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右手に殺意を 左手に祈りを-015-

千至WEB再録 2018.10.07

#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

 密が所属している劇団の、総監督である女を拉致し、この部屋に軟禁した。出張および彼女との婚前旅行と言…

千至WEB再録

右手に殺意を 左手に祈りを-015-


 密が所属している劇団の、総監督である女を拉致し、この部屋に軟禁した。出張および彼女との婚前旅行と言ってはいるものの、劇団ではさすがに今頃騒ぎになっているだろう。何しろ千景が主演を務める公演はもうすぐで、もちろん出るつもりもない。
 千景の目的は、密が大切にしている場所の破壊と、真実の懺悔を聞くことだ。
 千景はソファに座り、情報がどこかに漏れていないか確認する。組織への報告はやめておいた。ディセンバーの生存が知られたら、彼の身が危うくなるからではない。組織の連中に、報復を出し抜かれたくないからだ。
 裏切り者は処分した、とディセンバーの遺体とともに組織に戻れば、危うくなっていた千景の信用も回復するだろう。
 だから、待っている。
 ディセンバーが思い出すのを。思い出して、ここに来るのを。そして、その口から真実が語られるのを。
 そのために、これまで我慢してきたのだ。
 劇団の連中との、疑似家族のような生活を。
 寮に寝泊まりこそしなかったものの、食事と稽古と談笑と……。オーガストや、あんなことがある前のディセンバーとしていたことと、おおよそ同じ暮らし(オママゴト)を、あの何も知らない連中の傍でしてきてやっていたのだ。
 そこまで思って、千景は思い直す。
 ひとりだけ、知っている男がいたか、と。
(わりと徹底してるな、アイツは。こんなことをすれば、さすがに連絡してくるかと思ってたけど)
 その男は、茅ヶ崎至。たまに体を重ねる、職場の後輩だ。
 至には、密と何らかの確執があることを知られている。復讐のためだけに入団したのだと知られている。
 それなのに、知られたあとも劇団で過ごすことができたのは、彼が誰にも何も言わなかったからだ。
 密を追い落とすという目的が知られていれば、即追い出されていただろう。
 快楽に溺れさせて懐柔した、と言えるほどのテクニックは持ち合わせていないし、セックスしか頭になくなっているようには、とても見えない。
 どうして至が、しっかりと黙っているのか――それは、密やかな脅迫をしたからだ。
 至には身近に好きな相手がいるようで、おかしなことをしたら、大事な彼が無事でいると思うなと言ってやった。あの手合いは自身に危害を加えられるより、大事な相手に何かあることを嫌う。
(命拾いしたよね、万里は)
 そう思って口の端を上げる。至がもっとも気を許している相手だ。
 彼のことがとても大事で、自分の体を、恋心を投げ出してでも守りたいのだろうと思うと、健気さに反吐が出そうだった。
 忘れたい、何も考えたくない、忘れさせて。
 そう言ってすがってきた至を何度も抱いて、動けなくなるほど抱き潰してきたけれど、その口で名を呼ばれたことが一度もない。いつも、いつでも、〝先輩〟と固有でない名称を口にするだけだ。
 その理由は、恐らく千景自身にある。
 いつだか彼をひどく犯したことがある。密が楽しそうに笑っている写真を見たあの夜。
 未だにはっきりと思い出すことはないが、監視の映像ログに残っていた千景の声。
〝俺の名を呼ぶな、お前には許可してない〟
 至は訳もわからず、それを守っているに違いない。
(どうかしている……本当にどうかしている。呼んでほしいなんて……)
 卯木千景という名は、本名ではない。もちろん、エイプリルというコードネームもだ。
 オーガストが、日本企業への潜入に合わせてつけてくれた、それらしい名前、らしい。
 日本名なんて分からないから、なんだって良かったのだが、実際潜入してみて、わりと珍しい字面なのではないかと、オーガストのセンスに呆れたこともある。
 だけど、彼がつけてくれた大事な名前。大切な音。
 商社に潜入して、劇団に入って、その音で呼ばれたことは何度もある。
 どうでもいい人間に呼ばれたところで、別になんでもなかったのに、どうして至に対してだけ、感情がぶれるのだろう。
(怒っているだろうか……アイツ、何だかんだで劇団のこと大事みたいだし、公演だって、稽古頑張ってたし)
 至からは、何の連絡も来ない。
 LIMEのIDも知っているのに、着信はおろかメッセージのひとつもなかった。
 見切りをつけられたのだろうかと思うのは、他の団員からは連絡がきているからだ。もちろん未読のままだし、着信に応答することはない。
(代役立てて、公演はしてくれると……、いや、何を言ってるんだ。あの劇団は、壊れてくれた方がいいのに)
 密を苦しめるためなら、何を犠牲にしてもいい。そう思っている。そうでなければ、何のために今まで生きてきたのか分からない。馬鹿馬鹿しい疑似家族を演じてきたのか分からない。
〝演じてくださいよ。変に思われたくないでしょう〟
 忘れると言った至が、一度だけそう忠告してきたことがある。春組のメンバーである碓氷真澄が、家の都合で黙って劇団を出ていった時だ。
 みんなで迎えに行こうとざわついていた時、千景は〝入ったばかりだし〟と回避しようとしたのだ。その際、至が袖をくいと引っ張ってこっそりと囁いてきた。家族を演じろと。面倒だったが、表面上で馴染むためには仕方ないのかと、従ったのだ。
 そんなことをしたのも、すべては内側から崩壊させてあの男を苦しめるためだ。
(何をしている、ディセンバー。早く思い出してここへ来い。そうしないと、お前の大好きな劇団が潰されるぞ)
 主演の降板という今の状況を、代役を立てることで脱しても、総監督の不在は堪えるだろうし、次の手は当然考えてある。
 ネット上の口コミというのは恐ろしい物で、それが真実かどうかは関係ないのだ。
 MANKAIカンパニーの、良くない口コミをひとつでも書き込んでやれば、それは拡散していく。芋づる式に、あることないこと書き立てられて、公演もままならない状態になる。
 簡単に作れる〝存続の危機〟だ。
(苦しむべきなんだ、お前は……! お前だけは、絶対に許さないぞ、ディセンバー)
 千景はぐしゃりと髪をかき混ぜて、歯を食いしばる。一時でも、裏切り者を家族として扱っていたことが、腹立たしくてしょうがない。
 苦しめばいいと思えば思うほど、共に過ごしてきた日々が現状にオーバーラップしてくる。
 少しも変わらない男が、オーガストのいない状況で覆い被さってくるのだ。
 そこにちらつく春組のメンバーや、まだ交流の浅い他の組の連中。拉致してきた総監督の、図々しくも力強い瞳。苦しそうに逸らされる、茅ヶ崎至の視線。諦めにも似た、あの時の笑い顔。
 ぎゅう、と心臓が締めつけられる。
 どうして、たったひとつのことしか望んでいないのに、余計な雑音しか聞こえてこないのか。余計なものしか見えてこないのか。
「……助けてくれ、オーガスト……っ」
 知らず、漏れる声。
 千景は歯を食いしばって、眼鏡を外して両手で目元を覆い隠した。



 至は唇の前で両手の指を組んだ。
 千景が、総監督であるいづみと姿を消して、数日。
 会社では長期出張ということになっていたが、そうでないことは分かっている。ついに動いたのだ。
(先輩……!)
 千景が、密を苦しめるための行動に出てしまった。公演ができなくなれば、劇団の経営にも影響が出る。ここが壊れてしまえば、密は居場所をなくしてしまうだろう。
(どう、したら……。密は、何か思い出したのか? オーガストさんのこととか、先輩のこと……)
 そういえば、ここ数日は密が寝入っているところを見ていない。談話室はおろか、中庭のベンチや廊下、玄関でもだ。
 普段あれだけ、どこでも寝る男が、眠っていないのは、もしかして千景が起こした行動の理由に、気づいているからではないのか。
(密、思い出してるのか……!?)
 千景は、密がオーガストを殺したのだと思っている。事実がどうなのか、至には分からない。事実であってほしくないと思っている。
 至は唇を噛んで、組んだ手の上に額を預けた。
(頼む密、否定してくれ……そうじゃなきゃ、あの人は)
 またひとりきりになってしまう。
 息を止めても、吐いてみても、至自身の望みは変わらない。一人で悩んでいても、何も解決しないのだと、意を決してソファから腰を上げた。



