No.437

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ふたりの約束-009-

カクテルキッス04 2019.08.04

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

 眠れるわけがないと思ったが、ふっと意識が浮上する。浮上するということは、落ちていたはずで、どれだけ…

カクテルキッス04

ふたりの約束-009-



 眠れるわけがないと思ったが、ふっと意識が浮上する。浮上するということは、落ちていたはずで、どれだけかは眠れたらしいと、至はベッドの上に体を起こした。
 ぼーっと、?がったもうひとつのベッドを見ると、遣われた形跡のない布団。ホテルか、と思うようなベッドメイクがなされたそこは、相変わらず生活感のない印象を与えた。
「帰ってこなかったんだな……」
 短く息を吐き、放っていた携帯端末で時刻を確認する。なんということだろう、目覚ましより一時間も早い。ここで二度寝をしたら、きっと会社に遅刻してしまう。
 至は仕方なくベッドを降りて、シャワーを浴びにいくことにした。ついでに溜まった洗濯物を持っていこうと、ゆっくりとした手つきで拾い上げる。
 散らかっているな、と拾い上げながら思う。シャツや靴下はもちろんのこと、ゴミ箱に入れ損ねたゴミや飲みかけのペットボトルが転がっている。
 足の踏み場はあるけれど、世辞にも綺麗だとは言えないこの部屋。
 どちらかというと潔癖そうな千景が、よくこの部屋で過ごしたものだと思う。片付けてはいたが、そうした傍から散らかっていくのを、呆れた眼差しで見つめていたことを思い出した。
「こんなだから、愛想尽かされたんだろうな……」
 今さら遅いけど、とゴミも一緒に片付ける。それだけで広くなった印象のある部屋を後にした。



