- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
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No.394, No.393, No.392, No.391, No.390, No.389, No.388[7件]
右手に殺意を 左手に祈りを-008-
「え? 公演のチケットですか?」
「うん、まだあったら一枚欲しいんだけど」
仕事が終わってから、ディナーをおごってくれるという千景と車に乗り込んですぐ、そう訊ねられた。
今チケットを販売している公演といえば、冬組の第二回公演。有栖川誉主演のものだ。
「本当なら、茅ヶ崎が準主演だっけ? その時に観てみたかったんだけど、生憎ずっと海外行ってただろ」
「ああ、そうでしたね。良かったですよ、観られなくて。なんか恥ずかしいんで」
千景の言う通り、至が準主演を務めた公演の期間は、彼はずっと海外出張だった。
当然逢えなかったが、たまに連絡は取り合っていたし、土産にと、現地限定販売のネクタイを買ってきてくれたことを思い出す。
「えぇ? 恥ずかしいってなんで。たくさんの観客の前で演じるんだろう?」
「そうですけど、知ってる人がいると思うと恥ずかしいですよ。始まればそんなこと考えてる余裕ないですけど」
「ふぅん。じゃあ次は是非春組の公演も観よう」
「ちょっとヤメテ」
千景は楽しそうにくすくすと笑う。千景が公演を観に来るほど興味があったとは思えないが、まだチケットは都合がつけられるはずだ。観客が多いに越したことはない。
「じゃあ、一枚取っておきますね」
「ああ、ありがとう」
「ところで、何でもいいんですか? ご飯」
「いいよ。茅ヶ崎が食べたいもので」
分かりました、と至は近くの店を頭の中で思い描いた。
正直言って、グルメな方ではない。外食をするならば、その分の金をゲームに課金したいと思う方なのだ。
おかげで、はやりの店や口コミで評判の店など、少しも分からない。
「イタリアンかな。何かよさげなとこ、探してもらえません?」
「了解。ピザとか好き?」
「好きです」
言ってから、ハッとして顔を背けた。きっと赤くなっているはずだが、千景には気づかれていないといい。
千景に向かって〝好きです〟と言ってしまったように感じられて、ひどく照れくさい。そんな言葉、絶対に言えやしないのに。
彼には、大切な人がいる。
至には触れさせてもらえない世界の中に、大事にしまい込まれたものがある。
どうにも複雑な事情がありそうで、訊いてはいけない気がするのだ。
(オーガストさんのことはともかく、俺がディセンバーって名前も知ってるのは、先輩覚えてないわけだし……知らないふり、していたい……)
オーガストの名を口にするなと言われたこともある。千景にとってその話題はタブーなのだ。裏切ったらしいディセンバーの名は、もっと聞きたくないだろう。
千景が傷つくからという建前で、訊くだけの勇気がない自分をけむに巻く。千景がどれだけその人を大事に思っているのか知ることで、自分が傷つきたくないだけだ。
「茅ヶ崎、次の信号右に曲がって。その近くにパーキングあるから、停めて少し歩こう」
「了解です」
千景の言っていたパーキングに車を停め、シートベルトを外しかける千景に向かって、思い切って訊ねてみた。
「先輩、今日はホテルありですか?」
「え?」
「最近、行ってないなあって思って。時間があるなら、その……」
行きたい、と小さく呟く。
ベッドの中での乱れっぷりは、もう嫌というほど知られていて、今さら純情ぶるつもりはないのだが、どうしても恥ずかしい上に、後ろめたい。
「もしかして、まだ……あのこと気にしてます?」
千景のタブーに触れた夜、手ひどく犯された。拘束されて、ろくに慣らさずに突き立てられた。だけど千景はそのことを覚えていないようで、その時ついた手首の痕をすごく気にしていたのだ。
「先輩、あの時から俺のこと抱く回数減りましたよね。気にしてるなら、それはやめてほしいです」
「茅ヶ崎……」
「大体、俺が責めてもないのに、償いみたいなことされるの嫌ですよ」
覚えていないのなら、そのままでいいと言ったはずなのに、腫れ物に触るように接されるのは気にくわない。至は俯いて唇を噛んだ。
「他に、相手ができたのなら……言ってください。いくらセフレでも、二股とか気分のいいもんじゃないですし」
「茅ヶ崎」
シートベルトを外した千景が、まだそのままだった至の方に身を寄せてくれる。
頬にそっと口づけ、驚いて振り向く暇もなく、そのまま唇にキスをされた。
「他の相手なんて、できてない」
唇のすぐ傍でそう囁き、千景は再度唇を合わせてきた。これは今日のことを期待してもいいのだろうかと、目を閉じて薄く唇を開く。
ぬらりと入り込んできた千景の舌を受け入れれば、口の中で互いの舌が絡んでいく。シートベルトに押さえられた体は、あの時の感覚と少し似ていて、だけど千景の唇はあの時とは違ってとても優しい。
上顎をなぞられ、そんなところでも感じるようになってしまった至は、ぴくりと肩を揺らす。千景の指先がネクタイのノットにかかり、緩められていく。喉元のボタンが外されて、指先が入り込んできた。
「あ、……っふ、んぅ」
ちゅ、ちゅ、と水音を立てながら合わさっていく唇と、乾いた肌を滑っていく指先。ドキンドキンと鳴る心音に気づかれたくなくて、ごまかすように千景の舌を必死に愛撫した。
「んっ、ん……ぁ」
「茅ヶ崎、お腹空いてる……?」
「え、いえ……それほど……」
「悪い、ご飯はまた今度でいいかな。抱きたくなった」
シャツ越しに、千景の手のひらが胸を撫でてくる。欲情されているのだと知って、カアッと頬が赤くなった。
自分から誘ってしまったようなもので、ひどく浅ましく感じる。
だがここで逃してしまったら、次はいつ関係を持てるのか分からない。至は了承を示すつもりで、千景の首筋に唇を寄せて軽く吸い上げた。
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右手に殺意を 左手に祈りを-007-
どういうことだ。
千景は仕事中も、帰宅中も、ずっと考え事をしていた。そのせいで珍しく書類にミスをして、上長に心配されたくらいだ。
その考え事は、茅ヶ崎至のこと。彼と過ごしたはずの、昨夜のことだ。
大体、おかしなことが多すぎた。
普段他人の傍で眠ることなどないのに、今日はその部屋で起きた。さらに、しっかりとセックスをした形跡があったのに、何も覚えていなかった。すっぽりと記憶が抜け落ちているのだ。
至の端末の中に、笑うディセンバーの写真を見つけて、頭に血が上ったのは覚えている。
腸が煮えくりかえって、端末が手をすり抜けたような記憶は残っていた。
そのあとが、分からない。
記憶がないのは、もしや至に何かされたのかとも思ったが、そんなわけはないとすぐに考えを改めた。
茅ヶ崎至という男は、どこにでもいるエリートサラリーマンというだけだったから。
ディセンバーに、何か言い含められたのかとも考えたけれど、観察のログからはそれらしき接触はなかったはず。
今日職場で見かけた至は、辛そうな顔をしていて、歩くのもしんどそうな様子だった。
彼が忘れていったものを届けた時に、体を強張らせたのは気のせいではないはず。何かがあったのは間違いないようだが、まさか。
(縛った、痕……だった)
至の手首に、見慣れない擦り傷があった。手首をぐるりと回るようについた傷は、転んでできるものではない。明らかに、拘束した痕跡だった。
お互いに緊縛趣味があるわけでもないのに、あの痕は間違いなく昨夜ついたもの。
千景は自身の部屋に帰りつくなり、珍しく鞄を放り出してテーブルで愛機を立ち上げた。
確認したいのは、茅ヶ崎至の観察ログ。レコードは残っているはずだが、今朝は時間がなくて確認できなかったものだ。
再生ボタンを押して、ホテルにいるだろうところまで飛ばす。
『お前はただここで俺を満足させろ』
『先輩! ちょっと、どう……外して、これっ……いやだ、いやっ……』
「――あ……?」
目を瞠った。
ベッドのきしむ音と、衣擦れ。本気の抵抗をしている至の声と、苦痛さの混じる喘ぎ。
思わず、がたりと腰を上げる。
端末はベッドの下に落ちているらしく、映像は撮れていない。だが、音だけでも充分、何があったのかは理解できた。
自分が、何をしたのかは理解ができた。
(茅ヶ崎ッ……)
茅ヶ崎至を、拘束して無理に犯したのだという事実。
『先、輩……っ』
それでもどうしてか、途中から至の抵抗する声が聞こえなくなった。
代わりに、抑えているような喘ぎとうめき。犯されてさえ快楽に溺れ出したのかとも思ったが、それにしては苦痛そうな声が混じっている。
うっ、う、と顔を枕に埋めているようなくぐもった声では、とても快楽を感じているようには思えない。
ベッドのきしみが激しくなり出しても、至からはいつものような声が一切漏れてこない。
「なんで……」
どうしてこんなことをされているのに、彼は一切責めてこなかったのだろう。いっそ全部を受け止めかねない様子が、千景にはどうしても理解できなかった。
ログを巻き戻して、ホテルに入ったあたりから再生し直す。
『他の写真も見ていい?』
『え? あー……いいですよ、そのフォルダなら』
ここはまだ覚えている。ディセンバーの写真を確認したくて、何でもないふうを装って画面をスワイプした。そのあとのことだ、思い出せないのは。
映像が、揺れる。恐らくここで端末を落としてしまったのだろう。
至が驚愕する声と、千景の掠れがちな低い声。
『んで……なんで笑ってるんだ……?』
『先輩……?』
『なんで笑ってるんだ! どうしてそんなにのうのうと生きていられる!』
千景は眉を寄せ、口の前で強く拳を握った。ディセンバーの写真を見て、何も考えられなくなった自分の未熟さが腹立たしい。
『俺を……俺たちを裏切ってまで生き延びて! なんでそんなところで笑っていられるんだ、ディセンバー!』
その名まで口にしてしまっていたのかと、歯を食いしばって俯いた。
至には、オーガストの名を知られてしまっている。頭は悪くない男だ、結びつけて考えるだろう。どれだけか、核心に近いものを想像できているかもしれない。
オーガストがもういないこと。
ディセンバーに殺されたこと。
復讐しか自分の頭にないこと。
(どうする、消すか? 知られたら駄目だ。茅ヶ崎が探り出したら、危ない……また組織のヤツらに嫌み言われるんだ、こんなことでっ……)
自分の落ち度とはいえ、民間人にその名を知られてしまってはいけないのだ。
ただでさえディセンバーの裏切りで、行動を共にしていた自分の立場も危ういのに。この上こんな失態を知られたら、危険分子と見なされ、命さえ危うくなってしまう。
(事故に見せかけて……いや、でも、茅ヶ崎は……)
必要ならば、存在を消してしまわなければいけない。殺しは好かないが、致し方ない――そんな時もある。
そう思おうとしているのに、ログの中で、必死で受け止めようとしている至の声に邪魔をされる。
(茅ヶ崎は、ディセンバーに近づくための大事な駒だ。アイツを消すメリットがないどころか、情報が入りにくくなる。デメリットしかないだろ……!)
ログが再生を続ける中で、千景は頭を抱える。
情報収集というなら、ディセンバーの居所が分かったのだから、他にやりようがいくらでもある。
至がいなければいないで、手を変えるだけだ。それも分かっている。
(不要な殺しをしたくないってだけだ、茅ヶ崎なら、ちょっと口止めでもしておけば踏み込んでこない、オーガストのことを知られた時だって、そうだったじゃないか)
使えるものなら使うだけ、利用価値があるうちは傍に置いていた方がいい。そう思っているはずなのに、心臓が痛い。
(駒なんだよ、あんなの! ディセンバーの居所に繫がったから、ちょっと優しくしてやろうかって思ってただけの! 犯したくらいで、何を動揺してるんだ……アイツだって今日なんでもないみたいにしてただろ)
ディセンバーのことを知られた事実より、オーガストのことを探られる可能性より、心臓が大きく波打つ。
(駒だってだけの相手に、なんだってこんな……!!)
至を犯したという事実が、何よりも腹立たしい。何の落ち度もない人間を、ひどく傷つけたに違いない。つかなくていいはずの傷だった。それを後悔しているだけだと、歯を食いしばる。
こんなことがあった翌日にさえ、何も訊かないでいてくれる相手を、不用意に傷つけてしまった、贖罪の思いがあるだけだと。
無理やりそう思い込んで、千景はその日のログをすべて――消して、愛機を閉じた。
気にしないでいいと言ったのに、千景は週明けにも気まずそうに声をかけてきた。
至はランチの誘いを素直に受けて、ひとときの逢瀬を楽しむ。事情がどうあれ、好きになってしまった相手とは少しでも一緒にいたい。
「カレーはやめてくださいね」
「もしかして、昨日も寮でカレーだったのか?」
「昨日どころか、朝もカレーだったんで……いや美味しいからいいんですけどね」
「了解」
そうして、千景のオススメらしい多国籍料理の店へ、連れていってもらう。
インド風の炊き込みご飯に目を輝かせている至の前で、千景は、白身魚のアクアパッツァにタバスコをかけて、満足そうにフォークを手に取っていた。
「先輩、辛党ですか?」
「そうだな。スパイスとかたくさん使ってある料理は好きだよ」
アクアパッツァが食われていくその口で、〝好きだよ〟なんて音が飛び出てきて、至は喉を詰まらせないようにすることで必死だった。
千景は料理のことを言っているのに、正面にいるというだけで、その言葉が自分に向けられているような錯覚に陥った。
(無理。ない。ありえん)
万が一にも、千景からそんな言葉を投げられることはないと、充分に分かっている。千景の中には大事な相手がいて、その人以外は恐らくどうでも良いのだろう。千景自身を含めて。
「茅ヶ崎、手首、大丈夫か?」
「え? あー……平気です。もう痕もないし」
不意にそう訊ねられ、至はぱちぱちと目を瞬き、視線を逸らした。両の手首についていた痕は綺麗に消えてくれている。これなら他の人たちに怪しまれることもないし、舞台にも差し障りはない。
「っていうか、こんなとこでする会話じゃないでしょ……気にしないでって言ったのに」
「いや、でも……」
「覚えてないんだったら、謝るのさえ不誠実ですよ」
あの日のことを鮮明に覚えていて、それを心から申し訳ないと思っての言葉なら、至も素直に受け入れただろう。だけど、千景は覚えていないのだ。そんな男から実のない謝罪をもらっても、何の意味もない。
「俺が茅ヶ崎にひどいことをしたのは確かだろう。何か、その……詫びとか、できないか」
「いりません。あ、でもここはオゴリですよね」
「ああ、それはもちろん」
そうは言うものの、千景は納得していないようで、じっと視線を向けてくる。何か対価を払ってすっきりしたいのだろうなと、その気持ちは理解できた。
至は千景の瞳を見つめ返し、わずかに下向く。
「じゃあ……いつかでいいんで、俺のお願い一個だけ聞いてもらえます?」
「いつか? お願いってなんだ」
「今は言う時じゃないです」
「なんだそれ、意味が分からない」
分からなくて良いんですよと、至は笑ってみせた。
千景に叶えてもらいたい願いがある。
だけどそれは、今ここで告げても叶わないものだ。笑われるのがオチで、解決にもならない。
「……なんだかよく分からないけど、茅ヶ崎がそれでいいなら」
「はい。じゃあ、この話はもうおしまいってことで。カレーじゃないお昼くらい、楽しく食べさせてくださいよ」
呆れ気味に息を吐く至に、千景がようやくふっと笑ってくれる。そういう顔を見たかったんだと、胸をなで下ろした。
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右手に殺意を 左手に祈りを-006-
さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。
寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて朝食をとって、今日は電車で出勤してきた。
座れないのもしんどかったが、この状態で車を運転する気力も、安全性もなかったのだ。
そういえば、朝食も無理やり詰め込んだような状況で、若干消化不良ぎみ。
時間が経つにつれて、体の痛みが増しているような気がした。腰と、肩と、足の付け根。
今日は、どんな顔をして千景に逢えばいいのかと考えると、恋をしているにも関わらず、彼に逢いたくないなんて思ってしまう。
ため息交じりにデスクに肘をつけば、袖口から手首が覗いてハッとする。慌てて手首を下ろしたのは、拘束された痕がついているからだ。
右手首はどうにか時計で隠せたが、左がどうにもならなかった。場所的に、包帯を巻くわけにもいかない。余計な誤解を生んでしまう。リストバンドなど持っていないし、そもそもスーツには合わない。
今日一日隠し通せれば土日の連休に入るし、気をつけていなければ。
パソコンの電源をつけて、必要なファイルを開くも、少しも頭に入ってこない。このファイルで何をしなければいけないのだっけと、初っぱなから躓いた。
数字が、文章が、混ざって頭の中に入り込んでくるようだった。
(思ったより……ショックだったのかな)
最近、千景の触れてくる手が優しくなっていた中での、あの行為。
優しさを、変に勘違いしたら駄目だと思っていたはずなのに、どこかで期待していたのだろうか。
心臓が痛い。こんなことになるなら、気づかなければ良かった。
(恋とか、馬鹿みたいだし……先輩の中には、俺の居場所なんかない)
至は髪をかき混ぜて、はあーと長く息を吐く。
千景の中には、大事な人がいる。〝オーガスト〟という、八月の名を持った人。口にさえさせてくれない名を持つ人だ。
その人以外は必要ないとでも言わんばかりの、千景の壁は、越えられない。触れることさえ許してくれない。
(……え、でも、待って……先輩昨夜、アイツを殺したお前が、とか言ってなかったっけ)
あまり思い起こしたくないことだが、ふとあることに思い当たる。千景が口にした、〝ディセンバー〟という音。ディセンバーとやらに似た人が、劇団の写真の中にいたのだと推察するしかなかったが、それ以前に重要なことがあった。
(殺した……? ディセンバーが、もしかして、オーガストさん、を……?)
さっと血の気が引いていく。
殺した、殺された、という単語はひどく非日常的で、実感が湧かない。ゲームの中でならまだしも、至の日常にそんな危険な言葉は飛び交わない。
(オーガストさん、亡くなってる、の、か……?)
そんな非日常の真実がどこに在るのかはさておき、ひとつ、大事なことがある。
千景が、あんなにも悲痛な声でオーガストの名を呼んでいたのは、もう逢えない相手だからではないだろうか。
(だから、あんなに……)
その仮定は、千景の昨夜の様子で確信に近づいていく。
ディセンバーに似た誰かを見て、オーガストを亡くしたことを思い出してしまったのかもしれない。
ディセンバーがオーガストを殺したというなら、憎くてたまらないだろう。
どうして生きているんだと言っていたような気がする。オーガストがいないのに、どうしてのうのうと生きているのだと。
(……先輩……大丈夫かな……それに、もしかしたら、ディセンバーって人も、元は友達だったりしたんじゃないのか? だって、八月に十二月ってのがあだ名だとしたら、仲悪い人たちに似たようなのつけないだろ)
至は、ぐ、と唇を噛んだ。ファイルを見るのは諦めて目を閉じ、千景を想う。
胸が痛い。心臓を直に握られているかのように、痛い。
これは至の推測にすぎないが、大切なオーガストが、大切にしていたかもしれないディセンバーに殺された――その絶望は、どんなものだろうか。
オーガストの存在を知ったとき、なぜ千景の傍にいてくれないのかと思ったが、そんなに単純なものではなかったようだ。
千景の孤独は、簡単には癒やせない。
会社の後輩でしかない至では、ただのセフレでしかない至では、到底無理な話だ。千景の心に入り込めないのは最初から分かっていたが、願うことさえ難しいのかもしれない。
千景が、幸福でありますように。
(祈るだけなら、簡単だよ……!)
千景の心の傷をえぐるトリガーを引いたのは、自分なのかもしれないと思うと、心臓がズキズキと痛んだ。
劇団に、ディセンバーに似た相手がいるなんて知らなかったし、オーガストがもういないのも知らなかったことだが、きっと千景を傷つけてしまったに違いない。
(顔……合わせづらいな……先輩、今日出張とかあればいいのに)
先ほどとは違う理由で、千景に逢いたくないと思ってしまう。昨夜のことをなかったことにはできないのに、記憶をごっそり抜き取ってほしいなんて祈ってしまった。
「茅ヶ崎くん、顔色悪いけど大丈夫? 体調悪そう」
隣のデスクから、同僚が声をかけてくれる。至はハッとして顔を上げ、笑顔を貼り付けた。
「あ、平気です、今日終われば休みだし」
「今日外出予定とかある? あ、ないのか、デスクワークならまだマシかもね。あんまり辛かったら課長に言って帰った方がいいよ」
「ありがとうございます」
そうは言うものの仕事はたまっていく。月曜に持ち越したくないものばかりで、至は軽く拳を握ることで、意識を仕事モードに戻すことにした。
そうして、なんとか昼休憩まで過ごしたわけだが、ランチをどうしようかと悩む。
無理やり詰め込んだ朝食のせいか、空腹感はないし、食欲も湧かない。そもそも立つことさえ億劫なのだが、これを逃したら定時までキツいだろうと、体にムチをうって立ち上がった。
ひとまずコンビニでも行って、適当にサンドイッチでも買おうとエレベーターの方へ向かう。そこで、聞きたかった、聞きたくない声がかけられた。
「茅ヶ崎」
びく、と体が強張る。振り向かなくても分かる、卯木千景の声。
「お、はよ……ございます」
「ちょっと、こっち来て」
「え?」
顔を合わせづらくて、視線を逸らしたままで千景に答えれば、腕を掴まれて非常階段の方へ歩かされる。
肩の痛みはまだあって、腰の鈍痛や脚の付け根の違和感で、相当歩きづらかったのだが、人の波に逆らうように千景の後を追った。
非常階段のドアを開けてすぐの踊り場で、ようやく腕を解放してもらえる。やっぱり昨夜のことを怒っているのかと、至は歯を食いしばった。
「あ、の……」
「これ、ホテルの洗面台に置き忘れてたぞ。コンタクト」
何を言われるかと思えば、どうやら忘れ物を届けてくれたらしい。ワンデータイプの箱を、置き忘れてきていたようだ。
「あ、す、すみません……」
至はそれを受け取って、ホッとした。気まずさはあるけれど、千景は概ね普段通りでいてくれる。
「……茅ヶ崎、ちょっと訊きたいんだけど」
「はい?」
「昨夜のこと、その……」
「あ、あの、すみません、俺、余計なことしたかもしれないですけど、できれば、忘れて、くれると……」
やはり話題は昨夜のことになってしまって、早口でまくし立てた。
忘れてほしいなんて言うのは、無責任だと分かっているが、言わずにはいられない。
千景を傷つけただろうことを、自分自身も忘れてしまいたい。
「……茅ヶ崎? それ、忘れなきゃいけないようなことが……あったってことか?」
「え?」
「昨夜のこと、ほとんど覚えてなくて――」
目を瞠る。
(な……に? 何言ってんの、先輩)
記憶をごっそり抜き取ってほしい、と祈ったのは事実だが、千景が本当に何も覚えていないなんて。
そういえば珍しく寝入っていたし、状況を考えれば、相当なショックがあったことは、理解ができる。
「なんだかひどく疲れてるみたいだけど、俺……そんなに無茶させたのか? 悪い、そんなふうにしたのに、覚えてないとか」
千景から発せられる気まずさは、覚えていないことに対する後ろめたさだったようだ。
「だ、大丈夫です」
「でも、ふらふらしてるぞ。仕事、できてるか?」
「……はい……」
至は次第に俯いていく。
忘れてほしいと思ったものの、本当に全部忘れられてしまうのも寂しいなんて、身勝手なことを考えた。
(なにこれ……)
傷ついたことは忘れてほしい。だけど、ひどい行為でも熱を分けたあの時間のことは、忘れてほしくなかったのだと気がついて、きゅっと唇を噛みしめる。
「しんどいなら、医務室へ」
「――千景さん、ちょっとだけ、寄りかかってもいいですか……」
「ああ」
立っているのがそれほど辛いわけではなかった。だけど千景は、迷いもせずに抱き寄せてくれる。至は千景の肩に額を預け、ゆっくりと、小さく、息を吐き出した。
(忘れてるんだ、本当に……)
千景と呼んでも、何ら変わった反応を見せなかった。昨夜「お前には許可してない」と言ったはずなのに、呼ばせてくれる。
(忘れよ……その方がいい。先輩が忘れたいなら、俺が覚えてたってしょうがない)
オーガストという名も、ディセンバーという名も、心の奥底に閉じ込めておこう。
至はそっと目蓋を閉じて、スーツ越しの体温を感じた。
「もう、大丈夫です。お昼ご飯の時間なくなっちゃいますから、行きますね」
そうして千景の体を押しやり、にこりと笑ってみせる。
「茅ヶ崎」
心配そうな顔をする千景を押しのけて、フロアに出るドアノブを握った。
そのまま千景の傍を離れるつもりだったが、突然腕を掴まれて、叶わなくなる。
「……これなに、茅ヶ崎」
千景が、至の手首を胸元まで引き上げる。引きつるような痛みに顔をしかめたが、もう隠す余裕がない。
「なんでこんなのついてるんだ」
時計で隠せなかった左手首、時間が経って濃くなってきてしまった拘束の痕。
うかつだったと後悔しても、もう遅い。千景が気づいてしまった。
「もしかして、俺が……?」
千景は眉を寄せて、思い出せない昨夜の行為を思い出そうとしているようだ。
至は掴まれた腕を振り払って、こんなのは何でもないとまっすぐに千景を睨(ね)めつける。
「覚えてないなら、別に構いませんよ。気にしないでください」
「そんなわけにはいかないだろう、おい茅ヶ崎!」
「俺が頼んだからとか、考えないんですか? 先輩にとって、楽しくはなかったんだろうなって思うだけですけど」
千景に、思い出してほしくない。どうしてあんな乱暴な行為に至ったのか、認識してほしくない。
こんな、いつか消えてしまう傷なんかより、千景の心につくだろう深い傷の方が耐えきれない。
「じゃあ、ホントに食いっぱぐれるんで、行きます。コンタクト、ありがとうございました」
言って、まだ納得していなそうな千景を振り切る。階段のドアを閉めて、無理に足早に踏み込んだ。追いかけてこないところをみると、この傷のことを気にしてしまっているのだろうと推察できた。
(覚えてないなら……その方がいいのに。でも、もし思い出したら、先輩の傷に、俺でも少しは関われるのかな、とか……馬鹿みたい。みたいっつーか、馬鹿)
オーガストのことを、ディセンバーとやらのことを考えるたびに、千景は傷を深くしているに違いない。もし昨夜のことを思い出したら、必然的に傷が深くなる。その原因に、自分が少しでも関われる。
傷ついてほしくないと思う傍らで、その傷に触れていたいとも思う。相反したふたつの気持ち。
至は再度エレベーターの方へ向かい、どうしたらこの気持ちが消えてくれるのかと、ぼんやり考えた。
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右手に殺意を 左手に祈りを-005-
肌寒さと、肩がうまく動かないもどかしさで、目が覚めた。
目を開けて最初に飛び込んできたのは、白いシーツ。目蓋の圧迫感は、うつ伏せの状態で転がっていたせいか。
「う……」
腕が動かない。動かそうとすれば肩がギシリと音を立てるようで、痛みが走る。その痛みのおかげで、ぼんやりとしていた意識がはっきりとしてきた。
(あー……そっか)
腕を縛られたのだっけ、と思い出して、呆れて、諦めたように息を吐く。
今回、千景に腕を拘束された。
何が気に障ったのか、何がスイッチだったのか分からないけれど、触れられたくない場所に、知らないうちに触れてしまったのだろう。
優しさなんか欠片もない行為で、無理やり快楽を引きずり出されて、何度も、中をかき回された。
雄を突き立てられた箇所が、じんじんと痛む。汗と流した涙で、顔にパリパリとした膜でも張っているようだ。
(シャワー、浴びたい……、……って、え!?)
どうにかこの拘束をほどいて、汚れを洗い流したいと身をよじって、初めて気づく。信じられないものがそこにあった。
至が寝かされていたものとは別のベッドに、千景の姿。
「え、噓……」
まだ自分の目が覚めていないのかと思った。
何しろ、何度体を重ねても、千景が至の傍で眠ることなどなかったのだ。激しい行為で意識を飛ばされて、気がついた時にはもういないだとか、意識があるうちでも千景は先に部屋をあとにしていた。
それが、視線の先に、確かに卯木千景の体がある。
至を抱いてそのまま寝落ちたとでも言わんばかりに、乱れたシャツと、役割を成していないブランケット。かろうじて眼鏡は外されていたが、それもどこにいったのか。
まったく千景らしくない。
(いや、先輩のことなんて全然知らないけど。でも、これはどう考えたっておかしいよな。……昨夜のだって……んん、違うな、その前から先輩はおかしかった)
至は、また見てはいけないものを見た気がして、目を逸らす。拘束をほどこうと、肩を動かす。手首にひりつく痛み。擦り切れたかなと歯を食いしばって、泣きたい気持ちを我慢した。
千景の様子がおかしいのには、気がついていた。
あの日から距離がほんの少し近くなって、触れてくる手が優しくなった。
恋に気づいた、あの日から。
最初は、自身の願望がそう思わせているのかと思った。だけど、違う。
千景に見られていることが多くなった。話しかけられることが多くなった。以前は気にもしなかったのに、プライベートのことを訊いてくるようになった。
手放しで喜べないのは、自分と同じ気持ちからではないと分かったからだ。
もし恋をしてくれているのなら、あんなに冷めた目で見るものか。あんな貼り付けたような笑顔で話すものか。
トリガーは、〝オーガスト〟。
その人の名を呼んでしまったことからだ。
千景にとっては、触れられたくない部分だったに違いない。触れてはいけないものだったに違いない。
それが確信に変わったのは、それまでは絶対に見せなかった、苦痛に歪む顔をさらすようになったからだ。
千景に自覚があるかどうか分からないが、あの日から――時折苦しそうに遠くを見つめて、歯を食いしばる彼を見かけた。もちろん声などかけられなくて、こっそりその場を離れたり、誰も彼の世界を邪魔しないように周りを見張ったりしただけだったけど。
そんな中で、この仕打ち。
また何か、千景の不可侵領域に踏み込んでしまったのだろう。
(またオーガストさんに関係あんのかな……そういえば、写真見てからだな、おかしくなったの)
確か、冬組の写真を見ていたはずだ。
(ディセンバー……今度は十二月か)
千景が口走った言葉の中に、オーガストと同じく月を表す単語があった。それも恐らく人の名前なのだろう。
オーガストのことを考えれば、それも口にしてはいけないはずだ。オーガストのことを、ディセンバーという人のことを、探ろうとは思わない。踏み込めるとは思わない。
「こんなことまでされてんのに……馬鹿かな……」
願うのは、ただひとつ。
卯木千景がどうか幸福でありますように。
どうにかネクタイをほどいて、しばらくぶりに自由になった腕を動かす。
しわになったシャツと、手首についた擦り傷。
舞台に差し支えるし痕にならなければいいなと、役者らしいことを思って苦笑した。
劇団に入った頃はそんなこと思いもしなかったのに、人は変われば変わるものだ。
思っていたよりも芝居が好きで、思いもしなかった恋に落ちて、相手の幸福を祈るだけの、実入りのない想いにふける。
気分が沈んでいく。
千景が何を抱えていて、何を隠しているのか、知る立場にないことが、もどかしくて、悔しい。
こんなに物音を立てていても目を覚まさないほど、千景は深い闇に落ちているらしい。
至は床に落ちていた携帯端末を拾い上げ、ロックを解除する。
画面はアルバムのままで、冬組のメンバーが楽しそうに稽古をしていた。
GOD座の挑戦を受けると決めてから、彼らは熱心に稽古をするようになった。寝食を共にして、少しだけ打ち解けてきたメンバーを、少しでもサポートしたいと、各組それぞれで、稽古やエチュードに付き合ったりしている。そんな中の一場面だ。
(俺たちを裏切って……アイツを殺したお前が……ねぇ……。その人に似てる誰かがいたのか、それとも、この中にディセンバーとやらがいるのか)
そこまで思って、至はふるふると首を振った。個性派ぞろいとはいえ、人を殺すような男がいるとは思えない。思いたくない。きっと似た人がいるのだと、アルバムを閉じる。
そうしてほんの出来心で、この先見られないだろう千景の寝顔をフォーカスし、シャッターを押した。
千景が起き出す前にここを出ていこうと、痛む体にムチを打ってバスルームで汚れを洗い流す。
千景への想いも流れていってくれればいいと思ったが、やっぱりそんなことできやしなかった。
ふっと千景の意識が浮上する。
胸のあたりがズキンズキンと痛むのが不快で、あまり気持ちのいい目覚めではなかった。もっとも、生まれてこの方、気持ちの良かった目覚めなど、経験したこともないのだが。
千景は腕で上体を押し上げ、汗で張り付いた髪をかき上げた。
目を瞠る。
眠ってしまっていたことが、信じられない。自身の家ならばまだしも、ここはホテルの一室だ。そんなところで眠れるなんて思わなかった。しかも、他人がいる状態でだ。千景はふるふると頭を振り、その部屋にあるはずの存在を呼んだ。
「茅ヶ崎?」
しかし、呼んでも返事がない。物音ひとつ聞こえてこない。不思議に思ってようやく、もうひとつ設置されたベッドに視線を向けた。
整えられていないベッドの上、在って当然だと思っていたものがない。
代わりに、一枚の紙切れ。
『先に帰ります。また、会社で』
下手な字でそう書かれたメモは、この部屋に備え付けの、味けないものだ。千景はそのメモをクシャリと握りつぶして、ゴミ箱へ放った。
正直、昨夜のことはよく覚えていない。
状況からして、セックスをしたのは間違いないのだが、最中のことがまるで思い出せないのだ。
しわになって汚れたシャツと、ベッドの下に落ちたネクタイ。
ともかく一度家に帰って、着替えてからでないと出勤ができないなと、息を吐いてバスルームへと向かった。
#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを
右手に殺意を 左手に祈りを-004-
至から車のキィを受け取って、ドアを開けた。
定時を大幅に過ぎていれば、駐車場に車は少ない。人もまばら。
千景は助手席に乗り込んできた至のネクタイを摑み、ぐいと引き寄せた。
「あ」
ちょっと、と諫めかける至の口を塞いで、ちゅっと音を立てて吸い上げ、指先で首筋をくすぐってやる。
「先輩、ここまだ職場……」
「平気だろ、周りに誰もいない」
言葉ではそう諫めていても、至の頬は真っ赤に染まっている。千景はふっと口の端を上げた。
「じゃ、行こうか。いつものホテルでいいだろ」
「あ、はい……。すみません、遅くなっちゃって」
「別に構わないよ。プレゼンの資料頑張ってたな。お疲れ様」
ぽんぽんと至の頭を撫でてエンジンをかければ、照れくさそうに視線が泳ぐ。可愛い後輩だ、と思う。こうまで都合のいい相手が身近にいたのは僥倖で、千景は再度目を細めて笑った。
ディセンバーが、今どんなふうに過ごしているのか探るには、見張るよりも至に探りを入れた方がいい。他人から見たディセンバーを知ることができる。
「劇団の方は、どう? 今日は稽古なかったのか?」
「あ、今日は夏組と冬組がレッスン室使う日なので。っていうか今ちょっとややこしいことになってて……」
「ややこしい?」
「デカい劇団に目をつけられてるみたいで、劇団の存続を賭けた勝負挑まれてるんですよ」
そういえば、団員たちとそんな話をしているログもあったなと、千景はひとつ瞬いた。
「改めて……自分が結構芝居にのめり込んでるなって思いました。なくなってほしくない」
寂しそうに呟く至を横目で見やる。千景としても、今あの劇団がなくなることはありがたくない。ディセンバーが苦しむのはいいが、それに自分が関わっていないのでは意味がない。
それに、劇団がなくなれば、ディセンバーとの接点が消えてしまうだろう。
「芝居、好きなんだな」
「いや、自分では意外でしたけどね」
「そうなの? もともとなのかと思ったけど。猫かぶってるだろ? 職場で」
「えっ?」
至が驚いて、慌てた様子で振り向いてくる。至の素の姿は知っているけれど、その事実を至は知らないのだ。
「ベッドの中の茅ヶ崎が、あんなに色っぽいなんて、誰も知らないよな」
「え、あ、そっちか、良かっ……色っぽくないです」
つんとそっぽを向く仕種は、可愛いなと思わなくもないが、攻略するべきはそこではない。
少しでも情報を引き出して、こちらの有利になるように進めたいのだ。
笑う顔の奥で、千景は焼けただれそうなほど熱い殺意を抱いていた。
「勝負を挑まれたのは、冬組? メンバー集まったばっかりなんじゃないのか」
「そうなんですよね……勝負挑んできた劇団の元団員とか、ブランクありでも経験あるのはいるんですけど、あとは素人だし。まあ俺のとこも素人ばっかだったので、稽古次第でなんとか……」
「へえ……大変そうだな」
他の組はどんな演目だったのか、普段どんな稽古をするのか、ホテルに着くまでの道のりで収集する。職場から離れた場所を逢瀬に選んでいたのは好都合だったなと、千景はフロントガラスを睨みながら考えた。
「どこでも寝ちゃうって人もいるんだっけ? それで芝居とかできるのか」
「エチュード、あ、即興劇なんですけど、それは何度か観ましたよ。上手いんですよね、これが。結構な拾いものです。あ、その人記憶喪失で。行き倒れてたとこ、数あわせに勧誘したっぽいんですけどね……ウチの監督さんも節操ないっていうか」
さりげなくディセンバーの話題を出すと、驚く言葉が返ってきた。
(記憶喪失……? ふん、いい手だな、何も覚えていないと言えば、詮索されることはない。お人好しばかりの劇団で、アイツはっ……!)
信号待ちで停まった千景は、耐えきれずにステアリングへと突っ伏す。ぎゅうと強く握りしめる手に力がこもり、どうかすると壊しかねない。
「先輩? ちょ、どうしたんですか」
そんな千景を、心配そうに覗き込んでくる男。千景はゆっくりと至を振り向いて、視界に認める。ぼんやりとぼやけた視界の中で、至だけがはっきりと見えた。
(ディセンバー、お前……、なんでこんなヤツの傍にいるんだ? 記憶を失ったふりまでして、そんなに生きたかったのか?)
すうっと目を細め、憎悪さえ込めて至を見つめ返す。びく、と強張った体は、さすがに何かを察したのだろうか。
「悪い、少し頭痛がしただけだ」
「え、あの、具合が悪いなら帰りません?」
「大丈夫だよ、茅ヶ崎」
「だ、大丈夫じゃな――」
襟を引っ張り、無理やり唇を塞ぐ。
(こんな、唐突なことに対処もできないヤツの傍で!)
吸って、舐めて、その先に入り込もうとしたところで、信号が青に変わる。名残惜しいふうを装って、唇を放して至の体を助手席へと押し戻した。
「お前を抱けば治る」
「そっ……んなわけ、ないでしょ、馬鹿なんですか……」
至は何も気づかないで、頬を染めるだけで大人しくなってしまう。
千景にはそれが、余計に腹立たしかった。
身を寄せるにしても、もっと考えられなかったのか。体術に長けた人物がいるだとか、武器に詳しいとか、コネクションが強力だとか。
茅ヶ崎至には、そんな力どこにも見受けられない。もちろん個性派ぞろいという劇団全員が、こんな男ではないのだろうが、どうしても許し難い。
(男に抱かれてよがってるようなヤツの傍で、お前も笑っているのか、ディセンバー)
恥ずかしそうに、悔しそうに口を押さえる至を横目で見やり、ギリと歯を食いしばった。
この男をどうしてやろうかという凶悪な思いで、ホテルのドアを開ける。
この男はディセンバーに近づくための大事な切り札だ。下手なことをして警戒されてしまっては、ディセンバーに気づかれてしまう。
準備が整うまでは、至に気づかれるわけにはいかない。
千景は吐き出しそうな闇を必死で抑え、ジャケットを脱ぎ捨てた。
「あ、やっぱり今日もカレーだったんだ……回避できてよかった」
鞄をテーブルに置いた至が、恐らくLIMEの画面を覗いて笑う。
劇団では、よくカレーが出るのかと、辛い物が好きな千景としては気になるところだが、甘いもの――というかマシュマロが大好きなあの男も、文句ひとつ言わずにカレーを食べるのだろうかと、違和感が襲ってくる。
「寮では、カレーが多いのか?」
「そうですね。多いときは週五ですよ」
「……多いな」
「ははっ、驚きますよねやっぱり。美味しいからいいんですけど」
「楽しそうで何よりだ。……劇団の写真とか、ある?」
至もジャケットを脱いで、椅子の背にかける。ハンガーに掛けろといつも言うのに、聞いたためしがない。彼は寮でもそうなのだろうかと、さりげなく探りを入れた。
御影密――ディセンバーのことは、盗聴した声で分かったが、姿は見ていない。まだそれほど親しくなれていないのか、ディセンバーが至の部屋に来ることはなかったし、活動時間が違っているようで、至の携帯端末に映ることはなかったのだ。
「ありますよ。俺はそれほど撮る方じゃないですけど、カメラマンの臣とか、インステやってる一成とかは、いっぱい撮ってて。あ、これなんかいい写真ですよ。冬組がようやくまとまってきた感じの」
至は笑いながら端末を操作する。過敏に反応しないようにするのがとても大変だったが、至に気づかれるほどではないだろう。
はい、と手渡された端末の画面に、五人の男。
衣装合わせなのか、普段着とは思えない服に身を包んでいて、天使らしき羽根まで見えた。
千景は、愕然とした。血の気が引いていく。
そこには、あの任務の時に別れて以来の、ディセンバーの姿。
少しも変わらない姿で、そこにいた。
相変わらず眠そうにしながらも、合わせられる衣装に従順に腕を広げていた。
「他の写真も……見ていい?」
「えーと、あー……、そのフォルダなら構いませんよ。エロいものとかないし」
至はそう言って笑う。茶化したつもりなのだろうが、それに乗ってやれる余裕などない。千景はゆっくりと画面をスワイプした。
知らない男、知らない女、知らない男、知らない男、――知っている男。
足の先まで引いた血が、沸騰するかのごとく心臓に戻ってくる。そんな感覚を味わった。
「あ、先輩、俺先にシャワーしてきま――」
千景の手から、至の端末が落ちる。それはカーペットの上に転がって、ゴトリと鈍い音を立てた。千景の手は至の腕を引き摑み、傍のベッドへと放り投げる。どさ、と重い音が部屋に響いた。
「せ、先輩っ?」
両腕を押さえつけ、膝を腹の上に乗せる。身動きが取れなくなって慌てたのか、至の声が震えていた。
「――んで……なんで笑ってるんだ……?」
だけど、千景の唇が奏でる音は、掠れて、もっと震えていた。
「先輩……?」
「なんで笑ってるんだ! どうしてそんなにのうのうと生きていられる!」
目の前が真っ暗になって、真っ白になって、そして真っ赤になったような気がする。
端末の中で、〝彼〟が密と名付けた男は、笑っていた。柔らかく、安心しきって、笑っていた。
体中の血が沸騰する。ぐつぐつと腸が煮えくりかえるようだ。
「俺を……俺たちを裏切ってまで生き延びて! なんでそんなところで笑っていられるんだ、ディセンバー!」
ぐらぐらと視界が揺れる。なんという裏切りだ。
〝彼〟を殺したことを悔いて、泣き暮らしていればまだ可愛げもあったものを、記憶をなくしたと噓をついてまで、そこにいたかったのだろうか。
「アイツを殺したお前がっ……そんなところにいていいはずないだろう!」
「先輩、ちょっと、なに、ねえ、放してくださいっ」
組み敷いた男が、生意気にも逃れようと身をよじる。何かを訴えているようだが、やかましいノイズにしか聞こえなかった。
「うるさい……うるさい、黙れ」
頭の中で、ノイズに混じって声がこだまする。
その幼い声は、笑い混じりの、涙混じりの、怒りと、寂しさと、諦め。その他にも、いろいろな声が混ざり合っているようだ。
ややあって鮮明になっていくそれは、一人の男の声になり、二人の男の声になり、溶けて、重なって、ノイズを擁していく。
――か……げ。
……かげ。
ちかげ。
「千景さん!!」
突然鮮明になった音に、千景はハッとした。
不安そうに見上げてくるふたつの瞳。茅ヶ崎至だ。
視線が互いの間で重なって、彼は安堵したように見えた。
「千景さん、ねえやっぱやめましょ、今日。おかしいですよ?」
なだめるような声音と視線が、千景には煩わしい。
(よぶな……呼ぶな、アイツらでもないくせに)
ちかげ、と。
その名をつけてくれた男はもういない。呼びづらいと眠そうに言った男ももういない。
千景はすと目を細め、ぐいとネクタイのノットを引き乱す。ごろりと裏返した至の背中で、彼の手をひとつにまとめて掴んだ。
「えっ? な、なに……千景さん、どうしてッ」
突然のことに思考がついていかないのか、至は千景の下で無理に振り向く。反応が鈍いなと、千景は忌ま忌ましげに見下ろした。
「俺の名を呼ぶな。お前には許可してない」
目を瞠る至の手首を、引き抜いた自身のネクタイで縛り上げる。
不愉快で仕方がなかった。ただ体を繫げるだけの男に、呼ばれたくない。
特別な能力があるわけでもないのに、彼らのことを知っているわけでもないのに、その音を口にするなんて。
至の首を上から押さえつけ、腰を高く上げさせる。そうして耳元で囁いた。
「お前はただ、ここで俺を満足させろ」
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春組の第四回公演を機に、千景がMANKAIカンパニーに入団した。しかも入寮希望だということで、至はホッとしたのだ。
これで千景がひとりきりになることはないと。
きっと、オーガストやディセンバーに敵うことはないだろうが、取り巻く他人に触れていく中で、違う種類の幸福を得られることがあるかもしれない。ただそう思っただけだった。
「千景さん、もう一度!」
「じゃあもう一度、よく見てて」
歓迎会でも、さっそく人気者。手先が器用なのは知っていたが、まさか手品まで得意だったとは、と至は隅の方で笑う。
この賑やかな劇団で、千景は心を溶かしてくれるだろうか。
「至さん、飲み過ぎじゃね?」
「そ? 別に普通だよ」
ゲーム仲間である万里が、アルコールを飲むペースが速い至を心配して、声をかけてくる。
実際、浮かれてはいた。
まさか、千景の方から入団希望があるとは思わなかったが、これで一緒にいられる時間が増えるのだと。
毎回ホテルで別れるのを、寂しく思うこともなくなるかもしれないと、恋心を多分に含めて。
「あの人、どういう感じ?」
「あの人って、先輩のこと? 見た通り、イケメンエリート。加えてチート技多数」
「ふーん……なんか、掴めなそうな感じだなって思って」
「そりゃ数日で掴めないだろ。万里だって、こんなに素直になるとか昔からじゃ考えつかないし?」
「素直って! なんすかそれ」
「言葉通り」
万里はふてくされてふいと顔を背け、オレンジジュースを追加で注ぎに行ってしまう。
彼も入団当初の態度から比べたら、ずいぶんと丸くなったと思うのだ。そんな展開は、読めていなかった。
入ったばかりの千景の動向を摑めないのも、それと同じだと言いたかったのだが、言葉の選び方がどうにも下手らしい。
(そんな簡単に掴めるような人なら、こんなに苦しくなったりしないのに)
体を重ねている自分でさえ、千景のほんの欠片しか分からないのに、たった数日のメンバーたちに理解されてしまっては、たまったもんじゃない。
(俺がいちばん近い、……と思ってたけど、違うんだろうな。俺は何もできない……せめて性欲処理くらいにはなってたらいいんだけど。ハハッ、我ながら健気じゃん)
そんなふうに思っていたら、主役の姿が見えない。千景に教えてもらった手品を、一所懸命練習している年少組の中にも、酒の飲める成人組の中にも、もくもくと料理やデザートを頰張る連中の中にもだ。
(あれ、どこ行ったんだ先輩……入団おめ~の乾杯しようと思ったのに)
乾杯など、もう何度したか分からない。新しい酒を注いで、千景のグラスと合わせる――それは傍に行くために、都合の良い言い訳だったのに、ターゲットがいないのではどうしようもない。
トイレかな、としょんぼりした至の視界に、あってほしいものがないことに気がついた。
(――え?)
密が、いない。
千景はひた隠していたし、至は忘れろと言われている――ディセンバーのことが頭をよぎった。
ディセンバーという名を知ったあの日、千景は冬組の写真を見てから様子がおかしくなった。
初めて観に来た公演も冬組だった。
もっと遡れば、そういえばマシュマロという言葉に、反応していたことも。
密には、記憶がない。この劇団に入るまでの記憶が一切合切だ。
もしかしたら、密がディセンバーなのではと、何度も思った。それ以外のメンバーは、身元も記憶もはっきりしているからだ。
ただディセンバーに似ているだけかも、と思うには、あの時の千景の声が耳に焼きついて離れない。
〝なんで笑ってるんだ……?〟
絶望と、混乱。そんな声だった。
(あれってやっぱり、密に向けられた言葉だったのか? 先輩、まさかとは思うけど)
至は嫌な予感がして、千景を探しにいこうとグラスを置き、談話室を出た。
「どういうつもりだ、ディセンバー」
(――え?)
中庭の方で、聞き覚えのある声がする。談話室から漏れてくる賑やかな声に混じってはいたが、至がこの声を間違えるはずがない。
千景が、ディセンバーという音を口にした。
至は壁の陰に隠れ、声のする方をそっと覗く。
千景の向こう側には、やはり、想像した通りの人物がいた。密だ。
「記憶喪失のフリなんて……」
「フリ……?」
千景の表情は見えないが、密は不思議そうに、不審そうに首を傾げている。
「まさか、本当なのか? お前は……オーガストとともに死んだものとずっと思っていた。一人おめおめと逃げ延びて……お前がオーガストを見殺しにしたんだろう……!」
オーガストという名前に、密の目が瞠られる。
どうやら、それに聞き覚えはあるらしい。至は彼らを覗き見るのを止め、ゆっくりと壁にもたれた。
(うそだろ……)
聞いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。これは千景の不可侵領域で、聞くべきものではない。分かっているのに、神経が逆に研ぎ澄まされていく。
「お前への復讐を果たしに来た。分からないのならば、思い出せ。お前の罪を――オーガストの、最期の顔を。オーガストはどんな顔だった? どんなに無念だったか、お前には分からないだろう。悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる」
千景の、聞いたことのない低い声に、至の膝が揺れる。顎が震えカチカチと歯がぶつかり、目蓋も下ろせない。
(先、輩)
至が思っていたよりずっと、千景の悲しみは深い。憎しみも強い。
オーガストやディセンバー――密と千景が、どのようにして過ごしていたのか。
それは至には知り得ないことだが、もしかしたら、家族のように過ごしていたのかもしれない。
そのうちの一人の裏切りで、もう一人が死んだ。
そんな目に遭った千景の孤独を癒やそうと思ったのが、簡単に〝幸福になってほしい〟と願ったのが、間違いだったのかもしれない。
〝悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる〟
千景を救い上げることなど、自分には到底できないと、至は唇を噛んでその場を離れた。
(密を……ずっと探してたんだ。オーガストさんの最期に、一緒にいた人……)
一緒に死んだものと思っていたと聞こえたのは、気のせいではないはずだ。
生きていたことを、千景は喜んだだろうか。喜んだはずだ。だが、喜びの種類は分からない。お前だけでも生きていてくれて嬉しい、なのか、オーガストの敵が討てて嬉しい、なのか。先ほどの様子を見るに、恐らくは後者。
(公演を観に来たのも、俺に優しくなったのも、入団したのも……密に逢うため、か……)
至は歯を食いしばって、目元を押さえる。
いつ頃からか、千景との距離が近くなった。あの夜のことをまだ気にしているものだと思ったのに、そうではないのだろう。
ディセンバーに近づくために、油断させるために、逃さないために、きっかけと鍵を手に入れたかったに違いないのだ。
(別に、いいけどさ……利用されてたって、そんなの……)
千景のためになるなら、力になりたかった。苦しいのなら、話を聞いてそして忘れて、ただ傍にいたかった。想いが叶わなくても、他の人よりほんの少し近い距離にいられればいいと思っていた。
(でもなぁ……密を売ったみたいになってんのは、しんどいわ……)
至は、賑やかな談話室には入れずに、廊下の壁にもたれ、そのままずるずると座り込んだ。
千景に使われていたこと、知らず知らずのうちに、密を危うくさせていたこと、こんなことになってもまだ、千景への想いが消えていってくれない諦めの悪さが、至を俯かせた。
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