- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.144, No.143, No.142, No.141, No.140, No.139, No.138[7件]
初めての手紙
「親愛なる凛々蝶さま
凛々蝶さまと出逢ってから、僕の世界は色づき始めました。
それまでは、白と黒のぼんやりした世界だったように記憶しています。
以前お話したように、蜻蛉さまとして凛々蝶さまと手紙のやりとりをしていたあの時は、作り上げた想像の人間として文字を綴っていました。
ですからこの手紙は、僕が、御狐神双熾として差し上げる、初めての手紙となります。
あの日凛々蝶さまに本当のことをお話してから、改めて、僕が僕としてクラシックを聴いたり、本を読んだりしています。
作り上げた「青鬼院蜻蛉」としてではなく、御狐神双熾として、凛々蝶さまの感じていたものを辿っていきました。
不思議なものですね、あの時には少しも動かなかった感情が、今では溢れるように出てくるのです。
僕が凛々蝶さまをお慕いし、畏れ多くも凛々蝶さまからも想いを賜ったせいでしょうか。
僕のような従僕が、このような分不相応な幸福をいただいても良いのか、未だに悩むことがあります。
それでも、凛々蝶さま。
僕は、あなたに出逢えて幸福です。
凛々蝶さまが、僕が、この世に生を受け出逢ったことが、たとえ前世からの運命なのだとしても、僕は今の僕として、お傍にいたいのです。
愛しています、凛々蝶さま。
どうかこの先もお傍にいられるように願うことを、お許しください。
凛々蝶さま、お誕生日、おめでとうございます。
御狐神双熾」
瞬きをすることさえ惜しいと思ったのは、たぶんこの時が初めてだろうと思う。
凛々蝶は、思わず手に力が入りそうになるのを必死に押さえ、眼前の紙を凝視した。
「申し訳ありません凛々蝶さま。朝お渡ししようと思っていたのですが、もしお気に召さずに一日を憂鬱に過ごされたらと思い、ためらっていました」
姿勢良く傍に立つSSを振り向いてやることさえできずに、凛々蝶はこくんと唾を飲む。
確かに今日は、凛々蝶が生まれた日、世間では誕生日と称する日だ。
前世からのしがらみとともに生を受けたことを嘆いたことはないが、こんな気持ちになるのは初めてだった。
「恋人になったとはいえ僕ごときが凛々蝶さまのお誕生日をお祝いしてもよいのかとも……凛々蝶さま!? どうなさったのですか!」
双熾が目を見開いて声を上げる。凛々蝶の頬に流れるのは、間違いもなく涙だったからだ。
「え、あ、ち、違う、これは」
「申し訳ありません凛々蝶さま。やはり僕などがこのような手紙を差し上げるなど、過ぎた振る舞いでした」
「違うと言っている! これはだなっ、その……目にゴミが、わあっ」
それはいけませんね、と双熾の両手が凛々蝶の頬を包んで上向かせる。まるで口づけをする時のような体勢に、凛々蝶は耳まで赤らめた。
「どちらのお目ですか?」
「~~~~き、君は分かっていてそうするのか? ふん、本当にタチが悪いな」
「凛々蝶さま?」
わざとなのかそうでないのか、双熾は首を傾げる。凛々蝶は少し困ったように眉を下げ、頬を包んでくれている双熾の手に、そっと自分の手のひらを重ねてみた。
「凛々蝶さま」
「また、虚勢を張るところだった。……嬉しかったんだ、御狐神くん。とても……言葉にはできないほど、嬉しくて、涙が出たようだな」
凛々蝶は、笑った。
仮面のようなものではなく、虚勢を張ってしまったが故のものでもなく、穏やかな気持ちで、笑えた。
「ひとは、嬉しくても泣けるんだ」
「凛々蝶さま……!!」
双熾の方こそが、泣きそうな顔をする。何度か見た表情だなとは思うが、これ以上なにを言えばいいのか分からなくて、凛々蝶は双熾を見上げるだけだった。
「嬉しいです、凛々蝶さま……喜んでいただけただけで、僕は天にも昇る思いですよ」
「君はいつも大袈裟すぎるな」
凛々蝶はふんと鼻を鳴らしながらも、心で思う。いつも凛々蝶の贈ったものを大切に保存したがる双熾の気持ちも、分からないではないと。
さすがにコピーやラミネート加工をしようとは思わないが、机の引き出しの奥底に大切にしまっておこうと決めた。いや、いつでも読み返せるように手近なところに置いておいた方がいいだろうか? とも思う。
それを考えると楽しくなって、嬉しくなって、知らず口許が緩む。
それを見て、双熾も幸福そうに笑う。
「凛々蝶さま、これも受け取っていただけるでしょうか」
「え?」
双熾は凛々蝶の正面でひざまずき、パクンと箱のふたを開けて見せる。
そこには、細い金の鎖。
小さな紫の石が、さりげない台座と爪で支えられていた。
「凛々蝶さまの輝きに比べたら、こんなものは道ばたの石ころ……いえ、微生物のようなものですが」
「君の目はいったいどうなっているんだ」
凛々蝶は困ったように笑う。あえて誕生石を選んでくれた双熾に、なんと言ってこの喜びを伝えればいいのだろうか。
「こ、こういったものは着けたことがないが……君がくれる物なら、ありがたくいただこう」
「着けさせていただいてよろしいですか?」
「よ、良い」
恥ずかしそうに視線を逸らす凛々蝶に双熾はにこりと笑い、箱から細い鎖を取り出した。失礼しますと凛々蝶の首に手を回し、そっとホックをはめる。
そうやって、凛々蝶の胸元に光るアメジストを、満足そうに眺めた。
「凛々蝶さまのお目と同じ色ですね。本当にお美しい」
「あ、あり、が……とう、御狐神、くん」
「僕がお贈りしたこれが、凛々蝶さまの肌に触れる最初のアクセサリーなのですね。嬉しいです」
「少し、くすぐったいな。……ふん、だがすぐに慣れる」
凛々蝶は、双熾が着けてくれたネックレスにそっと触れてみる。指先でころころと転がる石は頼りなげに思えたが、居場所を見つけてはしゃいでいるようにも見えた。
嬉しい。
そんな言葉だけでは、手紙の喜びもネックレスの喜びも伝わりはしない。
凛々蝶は悩みに悩んで、視線を何度も左右に上下に泳がせて、きゅっと口唇を引き結んだ。
「凛々蝶さま?」
そしてある地点で双熾と視線をかみ合わせ。
好き。
小さく小さく、蚊の鳴くような声で呟いて、そっとそっと目蓋を閉じる。
その後すぐ双熾の口唇が重なってきてくれたのは、気持ちが伝わったのだと解釈しよう。
#妖狐×僕SS #白鬼院凛々蝶 #御狐神双熾 #双ちよ #誕生日
指先のトリュフ
凛々蝶は、いつになく緊張していた。
「凛々蝶さま、どうなさったのです? なにやら浮かぬ顔をしていらっしゃいますね」
かけられた声に、ハッと顔を上げると、こちらはいつものように心配そうな顔をした男がいた。
「もしや、ハーブティーのブレンドがお口に合わなかったのでしょうか。申し訳ありません、僕としたことがこのような」