「おはよ」
「おはようございま……って、え、至さん!? どうしたんですか!」
「至さんおはようございます、今日は早いんですね!」
 シャワーを終えてダイニングに向かえば、仲間たちがおはようを返してくれる。
 若干失礼な物言いのような気もしたが、いつもは割とギリギリまで起きてこないことを鑑みれば、それも致し方ない。
「あ、おはよう至くん。今日早いの? 俺も今日は客演先の稽古で早いんだよね」
 紬が、パンにマーガリンを塗りながら声をかけてくる。彼も割と朝が弱かったはずだが、芝居のこととなると違うらしい。
「うん、まあ、ちょっとね」
 目覚ましより早く起きた朝には、幸せが待っているなんて言うけれど、そんなものは嘘っぱちだ、と椅子を引いて座る。
 会社に行けば、同じフロアの千景と顔を合わせてしまうかもしれない。一日中デスクに座っていようかとさえ考えてしまう。
「パン焼きますか?」
「あ、ごめん、ちょっと……食欲ねーわ。サラダだけでいい」
 咲也が気を利かせて、パンの袋に手を伸ばしてくれる。だが至はそれをやんわりと断り、テーブル上のサラダボウルに手を伸ばす。皿にほんの少し取り分けて、ドレッシングを手に取った。
「え、食欲がないって、大丈夫なの? 仕事休めないのかな」
「あー、平気平気、ちょっと疲れてるだけ。ありがと紬」
 心配そうな顔を向けられて、居心地が悪い。無理にでも詰め込むべきだったかとも思うが、後で全部戻してしまいそうだ。
 昨夜から続く胃痛は、まだ治まらない。何も食べないのも良くないかと思ったのだが、サラダさえ食べるのが億劫だ。
 原因は分かっている。千景とのことだ。夢ではなかったのだと、シャワーをして頭も冴えた。
 千景にフラレたのだという事実を、どうにか受け入れなければならない。
 むしろ、想いが叶った数日の方が夢で、実際は何も起こっていなかったのではないかと思うほど、短い期間。咀嚼して飲み込んだはずのサラダが、至の思考と連動するように逆流してくる。
 受け入れたくない。
 そんな思いが、食べることを拒んだようで。
「……っ」
 至は席を立ち、水を汲んでゆっくり口に含む。そうして流し込むように、飲み込み直した。
(やべ……マジかよ)
 失恋したくらいで、こんなふうになってしまうなんて。そんなに重大なことだろうか。例えば、ゲームができなくなる方が至に取っては重大だ。
(振り出しに戻っただけだろ、先輩とは別れたけど、俺は先輩を……)
 そこまで考えて、はたとグラスを持った手を下ろす。
(……俺、このまま先輩のこと好きでいるの? しんどくない?)
 忘れてほしいとは言われたが、好きでいることもやめてほしいとは言われていない。
 千景の気持ちは離れてしまったが、至の気持ちはまだ千景に向かっている。叶わないと分かっている想いが。期待をする余地もない状態で、千景を好きでい続けることができるだろうか。
(いや、別に好きじゃなくなれば、それはそれでいいわけで。でも……なんでだろ、好きで、いたい……)
 いつか気持ちが薄れていけば、誰か他の人を愛して、千景ともただの劇団仲間になれる日がくるかもしれない。千景もそれを望んでいる。
 だけどどうしても、千景を好きでなくなる未来が見えてこない。
 それは意地でなく、盲目的な愛というわけでもなく、ただ傍にいたいという思いだけ。
「至さん大丈夫ですか? 薬出してきます?」
 なかなか戻ってこない至を心配して、咲也が声をかけてくる。至はハッとして振り向いた。テーブルの方からも、紬やいづみの心配そうな視線が感じられた。
「うん、そうだな……念のため飲んでおくよ。ごめん咲也、心配かけて」
「いえっ、お仕事忙しそうですし、あんまり無理しないでくださいね」
 咲也にありがとうと返して、常備薬の箱に手を伸ばす。気休めくらいにはなるだろうと、至は胃薬を飲んで、テーブルの食器を片付けた。
(普通にしてないと。心配かけるし、紬にはバレそうだしな。そんで万里にまでツーカーで伝わるだろ。あのお節介に知られたらマズイわ)
 はあ、と息を吐いて、出勤の支度をする。
(普通に、普通に。……どうやるんだっけ、普通って)
 千景と恋人同士でなかった頃、もっと言えばセフレになる前を思い出そうとするけれど、気分が沈むばかり。
「あ、至……おはよ……」
 玄関へ向かうと、密がドアを開けて入ってくる。至はぎくりと体を強張らせた。
「お、おはよう密。外行ってたの?」
「……庭で猫が鳴いてたから……見たら、怪我、してた。あとで病院連れてく」
「そうなんだ、気をつけてね。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい……」
 すれ違う瞬間、密の視線が突き刺さるような錯覚を味わう。
 万里にも紬にも悟られてはいけないけれど、密にも知られたくなかった。
(やっぱ落ち着かない……見透かされそうでホント怖い)
 密も、なんだかんだ言って千景のことを大切にしているのは知っている。そんな千景と、どれだけもしないうちに別れてしまったことを、責められそうで怖い。
 必然的に千景とのことを考えてしまって、崩れそうになる。
(どんだけ頑張ればいいかな……。別れたことはちゃんと話すべきだとは思うけど、まだ無理だわ……頑張るのしんどい)
 昨夜のことを思い出して、胸がズキズキと痛む。泣きそうになって、気がついてぶんぶん首を振る。
(無理、ここで泣いたら男が廃る。っつーか、……フラれた感が強くなって立ち直れん)
 今日は電車で行こうと、少し早めに寮を出た。いつまた胃痛で気を取られるか分からないし、この状態で運転するのは危ない。
 何より、いつも千景との通勤で使っていた車に、今は乗りたくない。どうしても思い出してしまう。
 優しかった千景。笑いかけてくれた千景。じゃあ茅ヶ崎帰りに、とネクタイのゆがみを直してくれた千景。
 駅までの道のりを歩きながらでさえ、思い起こされてくる。
(ハハ、結局過去のあの人に縋ってんじゃん俺。あれだって、憐れみだったかもしれないのに)
 現実を見なければ、と唇を引き結んで、チャージした交通系ICカードで電車に乗り込んだ。



#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス