No.285

(対象画像がありません)

金色の曼珠沙華-002-

金色の曼珠沙華 2017.10.01

#シリーズ物 #ウェブ再録

 は、は、と荒い息がその個室に響く。 べっとりと濡れた手を見下ろし、兵頭十座は焦燥感に襲われた。 カ…

金色の曼珠沙華

金色の曼珠沙華-002-


 は、は、と荒い息がその個室に響く。
 べっとりと濡れた手を見下ろし、兵頭十座は焦燥感に襲われた。
 カラ……とトイレットペーパーを引き出してちぎり、自身の体液で汚れた手を拭う。それを白い便器の中に投げつけて水を流す頃、ようやく呼吸が整った。
「……笑い話にもならねぇな」
 いや、まだギリギリ笑い話ですんでいるのだろうか、と十座は大きく息を吐く。
 兵頭十座は古市左京を抱いている。想像の中で、だ。現実の話ではない。ギリギリ笑い話というのは、そういうことだ。
 扉にもたれ、ぐしゃりと髪をかき混ぜる。日に日に、渦巻く欲が大きくなっている気がする、と。もちろん測定しているわけではないし、そんなものどうやって測定するのかも分からないが、感覚の問題だ。
「頭冷やしてこねぇと……」
 十座はトイレを出て、浴場に向かった。この時間帯、団員は全員風呂の時間を終えて、自室なり談話室なりでそれぞれの時間を過ごしているはずだ。
 十座とて、同室の相手がいなければそこで過ごしていたことだろう。だがこの劇団では基本的に二人部屋。悲しいことに、ルームメイトは劇団一いけ好かない相手だ。年頃の男子の生理現象とはいえ、自慰をしているなんて絶対に知られたくない。
 しかもオカズにするネタが、あの古市左京だなんて、死んでもだ。
 浴場の電気を点けず、十座はスタンドシャワーのブースに向かう。ひねった蛇口は、水の方だった。
 ザアッとノズルから降ってくる冷たい水は、とろけてしまった十座の心を固めていってくれる。
「間違って、手ぇ出さねぇようにしねーと……本当に殺される」
 ぼそりと呟く。
 想像の中で左京を組み敷いて、体を暴き、欲をぶつけるこの行為は、どうにも乱暴だ。
 それが現実になってしまわないように、こうして冷やして固めておかねば、世界が変わってしまう。
 恋というものが、こんなにも厄介なものだなんて思いもしなかった。
 そう、恋だ。
 兵頭十座は古市左京に恋をしている。
 冷水で頭を冷やす時間が経つにつれ、十座の意識はすっきりと晴れていく。
 その分、左京への感情を改めて実感することになってしまって、いたたまれないのも事実だった。
「なんで……あの人なんだ……」
 自覚している範囲で、初めての恋だ。
 硬派な強面というイメージが、小さな頃から定着しているせいか、女はおろか男の友人さえできなかった十座が、まさかまともに恋なんてできるはずもなく、この歳まで生きてきた。
 なんの因果か、初めての恋の相手が年上の男性とは。
 叶うわけがない。受け入れてもらえるわけがない。まるで絶望的な恋だ。
 混乱しなかったわけじゃない。最初はなんの間違いかと思った。
 左京を目で追っているのに気がついた時も、彼の演技に惹かれて、できることなら技を盗みたいと思ってのことだと感じていた。
 左京に名を呼ばれるたび胸が跳ねるのも、何か怒られるようなことをしただろうかと、怯えが先立っているのだと感じていた。
 だけど、よくやったなと笑顔を向けられたその瞬間。
 稽古の熱で、首筋を流れる汗を見たその瞬間。
 役の上とはいえ、真剣なまなざしと出逢ったその瞬間。
 恋をしているのだと、気がついた。
(言えねぇけど。誰にも。こんなこと……おかしいんだ。左京さんを……あんな風に抱きたいなんて、思ってねぇのに)
