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金色の曼珠沙華-028-

金色の曼珠沙華 2017.10.01

#シリーズ物 #ウェブ再録

 起きたときにはもう、十時近く。飛び起きれば頭がずきりと痛んで、昨日の酒がまだ抜けていないことを知る…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-028-


 起きたときにはもう、十時近く。飛び起きれば頭がずきりと痛んで、昨日の酒がまだ抜けていないことを知る。
「おっ、左京さん起きてきた。二日酔い平気っすか」
 リビングに向かえば、秋組のリーダーである万里が、携帯端末片手に何かと格闘していた。
「ああ……大丈夫だ……」
「大丈夫って顔でもねーけどな。今日昼から稽古だろ? アンタ出られんの、そんなんで」
「稽古には出る。少し寝不足なだけだ」
「ハ、それって兵頭のせいじゃねーの」
 からかう材料は全部使うとでも言いたげに、万里は笑う。いつもの左京なら、それに鋭い眼光で返していただろう。
「恋愛脳みてーなこと言うな。自分が今そうだからって」
 否定はできない。眠れなかったのは、ずっと考えていたのは、十座のことなのだ。だがそれを素直に認めるだけではどうにもバツが悪くて、ちょっとした仕返し。思った通り、万里は驚きに目を瞠った。
「な、んで知ってんすか」
「演技が変わったからな。女でもできたのかと思ったらまあ……ハハ、まさかな」
 お前があの月岡を、と小さくつけ加えると、万里が面白くなさそうにふいと顔を背けた。
「いいだろ別に。力ずくでどうにかしてえってわけじゃねえんだし。迷惑はかけてねえ」
「……兵頭と同じことを言いやがる。若ぇな、ほんと」
 左京は、そこでようやく気づく。十座の気持ちを秋組の連中の前でさらけ出してしまったあの時、どうして万里があんなに怒ったのかを。
「恋すんのに歳なんか関係ねえってんだよ」
「ガキだってマジな恋愛してんだよ、か? まったくお前は、冬組が大変な時に」
 手を持ち上げると、万里が肩を竦める。叩かれると思ったのだろうか。だが左京のその手は、万里の頭をぽんぽんと撫でるだけだった。
「は、え……?」
「なんだ」
「え、あ、いや、なんかチョーシ狂うってか……」
 撫でられるとは思っていなかった万里が、どこか居心地悪そうに首を傾げる。左京がそれに苦笑した頃、ひょいとリビングに顔を出した団員がいた。
「あ」
 気まずそうなその声にいち早く気がついたのは、万里。
「紬さん、おはよ。今日もカテキョ?」
 というのも、入ってきた相手が、片想いをしているらしい月岡紬だったからだ。
 その嬉しそうな顔は、左京の時とは段違いだ。
 恋をすると、誰もがこんな風になってしまうのだろうかと、左京は肩を竦めた。
「お、おはよう万里くん。左京さんも。そうなんだ、今日もカテキョ。学生さんは大変だよね」
 紬の反応を見るに、どうもまんざらでもなさそうなのが気にかかる。彼はもう、万里の気持ちを受け入れられているのだろうか。
「あ、左京さん大丈夫ですか? 昨夜相当飲んでたって聞きましたけど……」
「あ、ああ……今から出るのか月岡」
「はい、ゆっくり行こうかなって」
「俺もちょっと用事がある」
「あ、じゃあ一緒に行きましょうか。俺は駅の方ですが、方向同じですか?」
「ああ、本屋にちょっとな。摂津、昼メシまでには帰るから、稽古は予定通りだ」
「ういーっす」
 本当はそんな予定はなかったけれど、まさかここで話し込むわけにもいかない内容だ。左京は素早く出掛ける準備をして、紬の後を追って玄関へ向かう。途中、紬を見送っていたのか、上機嫌な万里と廊下ですれ違った。
(摂津のあんな顔、初めて見たな……)
 短い間の会話でも、万里は嬉しいに違いないのだ。
 少し顔の赤い紬の横で、左京は口を開いた。
「月岡、お前摂津とはどうなってんだ?」
「えっ……え!?」
 紬が驚いて勢いよく振り向いてくる。前触れもなかったその問いかけに、すぐには対処できなかったらしい。
「もっ、もしかして玄関での会話、聞かれてました?」
「いや、……悪い、ちょっと、兵頭に聞いちまってな。摂津の演技が変わったから、不思議に思ってたんだが……冬組が大変なときに、うちのリーダーがすまねえな」
「あー……」
 紬は困ったように頬をかき、はははと笑う。
 深刻に困っているようではないが、困っていないわけでもないようだ。
「びっくりしました。そんなにストレートに訊かれるとは思わなくて」
「つきあってんのか?」
「いえ、そういうのはなくて。万里くんが、俺なんかのこと好きだって言ってくれることを、今ようやく素直に受け入れられた状態っていうか。だから、万里くんには待ってもらってます。今は本当にそれどころじゃないでしょ」
 知られているのなら、隠しても無駄と思っているのか、紬は万里の想いを素直に吐き出してくる。この素直さに万里は惹かれたのだろうか。
「よく……受け入れられたな、年下の、しかも男からの告白なんて」
 駅までの道のりをゆっくりと歩きながら、左京は罪悪感にも似た思いで呟く。
 紬のように、嬉しそうに「待ってもらっている」なんて言えない。言ってやれない。
「俺だって戸惑いましたよ、そりゃ。万里くんはまだ若いし、女の人にだって絶対モテるのに、どうして俺なんだろうって。あの子に、何か良いところ見せたわけでもないのに……」
「そうだな、歳の差ってのはどうしてもついて回る。アイツらは、ちゃんとそこらへん理解してんのかどうか」
 ため息混じりに呟く。
 歳の差というのは、万里や十座が思っているよりも重くのしかかる時がある。進学、就職、その他にもいろんな場面で、お互いの違いというものを目の当たりにすることになるだろう。
「好き」という感情だけで突き動いてしまう若さを、うらやましいとも、愚かしいとも思う。
