- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.219, No.218, No.217, No.216, No.215, No.214, No.213[7件]
雨音
ぱたたたた、と雨が屋根を叩く音がする。
またひどくなったなと耳を澄まし、ため息をついて寝転んだまま煙草盆を引き寄せる。
いつもならここで、吸うのは百歩譲って許可してやるが寝たままでは危ないだろうと、小言が飛んできやがる。
……が、今日はそんな気力もねェらしい。
くくっ、そりゃあな、あんだけしてやりゃあ意識も飛んじまうか。
そう思って、隣に横たわる男を眺めてみた。別にこいつに言われたことを気にしてるわけじゃねぇが、持ち上げかけた煙管は煙草盆に戻しておいてやる。刻み煙草を詰めるより、こいつの顔見てる方が楽しいしなァ。
最初はな、こいつも抵抗みてぇなもんをする。
俺の手を退かそうとするとか、顔を背けるとか、そういう些細なもんだが。俺がそんな仕草もおもしろがってることを、多分知っていてだ。
まったく飽きねぇよ、桂、お前さんは。
いやだと言いながらも結局は俺を受け入れて引き込んで、誘って、煽って、よすぎてたまらないって顔しながら俺の名を呼ぶ。背中に立てられる爪のせいで、小さな傷がいくつもできるんだが……まぁそこはいいさ。
桂、と呼んでやると、くすぐったそうに身をよじって、ん、と返事をする。
ヅラ、と呼んでやれば、耳元の声が熱を誘発するのか、俺を締めつけてくる。
そんな風にされて、抑制が利くわけもねぇんだ。
「……まァ今日はな、少しばかり……無茶をさせたかもしれねぇなぁ……」
何しろこの雨の音で、桂のイイ声があまり聞こえなかったのだ。
物足りなくて、聞こうとして、何度も何度も、体を揺さぶった。もう無理だって言うこいつを押さえつけて、足を開かせて、何度も突き上げた。
俺の名を呼びながらイッちまった桂にようやく満足して、離してやれたのがつい半刻ほど前だ。
その間にも雨は降り続けていて、自分の吐息の音さえ聞こえない。桂の寝息も聞こえない。身を寄せればどうにか感じられる、といったところだ。
こんな雨、早く止めばいい。桂の声をこの距離で聞きてぇんだ。高杉、となだめるような甘やかすようなその声を。
この距離で俺の声を聞いてもらいてぇ。桂、とお前を呼ぶ声の温度を知らしめたい。
「なァ、ヅラ」
桂の目蓋が、そっと開く。聞こえたわけではないのだろう。眠そうな目をこすって、なんだと訊ねてくる。
「なんでもねーよ。寝てな」
言って、髪を撫でる。聞こえてなくてもいい、撫でる手のひらで伝わればそれでいい。
早く止めばいい。
こんな雨じゃ、愛しているも聞こえやしねぇ。
雨の音が聞こえる。昨日からの雨は、まだ止んでいないらしかった。
そっと目蓋を持ち上げれば、目の前ですぅすぅと寝息を立てる男。
まだいたのか、と思うが、この雨では仕方ないだろうな。何しろひどい降りだ。相手の寝息どころか、自分の吐息さえ聞こえてこないほどなのだから。
しかし体が重い。昨日からの雨と同じくらい、激しく熱を交わらせた。無理だと言ったのに、高杉は聞きやしなかったのだ。
思い出すと顔が火照る。
まだだ、と偉そうに呟くその声は、雨の音に邪魔されないようにと思ってか、耳のすぐ傍で聞こえた。
その距離と声が妙に嬉しくて、無理だと思う反面もっとずっと長く繋がっていたくて、浅ましいと感じながらも高杉を抱き寄せて足を開き、受け入れて引き込んだのだ。
何度も何度も揺さぶられて、悔しいから締めつけてやって、でもさらなる反撃に遭うだけだった。昨日は何があんなに、高杉を興奮させていたのだろう? こんなに寝入ってしまうほど。
ぱたたたたた、と屋根を叩く雨の音。こんな轟音ともいえる音が響く中で、よくもこう無防備に寝ていられるものだ。
だが、こんな雨は嫌いじゃない。
いくら声を上げても他人に聞かれることはないし、どうかすれば高杉にさえ届かないのではないだろうか。
ああ、そうか。だから昨日は、あんなに近かったのだな。
どうも俺のそういう声が好きらしいこの破廉恥な男が、より近くで聞こうと体を密着させてくるのが、実は嬉しかったりする。
「なぁ、高杉……」
俺の声はお前を高ぶらせることができただろうか?
そう思って、隣で眠る男の髪を撫でてみる。起きないようにと思う気持ちと、起きて構ってほしいと思う心をごちゃ混ぜにしながら、その髪に口づけた。
「なんだいヅラ……珍しいことしやがるじゃねぇか……あれだけしといて、足りないってぇんじゃあるめーな」
起こしてしまったのか、起きていたのか、高杉の腕が腰に絡んでくる。足りないのはどっちだこの馬鹿め。
雨のせいで近い距離。寝起きの少しかすれた声。どこか子供っぽい仕草で鼻先が触れ合って、口唇が重なる。
「足りないわけではないが、腹一杯とも言い切れん」
「くくっ、腹八分目にしときゃいいのになァ」
腰を引き寄せられ、高杉をまたぐ。触れる素肌は、まだしっとりと汗ばんでいた。
雨音のせいで近くなる距離、耳の傍の呼吸と温度、咎められない声で誘い、煽られる。
何よりも、いつも朝が来る前に姿を消している高杉が、雨宿りとでも言わんばかりにまだ傍にいる。
「高杉……」
嬉しい。
もっと長く、もっと傍で、この声を聞いてほしい。
「愛しているぞ」
こんな雨は嫌いじゃない。
すべての音がかき消され、お前の他に、絶対誰にも聞こえない――。
#両想い
2559-2049
「くそ、動けん……馬鹿、しね」
布団の上に突っ伏して、申し訳程度にかけられていた羽織をぎゅっと握りしめる。それだけでも、体が悲鳴を上げるようだった。
「……お前さんが言ったンだぜ。俺の言うことなんでも聞くってなァ」
ヤツが、高杉が、俺のせいじゃないとばかりにふうーと息を吐く。開け放された窓からヤツの吐いた煙が逃げていった。貴様のせいでないわけあるか、どう考えても貴様のせいだ、馬鹿。まあ一割くらいは俺のせいだと思ってやってもいい。
今回こそは勝てると思ったのだ、高杉に。だが人気投票とやらの結果は、いつも通り高杉の順位が上で、俺が下。一度くらい、俺が上でもいいだろうに。
「うるさい、順位が上だった方の言うことを聞くとは言ったが、こんなものいつもと変わらんだろう」
「どこがだよ。いつもは夜明け前に解放してやってるつもりだが……それに俺ぁ、お前さんを上にもしてやったろう」
「……そういう意味ではない! この破廉恥男が!」
思わずガバリと体を起こしたが、怠くて痛くて肘ががくりと折れる。不覚にも、高杉に抱き止められてしまった。
「あんまり無茶するもんじゃねーぜ、ヅラ。あんだけやりゃあ、動けねーのも道理ってもんだろ」
「しね、馬鹿」
ぐいと高杉の体を押しやって悪態をついてやったが、高杉はそれさえも面白そうに笑い受け止めてしまう。
高杉の言う通りあれだけされたら、動けないのも仕方ない。朝から晩まで、ではなく、晩から昼まで、何度体を重ねたのか。俺が上に乗せられた状態でも、した。ほんとに許さんこの馬鹿。
ああもう陽が高いではないか。腹も減ってきたし、無理をしてでも起きていようと、散らかされた着物を羽織った。
「まったく、こんな破廉恥な男のどこがいいのか知れん」
「ひでぇ言いようだな、ヅラ。ンなに順位が気になるもんかい」
「一度くらい譲れ。だいたい、貴様が格好いいのが悪いのだ、手酷いと見せかけておいて優しいとかな、人一倍ロマンチストだとかな、そういうのはずるい」
たまにこうして長くともにいるのなら、説教のひとつでもしてやろうと思ったのだが、……何か間違ったような気がしてならない。
高杉が目を瞬いて、肩を震わせた。やっぱり間違ったらしい。
「お前さん、面白ぇなあ。本人を前にして惚気かい」
「ち、違うぞ、これは俺が思っていることではなくだな」
そうだ、別に俺だけが思っていることではないはずだ。そうでなければ高杉の方が上であるわけがない。
「俺からすりゃあ、何位だって構わねぇンだけどな。気になんのは、ただひとり惚れた相手の中での位置だ」
煙管が置かれ、その手で引き寄せられる。
何を馬鹿な、俺たちはそういう間柄ではないのだから、俺を抱き寄せる暇があるならその惚れた相手とやらを口説きに行けばいいものを。
いつもの悪ふざけだ、そうに決まっている。というかこれ以上はせんぞ、絶対にだ。そもそもこっちは体力を根こそぎ持っていかれたのに、なんでそんなに元気なんだ貴様は。
至近距離での視線の交錯程度で、負けてやると思ったら大間違いだぞ高杉。
「お前さんの中で、俺がどこにいるか、だな」
「ふざけるな貴様なんぞ最下位に決まっているだろう」
「くく、つれねぇな」
「では訊くが、高杉、貴様の中で俺は一位なのか?」
「ンなわけねーだろ」
ほらみろ、と即答されたことを内心で腹立たしく思いながら、体を押しやろうと、した。
ぐるりと視界が回る。気がつけば、高杉越しに天井を見上げていた。
「お前さんは、『別格』なんだよ」
ああ、駄目だ、持っていかれた。体力も、心も、ぜんぶ。
仕方なく、本当に仕方なく、今回も勝ちは譲ってやって、高杉の背中に腕を回した。
#両想い
ずっと、ずっと。
わあ、と小さな声が上がる。桂はゆっくりだった足をとうとう止めてしまって、先を歩く俺と距離ができてしまった。三歩ほど歩いても桂の足が動き出すことはなくて、仕方なく俺もそこで立ち止まる。
「すごいな」
桂が足を止めた理由は分かる。あのでっけェ真っ赤な太陽だ。川の向こう、立ち並ぶマンションや一軒家のその後ろ。今にも建物を食らいそうなほど巨大な夕日が、そこにあった。
すごい、とは思う。あんなにでけェの、あんまり見られるもんじゃねぇ。だけど俺は、立ち止まってまで見たいとは思わなかった。
「晋助、すごいあれ。大きい」
桂の方はそうじゃないようで、何がそんなに嬉しいのか、はしゃいだような笑顔でようやく足を動かして俺に駆け寄ってくる。
踏み出すたびに揺れる黒髪が可愛いなんて、……思ってない。思ってねーぞ、くそ。
「こんなにおっきいの、初めて見たぞ。手が届きそうだな」
手が届くなんてこと絶対にないのに、桂はあの赤い怪物に手を伸ばす。俺はその手を止めるようにあとを追わせ、桂の指先を握り込んだ。