「ちっ、違う違う、そうじゃないんだっ」
凛々蝶はぶんぶんと手のひらをふり、いささか落ち着きがないなと気がついて小さな手を引っ込める。
「本当ですか……?」
「ふ、ふん、まあいつもと違う味というのも悪くない。君は本当に凝り性だな」
花をあしらったティーカップを口に運び、凛々蝶はのどを潤した。自分のために入れてくれたそれが嬉しくて気恥ずかしくて、頬が真っ赤に染まる。
――――またやってしまった……素直に美味しいと言えばいいのに。
視線を俯けても、口を出てしまった言葉は戻ってこない。
凛々蝶には、悪癖があった。幼い頃からの物で、自分では制御ができないらしい。
「み、御狐神くん、あの……ご、ごめんな、さい……」
「凛々蝶さま、僕ごとき犬に、謝罪なさる必要はありませんよ。努力なさっている凛々蝶さまも、大変お可愛らしいですが」
無駄に虚勢を張り、悪態をついてしまう。
それでも、以前よりはだいぶマシになった方なのだ。
「き、君はそう言うが、こっ……交際をしている以上、僕たちは対等な立場であって、その」
「それはまさに天にも昇りそうなほどの幸福ですが、僕は凛々蝶さまのSSですから。お気になさらずとも良いのですよ? おかわりはいかがですか、凛々蝶さま」
「ふ、ふん、ではいただこうか。……ではなくて、いただけると、ありがたい、です」
言い直そうとして、おかしな風に組み合わされる。言葉を丁寧にすればいいというものじゃないだろう、と落ち込むが、相手の男は気にも留めていないようだった。
「ではお待ちくださいね凛々蝶さま」
「う、うむ」
この御狐神双熾という男は、白鬼院凛々蝶のSSであると同時に、恋人でもある。凛々蝶に仕えることがなによりの幸福だといういささか変質的なまでの忠誠心は見上げたものだ。
凛々蝶の本質を誰よりも理解し、さらに寄り添おうとしてくれる寂しがり屋の犬。凛々蝶は、持ってきたバッグをちらりと見やった。
――――ぶ、無事に渡せるだろうか。
考えただけで、ドクンドクンと心臓が鳴る。不整脈……いや違う、これは緊張からくる激しい鼓動だ。
キッチンスペースでお茶を入れてくれている双熾の背中をじっと眺め、決意するように口唇を引き結ぶ。今渡せなかったら、きっとずっと渡せないに決まっているのだ。
凛々蝶はバッグの中からそれをそっと取り出して、膝の上に大切そうに置く。そうしたことで胸の鼓動はさらに激しさを増したが、病気ではないからどうにもできない。
「お待たせしました、凛々蝶さま」
「みっ、みみみみ御狐神くん、これっ!!」
双熾がティーカップ片手に戻ってきた瞬間、凛々蝶はそれをずいっと差し出した。顔から火が出てしまうのではないかと思うほど熱いのだが、これもやっぱり緊張からくるものだろう。
「……凛々蝶さま? これ……僕にですか?」
「ふ、ふん、今日はバレンタインだからな」
双熾はカップを持ったままそれを凝視する。桃色のラッピングが施された箱型のもの。赤いリボンにハート型のシール、小さなカードまで挟まっていた。
二月十四日という日付を考えれば、それがどういった物であるかは一目瞭然である。
「ああっ……」
カチャリ、とソーサーに乗ったカップがテーブルに置かれるのとほぼ同時に、双熾の口からため息とも呻きともつかない声が漏れた。
「み、御狐神くん……?」
うなだれた彼を目の前にして、凛々蝶は不安に思う。もしかして苦手な物だっただろうかと気がついて、
「い、いらなかったら別にいいが……こんなのはチョコを作る練習だからな!」
「いただいてよろしいのですか……?」
「……っき、君に作ったのだと言っている!」
途端、きらきらと輝いた瞳を向けられて驚く。そういえば何かを贈るといつも見る仕草だったなと、今さらながらに思い出した。
「申し訳ありません、まさかいただけるとは思っておらず……しかも凛々蝶さま御手ずから作られた物など……!」
「君は僕のことをなんだと思っているんだ……こ、恋人、なのだからこれくらい……当然だろうっ……」
両手をぎゅっと包まれて、触れる温もりが恥ずかしくて凛々蝶は目をそらす。恋人という単語を口に出すことさえ恥ずかしいのに、手作りのチョコレートを手渡すとはなんて大それたことをしでかしたものか。
「ありがとうございます凛々蝶さま、嬉しいです。凛々蝶さまは、僕のとてもとても大切な方ですから、時おり信じられないのですよ」
双熾は困ったように笑い、凛々蝶はそれを眺めておもしろくなさそうに眉を寄せた。
心の内を伝えるのは、本当に上手くない。というか、下手だ。
好きだと告げたのもどれだけだろうか。彼の方は何度も何度も愛していると囁いてくれているのに、自分は片手で足りるほどしかしていないように思う。
それが彼の不安を増大させているのだろうか。
「凛々蝶さまの透き通ったお目で僕を見つめていただくことも、凛々蝶さまの小さな指先が僕の手を握り返してくださることも……夢ではないかと思うほど、僕は焦がれていましたから」
双熾は目蓋を閉じ、昔を懐かしむように呟いた。そうどれだけも遠い過去ではないが、想いは深く深く、根付いている。
「ですから、凛々蝶さまからいただいたチョコレート、大切に保存しておきま」
「いや、食べろ」
凛々蝶の手にあった時には大きく見えた箱も、双熾の手に移ってしまえば小さく見えてしまう。
贈り物を変質的に保存する双熾を、若干責めるように凛々蝶は呟いた。そういえば初めて送ったメールさえ、ものすごい保存のしかたをしていたなと思いだし、頭を抱えた。
「凛々蝶さまからいただいたものですから、大切に取っておきたいのですよ。形として残るように」
む、と凛々蝶は眉間にしわを寄せる。大切に扱ってもらうのは嬉しいが、それだって限度という物がある。季節も時間も、きっと背丈だってこの先変わっていくだろうというのに、変わらない物にしがみついて何になるというのだろう。
「ふん、形だったら僕がここに在るだろう」
双熾へと向かっていくこの思いさえ、日に日に、いや刻々と大きなものに変わっていっているというのに。
凛々蝶の呟きに、双熾の目が大きく見開かれていく。背筋を這い上がっていく幸福感に、声が出てこなかった。
「凛々蝶、さま……」
「それは君に食べてもらいたくて作ったものだ。食べると言わない限り、それはやらないからな」
「しかし、せっかく凛々蝶さまがくださった物。もったいないと……」
それでも双熾は渋っていて、じれた凛々蝶は思わず叫ぶ。
「ぼ、僕が食べさせてやると言ってもかっ!」
「光栄です凛々蝶さま!」
気がついた時には、チョコレートの箱が手のひらにのっかっていて、目の前にはSS御狐神双熾がきちんと正座していた。
――――僕は何を口走ったのだ……!?
