとつでこうまで動揺するなんて。
邸内へ戻ろうと踵を返す跡部の後ろで、手塚の大きなため息が聞こえてくる。ちらりと視線だけで振り向けば、口許を押さえて頬を赤らめた手塚が見える。
あんな手塚を、他に誰か知っているのだろうか。青学の連中は、家族は。
胸が小気味よいリズムを刻む。じんわりと熱を持ったような唇に、そっと指先で触れる。
そこは、わずかに汗で濡れていた。
畳む
#片想い #両想い #誕生日 #R18 #塚跡 #新刊サンプル #シリーズ物
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スペイン戦直前、「ヤツの顔でも見に行くか」の相手が手塚だった場合のifネタ
ドイツチームが練習をしているという屋外コートに来たものの、どう声をかけようか迷う。そう思って、跡部は踏みとどまる。
声などかけずとも良いか、と。
チームとしては敗退したというのに、鍛錬を欠かさないのは当然としても、手塚は常に上を目指している。それを邪魔していいはずもない。
フォームか球速かを見られているのか、球を打つ手塚の傍にボルクがいる。
手塚が素直に指導を受ける光景というのは新鮮でもあって、あのふてぶてしい顔とこの光景が見られただけでいい。本当にそう思った。
揺るぎない信念が自分の中にある。それを確かめられた。
顔を拝みに行くかと空港からここに来るまでに、だいぶ気持ちは落ち着いたと思ったが、全然だ。
胸の奥が熱い。
苦笑して、跡部は踵を返す。
その直後、誰かの打った球がおかしな方向に跳ねて跡部の方に飛んできた。咄嗟に受け止めて視線でボールの軌道を逆行すれば、腕を組んだボルクに何事か言われている手塚が目に入った。
まさか手塚が打った球なのかと手の中の黄色いボールを凝視する。ボルクの視線がこちらを向いて、跡部は咄嗟に軽く頭を下げた。それを確かめた後、手塚がボールを握ろうとするのを止められたようだ。
まるで子供扱いだなと肩を竦め、手塚がこちらに向かってくるのをその場で待つ。他のメンバーたちの視線も痛いほどに感じたが、跡部の視線は手塚ただ一人に向かっていた。
「すまない、跡部」
「いや、邪魔して悪いな」
目の前まで来た手塚にボールを返して、はたと思い至る。手塚がボールの跳ねる方向を見極められないはずがないと。それなのにこんなところまで飛ばしてしまったのは、よほど動揺したか、もしくは――。
「わざとだろ、てめェ」
「なぜ帰ろうとしたのか訊きたかっただけだ。いつものお前なら、図々しく割り込んでくるだろう」
「真剣に練習してるとこにか? さすがにそこまで分別ねえつもりはねえんたが。アーン?」
やはりわざとだったかと眉をつり上げていつものように煽ってみせる。
「しかしお前は目立つ。視界に入れば気にかかるんだが」
「そんなのてめェの集中力不足だろ」
ふんと鼻を鳴らすが、こんなことを言いに来たわけではない。そもそも顔を見に来ただけで、何を話したいということもないのに。
「……次のスペイン戦、S3で出場する」
他のオーダーを明かすつもりはないが、しかしこの事実だけは報告しておきたい。手塚の方はどうだか知らないが、跡部はこの男を戦友だと思っている。逆の立場だったら、決勝戦の試合に選手として出られるのかどうかは知りたかっただろう。
「そうか。観戦できるのを楽しみにしている」
心なしか安堵したような表情を見せてくれて、跡部の方こそホッとする反面、いたたまれない。それが表に出てしまったのか、手塚がひとつ瞬いた後で強く訊ねてきた。
「どうした、跡部。お前なら必ず選出されると思っていたんだが」
「買いかぶりだぜ」
跡部は手塚から視線を背け、唇を噛む。選ばれてやると思ってはいたものの、結果はあの体たらくだ。ややあって、跡部は口を開いた。
「選抜内で、希望のオーダーごとに試合したんだ。勝つつもりだった。そのために鍛錬もしてきたぜ」
「希望のオーダーか。それでお前がS3とは……なるほど」
手塚もわずかの間とは言え選抜に所属していた身だ。スペイン戦を控えて何があったのか、即座に理解したのだろう。そして恐らく、S2とS1の選手も思い当たったに違いない。
「負けてたんだよ、俺は――入江さんに。5-0だぜ、情けねえだろ」
「……そうか」
「どうやってあの人を倒そうか、どうやったらゲームを取れるのか、って時に水差されちまってな。他のブロックで中高生の選手配分が決まって、そのまま俺がS3になった」
だいぶ落ち着いたと思ったけれど、いまだに悔恨が残る。こんなふうに決まったものを、すぐに受け入れられるわけもない。勝つことがすべてだというのに、これで他のメンバーは納得するのか。今まで入江と共に戦ってきた高校生たちは――入江自身は。
「俺は……俺たちは、ルールに負けたんだ」
入江は高校三年生。これが最後のU-17選抜だった。彼の悔しさはいかほどのものか。
「空港に向かう最中にも、ずっとそのことだけ考えてたな」
納得などいかない。勝つためにここに来たのに、選手として、完膚なきまでに敗れた。その自分が決勝戦でラケットを握っていいものか。
「空港? 跡部、お前……」
「辞退、しようとした」
手塚の目が珍しく大きく見開かれる。
悔しさだけで、プライドだけで、投げ出したわけではなかったと思う。未熟なままの自分が、日本代表を背負うわけにはいかない――そう思ったのに。
「空港で、樺地に止められたけどな」
いつでも従順に後を着いてきてくれていた樺地が、跡部に背いた瞬間だった。彼の後ろには氷帝の連中もいたようだが、樺地に止めさせる選択をしたヤツらには称賛を贈るべきだろうか。樺地で無理なら、張り倒してでも止めようと思っていたのだろう。
「せっかくのチャンス、ふいにしないで良かったな、跡部。もし俺が傍にいたら、殴ってでも絶対に止めていただろう」
力強く頷きながら、手塚が口にする。今度は跡部が目を瞠る番だった。チャンスと言う言葉は、入江にも言われたものだ。
「おいおい、暴力沙汰は御法度だろうが」
「茶化すな。お前のプライドの在処は分かる。だが跡部、プロになるならその屈辱をも乗り越えられなければ、到底やっていけないぞ」
「……ああ、すぐに追いかけるっつったからな」
手塚をドイツへと送り出す際、プロになるならそれを追うと言った。あの時の気持ちに嘘偽りはない。現実は容赦なく打ちのめしてくるが、それさえ享受しなければならないのだ。手塚がドイツでどんな鍛錬を積んだのか分からない。心が折れそうになったときもあるのかもしれない。
屈辱を乗り越えろと言われ、跡部は目を伏せた。
ルールに負けた。入江に負けた。
敗北の屈辱と悔恨はお互い様で、だからこそ……跡部が辞退などしたら入江は試合の時以上に圧倒的な力の差で張り倒してくるはずだ。水を差された真剣勝負に、さらに水を差すなと。
「入江さんに、つまらないって言われたぜ。あれは撤回させねえといけねえ。あの人の悔しさを背負って、俺は上に行くぜ、手塚」
目を開き、いつものようにしたたかに言い放つ。視界に、満足そうに口許を緩める手塚を認めた。
「いつものお前に戻ったようで何よりだ。報告しにきてくれたことには、感謝する」
「顔だけ見て戻ろうと思ってたんだけどな。ふ、ふふ……まったく、お笑いぐさだぜ」
こうして言葉を交わすまで、まだどこかで納得しきれないものがあった。手塚の声は跡部を落ち着かせもするし、落ち着かなくもさせる。
「なあ手塚。俺はな、空港で樺地に止められても、氷帝のヤツらに張り倒されても、こんな屈辱の中で戦えるかって思ってたんだ。アイツらを振り払ってでも辞退するつもりだった」
「跡部」
責めるような声音で名を呼ばれる。最後まで聞けと笑い、トンと指先で手塚の鎖骨を押した。
「たまたま通りかかったスペインのヤツがな、最強中学生のクニミツと戦いたかったってよ」
「それは光栄だが、最強というのはどうだろうか」
「そうだろ、だから俺様が宣戦布告してきてやったぜ。俺はその最強中学生のクニミツを倒した男だってな」
夏の関東大会、ただ一度公式戦で対峙した。あの時の熱は忘れていない。きっとこの先ずっと忘れられないものなのだろう。
「なあ手塚、俺がその時感じたもの、分かるか? 最強と謳われることへの嫉妬に似た羨望と、そこまで言わしめるお前が無二のライバルだという歓喜――湧き上がってくる闘争心。泣きたくなるだろ、跡部景吾オレを熱くさせんのは、どこまでいっても手塚国光オマエなんだぜ」
つま先から、熱が上がってくるような感覚を味わった。未熟さも屈辱も背負えるだけ背負ってやると決めた瞬間だ。それを糧にして、もう一度この男を打ち負かしてやりたいと思う、いっそ恋情のような情熱。顔を見て、決意を固めようと思って、今に至る。
行動したことは間違っていなかったなと、満足した。
「プレ杯でのあれは」
「あんなの数に入るかよ、ばーか」