#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

右手に殺意を 左手に祈りを-014-

千至WEB再録 2018.10.07

18歳以上ですか? yes/no

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18歳以上ですか? yes/no

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右手に殺意を 左手に祈りを-013-

千至WEB再録 2018.10.07

#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

 いつ見てもふわふわした髪に気づいて、千景はつま先をその方向へと向ける。ほんの少し元気がないように思…

千至WEB再録

右手に殺意を 左手に祈りを-013-


 いつ見てもふわふわした髪に気づいて、千景はつま先をその方向へと向ける。ほんの少し元気がないように思うのは、気のせいだろうか。
「茅ヶ崎」
「え? ああ、先輩。お疲れ様です」
「今帰りか? 今日稽古ない日だよね」
 そうですね、と若干素っ気ない声が返ってくる。虫の居所が悪いというよりは、居心地が悪そうに見えて、千景は目を細めた。
(やっぱり、そうなのか? 昨日のあれ、見られたから)
 そういえば、朝わざわざ寮に戻って朝食を取った時も、至の態度はどこかよそよそしかったのを思い出す。
 どこに行っていただとか、面倒じゃないのかだとか、そういったことは一切口にされない。
 一〇三号室で寝ていないのは分かっているはずなのに、何も余計なことは訊かないでいてくれる。彼のそんな距離のわきまえ方は、都合がよかった。
 そんな彼が態度を硬化させる理由が、ひとつしか思い当たらない。
 昨日見かけてしまった、万里との抱擁。
 いや、あれは抱擁などというものではなかったが、随分と心を許して、身を預けているように感じられた。
(好きなんだろうな)
 恋という感情は、千景自身よく分からない。
 組織の任務で必要な時は、ある程度の知識とテクニックで、ターゲットを落とすこともあったが、個人的にどうこうなりたい相手などいなかったし、どう感じたらそうなのかも分からない。
 だけど、至が万里に相当気を許しているのは事実で、千景といる時とは明らかに違っていた。
 そして、この逃げ出したそうな態度を考えれば、導き出される結論は。
「……茅ヶ崎、体空いてる? 少し話があるんだけど」
 目に見えて、体が強張る。何の話をするのか、分かっているのだろう。
 拒否権はないよと、小さく続けてやった。
 しかし、何も至に不利な話をするわけではないのだ。どちらかというと、感謝さえされるのではないかと思う。
 俯いて小さく〝はい〟と答えた至に口の端を上げ、何故か痛む心臓をごまかした。



 話をするのに普通のホテルの部屋を選んだことに、下心はなかった。バーやレストランでは他人に聞かれるし、周りのノイズも煩わしい。自分たちが慣れた場所、というだけだ。
「……シャワー、してきますね」
 沈んだ声で、至はいつもと同じ行動を選択する。拒否権はないと言ったのは千景自身だが、そんなに嫌なことならば振り切って逃げればいいものをと、至の腕を掴んで止めた。
「いいよ、今日はそういうことしに来たわけじゃない。話があるって言っただろ」
「え?」
「こういうの、もうやめようかって話」
 ひとつ瞬かれた後、至の目は大きく見開かれる。
 言葉の意味が分からないほど、頭の悪い男ではないはずだ。
「な、んで、いきなり」
「いきなりかな? ちょっと前から思ってたんだけど、茅ヶ崎――好きなヤツいるんだろ。俺に抱かれる時、ものすごく辛そうな顔してたしね」
 は、と至の唇から小さな息が吐かれる。それが分かるくらいの至近距離で、明らかな動揺を感じ取った。
「当ててあげようか。万里」
「なっ――何を言って……馬鹿なことを!」
「だから、解放してあげるよって言ってるんだ。その方がいいだろ? 俺だって、万里の代わりにされてるのは気分良くないし」
 ぐるりと胃が回るようだった。
 叶わない想いを、自分との行為で疑似体験していたのかと思うと、腹立たしい。性欲処理に利用していたのはお互い様なのだから、そこをこれ以上責めるつもりもなかったけれど。
「そろそろ潮時かなと思ってたんだよね。同じ職場ってだけでもアレなのに、同じ劇団内でこんなただれた関係、褒められたものじゃないし」
 終わりを告げる言葉を発するたびに、至の腕を掴む指に力がこもっていく。言葉とは裏腹の指先に、千景自身が戸惑った。
 至の顔が悔しそうに歪んでいく。
「正直に言ったらどうですか……」
「え?」
「ごまかさないで言えば良いでしょう、密に逢えたから俺はもう用済みなんだって!」
 千景は目を瞠って息を止めた。なぜ至が、密の名前を出してくるのか。
 密がディセンバーだと言った覚えはない。ましてや、密の懐に入り込むために、至を利用したことなど、口にしていないはずなのに。
「茅ヶ崎ッ……」
 気がつけば、右手を至の喉元に当てていた。
「う……」
 それに気がついても、放すことができない。動揺があったことも事実だが、これは後々面倒なことになってくるかもしれないのだ。
 なぜ至が密のことを持ち出してくるのか、どこまで知られているのか、探らないといけない。
「何を見た、茅ヶ崎……!」
 喉を締め上げる右手に力を込める。抵抗を予測していたが、至の手どころか、指先さえ、その手を外そうとはしてこない。ただ悲しそうに、寂しそうに見つめてくる瞳があるだけだった。
 視線が至近距離で重なる。
 至との関係を終わらせるのに、いい時期だとは思っていたが、これは少し考え直した方がいいかもしれない。この関係をネタに脅迫するか、懐柔するか、手元に置いておいた方が安全だ。
 密への接触はできたが、記憶がないという状況を考えると、まだあの劇団を辞める時期ではない。
 まだ近くで見ていたいのだ。密がすべてを思い出して、苦しむのを。
 今まで自分が苦しんできた分くらいは、望んだっていいはずだ。
「不用心、ですよね……知られたくないなら、中庭であんな話しするもんじゃないですよ」
 苦しそうな声で、至が答える。
 確かに、密に最後通牒を突きつけたのは中庭だった。焦りがあったのかもしれない。歓迎会の騒がしさで、かき消されるだろうと思っていた、千景の落ち度だ。
「先輩、取り引きしましょう」
 至は喉を締め上げる手に怯えるでも、呆れるでもなく、そう告げてくる。
 千景は自身の落ち度があったこともあり、ゆっくりと手を離し、至を解放した。
「取り引き? 俺相手に、随分と怖い物知らずだな」
「ハハ、俺が先輩のことで知ってる部分なんて、たった一部でしょう。それも、会社での仮面かぶったのと、ベッドの中でのあなたしか知らない。怖がらなきゃいけないような人なんですか?」
「揚げ足を取るな。金か? それとも」
「……誰にも言わないでください、俺に、好きな人がいること」
 至の視線が下向いていく。
 相手の名前を口にはしなかったが、千景には分かってしまう。
 同じ劇団内の男に恋をしているなんて、知られたくないだろう。会社にはもちろん、当の劇団にもだ。
「そうしてくれれば、俺は誰にも言いませんから。密のことも、先輩のことも何も訊かない」
 男に恋をしている――それは確かに立派な取り引き材料にはなるだろうが、弱い。
(へぇ……)
 こちらを脅迫してくるでなく、交換条件を出してくるあたりは好ましかったが、千景はそれを却下した。
「その材料はいらないよ、茅ヶ崎。俺はお前を脅迫する方を選ばせてもらおう」
「脅迫……?」
「お前が少しでも変な素振りを見せたら、俺はお前の大事な相手を殺すよ。傍にいるんだしね、いい人質だ」
 そう言って口の端を上げれば、至の目は驚愕に見開かれていく。
「言わないって言ってるじゃないですか!」
「経験上、他人は信用しないことにしてる」
 裏切られた時の絶望も経験した。相手に対する憎しみも育った。簡単に他人を信用するなという教訓も得られた。
 そんな状態で、ただのセックスフレンドである茅ヶ崎至の提案を、信用などできるわけがない。
「忘れたいんですよ! 先輩と密のこと……見たくなかった、密が危ないかもしれないのに、俺の都合で先輩を見逃すんですよ、最低でしょう! こんなこと考えてるなんて知られたくない、忘れさせてくださいよ!!」
 泣き出しそうな顔をして、至はダンと拳で背後の壁を叩く。ゲーム以外で彼がこんな剣幕になるなんて思わず、千景は目を瞠った。
「確かに、身勝手な取り引き材料だな。ディセンバーの身に危険が及ぶより、自分の気持ちを知られることの方が怖いなんて。……気持ちを打ち明けようとは思わないのか」
「ハッ、言ってどうするんですか、玉砕するのが目に見えてるのに。俺なんか、見てもらえるわけない……」
 知られたくない想いを抱えて、至はそれでも、傍にいたいのだろう。
(忘れたいってのは、俺やディセンバーのことっていうより……万里のこと、かな……)
 言い出せない恋心を押し込めて、閉じ込めて、得る物などあるのだろうか。だが、そこまでして守り抜きたい想いがあるのかと、胸の奥がざわついた。