あわわわわわと口唇が震える。さっきまで赤かった顔はいまや青ざめて、心臓はドックンドックンと跳ね上がる。
「あ、あああああの、御狐神く……っ」
「凛々蝶さま、食べさせてくださるのですよね? 嬉しいです」
否も応も言わせない双熾の笑顔。何度この笑顔にだまされて言質を取られたことだろう。
それでも約束を違えるのは性格が許さず、凛々蝶は大きく深呼吸をした。
「そ、それで食べてくれるんだな?」
「はい、凛々蝶さま」
「なら仕方ないな……!」
せめてラッピングだけでも綺麗に保存しておきたいという双熾の意を汲んで、それくらいは許可を出した。しかし、まさかこれもラミネート加工などをするのだろうか。
「トリュフ、ですね。凛々蝶さまは器用でいらっしゃる」
「ふ、ふん、こんな物は朝飯前だな」
「では凛々蝶さま、来年もいただきたいと願っても良いでしょうか?」
「……来年は違うレシピで作ってやらんことも……いや、作る、から」
凛々蝶は指先でトリュフをつまみ、おそるおそる双熾の口許へと運ぶ。速い鼓動が聞こえてしまわないだろうかと、無意味に息を止めてみた。
初めて挑戦したトリュフが、双熾の口唇の中に吸い込まれていく。どうか口に合いますようにと願っていたら、
「こっ、こら! 僕の指まで食べるな!」
「……ああ、申し訳ありません凛々蝶さま、あんまりに美味だったので……」
ぺろりと下を出して、双熾は凛々蝶の指先を舐める。真っ赤になった凛々蝶に視線を投げて、告げる。
「凛々蝶さま、僕の人生に……こんな幸福があるとは思いませんでした。とても嬉しいです」
その幸せそうな笑顔に、凛々蝶は絆される。そうと分かっていて、絆されてしまう。
「そ、そうか……気に入ってもらえたようで安心した」
「もうひとつ、食べたいです」
「う、うむ」
凛々蝶は、求められるままにトリュフを摘み双熾に食べさせる。他愛のない会話を挟み、トリュフがなくなる頃には陽も落ちかけていた。
――――来年は……もう少し素直に渡せるようにならないとな。うむ、やはり練習が必要か……。
凛々蝶はいつになく表情の砕けた双熾を眺め、決意する。
来年と言わずとも、こうして何かを作って贈ってやったらいいのかと。
「凛々蝶さま、素晴らしいチョコレートのお礼に、夕食は僕がご用意しますね」
「た、楽しみだ」
そうやって初めて大切なひとと過ごすバレンタインは、ふたりの間に新しい絆を生んでくれた。
#妖狐×僕SS #白鬼院凛々蝶 #御狐神双熾 #双ちよ
ハッピーバレンタイン~きみといっしょに~
ひゅお、と風が舞う寒い日だった。こんな日に外に出かけようなんていう酔狂な者が、どれだけいるだろう。
さむ、とアルトは首を引っ込めて、できるだけ風の当たらないように試みてみる。だがそれも隙間から入ってくる風によって無駄なものとなってしまうのだが、本能的な仕草だった。
「なあアルト、手ぇつないでいい?」
隣からかけられる声に振り向くと、こちらに手を差し出してくる恋人の嬉しそうな顔。
この寒いのになんであんなに嬉しそうなんだ、マゾなのか、と思わないでもなかったが、アルトはふいとそっぽを向いて、
「外で手なんかつなげるかっ」
頬を染めながら拒んでみた。
「中ならいいのか? でもさーほら、寒いし」
揚げ足を取ってくる意地悪な恋人は、答えを聞き入れるつもりなんかなかったらしく、強引に手を取って握りしめてくる。
最初からそうするつもりなら、訊かなくたっていいんじゃないだろうか、とアルトは困ったように片眉を下げた。
「ミシェル、お前さっき手袋してなかったか?」
「気のせい」
「そんなわけあるか、バカ。どうでもいいから、離せよ」
そう言いつつも、つながれた手を自分からふりほどこうとはしていない。恋人ーーミハエル・ブランもそれを知っていて、さらに強く握りしめてきた。
「どうでもいいんなら、離さなくていいんだろ? もー、アルトは本当に素直じゃないんだからな」
「よけいな世話だよ」
何もかも見透かされているようでバツが悪い。
そうだ、こんなことを言ってはいても、特に手を離したいわけではない。学校も勤務もなく、ふたりっきりでいられる、こんな時には。
「それにしても、寒い。風がなければ、まだ暖かいのに」
「この間なんか、雪だったもんな。二月じゃあそりゃ寒いさ」
マフラーをしてくれば良かったと呟けば、俺が抱きついてれば寒くないだろと冗談か本気か分からない答えが返ってくる。そんな彼を無視して、イヤーマフをつけてくれば良かったと呟けば、耳たぶはむはむしてあげようかと本気くさい笑いが返ってくる。
お前は本当にバカだなと言ってやると、アルトが好きなだけだよとさらりと言ってのけられる。
しゅわあああと顔から火が出そうなほど恥ずかしくて俯いたら、案の定おかしそうな笑い声が聞こえてきた。
「お前なんか嫌いだっ」
「まったまたあ。アルトも俺のこと大好きだって、ちゃんと知ってるぜ」
「おめでたいヤツだな!」
だけど否定はできなかった。手をつなぐだけでも……こうして休日にふたりっきりで出かけることでさえ嬉しく思っているのだから。
「お、アルトアルト、あれ可愛い」
「え?」
何の目的もなしに街中を歩いていた途中、ミハエルが不意に立ち止まる。彼が指を指した方を視線で追ってみると、そこここに人だかり。
なんだろう? と注視してみると、天井からのつり下げやPOPなどですぐに判明する。
今日は、バレンタインデーだった。
「毎年毎年、凝ったチョコ出てくるよなー。買う方も大変だ」
「そうか、今日、だったっけ……」
アルトは少しだけ罪悪感に苛まれる。普段からこういったイベントには疎いほうだが、恋人同士になったのだから何か用意してやれば良かったと、今さらながらに思うのだ。
それでなくてもミハエルは、誕生日だのクリスマスだの、何かと記念にしたがるのに。
「なあ、ちょっと見ていかない?」
「はっ? って、あの売場をかっ?」
「そう、いつもさー、気になるんだよな。いつでも見られるもんじゃないじゃん」
ミハエルは、やはり答えを聞く気がないのか、手をつないだまますたすたとその特設された売場へ向かってしまう。
「え、お、おかしくないか? だってあれって、女の子があげるもんなんじゃ」
「アルト、今時そんなの古いぜ? まあ女の子から男へってのが通例だけど、女の子同士であげるとか、家族用とかだってあるんだから」
男なのにあんな可愛らしいディスプレイがされた売場に行けるかとアルトは抗議したが、ミハエルは聞き入れてくれなかった。
「最近じゃ男も買うんだって。彼女とかにさ」
さらに、アルトが聞いたこともない事実を突きつけてくる。そんなわけあるかと言ってやりたかったが、売場の方に目を向けてみれば、ミハエルの言ったとおり男性もちらほらといるようだ。さらにそれを別に不思議そうに眺めている女性も見当たらない。
「え、あ、そう……なのか。じゃあ、大丈夫……かな」
「ほら、行こう。アルトの場合は絶対に大丈夫だと思うし」
「ん? どういう意味だ?」
「ナイショ」
教えてくれない言葉の意味を探って、把握して、アルトはカアッと頬を染めた。
「お、俺が女みたいだってことかよ!」
「バカだなあもう、俺のアルトはいつでも可愛いってだけじゃないか」
「ものは言い様だな!」
ぺしぺしとミハエルの腕を叩いて抗議するが、ミハエルにしてみれば謂われのない八つ当たりのようにも思えた。さらさらとした綺麗な長い髪を、今日は珍しくおだんご付きのポニーテールにしていてとても可愛らしく、一見男性には見えないのだ。
アルトは表面上嫌がっているようだが、恋人がこんなに可愛くめかし込んでデートしてくれるのはとても嬉しかった。
「本当にいろんなのがあるんだな。目移りするんじゃない?」
「ミシェル、ミシェルこれ可愛い、あっ、でもあれも可愛い。なんか桃色の!」
「……目移りしまくりだな」
普段触れることのないディスプレイと、競うように並べられた様々なチョコレートは、アルトの視界をきらきらと彩って、胸がどきどきした。
「アルト、こっちは? クマさんみたいだぞ」
「わ、何これすげえー、なあミシェル、すごいな」
「そうだな、普段はこんなチョコ見ないもん」
棚やケースに並んだチョコレートを前にはしゃぐアルトを眺め、ミハエルは口許を際限なく緩める。想像以上の喜びようで、ミハエルの胸を満たしていった。
「どれか買ってあげようか、アルト。今日バレンタインだし」
「えっ……でも、俺なにも用意してないし」
「じゃあ、アルトも俺に買ってよ。それでいいじゃん」
大切な人に贈ることができれば、男も女も関係ないだろう。もともとバレンタインがこんな風にお祭り騒ぎになってしまったのは、企業の戦略なのだから。
「う、うん、じゃあ俺もお前に買う!」
ぱあっとアルトの表情が華やぎ、ミハエルは心臓を打ち抜かれたような気分に陥る。どうにかふらつくだけに留めておいて、どれがいいかなと品定めを開始した。
「ミシェル、これ何かお酒入ってるみたいだ。こういうの好きか?」
「お、いいねえ。あ、でもこっちのビターも美味そう。悩むよアルトー」
互いのためのものをふたりで買い求める、ということをしたことがないふたりは、新鮮な気持ちで売場を歩く。プレゼントと言えば、相手にナイショにして驚かせたいというのがあったが、こんな風に一緒に買うのもいいなあと初めて感じた。
「あ、アルトこれ可愛いよ。桜の味……味? ってどういう……あ、でもすごくいい匂いがする」
「どれ? あ、ホントだ。いいなーこれ。でも食べるのもったいない気がする」
「ハハハ、分かる分かる」
そんな風に他愛のない言葉を交わしながら、相手がいちばん喜ぶ物はなんだろうと考える。
可愛らしいものか、美味しそうなものか、普段手に入らない材料を使ったものか、量がたくさん入ったものか。
「アールトー、買えたー?」
「あ、ああ……なんとか。レジすごく並んでたけど」
そんな中でも、お互い相手に渡したい物を無事に購入できたようだ。あらかじめラッピングされたものだが、ミニバッグに入れてもらったことでさらに飾られていた。
「アルトは何買ったんだ?」
「あ、あの、コーヒー豆使ってあるとかってやつ、買ってみた。お前なら苦めのも平気かと思って」
大事そうに両手に抱えたミニバッグは、ミハエルに喜んでもらえたらと思って買い求めたもの。
どうだろう? と小首を傾げて見てみたら、嬉しそうに笑う彼がいた。
「嬉しい、アルト……ありがとう。俺はね、これ買っちゃった」
ミハエルは傍の棚を指す。指の先に視線を移したら、可愛らしいペンギンの形をしたチョコレートがディスプレイされていた。
「先月さ、水族館行っただろ。アルトってばものすごくペンギン気に入ってたみたいだから」
思わずね、とウインクなんかされる。先月のデートのことはまだ鮮明に思い起こされて。アルトはボッと頬を染めた。
そんなにはしゃいでたかなと困ったように眉を下げると、目の前に小さなペンギンを差し出された。
「ほら、さっき回ってるとき試食もらっちゃった。あげるよこれも」
「ちっちゃい……ヒナ? さんきゅ、ミシェル」
あやすような仕種は若干気にかかるけれど、それでも嬉しい。それは素直に受け取って、笑ってみせる。
「じゃあ、チョコは交換な。愛してるよアルト」
「……バッ、バカ、こんなとこでキスするヤツがあるか! 油断も隙もねえ……っ」
アルトは頬を押さえてバッと飛び退く。いくら頬とはいっても、人の目があるだろうと抗議したアルトにミハエルは、大丈夫だよと笑いながら返した。
「だって、みんなチョコ買うのに必死だし。ね?」
「……ね、じゃねえ。もう、行くぞ」
「ああ、こら手をつながないと行かせないからなー」
強引に手をつながれたけれど、嬉しくて頬を染めたアルトはもう、何も言い返せやしなかった。
#ミハアル #ラブラブ #バレンタイン
雪うさぎ
シェリルは、ドアを開けて目を見開いた。
「……わあ……すごい」
一面の銀世界だ。生まれてこの方、こんなに真っ白な世界を見たことがない。
それが雪という名のものであること、どのような現象でそれが上から降ってくるのかくらいは知っている。
だが、やたら技術が進歩した母艦マクロス・ギャラクシーでは、こんなものは無用であると映像すら配信されなかったのだ。
「すごい、……すごい、こんな世界があったなんて」
そのせいか、銀河ネットやシーズンに出回る電子書籍などで見た「雪」は、まだ見たことのないシェリルには珍しいことこの上なかった。
ここマクロス・フロンティアは、程良く自然と技術の共存がなされている。
自然を壊さず、かつ不便でない程度の必要な機器。最近は他船団からの移住も増えたようで、新興住宅ができあがった。
しかし、あえて開発地でない場所に住みたがる人間もいるし、たまにそういった趣向を楽しみたがる人間もいた。
シェリル・ノームは、後者である。そのために、一日単位で借りられる居住施設に滞在していた。
「遅れるぞ。行かなくて良いのか」
背中から声をかけてくる人物がいて、シェリルは振り向くこともせずに応えた。
「少しくらい、遅れたっていいじゃない。だって、こんなサービス滅多にないんでしょ?」
サービス、とは言うが、この天候は機械的に制御されたものではない。
自然が織りなす、昨日とは違う今日というヤツだ。予測可能ではあるものの、日々違う天候というのもまた、シェリルにとっては新鮮なものだった。
「深夜から大量に降ったそうだ。雪は慣れないと歩きづらいと聞いているが、車を使った方が良いのではないか」
