- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.396, No.395, No.394, No.393, No.392, No.391, No.390[7件]
右手に殺意を 左手に祈りを-011-
「あれ? どうしたんすか至さん。ちょっ、アンタ大丈夫?」
その時、談話室から万里が出てきて見つかってしまう。誰に見つかっても面倒だが、放っておいてくれないだろう万里だったのが、至には辛かった。
「あー、何でもない……ちょっと酔っちゃって」
「はァ? だから止めとけって言ったのに。今水持ってきてやっから……つか立てる?」
そう言って手を差し出してくる。引っ込めてもくれなくて、至は仕方なくその手を取る。
「万里はどうしたの、みんなといなくていいの?」
「あー、一成がさ、この間買ったシューズ見せてっつったから、持ってこようと思ってただけで。そんなんあとでいいだろ」
至は万里の力を借りて立ち上がる。正直、手のひらから伝わってくる温もりが胸をざわつかせて、ありがたくはなかったのだが、この状態ではそんなことも言っていられない。さっさと水でも飲んで、酔っ払いが介抱されているフリをしてしまおう。
「……アンタ、酔ってねぇだろ」
「……酔ってるよ。なんで?」
「噓つけ。足元しっかりしてんじゃねーか」
「ふらふらしてるって」
「してねーよ。なぁ、なんかあったんだろ。ゲーム? 仕事?」
こういうとき、距離が近いというのも考え物だった。
万里とはよく一緒にゲームをしているからか、他の組のメンバーの中ではいちばん仲がいい。至の素を、いちばん知っている男かもしれない。
「至さん」
もともとが聡いのだろう、至の変化には敏感に反応してきた。ぐっと肩を押さえられて、正面から覗き込まれる。
千景は絶対にしないだろう、力強い支え。
(なにも、今じゃなくても)
例えばゲームのガチャで、推しが来なかっただとか、リリースが遅れているとか、そんなことだったら、素直に愚痴をぶつけられる。
仕事で少しミスをしたと言っても、きっと万里は話を聞いてくれる。それは、日常会話の中でやり過ごせるレベルだからだ。
だけど、千景の真実に気づいてしまった今、その強さをぶつけてこないでほしいと、唇を噛む。
甘えてしまう。崩れてしまう。
「なあ、至さん、アンタ今……泣きそうな顔してんぜ」
「……してないだろ」
「これ見ない方がいいヤツな」
言って、万里は片腕を首に回し引き寄せてくれる。泣き出しそうな目元は、ちょうどいい位置に肩があるせいで、誘惑に負けて押しつけてしまった。
「万里、めちゃくちゃ男前じゃん?」
「はァ? 仲間が困ってんだったら当然だろ。無理には聞かねーけど」
「うん、ありがと」
はあ、と呆れたようなため息が聞こえる。心の底から心配していることを、そんなため息でごまかす万里は、やっぱり年相応だなと笑ってしまった。
「悪い、ほんと。ちょっと、ショックなことがあってさ。ごめん……」
「いーから。ったく……ちょっとは千景さんにも頼ったらどーすか? 春組の中で年長者だからって、咲也たちには、こういうとこ見せらんねーって思ってたんだろ」
「……っ、や、アイツらにもかなり甘えてるよ俺」
万里の口から、千景の名を出されて体が強張る。
確かに千景が入団してくるまで、春組の中で最年長であり、ある程度の責任が発生するのは理解していた。今は年上である千景がいるのだから、少しは頼れと万里は言っているのだろうが、原因である千景に頼ることなど、甘えることなど、できやしない。
(無茶言うなよ万里)
至は万里の肩に額を預け、ゆっくりと息を吐き出す。今の状況を把握して消化するには、どれだけの時間と覚悟と諦めが必要だろうか。
「……サンキュ、万里。もう平気。みんなんとこ戻るわ」
「ん? あー。本当に平気っすか? ……ならいいけど」
「ん、平気平気。今のちょっとキュンときたわー。俺が女だったら惚れるね」
「軽口叩けんなら平気そうだな。愚痴くらいならいつでも聞いてやっから」
万里はそう言って、何も訊かずに体を離してくれる。好きになった相手が彼だったら、どれだけ楽だっただろう。
そう思って体を翻したとき、外から戻ってきた千景の姿を視界に捉えてしまった。
「あれ、千景さん。何やってんすか主役が」
万里もそれに気がついて声をかける。万里はどうか分からないが、千景の眉間に刻まれたしわに、至は気づいてしまった。
それはほんの一瞬で平らになって、気のせいだったと済ませてしまえる瞬間だけ。
(ヤバ、い)
ぞわりと、鳥肌が立った。
密とのやりとりを聞いてしまったことを、千景が知っているとしたら、それはとても危険なことではないのか。睨まれたのは、気のせいではない気がするのに。ディセンバーの正体を知ってしまった至を、千景は放っておくか。
「ちょっと、熱気に当てられちゃってね。万里はどうしたの? 茅ヶ崎も」
「あー、えっと」
「さっきガチャやったらドブだったんで、ヘコんでる俺を慰めてくれただけですよ」
言葉を濁す万里を遮って、至は状況を作り上げる。廃人ゲーマーである至をして、無理のないもの、というか、わりとよく見られる日常茶飯事だ。
「ああ……なるほど、ゲーム仲間なんだって? 仲いいんだな」
千景はそう言って笑うものの、瞳が少しも笑っていないような気がする。それは以前からだったが、さらに噓くさく見えるようになったのは、気持ちの問題だろうか。
(気づいてなかった? それとも……他のヤツがいるから泳がせてるだけ?)