「……晋助?」
桂が、少し慌てる。握り込んだ俺の手を見て、きょろり、左右に視線をやる。誰かに見られていないか、気になるのだろう。誰もいねーけど、いたってこの手を離す気はない。
「お前、あれ、怖くねーの」
離したら飲み込まれてしまいそうで、できない。もし飲み込まれるなら、一緒に行く。離したくない。
そう思うくらいには、俺は桂を好きだった。
「怖い? どうしてだ」
「いや、だって……あんなにでけェし、色なんか、血みてーじゃねーか」
「あぁ……確かに真っ赤だな……だけど怖くはないよ」
桂が首を傾げて俺を見てくる。その瞳の中には俺しかいなくて、頬の熱が上がっていくのに気がついた。
「だって晋助が一緒にいるんだぞ? 怖いことなんてあるわけないだろう」
「……そーかよ」
もうやだ。
もうやだこいつ。
可愛い。
決めた今日ぜってー寝かせてやんねー。
握り込んだ手をそのままつないで、家へと歩き出す。照れくさい気持ちを隠すようにだ。
「晋助は、あれが怖いか?」
「馬鹿、怖ぇんじゃねー、気味が悪いってだけだ。なんか……食われそうで」
「ふぅん……でも、今なら食われても、一緒だからいいな」
歩く速度を速めようとしたのに、できなかった。桂が恥ずかしそうにそう呟いたせいだ。
なんなんだよお前はよ、さっき俺が思ったのと同じようなこと言いやがって。
一緒ならいいなんて、いつもは外で手をつなぐのも恥ずかしがってしないくせに、指まで絡めてきやがって。可愛いンだよちくしょう。
「あ、の……あのな晋助」
桂がまた足を止めてしまう。手をつないでいたせいか腕が引っ張られて、俺は半歩も行かずに何だよと立ち止まった。
「晋助はあれ怖いって思ったかもしれないけど、俺は綺麗だって思ったんだ。綺麗な夕日……晋助と一緒に見られて、嬉しいって……」
つないだ手をぐいっと引っ張られて、桂の口唇が頬に当たる。
え。
え、なんだ今の。ちゅって、なんだそれ。
「ごめんあと三秒、一緒に見てくれ。考え方も感じ方も違うけど、俺はそういう晋助とずっと一緒にいたい」
恥ずかしそうに桂が笑う。なんだそれ、反則だ、考え方が違うのなんて当たり前なのに、なんでそれを今、武器にすんだよ、馬鹿。
「……ん、五秒でいい」
手をつなぐことさえ恥ずかしがるお前の、ありったけの勇気を使ったおねだりなら、聞かないわけにはいくめーよ。
泣きてぇほど嬉しいなんてこと、今は言うつもりもねぇけどな。
三秒って言ったのに、晋助は五秒って返してくれた。
晋助の、こういう小さな優しさが、とても好きだ。俺の他には誰も知らないかもしれないけれど。……んーん、俺だけ知ってればいい。
「血……にも見えるけど、リンゴって考えた方が可愛いんじゃないか?」
「俺が可愛くてもしょうがねーだろ」
そうかな、晋助だって可愛いところいっぱいあるのに。カッコイイところだっていっぱいあるけど。
ずっと一緒にいたいって言ったのは嘘じゃない。むしろ晋助を好きになってるって気づく前から思ってる。
離れたくない、本当はいつだって手をつないでいたいんだ。
恥ずかしくて照れくさくて、そんなことできやしないんだけど。
でもどうしてだろうな、今度こそ一緒にいたいって言う気持ちが、ずっと抜けていかないんだ。
まるで何かに責められてでもいるように、言い訳をしながら一緒にいることに、少し後ろめたさを感じながら。
あの夕日に食われそう、と晋助は言った。
晋助とは考え方も感じ方も違うけれど、ときおり、こんな風に思考が重なる。
飲み込まれてしまいそうだ、って俺も思った。こっちに来ないでくれって手を伸ばして押しとどめようとしたら、晋助がそれを止めて握りしめてくれたんだ。
ここでふたり、留まっていられるように。
やっぱり、好きだなあって思うよ、晋助。お前といられるなら、怖いことなんて何もない。後ろめたくても誰に責められても、晋助以外を選べない。
そんなずるい俺を受け入れて、受け止めてくれるのは晋助くらいしかいないから。
たっぷり五秒を三秒ほどオーバーして、さあ帰ろうと足を踏み出そうと、した、のに。
晋助のまっすぐな目に、見つめられているのに気がついて、体が硬直してしまった。晋助の瞳は、ときどき人を動かなくさせる力がある。
深く、深く、綺麗な瞳には、今、俺しか映っていない。
それが嬉しくて、幸せで、泣きそうになりながら。
しんすけ、って。呼ぼうとした。
「……小太郎」
それよりも早く、晋助の優しい声が耳に届く。ずるい、ずるいいつもは小太郎なんて呼んでくれないくせに、どうして今、それを武器にするんだ。
「ずっと隣にいるから」
そう言って、晋助は俺の額にちゅってキスをしてくれる。なにそれ。なに今の。
晋助はずるい、かっこいい、どうして、馬鹿。
「なァ、近くのスーパーでリンゴ買っていかね? 今、すっげぇリンゴの気分。お前の真っ赤なほっぺたと、一緒」
「さ、さっき晋助だって赤かっただろ、馬鹿っ」
「赤くねー、馬鹿」
ぽふぽふと、歩き出した晋助の背中を叩く。
もうやだ、もういやだ、決めた今日は絶対に眠らせない、朝までしてもらう。
あとリンゴはうさぎの形に切ってもらうからな。
そうやって俺たちは、リンゴのような太陽に追われながら、家路を急いだのだった。
#3Z高桂 #両想い #ラブラブ #学パロ
この先の幸福
はらりはらりと、紅色の花弁が落ちてくる。それを見上げて、わぁ……と感嘆の声を上げた。
「すごい……すごいな晋助、視界が紅で染まっていくぞ」
夜に紛れそうな紺の着物を身にまとい、ズラ子は風でなびいてしまう髪を押さえる。見上げた桜はもう葉に変わり始めていて、そのせいか満開の頃のように花見をする者たちはいなかった。おかげで貸し切り状態だ。
「ここももう散っちまうな」
こちらもまた夜に紛れてしまいそうな黒をまとう晋助が、同じく桜を見上げながら呟く。そうだな、と残念そうな声が返ってきたけれど、