「うるさいわよブレラ、こんな素敵な日に車なんて野暮な真似しないでちょうだい」
シェリルはようやっと振り向いて、釘を差す。ご丁寧に人差し指を突きつけて。
「了解した」
愛想のない返答にシェリルは、つまらない男ねと言いかけたが、この男――ブレラ・スターンは昔から変わらない。今さら愛想良くされても、気味が悪いというものだ。
ボディガードという名の監視役を務めるこの男は、銀河級アイドルを目の前にしても動じることのない心臓と、危険な事態にも対応しうるサイボーグの体を持っている。
生身の人間にうじゃうじゃとまとわりつかれるよりは、この男ひとりだけいてくれた方が助かる。シェリルも、そう納得していた。
「行くわよ」
シェリルは意を決して、目の前に広がる銀世界に足を踏み出した。
さすがにこの高いヒールでは無茶だろうか、とそっと足を下ろす。
サク、と音がしたようで、心臓が跳ねた。
雪とはこんな音がするのかと、そわそわと心臓が沸き上がる。まるで子供のようだと思いつつも、ここにはファンはいない、少しくらいはしゃいでみても誰にも文句は言われないだろう。
シェリルは転ばないようにゆっくりとしゃがみ込み、眼下の雪をじぃっと見下ろした。
ふわふわと頼りない雪が、積もると目に痛いほどの主張性を持っているのか。
「冷た……っ」
誰の足跡もついていないヴァージンスノウに触れてみる。
不思議な冷たさに手を引っ込めると、手のひらの跡がくっきりと残りっていた。
それが面白かったのか、シェリルはもう片方の手のひらで跡をつける。次はまた別の手で、繰り返し繰り返し、初めての跡をつけていった。
「見て見て、うさぎ。あっ、しっぽ忘れちゃった」
「かなりいびつな形に見えるが」
「しかたないでしょ、初めてだもの」
「……とてもアイドルの姿には見えんな」
雪を集めてうさぎの形を作ったらしいシェリルは満足気だった。
ブレラはそんな様子を背後で見守りながら、素直な気持ちを言葉にしてみる。雪にはしゃぐ彼女にそれが聞こえたかどうか、分からないけれど。
それでも、仕事に就く時間は刻々と迫っている。いつまでも雪と戯れさせているわけにはいかないと、仕方なく口を開いた。
「歩くつもりなら、もう移動しなければ間に合わないぞ、フェアリー9」
ぺしゃっ。
途端、ぶつけられたものがある。いびつに固められた、雪の固まり。
「コードネームで呼ばないで。あたしはシェリル・ノームなのよ」
あからさまに不機嫌な顔をした、銀河級アイドルが視線の先にいた。
「……申し訳ありません、シェリル様」
そこまで仕事内容に含まれていただろうかと思いつつも、機嫌を損ねさせて彼女のマネージャーに叱責を受けるのは自分だと、呼び直して申し訳程度に頭を下げた。
「ま、アンタに言っても仕方がないわね。でもランカちゃんの前では禁止よ」
「分かっている。ランカは貴様を慕っているようだからな」
憧れのアイドルが、実験材料にされていたなどと知る必要はない。ブレラは目を伏せて、大切な妹を想った。
「本当にランカちゃんのこと大好きなのね。羨ましい」
ふふ、と笑いながらシェリルは口にして、ハッと気がつく。誤解を受けかねない言葉だ。
「いっ、今のは別に、アンタに大事にされてるランカちゃんが羨ましいって意味じゃなくて、そう思える相手がいることが羨ましいって意味なんだからね!」
そうだ深い意味などない。頬をわずかに染めて降り仰いでみたが、
「慌てる意味が分からない。何か重要な解釈だったのか?」
返ってきたのは素っ気ない疑問。特に明確な答えを求めているわけでもなさそうな雰囲気に、シェリルはそっぽを向いた。
「なんでもないわよ」
本当に面倒な男ねと呟いて、シェリルは新雪の上に寝転んだ。冷えた感触が、間違ってあの男に向かっていく想いも冷ましてくれそうな気がして。
「……気持ちいいー……」
「服が濡れるぞ。着替える時間はないが」
「あたしの心配はないの?」
「貴様の健康管理など、俺の仕事ではない」
手を貸そうともしないのかと、不遜な男を見上げ、ちらちらと降ってきた雪に気がつく。体に、髪に、顔に降ってくる小さな白い物体が、やっぱり新鮮だった。
「綺麗」
「降雪機などいくらでも買えそうなものだがな」
「バカね、天然だからいいんじゃない」
人工で作るなんて味気ないわとシェリルは続け、そんなものかとブレラは空を見上げる。ブレラ自身も、実際に天然の雪に触れたのはこれが初めてだった。
「不思議……雪の方が降ってきてるのに、あたしが昇っていってるみたいに見える」
「……ああ、錯覚だが……不思議な視界だ」
賛同と取れる言葉を放ったブレラを珍しく思って、シェリルは起き上がる。わずかに積もっていた雪が、はらりと落ちた。
「アンタでもそんなこと思うのね。星空にも見えるけど、宇宙を飛んでいる時ってこんな感覚?」
「いや、…………考えたことはなかったが、おそらくこの雪の方が美しいのだろう」
「ふぅん」
まだ雪という物に触れていたいけれど、彼が言ったように仕事に向かわなければならない。さっさと済ませて終えれば、また触れられるだろうかと、シェリルはゆっくり立ち上がった。
「もういいわ、行きましょ。グレイスに怒られちゃうもの」
「最初から素直にそうしてくれ。……動くな、フェアリー9」
「なっ、なによ」
護衛対象を置いて行きかけたブレラが、立ち止まって振り返ってくる。まっすぐに向かってくる視線に驚いて、シェリルは体を強ばらせた。
伸びてくる、指先。
頬に触れたそれは、雪よりは温かいように感じられた。
頬を包んだ手に上向かされて、ドクンと心臓が鳴る。
視線をそらしたいのにそうできないのは、いったいなぜだというのか。
「ブ、ブレ……」
「――雪がまだ、残っていたぞ」
指先は目の下と睫毛に触れて、それだけで離れていく。
カアッと上がった頬の熱を隠したくて、シェリルはそこにしゃがみ込んでしまった。
――――キ……スされるのかと思ったじゃない! バカ、バカバカ!!
吐き出す息さえ熱を持っているように思えて、恥ずかしさで顔を上げていられない。
――――このあたしが、シェリル・ノームが、こんなヤツに動揺してどうすんのよ!
じゅわああと音さえ聞こえそうな発熱。息を止めても目を強く閉じてもどうにもならなくて、そんなことをしている内にさらなる衝撃。
「あまり手間をかけさせてくれるな、フェアリー9」
「きゃあっ、ちょっ……だからコードネームで呼ばないでって言ったでしょ! 下ろしなさいよ!」
「この方が早い。掴まっていろ」
「ちょっと、ブレラ……!」
抱き上げられて、抗議をしている間に浮遊感を覚える。確かに彼の跳躍で建物の上を飛んで行った方が早いかも知れない。
が、この心臓の音はどうしてやればいいのか!