千景が何を考えているか、さっぱり分からない。密に接触できたから、その他のことはもう、どうでもいいのだろうか。
(あり得る……。俺なんか、眼中にない、ってね……)
「万里、もう平気だから。ありがとな」
それ以上千景を見ていたくなくて、至は早々に談話室へと戻る。賑やかなパーティーに紛れていれば、千景を疑う自分を覆い隠してしまえると。
夜遅くまで繰り広げられた歓迎会で、至が千景の傍に行くことはなかった。
千景は、談話室のソファで手品の練習をする劇団員たちに囲まれながらも、意識をひとりの男に集中させた。
(茅ヶ崎は……もしかして)
窓際で、携帯端末を片手に他の団員たちとにこやかに話す、千ヶ崎至へと。
先ほどディセンバー――御影密と接触した。
記憶喪失などという責任逃れを平気で行う男に。
どれほどあの場で絞め殺してやろうかと思ったことか。
だけど、それではあの日の真実が知れないし、オーガストがどんな最期を迎えたのか、確認することもできない。ディセンバーには、あの日のことを事細かに説明してもらった上で、悔やんで、苦しんでほしいのだ。
ディセンバーが苦しむ姿を近くで見たいがために、ここに潜入したのだ。復讐だけが今生きる目的である。
それは自分でよく分かっているのに。
分かっているのに、先ほどの光景が頭から離れていってくれない。
万里に抱き寄せられて、至が安堵したように身を預けているところが。
ゲーム仲間だと聞いているし、劇団で共に芝居に励む意味でも仲間なのだし、距離が近くなるのも理解はできる。
今も、楽しそうに話しているメンバーの中に、万里がいた。
彼に向ける顔は、本当にどの時とも違う。会社にいる時とも、稽古をしている時とも、ゲームをしている時とも、ましてや千景だけが知っているであろう、ベッドの中での顔とも、全然違う。
心を許している相手なのだと分かる。
指先が冷えていくようだった。ざわりと肌があわ立つようだった。
(俺には見せないな、あんなところ。まぁ……いいけど、そろそろ潮時だろうし)
至とは恋人同士ではない。他の誰かと仲良くしていたって、責める立場にはないわけだが、胸のざわめきが収まらない。
千景は目を細めて、今一度、自分の望みが何なのかを心の中で確認した。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
右手に殺意を 左手に祈りを-010-
春組の第四回公演を機に、千景がMANKAIカンパニーに入団した。しかも入寮希望だということで、至はホッとしたのだ。
これで千景がひとりきりになることはないと。
きっと、オーガストやディセンバーに敵うことはないだろうが、取り巻く他人に触れていく中で、違う種類の幸福を得られることがあるかもしれない。ただそう思っただけだった。
「千景さん、もう一度!」
「じゃあもう一度、よく見てて」
歓迎会でも、さっそく人気者。手先が器用なのは知っていたが、まさか手品まで得意だったとは、と至は隅の方で笑う。
この賑やかな劇団で、千景は心を溶かしてくれるだろうか。
「至さん、飲み過ぎじゃね?」
「そ? 別に普通だよ」
ゲーム仲間である万里が、アルコールを飲むペースが速い至を心配して、声をかけてくる。
実際、浮かれてはいた。
まさか、千景の方から入団希望があるとは思わなかったが、これで一緒にいられる時間が増えるのだと。
毎回ホテルで別れるのを、寂しく思うこともなくなるかもしれないと、恋心を多分に含めて。
「あの人、どういう感じ?」
「あの人って、先輩のこと? 見た通り、イケメンエリート。加えてチート技多数」
「ふーん……なんか、掴めなそうな感じだなって思って」
「そりゃ数日で掴めないだろ。万里だって、こんなに素直になるとか昔からじゃ考えつかないし?」
「素直って! なんすかそれ」
「言葉通り」
万里はふてくされてふいと顔を背け、オレンジジュースを追加で注ぎに行ってしまう。
彼も入団当初の態度から比べたら、ずいぶんと丸くなったと思うのだ。そんな展開は、読めていなかった。
入ったばかりの千景の動向を摑めないのも、それと同じだと言いたかったのだが、言葉の選び方がどうにも下手らしい。
(そんな簡単に掴めるような人なら、こんなに苦しくなったりしないのに)
体を重ねている自分でさえ、千景のほんの欠片しか分からないのに、たった数日のメンバーたちに理解されてしまっては、たまったもんじゃない。
(俺がいちばん近い、……と思ってたけど、違うんだろうな。俺は何もできない……せめて性欲処理くらいにはなってたらいいんだけど。ハハッ、我ながら健気じゃん)
そんなふうに思っていたら、主役の姿が見えない。千景に教えてもらった手品を、一所懸命練習している年少組の中にも、酒の飲める成人組の中にも、もくもくと料理やデザートを頰張る連中の中にもだ。
(あれ、どこ行ったんだ先輩……入団おめ~の乾杯しようと思ったのに)
乾杯など、もう何度したか分からない。新しい酒を注いで、千景のグラスと合わせる――それは傍に行くために、都合の良い言い訳だったのに、ターゲットがいないのではどうしようもない。
トイレかな、としょんぼりした至の視界に、あってほしいものがないことに気がついた。
(――え?)
密が、いない。
千景はひた隠していたし、至は忘れろと言われている――ディセンバーのことが頭をよぎった。
ディセンバーという名を知ったあの日、千景は冬組の写真を見てから様子がおかしくなった。
初めて観に来た公演も冬組だった。
もっと遡れば、そういえばマシュマロという言葉に、反応していたことも。
密には、記憶がない。この劇団に入るまでの記憶が一切合切だ。
もしかしたら、密がディセンバーなのではと、何度も思った。それ以外のメンバーは、身元も記憶もはっきりしているからだ。
ただディセンバーに似ているだけかも、と思うには、あの時の千景の声が耳に焼きついて離れない。
〝なんで笑ってるんだ……?〟
絶望と、混乱。そんな声だった。
(あれってやっぱり、密に向けられた言葉だったのか? 先輩、まさかとは思うけど)
至は嫌な予感がして、千景を探しにいこうとグラスを置き、談話室を出た。
「どういうつもりだ、ディセンバー」
(――え?)