「でも、晋助と見られて良かった。満開の頃は忙しかったからな、お互いに」
「あァ……そうだったなぁ」
時間を作ろうと思えば作れたかもしれないが、こんな風に二人きりで見られたのだから、むしろ良かったのだろう。
散りかけた紅色でも、相手が大切な人なら、美しく色づく。
「綺麗だな……」
ズラ子が、落ちてくる花弁に手を伸ばす。その横顔の方が綺麗だがなと口には出さずにおいて、晋助はくわえていた煙管を外しふうっと煙を吐いた。
「なァ知ってるかいズラ子。そうやって落ちてくる花弁を受け止めることができたら、幸福が訪れるんだとよ」
「え、そうなのか? この花弁を?」
ズラ子は晋助を振り向き、半信半疑で訊ね返す。視線だけで答える晋助に花弁を見上げ直し、ひとひら、手に取ろうとした。
だが風で揺らいだ花弁はふわりと浮き上がり、ズラ子の手には来てくれない。
「あ……、……んー、難しいな」
では違う花弁をと思うのだが、これがなかなかに難しい。軽い故に、ほんの少しの空気の抵抗でも流れが変わってしまうのだ。
なるほど、こんなに難しいのならば取れた暁には本当に幸福が訪れてもおかしくない。
「くそ、取れん」
「くくっ、まぁせいぜい頑張んな」
取れないとなると途端に悔しくなってしまう。今年はもう花見に来られそうにないから、機会は今日しかないだろうに。それなのに意地悪な花弁は、ズラ子の指をすり抜けていってしまう。
「……もういい」
しばらく奮闘していたズラ子だが、ひとひらも取れやせず、もしかしたら自分には幸福など訪れてくれないのではと俯いてしまった。
「だ、だいたいそんなもの迷信だ、幸福とは自分の手で―」
「ズラ子」
悔し紛れに呟くズラ子に、晋助が手を伸ばす。そっと前髪に触れてきた晋助に首を傾げたら、すいと何かをつまんだ指先を差し出された。
「お前さん、ちゃんと受け止めてるじゃねーか」
「えっ……」
晋助の指につままれたそれは、紅色の花弁。どうやら前髪についていたらしく、ズラ子の顔がぱあっと華やいだ。
「その綺麗な髪に引きつけられたンだろ」
晋助はその花弁をズラ子の手のひらに落とし、嬉しそうに口許を緩めるのを満足げに眺める。迷信だと言ったそれでも嬉しそうに笑うズラ子が見られて良かったと、晋助も口許を緩めた。
―まァ、お前さんは俺が幸福にしてやるけどな。
花弁などに頼らずとも、とまだ口にできない言葉を胸に掲げる。
堂々と言えるのはいつだろうなと苦笑いをしたら、それを見とがめたズラ子がくるりと振り向いてきた。
「晋助は、いいのか? 花弁、取らなくても。俺が取ってやろうか? あ、でも自分で取らないと駄目なのか……」
ひとひらの幸福を手に入れたズラ子が、上機嫌で晋助の分の幸福も、と手を伸ばしかけ、気づいて止める。晋助はその手を絡め取り、
「俺ぁいいんだよ」
「でも」
「ここに、極上の薄紅があるじゃねーかい」
ズラ子をそのまま抱き寄せて、口唇の薄紅を奪い取る。
ちゅ、と音を立てて離れていった晋助の口唇に、口づけられたのだと認識してズラ子はボッと頬を赤らめた。そっちの紅もいいなあと笑う晋助の腕に自分の手を添えて、
「……これで晋助も幸福になれるだろうか?」
ズラ子は自分から口唇を重ねてみたりした。
#晋ズラ #イベント無配
この狭い世界で
人の気配に、桂は顔を上げた。足音も立てずに忍んでくる男を一人知ってはいるが、こんなところにいるはずがない。
人目を避けた隠れ家とはいえ見張りは置いているのに、侵入者だろうか。桂は傍に置いていた刀に手を伸ばした。
しかし障子戸に写った影に、目を瞠る。
見慣れた影だ。だがなぜ、と瞠目するほどには有り得ない形である。
「よおヅラ、邪魔するぜ」
「高杉……!」
若干乱暴に障子戸を開けたのは、袂を分かったはずの男。
「……なんだ、次に逢ったらぶった斬るんじゃなかったのかい」
煙管を口から外しその男ーー高杉は口角を上げる。そうだ、桂がその言葉を高杉に投げつけたのはつい昨日のこと。だが刀を握っていても、桂がそれを鞘から抜くことはなかった。
「斬ると言った俺の前にわざわざ姿を現すのなら、よほど大事な用があるのだろうな、貴様」
斬られると分かっていながら訪れた理由が分からない。ほとぼりが覚めた頃なら分からないでもないが、昨日の今日で一体なにを考えているのか。
「あァ、まあ大事と言えば大事かねえ」
高杉の手が伸びてくる。桂はとっさに刀を握り直したが、意にも介さず髪を引き掴まれた。
「っ……」
「髪、随分短くなったな」
高杉の指先が、髪をすくって梳くも、いつもとは違ってすぐにすり抜けていってしまう。見た目にも随分と寂しくなってしまっているが、桂自身はさほど気に留めてもいないように見えた。
「伸ばすだろ? ヅラ」
まるでそうするのが当然というように、高杉の口唇が髪に触れる。そこからさえ熱が伝わってきそうな感覚に、桂は少し肩を竦めて訊ねた。
「ヅラじゃない、桂だ。何度言えば分かる。しかし……貴様は長い方が好きなのか?」
「……ガキの頃から長ェのしか見てねーからな。落ち着かねェ」
「ふ、それは愉快なことだな。では伸ばさんでおこう」
桂は目を細めて笑う。落ち着いていない高杉など見たこともない、と。あえて言うなら戦っている時くらいだ。
体を重ねる時でさえ、どこか冷めているようにも思えるのに。欲望のままに体を重ねても、熱をすべて奪うことはできない。
高杉の前には、彼自身が言ったようにひとつの道しか見えていないのだ。
「減らず口叩きやがる」
そう言いつつも、高杉は愉快そうに桂の顎を捉え口唇をふさぐ。桂の反抗が嬉しいとでもいうようにだ。抗ってくる相手は少ない。幼い頃から変わらない距離感が、高杉には心地良いのだろう。
「貴様はすぐそうやって……俺の話を聞かん」
「……なんだ? 今日はやけにつっかかるじゃねェか。話せよヅラ、聞いてやるぜ?」
桂が寄せた眉の間に口唇を落とし、高杉は笑う。しかし桂も、こんな時にこんな状態で話したいことが見つかるわけもなかった。言いたいことはあの時船で言ったつもりだし、これからも変わらない。
高杉自身を否定するつもりはないが、やり方が気に食わん、と。
たとえ高杉を斬ることになろうとも、そのやり方を認めるわけにはいかない。それを伝えて、決別した――はずだった。
それがどうして、またこんなことになっているのか。
「あァそうか……お前さん、俺のことが嫌いなんだっけなァ。そんな相手に、話すこともねェってかい」
桂が押し黙っていると、高杉が声を低くしてそう呟く。本気で訊いてくれるつもりがあったのかと桂は気づくが、今さら何を言ってもこの男の心の奥底には響かないと知っていた。
「…………ああ、嫌いだ」
桂の指先が、高杉の頬を撫でる。戦うことでしかもうこの男を止められないのかと思うと、悔しくて、苦しくてしょうがない。
「だが、愛してもいる。だからこそ止めたいのに、貴様は話を聞かん。肌を重ねながらも共にいることさえしない」
船の上で、嘆いた。国どころか友一人変えることもままならないと。変わってほしくないと心から願う、もう一人の盟友に。どれだけ茶化されようが、あれは桂の本心だった。
「貴様ひとり変えられん俺が、国を変えるなどと……とんだ大法螺を吹いたものだな」
「俺は変わっちゃいねぇさ。てめーこそ人の話を少しも聞いちゃいねえな、ヅラ。俺はあの頃からたったひとつのものしか見てねえよ」
「……そうだな、貴様の狭い世界に、俺は存在していない」
高杉の想いは、師に対する、恋情にも近い憧憬だ。それは随分前から知っている。
桂自身、師を尊敬していた。今でも彼の人以上の師はいないと思っている。それを自分たちから奪わせたのは、何よりも弱い自分たち自身だ。
だから高杉の気持ちは分からないでもない。
たったひとつと言い切ってしまえる強さと、弱さと、幼さ。高杉晋助という男を形づくるもの。
そこに、桂小太郎は――存在していただろうか。
「高杉、ひとつだけ答えろ。俺を抱くのは――哀れみか?」
桂の問いかけに、高杉の目が細められる。
気まぐれに肌を合わせたのはいつ頃のことであったか。桜が散る季節だっただろうか。思い出せるのは、ちりちりと焼けつくような胸の痛みだ。
恋をしているつもりはなかった。する気もなかった。
それでも愛していると言えてしまうのは、頬に触れたいと伸びてしまう指先のせいだろうか。
「哀れみねェ……色気のねぇこと言いやがる。俺は俺なりに、てめェを好いてやってるつもりだがなァ、ヅラ」
その指先を払いのけておいて何を言うのか。
桂が眉を寄せたのを確認してから、高杉は面白そうに指を絡めた。そのまま強く引き、口唇を奪う。触れる、ではなく、奪う、だ。乱暴にふさがれた口唇から、呼吸さえももぎ取られていく。
桂はきつく目を閉じ、いったいこの男のどこに惚れてしまったのかと自身を哀れんだ。
う、と声を詰まらせた。煙管が面白そうに肌を撫でていくのと、高杉の指先が中をえぐるのとで、違う種類の快感を与えられる。強弱も違えば感度も違う。いつの間にか知り尽くされてしまったその場所は、いとも簡単に高杉を受け入れていくのだ。
「は……ぁっ……あ」
紫煙のにおいが鼻をつく。それに混じって高杉のにおいと汗を感じた。密着し、素肌を合わせているのだと実感するこんな瞬間が、桂には幸福でとても後ろめたい。
止めるために、救うために、斬ると決めた相手に抱かれて悦楽を感じている事実が、ひどく愚かしくて情けない。
「高杉……っ」
両腕で抱きよせるのは忍びなくて、剣を抜く右腕で高杉をいだく。斬りたいわけではないのだと言い訳をして、何度も重ねてきた肌を合わせ体温を感じ取る。耳元の愉快そうな笑い声さえ、桂を高ぶらせた。
「ククッ、今日はやけに積極的じゃねえか、ヅラ。そんなに寂しかったのかい」
「馬鹿を言うな。もとより傍にもおらん貴様相手に寂しがってなどいたら、身がもたんわ」
早く済ませろと、心にもないことを言って返し、左腕も背中に回す。それに応えるようにも高杉の腕が桂を抱き起し、膝の上に座らせた。
「てめェが動け」
支えててやる、と高杉はようやく煙管を離し、桂の体を抱きしめる。次に逢ったら斬るとまで言った相手の隠れ家に抱きに来てまで、不遜な態度は変わらないなと、桂は深く息を吐いて腰を上げた。
ヅラ、てめェは少しも分かっちゃいねえ。俺はてめェが思っているより惚れてんだ。
俺の上で腰を振って、色っぽい吐息で俺を誘って煽るてめェに、俺ァちゃんと惚れてんだぜ。
あぁでも今日はやっぱり髪の長さが物足りねえな。
いつもなら、こうして俺に口づける寸前はてめェの長い髪が頬の横に垂れて覆ってくる。
狭い視界にとろけた顔が映るんだ。てめェの言う狭い世界に俺とてめェのたったふたつきり。最高じゃねーか。
だが、俺とてめェがともにいたって、何も変わりゃしねー。昔も、今もだ。
何も守れず、何も壊せず、ただひとつきり描いた魂を追ってくだけだ。
せいぜいこうして抱き合って名を呼ぶくらいしかねぇだろうよ。
「なぁヅラ。次に逢う時までに、髪ィ、伸ばしておけよ」
このたったひとつの狭い世界で――。
#両想い
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水色の花びらを惜しげもなく広げて、その花は悠然と咲き誇っていた。朝露を引き連れて、きらきらと光るそれは、子供の目にも美しく見えた。
高杉は、その花の前でしばし考え込み、ざり、と踵を返す。行く先は、松陽の元だ。
「先生」
「おや晋助、どうしたのですか。昨日の授業で分からないところでも」
若干早い時刻とも思えたが、松陽はいつものようににこやかに迎えてくれる。今までいたどの大人とも違うこの男を、高杉は純粋に尊敬していた。
しかし、眠い目をこすってまで朝早く起きたのは、昨日の授業で分からないところがあったためでも、松陽に教えを乞うためでもない。いやそもそも、あまり真面目に聞いていなかったのだから、分からないところがあるかどうかも分からない。
松陽はそれを知っていて、わざと笑いながら訊ねてくる。どうもバツが悪いけれど、それを怒っているのなら、今日はちゃんと授業をきいていよう、と背けた瞳をまた松陽の元に戻した。
「あの、庭の……庭のあじさい、もらってもいいですか」
「あじさい?」
松陽の顔が、庭の方へ向く。そういえばちょうど見頃のあじさいが、庭には何株も植えられているのだと、高杉の言葉で改めて考える。藍色、水色、紫色、桃色……どれも美しい色をまとっていた。
「構いませんが……どうするんですか? あの花なら、いつも女の子達が生けてくれているじゃありませんか」
学舎に飾りたいのだろうか? と松陽は思うが、高杉が今までそうしたことはないし、毎日何かしらの花が生けてあるのは、彼も知っているはずだ。
もちろん剪るのは構わないが、理由を訊ねようと高杉を振り向き直せば、どうしてか視線が泳いでいる。心なしか頰が染まって見えるのは、気のせいではないだろう。
「あ、の…………人に、あげたいと、思って」
「……ああ! なるほどそういうことでしたか。野暮なことを訊いてしまいましたね。ふふ、晋助、きみも一人前の男なのですね」
「そ、そうじゃなくて!」
「おや、そうじゃないとは? 私は一人前の男としか言っていませんが」
ほんの少しのイタズラ心に、高杉はハッとして視線をそらし、そしてキッと睨む。可愛らしい、と松陽は口許に笑みを浮かべ、両の手のひらを向けてみせた。
「冗談ですよ、すみません晋助。とても大事な相手なのですね」
「……アンタのそういうとこ、やだ」
ふいと顔を背ける高杉に、松陽は腰を上げる。意地悪をしてしまったせめてものお詫びに、一緒に良い花を選んでやろうと、剪定バサミを手に取って。
「さてどの色がいいですかねえ、晋助」
「……青いの……」
あじさいの群れの前、松陽は高杉と同じ目線にまで腰を折る。
君たちの目線ではこんな風に見えるのですねと柔らかな声で呟く松陽に、高杉はむずがゆい感覚をどうすればいいか分からなくなった。あまり伸びない身長のことを思い起こさせられるのは、好きじゃない。
これが他の大人だったら張り倒してやったところだが、松陽の言葉には優しさ以外なにもない。
高杉はそんな松陽と一緒に花を選び、自らの手で剪る。立派な花びらをつけた一輪だけ、大切そうに。
「晋助、あじさいの花言葉というものを、知っていますか?」
剪り終えて背筋を伸ばした松陽を、高杉は見上げる。それは知らないという意思表示を持っていた。花々にそれぞれ、象徴するような言葉があるのは知っているが、ひとつひとつ覚えてなんていられない。
「元気な女性、辛抱強い愛情といった意味の言葉があります。きみの大切な人は、そのような方でしょうか」
高杉は手の中のあじさいを見つめて、どうも松陽は誤解をしているようだと思う。いや――誤解でもないのだが、気恥ずかしい。そんな花言葉があるなんて知ったら、渡しづらくなってしまう。
「それと、もうひとつ。……移り気、という意味も」
「えっ……?」
松陽の声が、少し低くなる。高杉は思わず松陽を振り仰いだ。花言葉というのは、良い意味だけではないのか。
移り気、なんて、どうやっても良い風には盗られないだろう。もし相手がその花言葉を知っていたら、喧嘩を売っているのかと思われかねない。
「物事には、良いところもある反面、悪いところもある。でもね晋助。要は捉え方なのですよ」
せっかく剪ったけれど、渡さない方がいいのだろうかと俯いた時、松陽の優しい声が引き上げる。
「移り気とは、変化、変節。より美しくなるために変わっていく――そう捉えれば、こんなに素敵なことはありませんね」
高杉は両の目を見開く。
悪い意味にしか捉えられなかった自身とは違い、言葉を換えて良い意味にしてしまう松陽を、やはりどの大人とも違うと、口許に笑みを浮かべた。
「ま、自分に都合のいいように捉えりゃいいってことだろ、先生」
「そうですね。きみの美しいひとに、想いが届きますように」
「だからそんなんじゃねえって言ってんだろ!」
やはり松陽に敵うことなどない。もっと早く生まれていたかった。この男と対等に競ってみたかった。
いや、でもそうしたら、出逢えていなかったかもしれない。このあじさいを贈りたい相手とは。
「晋助、花にリボンでもかけたらどうでしょうか。きっと喜ぶと思いますよ」
「そういうの喜ぶようなヤツじゃねーけど……」
「おやそうですか? 似合うと思いますけどね」
誰に、と牽制した言葉には、さあ? といつものようにふわふわとした答えしか、返ってこなかった。
恋とか、そういうものじゃない。
ただ、生まれたことを祝ってやりたい相手がいるという、それだけだった。
はずなのに。
高杉は、速めの速度で歩いていた足を、じゃり、と止めてしまう。視線の先に、渡したかった相手はいた。その両手に、いっぱいの贈り物を携えて。
途端、自覚する。そして急速に、体中を駆け巡る、ひとつの感情。
「おはよう高杉」
高杉は俯いて、渡したかったあじさいをぱっと背中に隠す。
「なんだ貴様、挨拶もろくにできんのか。情けないぞ。松陽先生だって、挨拶はしっかりとしろとおっしゃっていただろう」
祝ってやりたかった相手――桂小太郎は、朝っぱらから相も変わらず説教などしてくる。高杉は悔しさに顔を背け、口唇を噛んだ。
「あ、そうだ高杉、あとでこれ一緒に食べないか。誕生日だからと、たくさんもらってしまってな……」
「……いらねぇ」
「でも、ツナマヨのおにぎりも……」
桂の手の中には、金平糖や羊羹やまんじゅう、おにぎりがたくさん。きっとこの塾に通っている女子からもらったのだろう。朝早くから来てまでも、桂に渡したかったに違いない。
「それ、お前がもらったんだろ。ちゃんと食ってやれ」
そこに潜むのが、ただの友情なのか、恋情なのか、分からない。だけど、たくさんあるからといって他人に譲られるためのものではないはずだ。
「……そうか、そうだな、全部……いただくことにする」
「ん……」
高杉の言葉に桂は思案して、素直に頷く。そこに気がつかなかったとは不覚、とでも言わんばかりに、眉が寄った。
「高杉、ありがとう」
「何が」
何に対して言われたことか分からずに訊ねれば、
「危うく礼儀を忘れるところだった。その礼だ」
凜とした笑顔でそう返ってくる。
カッと、顔の熱が上がった。
高杉は、自分が、とても子供っぽいような気がしてならない。たった一ヶ月半の間だけど、桂が年上になる。それがとても長い期間で、ひどく歳が離れてしまったようにさえ感じた。
いちばんに渡したかった、いちばんに祝ってやりたかった、といじける自分が、子供じみていないなんて言えない。
高杉は、背中に隠したあじさいの茎を、きゅっと握りしめた。
「桂」
「ん?」
「……食いもんじゃなくて悪いけど」
誕生日、おめでとう。
小さくそう付けくわえて、桂の前に青色の花を差し出す。茎に結んだ紐は、先日買ったばかりの小銭入れについていたもの。時間があれば、もっといいものを探したけれど、そんな余裕もなかったのだ。
「……お前が?」
「なんだよ、俺がやったらおかしいのかよ」
「そ、そうじゃない、び、びっくりして、その」
桂は目をまん丸に開いて、差し出されたあじさいを眺めている。高杉自身、がらにもないことをしたとは思っているが、そこまで驚かれるのも心外だった。
「ありがとう……嬉しい、嬉しい、本当に」
桂はあじさいを笑顔で受け取ってくれる。
いつもの、凜としたものでも、たしなめるようなものでも、呆れるようなものでもなかった。
本当に嬉しそうな笑顔に、ついうっかり、だ。
ついうっかり、口づけてしまった。
「えっ」
「あっ」
口唇と口唇が、ほんの少し触れ合った、ただそれだけ。
だが、意図を理解するには充分過ぎるものだろう。まずい、と高杉が思った時には、真っ赤な顔をした桂に、ドンと突き飛ばされていた。
「な、な、な……」
その拍子に、桂の手の中にあったものすべてが転げ落ちる。塾の誰かが贈った菓子もくるまれたおにぎりも、高杉が贈ったあじさいも。
失敗した、と思った。
こんな風に、桂の意思を無視して、押しつけるつもりではなかったのに。しかも、彼を祝うべき大切な日にだ。
「……悪い」
高杉はそう呟き、転げ落ちた菓子とおにぎりを拾い上げる。泣きたい気分だったけれど、突然口唇を奪われた桂の方こそ泣きたい気分だろう。もしかしたら、初めてだったかもしれないのに。
贈ったあじさいは、もう受け取ってくれないかもしれないと思いつつも、拾い上げる。それらを桂の手に降ろし、顔を真っ赤に染めてふるふると震える様子に、罪悪感ばかりが押し寄せてきた。
傷つけたかったわけじゃない。いい加減な気持ちで、口唇が欲しいと思ったわけではないのだと、口を開いた。
「桂、俺……、桂!」
だけど、高杉が一言告げる暇もなく、桂が体をひるがえす。背中を向けられて、追いかけるだけの勇気は、今の高杉にはなかった。
小さくなっていく桂の背中を悔しそうに、寂しそうに眺め、しゃがみ込む。
「……なにやってんだ俺……馬鹿かよ……」
もう今までのようにはいかない。いくわけがない。せめて恋する気持ちを告げてみたかったけれど、もう聞いてはくれないだろう。
時間が元に戻せるなら、あじさいを剪る前に戻してほしいと、高杉は幼い恋の終わりを感じていた。
はあっ、はあ、はあ。
そんなに距離を走ったわけでもないのに、息が上がっている。桂は我に返って立ち止まり、改めて腕の中の花を認識した。
綺麗なあじさいをくれた相手と、口唇を合わせてしまった。それを思い出してしまって、また顔の熱が上がってくる。
「ど、どう……どうしよう……」
泣きたい。泣き出したくてたまらない。だけどこんなことで、としゃがみ込んだそこへ、ひとつの、声。
「小太郎?」
桂は、かけられたその声を振り仰いだ。
地獄に仏、いや違う天国に仏、これも違う、もうなんでもいい、ともかく天の助けだ、と桂は無防備に安堵した表情を、松陽に向けた。
「先生……っ」
「どうしたのです、泣きそうな顔をして、……おや」
桂の潤んだ瞳を珍しそうに覗き込んだ松陽は、ぱちくりと目を見開いた。桂の腕の中に、見覚えのある青い花。間違いなく、少し前に高杉が剪っていたあじさいだ。
なるほどそういうことですかと、微笑ましそうに腕を組む。
「今日は、お誕生日ですね小太郎。おめでとう。皆でお祝いしましょうか」
たまには授業のない一日でも構わない、いや、友の生まれた日を祝うというのも、大事な学び事だと松陽は楽しそうに笑う。さっそく準備でもと踵を返しかける松陽だが、はてそんなすばらしい日に、桂は何を泣きそうになっているのだろうと首を傾げた。
「先生、あの……」
「何か悩み事ですか、小太郎? ……晋助の、ことで?」
ゆっくりと付けくわえた松陽に、俯きがちだった桂の顔が勢いよく上げられる。どうしてこの師はなんでもお見通しなのだろうと、桂は困ったように視線を背けた。
「あ、の……た、高杉、が……、その、花を……くれて」
「良かったですね。きみにとてもよく似合いますよ。晋助が、一生懸命選んだものです」
ああ一緒に選んでくれたのかと桂は気がつく。考えてみればこのあじさいはあの庭のものだろう。高杉が、松陽に内緒で剪ってくるはずもなかったのだと今さら思い至って、どれだけ自分が動揺しているのか自覚した。
「大切なひとに贈りたいのだと言って……言ってはいませんでしたが、きみ宛てだったんですね、小太郎」
「先生……どうしたら、いいでしょうか……」
「どう、というのは?」