「掴まっていろと言っている」
「う、うるさいわね掴まってるでしょ! 落としたりしたら承知しないんだから!」
「了解した。最短コースで移動する」
ここまで来てしまったらもはや何を言ってもどうにもならない。
シェリルは、仕方なく、そうする他になく、とりあえず、首に両腕を回してしがみついてみた。
心臓は相変わらずうるさかったけれど、しがみついてもそうしなくても同じならと、そう思ってのことだった。
――――意味なんかないわよ、そうよ、こんな男、好きでも何でもないんだからね。
困ったように、笑いながら。
#ブレシェリ #ツンデレ #映画ネタ
恋する時間割
「ミシェル先生ー」
後ろから名を呼ばれ、ミハエル・ブランは立ち止まって振り返った。
廊下には自分の教室へ向かっていく生徒たちでいっぱいだったが、自分を目指してパタパタと駆けてきた生徒は一目で分かる。
「おう、どうした?」
「あのね、さっきの授業で分からないところがあったから、今のうちに訊いとこうと思って」
追いかけてきたの、と少し頬を赤らめながら笑う女生徒のそれが、走ったせいでの赤らみではないことも。
「熱心だな。他の教科もそれくらい熱心なら、ワンランク上の学校も行けるかも知れないぞ? で、どこだって?」
いつもこうして、授業の合間に訊ねられては、顔や動向くらい把握できる。
受け持っている生徒にはやはり好かれたいが、あまり変な期待を持たせないようにしないとと思うくらいには、好意というものに敏感だった。
「あのね、ここなの、値の求め方が分からなくて」
「あっ、ずるい、先生私も分かんないとこある!」
「ミシェル先生、次あたしね!」
そうして、一人寄ってくれば二人、三人と増えていくのにも、もう随分慣れてきた。
授業中に訊いてくれよと思わないでもなかったが、これも生徒との大事なコミュニケーション。ミハエルは眼鏡を押し上げて、女生徒たちの指し示すテキストを順番に解説していった。
「そこは先週教えたぞ、応用出るから覚えとけって言ったはずだけど」
ただ答えを示すのではなく、解く糸口を告げてやる。あとは生徒の仕事だ。
ヒントを与えられた生徒はデータを弾き出して正しい回答を導き出し、正解だと褒められてやったあと飛び跳ねる。のぞき込んでいる他の少女たちも、ああそういうことなのねと納得したように頷き合っていた。
「そうだ、週明けに小テストやるからな。ちゃんと勉強しろよ」
自分の疑問点を明快に示してくれた教師に、女生徒たちははぁーいと返事をする。
まあテストというのはあまり嬉しくないけれど、良い点を取ったらきっと褒めてくれるはずだ。そんな淡い期待を抱きながら、ミハエルに礼を告げてパタパタと教室へ駆けていった。
「はーやれやれ、毎度毎度、可愛らしいね」
肩を竦めて独り言を呟きながら教員室へ向かう。
――――まァ、あいつには敵わないけど。
早くたまった仕事を片付けて、いつも通りにあそこへ行こう。
今日はどんな顔をして迎えてくれるのか、最近はそればかりが楽しみになっていた。
ミハエルは、足早に廊下を歩く。生徒には走るなよと言っている手前、自分が全力疾走するわけにもいかず、こんな時ばかりは注意する側から注意される側になりたいもんだと思うのだ。
もうすぐ陽の暮れる図書室には、すでに誰もいない。この静かな空間が、ミハエルはとても好きだった。
喧噪から解放されるということもあったが、何よりも嬉しいのは、
「またそれ読んでんの?」
「うわあっ!!」
窓際のテーブルについて熱心に本を読みふける少年の後ろから声をかける。と、まるで幽霊にでもあったような声を出されてしまい、ミハエルの方こそが驚いてしまった。
「おっ、驚かすなミシェル!」
少年は振り向いて、当然の抗議を投げつけた。
そう、ミハエルが急いでここに来るのは、待っている人がいるから。天涯孤独の身であるミハエルに取っては、それが何よりも嬉しい。
こんなやりとりも幸せだなあと思いつつ、少し目を細めて彼の額を指先でつつく。
「こーら、学校では“ミシェル先生”だろう、アルト」
そう、彼は生徒で、ミハエルは教師だ。上下関係は当然あって、目上であるはず。
彼は気がついてハッと息を呑むも、すぐに眉を寄せた。
「だったらそっちこそ、早乙女って呼べよっ」
ミハエルだってアルトと呼んだ。お互い様じゃないかと視線だけで訴える。その仕種が妙に可愛らしくて、ミハエルは思わず笑ってしまった。
それが彼――早乙女アルトには気にくわなかったらしく、責めるように名を呼ばれる。
「ミシェル!」
「ごめんごめん、じゃあ今日はもうルールなしで。ほら、帰ろうアルト。本戻しておいで」
「……ん」
素直に謝ったら、どう返していいのか分からなかったらしく、アルトはふいとそっぽを向いてしまう。その照れくさそうな表情がまた、心臓をくすぐるのだと、彼は気づいていないのだろうか。
「遅くなっちまって悪かったな。まーた女の子たちに捕まっちゃって」
生徒もほとんど下校した今、玄関までの道のりもふたりっきり。だけどもしかしたら誰か残っているかも知れないし、手もつなげない。
――つまりは、誰もいなければ手をつなぐような関係である。
そういえばどちらが好きだの何だの言い出したのだっけと思う時もあるが、大切なのはそこではない。ミハエルがアルトを大好きで、アルトもミハエルを大好きだという事実があればそれでいい。
「ミシェルはいつもそういう言い方するけど、それって俺が妬くと思ってやってんのか?」
「え、いや、まあ……妬いてくんないの?」
アルトが少し低い目線から見上げてくる。別にそういうつもりがないわけじゃないような気もするけどどうだろう、とミハエルが心の中で考えているうちに、アルトからのため息が聞こえてきた。
「お前いつだって女に囲まれてるじゃないか。そんなのいちいち妬いてたら、こっちの身がもたないんだよ」
「あー、まあそれは否定しないけど。浮気しないかなーとか、思わない?」
浮気? とアルトが振り向く。
さすがに動揺したのだろうかと思って立ち止まってやったら、ぷほっと小さく噴き出された。
「なに笑って……――」
くんっとネクタイが引かれ、体が前のめったと思った時には、口唇が合わさっていた。
「浮気なんかする暇ないだろ、ミシェル」
離れた口唇の小さな微笑みが、ミハエルに目を瞬かせる。こんなところで大胆だなと思うが、アルトからのキスは大歓迎。
ミハエルも口の端を上げて、ちゅっと小さなキスを返した。
「そうだな、今日もウチ来いよアルト。朝まで抱いててやるからさ」
浮気する暇ないくらい、と耳元に囁いて、ふたりでぴっとりくっつきながら家路をたどる。
誰にも秘密の時間割は、そうやって続いていくのだ。
#ミハアル #ラブラブ #学パロ
うん。~恋に落ちたら~-008-
アルトは最後の文字を入力しようとして、躊躇うように目を瞬く。こんなメールを送信したら、その後どうなるだろうか。いや、結末は見えているはずだ。
――――やっぱり送れない。お前が好きだ……なんて。
アルトは本文を破棄してディスプレイを閉じ、はあーと長く息を吐いてうなだれた。
ミハエルが好きだということに気がついてはや数週間。言わない方がいいと思っていた。今でもそう思っている。
だけど今日、あふれそううになってしまった。厳重に鍵をかけているはずのハコから、ぶわあっと噴出してしまいそうだった。
――――言っても仕方ないのに。アイツが応えてくれるはずがねえ……。
ミハエルの顔を思い浮かべて火照った頬を鎮めるように、組んだ腕に埋める。この想いに気がついてからというもの、大変な日々を送っている。
目で追いかけすぎないように、友人以上の笑顔を向けないように、周りの女生徒に嫉妬しすぎないように、うっかり言ってしまわないように、細心の注意を払ってきたつもり。
――――言ったらそこで、終わるんだ。絶対に言ったら……駄目なのに。
いつまで我慢できるだろう、この膨らんでしまった想いを、いつまで閉じこめていられるだろう。
アルトは、ふと力なく笑った。ミハエルを好きになることなんて絶対にないと言っていたのに、人の心は分からないもんだと。
あの時もう、冗談めかして言ってしまえばよかった。
惚れてる、と。
そうしたら彼は、きっとつまらなそうな顔をして言うのだろう。からかいがいのないヤツだと。
そうしてずっと、友人同士の距離を保って過ごしていくはずだ。
悩んで悩んで、アルトが送ったメールは、
【うん。】
すぐにミハエルから返信が来た。
【話繋がってねーよ、ちゃんと読んでる?】
やっぱり分かんないよなあとアルトは笑った。
小さなイエスは伝わらなくていい。自分だけが知っていれば、それでいいのだ。
【あー悪い悪い、作り方な。そんなに食いたかったらいつでも来いって言ってんのに】
【そっちじゃなくて、この間行った店の名前! 職場の同僚に聞かれたけど覚えてなくて】
【ごめん見てなかった】
【アルトどうしたんだ? 今日のお前、やっぱりちょっとオカシイぞ】
声を聞いたわけでも、姿を見たわけでもないのに、どうしてそう思うのだろう。自分でも気がつかないうちに、そんな文面になってしまっているのだろうか? それとも、それだけ彼が自分をみていてくれたということだろうか?