#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

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右手に殺意を 左手に祈りを-012-

千至WEB再録 2018.10.07

#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

 歓迎会がひとまずの終わりを告げても、成人組は何だかんだ理由をつけて酒を飲む。 紬や丞の演劇論にも熱…

千至WEB再録

右手に殺意を 左手に祈りを-012-


 歓迎会がひとまずの終わりを告げても、成人組は何だかんだ理由をつけて酒を飲む。
 紬や丞の演劇論にも熱が入っているようで、ほんの少しこの一〇三号室にまで漏れ聞こえてくる。至はゲームをやりたいからと、そこを抜けてきた。
 会社の飲み会よりは随分と気楽だが、至がゲームの時間を何よりも欲していることを知っている団員たちは、それでも不思議に思うこともなく解放してくれる。
 居心地のいい場所だ。
 最初はこんなに長く居座るつもりもなかったのになと、以前脱退しかけたことを思い出す。
 こんなに熱くなれるとは思っていなかった。芝居に。……恋に。
 ここにいる仲間たちが大事なのは本当だ。
 距離感をわきまえている連中ばかりなのが幸いで、踏み込まれ過ぎず、また踏み込み過ぎず。
 ただ誰かに何か問題が起きれば、全員が全力で解決方法を探す。そんな場所。
(密が本当のことを思い出したら、どうなるのかな……)
 ゲームをやると理由をつけて抜けてきたが、実際ゲームをやる気分ではない。そんな気力は残っていなかった。
 さっき知ってしまった事実を、どう受け止めたらいいのか。
 密に近づくための駒にすぎなかったのだろうという、真実に近い仮定を、どうやって受け止めたらいいのか。
 至はソファの背に頭を乗せて、天井を見上げた。
 あの二人……いや、三人のことに、踏み込むべきではない。
 彼らのことを何も知らないままで踏み込むのは、あまりにも無責任だ。かといって、真実を知る勇気も、探る権利もない。
 小さな頃から一緒だった、大切な(オーガスト)。千景の口から直接聞けたのは、それだけだ。
(セフレどころか、ただの駒に、先輩があれ以上のことを話すわけないし。……忘れなきゃ……)
 ただのセフレとただの駒、どちらがよりマシかななどと思って苦笑していると、ドアがノックされた。至は背もたれから頭を上げ、応答してみる。
「あのっ、オレです」
 聞き覚えのある声だ。至はソファから腰を上げ、ドアへと向かった。一瞬千景かとも思ったが、これは。
「咲也? どしたの」
「あっ、あの、ごめんなさい、ゲームの邪魔しちゃいました?」
 春組リーダーである、佐久間咲也だ。チェリー色の明るい髪は、それでも目に優しい。きっと咲也のものだからだろう。
「ううん、平気だけど……何かあった?」
「あ、いえ、その……さっき至さんの元気がなかったなって思って、オレちょっと心配で」
 申し訳なさそうに呟く咲也に、至は目を瞠る。
 咲也にまで気づかれてしまうほど、落ち込み様は重症だったのだろうか。間近で見られた万里はともかく、談話室に戻ったあとは普通にしていたつもりだったのに。
「……それで、心配してきてくれたんだ?」
「せっかくの料理も、あんまり食べてないみたいだったので……あっ、臣さんの料理ほとんどなくなっちゃってたので、これ作ってきたんですけど」
 咲也の手の中に、皿に盛られたおにぎりふたつ。
 ぱちぱちと目を瞬く。
 確かに料理にもあまり手をつけられなかったが、そんなところまで見られていたなんて。
「あっ、あの……本当はもうひとつあったんですけど、さんかくなので三角さんが持ってっちゃって。すみません至さん。良かったら食べてください、明日の朝まで保ちませんよ」
 太鼓型かまんまるにすれば良かったかな、なんて首を傾げる咲也に、作ってくれていた時の光景が目に浮かぶようで、至はふっと噴き出した。
「ありがと、咲也。大丈夫、元気出たよ」
「ホントですか、良かった」
 咲也の顔がパアッと明るくなる。この年齢でここまで素直に感情表現できるのは、いっそ貴重な能力だろうなと感じた。歳を取るにつれて、そういうものを表に出しづらくなっていく人も多いというのに。
(いや、出しづらいっていうか、隠すのが上手くなる感じかな)
 かくいう至も、会社ではかなり猫を被っている。咲也の素直なところは、このまま在り続けてほしいと、おにぎりの皿を受け取った。
「あれ、千景さんはいないんですか?」
「え?」
「談話室、いなかったので」
「あ、……ああ、さっき出かけてったよ、コンビニかどっかかな。そのうち帰ってくるんじゃない? 先輩に用事だった?」
「あ、いえ。今日の歓迎会、楽しんでもらえてたらいいなって思って。これから一緒にたくさんの舞台踏めたらいいですね!」
 咲也の笑顔につられて、至も笑う。
 本当は千景がどこに行ったのかなど知らない。寮内にいないことも今知ったのだ。
(またか、あの人……)
 恐らく、また今日も入寮前の部屋で過ごすに違いない。
 入寮して数日、千景がこの部屋で過ごしたことなどない事実を、咲也たちには知らせない方がいい。
 少しも彼らに心を許していないなどことを言えば、咲也たちは悲しむだろう。綴の脚本にも影響が出てくるかもしれない。
 さらに、千景のことを無理にこちらへ引き込もうとすれば、いつ誰が真実に気づくか分からないのだ。危険に巻き込むわけにはいかない。
「じゃあ、おやすみなさい至さん」
「うん、おやすみ咲也。おにぎりありがと」
 咲也は満足そうに帰っていく。リーダーとはいえ、年下に気を遣わせてしまったなと、手に残るおにぎりの皿を見下ろした。
(咲也なら、もしかしたら……)
 あの際限ないひたむきさと、それゆえの強さを持ってすれば、千景の心も溶かせるかもしれない。
 そうは思うが、咲也を巻き込むことなどできやしないと唇を引き結ぶ。
(先輩には、復讐なんか忘れて幸せになってほしい……けど、オーガストさんや、……密が、あの人にとってどれだけ大事な存在だったか分からないのに、無責任なこと言えないし)
 至はソファに戻って、かけられたラップをゆっくりと外す。ほんの少しいびつな形が、逆に胸をじんわりと温めてくれた。
(かといってあの人のやりたいことを肯定すれば、それは密の身を危険にさらすってことで。……そんなこと、していいわけないのに)
 千景の望む復讐が、具体的にどんなものか分からない。しかし密が苦しむことは明白で、とてもはいそうですかと許容できるものではないはずだ。
 だけど、でも、やっぱり、いやいや、……と、至は心が少しも決められない。
 復讐なんて止めさせた方がいいに決まっているのに、そうしたら、千景の抱えてきた孤独と闇は、誰がどう静めてくれるのか。
「ハハッ、この期に及んで、俺ってヤツは……本当にどうしようもないな」
 揺れ動く迷いの中で、温かなおにぎりと、泣き出したくて痛む喉だけが、そこに在る真実だった。


#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

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千至WEB再録 2018.10.07

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「あれ? どうしたんすか至さん。ちょっ、アンタ大丈夫?」 その時、談話室から万里が出てきて見つかって…