「アイツら……? え、っと……左京さん? もしかして」
 かばんの紐をにぎりしめ、紬が振り向いてくる。そこでようやく、自分の発言を思い返して、しまったと思った。ただでさえ月岡紬という男は、他人の本質を見透かす相手だというのに、考えが浅かった。
「あー……っと、その、俺も……今、お前とおんなじ状況でな。こっちは兵頭なんだが」
「へえ、十座くんですか。……あんまりこう、結び付かない感じですよね。驚いたんじゃないですか? 左京さん」
「まあな。最初は信じなかったし、ふざけたこと言うなって怒鳴りつけたし、秋組の連中の前で言っちまったしな。受け入れるつもりはねえんだが、どうにもバツが悪い」
 意外な相手だった、と紬は首を傾げ、左京は突き放してきたこれまでを振り返った。
 よくあそこまでされて、まだ好きだなんて言ってくるものだと、諦めの悪さを思い知る。
 だけど、少し考えてみればすぐに分かることだった。
 自分以外の誰かになりたくて劇団に入り、どれだけ下手くそだろうと、演じることを諦めなかった男だ。
 恋も、同じ情熱でぶつかってくる。
「昨日も余計なこと言っちまってな。……泣きそうな顔すんだよ。なんでか、それが頭から離れない。まるで何度も同じものを見たみたいに、鮮明でな」
 もしかしたら十座は、これまでもそういう顔をしていたかもしれない。だけど左京がそれを認識したのは、昨日が初めてだ。それなのにどうして、こんなにも心に根を張っているのだろうか。
「あ、……あー、それは、もしかしたら、……俺と丞のせいかもしれないですね。ループしてたからなあ……」
 そう思っていたら、紬が本当に申し訳なさそうに項垂れて、額を押さえる。
 左京は不思議に思って、オウム返しのように呟いた。
「ループ?」
「えっと……こんなこと信じてもらえるかどうか分からないんですけど。支配人が言ってた七不思議、覚えてます? 無間地獄っていう……」
 言いにくそうに唸りつつ、紬は左京の問い掛けに答えてくれる。
 左京は記憶を手繰り寄せ、支配人である松川が話していた七不思議とやらを思い出してみる。
 確か無間地獄とは、人形の呪いだったはずだ。仲違いをした二人が、仲直りするまで抜け出せない地獄にハマりこんでしまうとかどうとか。
 七不思議とは言うが、どれもこれもお伽話のレベルにすら達してない、馬鹿馬鹿しいものだった。左京としては、光熱費がどこから支払われているのかということの方が、よほど七不思議である。
「……ちょっと待て。何が言いたいんだお前」
「だから、俺と丞が喧嘩してたせいで、抜け出せなかったんですよ。【昨日】から。何度も昨日を繰り返して、何度も同じことをしてたんです。俺と丞と、あと三角くん……三日くらい、昨日をループしました」
 紬が紡ぐ言葉を頭の中で整理して、今度は左京が頭を抱えた。こんな非現実的なことを言う男だとは、思っていなかった。
「月岡、お前な……」
「嘘じゃないですよ。タイマンACT受けるって決める前の丞とのケンカも繰り返しましたし、ニュースだって一言一句相違ないものを見ました。それと、……万里くんの真剣な告白も。昨日、万里くんは俺に好きだって言ってくれました。彼にとっては一回なんでしょうが、俺にとっては違う。おかげで、万里くんの気持ちを信じざるを得なくなったというか、慣れてしまったというか」
 ハハハと照れ臭そうに笑う紬。
 突拍子もなくて現実味もないけれど、紬が万里の気持ちを、ちゃんと受け止めている理由がそれなのだとしたら、本当に昨日を繰り返していたのだろうか。
「いつも言葉は違ったけれど、毎回真剣に伝えてくれました。そんな万里くんの気持ちは、俺も真剣に考えて答えを出したいなって思うんです」
 一日を何度も繰り返すなんて、そんな馬鹿げたことがあってたまるかとも思うが、紬の横顔は嘘をついている風にも見えない。
 いつも言葉は違ったというのなら、繰り返している意識のなかった左京も、違う言葉を十座に投げつけていた可能性があるということだ。
 七不思議を信じるつもりもないけれど、十座の顔が頭から離れない理由をそれにしても、許される。
 それと同時に、新たな罪の意識。
「左京さん? ……やっぱり、信じられませんよね、こんな話」
「…………もし、お前のその話が本当だったら、俺は兵頭に、何度もあんな顔をさせているということか」
 どこからどこまでをループしていたのか、左京には分からない。だけど、受け入れられないと言ったのは確実で、何らかの言葉で、十座を傷つけていた可能性は高いのだ。
 だからあの泣きそうな顔が、今も頭から離れないのに違いない。
 繰り返し、繰り返し、傷つけた。
 十座はただ、左京に好きだと言っただけで、責められる謂われはないはず。
 左京はそこまで考えて、ハッとした。昨日をループしていたということは、あの――キスも、繰り返していたのだと。
 思わず口を押さえ、羞恥に顔を赤らめた。
 十座も、左京自身も意識してのことではないとはいえ、潜在的には数回だ。たかがキスで騒ぎ立てるほどウブでもないが、決まりが悪い。
「いや、絶対信じないからな、そんな話。だいたい、ループなんてな、理論的にどーたらこーたら」
「理論的じゃないから七不思議なんじゃないですか……」
「と、ともかく、その、なんだ、摂津のことで何か迷惑に思うことがあったら、すぐに言えってことをだな」
 居心地が悪くなって、左京はつま先の向きを変える。行く予定のなかった本屋だが、この際逃げ出す口実に使わせてもらおうと、駅へ向かう紬とたもとを分かった。
「それを言うためだったんですね、左京さん。ありがとうございます。何もないとは思うんですけど、あったらよろしくお願いしますね」
 目的の半分は確かにそれで、もう半分は同じ境遇の紬の選択を確認するためだ。
 なぜだか返り討ちにあったような感覚を引き連れて、左京は行きつけの本屋へと足を向けていった。

#シリーズ物 #ウェブ再録

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金色の曼珠沙華-027-

金色の曼珠沙華 2017.10.01

#シリーズ物 #ウェブ再録

「大丈夫っすか、左京さん」 そこには水の入ったグラスを片手に、十座が待っていた。心配そうに下がる眉尻…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-027-


「大丈夫っすか、左京さん」
 そこには水の入ったグラスを片手に、十座が待っていた。心配そうに下がる眉尻を目に映し、大丈夫だと平気で嘘をつく。こんなズルイ大人にはなってくれるなよと願いながら、突き放したつもりだった。
「……アンタ今の自分の状態分かってねぇだろ。眼鏡、どこやったんだ」
「え、あ……ポケット……」
「かけんのも忘れるほど酔っ払ってんだって、自覚してくれ。危ない……」
 そういえば忘れていたな、とポケットから眼鏡を取り出し、かける。どうりで視界の色が混ざっていたわけだと。
 視界はおかげではっきりしたけれど、頭の方はどうもぼんやりしている。
 十座に腕を掴まれ、強い力で引かれる。それに合わせて足を踏み出すしかなくて、仕方なく十座の誘導に従い、無事に部屋へと戻った。
「ほら、水。自分でベッド上がれんすか、アンタ……って、おい、寝んな」
 部屋に着いた途端、安堵からか緊張が一気に解け、体から力が抜けていってしまう。
 水、と差し出されたグラスも受け取る気力がない。ぱたりと体を横たえて、あー……と生返事。グラスが傍のテーブルに置かれた音と、十座の呆れたため息が聞こえるけれど、目蓋が重い。
「布団下ろすから、ちょっと待ってくれ。床でなんか寝たら、明日しんどいだろ」
「んー……」
「聞いてねぇなこの人……」
 聞こえてはいるのだ、返事をする気がないだけで。
 十座がはしごを登る音がする。シーツのこすれる音、掛け布団がバサリと落ちてくる音、はしごが少し軋む音。
「っと……こんなもんでいいか……。ほら、左京さん、こっち。布団敷いたんで」
 肩を叩かれて意識が浮上する。そのまま寝返りを打って少し体をずらせばいいだろう場所に、敷いてくれたのが分かった。
 左京はさすがに、そこまでされては従う他にないと、ゆっくり寝返りを打った。
「……しょうがねぇ大人だな……」
「悪いな……」
「悪いと思ってんなら、俺とふたりの時に、そんな無防備なとこ晒さないでくれ。抱いちまうぞ」
 布団の上に移動すれば、ばさりと掛け布団がかけられる。びく、と肩が揺れてしまった。
「力ずくでどうこうしたいわけじゃない。目一杯我慢してんだ、煽るなよ」
「…………なら、断れば良かった、だろ……伏見のヤツなんか、絶対わざとなんだぞ」
「我慢しても、触りたい気持ちがあんだよ。言っただろうが、俺の【好き】は、そういう好きだって」
 その気持ちは分からないでもないと、左京は布団の中でゆっくりと眼鏡に手をかけた。
 劣情を我慢しても、好きな相手の傍にいたい。その機会があるなら、他人には譲りたくない――そういったことなのだろう。
「お前の気持ちを受け入れるつもりはねぇ。性欲発散したいんだったら、そういう女抱いてこい。女の体を知れば、俺なんか抱きてえとは思わなくなんだろ」
 受け入れられないと思うのは、間違いなく本音だ。違う世界を知れば、すぐに離れていくだろう若さが、うらやましくもあり、怖くもあった。
 だから、悪意のつもりでなく口にしたのだが。
「……兵、頭?」
 眼鏡を外す直前、レンズ越しに見てしまった。驚きに目を瞠ったそれが、だんだんと悔しさに歪んでいくのを。
 左京は眼鏡をかけ直し、十座が敷いてくれた布団の上に少し体を起こす。
「アンタを好きだって言ってる俺に、女抱いてこいって言うんすか……」
 十座は俯いて、口唇を噛んだように見える。髪をぐしゃりとかき混ぜて、拳を握った。
「兵――」
 また不用意に傷つけたのだと知った左京は、十座へと手を伸ばす。そうして、どうしようと思ったわけでもない。悪気があったわけじゃないということだけ、分かってほしかったのだが、
「うわっ……」
 その手を取られ、鋭い瞳で貫かれる。怯んだ隙に肩を押され、起こしたはずの体は布団へと逆戻り。
 すぐに上から見下ろされ、天井の灯りは十座の体で遮られた。この状況はまずいと、ぼんやりした頭でも分かる。
「兵頭……っ」
 慌てて名を呼んだら、泣き出す前の悔しそうな視線が突き刺さった。
「これ以上どう言ったら、俺の気持ち全部、アンタに伝わるんだ、左京さん……」
「え……」
 肩と腕を押さえつけておきながらも、力ずくでどうこうしたいわけじゃないと言った通り、十座は強引にコトを進めたいわけではなさそうだ。
 ただ伝わっていない想いがもどかしくて、全部を伝えたいとだけ、泣きそうな顔をして告げてくる。
「好きだってちゃんと言っただろう。抱きたいって、包み隠さず言った。受け入れられねえのは仕方ねえが、俺の目を他のヤツに向けさせようとしないでくれ。迷惑だって言われるより、よっぽどつれぇ」
 左京は瞬きもできずに、十座の視線を、声を、吐息を、その一身に受けた。
「俺は――本当に左京さんが好きなんだ」
 十座は手を浮かせ、左京の頬に触れようとし、躊躇って、結局触れずにきゅっと拳を握る。
 そうして顔を背け、体を退かし、立ち上がって背を向けた。
「さっき言った通り、無理やりしたいわけじゃねーから……それは絶対にしねえ。怖がらないでくれ」
「兵頭、俺は」
「あとアンタには関係ねーけど、俺は別に、女を知らないわけじゃねえんで、左京さんの提案は無駄だ」
 おやすみなさいと、十座は左京の部屋を出ていく。
 左京は布団の上に体を起こしたまま、体を硬直させた。閉まったドアを三秒見つめ、ようやくゆっくり目を瞬く。
(なん、つった、アイツ……今、なに……)
 十座が呟き残していった言葉が、耳の中に残る。
 女を知らないわけじゃない、というのは、どういうことか。いや、どういうこともなにも、意味としてはひとつしかないのだろうが、十座とそれがどうしても結びつかないのだ。
 左京は戸惑って顔ごと視線を泳がせ、真意を探ろうとする。
 女を知っているというのは、女という存在を知っているという意味ではないはずだ。そんな幼稚園児でも知っていること、わざわざ言う必要はない。
 ということは、異性として、肌の感触を、体温を知っているということになる。
(いや、別に、女と寝たことあるって、あの歳ならおかしくねぇし、おかしく……ねえんだが……つきあってたヤツ、いたのか……?)
 ぐわんぐわんと目が回るようだ。酒の影響と、今の言葉の衝撃が交わって、左京の思考をぼやけさせる。
(でも、初恋だって、言ってたじゃねえかよ……好きでもねえ女と寝てたってのか? ああ、いや、そりゃ俺が責められるようなことじゃねえんだが……)
 喉が焼けるように熱い。胃がぐるぐると回る。吐けるものはすべて吐き出してきたはずなのに、この不快感。
 歯を食いしばって、痛みと熱に耐える。酒の飲み過ぎによる頭痛よりも、不可解な原因で痛む心臓の方が重症だ。
(また傷つけちまった……あんな顔するなんて思わなかったんだ)
 ずきん、ずきん、ずきん。
 女を知ればいいと思ったことは本当なのに、すでに知っていたと分かった途端、悔しさが募る。
 アテが外れたからだと納得はしているものの、傷つけてしまった罪悪感は消えてくれない。心臓の痛みもそのせいだろうと位置づけて、左京は腕で目元を覆った。
「どうすりゃいいんだよ…………」
 その小さな呟きは、音になったかならないかというほどのか弱さで、ひとりきりの部屋に吸い込まれていく。
 また眠れない夜になるのかと、左京は悔しさにこくりと唾を飲んだ。


#シリーズ物 #ウェブ再録

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金色の曼珠沙華-026-

金色の曼珠沙華 2017.10.01

#シリーズ物 #ウェブ再録

 飲み過ぎた、と思う。それは自覚していた。 恐らく、向けられる慣れない感情を、どうにか昇華しようと変…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-026-


 飲み過ぎた、と思う。それは自覚していた。
 恐らく、向けられる慣れない感情を、どうにか昇華しようと変に気を張っていたのが、よくなかったのだろう。加えて、冬組の連中が案外酒に強かったというのも、誤算だった。つい引きずられて、自分のペースというものが乱れてしまったのだ。
「う……」
「あ、左京くんストップ、それ以上はまず……ねえ、大丈夫?」
「おやおや、もうダウンかい? ワタシのすばらしい詩で酔いを覚ますといい」
「誉、そういうのは正気の時の方が、心に響くんじゃないかな」
「水持ってきたけど、大丈夫か?」
「ああ、ありがとう丞。左京くん、飲める?」
 一緒のテーブルで飲んでいた連中の声も、はっきりとは聞こえてこない。気を遣わせてしまっているのは分かるのに、うまく体が動いてくれない。
 これはもう吐いてきた方が楽になると分かるが、今立ち上がったらマズイことも理解できる。
 渡されたグラスの中身が、本当に水なのかどうかも、判断がつかなかった。
「あれ、左京さん潰れちゃったんですか」
「駄目な大人、発見。自分の限界くらい理解しときなよ」
「うるせーぞ……」
 昨夜眠れなかったこともあり、余計に酒の回りが早い。臣や幸が心配と呆れた口調で口にして、一成がフルーチェさん酔いつぶれ~と写真を撮ったりしているのを、止めることもできなかった。
「うっわ、オッサン潰れてんのかよ」
「あれ、万チャンどこ行ってたんすか?」
「あー、ちょっとな。つか左京さん平気なのかよ。ぜってー朝までコースだと思ってたのに、潰れちまうとか。……誰かさんのせいじゃねーの」
「……何でだ」
 万里のからかうような声に、十座が不機嫌そうに答えるのが聞こえる。少し間があったのは、心当たりがあるからだろうか。ぼんやりとした意識の中で、左京は十座の声に耳を傾けた。
(そうだ、てめーのせいだ、あんなこと言うから、あんなこと、するから……!)
 責めて、八つ当たりをして、どうにか意識を保つ。
「余計なこと言ったり? 悩んでっから、ペース乱れんだよ」
「てめーに言われたかねぇ。そっちは言ってねぇんだろ、ちゃんと」
「ハッ、おあいにく様、ちゃんと言ってきたんだよ。おめーと違って、わりといい反応もらえてっし」
「あァ? 気のせいじゃねーのか」
「ンだとコラ。やんのか」
「上等だてめぇ」
 相変わらず顔を合わせればケンカなのか、と左京は呆れるも、怒鳴る気力なんか当然ない。頼むから人の頭の上でデカい声を出すなと言ってやりたいのに、それさえままならなかった。
「こらこらふたりとも、ケンカしてる場合じゃないだろ」
「早く部屋なりトイレなり連れてったら? 邪魔だし」
「あ、そうだな、じゃあ……」
「たーすーく、ボクとの飲み比べ、まだ勝負ついてないでしょ」
「……まだやるのか。じゃあ、伏見か兵頭あたり、頼む」
「俺はここ片付けるから、十座、左京さんのことを頼めるか?」
「俺、っすか。………………分かった」
 そうくるとは思わなかった、とでも言いたげなため息が左京の耳に入ってくる。
 それはこちらも同じだと言いたいが、声が出てこない。
 東や臣は十割わざとに違いなくて、苦虫を噛み潰す。あまり乗り気でなさそうな十座の態度も気にくわなくて、左京は力を振り絞って椅子から腰を上げた。
「だ、大丈夫だ、ひとりで――」
「んなフラフラで何言ってんすか……肩、貸すんで……」
 言った傍からよろりとふらつく左京の腕を押さえ、十座がそう声をかけてくる。
 情けないし恥ずかしいし煩わしいけれど、今は誰かの支えが必要だと腹をくくって、左京は十座の肩を貸してもらった。とはいっても、そっと掴まるだけだ。
 十座が左京の腕を担がなかったのは、恐らく必要以上の接触を避けるためで、腰に回される強張った腕からは、その力以上の戸惑いが感じられた。
「部屋で、いいんすか」
「いや……トイレ……一旦吐いてくる……」
 また騒がしくなったリビングを出て、このまま部屋に送ればいいのかと訊ねてくる十座に、左京はトイレの方向を指さす。胃がぐるぐると回るこの感覚は、中身を出してしまわないとどうしようもない。
「吐くほど飲むなよ」
「……っせぇ……」
 ゆっくりと、左京のペースに合わせて誘導してくれる。そんな十座のため息を、至近距離で聞いた。
 呆れて、このまま恋心を打ち消してくれないかと願う。
 どうせ応えられないのだから、早い方が傷も浅い。
「左京さん、あの、俺のせい……っすか、摂津もそう言ってたし……」
「自惚れんな……てめーのことなんかで、飲むペース狂うほど悩んだりしねぇ……」
 悩む価値もないと告げれば、諦めてくれるかと思ってみたが、
「そうか、なら良かった……明日アンタに好きだって言っても、悩まねえんだな」
 無駄だったようだ。悩んでいないのなら、どれだけでも告げてやろうと思っているらしい。
 失敗したな、と思ってももう遅い。まっすぐに向かってくる十座の情熱が、心臓に痛い。悪い感情ではないからこそ、受け止められる誰かに向ければいいものを、と思ってしまう。
「ああ、もちろん、今日も好きだ」
 思いついたように、十座は余計なことを告げてくる。左京は顔を上げ、着いたトイレの前で十座の肩から腕を放した。
「お前がそう言うたびに、俺が拒絶してもか?」
「それでもだ」
 少しの逡巡もなく、十座は答えてくる。左京はそれに何も返せずに、体ごと視線を背けた。
「じゃあ、水もらってくる」
 十座はそう言って、キッチンの方へ向かっていく。あのまぶしいほどの情熱を、いつまで退けられるだろうかと長く息を吐いて、左京はトイレのドアを開けた。
 個室に逃げ込んで息を吸い込み、眼鏡を外してポケットにしまいこむ。
 吐き出せる物をすべて吐き出して、頭と体をすっきりさせた。不快さは残るものの、先ほどよりは随分とマシに思える。
「はあっ……」
 不満も不安も、全部吐き出せてしまえばよかった。
 そうできるほど器用でもなくて、ぶつけられるほど素直でもなく、飲み込んでしまえるほど大人でもない。
 向かってくるあの想いを、どう処理したらいいのか分からない不安。それを、誰にぶつけたらいいのだろう。
 口をゆすいで、まだぼんやりとする頭で廊下に出た。


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金色の曼珠沙華 2017.10.01

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 冬組リーダーの月岡紬が、話があると劇団のメンバーを全員集めたのは、その日の夕食が終わってからだった…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-025-


 冬組リーダーの月岡紬が、話があると劇団のメンバーを全員集めたのは、その日の夕食が終わってからだった。
 遊びに出掛けていた万里が、帰ったとたん買い物に駆り出され、ぶつくさ文句を言いながらもちゃんと従うのを、成長したもんだと眺めて、アイツが月岡をなあ、と思ったのも数時間前。
 そして分かってみれば、万里の視線は分かりやすく、紬へと一直線に向かっている。
 十座といい万里といい、十代の若い情熱ってもんは末恐ろしいなと、紬をどこか憐れみさえ込めて眺めていたのだが。
 紬の深刻そうな様子から、もしや劇団内でのいざこざについてなのかと身構えていたが、普通に考えればGOD座とのタイマンACTのことだ。
 どうにも意識がおかしな方向にいってるな、と眼鏡を押し上げて、気づかれないように十座を睨みつけてみる。
 そうしたら、その視線に気がついたのか、十座の視線が返ってきて失敗したと思った。ふいと顔を背けて、ひとまず紬の大事な話とやらに耳を傾ける。
 芝居から逃げ出した理由、今逃げたくない理由、ここにいたいと思う理由、それらすべてを、紬はさらけ出していた。
 声を震わせてまで、心の底からの願いを。挫折を味わった者の気持ちは、左京も分かるつもりだ。
 逃げ出したことを責めるつもりは毛頭ないし、GOD座からの挑戦を受けると言うなら、全力を持ってサポートする。
「やってやろうぜ」
「おう、アイツらから逃げるなんて冗談じゃねぇ」
「やらない後悔よりも、やった後悔の方がいい」
「GOD座の情報流しまくりっすよ~」
 紬の決意を聞いた後の、秋組の連中の反応ときたら。左京はふっと笑ってしまう。
 万里の嬉しそうな勝ち気な声と、紬の安堵したような表情。
 慎重な冬組と好戦的な秋組は、ある意味バランスが取れているのかもしれない。万里は自分にないものを持っている紬に惹かれたのだろうか。
 そう思うと、どこか似ている十座と自分が、どうにかなることはやっぱりないんだろうなと、少し寂しい気持ちになった。
(別に……アイツを受け入れてぇわけじゃないが……ちょっとな、どうにもならねえ気がする。そもそも、一回りも歳が違うんだ、会話のネタなんか、芝居しかねーのに)
 もし万が一、どちらかが芝居の世界から脱落してしまったら、その時はどうするのだろう。
 十座にはまだ、選択肢がたくさんある。
 自分以外の「誰か」にならなくても、自分を表現する術を見つけてしまったら、その道を進むかもしれない。それはそれで、応援すべきことなのだろう。
(歳の差、か……。その辺、アイツは全然考えてねえんだろう。若ぇな)
 劇団の親睦を深めるだとかで、ババ抜き大会が始まってしまった横で、左京はグラスにワインを注いだ。
「左京くん、なにも手酌で飲まなくても。注ぐよ? ボクももらっていいかな」
「ん、ああ、悪いな。フルボディだけどいけんのか?」
「結構好きだよ。ありがと。……ふふ、この劇団って、みんな仲良いよね」
 馬鹿馬鹿しいと言っていたメンツまでもが、今では真剣にトランプとにらめっこをしている。親睦を深めるという意味では、成功しているのだろう。
 東はそんな和気藹々とした雰囲気を好んでいるのか、とても嬉しそうに笑っていた。
(同じ「笑う」でも、アイツとは違うんだよな……当然だが)
「仲が良いとは言うが、アイツらだってそれぞれ問題抱えてたんだけどな。ぶつかる相手がいるってのは、まあ、悪くねえんじゃねーか」
「そうだね、お芝居も、恋も」
 ふふ、と笑う東に、左京は思わず噴き出しそうになる。
 忘れていたが、東には気づかれていたのだった。ババを引いてしまったのか、トランプを握りしめ項垂れている十座の恋を。
「戻って良かったけど、どうやったの、左京くん。方法知っておけば、ボクにもできるかな。もしまたあんなことがあったら――」
「すんな、って、あ、いや、あの……兵頭には、もう絶対稽古以外で役に入り込むなって言っておいたから、大丈夫だと、思う……」
「ふぅん……」
「なんだよ」
「ボクにはできないっていうか、してほしくないって感じだと思ってさ。どうやったのかは、なんとなく察したよ、左京くん」
「……俺はてめーが嫌いだ」
 冬組の連中は、どうにも苦手だ。心の奥底を見透かされそうで、居心地が悪い。
 かといって、秋組の連中の傍が居心地いいのかと言えばそうでもなくて、特に今は、十座の傍にいるとどうしてもそわそわしてしまう。
「ねえ、十座がなんだか吹っ切れたような顔をしてるんだけど、つきあうことにしたの?」
「馬鹿なこと言うな。ヤロー相手に恋なんざ、できるかってんだ。しかも、あんなガキ」
「美味しくなさそうにワイン飲まないでよ、ボクの隣で。……すぐ大人になっちゃうって言った気がするけどな」
 トン、とグラスを置く。左京は、だからだよと小さく呟いてやった。
「え?」
「その成長段階を、俺のことなんかで立ち止まらせるわけにはいかねえって言ってんだ。アイツはまだ世間てもんを知らねえ。摂津や七尾みたいな同年代と触れ合って、まともな大人に触れて、社会に出ていくだろ。俺は兵頭にそういう気持ち持ってねえし、突き放すしかない」
 歳が離れていることに加えて、十座は未成年だ。保護者が必要な年齢で、これから先、他の出逢いがたくさん待っている。
 そんな男を、世間から外れた男が留め置いておくことなどできやしない。
「アイツの気持ちを受け止められるほど、俺は器用じゃねえんだよ」
「それは、分かるような気もするけど。左京くん、でも」
「雪白。他人の色恋沙汰に首を突っ込んでる余裕があんのか? GOD座とのタイマンACT、月岡が受けると決めたんだったら、MANKAIカンパニーの存続はお前らの演技にかかってんだぜ」
 左京は、それ以上踏み込んできてくれるなと牽制して、東の声を遮る。その意図を察して、東は肩を竦めた。
 確かに東自身、他人のことを心配している場合ではない。いや、心配をしているからこそ、カンパニーをなくすわけにはいかないだろうと、そっと目を伏せる。
「分かっているよ。ボクとしてもね、やっと長く腰を据えられそうな場所を見つけたんだ。なくなってもらっちゃ困る」
「……お前も、ワケありっぽいな。詳しくは訊かねーが。まあ、話したくなったら、聞くくらいはしてやるよ」
 カチン、とグラスを合わせる。カンパニーへようこそという歓迎の意味と、それなりの信頼を込めてだ。
 話したくなったら、と告げたことにか、東は子供のように笑う。
 この劇団には、それぞれ何かを抱えている連中が集まっているようだ、と宴会状態のリビングを見渡せば、摂津万里と月岡紬の姿がない。
(……まさかとは思うが、もうくっついたとか言うんじゃねーだろうな。いや、別にそれはいいが……月岡が大変な時に、何やってんだ、摂津の野郎は)
 十座から、万里の気持ちを聞いてしまったからか、二人して姿が見えないとなると、どうしても変に勘ぐってしまう。
 紬が迷惑に思っていないといいのだが……と、秋組でもう一人恋に溺れた男を探した。臣からスコーンのおかわりをもらって、嬉しそうに笑っている。
 つい数時間前にエクレアを半分と、あんみつを食べていたはずなのに、あれがまた胃袋に収まるらしい。
(素直で一直線で、隠すことが下手な男、か……。本当に、もっと外に目を向ければ、案外モテそうなもんだがな。摂津とは違う魅力ってもんがあるだろ)
 恐らく十座は、今まで育ってきた環境の中で、家族以外に親しくつきあった相手がいないのだろう。
 友人としても、それより親しい間柄としても。
 だから、自身と対等に、怯えもせずに接してくる連中というものが珍しいに違いない。ましてや怒鳴りつける左京など、新鮮で仕方がないだろう。
(だから、勘違いしてやがんだよ。物珍しさで追ってた視線を、恋だと思って。思い込むと役が抜けなくなっちまうようなヤツだしな。そんなの相手にしてるヒマなんかねえ。これからタイマンACTで忙しくなるんだ。瑠璃川と予算の相談と、岩井に大道具の製作頼んで、それから……)
 明日には、先方へ勝負を受けることを回答しなければならない。そうしたら、勝負のテーマが提示されるはずだ。脚本家の皆木綴は、全速力で冬組に合ったストーリーを考えなければいけないし、素人同然の冬組に稽古をつける監督の、サポートもしてやりたい。
 先の見えない恋なんか、相手にしてやっている余裕なんてない。
 早いところ諦めてほしいもんだ、とワインに口をつけたら、十座からの視線を感じてしまい、重なる前にふいと体ごとその視線をシャットアウトした。


#シリーズ物 #ウェブ再録

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金色の曼珠沙華-024-

金色の曼珠沙華 2017.10.01

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 しかし訊きたいのは、理解したいのはその部分だ。 ゴホ、とわざとらしく咳払いをして、口を開いた。「お…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-024-


 しかし訊きたいのは、理解したいのはその部分だ。
 ゴホ、とわざとらしく咳払いをして、口を開いた。
「お前、俺なんかのどこを好きになったんだ?」
 十座の頬が、さっと染まる。好きという言葉を口にしながら、どこでそんな照れが発生するのか、左京にはどうにも分からない。
「ど、どこって言われてもな、そんなの……全部って、言うしかねえ」
「具体的に言、……言われても、なんか、困るが……きっかけ、とか、その、あるだろ、何か。理由もねぇのにそんなこと言われたって、こっちだって気まぐれだと思うだろうが」
「何度言ったら分かるんだ左京さん、気まぐれなんかで男好きになれるわけがない。抱きてえなんて思わねえだろ」
「……なら、いつからだ」
 十座が今、本気で好いてくれているのはどうにか受け止めることができる。
 だけどいつから、どこを、どうして、そんなに好いてくれているのかは分からない。好意に慣れていないせいか、読み取ることができないのだ。いっそ芝居の方が楽にできる。
「俺だってな、お前の相手をしてるほどヒマじゃねえんだよ。気になる女がいねえわけでもねえし、はっきり口にできねえもんに、いつまでも罪悪感なんか持っていたくないんだよ」
「ああ、監督のことか」
 あんみつの蓋を開けながら、十座は寂しそうに口の端を上げる。左京は目を見開いて、そんな十座を振り向いた。
 まさか言い当てられるとは思っていなくて、彼女に対して、そんなに分かりやすい態度を取っているのかと、顔を赤らめた。
「な、んで、知って」
「そんなもん、見てりゃ分かるだろ。アンタを目で追ってると、高確率で視界に監督が入ってくるんだ。アンタにとって、監督は特別な女なんだろうなってのは、分かるさ」
 ずき、と胸が痛んだ。
 思い返せば、彼女を目で追っていることが多かったかもしれない。恋情をほんのりと含んだ自分のそれを、目一杯恋情を含んだ十座の視線が包み込んでいたことに、少しも気がつかなかった。
「でも左京さんが、監督とどうこうなりてぇってのは諦めてんのかって思うと、嬉しいのと同時に、なんか、寂しい、っていうか……うまく言えねえけど、すんません」
 俯く十座に、左京は苦笑する。その謝罪は、うまく表現できないことに対してなのか、左京の恋を応援できないことに対してなのか。
「なんていうかその……左京さんはずっと、好きな相手できても、抱きもしねぇで押し込めてくだけなのかって思ったら、悔しいっていうか……ヤクザって肩書き、ずっと背負って生きてくのかって」
「……兵頭……」
 ガツンと、頭を殴られたような衝撃を感じる。
 いづみにこの淡い恋心を打ち明けていないのは、十座の言う通り、ヤクザという業を惚れた相手に背負わせるつもりがないからだ。
 初恋の女には、綺麗なままでいてほしい。だから、変な男に引っかかってくれるなと祈るのみだ。
 それに、気づかれているなんて思っていなかった。
「左京さんはそういう風に人を好きになるのかって、心臓が痛ぇ。そう思った時には、アンタを好きなんだと気づいてた。多分きっかけとしちゃ、アンタの言葉がでけぇんだろうが」
「……俺の? 何か、言ったか……?」
「怖がられることに慣れてるなんて強がるなってヤツだ。アンタは覚えてねぇかもしれねえが」
 え、と言葉を止めて、左京は記憶をたぐり寄せる。
 いつだか、欧華高校の近くを通りかかった時、ひとり寂しそうに歩く十座を見かけて、声をかけたことがある。何度思い返しても、十座の言うそれはあの時のことしか思い浮かばないのだが、
「そんな、前から……?」
 随分と前から、十座の心の中にいたらしいことに気がついた。
 強がりが痛々しくて見ていられず、何の気なしに口にした言葉が、恋に変わるほどの魔法になっていたなんて。
「自分でも気づいてなかったことに気づかされて、最初は恥ずかしかったんだがな。でも……気が楽になってて、すげえなって思ったのが、たぶん、最初だ」
 そういえば十座は、ことあるごとに「左京さんを怖いと思ったことはない」と告げてきていた。同じような思いを抱えていることに気づかれていたのかと、こちらの方こそ恥ずかしい。
「そ、そうなのか……」
「俺だって最初は、悩んだんだが……もう、仕方ないって思うようになった。アンタを好きな気持ちは、止まらない」
 じ、とまっすぐに見つめてこられる。なんだか久し振りにまっすぐ正面からの視線を感じた気がして、気恥ずかしさに左京は眼鏡を押し上げた。
「左京さん、好きだ」
 飾ることのない、いや、飾ることを知らない十座の、素のままの言葉。
 芝居をするときと同じくらいの情熱で、十座は恋をしている。それが全部自分に向かってきているのかと思うと、こそばゆくて仕方がない。
「な、何をそんなに嬉しそうな顔してやがんだてめぇ。さっきも言ったが、想ってんのを許可したからってな、お前を受け入れるつもりはねえんだぞ。ガキの相手なんざしてられるか」
「分かってる。それでも、嬉しいのは仕方がない。言ったら駄目だって思って我慢してたもんを、言葉にできるってのは……楽なんだ。明日の稽古、絶対うまくできる。摂津のヤローにも、ぜってぇ負けねえ」
「……お前ら似たもの同士だな。本当は仲がいいんじゃねーのか」
「気色悪いこと言うな。誰があんな、……、……礼は、言わなきゃなんねえかもだが」
 十座が途中で言葉を止め、視線を泳がせる。
 あれだけ反発し合っている相手をして、礼を言わなければならない状態というのは、いったいどういうことだ。左京は首を傾げて訊ねてみた。
「摂津と何かあったのか?」
「いや、俺と同じような状況なんで、アイツのおかげで気が楽になった部分もあって」
「同じ……って、おい、まさかアイツもここの誰かに惚れてんのか」
 あ、と十座が声を飲む。しまったというような表情をしたが、それは肯定にしかならない。左京は頭を抱えながらも、それであの急成長かと納得もしてしまう。
「誰だ、相手。いや誰にせよ、過ちがあったりしたら内部から崩壊しかねん。一応釘は刺しておきたい」
 十座ばかりか、万里もメンバーに恋をしているなんて。監督を除けば男だらけのこの劇団で、恋愛禁止令など出す選択肢もなかったせいで、このザマだ。
 同性同士でと野暮なことを言うつもりはないが、風紀が乱れたらどうするのだと、年長者の複雑な思いが左京にため息をつかせる。
「ありそうなとこで、茅ヶ崎か、皇か……いや、違うな。……ああ、月岡か……」
「分かるんすか」
「当たってんのか」
「あ」
「お前ちょっとは隠してやれ……」
「なんで摂津のは気づくのに、俺の気持ちには全然気づかなかったんだ、アンタ」
「気づくか馬鹿、慣れてねぇんだよ! その、こういう風に好かれんのは……なくて」
 うっかり吐き出した事実に、十座がぱちぱちと目を瞬く。一回りも年上の自分が、恋愛に不慣れだなんてこと、口が裂けても言いたくなかったのに。
「慣れて、ねえんすか……」
「や、ヤクザもん相手に、本気で惚れるヤツもいねえだろうが」
「俺がいるだろ」
 十座が、遮るように言葉を重ねてくる。迷いのないまっすぐな瞳と力強い声音は、左京の体を動けなくさせた。
 指先が前髪に触れる。髪をかき分けるようにうごめいた指先は、ゆっくりと頬へ降り、視線が重なった。
 それを断ち切るために目を閉じたのは、多分間違いだったと思う。
 口唇と口唇が、また重なってしまった。
 触れるか触れないかの距離で吐息を感じたものの、左京は目を閉じたまま。
 前触れを連れてそっと触れた口唇は、前触れもなく離れていく。
「……忘れないでくれ、左京さん。俺の言う好きは、こういう好きだ。アンタが許したんだぜ」
 指先が、たった今触れ合っていた口唇をなぞる。ニィと上げられる口角は、イタズラ好きの子供のようでもあり、恋を知った一人前の男のようにも見えた。
「なっ……ちょ、――調子に乗るんじゃねえぞ、このエロガキ! こんなことまで許可してねえ!」
 そこでやっと我に返り拳を振り上げてみたものの、ひょいと難なくかわされてしまう。それがまた悔しくて、ぎりと歯を食いしばった。
「兵頭!」
「アンタにとって、キスなんか、なんでもないのかと思ってたけど、そうでもないんだな。さっき俺を俺に戻してくれたキスは、それなりに意味があったってことでいいんすか?」
「あるわけねえだろ! あれで戻るくらいは、お前にとって俺の存在がデカいってだけだ!」
「まあ、そうすね。あれで戻れなかったら、もったいないと思う。戻してくれて、あざっした、左京さん」
 ぺこりと頭を下げて、十座は左京の部屋を出ていってしまう。楽しそうに、嬉しそうに。左京の手に今ものが握られていたら、確実に投げつけていただろう。
「あ……んのやろ……っ、ちょっと甘い顔すりゃこれだ……!」
 左京はダンとテーブルを叩き、触れてしまった口唇を覆った。
 最初のキスと違って、逃げる余裕はあったように思う。指先が髪に触れたその時点で身を引いていれば、十座は深追いしてこなかっただろうに。
 頭を抱えて、くしゃりと髪をかき混ぜる。
 キスなんてなんでもない、そうだそのはずだ、と左京は小さく呟く。
(か、飼い犬に噛まれたとでも思ってりゃいいんだよ、こんなことっ……!)
 ケツの青いガキではないのだ、口唇が触れたくらいで騒ぎ立てることもない。
 そう思っているのに、心臓が速い。
 一度も二度も三度も変わらない。そのうち一度は自分からしかけたもので、十座だけを責めることもできないと分かっている。
 引き金を引いてしまったのは自分だと、このとき改めて自覚してしまい、長く長くため息を吐いた。
 好きだと言う気持ちは許容してやる、と言った時の嬉しそうな顔は、そう悪くもなかったななどと思いながら。


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金色の曼珠沙華-023-

金色の曼珠沙華 2017.10.01

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「左京さん、あの、俺……役になってる間、他の連中に何か迷惑とか、かけたっすか」「いや、それはないらし…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-023-


「左京さん、あの、俺……役になってる間、他の連中に何か迷惑とか、かけたっすか」
「いや、それはないらしい。伏見や雪白が、そう言ってた」
「そうすか……良かった……」
「そんなにホッとするくらいなら、最初からやるな。お前はまだ経験が足りねぇんだ、俺といる時だけ違う誰かになろうとしても、切り替えのスイッチがうまく作動しないんだよ。そのたび戻らなくなるんじゃ、それこそ迷惑だ」
「すんません……」
 項垂れて肩を落とす十座に、左京は長く息を吐く。年長者として、そんな危険なことはさせられない。今回は運良く戻ることができたが、いつ何がきっかけで壊れてしまうか分からないのだ。
「だからな、迷惑って言ったのは、忘れろ」
「……え?」
「先日言ったように、恋情が演技に深みを与えるのは、間違ってない。事実、あの時お前とやった演目は、面白かった。だから無理に押さえつけようとするな。せっかく、その、好きな、相手ができたんだったら。それが俺だとは思わなかったが、お前が俺を……好きだってのは、別に、いいかと、思って、いる」
 自分の放ったたった一言が、危うく人ひとりの人生を悪い方向に変えてしまうところだった。
 十座の心を深く傷つけたのは間違いないだろうが、手遅れになる前に気がついてよかった。
「悪かったな、兵頭。一昨日のことも、昨日のことも、今朝のことも」
「……いいんすか? 左京さん」
 茫然とした顔で、十座は訊ねてくる。何が、と考えかけて、大いに勘違いさせる言葉だったかもしれないと思い、訂正するために口を開いた。
「勘違いするなよ、別にお前の気持ちを受け入れるとかそういう――」
「そうじゃねえ、そんなの分かってる。い、いいんすか、その……アンタを好きだって言っても」
 声が震えているのに気がつく。
 左京は目を瞠った。
 そんな小さな願いさえ、自分は踏みつぶそうとしていたのだと気がついて。
 まさか自分が、自身に関わる色恋沙汰に、ここまで不器用だとは思っていなかった。
「……いい。それくらい、許容してやる」
 好意には慣れていない。理屈では分かっても、まっすぐに向かってくるそれが、どれほどの力を持っているのか、知らないのだ。
 まさかそれを体感させてくれるのが、一回りも年下の男だとは思わなかったけれど、
「あざす……っ」
 今の今まで不安と怯えでいっぱいだった十座の顔が、ぱあっと明るくなる。
 今まで見たこともないようなその笑い顔に、左京は目を瞬くことさえ忘れていた。
 好きだと言ってもいい――それだけのことが、十座には嬉しいのか。
 ますますもって、自分なんかに惚れてないで、他にいい女でも見つければ良いのにと、非常にもったいない思いを抱えることになる。
「好きだ、左京さん」
「……もう、稽古以外で演じるとか馬鹿なことすんなよ、兵頭」
「っす」
 素直に受け入れてくれて、左京はホッとする。こんなに簡単なことで、危機を回避できるなら安いものだ。
「そうだ、これ……詫びのつもりで買ってきたんだが」
 そう言って、左京はコンビニの袋を差し出してみる。
「いや、詫びって……俺がするべきだろ」
「いるのかいらねぇのか」
「もらうっす。エクレア、……あんみつ……!」
 分かりやすく、十座の表情が変わる。視点を変えてみれば、こんなにも違うのかと思うほど、表情の移り変わりが楽しくてしょうがない。
 どうやらあんみつは好物らしく、選んで良かったと短く息を吐いた。
「あ、の……左京さんも、半分、食わねぇか。このエクレア、美味いんで……」
 袋の中身を確認した十座が、おずおずと口にしてくる。それでも半分、と提案してくるあたりに笑ってしまった。
 左京はせっかくだがと断ろうとして、声を飲み込んだ。この機会を逃してしまったら、次に二人で話せるのはいつになることやら。
「……お前がいいなら、もらうが。少し、訊きたいことがある。いいか?」
 言って、十座に選択肢を与える。ふたりきりというこの状況がマズイというのは理解しているし、好きだと言うことさえ抑えつけてきた男に、酷なことを言っているとは思った。
 だけどそれでも、それよりも理解しなければいけないことがあるのだ。
「い、いいっすけど……何を」
「座れ、そこ」
「……っす」
 テーブルの傍に、十座が腰を下ろす。左京は気づかれないように深呼吸をして、テーブルを挟んで対角線上に腰を下ろした。ここならば、間違ってもいきなり押し倒されたりはしないだろうと。
「あ、エクレア……」
 十座は袋のまま器用にエクレアを半分にして、片方を口に運びもう片方を左京に渡してくる。正直この手の甘いものはあまり得意でもないのだが、せっかくくれるというのだ、もらっておこうと左京は一口、食む。
(甘ぇ……。よくこんなもの、……嬉しそうに食いやがるな)
 ちらりと視線を向けてみれば、エクレアを二口ばかりで食べきる十座の嬉しそうな顔。普段の仏頂面を知っているだけに、その変化はやはり面白かった。思わず、左京の口の端が上がる。
「本当に好きなんだな」
「左京さんをすか?」
「馬鹿、甘ぇもんのこと、…………いや、訊きたいことってのは、それなんだが」
 好きという単語で、なんの躊躇もなく左京を連想してくる十座に、左京は羞恥で顔を背けた。

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金色の曼珠沙華 2017.10.01

#シリーズ物 #ウェブ再録

 背後でドアが閉まるのを確認して、ため息ひとつ。カポネは、左京へと戻った。「で、どんな仕事なんだ、ボ…

金色の曼珠沙華

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 背後でドアが閉まるのを確認して、ため息ひとつ。カポネは、左京へと戻った。
「で、どんな仕事なんだ、ボス」
 いつもより更に低い声音は、人に聞かれたらマズい内容だと分かっていて、ひそめているせいだろう。
 ただそれは、役の上でのことのはず。
「……もういいだろう、兵頭。戻れ」
 ここはレッスン室ではない。ましてや舞台の上でもカポネの私室でもない。ランスキーでいる理由はないというのに。
「仕事の話じゃないんですか?」
「兵頭」
「ヒョウ……? 次のターゲットか。殺しはあんまり好かねえが、命令なら――」
「いい加減にしろ兵頭! 戻れって言ってんだ!!」
 左京は背後の男を振り返り、自分より大きなその体をドアに押しつけた。胸ぐらを掴んだその手を振り払われる前に、ほんの少し躊躇って――口唇を合わせる。
 びく、と彼の体が強張ったのは、ダイレクトに伝わってきた。
 触れるだけ。たったそれだけの行為に、こんなにも勇気がいるものだとは思っていなかった。
 演技だと思えば、それも何でもないかもしれない。
 だけどこれは、今だけは、演技であってはならないと、左京は左京のままで口唇を合わせた。
 そうされた方の十座は体を硬直させて、まだランスキーなのかそうでないのか分からない。
 左京は押しつけるだけだった口唇を離し、少し高い目線を見上げた。
「……兵頭」
 焦点が合っていないような気がする。呼んでみても、いつものように視線が合わない。
 役に入り込んでしまった人間を引き戻す方法なんて、誰も教えてくれなかった。稽古に入り浸っていた旧MANKAIカンパニーでも、そんな状態に陥る人間はいなかったのだ。
 正気に戻させるには、一種の衝撃が必要だと思ったのだが、見当違いだっただろうか。
「兵頭、戻れ」
 まさか役者の顔を殴るわけにもいかないし、ランスキー相手に自分の技が通用するとは思えない。万里の拳を防いだ時でさえ、反応が少しでも遅れていたら、まともに食らっていたというのに。
 リミッターの外れた十代が、何をするかなんて、自分がいちばんよく分かっている。
「兵頭……!」
 兵頭十座が誰かを傷つけてしまう前に、どうにか元に戻したいのに、どうすればいいのか分からない。
 無駄に歳を食っていても、こんな時なんの役にも立たなくて、心の底から腹立たしい。
 十座や万里の情熱が、自分に本気を出させた。一緒に演じていたいと思わせた。
 これでは違う、「演じて」いるのではなくなってしまう。兵頭十座が、どこかへ行ってしまう。
 左京は、「兵頭十座」が演じる「誰か」と一緒に舞台に立ちたいのだ。
「兵頭十座ァ!」
 日常生活でまで、カポネとしてランスキーに接したいわけではない。兵頭十座に、古市左京として接していたいのだ。
 稽古で、エチュードで、舞台で、違う誰かになる――それが「演じる」ということだ。
 そう思って名を呼ぶのに、固まったまま何も発してこない。左京は項垂れて、十座の肩に額を預けた。
「戻らねぇのかよ、これでもっ……」
 絞り出すように呟き、駄目元でもう一度口唇でも合わせてみようかと思ったその、瞬間。
「さ、きょう、さ……あの、ど、どういう状況っ……すか、これ」
「――は?」
 震える声が頭の上から降ってくる。左京は顔を上げ、そこに顔を真っ赤にした兵頭十座を見つけた。
「兵、頭?」
「あの、と、とりあえず、離れて、もらえねぇか……」
 十座は口許を覆い、そのせいで声はくぐもるけれど、聞き取れない距離ではない。その口調は間違いなく兵頭十座のもので、初めて恋をした相手との接近に、どぎまぎしているだけの男だった。
「戻っ……た、のか?」
「あ? 戻ったって、なんすか? それよりアンタ、なんでこんなっ……キ、キス、なんか……!」
 ぐいと肩を押しやってくる十座の言葉に、左京は目を瞠る。
 十座は今、キスという単語を口にした。
 ランスキーだった瞬間のはずなのに、それを知っているのだとしたら、どの時点からかはともかく、祈るように何度も名を呼んだ時には、すでに十座だったことになる。
 カアッと全身の熱が上がったような気がした。
「――てめぇ! 戻ってんなら戻ってるって言え、この馬鹿! 黙ってされるがままになりやがって!」
「アンタにキスなんかされて、硬直しねえわけねえだろうが! どういう状況なんだ!」
 ガッと再度胸ぐらを掴んで責めてみるも、十座からは開き直った正論が返される。
 硬直していたのは放心状態だったのかと気がついて、左京は途端にとてつもない羞恥に襲われた。十座の状態に気づかずに、元に戻ってくれと懇願したことも、彼ははっきり覚えているのだろう。
 左京は片手で顔を覆い、赤くなったそれを見られないようにと、十座の傍を離れる。
「左京さ――」
「待て、ちょっと待て、今、頭ん中整理する……できれば忘れてろ」
「いや、無理っす……つか、アンタとふたりっきりってこの状況が、俺にはマズイんで……できれば、部屋、戻りたいんだが」
「あ? マズイって、な……に、……!」
 十座の言葉が意味するところに気がついて、左京はボッと顔を赤らめた。恋情には劣情が伴うもので、それは理解していたが、改めて言われると身構えてしまうのも事実。
「だから左京さん、そこ、どいてくれ。さ、っきの、キ、キスのことは、アンタのひどい気まぐれだと思って、おくんで」
 十座がふいと顔を背ける。
 やはりランスキーが抜けなかったことは覚えていないのか、記憶がすっ飛んでいるようだった。
 それならそれで、今忠告しておかないといけない。左京はドアにもたれて、十座の提案を行動で却下してみせた。
「ハ、俺のキスで正気に戻っておきながら、気まぐれなんて言われちゃたまんねぇな」
「正気……? なんのことすか」
「お前、今日のことどこまで覚えてる? 今日お前が、兵頭十座として何をしていたか、思い出せるか?」
 十座の目が数度瞬かれる。
 泳ぐ視線と、傾げられる首は、左京の問いに否定を返していた。
「えっと……朝、左京さんとレッスン室で逢って……それから……」
「覚えてねぇんだろ。ずっとランスキーとして過ごしてたみてぇだからな」
「……え?」
「お前はついさっきまで、兵頭十座じゃなくランスキーだったってことだよ。役が抜けなかったんだろう」
「あ……」
 十座は目を瞠って、心当たりがあるとでも言うように口許を押さえる。だんだんと表情が曇っていくのが見て取れて、左京も眉間にしわを刻んだ。
「……俺のせいか」
 静かにそう呟くと、十座の肩がびくりと揺れる。それが否定なのか肯定なのか、言葉にはされなかったけれど。
「俺があの時、演じてるお前のことは信用してるって言ったから、意図的にランスキーになってたのか」
「…………違うって言ったら、たぶん嘘になるんすけど、それだけじゃ……なかったと、思う」
「どういうことだ」
「アンタを、困らせたくなかった。今でも、困らせたくねえ」
 左京は、十座の一言一句を聞き逃すまいと、ゆっくり瞬く。困らせたくないという感情は理解できる。できるが、それがどうして、ランスキーになることにつながっていくのか。
「俺のままじゃ、アンタが好きだって気持ちを抑えられねえんだ。うっかり手ぇ出しちまうかもしれねーし、アンタは迷惑だって言ったから、俺は……それじゃ駄目だと」
 愕然とした。
 まさかそんなに重く捉えていたなんて。
(こんな……に、か……)
 誰かにならないと抑えきれないほどの感情が、自分に向けられているなんて。
 我を通すよりも、押さえ込む方が重要になってしまうほどの想いなんて、慣れていない。恐らく、初めてそこまでの感情をもらった。


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