じわりと涙が浮き上がってきて、アルトは目を閉じる。
深呼吸を繰り返して、吐く息とともにミハエルへの想いを吐き出した。
――――傍にいられるなら、我慢してみせる。
この想いを叶えるよりも、傍にいることの方が余程大切だと、受信したメールを読み返す。以前よりずっと近くなった距離、増えたメール、共に過ごす時間。
しかし、失敗したと感じる。メールを見てしまえば、顔を思い出してしまう。顔を思い出せば、声が聞きたくなる。直接逢って話したくなる。
だけど逢ってしまったら、抑えられなくなってしまう。その未来が手に取るように分かるのだ。
――――言ったら駄目なのに、なんでお前は俺の決心を鈍らせるんだ……。
告げてしまったら、こんな風にメールをすることもなくなってしまうんだ、と何度も何度も言い聞かせる。言い聞かせたのに、アルトの指先はいつの間にか発信ボタンを押してしまっていた。
ミハエルのナンバーにコールしてしまったと気づいた時には、受話器の向こうから彼の声が聞こえて、心臓がはねる。
『アルト? どうしたんだ』
「あぁ……悪い、たいしたことじゃないんだけど」
応答の前に切ってしまうことだってできたのに、指先は正直だった。アルトは苦笑を漏らし、不自然でない声音でミハエルに応えた。
『大したことがなくておまえが電話なんてしてくるかよ。いいから話せ、今さら遠慮もないだろ』
耳元で聞こえるミハエルの真剣な声に、泣きたくなる。思い返してみればそんなに長くを共にしたわけでもないのに、伝わってしまうくらい近くにいたのだろうか。
――――声、聞きたかったんだ……。
『アルト?』
「どうすればいいか……俺なりに考えてはみたんだけど、もう、答えが見つからなくて」
極力、深刻になりすぎないように声を操ったつもりだが、聡いあの男なら、なにか感づいてしまうかもしれない。アルトは、ゆっくりと息を吐き出した。
『どうした』
「……好きだって言われたら、お前ならどうするのかなって思ったんだ」
嘘をつくのは上手くない。舞台の上で演じることとと、日常で嘘をつくことは、まったく別のものだった。
結局話題らしい話題を見つけられなくて、状況を濁して伝える。
『……あぁ、誰かに告らえたのか? 勇気あるよなあ』
短い言葉で理解してくれるミハエルにホッとして、愉快そうな声音に変わったことには苦笑した。
「お前は誰にも本気にならないんだっけ?」
『まァ、それを覆すような子がいたら話は別だけどな。前も言ったけど、思わせぶりな態度で傷つけたりすんなよアルト。女の子ってのは傷つきやすいんだぜ』
アルトではそれを覆すことはできないのだろうかと考えて、できるはずもないのにとこっそり笑った。
『今日告られたのか? お前今日そんなことちっとも言ってなかったじゃないか』
「女じゃなくて。……顔も名前も知らないヤローだったから、相談してもいいのかどうか分からなかったんだ」
『あー、そりゃちょっと…………男ォ!? いや、まあ、アルトなら、分からんでも……ないけど』
でもなあ……と口ごもるミハエルが珍しくて、回答云々を別にしてアルトは笑ってしまった。いつだって明快な答えを返してくるのに、戸惑っているのかと。
『誰だか知らないけど、アルトの相手になるようなヤツじゃないんじゃないか? お前がつきあいたいなら別だが』
同性だからというだけで、その想いを否定するつもりはない。だいたいミハエルだって、褒められた女性関係ではないのだ。
「……うん」
『なにその間の抜けた答え。アルトはいいのか? そんな、名前も知らないようなヤツと恋人になるとか』
アルトは少しだけ目を伏せる。実際は告白なんてされていない、全部作り話だ。ミハエルの声を聞きたがって作り出した、イツワリだ。
「もし俺がOKしたら、お前怒る?」
相手がミハエルだったら、一も二もなくOKしているのに、と来ないだろう未来を描いて苦笑する。
せめて、そんなヤツやめておけと罵ってくれないだろうか。俺が幸せにしてやるよなんて言ってくれるはずもないのだから、せめてもう少し幸せになれそうな相手を選べと、気遣ってくれないだろうか。
――――お前が俺の幸せを願ってくれるなら、それでいいかな。
小さな幸福だ、だから、どうか。
『無理だろ、だってお前が惚れてんの俺じゃん。俺に未練残したまま他のヤツとって、お前そこまで器用じゃない』
アルトは目を見開く。ハハハと笑い混じりに聞こえてきた答えに、肯定を返してしまおうかと思った。
だけど、これはいつものジョークだ。本気にしたら泣きを見るのは絶対にこちらの方。
「……惚れてねえよ」
『そう?』
予定調和、といったところだろう。ミハエルにとっては。本当の心は、アルトの中にだけあればいい。
『なんて返せばいいか分かんないっていうなら、俺が返しといてやろうか。アルトとオツキアイしたいなら、まず親友である俺を通せってさ』
「保護者かお前は。親友って、そこまで首突っ込むもんなのか?」
ジョークには、同じノリで返す。アルトは無理矢理笑って、本当にそんな独占欲が彼にあればいいのにと考えた。
『首突っ込みたくもなるだろ、仮にも初恋の相手だぞ』
ツキンと、心臓に痛みが走る。何でもないことのように話すミハエルを、初めて憎らしく思う。いつの話をしているのだ、なぜ終わった恋を持ち出すのだと。
「……っんなんだったら、俺のアルトに手ぇ出すな、くらい言ったらどうだよ」
泣き出したい衝動を抑えながら、軽口で返したつもりだった。彼ならきっと、笑ってイイネなんて言ってくると思っていたのに。
『アルト? お前泣いてないか?』
返ってきた言葉は、予想しても望んでもいなかったものだった。
「な、泣いてねえよ」
『本当に? そういえばお前、風邪薬ちゃんと飲んだのか? 今日授業中おかしかったろ、油断すると痛い目見るぞ』
ハッとして、そしてホッとした。気づかれたわけではないのだ。ほんの僅かな声音の変調を見破るのはさすがといったところだが、心の変化までは分からなかったらしい。
学校で様子がおかしかったのを体調のせいだと誤解して、そのせいで声が変わったと思ったのだろう。
「……かなわないな、お前には」
『熱、あるんだろ。なんかそういう時って心細くならないか? 加えてお前ひとり暮らしだろ、らしくなく弱気になったりしてさ』
ああ、とアルトは頷いておく。心細くて弱気になっているのは本当だ。この想いは宙に浮いたままでたどり着く先がない。
『そういう時って、誰かの声が聞きたくなる』
「お見通しかよ、くそ……」
いつだって声を聞いていたい。話を合わせながらも、アルトは受話器越しに聞こえてくるミハエルの声に神経を集中させた。
『薬飲んだからって安心してないで、ちゃんと栄養と……まあこれは俺よりお前の方がしっかりしてるからいいとして、水分ちゃんと取ってゆっくり眠れよ』
「……うん、ごめん……ミシェル、ありがとう」