千至WEB再録

右手に殺意を 左手に祈りを-011-

「あれ? どうしたんすか至さん。ちょっ、アンタ大丈夫?」
 その時、談話室から万里が出てきて見つかってしまう。誰に見つかっても面倒だが、放っておいてくれないだろう万里だったのが、至には辛かった。
「あー、何でもない……ちょっと酔っちゃって」
「はァ? だから止めとけって言ったのに。今水持ってきてやっから……つか立てる?」
 そう言って手を差し出してくる。引っ込めてもくれなくて、至は仕方なくその手を取る。
「万里はどうしたの、みんなといなくていいの?」
「あー、一成がさ、この間買ったシューズ見せてっつったから、持ってこようと思ってただけで。そんなんあとでいいだろ」
 至は万里の力を借りて立ち上がる。正直、手のひらから伝わってくる温もりが胸をざわつかせて、ありがたくはなかったのだが、この状態ではそんなことも言っていられない。さっさと水でも飲んで、酔っ払いが介抱されているフリをしてしまおう。
「……アンタ、酔ってねぇだろ」
「……酔ってるよ。なんで?」
「噓つけ。足元しっかりしてんじゃねーか」
「ふらふらしてるって」
「してねーよ。なぁ、なんかあったんだろ。ゲーム? 仕事?」
 こういうとき、距離が近いというのも考え物だった。
 万里とはよく一緒にゲームをしているからか、他の組のメンバーの中ではいちばん仲がいい。至の素を、いちばん知っている男かもしれない。
「至さん」
 もともとが聡いのだろう、至の変化には敏感に反応してきた。ぐっと肩を押さえられて、正面から覗き込まれる。
 千景は絶対にしないだろう、力強い支え。
(なにも、今じゃなくても)
 例えばゲームのガチャで、推しが来なかっただとか、リリースが遅れているとか、そんなことだったら、素直に愚痴をぶつけられる。
 仕事で少しミスをしたと言っても、きっと万里は話を聞いてくれる。それは、日常会話の中でやり過ごせるレベルだからだ。
 だけど、千景の真実に気づいてしまった今、その強さをぶつけてこないでほしいと、唇を噛む。
 甘えてしまう。崩れてしまう。
「なあ、至さん、アンタ今……泣きそうな顔してんぜ」
「……してないだろ」
「これ見ない方がいいヤツな」
 言って、万里は片腕を首に回し引き寄せてくれる。泣き出しそうな目元は、ちょうどいい位置に肩があるせいで、誘惑に負けて押しつけてしまった。
「万里、めちゃくちゃ男前じゃん?」
「はァ? 仲間が困ってんだったら当然だろ。無理には聞かねーけど」
「うん、ありがと」
 はあ、と呆れたようなため息が聞こえる。心の底から心配していることを、そんなため息でごまかす万里は、やっぱり年相応だなと笑ってしまった。
「悪い、ほんと。ちょっと、ショックなことがあってさ。ごめん……」
「いーから。ったく……ちょっとは千景さんにも頼ったらどーすか? 春組の中で年長者だからって、咲也たちには、こういうとこ見せらんねーって思ってたんだろ」
「……っ、や、アイツらにもかなり甘えてるよ俺」
 万里の口から、千景の名を出されて体が強張る。
 確かに千景が入団してくるまで、春組の中で最年長であり、ある程度の責任が発生するのは理解していた。今は年上である千景がいるのだから、少しは頼れと万里は言っているのだろうが、原因である千景に頼ることなど、甘えることなど、できやしない。
(無茶言うなよ万里)
 至は万里の肩に額を預け、ゆっくりと息を吐き出す。今の状況を把握して消化するには、どれだけの時間と覚悟と諦めが必要だろうか。
「……サンキュ、万里。もう平気。みんなんとこ戻るわ」
「ん? あー。本当に平気っすか? ……ならいいけど」
「ん、平気平気。今のちょっとキュンときたわー。俺が女だったら惚れるね」
「軽口叩けんなら平気そうだな。愚痴くらいならいつでも聞いてやっから」
 万里はそう言って、何も訊かずに体を離してくれる。好きになった相手が彼だったら、どれだけ楽だっただろう。
 そう思って体を翻したとき、外から戻ってきた千景の姿を視界に捉えてしまった。
「あれ、千景さん。何やってんすか主役が」
 万里もそれに気がついて声をかける。万里はどうか分からないが、千景の眉間に刻まれたしわに、至は気づいてしまった。
 それはほんの一瞬で平らになって、気のせいだったと済ませてしまえる瞬間だけ。
(ヤバ、い)
 ぞわりと、鳥肌が立った。
 密とのやりとりを聞いてしまったことを、千景が知っているとしたら、それはとても危険なことではないのか。睨まれたのは、気のせいではない気がするのに。ディセンバーの正体を知ってしまった至を、千景は放っておくか。
「ちょっと、熱気に当てられちゃってね。万里はどうしたの? 茅ヶ崎も」
「あー、えっと」
「さっきガチャやったらドブだったんで、ヘコんでる俺を慰めてくれただけですよ」
 言葉を濁す万里を遮って、至は状況を作り上げる。廃人ゲーマーである至をして、無理のないもの、というか、わりとよく見られる日常茶飯事だ。
「ああ……なるほど、ゲーム仲間なんだって? 仲いいんだな」
 千景はそう言って笑うものの、瞳が少しも笑っていないような気がする。それは以前からだったが、さらに噓くさく見えるようになったのは、気持ちの問題だろうか。
(気づいてなかった? それとも……他のヤツがいるから泳がせてるだけ?)
 千景が何を考えているか、さっぱり分からない。密に接触できたから、その他のことはもう、どうでもいいのだろうか。
(あり得る……。俺なんか、眼中にない、ってね……)
「万里、もう平気だから。ありがとな」
 それ以上千景を見ていたくなくて、至は早々に談話室へと戻る。賑やかなパーティーに紛れていれば、千景を疑う自分を覆い隠してしまえると。
 夜遅くまで繰り広げられた歓迎会で、至が千景の傍に行くことはなかった。



 千景は、談話室のソファで手品の練習をする劇団員たちに囲まれながらも、意識をひとりの男に集中させた。
(茅ヶ崎は……もしかして)
 窓際で、携帯端末を片手に他の団員たちとにこやかに話す、千ヶ崎至へと。
 先ほどディセンバー――御影密と接触した。
 記憶喪失などという責任逃れを平気で行う男に。
 どれほどあの場で絞め殺してやろうかと思ったことか。
 だけど、それではあの日の真実が知れないし、オーガストがどんな最期を迎えたのか、確認することもできない。ディセンバーには、あの日のことを事細かに説明してもらった上で、悔やんで、苦しんでほしいのだ。
 ディセンバーが苦しむ姿を近くで見たいがために、ここに潜入したのだ。復讐だけが今生きる目的である。
 それは自分でよく分かっているのに。
 分かっているのに、先ほどの光景が頭から離れていってくれない。
 万里に抱き寄せられて、至が安堵したように身を預けているところが。
 ゲーム仲間だと聞いているし、劇団で共に芝居に励む意味でも仲間なのだし、距離が近くなるのも理解はできる。
 今も、楽しそうに話しているメンバーの中に、万里がいた。
 彼に向ける顔は、本当にどの時とも違う。会社にいる時とも、稽古をしている時とも、ゲームをしている時とも、ましてや千景だけが知っているであろう、ベッドの中での顔とも、全然違う。
 心を許している相手なのだと分かる。
 指先が冷えていくようだった。ざわりと肌があわ立つようだった。
(俺には見せないな、あんなところ。まぁ……いいけど、そろそろ潮時だろうし)
 至とは恋人同士ではない。他の誰かと仲良くしていたって、責める立場にはないわけだが、胸のざわめきが収まらない。
 千景は目を細めて、今一度、自分の望みが何なのかを心の中で確認した。


#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

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右手に殺意を 左手に祈りを-010-

千至WEB再録 2018.10.07

#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

 春組の第四回公演を機に、千景がMANKAIカンパニーに入団した。しかも入寮希望だということで、至は…

千至WEB再録

右手に殺意を 左手に祈りを-010-


 春組の第四回公演を機に、千景がMANKAIカンパニーに入団した。しかも入寮希望だということで、至はホッとしたのだ。
 これで千景がひとりきりになることはないと。
 きっと、オーガストやディセンバーに敵うことはないだろうが、取り巻く他人に触れていく中で、違う種類の幸福を得られることがあるかもしれない。ただそう思っただけだった。
「千景さん、もう一度!」
「じゃあもう一度、よく見てて」
 歓迎会でも、さっそく人気者。手先が器用なのは知っていたが、まさか手品まで得意だったとは、と至は隅の方で笑う。
 この賑やかな劇団で、千景は心を溶かしてくれるだろうか。
「至さん、飲み過ぎじゃね?」
「そ? 別に普通だよ」
 ゲーム仲間である万里が、アルコールを飲むペースが速い至を心配して、声をかけてくる。
 実際、浮かれてはいた。
 まさか、千景の方から入団希望があるとは思わなかったが、これで一緒にいられる時間が増えるのだと。
 毎回ホテルで別れるのを、寂しく思うこともなくなるかもしれないと、恋心を多分に含めて。
「あの人、どういう感じ?」
「あの人って、先輩のこと? 見た通り、イケメンエリート。加えてチート技多数」
「ふーん……なんか、掴めなそうな感じだなって思って」
「そりゃ数日で掴めないだろ。万里だって、こんなに素直になるとか昔からじゃ考えつかないし?」
「素直って! なんすかそれ」
「言葉通り」
 万里はふてくされてふいと顔を背け、オレンジジュースを追加で注ぎに行ってしまう。
 彼も入団当初の態度から比べたら、ずいぶんと丸くなったと思うのだ。そんな展開は、読めていなかった。
 入ったばかりの千景の動向を摑めないのも、それと同じだと言いたかったのだが、言葉の選び方がどうにも下手らしい。
(そんな簡単に掴めるような人なら、こんなに苦しくなったりしないのに)
 体を重ねている自分でさえ、千景のほんの欠片しか分からないのに、たった数日のメンバーたちに理解されてしまっては、たまったもんじゃない。
(俺がいちばん近い、……と思ってたけど、違うんだろうな。俺は何もできない……せめて性欲処理くらいにはなってたらいいんだけど。ハハッ、我ながら健気じゃん)
 そんなふうに思っていたら、主役の姿が見えない。千景に教えてもらった手品を、一所懸命練習している年少組の中にも、酒の飲める成人組の中にも、もくもくと料理やデザートを頰張る連中の中にもだ。
(あれ、どこ行ったんだ先輩……入団おめ~の乾杯しようと思ったのに)
 乾杯など、もう何度したか分からない。新しい酒を注いで、千景のグラスと合わせる――それは傍に行くために、都合の良い言い訳だったのに、ターゲットがいないのではどうしようもない。
 トイレかな、としょんぼりした至の視界に、あってほしいものがないことに気がついた。
(――え?)
 密が、いない。
 千景はひた隠していたし、至は忘れろと言われている――ディセンバーのことが頭をよぎった。
 ディセンバーという名を知ったあの日、千景は冬組の写真を見てから様子がおかしくなった。
 初めて観に来た公演も冬組だった。
 もっと遡れば、そういえばマシュマロという言葉に、反応していたことも。
 密には、記憶がない。この劇団に入るまでの記憶が一切合切だ。
 もしかしたら、密がディセンバーなのではと、何度も思った。それ以外のメンバーは、身元も記憶もはっきりしているからだ。
 ただディセンバーに似ているだけかも、と思うには、あの時の千景の声が耳に焼きついて離れない。
〝なんで笑ってるんだ……?〟
 絶望と、混乱。そんな声だった。
(あれってやっぱり、密に向けられた言葉だったのか? 先輩、まさかとは思うけど)
 至は嫌な予感がして、千景を探しにいこうとグラスを置き、談話室を出た。
「どういうつもりだ、ディセンバー」
(――え?)
 中庭の方で、聞き覚えのある声がする。談話室から漏れてくる賑やかな声に混じってはいたが、至がこの声を間違えるはずがない。
 千景が、ディセンバーという音を口にした。
 至は壁の陰に隠れ、声のする方をそっと覗く。
 千景の向こう側には、やはり、想像した通りの人物がいた。密だ。
「記憶喪失のフリなんて……」
「フリ……?」
 千景の表情は見えないが、密は不思議そうに、不審そうに首を傾げている。
「まさか、本当なのか? お前は……オーガストとともに死んだものとずっと思っていた。一人おめおめと逃げ延びて……お前がオーガストを見殺しにしたんだろう……!」
 オーガストという名前に、密の目が瞠られる。
 どうやら、それに聞き覚えはあるらしい。至は彼らを覗き見るのを止め、ゆっくりと壁にもたれた。
(うそだろ……)
 聞いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。これは千景の不可侵領域で、聞くべきものではない。分かっているのに、神経が逆に研ぎ澄まされていく。
「お前への復讐を果たしに来た。分からないのならば、思い出せ。お前の罪を――オーガストの、最期の顔を。オーガストはどんな顔だった? どんなに無念だったか、お前には分からないだろう。悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる」
 千景の、聞いたことのない低い声に、至の膝が揺れる。顎が震えカチカチと歯がぶつかり、目蓋も下ろせない。
(先、輩)
 至が思っていたよりずっと、千景の悲しみは深い。憎しみも強い。
 オーガストやディセンバー――密と千景が、どのようにして過ごしていたのか。
 それは至には知り得ないことだが、もしかしたら、家族のように過ごしていたのかもしれない。
 そのうちの一人の裏切りで、もう一人が死んだ。
 そんな目に遭った千景の孤独を癒やそうと思ったのが、簡単に〝幸福になってほしい〟と願ったのが、間違いだったのかもしれない。
〝悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる〟
 千景を救い上げることなど、自分には到底できないと、至は唇を噛んでその場を離れた。
(密を……ずっと探してたんだ。オーガストさんの最期に、一緒にいた人……)
 一緒に死んだものと思っていたと聞こえたのは、気のせいではないはずだ。
 生きていたことを、千景は喜んだだろうか。喜んだはずだ。だが、喜びの種類は分からない。お前だけでも生きていてくれて嬉しい、なのか、オーガストの敵が討てて嬉しい、なのか。先ほどの様子を見るに、恐らくは後者。
(公演を観に来たのも、俺に優しくなったのも、入団したのも……密に逢うため、か……)
 至は歯を食いしばって、目元を押さえる。
 いつ頃からか、千景との距離が近くなった。あの夜のことをまだ気にしているものだと思ったのに、そうではないのだろう。
 ディセンバーに近づくために、油断させるために、逃さないために、きっかけと鍵を手に入れたかったに違いないのだ。
(別に、いいけどさ……利用されてたって、そんなの……)
 千景のためになるなら、力になりたかった。苦しいのなら、話を聞いてそして忘れて、ただ傍にいたかった。想いが叶わなくても、他の人よりほんの少し近い距離にいられればいいと思っていた。
(でもなぁ……密を売ったみたいになってんのは、しんどいわ……)
 至は、賑やかな談話室には入れずに、廊下の壁にもたれ、そのままずるずると座り込んだ。
 千景に使われていたこと、知らず知らずのうちに、密を危うくさせていたこと、こんなことになってもまだ、千景への想いが消えていってくれない諦めの悪さが、至を俯かせた。


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千至WEB再録 2018.10.07

18歳以上ですか? yes/no

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18歳以上ですか? yes/no

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千至WEB再録 2018.10.07

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「え? 公演のチケットですか?」「うん、まだあったら一枚欲しいんだけど」 仕事が終わってから、ディナ…

千至WEB再録

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「え? 公演のチケットですか?」
「うん、まだあったら一枚欲しいんだけど」
 仕事が終わってから、ディナーをおごってくれるという千景と車に乗り込んですぐ、そう訊ねられた。
 今チケットを販売している公演といえば、冬組の第二回公演。有栖川誉主演のものだ。
「本当なら、茅ヶ崎が準主演だっけ? その時に観てみたかったんだけど、生憎ずっと海外行ってただろ」
「ああ、そうでしたね。良かったですよ、観られなくて。なんか恥ずかしいんで」
 千景の言う通り、至が準主演を務めた公演の期間は、彼はずっと海外出張だった。
 当然逢えなかったが、たまに連絡は取り合っていたし、土産にと、現地限定販売のネクタイを買ってきてくれたことを思い出す。
「えぇ? 恥ずかしいってなんで。たくさんの観客の前で演じるんだろう?」
「そうですけど、知ってる人がいると思うと恥ずかしいですよ。始まればそんなこと考えてる余裕ないですけど」
「ふぅん。じゃあ次は是非春組の公演も観よう」
「ちょっとヤメテ」
 千景は楽しそうにくすくすと笑う。千景が公演を観に来るほど興味があったとは思えないが、まだチケットは都合がつけられるはずだ。観客が多いに越したことはない。
「じゃあ、一枚取っておきますね」
「ああ、ありがとう」
「ところで、何でもいいんですか? ご飯」
「いいよ。茅ヶ崎が食べたいもので」
 分かりました、と至は近くの店を頭の中で思い描いた。
 正直言って、グルメな方ではない。外食をするならば、その分の金をゲームに課金したいと思う方なのだ。
 おかげで、はやりの店や口コミで評判の店など、少しも分からない。
「イタリアンかな。何かよさげなとこ、探してもらえません?」
「了解。ピザとか好き?」
「好きです」
 言ってから、ハッとして顔を背けた。きっと赤くなっているはずだが、千景には気づかれていないといい。
 千景に向かって〝好きです〟と言ってしまったように感じられて、ひどく照れくさい。そんな言葉、絶対に言えやしないのに。
 彼には、大切な人がいる。
 至には触れさせてもらえない世界の中に、大事にしまい込まれたものがある。
 どうにも複雑な事情がありそうで、訊いてはいけない気がするのだ。
(オーガストさんのことはともかく、俺がディセンバーって名前も知ってるのは、先輩覚えてないわけだし……知らないふり、していたい……)
 オーガストの名を口にするなと言われたこともある。千景にとってその話題はタブーなのだ。裏切ったらしいディセンバーの名は、もっと聞きたくないだろう。
 千景が傷つくからという建前で、訊くだけの勇気がない自分をけむに巻く。千景がどれだけその人を大事に思っているのか知ることで、自分が傷つきたくないだけだ。
「茅ヶ崎、次の信号右に曲がって。その近くにパーキングあるから、停めて少し歩こう」
「了解です」
 千景の言っていたパーキングに車を停め、シートベルトを外しかける千景に向かって、思い切って訊ねてみた。
「先輩、今日はホテルありですか?」
「え?」
「最近、行ってないなあって思って。時間があるなら、その……」
 行きたい、と小さく呟く。
 ベッドの中での乱れっぷりは、もう嫌というほど知られていて、今さら純情ぶるつもりはないのだが、どうしても恥ずかしい上に、後ろめたい。
「もしかして、まだ……あのこと気にしてます?」
 千景のタブーに触れた夜、手ひどく犯された。拘束されて、ろくに慣らさずに突き立てられた。だけど千景はそのことを覚えていないようで、その時ついた手首の痕をすごく気にしていたのだ。
「先輩、あの時から俺のこと抱く回数減りましたよね。気にしてるなら、それはやめてほしいです」
「茅ヶ崎……」
「大体、俺が責めてもないのに、償いみたいなことされるの嫌ですよ」
 覚えていないのなら、そのままでいいと言ったはずなのに、腫れ物に触るように接されるのは気にくわない。至は俯いて唇を噛んだ。
「他に、相手ができたのなら……言ってください。いくらセフレでも、二股とか気分のいいもんじゃないですし」
「茅ヶ崎」
 シートベルトを外した千景が、まだそのままだった至の方に身を寄せてくれる。
 頬にそっと口づけ、驚いて振り向く暇もなく、そのまま唇にキスをされた。
「他の相手なんて、できてない」
 唇のすぐ傍でそう囁き、千景は再度唇を合わせてきた。これは今日のことを期待してもいいのだろうかと、目を閉じて薄く唇を開く。
 ぬらりと入り込んできた千景の舌を受け入れれば、口の中で互いの舌が絡んでいく。シートベルトに押さえられた体は、あの時の感覚と少し似ていて、だけど千景の唇はあの時とは違ってとても優しい。
 上顎をなぞられ、そんなところでも感じるようになってしまった至は、ぴくりと肩を揺らす。千景の指先がネクタイのノットにかかり、緩められていく。喉元のボタンが外されて、指先が入り込んできた。
「あ、……っふ、んぅ」
 ちゅ、ちゅ、と水音を立てながら合わさっていく唇と、乾いた肌を滑っていく指先。ドキンドキンと鳴る心音に気づかれたくなくて、ごまかすように千景の舌を必死に愛撫した。
「んっ、ん……ぁ」
「茅ヶ崎、お腹空いてる……?」
「え、いえ……それほど……」
「悪い、ご飯はまた今度でいいかな。抱きたくなった」
 シャツ越しに、千景の手のひらが胸を撫でてくる。欲情されているのだと知って、カアッと頬が赤くなった。
 自分から誘ってしまったようなもので、ひどく浅ましく感じる。
 だがここで逃してしまったら、次はいつ関係を持てるのか分からない。至は了承を示すつもりで、千景の首筋に唇を寄せて軽く吸い上げた。



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千至WEB再録 2018.10.07

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 どういうことだ。 千景は仕事中も、帰宅中も、ずっと考え事をしていた。そのせいで珍しく書類にミスをし…

千至WEB再録

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 どういうことだ。
 千景は仕事中も、帰宅中も、ずっと考え事をしていた。そのせいで珍しく書類にミスをして、上長に心配されたくらいだ。
 その考え事は、茅ヶ崎至のこと。彼と過ごしたはずの、昨夜のことだ。
 大体、おかしなことが多すぎた。
 普段他人の傍で眠ることなどないのに、今日はその部屋で起きた。さらに、しっかりとセックスをした形跡があったのに、何も覚えていなかった。すっぽりと記憶が抜け落ちているのだ。
 至の端末の中に、笑うディセンバーの写真を見つけて、頭に血が上ったのは覚えている。
 腸が煮えくりかえって、端末が手をすり抜けたような記憶は残っていた。
 そのあとが、分からない。
 記憶がないのは、もしや至に何かされたのかとも思ったが、そんなわけはないとすぐに考えを改めた。
 茅ヶ崎至という男は、どこにでもいるエリートサラリーマンというだけだったから。
 ディセンバーに、何か言い含められたのかとも考えたけれど、観察のログからはそれらしき接触はなかったはず。
 今日職場で見かけた至は、辛そうな顔をしていて、歩くのもしんどそうな様子だった。
 彼が忘れていったものを届けた時に、体を強張らせたのは気のせいではないはず。何かがあったのは間違いないようだが、まさか。
(縛った、痕……だった)
 至の手首に、見慣れない擦り傷があった。手首をぐるりと回るようについた傷は、転んでできるものではない。明らかに、拘束した痕跡だった。
 お互いに緊縛趣味があるわけでもないのに、あの痕は間違いなく昨夜ついたもの。
 千景は自身の部屋に帰りつくなり、珍しく鞄を放り出してテーブルで愛機を立ち上げた。
 確認したいのは、茅ヶ崎至の観察ログ。レコードは残っているはずだが、今朝は時間がなくて確認できなかったものだ。
 再生ボタンを押して、ホテルにいるだろうところまで飛ばす。
『お前はただここで俺を満足させろ』
『先輩! ちょっと、どう……外して、これっ……いやだ、いやっ……』
「――あ……?」
 目を瞠った。
 ベッドのきしむ音と、衣擦れ。本気の抵抗をしている至の声と、苦痛さの混じる喘ぎ。
 思わず、がたりと腰を上げる。
 端末はベッドの下に落ちているらしく、映像は撮れていない。だが、音だけでも充分、何があったのかは理解できた。
 自分が、何をしたのかは理解ができた。
(茅ヶ崎ッ……)
 茅ヶ崎至を、拘束して無理に犯したのだという事実。
『先、輩……っ』
 それでもどうしてか、途中から至の抵抗する声が聞こえなくなった。
 代わりに、抑えているような喘ぎとうめき。犯されてさえ快楽に溺れ出したのかとも思ったが、それにしては苦痛そうな声が混じっている。
 うっ、う、と顔を枕に埋めているようなくぐもった声では、とても快楽を感じているようには思えない。
 ベッドのきしみが激しくなり出しても、至からはいつものような声が一切漏れてこない。
「なんで……」
 どうしてこんなことをされているのに、彼は一切責めてこなかったのだろう。いっそ全部を受け止めかねない様子が、千景にはどうしても理解できなかった。
 ログを巻き戻して、ホテルに入ったあたりから再生し直す。
『他の写真も見ていい?』
『え? あー……いいですよ、そのフォルダなら』
 ここはまだ覚えている。ディセンバーの写真を確認したくて、何でもないふうを装って画面をスワイプした。そのあとのことだ、思い出せないのは。
 映像が、揺れる。恐らくここで端末を落としてしまったのだろう。
 至が驚愕する声と、千景の掠れがちな低い声。
『んで……なんで笑ってるんだ……?』
『先輩……?』
『なんで笑ってるんだ! どうしてそんなにのうのうと生きていられる!』
 千景は眉を寄せ、口の前で強く拳を握った。ディセンバーの写真を見て、何も考えられなくなった自分の未熟さが腹立たしい。
『俺を……俺たちを裏切ってまで生き延びて! なんでそんなところで笑っていられるんだ、ディセンバー!』
 その名まで口にしてしまっていたのかと、歯を食いしばって俯いた。
 至には、オーガストの名を知られてしまっている。頭は悪くない男だ、結びつけて考えるだろう。どれだけか、核心に近いものを想像できているかもしれない。
 オーガストがもういないこと。
 ディセンバーに殺されたこと。
 復讐しか自分の頭にないこと。
(どうする、消すか? 知られたら駄目だ。茅ヶ崎が探り出したら、危ない……また組織のヤツらに嫌み言われるんだ、こんなことでっ……)
 自分の落ち度とはいえ、民間人にその名を知られてしまってはいけないのだ。
 ただでさえディセンバーの裏切りで、行動を共にしていた自分の立場も危ういのに。この上こんな失態を知られたら、危険分子と見なされ、命さえ危うくなってしまう。
(事故に見せかけて……いや、でも、茅ヶ崎は……)
 必要ならば、存在を消してしまわなければいけない。殺しは好かないが、致し方ない――そんな時もある。
 そう思おうとしているのに、ログの中で、必死で受け止めようとしている至の声に邪魔をされる。
(茅ヶ崎は、ディセンバーに近づくための大事な駒だ。アイツを消すメリットがないどころか、情報が入りにくくなる。デメリットしかないだろ……!)
 ログが再生を続ける中で、千景は頭を抱える。
 情報収集というなら、ディセンバーの居所が分かったのだから、他にやりようがいくらでもある。
 至がいなければいないで、手を変えるだけだ。それも分かっている。
(不要な殺しをしたくないってだけだ、茅ヶ崎なら、ちょっと口止めでもしておけば踏み込んでこない、オーガストのことを知られた時だって、そうだったじゃないか)
 使えるものなら使うだけ、利用価値があるうちは傍に置いていた方がいい。そう思っているはずなのに、心臓が痛い。
(駒なんだよ、あんなの! ディセンバーの居所に繫がったから、ちょっと優しくしてやろうかって思ってただけの! 犯したくらいで、何を動揺してるんだ……アイツだって今日なんでもないみたいにしてただろ)
 ディセンバーのことを知られた事実より、オーガストのことを探られる可能性より、心臓が大きく波打つ。
(駒だってだけの相手に、なんだってこんな……!!)
 至を犯したという事実が、何よりも腹立たしい。何の落ち度もない人間を、ひどく傷つけたに違いない。つかなくていいはずの傷だった。それを後悔しているだけだと、歯を食いしばる。
 こんなことがあった翌日にさえ、何も訊かないでいてくれる相手を、不用意に傷つけてしまった、贖罪の思いがあるだけだと。
 無理やりそう思い込んで、千景はその日のログをすべて――消して、愛機を閉じた。