中庭の方で、聞き覚えのある声がする。談話室から漏れてくる賑やかな声に混じってはいたが、至がこの声を間違えるはずがない。
千景が、ディセンバーという音を口にした。
至は壁の陰に隠れ、声のする方をそっと覗く。
千景の向こう側には、やはり、想像した通りの人物がいた。密だ。
「記憶喪失のフリなんて……」
「フリ……?」
千景の表情は見えないが、密は不思議そうに、不審そうに首を傾げている。
「まさか、本当なのか? お前は……オーガストとともに死んだものとずっと思っていた。一人おめおめと逃げ延びて……お前がオーガストを見殺しにしたんだろう……!」
オーガストという名前に、密の目が瞠られる。
どうやら、それに聞き覚えはあるらしい。至は彼らを覗き見るのを止め、ゆっくりと壁にもたれた。
(うそだろ……)
聞いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。これは千景の不可侵領域で、聞くべきものではない。分かっているのに、神経が逆に研ぎ澄まされていく。
「お前への復讐を果たしに来た。分からないのならば、思い出せ。お前の罪を――オーガストの、最期の顔を。オーガストはどんな顔だった? どんなに無念だったか、お前には分からないだろう。悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる」
千景の、聞いたことのない低い声に、至の膝が揺れる。顎が震えカチカチと歯がぶつかり、目蓋も下ろせない。
(先、輩)
至が思っていたよりずっと、千景の悲しみは深い。憎しみも強い。
オーガストやディセンバー――密と千景が、どのようにして過ごしていたのか。
それは至には知り得ないことだが、もしかしたら、家族のように過ごしていたのかもしれない。
そのうちの一人の裏切りで、もう一人が死んだ。
そんな目に遭った千景の孤独を癒やそうと思ったのが、簡単に〝幸福になってほしい〟と願ったのが、間違いだったのかもしれない。
〝悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる〟
千景を救い上げることなど、自分には到底できないと、至は唇を噛んでその場を離れた。
(密を……ずっと探してたんだ。オーガストさんの最期に、一緒にいた人……)
一緒に死んだものと思っていたと聞こえたのは、気のせいではないはずだ。
生きていたことを、千景は喜んだだろうか。喜んだはずだ。だが、喜びの種類は分からない。お前だけでも生きていてくれて嬉しい、なのか、オーガストの敵が討てて嬉しい、なのか。先ほどの様子を見るに、恐らくは後者。
(公演を観に来たのも、俺に優しくなったのも、入団したのも……密に逢うため、か……)
至は歯を食いしばって、目元を押さえる。
いつ頃からか、千景との距離が近くなった。あの夜のことをまだ気にしているものだと思ったのに、そうではないのだろう。
ディセンバーに近づくために、油断させるために、逃さないために、きっかけと鍵を手に入れたかったに違いないのだ。
(別に、いいけどさ……利用されてたって、そんなの……)
千景のためになるなら、力になりたかった。苦しいのなら、話を聞いてそして忘れて、ただ傍にいたかった。想いが叶わなくても、他の人よりほんの少し近い距離にいられればいいと思っていた。
(でもなぁ……密を売ったみたいになってんのは、しんどいわ……)
至は、賑やかな談話室には入れずに、廊下の壁にもたれ、そのままずるずると座り込んだ。
千景に使われていたこと、知らず知らずのうちに、密を危うくさせていたこと、こんなことになってもまだ、千景への想いが消えていってくれない諦めの悪さが、至を俯かせた。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
右手に殺意を 左手に祈りを-008-
「え? 公演のチケットですか?」
「うん、まだあったら一枚欲しいんだけど」
仕事が終わってから、ディナーをおごってくれるという千景と車に乗り込んですぐ、そう訊ねられた。
今チケットを販売している公演といえば、冬組の第二回公演。有栖川誉主演のものだ。
「本当なら、茅ヶ崎が準主演だっけ? その時に観てみたかったんだけど、生憎ずっと海外行ってただろ」
「ああ、そうでしたね。良かったですよ、観られなくて。なんか恥ずかしいんで」
千景の言う通り、至が準主演を務めた公演の期間は、彼はずっと海外出張だった。
当然逢えなかったが、たまに連絡は取り合っていたし、土産にと、現地限定販売のネクタイを買ってきてくれたことを思い出す。
「えぇ? 恥ずかしいってなんで。たくさんの観客の前で演じるんだろう?」
「そうですけど、知ってる人がいると思うと恥ずかしいですよ。始まればそんなこと考えてる余裕ないですけど」
「ふぅん。じゃあ次は是非春組の公演も観よう」
「ちょっとヤメテ」
千景は楽しそうにくすくすと笑う。千景が公演を観に来るほど興味があったとは思えないが、まだチケットは都合がつけられるはずだ。観客が多いに越したことはない。
「じゃあ、一枚取っておきますね」
「ああ、ありがとう」
「ところで、何でもいいんですか? ご飯」
「いいよ。茅ヶ崎が食べたいもので」
分かりました、と至は近くの店を頭の中で思い描いた。
正直言って、グルメな方ではない。外食をするならば、その分の金をゲームに課金したいと思う方なのだ。
おかげで、はやりの店や口コミで評判の店など、少しも分からない。
「イタリアンかな。何かよさげなとこ、探してもらえません?」
「了解。ピザとか好き?」
「好きです」
言ってから、ハッとして顔を背けた。きっと赤くなっているはずだが、千景には気づかれていないといい。
千景に向かって〝好きです〟と言ってしまったように感じられて、ひどく照れくさい。そんな言葉、絶対に言えやしないのに。
彼には、大切な人がいる。
至には触れさせてもらえない世界の中に、大事にしまい込まれたものがある。
どうにも複雑な事情がありそうで、訊いてはいけない気がするのだ。
(オーガストさんのことはともかく、俺がディセンバーって名前も知ってるのは、先輩覚えてないわけだし……知らないふり、していたい……)
オーガストの名を口にするなと言われたこともある。千景にとってその話題はタブーなのだ。裏切ったらしいディセンバーの名は、もっと聞きたくないだろう。
千景が傷つくからという建前で、訊くだけの勇気がない自分をけむに巻く。千景がどれだけその人を大事に思っているのか知ることで、自分が傷つきたくないだけだ。
「茅ヶ崎、次の信号右に曲がって。その近くにパーキングあるから、停めて少し歩こう」
「了解です」
千景の言っていたパーキングに車を停め、シートベルトを外しかける千景に向かって、思い切って訊ねてみた。
「先輩、今日はホテルありですか?」
「え?」
「最近、行ってないなあって思って。時間があるなら、その……」
行きたい、と小さく呟く。
ベッドの中での乱れっぷりは、もう嫌というほど知られていて、今さら純情ぶるつもりはないのだが、どうしても恥ずかしい上に、後ろめたい。
「もしかして、まだ……あのこと気にしてます?」
千景のタブーに触れた夜、手ひどく犯された。拘束されて、ろくに慣らさずに突き立てられた。だけど千景はそのことを覚えていないようで、その時ついた手首の痕をすごく気にしていたのだ。