「く、口唇を、その、触れ、合わせる、というのは、こっ、恋仲の者同士がするものだと、思っていたんですがっ……、その」
桂らしくなく、明瞭な言葉にならない。松陽は目を丸くして、瞬いた。高杉との間に何があったのかを悟るにはそれで充分で、おやおやこれは、と思わず笑みがこぼれてしまう。ずいぶんとマセたお子様たちだ、と。
「まあ、普通はそうですねえ。……小太郎、晋助と?」
桂の頰が、分かりやすくさっと染まる。
また思い出してしまって、桂は口を覆った。そうだあれは口づけだ。ほんの少ししか触れなかったというのは問題ではない、少しでも触れたということが、問題なのだ。
どうしよう、と小さく呟く。泣き出してしまいたい、とこみ上げてくるものがあった。
「小太郎、嫌でしたか?」
「いえ、少しも」
訊ねてきた松陽に、桂はそう即答して首を振る。
嫌なわけがない、そんなわけがなかった、だって、ずっと、密やかに。
密やかに、高杉のことが好きだった。
恋という意味で、高杉晋助が好きだったのだ。
「嫌な……わけが、ないんです……」
「では、どうしようも何もないじゃないですか。なぜ悩んでいるのか、分からないんですが」
「だ、だって俺、びっくりして、高杉を突き飛ばしてしまって! ど、どういう顔で、逢ったらいいのか……!」
高杉の想いを認識するより早く、体が動いてしまっていた。
逃げ出すつもりはなかったと今なら思えるのに、あの時はただただびっくりして、思わず高杉の体を押しやって突き飛ばしていたのだ。
同じ気持ちなんだと言おうにも、どんな顔をすればいいのか分からない。嬉しくて恥ずかしくて、逃げてしまったことが悔しくて、情けない。泣き出してしまいたいと、触れた口唇をもう一度覆った。
「なんて……応えたらいいのか……分かりません、先生……」
「うーん、そうですねえ……私もこちらの方面には何か教えられるようなものもないのですが……」
小さなふたりの小さな恋を、どう手助けしてやろう、と松陽は首を傾げる。すがるような瞳を向けられて、苦笑した。
「小太郎、あじさいの花言葉を知っていますか」
「え、花言葉……? ……えっと、確か……変節……? すみません、あまり素養がなくて……」
間違っているかも、と困ったように首を傾げた桂に、松陽は笑う。なんて優秀な生徒なのだろうと、感動さえした。
「そう、変わること。小太郎、晋助ならきっと、これで気づいてくれますよ」
いいアイディアです、と人差し指を立てた松陽に、桂の顔が嬉しそうなものへと変わっていった。
今日は小太郎の誕生日なので、と、松陽の提案で今日の授業は近くの原っぱへ出かけることになってしまった。野に咲く花や薬草を知るのも、生きていく上で必要な知識で、糧になっていく。
授業をサボることはいけませんという松陽の教えで、高杉は陰鬱な気分で皆のところへ足を向ける。
そこには当然、今日の主役である桂もいるはずだ。
どんな顔をしたらいいのか分からない。
まずはじめに謝らないといけないだろうか、思い出させない方がいいのだろうか、とぐるぐる悩んで、騒がしい輪の傍まで歩んだ。
「おっせーぞ高杉ィ」
「全員そろいましたね、では出かけましょうか」
何してやがったんだと悪態をついてくる銀時と、それを何でもないように受け流す松陽と、その陰に、桂の姿。一瞬視線が合った気がしたけれど、すぐにぱっと外される。
ああやっぱり怒っている、と頭を抱えたくなったその時、気づいた。
ふよん、と揺れる桂の髪。高くその髪を結い上げるその白に、見覚えがある。
「え……」
昨日までと違う。朝……あじさいを贈った時とも違う。
――――あ。あ、あっ……!
あんぐりと口を開けたら、恥ずかしそうにちらりと見やってくる桂と視線が重なる。かあっと頰の熱が上がって、こみ上げてくるものがある。
桂の髪を飾るのは、あじさいに結んでいた白い紐。
つまりは受け取ってくれたのだ。
花も、気持ちも。
高杉は今すぐ駆け寄りたい衝動を抑え、原っぱへと出かける皆の、いちばん後ろをゆっくり歩く。皆の歩調に合わせていた桂の歩みがだんだんと遅くなり、高杉と同じペースになった。
「か、桂、あのさ」
「高杉、まだ……ちゃんと聞いてない」
「あ……うん、悪い」
松陽たちとはぐれないようにしながらも、ふたりでゆっくり歩き、まだちゃんと告げ合っていなかった言葉を引き出そうとする。
それでも高杉は、思いがけず叶いそうな恋を言葉にする心の準備ができていなくて、ちらちらと桂を見やるばかりだ。
高杉、と呆れたようにも期待しているようにも名を呼んでくる桂にドキドキしつつ、ようやっと口を開く。
「……それ、似合うな」
「そ、そうか?」
結んだ紐の端を、くすぐったそうにもてあそぶ桂。ほんのり染まった頰に、やっぱり胸が高鳴った。
「こ、今度……ちゃんとしたの贈るから」
「俺はこれで構わないがな。お前の小銭入れについてたやつだろう?」
気づいていたのかと、高杉は目を瞬く。なおさらちゃんと新しいものを贈ってもやりたいが、そんなところまで見ていてくれたのかと嬉しい気持ちが今は勝ってしまった。
「桂」
隣を歩く桂の手に、そっと触れる。指を絡めるまではまだできなくて、幼い幼い、恋心。
「……好き」
まさか自分が、桂相手にこんな気持ちを抱くなんて、こんな言葉を言うことになるなんて、思ってもいなかった。
桂が手を握り返してくれて、泣いてしまいたい衝動に駆られたけれど、どうにか我慢した。泣いてしまえば、桂の顔が見られなくなる。
「俺も、好きだよ高杉」
こんなに綺麗に笑ってくれる桂の顔を、見逃していいはずがない。彼を祝うつもりが、幸福をもらってしまった。
「もっかい言うけど、誕生日、おめでとう」
せめてその半分くらい、幸福を返せていればいい。そう思って、高杉は桂の手を強く握りしめてゆっくり皆のあとを追った。
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