 気にしないでいいと言ったのに、千景は週明けにも気まずそうに声をかけてきた。
 至はランチの誘いを素直に受けて、ひとときの逢瀬を楽しむ。事情がどうあれ、好きになってしまった相手とは少しでも一緒にいたい。
「カレーはやめてくださいね」
「もしかして、昨日も寮でカレーだったのか?」
「昨日どころか、朝もカレーだったんで……いや美味しいからいいんですけどね」
「了解」
 そうして、千景のオススメらしい多国籍料理の店へ、連れていってもらう。
 インド風の炊き込みご飯に目を輝かせている至の前で、千景は、白身魚のアクアパッツァにタバスコをかけて、満足そうにフォークを手に取っていた。
「先輩、辛党ですか?」
「そうだな。スパイスとかたくさん使ってある料理は好きだよ」
 アクアパッツァが食われていくその口で、〝好きだよ〟なんて音が飛び出てきて、至は喉を詰まらせないようにすることで必死だった。
 千景は料理のことを言っているのに、正面にいるというだけで、その言葉が自分に向けられているような錯覚に陥った。
(無理。ない。ありえん)
 万が一にも、千景からそんな言葉を投げられることはないと、充分に分かっている。千景の中には大事な相手がいて、その人以外は恐らくどうでも良いのだろう。千景自身を含めて。
「茅ヶ崎、手首、大丈夫か?」
「え? あー……平気です。もう痕もないし」
 不意にそう訊ねられ、至はぱちぱちと目を瞬き、視線を逸らした。両の手首についていた痕は綺麗に消えてくれている。これなら他の人たちに怪しまれることもないし、舞台にも差し障りはない。
「っていうか、こんなとこでする会話じゃないでしょ……気にしないでって言ったのに」
「いや、でも……」
「覚えてないんだったら、謝るのさえ不誠実ですよ」
 あの日のことを鮮明に覚えていて、それを心から申し訳ないと思っての言葉なら、至も素直に受け入れただろう。だけど、千景は覚えていないのだ。そんな男から実のない謝罪をもらっても、何の意味もない。
「俺が茅ヶ崎にひどいことをしたのは確かだろう。何か、その……詫びとか、できないか」
「いりません。あ、でもここはオゴリですよね」
「ああ、それはもちろん」
 そうは言うものの、千景は納得していないようで、じっと視線を向けてくる。何か対価を払ってすっきりしたいのだろうなと、その気持ちは理解できた。
 至は千景の瞳を見つめ返し、わずかに下向く。
「じゃあ……いつかでいいんで、俺のお願い一個だけ聞いてもらえます?」
「いつか? お願いってなんだ」
「今は言う時じゃないです」
「なんだそれ、意味が分からない」
 分からなくて良いんですよと、至は笑ってみせた。
 千景に叶えてもらいたい願いがある。
 だけどそれは、今ここで告げても叶わないものだ。笑われるのがオチで、解決にもならない。
「……なんだかよく分からないけど、茅ヶ崎がそれでいいなら」
「はい。じゃあ、この話はもうおしまいってことで。カレーじゃないお昼くらい、楽しく食べさせてくださいよ」
 呆れ気味に息を吐く至に、千景がようやくふっと笑ってくれる。そういう顔を見たかったんだと、胸をなで下ろした。



#千至 #片想い #セフレ #ウェブ再録 #右手に殺意を左手に祈りを

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千至WEB再録 2018.10.07

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 さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。 寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて…

千至WEB再録

右手に殺意を 左手に祈りを-006-


 さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。
 寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて朝食をとって、今日は電車で出勤してきた。
 座れないのもしんどかったが、この状態で車を運転する気力も、安全性もなかったのだ。
 そういえば、朝食も無理やり詰め込んだような状況で、若干消化不良ぎみ。
 時間が経つにつれて、体の痛みが増しているような気がした。腰と、肩と、足の付け根。
 今日は、どんな顔をして千景に逢えばいいのかと考えると、恋をしているにも関わらず、彼に逢いたくないなんて思ってしまう。
 ため息交じりにデスクに肘をつけば、袖口から手首が覗いてハッとする。慌てて手首を下ろしたのは、拘束された痕がついているからだ。
 右手首はどうにか時計で隠せたが、左がどうにもならなかった。場所的に、包帯を巻くわけにもいかない。余計な誤解を生んでしまう。リストバンドなど持っていないし、そもそもスーツには合わない。
 今日一日隠し通せれば土日の連休に入るし、気をつけていなければ。
 パソコンの電源をつけて、必要なファイルを開くも、少しも頭に入ってこない。このファイルで何をしなければいけないのだっけと、初っぱなから躓いた。
 数字が、文章が、混ざって頭の中に入り込んでくるようだった。
(思ったより……ショックだったのかな)
 最近、千景の触れてくる手が優しくなっていた中での、あの行為。
 優しさを、変に勘違いしたら駄目だと思っていたはずなのに、どこかで期待していたのだろうか。
 心臓が痛い。こんなことになるなら、気づかなければ良かった。
(恋とか、馬鹿みたいだし……先輩の中には、俺の居場所なんかない)
 至は髪をかき混ぜて、はあーと長く息を吐く。
 千景の中には、大事な人がいる。〝オーガスト〟という、八月の名を持った人。口にさえさせてくれない名を持つ人だ。
 その人以外は必要ないとでも言わんばかりの、千景の壁は、越えられない。触れることさえ許してくれない。
(……え、でも、待って……先輩昨夜、アイツを殺したお前が、とか言ってなかったっけ)
 あまり思い起こしたくないことだが、ふとあることに思い当たる。千景が口にした、〝ディセンバー〟という音。ディセンバーとやらに似た人が、劇団の写真の中にいたのだと推察するしかなかったが、それ以前に重要なことがあった。
(殺した……? ディセンバーが、もしかして、オーガストさん、を……?)
 さっと血の気が引いていく。
 殺した、殺された、という単語はひどく非日常的で、実感が湧かない。ゲームの中でならまだしも、至の日常にそんな危険な言葉は飛び交わない。
(オーガストさん、亡くなってる、の、か……?)
 そんな非日常の真実がどこに在るのかはさておき、ひとつ、大事なことがある。
 千景が、あんなにも悲痛な声でオーガストの名を呼んでいたのは、もう逢えない相手だからではないだろうか。
(だから、あんなに……)
 その仮定は、千景の昨夜の様子で確信に近づいていく。
 ディセンバーに似た誰かを見て、オーガストを亡くしたことを思い出してしまったのかもしれない。
 ディセンバーがオーガストを殺したというなら、憎くてたまらないだろう。
 どうして生きているんだと言っていたような気がする。オーガストがいないのに、どうしてのうのうと生きているのだと。
(……先輩……大丈夫かな……それに、もしかしたら、ディセンバーって人も、元は友達だったりしたんじゃないのか? だって、八月に十二月ってのがあだ名だとしたら、仲悪い人たちに似たようなのつけないだろ)
 至は、ぐ、と唇を噛んだ。ファイルを見るのは諦めて目を閉じ、千景を想う。
 胸が痛い。心臓を直に握られているかのように、痛い。
 これは至の推測にすぎないが、大切なオーガストが、大切にしていたかもしれないディセンバーに殺された――その絶望は、どんなものだろうか。
 オーガストの存在を知ったとき、なぜ千景の傍にいてくれないのかと思ったが、そんなに単純なものではなかったようだ。
 千景の孤独は、簡単には癒やせない。
 会社の後輩でしかない至では、ただのセフレでしかない至では、到底無理な話だ。千景の心に入り込めないのは最初から分かっていたが、願うことさえ難しいのかもしれない。
 千景が、幸福でありますように。
(祈るだけなら、簡単だよ……!)
 千景の心の傷をえぐるトリガーを引いたのは、自分なのかもしれないと思うと、心臓がズキズキと痛んだ。
 劇団に、ディセンバーに似た相手がいるなんて知らなかったし、オーガストがもういないのも知らなかったことだが、きっと千景を傷つけてしまったに違いない。
(顔……合わせづらいな……先輩、今日出張とかあればいいのに)
 先ほどとは違う理由で、千景に逢いたくないと思ってしまう。昨夜のことをなかったことにはできないのに、記憶をごっそり抜き取ってほしいなんて祈ってしまった。
「茅ヶ崎くん、顔色悪いけど大丈夫? 体調悪そう」
 隣のデスクから、同僚が声をかけてくれる。至はハッとして顔を上げ、笑顔を貼り付けた。
「あ、平気です、今日終われば休みだし」
「今日外出予定とかある? あ、ないのか、デスクワークならまだマシかもね。あんまり辛かったら課長に言って帰った方がいいよ」
「ありがとうございます」
 そうは言うものの仕事はたまっていく。月曜に持ち越したくないものばかりで、至は軽く拳を握ることで、意識を仕事モードに戻すことにした。




 そうして、なんとか昼休憩まで過ごしたわけだが、ランチをどうしようかと悩む。
 無理やり詰め込んだ朝食のせいか、空腹感はないし、食欲も湧かない。そもそも立つことさえ億劫なのだが、これを逃したら定時までキツいだろうと、体にムチをうって立ち上がった。
 ひとまずコンビニでも行って、適当にサンドイッチでも買おうとエレベーターの方へ向かう。そこで、聞きたかった、聞きたくない声がかけられた。
「茅ヶ崎」
 びく、と体が強張る。振り向かなくても分かる、卯木千景の声。
「お、はよ……ございます」
「ちょっと、こっち来て」
「え?」
 顔を合わせづらくて、視線を逸らしたままで千景に答えれば、腕を掴まれて非常階段の方へ歩かされる。
 肩の痛みはまだあって、腰の鈍痛や脚の付け根の違和感で、相当歩きづらかったのだが、人の波に逆らうように千景の後を追った。
 非常階段のドアを開けてすぐの踊り場で、ようやく腕を解放してもらえる。やっぱり昨夜のことを怒っているのかと、至は歯を食いしばった。
「あ、の……」
「これ、ホテルの洗面台に置き忘れてたぞ。コンタクト」
 何を言われるかと思えば、どうやら忘れ物を届けてくれたらしい。ワンデータイプの箱を、置き忘れてきていたようだ。
「あ、す、すみません……」
 至はそれを受け取って、ホッとした。気まずさはあるけれど、千景は概ね普段通りでいてくれる。
「……茅ヶ崎、ちょっと訊きたいんだけど」
「はい?」
「昨夜のこと、その……」
「あ、あの、すみません、俺、余計なことしたかもしれないですけど、できれば、忘れて、くれると……」
 やはり話題は昨夜のことになってしまって、早口でまくし立てた。
 忘れてほしいなんて言うのは、無責任だと分かっているが、言わずにはいられない。
 千景を傷つけただろうことを、自分自身も忘れてしまいたい。
「……茅ヶ崎? それ、忘れなきゃいけないようなことが……あったってことか?」
「え?」
「昨夜のこと、ほとんど覚えてなくて――」
 目を瞠る。
(な……に? 何言ってんの、先輩)
 記憶をごっそり抜き取ってほしい、と祈ったのは事実だが、千景が本当に何も覚えていないなんて。
 そういえば珍しく寝入っていたし、状況を考えれば、相当なショックがあったことは、理解ができる。
「なんだかひどく疲れてるみたいだけど、俺……そんなに無茶させたのか? 悪い、そんなふうにしたのに、覚えてないとか」
 千景から発せられる気まずさは、覚えていないことに対する後ろめたさだったようだ。
「だ、大丈夫です」
「でも、ふらふらしてるぞ。仕事、できてるか?」
「……はい……」
 至は次第に俯いていく。
 忘れてほしいと思ったものの、本当に全部忘れられてしまうのも寂しいなんて、身勝手なことを考えた。
(なにこれ……)
 傷ついたことは忘れてほしい。だけど、ひどい行為でも熱を分けたあの時間のことは、忘れてほしくなかったのだと気がついて、きゅっと唇を噛みしめる。
「しんどいなら、医務室へ」
「――千景さん、ちょっとだけ、寄りかかってもいいですか……」
「ああ」
 立っているのがそれほど辛いわけではなかった。だけど千景は、迷いもせずに抱き寄せてくれる。至は千景の肩に額を預け、ゆっくりと、小さく、息を吐き出した。
(忘れてるんだ、本当に……)
 千景と呼んでも、何ら変わった反応を見せなかった。昨夜「お前には許可してない」と言ったはずなのに、呼ばせてくれる。
(忘れよ……その方がいい。先輩が忘れたいなら、俺が覚えてたってしょうがない)
 オーガストという名も、ディセンバーという名も、心の奥底に閉じ込めておこう。
 至はそっと目蓋を閉じて、スーツ越しの体温を感じた。
「もう、大丈夫です。お昼ご飯の時間なくなっちゃいますから、行きますね」
 そうして千景の体を押しやり、にこりと笑ってみせる。
「茅ヶ崎」
 心配そうな顔をする千景を押しのけて、フロアに出るドアノブを握った。
 そのまま千景の傍を離れるつもりだったが、突然腕を掴まれて、叶わなくなる。
「……これなに、茅ヶ崎」
 千景が、至の手首を胸元まで引き上げる。引きつるような痛みに顔をしかめたが、もう隠す余裕がない。
「なんでこんなのついてるんだ」
 時計で隠せなかった左手首、時間が経って濃くなってきてしまった拘束の痕。
 うかつだったと後悔しても、もう遅い。千景が気づいてしまった。
「もしかして、俺が……?」
 千景は眉を寄せて、思い出せない昨夜の行為を思い出そうとしているようだ。
 至は掴まれた腕を振り払って、こんなのは何でもないとまっすぐに千景を睨(ね)めつける。
「覚えてないなら、別に構いませんよ。気にしないでください」
「そんなわけにはいかないだろう、おい茅ヶ崎!」
「俺が頼んだからとか、考えないんですか? 先輩にとって、楽しくはなかったんだろうなって思うだけですけど」
 千景に、思い出してほしくない。どうしてあんな乱暴な行為に至ったのか、認識してほしくない。
 こんな、いつか消えてしまう傷なんかより、千景の心につくだろう深い傷の方が耐えきれない。
「じゃあ、ホントに食いっぱぐれるんで、行きます。コンタクト、ありがとうございました」
 言って、まだ納得していなそうな千景を振り切る。階段のドアを閉めて、無理に足早に踏み込んだ。追いかけてこないところをみると、この傷のことを気にしてしまっているのだろうと推察できた。
(覚えてないなら……その方がいいのに。でも、もし思い出したら、先輩の傷に、俺でも少しは関われるのかな、とか……馬鹿みたい。みたいっつーか、馬鹿)
 オーガストのことを、ディセンバーとやらのことを考えるたびに、千景は傷を深くしているに違いない。もし昨夜のことを思い出したら、必然的に傷が深くなる。その原因に、自分が少しでも関われる。
 傷ついてほしくないと思う傍らで、その傷に触れていたいとも思う。相反したふたつの気持ち。
 至は再度エレベーターの方へ向かい、どうしたらこの気持ちが消えてくれるのかと、ぼんやり考えた。


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