「先輩、あの時から俺のこと抱く回数減りましたよね。気にしてるなら、それはやめてほしいです」
「茅ヶ崎……」
「大体、俺が責めてもないのに、償いみたいなことされるの嫌ですよ」
覚えていないのなら、そのままでいいと言ったはずなのに、腫れ物に触るように接されるのは気にくわない。至は俯いて唇を噛んだ。
「他に、相手ができたのなら……言ってください。いくらセフレでも、二股とか気分のいいもんじゃないですし」
「茅ヶ崎」
シートベルトを外した千景が、まだそのままだった至の方に身を寄せてくれる。
頬にそっと口づけ、驚いて振り向く暇もなく、そのまま唇にキスをされた。
「他の相手なんて、できてない」
唇のすぐ傍でそう囁き、千景は再度唇を合わせてきた。これは今日のことを期待してもいいのだろうかと、目を閉じて薄く唇を開く。
ぬらりと入り込んできた千景の舌を受け入れれば、口の中で互いの舌が絡んでいく。シートベルトに押さえられた体は、あの時の感覚と少し似ていて、だけど千景の唇はあの時とは違ってとても優しい。
上顎をなぞられ、そんなところでも感じるようになってしまった至は、ぴくりと肩を揺らす。千景の指先がネクタイのノットにかかり、緩められていく。喉元のボタンが外されて、指先が入り込んできた。
「あ、……っふ、んぅ」
ちゅ、ちゅ、と水音を立てながら合わさっていく唇と、乾いた肌を滑っていく指先。ドキンドキンと鳴る心音に気づかれたくなくて、ごまかすように千景の舌を必死に愛撫した。
「んっ、ん……ぁ」
「茅ヶ崎、お腹空いてる……?」
「え、いえ……それほど……」
「悪い、ご飯はまた今度でいいかな。抱きたくなった」
シャツ越しに、千景の手のひらが胸を撫でてくる。欲情されているのだと知って、カアッと頬が赤くなった。
自分から誘ってしまったようなもので、ひどく浅ましく感じる。
だがここで逃してしまったら、次はいつ関係を持てるのか分からない。至は了承を示すつもりで、千景の首筋に唇を寄せて軽く吸い上げた。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
右手に殺意を 左手に祈りを-007-
どういうことだ。
千景は仕事中も、帰宅中も、ずっと考え事をしていた。そのせいで珍しく書類にミスをして、上長に心配されたくらいだ。
その考え事は、茅ヶ崎至のこと。彼と過ごしたはずの、昨夜のことだ。
大体、おかしなことが多すぎた。
普段他人の傍で眠ることなどないのに、今日はその部屋で起きた。さらに、しっかりとセックスをした形跡があったのに、何も覚えていなかった。すっぽりと記憶が抜け落ちているのだ。
至の端末の中に、笑うディセンバーの写真を見つけて、頭に血が上ったのは覚えている。
腸が煮えくりかえって、端末が手をすり抜けたような記憶は残っていた。
そのあとが、分からない。
記憶がないのは、もしや至に何かされたのかとも思ったが、そんなわけはないとすぐに考えを改めた。
茅ヶ崎至という男は、どこにでもいるエリートサラリーマンというだけだったから。
ディセンバーに、何か言い含められたのかとも考えたけれど、観察のログからはそれらしき接触はなかったはず。
今日職場で見かけた至は、辛そうな顔をしていて、歩くのもしんどそうな様子だった。
彼が忘れていったものを届けた時に、体を強張らせたのは気のせいではないはず。何かがあったのは間違いないようだが、まさか。
(縛った、痕……だった)
至の手首に、見慣れない擦り傷があった。手首をぐるりと回るようについた傷は、転んでできるものではない。明らかに、拘束した痕跡だった。
お互いに緊縛趣味があるわけでもないのに、あの痕は間違いなく昨夜ついたもの。
千景は自身の部屋に帰りつくなり、珍しく鞄を放り出してテーブルで愛機を立ち上げた。
確認したいのは、茅ヶ崎至の観察ログ。レコードは残っているはずだが、今朝は時間がなくて確認できなかったものだ。
再生ボタンを押して、ホテルにいるだろうところまで飛ばす。
『お前はただここで俺を満足させろ』
『先輩! ちょっと、どう……外して、これっ……いやだ、いやっ……』
「――あ……?」
目を瞠った。
ベッドのきしむ音と、衣擦れ。本気の抵抗をしている至の声と、苦痛さの混じる喘ぎ。
思わず、がたりと腰を上げる。
端末はベッドの下に落ちているらしく、映像は撮れていない。だが、音だけでも充分、何があったのかは理解できた。
自分が、何をしたのかは理解ができた。
(茅ヶ崎ッ……)
茅ヶ崎至を、拘束して無理に犯したのだという事実。
『先、輩……っ』
それでもどうしてか、途中から至の抵抗する声が聞こえなくなった。
代わりに、抑えているような喘ぎとうめき。犯されてさえ快楽に溺れ出したのかとも思ったが、それにしては苦痛そうな声が混じっている。
うっ、う、と顔を枕に埋めているようなくぐもった声では、とても快楽を感じているようには思えない。
ベッドのきしみが激しくなり出しても、至からはいつものような声が一切漏れてこない。
「なんで……」
どうしてこんなことをされているのに、彼は一切責めてこなかったのだろう。いっそ全部を受け止めかねない様子が、千景にはどうしても理解できなかった。
ログを巻き戻して、ホテルに入ったあたりから再生し直す。
『他の写真も見ていい?』
『え? あー……いいですよ、そのフォルダなら』
ここはまだ覚えている。ディセンバーの写真を確認したくて、何でもないふうを装って画面をスワイプした。そのあとのことだ、思い出せないのは。
映像が、揺れる。恐らくここで端末を落としてしまったのだろう。
至が驚愕する声と、千景の掠れがちな低い声。
『んで……なんで笑ってるんだ……?』
『先輩……?』
『なんで笑ってるんだ! どうしてそんなにのうのうと生きていられる!』
千景は眉を寄せ、口の前で強く拳を握った。ディセンバーの写真を見て、何も考えられなくなった自分の未熟さが腹立たしい。
『俺を……俺たちを裏切ってまで生き延びて! なんでそんなところで笑っていられるんだ、ディセンバー!』
その名まで口にしてしまっていたのかと、歯を食いしばって俯いた。
至には、オーガストの名を知られてしまっている。頭は悪くない男だ、結びつけて考えるだろう。どれだけか、核心に近いものを想像できているかもしれない。
オーガストがもういないこと。
ディセンバーに殺されたこと。
復讐しか自分の頭にないこと。
(どうする、消すか? 知られたら駄目だ。茅ヶ崎が探り出したら、危ない……また組織のヤツらに嫌み言われるんだ、こんなことでっ……)
自分の落ち度とはいえ、民間人にその名を知られてしまってはいけないのだ。
ただでさえディセンバーの裏切りで、行動を共にしていた自分の立場も危ういのに。この上こんな失態を知られたら、危険分子と見なされ、命さえ危うくなってしまう。
(事故に見せかけて……いや、でも、茅ヶ崎は……)
必要ならば、存在を消してしまわなければいけない。殺しは好かないが、致し方ない――そんな時もある。
そう思おうとしているのに、ログの中で、必死で受け止めようとしている至の声に邪魔をされる。
(茅ヶ崎は、ディセンバーに近づくための大事な駒だ。アイツを消すメリットがないどころか、情報が入りにくくなる。デメリットしかないだろ……!)