 触れたいとは思っている。口唇に、肌に、体のすべてに。だけど左京は、想像の中でさえ受け入れようとしてくれない。
 そりゃそうだろうなと十座は苦笑して、冷たい水の降ってくるシャワーを止めた。
 ふうーと息を吐く。熱は冷ました。どうしても浮かんでくる左京の顔も頭を振って打ち消した。恋心とやらにも蓋をして、押し込めた。
 今日はもう眠ってしまおうと、体の水分を拭き取り申し訳程度に髪を拭き、浴場を出ようとしたその時。
「あ?」
 なんてことだ。今いちばん顔を見たくない相手と鉢合わせた。
「んだ、てめぇ……」
 相手はルームメイトの摂津万里。部屋にいたのではなかったのかと、あからさまに眉を寄せてやった。
「何してんだよ、こんな時間に。風呂の時間過ぎてっだろーが」
 万里の言うことは正しくて、さらに言えば入浴は決められた時間内に済ませている。不思議がるのも仕方がないだろう。
 だけど、何をしていたかなんて言えるわけもない。左京をネタにトイレで欲を放ち、熱を収めるために冷水を浴びていたなんて、そんなこと。
 絶対に軽蔑される。
(別に摂津にどう思われようが関係ねーが、……知られたく、ねぇ)
 何かと突っかかってくる相手だ、今さら何をどう思われようと関係はない。だけど、知られたくない。
 この劇団は、十座の夢を叶えてくれた。これから先も、もっと色んな役を演じさせてもらえる――自分以外の誰かになれる、大切な場所だ。
 そんな大切な場所で、大事な劇団の仲間を相手に、こんな劣情を抱いているなんて知られたら――そう思うと、背筋を悪寒が走る。
(ここにいたいんだ、俺は)
「……っせーな、てめぇには関係ねーだろう」
 十座は万里を目の前にして珍しく、挑発を受けずに顔を背け、ふいと体を横に流した。今は万里の相手をする余裕なんてない。ありがたいことに、万里の方もそれ以上の挑発を続けてくることはなく、どことなく様子がおかしい。
 だが万里の様子が気にはなっても、てめーの方こそ何かあったのかなんて訊いてやる義理もなければ、そんな余裕もない。十座は万里とすれ違い、そそくさと部屋へ向かっていった。
 そうしてベッドに寝転がる。
 目を開けていても、閉じていても、浮かんでくるのは左京の顔。不機嫌そうなもの、ケンカを止める時の呆れたもの、アドリブに上手く返せた後の満足そうなもの。
(ああ、駄目だ、やっぱり。心臓がいてぇ……)
 想うたび、心臓が締めつけられる。きゅう、と縮んでいくような感覚を味わい、深呼吸をしてどうにか元に戻す。その苦しさを知っているのに、どうして何度も繰り返してしまうのか。
 想わなければ苦しまなくてすむと分かっていても、いつも、いつでも、左京が浮かんできてしまう。
(恋ってめんどくせぇな……)
 そう思ってため息をつくのに、頭の中は左京でいっぱいだ。せっかく収めた熱が、また蘇ってきてしまう。
 違うことを考えようと、大好きなあんみつを思い浮かべた。美味そう、と思ってもうひとつ。もうひとつ。ぽん、ぽん、と浮かび上がってくるあんみつ。黒蜜をたっぷりかけたり、ソフトクリームを乗せたり、ぎゅうひを足したりミカンを足したり。
 そんな中でも、ぽん、と左京の顔が浮かんできた。
「ああ、もう……仕方ねぇな……好きなんだ」
 大好きなあんみつと、大好きな古市左京。
 諦めが悪いのは自覚していた。似合わなくても甘いものは好きだし、どんなに下手くそでも芝居をしたかった。
 どんなに望みがなくても、やっぱりあの人が好きなんだと口角を上げて、十座はゆっくりと眠りに落ちていった。


#シリーズ物 #ウェブ再録