するりと口をついて出る、謝罪と感謝。以前のアルトだったら、絶対に出てこなかったものだ。面食らったのか、ミハエルからの応答が一瞬送れたように感じる。
『あ、明日も具合悪いようだったら、休んだ方がいいぞ』
「ん……」
ひとしずく、頬を伝う涙。
想いを伝えられなくて悔しいと思ったのか、それともこんなに近くで声を聞けることを幸福に思ったのか、そのどちらもなのかもっと別の感情なのか、アルトには自分に説明ができなかった。
ただ、
「ミシェル……」
『……ん?』
「ありがとう」
この想いが変わることはないのだと、根拠のない自信が全身を包み込んでいる。
「ごめんなこんな時間に、電話なんて」
『いや、気にすんなよ。親友だろ』
電話の向こうから、ミハエルの優しい声が返ってくる。牽制のようにも聞こえてしまって、アルトは苦笑した。
「じゃあ、またな、おやすみ」
『おやすみアルト、良い夢を』
ツーツーツーと通話の切れた音がするけど、もったいなくて終話ボタンを押せなかった。
良い夢をと祈ってくれたミハエルが、本当に本当に愛しい。いつか笑い話になったとき、彼に言ってやれたらいいと、アルトは幸せな気持ちで眠りについた。
【なあアルト、ときどきメールに書いてる"うん。"って何なの?】
【内緒】
【なんだよ、呪文か? 呪ってんじゃないだろうな】
【心当たりがあんのか。色男はツライな】
【あるか、バーカ】
アルトは笑って、おやすみのメールを打つ。もうだいぶ気持ちが安定してきた。
彼があの言葉の意味に気づくのはいつだろうと、楽しみになるくらいには。
早く明日になるといい。明日も逢いたい。逢って声を聞いていたい。アルトと呼ぶ、あの声を。
そう思えば、アルトはいつでも幸福な気持ちで眠ることができるのだ――――。
なあそろそろ惚れた?――――うん。
#ミハアル #片想い #ウェブ再録
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馬の蹄が、草を踏んだ。行く先を迷うことはないが、頬に当たる風を若干煩わしいと思うのは、邪魔をされているように思うからだ。
海野六郎はその美しい眉を少し、つり上げた。
「若!」
邪魔をせぬよう、そっと近づくつもりだった。何事か大切な考え事をしているのであれば、主の視界に入るべきではないと考えていた。
のだが。
「おう、見つかってしもうたな」
青い草の上にごろ寝を決め込む主の姿を遠目にも見つけてしまえば、そんな殊勝な気遣いは吹き飛んでいった。それでもせめて、と六郎は馬を下り手綱だけを引き、自分の足で草を踏む。
「お出かけになられる際には、私に一言おっしゃってくださいと申し上げたはずですよ、若」
主である男――真田幸村は、身体を起こしもせず愉快そうに笑っているばかり。主でなければ、踏みつけてでもやりたいところだ。
「したが六郎。そなたは必ずワシを見つけるであろう?」
煙管をくるりと回し、風の音を奏でる幸村にひとつため息をついて、六郎は跪いた。
「あなたさまのお傍近くに仕えるのが、私のお役目でございますれば……」
「生真面目な男よのう。お前の長所であり、短所にもなり得るところじゃ」
幸村はそこでやっと身体を起こし、六郎を振り向いた。
短所、という言葉に六郎は眉をひそめる。お役目に支障を来すほどのものかと、視線だけで主に問いかける。
海野家は代々、真田家に仕えてきた術士の一族である。六郎も例に漏れず幼少よりこの真田幸村に仕えているが、咎めを受けるほどの失態は犯したことがないはずだった。
「近う、六郎」
手招かれ、六郎は御意と幸村のすぐ傍に腰を据える。こうして物理的にいちばん傍で仕えられるのは小姓のみであり、そのお役目を賜ったことを六郎は家の誇りとしている。
「たまには、周りの景色に目を向けてみい」
煙管ですいと指された先には、見下ろせる上田の城下。ほどよく緑で覆われた、幸村の愛する国である。
「家の掟か誇りか知らんが、お前はワシしか目に入っておらぬからのう」
「それは仕方のないことです、若。私は海野の家に生まれたその時から、若の御為に生きることが定められております。あなたさまを見ずに、他に何を見よとおっしゃるのですか」
至極真面目に答えたつもりだった。生まれついたその時から、自分の命は幸村のものであり、手も足も目も、幸村のために使うべきものとされてきた。それを不思議に思ったこともない。
「……若?」
わずかに目をそらした幸村に気がついて、不興を買ったのかと六郎は腰を上げかけた。
長く仕えてはいる。この先もずっと、命を懸けて仕える覚悟でいる。それでも主の心の奥底など読み解くに難く、歯がゆい。
「まったくお前は……少しくらい恥じらう素振りでも見せれば、可愛げもあるというのに」
つまらん、と草の上に寝転がる。向けられた背中は、不興を示しているようには見えなかった。
――ワシしか目に入っておらぬ――
六郎はハッとして肩を強張らせる。とたんに這い上がってきた羞恥が、頬を赤く染めさせた。
「わ、若……私が申し上げたのは、主従の、意味でっ……その、決して大それたものでは……!」
「それもつまらん」
それに気がついてか、幸村はごろりと寝返りを打ち六郎を振り向く。耳まで染まった小姓を目にして気分が良いのか、嬉しそうに目を細めた。
「飽きんのう、六郎。傍に置いて長いが、そなたの反応はまことワシを愉快にさせおる」
ゆるりと起き上がり、煙管の火皿で六郎の頬を撫でる。六郎はそれを責めるように、羅宇を指先で押しやった。
「私は若の玩具ではないのですよ」
「ほう、初めて知ったわ」
「若っ……」
ひょいと奪うように吸われた、唇。背に走る雷のような衝撃が、六郎を襲う。
「こっ……このようなところで、若! お戯れもほどほどになされませ!」
「なに、ほんの仕置きだ。お前はワシしか大事にせんが、自身も少しくらい労ってやるがよい」
六郎は幸村の身体を押しやり、唇を覆う。髪の先まで主のものとは言うが、突然の接触には驚いてしまう。閨で在れば主の求めにも応じられるが、ここはそうではない。無礼を承知でそうしてみたが、幸村は不満に思う素振りすら見せなかった。
「若……?」
「たまにはお前をワシのお守りから解放してやろうと思ったのだがな。無駄に終わった」
六郎は目を瞠る。
およそ若君らしい振る舞いもない幸村だが、家臣や民の動向には人一倍鋭い。
このように気を配ってくれる幸村だからこそ、六郎は長く仕えていられるのだ。
「若……恐れながら私には、部屋でじっとしておられる方が気をもまずに済むのですが……」
「退屈でワシが狂うわ」
「では、もうしばらく……この景色を眺めていましょう」
本当は城を抜け出したかっただけなのだろうと知っている。ひとりでこの美しい上田城下を眺めていたかったのだと分かる。
「うむ。六郎、膝を貸せ」
「御意」
それでも六郎は、口の端が緩むのを止められなかった。
#BRAVE10 #真田幸村 #海野六郎 #幸六