ログが再生を続ける中で、千景は頭を抱える。
情報収集というなら、ディセンバーの居所が分かったのだから、他にやりようがいくらでもある。
至がいなければいないで、手を変えるだけだ。それも分かっている。
(不要な殺しをしたくないってだけだ、茅ヶ崎なら、ちょっと口止めでもしておけば踏み込んでこない、オーガストのことを知られた時だって、そうだったじゃないか)
使えるものなら使うだけ、利用価値があるうちは傍に置いていた方がいい。そう思っているはずなのに、心臓が痛い。
(駒なんだよ、あんなの! ディセンバーの居所に繫がったから、ちょっと優しくしてやろうかって思ってただけの! 犯したくらいで、何を動揺してるんだ……アイツだって今日なんでもないみたいにしてただろ)
ディセンバーのことを知られた事実より、オーガストのことを探られる可能性より、心臓が大きく波打つ。
(駒だってだけの相手に、なんだってこんな……!!)
至を犯したという事実が、何よりも腹立たしい。何の落ち度もない人間を、ひどく傷つけたに違いない。つかなくていいはずの傷だった。それを後悔しているだけだと、歯を食いしばる。
こんなことがあった翌日にさえ、何も訊かないでいてくれる相手を、不用意に傷つけてしまった、贖罪の思いがあるだけだと。
無理やりそう思い込んで、千景はその日のログをすべて――消して、愛機を閉じた。
気にしないでいいと言ったのに、千景は週明けにも気まずそうに声をかけてきた。
至はランチの誘いを素直に受けて、ひとときの逢瀬を楽しむ。事情がどうあれ、好きになってしまった相手とは少しでも一緒にいたい。
「カレーはやめてくださいね」
「もしかして、昨日も寮でカレーだったのか?」
「昨日どころか、朝もカレーだったんで……いや美味しいからいいんですけどね」
「了解」
そうして、千景のオススメらしい多国籍料理の店へ、連れていってもらう。
インド風の炊き込みご飯に目を輝かせている至の前で、千景は、白身魚のアクアパッツァにタバスコをかけて、満足そうにフォークを手に取っていた。
「先輩、辛党ですか?」
「そうだな。スパイスとかたくさん使ってある料理は好きだよ」
アクアパッツァが食われていくその口で、〝好きだよ〟なんて音が飛び出てきて、至は喉を詰まらせないようにすることで必死だった。
千景は料理のことを言っているのに、正面にいるというだけで、その言葉が自分に向けられているような錯覚に陥った。
(無理。ない。ありえん)
万が一にも、千景からそんな言葉を投げられることはないと、充分に分かっている。千景の中には大事な相手がいて、その人以外は恐らくどうでも良いのだろう。千景自身を含めて。
「茅ヶ崎、手首、大丈夫か?」
「え? あー……平気です。もう痕もないし」
不意にそう訊ねられ、至はぱちぱちと目を瞬き、視線を逸らした。両の手首についていた痕は綺麗に消えてくれている。これなら他の人たちに怪しまれることもないし、舞台にも差し障りはない。
「っていうか、こんなとこでする会話じゃないでしょ……気にしないでって言ったのに」
「いや、でも……」
「覚えてないんだったら、謝るのさえ不誠実ですよ」
あの日のことを鮮明に覚えていて、それを心から申し訳ないと思っての言葉なら、至も素直に受け入れただろう。だけど、千景は覚えていないのだ。そんな男から実のない謝罪をもらっても、何の意味もない。
「俺が茅ヶ崎にひどいことをしたのは確かだろう。何か、その……詫びとか、できないか」
「いりません。あ、でもここはオゴリですよね」
「ああ、それはもちろん」
そうは言うものの、千景は納得していないようで、じっと視線を向けてくる。何か対価を払ってすっきりしたいのだろうなと、その気持ちは理解できた。
至は千景の瞳を見つめ返し、わずかに下向く。
「じゃあ……いつかでいいんで、俺のお願い一個だけ聞いてもらえます?」
「いつか? お願いってなんだ」
「今は言う時じゃないです」
「なんだそれ、意味が分からない」
分からなくて良いんですよと、至は笑ってみせた。
千景に叶えてもらいたい願いがある。
だけどそれは、今ここで告げても叶わないものだ。笑われるのがオチで、解決にもならない。
「……なんだかよく分からないけど、茅ヶ崎がそれでいいなら」
「はい。じゃあ、この話はもうおしまいってことで。カレーじゃないお昼くらい、楽しく食べさせてくださいよ」
呆れ気味に息を吐く至に、千景がようやくふっと笑ってくれる。そういう顔を見たかったんだと、胸をなで下ろした。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