「…………お前の負けず嫌いなところは、好ましいと思っている」
「そりゃこっちの台詞だ」
さしていた指を握り込んで、拳で胸を叩いてやる。それを手塚の手が包み込んだかと思えば、ぐいと強く引き寄せられた。
「なっ…………ん」
視界が揺れる。鳶色の髪が眼前に迫る。目を閉じることができなかったのは、突然だったのと、挑むような瞳に釘付けにされたせいだろう。
唇に触れたのは、間違いなく唇だ。
跡部は目を見開き、なんのつもりだとぐっと手塚の体を押しやるが、目の前の男はそれさえ気にも留めていないようだった。たった今、図々しくも唇を奪っておいて。
「おい手塚……俺とお前の間に、今までこういった要素はあったかよ?」
触れた唇を拭おうとして、なんだかもったいなくてできないことに気がつく。もったいないってのはなんだ、と思いつつ声には出さず、手塚を睨みつけた。
「なかったと思うが」
「じゃあなんの嫌がらせだてめェ。俺様はそんなに安い唇持ってるつもりはねえ」
挨拶でないキスは初めてだったなどと、言うつもりはない。そんなことを言ったら最後、この男のことだ、責任を取るとでも言い出しかねない。
「好ましいと言っただろう、今。俺も――お前も」
唖然とした。どうしてあれがこんなことにつながるのだろう。手塚の方がそのつもりでも、跡部はそんなつもりで言ったわけではないのに。
「あ……のな、好ましいイコール愛してるじゃねえだろ」
「俺もそこまで言ってない」
しれっとした態度で、手塚は恋らしきものを告げてくる。好ましいが愛してはいないと言われたのはなんだか癇に障って、悔しさがせり上がってくる。ファーストキスをくれてやったのだから、それ相応の想いであって然るべきではないか。
「そもそもお前の方が恋の告白をしに来たのではないのか。わざわざ練習中に他国のエリアまで来て」
「んなわけあるかぁ! 俺はただお前のっ……」
顔が見たかっただけで、と言いそうになって踏みとどまった。それこそ熱烈な恋の告白ではないか。この男が自分にとってどういう存在なのか、喧伝していたようなものだと思うと、途端に気恥ずかしくなってくる。誤魔化すようにちらりと視線をコートの方に向ければ、手塚のチームメイトたちがぎこちなく、分かりやすくそわそわとしている。絶対に今のやりとりを見られていたに違いない。すっかり忘れていたというか、こんなことになるとは思っていなくて、跡部にしては珍しく対応が浮かんでこなかった。
「お前、どーすんだよあの連中。質問責めに遭うんじゃねーのか」
「…………ああ、若干うるさそうなのはいるが……こうなった以上は正直に話すべきだろう」
チームメイトたちの様子には気づいていたようで、わずかに視線を流しただけで戻してくる。
「事故みてえに言うんじゃねえ、てめェが始めたことだろうが」
「跡部、それは〝始まった〟のだと捉えていいのか」
強引に始めておいてなにをのたまうのだろう、この男は。しかし、跡部は拒むこともできるのだ。駄犬に噛まれたのだと思って忘れてやることだってできる。テニスに関する屈辱はすべて受け止めると決めたものの、屈辱にもならないこれはいたいどうしたらいいだろうか。
やはり、顔を見るだけで帰っていればよかったと跡部は天を仰ぐ。空港でそうした時とは違う色が見えた。
そうして顔を正面に戻し、拒まれるとは微塵も思っていないようなふてぶてしい手塚国光を視界に入れる。
「構わねーが、やられっぱなしは性に合わねえ」
そう言って長い指先で手塚の顎を掴み、引き寄せて唇にキスをする。一度も二度も同じだ。
手塚のキスよりも長い時間触れ合わせ、これで俺の勝ちだとばかりにちゅっとリップ音を立てる。
「俺が好きなら、いつか愛してるって言わせてみせな」
「お前が俺に言われたいの間違いではないのか」
「聞いてやるから素直に言えよ」
「そっくりそのまま返そう」
「可愛くねえな」
「可愛くなくて結構だ」
たった今合わせた唇が、甘い雰囲気とは逆方向に動き出す。瞳の間に飛び散る熱は、恋人同士のものでなく宿敵同士の火花に見える。
跡部のスマートフォンに日本の選抜メンバーからの連絡が入るまでその問答は続くのだが、ひとつの壁を打ち破った跡部の声音は軽やかなものだった。
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#新テニ #本誌ネタバレ #両片想い #無自覚