右手に殺意を 左手に祈りを-006-
さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。
寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて朝食をとって、今日は電車で出勤してきた。
座れないのもしんどかったが、この状態で車を運転する気力も、安全性もなかったのだ。
そういえば、朝食も無理やり詰め込んだような状況で、若干消化不良ぎみ。
時間が経つにつれて、体の痛みが増しているような気がした。腰と、肩と、足の付け根。
今日は、どんな顔をして千景に逢えばいいのかと考えると、恋をしているにも関わらず、彼に逢いたくないなんて思ってしまう。
ため息交じりにデスクに肘をつけば、袖口から手首が覗いてハッとする。慌てて手首を下ろしたのは、拘束された痕がついているからだ。
右手首はどうにか時計で隠せたが、左がどうにもならなかった。場所的に、包帯を巻くわけにもいかない。余計な誤解を生んでしまう。リストバンドなど持っていないし、そもそもスーツには合わない。
今日一日隠し通せれば土日の連休に入るし、気をつけていなければ。
パソコンの電源をつけて、必要なファイルを開くも、少しも頭に入ってこない。このファイルで何をしなければいけないのだっけと、初っぱなから躓いた。
数字が、文章が、混ざって頭の中に入り込んでくるようだった。
(思ったより……ショックだったのかな)
最近、千景の触れてくる手が優しくなっていた中での、あの行為。
優しさを、変に勘違いしたら駄目だと思っていたはずなのに、どこかで期待していたのだろうか。
心臓が痛い。こんなことになるなら、気づかなければ良かった。
(恋とか、馬鹿みたいだし……先輩の中には、俺の居場所なんかない)
至は髪をかき混ぜて、はあーと長く息を吐く。
千景の中には、大事な人がいる。〝オーガスト〟という、八月の名を持った人。口にさえさせてくれない名を持つ人だ。
その人以外は必要ないとでも言わんばかりの、千景の壁は、越えられない。触れることさえ許してくれない。
(……え、でも、待って……先輩昨夜、アイツを殺したお前が、とか言ってなかったっけ)
あまり思い起こしたくないことだが、ふとあることに思い当たる。千景が口にした、〝ディセンバー〟という音。ディセンバーとやらに似た人が、劇団の写真の中にいたのだと推察するしかなかったが、それ以前に重要なことがあった。
(殺した……? ディセンバーが、もしかして、オーガストさん、を……?)
さっと血の気が引いていく。
殺した、殺された、という単語はひどく非日常的で、実感が湧かない。ゲームの中でならまだしも、至の日常にそんな危険な言葉は飛び交わない。
(オーガストさん、亡くなってる、の、か……?)
そんな非日常の真実がどこに在るのかはさておき、ひとつ、大事なことがある。
千景が、あんなにも悲痛な声でオーガストの名を呼んでいたのは、もう逢えない相手だからではないだろうか。
(だから、あんなに……)
その仮定は、千景の昨夜の様子で確信に近づいていく。
ディセンバーに似た誰かを見て、オーガストを亡くしたことを思い出してしまったのかもしれない。
ディセンバーがオーガストを殺したというなら、憎くてたまらないだろう。
どうして生きているんだと言っていたような気がする。オーガストがいないのに、どうしてのうのうと生きているのだと。
(……先輩……大丈夫かな……それに、もしかしたら、ディセンバーって人も、元は友達だったりしたんじゃないのか? だって、八月に十二月ってのがあだ名だとしたら、仲悪い人たちに似たようなのつけないだろ)
至は、ぐ、と唇を噛んだ。ファイルを見るのは諦めて目を閉じ、千景を想う。
胸が痛い。心臓を直に握られているかのように、痛い。
これは至の推測にすぎないが、大切なオーガストが、大切にしていたかもしれないディセンバーに殺された――その絶望は、どんなものだろうか。
オーガストの存在を知ったとき、なぜ千景の傍にいてくれないのかと思ったが、そんなに単純なものではなかったようだ。
千景の孤独は、簡単には癒やせない。
会社の後輩でしかない至では、ただのセフレでしかない至では、到底無理な話だ。千景の心に入り込めないのは最初から分かっていたが、願うことさえ難しいのかもしれない。
千景が、幸福でありますように。
(祈るだけなら、簡単だよ……!)
千景の心の傷をえぐるトリガーを引いたのは、自分なのかもしれないと思うと、心臓がズキズキと痛んだ。
劇団に、ディセンバーに似た相手がいるなんて知らなかったし、オーガストがもういないのも知らなかったことだが、きっと千景を傷つけてしまったに違いない。
(顔……合わせづらいな……先輩、今日出張とかあればいいのに)
先ほどとは違う理由で、千景に逢いたくないと思ってしまう。昨夜のことをなかったことにはできないのに、記憶をごっそり抜き取ってほしいなんて祈ってしまった。
「茅ヶ崎くん、顔色悪いけど大丈夫? 体調悪そう」
隣のデスクから、同僚が声をかけてくれる。至はハッとして顔を上げ、笑顔を貼り付けた。
「あ、平気です、今日終われば休みだし」
「今日外出予定とかある? あ、ないのか、デスクワークならまだマシかもね。あんまり辛かったら課長に言って帰った方がいいよ」
「ありがとうございます」
そうは言うものの仕事はたまっていく。月曜に持ち越したくないものばかりで、至は軽く拳を握ることで、意識を仕事モードに戻すことにした。
そうして、なんとか昼休憩まで過ごしたわけだが、ランチをどうしようかと悩む。
無理やり詰め込んだ朝食のせいか、空腹感はないし、食欲も湧かない。そもそも立つことさえ億劫なのだが、これを逃したら定時までキツいだろうと、体にムチをうって立ち上がった。
ひとまずコンビニでも行って、適当にサンドイッチでも買おうとエレベーターの方へ向かう。そこで、聞きたかった、聞きたくない声がかけられた。
「茅ヶ崎」
びく、と体が強張る。振り向かなくても分かる、卯木千景の声。
「お、はよ……ございます」
「ちょっと、こっち来て」
「え?」
顔を合わせづらくて、視線を逸らしたままで千景に答えれば、腕を掴まれて非常階段の方へ歩かされる。
肩の痛みはまだあって、腰の鈍痛や脚の付け根の違和感で、相当歩きづらかったのだが、人の波に逆らうように千景の後を追った。
非常階段のドアを開けてすぐの踊り場で、ようやく腕を解放してもらえる。やっぱり昨夜のことを怒っているのかと、至は歯を食いしばった。
「あ、の……」
「これ、ホテルの洗面台に置き忘れてたぞ。コンタクト」
何を言われるかと思えば、どうやら忘れ物を届けてくれたらしい。ワンデータイプの箱を、置き忘れてきていたようだ。
「あ、す、すみません……」
至はそれを受け取って、ホッとした。気まずさはあるけれど、千景は概ね普段通りでいてくれる。
「……茅ヶ崎、ちょっと訊きたいんだけど」
「はい?」
「昨夜のこと、その……」
「あ、あの、すみません、俺、余計なことしたかもしれないですけど、できれば、忘れて、くれると……」
やはり話題は昨夜のことになってしまって、早口でまくし立てた。
忘れてほしいなんて言うのは、無責任だと分かっているが、言わずにはいられない。
千景を傷つけただろうことを、自分自身も忘れてしまいたい。
「……茅ヶ崎? それ、忘れなきゃいけないようなことが……あったってことか?」
「え?」
「昨夜のこと、ほとんど覚えてなくて――」
目を瞠る。
(な……に? 何言ってんの、先輩)
記憶をごっそり抜き取ってほしい、と祈ったのは事実だが、千景が本当に何も覚えていないなんて。
そういえば珍しく寝入っていたし、状況を考えれば、相当なショックがあったことは、理解ができる。
「なんだかひどく疲れてるみたいだけど、俺……そんなに無茶させたのか? 悪い、そんなふうにしたのに、覚えてないとか」
千景から発せられる気まずさは、覚えていないことに対する後ろめたさだったようだ。
「だ、大丈夫です」
「でも、ふらふらしてるぞ。仕事、できてるか?」
「……はい……」
至は次第に俯いていく。
忘れてほしいと思ったものの、本当に全部忘れられてしまうのも寂しいなんて、身勝手なことを考えた。
(なにこれ……)
傷ついたことは忘れてほしい。だけど、ひどい行為でも熱を分けたあの時間のことは、忘れてほしくなかったのだと気がついて、きゅっと唇を噛みしめる。
「しんどいなら、医務室へ」
「――千景さん、ちょっとだけ、寄りかかってもいいですか……」
「ああ」
立っているのがそれほど辛いわけではなかった。だけど千景は、迷いもせずに抱き寄せてくれる。至は千景の肩に額を預け、ゆっくりと、小さく、息を吐き出した。
(忘れてるんだ、本当に……)
千景と呼んでも、何ら変わった反応を見せなかった。昨夜「お前には許可してない」と言ったはずなのに、呼ばせてくれる。
(忘れよ……その方がいい。先輩が忘れたいなら、俺が覚えてたってしょうがない)
オーガストという名も、ディセンバーという名も、心の奥底に閉じ込めておこう。
至はそっと目蓋を閉じて、スーツ越しの体温を感じた。
「もう、大丈夫です。お昼ご飯の時間なくなっちゃいますから、行きますね」
そうして千景の体を押しやり、にこりと笑ってみせる。
「茅ヶ崎」
心配そうな顔をする千景を押しのけて、フロアに出るドアノブを握った。
そのまま千景の傍を離れるつもりだったが、突然腕を掴まれて、叶わなくなる。
「……これなに、茅ヶ崎」
千景が、至の手首を胸元まで引き上げる。引きつるような痛みに顔をしかめたが、もう隠す余裕がない。
「なんでこんなのついてるんだ」
時計で隠せなかった左手首、時間が経って濃くなってきてしまった拘束の痕。
うかつだったと後悔しても、もう遅い。千景が気づいてしまった。
「もしかして、俺が……?」
千景は眉を寄せて、思い出せない昨夜の行為を思い出そうとしているようだ。
至は掴まれた腕を振り払って、こんなのは何でもないとまっすぐに千景を睨(ね)めつける。
「覚えてないなら、別に構いませんよ。気にしないでください」
「そんなわけにはいかないだろう、おい茅ヶ崎!」
「俺が頼んだからとか、考えないんですか? 先輩にとって、楽しくはなかったんだろうなって思うだけですけど」
千景に、思い出してほしくない。どうしてあんな乱暴な行為に至ったのか、認識してほしくない。
こんな、いつか消えてしまう傷なんかより、千景の心につくだろう深い傷の方が耐えきれない。
「じゃあ、ホントに食いっぱぐれるんで、行きます。コンタクト、ありがとうございました」
言って、まだ納得していなそうな千景を振り切る。階段のドアを閉めて、無理に足早に踏み込んだ。追いかけてこないところをみると、この傷のことを気にしてしまっているのだろうと推察できた。
(覚えてないなら……その方がいいのに。でも、もし思い出したら、先輩の傷に、俺でも少しは関われるのかな、とか……馬鹿みたい。みたいっつーか、馬鹿)
オーガストのことを、ディセンバーとやらのことを考えるたびに、千景は傷を深くしているに違いない。もし昨夜のことを思い出したら、必然的に傷が深くなる。その原因に、自分が少しでも関われる。
傷ついてほしくないと思う傍らで、その傷に触れていたいとも思う。相反したふたつの気持ち。
至は再度エレベーターの方へ向かい、どうしたらこの気持ちが消えてくれるのかと、ぼんやり考えた。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
/ /

歓迎会がひとまずの終わりを告げても、成人組は何だかんだ理由をつけて酒を飲む。
紬や丞の演劇論にも熱が入っているようで、ほんの少しこの一〇三号室にまで漏れ聞こえてくる。至はゲームをやりたいからと、そこを抜けてきた。
会社の飲み会よりは随分と気楽だが、至がゲームの時間を何よりも欲していることを知っている団員たちは、それでも不思議に思うこともなく解放してくれる。
居心地のいい場所だ。
最初はこんなに長く居座るつもりもなかったのになと、以前脱退しかけたことを思い出す。
こんなに熱くなれるとは思っていなかった。芝居に。……恋に。
ここにいる仲間たちが大事なのは本当だ。
距離感をわきまえている連中ばかりなのが幸いで、踏み込まれ過ぎず、また踏み込み過ぎず。
ただ誰かに何か問題が起きれば、全員が全力で解決方法を探す。そんな場所。
(密が本当のことを思い出したら、どうなるのかな……)
ゲームをやると理由をつけて抜けてきたが、実際ゲームをやる気分ではない。そんな気力は残っていなかった。
さっき知ってしまった事実を、どう受け止めたらいいのか。
密に近づくための駒にすぎなかったのだろうという、真実に近い仮定を、どうやって受け止めたらいいのか。
至はソファの背に頭を乗せて、天井を見上げた。
あの二人……いや、三人のことに、踏み込むべきではない。
彼らのことを何も知らないままで踏み込むのは、あまりにも無責任だ。かといって、真実を知る勇気も、探る権利もない。
小さな頃から一緒だった、大切な人。千景の口から直接聞けたのは、それだけだ。
(セフレどころか、ただの駒に、先輩があれ以上のことを話すわけないし。……忘れなきゃ……)
ただのセフレとただの駒、どちらがよりマシかななどと思って苦笑していると、ドアがノックされた。至は背もたれから頭を上げ、応答してみる。
「あのっ、オレです」
聞き覚えのある声だ。至はソファから腰を上げ、ドアへと向かった。一瞬千景かとも思ったが、これは。
「咲也? どしたの」
「あっ、あの、ごめんなさい、ゲームの邪魔しちゃいました?」
春組リーダーである、佐久間咲也だ。チェリー色の明るい髪は、それでも目に優しい。きっと咲也のものだからだろう。
「ううん、平気だけど……何かあった?」
「あ、いえ、その……さっき至さんの元気がなかったなって思って、オレちょっと心配で」
申し訳なさそうに呟く咲也に、至は目を瞠る。
咲也にまで気づかれてしまうほど、落ち込み様は重症だったのだろうか。間近で見られた万里はともかく、談話室に戻ったあとは普通にしていたつもりだったのに。
「……それで、心配してきてくれたんだ?」
「せっかくの料理も、あんまり食べてないみたいだったので……あっ、臣さんの料理ほとんどなくなっちゃってたので、これ作ってきたんですけど」
咲也の手の中に、皿に盛られたおにぎりふたつ。
ぱちぱちと目を瞬く。
確かに料理にもあまり手をつけられなかったが、そんなところまで見られていたなんて。
「あっ、あの……本当はもうひとつあったんですけど、さんかくなので三角さんが持ってっちゃって。すみません至さん。良かったら食べてください、明日の朝まで保ちませんよ」
太鼓型かまんまるにすれば良かったかな、なんて首を傾げる咲也に、作ってくれていた時の光景が目に浮かぶようで、至はふっと噴き出した。
「ありがと、咲也。大丈夫、元気出たよ」
「ホントですか、良かった」
咲也の顔がパアッと明るくなる。この年齢でここまで素直に感情表現できるのは、いっそ貴重な能力だろうなと感じた。歳を取るにつれて、そういうものを表に出しづらくなっていく人も多いというのに。
(いや、出しづらいっていうか、隠すのが上手くなる感じかな)
かくいう至も、会社ではかなり猫を被っている。咲也の素直なところは、このまま在り続けてほしいと、おにぎりの皿を受け取った。
「あれ、千景さんはいないんですか?」
「え?」
「談話室、いなかったので」
「あ、……ああ、さっき出かけてったよ、コンビニかどっかかな。そのうち帰ってくるんじゃない? 先輩に用事だった?」
「あ、いえ。今日の歓迎会、楽しんでもらえてたらいいなって思って。これから一緒にたくさんの舞台踏めたらいいですね!」
咲也の笑顔につられて、至も笑う。
本当は千景がどこに行ったのかなど知らない。寮内にいないことも今知ったのだ。
(またか、あの人……)
恐らく、また今日も入寮前の部屋で過ごすに違いない。
入寮して数日、千景がこの部屋で過ごしたことなどない事実を、咲也たちには知らせない方がいい。
少しも彼らに心を許していないなどことを言えば、咲也たちは悲しむだろう。綴の脚本にも影響が出てくるかもしれない。
さらに、千景のことを無理にこちらへ引き込もうとすれば、いつ誰が真実に気づくか分からないのだ。危険に巻き込むわけにはいかない。
「じゃあ、おやすみなさい至さん」
「うん、おやすみ咲也。おにぎりありがと」
咲也は満足そうに帰っていく。リーダーとはいえ、年下に気を遣わせてしまったなと、手に残るおにぎりの皿を見下ろした。
(咲也なら、もしかしたら……)
あの際限ないひたむきさと、それゆえの強さを持ってすれば、千景の心も溶かせるかもしれない。
そうは思うが、咲也を巻き込むことなどできやしないと唇を引き結ぶ。
(先輩には、復讐なんか忘れて幸せになってほしい……けど、オーガストさんや、……密が、あの人にとってどれだけ大事な存在だったか分からないのに、無責任なこと言えないし)
至はソファに戻って、かけられたラップをゆっくりと外す。ほんの少しいびつな形が、逆に胸をじんわりと温めてくれた。
(かといってあの人のやりたいことを肯定すれば、それは密の身を危険にさらすってことで。……そんなこと、していいわけないのに)
千景の望む復讐が、具体的にどんなものか分からない。しかし密が苦しむことは明白で、とてもはいそうですかと許容できるものではないはずだ。
だけど、でも、やっぱり、いやいや、……と、至は心が少しも決められない。
復讐なんて止めさせた方がいいに決まっているのに、そうしたら、千景の抱えてきた孤独と闇は、誰がどう静めてくれるのか。
「ハハッ、この期に及んで、俺ってヤツは……本当にどうしようもないな」
揺れ動く迷いの中で、温かなおにぎりと、泣き出したくて痛む喉だけが、そこに在る真実だった。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを