- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
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ふたりの約束-010-
「あ、あのっ、茅ヶ崎さん!」
昼食に出ようと思ったところで、後ろから声をかけられる。緊張して変に上ずった声は、あまり心地のよいものではなかったが、至はにっこり笑顔の仮面をつけて振り向いた。
振り向いたそこには、〝何度か見たことはある〟程度の女性社員。どこの部署なのかも知らない。
「なにかな」
「あ、あの、私……この間ですね、あの、警察の方に事情聴取? ってヤツ、されちゃって」
警察? 事情聴取? と至は首を傾げた。
突飛な話題で、どう切り返すべきなのか分からない。至には心当たりが――
「以前、その、私の元カレが茅ヶ崎さんにご迷惑をかけたって聞いて」
「あ」
心当たりが、あった。
そういえば、以前彼女にプレゼントをもらったことを思い出した。顔もあまり覚えていなかった薄情な男に、恋心なんて抱かないでほしいと、彼女を可哀想にさえ思う。
そうしてハッとする。
(あ~こういうことか~。憐れみ、ねぇ……)
千景の言う憐れみは、こんな気持ちだっただろうか。もっとも、至は憐れみで誰かと交際を始めることはないけれど。
「すみませんすみません、一度警察の方に注意していただいてからは、なんていうかその……ストーカーみたいなことはなかったんですけど、まさか茅ヶ崎さんに怪我させるなんて」
「いや、大丈夫だよ、怪我って程のものじゃなかったし。かすり傷? 痕も残ってないから、気にしないで」
どうも、この彼女にストーカー行為を働いていた勘違い野郎に、一度襲われたことがある。ナイフを持って追いかけ回されたあの日。千景が〝仕事〟でセックスを途中放棄した日だ。
「でも、あの、お、お詫びに食事とか、そのっ……奢らせてほしいなって。ずっと声かけられなくて、お詫び遅くなってすみません……」
至は仮面の下でげんなりとした。詫びなど口実にすぎないのだろう。もっとも、彼女に詫びてもらう理由もないのだが。
そうして気がつく。ここ最近のまとわりつくような視線の主は彼女だったのかと。
(またストーカーの方かと思ったわ。ビビッて損した)
千景には何でもないように告げていたが、内心また巻き込まれたらと思うと恐ろしかったのだ。
「いや、本当に気にしないで。大丈夫だから」
「だけどそれじゃ私……っ」
「ごめんね、女の子と二人でご飯とか、恋人に怒られちゃうから」
至は申し訳なさそうな顔をして、平気で?をつく。あ、と彼女が口を押さえた。
「ごめんなさい、彼女が……」
「うん。気持ちだけもらっておくね。あと、ストーカーの対策とか、もう一度警察とか弁護士さんに相談した方がいいよ」
がっくりと肩を落とした女性に笑いかけ、至は再び歩き出す。
恋人に怒られる――なんて、自分で発した言葉に割とダメージを受けながら。
(あ~何が恋人だよ。今はフリーだろうがああぁあ)
とはいえ、好意を寄せてくる女性を撥ねのけるにはいちばん手っ取り早い。
昨日までいた恋人らしきものとは、あれから一切の言葉を交わしていないというのに。LIMEでさえだ。
エレベーターで自分の部署があるフロアまで上がり、どうしても通ってしまう千景の部署の前を、そそくさと通り抜ける。
見ないようにしていたのに、ちらりと千景のデスクを見やってしまったのは、癖だろう。
彼は、何でもないように書類に目を通していた。
ちゃんといた、とどこかホッとしてデスクにつく。
声がかけられない。勇気が出なくて、視線を向けられる前に逸らしてしまったけれど、胸はまだ高鳴る。
嫌いにはなれない。一方的に、身勝手に別れを告げられても、至の気持ちだけが続いていく。
ズキンズキンと痛む心臓を押さえ、周りに気づかれないように深呼吸を繰り返した。
(大丈夫、平気……しんどいけど、先輩がいなくなるとかなくて良かった)
自分とのことで気まずくなって、またあの時みたいに出て行かれたままだったらどうしようかと思っていた。
部屋では逢えなくても、少なくとも職場で、寮の共有スペースで、レッスン室で、逢える。それでいい。
ひとときだけでも夢を見られた。
(もともと深く関わるのなんか苦手だし、よりにもよってあの人だし。難攻不落って感じだったじゃん。一生続く片想いってだけだろ)
最後に大きく息を吐き出して、仕事に取りかかった。
時計の針が、もう少しで退社時刻を指す。だが思ったように進まなかった仕事は、定時で抜け出せる状態ではなかった。
今日は春組の稽古はないし、仲間に迷惑をかけることはないだろうと至は思うが、正直言って自分の心と体には大迷惑だ。
(あァ? ふざけんなクソが!)
さらに、タイミング悪く新規の案件がメールで届く。思わず舌を打って、冷や汗をかいた。幸い周りの誰にも聞こえていなかったようだが、やはり猫をかぶるのも楽ではない。
以前はそれでも平気だったのだ。家以外で本性をさらけ出すことがなかったから、猫かぶりも板についた状態だった。
だが今は、居心地の良すぎる寮がある。本性をさらけ出しても、彼らは何も咎めない。本性をさらけ出している時間が長くなったせいなのか、ときおりこうして顔を出してしまうのだ。
猫を被ることに、あまり意識をやれないのが、原因のひとつでもある。
いつ千景と接触するか分からない。
接触した時に、普通にしていなければと思う気持ちが大きくて、神経をすり減らしているのだろう。自分でも無意識のうちにだ。
昼食も喉を通る気配がなくて、せっかく買った惣菜パンが、デスクの隅でしょんぼりしている。空腹は感じているが、どうにも胃が受け付けてくれなそうなのだ。
寮に戻ったら誰かにあげようと至は息を吐く。育ち盛りの太一や、こういうものになじみのなさそうな天馬あたりなら、喜んでもらってくれるだろう。駄目なら万里に押しつけてやろうとさえ。
(思ったより堪えてんのな……乙女か)
そんなことを思っているうちに、退社していい時刻が過ぎる。周りのデスクもぽつぽつと空き始め、羨ましく思った。
優先度の高い仕事から順に片付けていこうと思うが、手が度々止まる。
どうしても、千景のことが気になってしまう。
腰を上げて千景のデスクの方を見やれば、彼の姿はなかった。ホッとしたような、寂しいような。
結局今日は一度も言葉を交わしていない。同じ職場、同じフロアにいながらだ。昼食の誘いも来ず、行けもせず、視線も交わしていない。
突然の別ればかりか、徹底的な拒絶とも思える。
キリキリと胃が痛んだ。
居心地の良かった寮に帰れば、千景がいるだろうか。それとも自分を避けて、アジトの方に行っているだろうか。
(帰りづらいわ……)
このまま目一杯まで残業をして帰ろう。千景に憐れみの目を向けられるのも、これ以上拒絶されるのも怖い。ちょうど本当に仕事も溜まっているしと、至は今日のタスクを更新した。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
ふたりの約束-009-
眠れるわけがないと思ったが、ふっと意識が浮上する。浮上するということは、落ちていたはずで、どれだけかは眠れたらしいと、至はベッドの上に体を起こした。
ぼーっと、?がったもうひとつのベッドを見ると、遣われた形跡のない布団。ホテルか、と思うようなベッドメイクがなされたそこは、相変わらず生活感のない印象を与えた。
「帰ってこなかったんだな……」
短く息を吐き、放っていた携帯端末で時刻を確認する。なんということだろう、目覚ましより一時間も早い。ここで二度寝をしたら、きっと会社に遅刻してしまう。
至は仕方なくベッドを降りて、シャワーを浴びにいくことにした。ついでに溜まった洗濯物を持っていこうと、ゆっくりとした手つきで拾い上げる。
散らかっているな、と拾い上げながら思う。シャツや靴下はもちろんのこと、ゴミ箱に入れ損ねたゴミや飲みかけのペットボトルが転がっている。
足の踏み場はあるけれど、世辞にも綺麗だとは言えないこの部屋。
どちらかというと潔癖そうな千景が、よくこの部屋で過ごしたものだと思う。片付けてはいたが、そうした傍から散らかっていくのを、呆れた眼差しで見つめていたことを思い出した。
「こんなだから、愛想尽かされたんだろうな……」
今さら遅いけど、とゴミも一緒に片付ける。それだけで広くなった印象のある部屋を後にした。
「おはよ」
「おはようございま……って、え、至さん!? どうしたんですか!」
「至さんおはようございます、今日は早いんですね!」
シャワーを終えてダイニングに向かえば、仲間たちがおはようを返してくれる。
若干失礼な物言いのような気もしたが、いつもは割とギリギリまで起きてこないことを鑑みれば、それも致し方ない。
「あ、おはよう至くん。今日早いの? 俺も今日は客演先の稽古で早いんだよね」
紬が、パンにマーガリンを塗りながら声をかけてくる。彼も割と朝が弱かったはずだが、芝居のこととなると違うらしい。
「うん、まあ、ちょっとね」
目覚ましより早く起きた朝には、幸せが待っているなんて言うけれど、そんなものは嘘っぱちだ、と椅子を引いて座る。
会社に行けば、同じフロアの千景と顔を合わせてしまうかもしれない。一日中デスクに座っていようかとさえ考えてしまう。
「パン焼きますか?」
「あ、ごめん、ちょっと……食欲ねーわ。サラダだけでいい」
咲也が気を利かせて、パンの袋に手を伸ばしてくれる。だが至はそれをやんわりと断り、テーブル上のサラダボウルに手を伸ばす。皿にほんの少し取り分けて、ドレッシングを手に取った。
「え、食欲がないって、大丈夫なの? 仕事休めないのかな」
「あー、平気平気、ちょっと疲れてるだけ。ありがと紬」
心配そうな顔を向けられて、居心地が悪い。無理にでも詰め込むべきだったかとも思うが、後で全部戻してしまいそうだ。
昨夜から続く胃痛は、まだ治まらない。何も食べないのも良くないかと思ったのだが、サラダさえ食べるのが億劫だ。
原因は分かっている。千景とのことだ。夢ではなかったのだと、シャワーをして頭も冴えた。
千景にフラレたのだという事実を、どうにか受け入れなければならない。
むしろ、想いが叶った数日の方が夢で、実際は何も起こっていなかったのではないかと思うほど、短い期間。咀嚼して飲み込んだはずのサラダが、至の思考と連動するように逆流してくる。
受け入れたくない。
そんな思いが、食べることを拒んだようで。
「……っ」
至は席を立ち、水を汲んでゆっくり口に含む。そうして流し込むように、飲み込み直した。
(やべ……マジかよ)
失恋したくらいで、こんなふうになってしまうなんて。そんなに重大なことだろうか。例えば、ゲームができなくなる方が至に取っては重大だ。
(振り出しに戻っただけだろ、先輩とは別れたけど、俺は先輩を……)
そこまで考えて、はたとグラスを持った手を下ろす。
(……俺、このまま先輩のこと好きでいるの? しんどくない?)
忘れてほしいとは言われたが、好きでいることもやめてほしいとは言われていない。
千景の気持ちは離れてしまったが、至の気持ちはまだ千景に向かっている。叶わないと分かっている想いが。期待をする余地もない状態で、千景を好きでい続けることができるだろうか。
(いや、別に好きじゃなくなれば、それはそれでいいわけで。でも……なんでだろ、好きで、いたい……)
いつか気持ちが薄れていけば、誰か他の人を愛して、千景ともただの劇団仲間になれる日がくるかもしれない。千景もそれを望んでいる。
だけどどうしても、千景を好きでなくなる未来が見えてこない。
それは意地でなく、盲目的な愛というわけでもなく、ただ傍にいたいという思いだけ。
「至さん大丈夫ですか? 薬出してきます?」
なかなか戻ってこない至を心配して、咲也が声をかけてくる。至はハッとして振り向いた。テーブルの方からも、紬やいづみの心配そうな視線が感じられた。
「うん、そうだな……念のため飲んでおくよ。ごめん咲也、心配かけて」
「いえっ、お仕事忙しそうですし、あんまり無理しないでくださいね」
咲也にありがとうと返して、常備薬の箱に手を伸ばす。気休めくらいにはなるだろうと、至は胃薬を飲んで、テーブルの食器を片付けた。
(普通にしてないと。心配かけるし、紬にはバレそうだしな。そんで万里にまでツーカーで伝わるだろ。あのお節介に知られたらマズイわ)
はあ、と息を吐いて、出勤の支度をする。
(普通に、普通に。……どうやるんだっけ、普通って)
千景と恋人同士でなかった頃、もっと言えばセフレになる前を思い出そうとするけれど、気分が沈むばかり。
「あ、至……おはよ……」
玄関へ向かうと、密がドアを開けて入ってくる。至はぎくりと体を強張らせた。
「お、おはよう密。外行ってたの?」
「……庭で猫が鳴いてたから……見たら、怪我、してた。あとで病院連れてく」
「そうなんだ、気をつけてね。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい……」
すれ違う瞬間、密の視線が突き刺さるような錯覚を味わう。
万里にも紬にも悟られてはいけないけれど、密にも知られたくなかった。
(やっぱ落ち着かない……見透かされそうでホント怖い)
密も、なんだかんだ言って千景のことを大切にしているのは知っている。そんな千景と、どれだけもしないうちに別れてしまったことを、責められそうで怖い。
必然的に千景とのことを考えてしまって、崩れそうになる。
(どんだけ頑張ればいいかな……。別れたことはちゃんと話すべきだとは思うけど、まだ無理だわ……頑張るのしんどい)
昨夜のことを思い出して、胸がズキズキと痛む。泣きそうになって、気がついてぶんぶん首を振る。
(無理、ここで泣いたら男が廃る。っつーか、……フラれた感が強くなって立ち直れん)
今日は電車で行こうと、少し早めに寮を出た。いつまた胃痛で気を取られるか分からないし、この状態で運転するのは危ない。
何より、いつも千景との通勤で使っていた車に、今は乗りたくない。どうしても思い出してしまう。
優しかった千景。笑いかけてくれた千景。じゃあ茅ヶ崎帰りに、とネクタイのゆがみを直してくれた千景。
駅までの道のりを歩きながらでさえ、思い起こされてくる。
(ハハ、結局過去のあの人に縋ってんじゃん俺。あれだって、憐れみだったかもしれないのに)
現実を見なければ、と唇を引き結んで、チャージした交通系ICカードで電車に乗り込んだ。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-008-
「おっ、千景さんおかえりっす。邪魔してるぜ」
「お、おかえりなさい先輩。おつです」
どうしても声が上ずってしまって、至は項垂れて顔を覆う。おかえりなさいと出迎えるのがどうしてこんなに照れくさいのか。
それを見て腹を抱えて笑う万里の背中に、蹴りを入れてやった。
「ただいま」
ややあって、千景の口から小さく呟かれる音。至は、少し違和感を覚えた。千景の声は、呆れ百パーセントのように思えたが、その中にわずかに疲労が感じられて。
やはり裏の仕事だったのだろうかと瞬けば、千景と目が合って、逸らされた。後ろ暗いことがあるのか、千景は眼鏡のブリッジを押し上げる。
深く訊くつもりはないのだから、いつも通りにしていてくれればいいのにと、至はソファの上で体を起こした。
「じゃあ、俺戻るわ。邪魔しちゃ悪いし」
「はっ? ば、馬鹿かお前、いいのに」
「んなわけにいくかよ。じゃ、おやすみ~」
そうやって万里が部屋を出ていってしまって、千景と二人きりになってしまう。二人でいる時間が増えるのは嬉しいのだが、なんだか居たたまれない。
「き、気を遣わせちゃってますね。別にいいからって、アイツに言っておきます」
「……ああ」
千景が、疲れた様子で隣に腰を下ろす。
そういえば、入団当初はこのソファに座ることさえなかったのになと、部屋の片隅に置かれた白いチェアに視線をやった。そもそもこの部屋で過ごすことさえなくて、分厚い壁を感じていた。
それが、今は、隣に座ってくれている。
確実に距離は縮まっていて、嬉しい反面落ち着かない。本当に、今までどうやって千景の傍で過ごしてきていたのか、分からなくなった。
必要のない力が体に入って、変に強張らせる。カチンコチンとまではいかずとも、ぎこちないのは自覚していた。万里が変に気を遣うから、余計に緊張してしまう。明日は文句を言ってやろうと、小さく拳を握りしめた。
「茅ヶ崎」
「はひっ?」
呼ばれて、声が上ずる。
変な声を上げてしまったと?を染めて振り向いたが、千景の顔は背けられていて、自分一人が浮かれているのかと羞恥が襲ってきた。
「……」
「あ、あの……? なんです? まさか〝呼んだだけ〟なんて甘いこと言わないですよね? キャラじゃないわ」
だが、呼んだにも関わらず、千景からはそのあと何も言われない。顔を背けたまま、呼吸だけしているように思えた。
至は、おかしなことに気づく。いつもなら、愛機を足の上に乗せてネット住民になっているのに、今日はそれがない。
かといってイチャイチャしたいという雰囲気でもない。そもそも、寮内ではそういうことをしない約束をしているのだから、それは別に構わないのだが、先ほどから千景の様子がおかしい。
(先輩、どうしたんだろ……)
千景の心の中など読めやしない。何かあったのだろうことは分かるが、それは踏み込んでもいいことなのか。聞いてほしいことがあるのなら、千景は?を交えた真実を告げてくる。それもない。
促すために、千景のジャケットをツンッと引っ張ってみる。それを振り払うように千景はソファから立ち上がり、至に背中を向けた。
「先輩?」
途端に不安が襲ってくる。心臓が嫌な音を立てて、振り払われた手には汗が浮かんだ。
「なあ茅ヶ崎」
千景は振り向かないままで、声だけ投げてくる。硬くて冷たい声で、振り向かない背中で、拒絶されているように思えた。
そしてそれは、
「……別れよう」
最悪の形で音になって至の耳を支配した。
「…………――え?」
何を言われたのか分からない。至は、たった今耳に届いた音を、ひとつひとつ反芻した。
「わ、か……、れ、……って、え、なにそれ、待って、何でですか!?」
思わずソファから腰を上げる。千景の背中に混乱をぶつけ、何故突然そんなことを言い出したのか問いただした。
「なんで、こんないきなりっ……俺、先輩の気に障ること何かしました!?」
別れよう、と千景は言ったのだ。いくらなんでも突然過ぎる。気持ちが冷めていたり、倦怠期でも挟んでいれば、まだ納得できたかもしれない。
だけど、冷める余裕なんてない。倦怠期を挟む暇すらなかった。
踏み越えてはいけないラインを、知らずに踏み越えてしまったのだろうか。これ以上はダメだという千景からのサインを、うっかり見逃していたのだとしたら。
「し、仕事で何かあっ……、すみ、ま、せん、こんなこと訊くつもりじゃなくて、あの、えっと」
裏の仕事で何かあったのかもしれないと思い、訊ねかけて口を噤んだ。
たった今、踏み越えてはいけないラインを越えたのかという考えが、頭をよぎったばかりだというのに。
「どうして、突然」
「……お前が悪いわけじゃない。ただ、俺が、……――飽きた、だけだ」
掴んだ手をやんわりと外して、千景はゆっくりと言い放つ。
冷水を浴びせられたような気がする。ようやく振り向いてくれた瞳が、?を含んでいるのか、探ることさえできなかった。
「飽き、た……って、なにそれ……」
ガンガンと頭が痛む。右から左から、鈍器で殴られてでもいるようだった。
目の前がチカチカするけれど、セックスで達した時とはまるで違う。衝撃は似たようなものだが、不愉快で仕方がない。
「飽きたってなんですか! なにそれ、ほんと、マジで言ってるんですか!? この間だってあんな、……俺にあんなことしたくせにっ……!」
飽きるほど一緒にいただろうか。体の関係だけは長いせいで、若干マンネリ化していたかもしれない。だけど数日前、翌日に響くほどの行為をしたのを覚えている。飽きたというなら、あれは何だったのか。
「お前に欲情はするよ。ただ、たぶんそれは愛情じゃない。恋情でもない。ただの性欲だ」
「だったらセフレに戻ったっていいじゃないですか!」
「お前はそれに耐えられるのか? 一度でも俺と心が通ったと錯覚した状態で、愛情の欠片もないセックスをして、イけるわけないだろう」
「錯覚……って、な、なかったことにするつもりじゃ、ない、ですよね」
愕然とした。心は確かに通い合ったと思っていたのに。体で?がってきた分以上に、これから心も通わせられると思っていたのに。
「茅ヶ崎は知らないだろうけど、戦闘後とかミッション完了したあとって、そういう意味で興奮してるんだよ。ザフラでのあれは、それに流されただけってこと。それに気づかずに浮かれてるお前が、憐れに思えてきてね」
何かを成し遂げた後は、気分が高揚するのは理解ができる。ザフラの夜は至にとっては非日常で、興奮だってしていた。
だけど、告げた想いは本物だ。受け入れてもらえるなんて、抱きしめられたあの瞬間まで考えていなかった。
「錯覚だって言うなら、最初から突き放せよ、クソが……っ!」
あの時の温もりも、震えていた声も、まっすぐ見つめてくれた瞳も、全部が〝興奮のせい〟だったと言うのか。それならいっそ、あの時突き放してほしかった。
「サイ、アク……最低、先輩がそんな人だなんて思わなかった」
「俺の本質を見極められなかった、お前の落ち度でもあるだろ」
「俺のせいにすんのかよ、このペテン師!」
「褒め言葉かな」
罵っても、にらみつけても、千景の瞳は揺らがない。本当に、別れるつもりなのだと至の声が詰まった。
「茅ヶ崎、俺とのことはもう」
「なんで、ですか……だって、あの時」
「……茅ヶ崎」
小さく、ふるふると首を振る。
飽きた、性欲だけだった、憐れだから、なんて、そんなもので納得なんかできやしない。
想いが錯覚でもなんでも、千景はあの時確かに言ったのだ。
「俺のこと愛してるって言っ――……」
「茅ヶ崎!」
言うか言わないかのうちに、千景の両手で?を掴まれ、乱暴に唇が塞がれる。思わず目を閉じてしまったのは、反射的なものもあったし、慣れもあった。
「んっ、う、う……!」
千景の熱い舌が入り込んでくる。至の舌はすぐに搦め捕られて、呼吸さえ奪われた。舌の裏を、表を、脇を舐ねぶられて、自身の舌先で上顎を愛撫するはめになってしまう。
「っは、あ……んぅ、ん」
は、と千景の吐息が耳に届く。ちゅ、ちゅうと小さな水音が聞こえる。衣擦れがくすぐったい。
もしかして、千景の悪戯なのではないだろうか。
それにしたってタチが悪いが、まだこんなキスをしてくれるのに。至は腕を持ち上げて、千景の背中に回そうとした。
「あっ……ふ」
それを察知したのか、一度吸い上げてから体が押しやられる。乱れた呼吸を整える余裕がない。千景が、濡れた唇を親指でグイと拭うのを見てしまったせいで。
「悪い茅ヶ崎。俺とのことは、忘れてほしい」
その顔が、苦痛そうに歪む。そうしてそのまま、千景は部屋を出ていってしまった。
パタンと閉まったドアを眺め、至は茫然と佇む。何が起こっているのか、頭が認識してくれない。
右を見て、左を見て、この部屋に一人きりだということは把握した。ゆっくり、ゆっくりと振り返り、そっとソファに腰を下ろした。
「フラレ、た、のか……」
千景は部屋を出ていった。別れた男となんか一緒にいられないということだろう。唇を拭うほど、苦痛そうに顔を歪めるほど嫌だったキスで至を黙らせて、愛してるの言葉も聞いてくれないまま、一方的に別れを告げていった。
たった十日ほど。
両手の指で足りるくらいしか、千景と恋人同士でいられなかった。
至はぼんやりと一〇三号室の天井を見上げ、ゆっくりと深呼吸をした。
きっと夢だったのだ。それでなければ、彼が言うように憐れみでしかなかったに違いない。
ルームメイトの想いを無碍にできなかっただけなのだろう。無碍にしてもらった方が良かったが、ひとときでも、浮かれた気分でいられた。
「………………もう、寝よ」
髪をくしゃくしゃとかき混ぜて、ロフトベッドを見上げる。さすがにゲームをする気分にもなれなかった。
ズキンズキンと痛む心臓を押さえて、なんとか着替えを終え、動きの鈍い手足でどうにか梯子を登った。倒れ込むようにしてベッドに寝転がれば、先ほど見上げた天井がもっと近くに見える。
至が千景と恋人同士でいようが、憐れみの目を向けて別れを告げられようが、この天井は変わらない。きっと千景の態度は、初めて肌を合わせたあの日以前と変わらなくなるはずだ。
この部屋で眠るかどうかは分からない。いや、きっと帰ってこないのだろうと、一度だけ行ったことのある彼のアジトのことを思い浮かべた。今もそこに向かっているに違いない。
「遠い、なぁ……無理、歩けない、もうこのベッドから降りられないかもしんない」
あんまりだ、と抗議しに行こうかと思ったが、その気力が湧いてこない。抗議したって、千景の気持ちは変わらないのだろうから、行くだけ無駄である。
そもそもが何を考えているか分からない男なのに、真意を確かめに危険を冒してまであそこへは行けない。
「やっぱ、俺じゃ、無理かぁ……」
息を吸って、吐く。千景を引き留めるだけの力はない。これ以上傷つく勇気もなくて、腹の上で拳を握る。
いつだか、密に言われた。彼の傍にいるつもりなら覚悟が必要だと。それはこういったことも含まれていたのだろうか。
お互いコミュニケーションが苦手なのは分かっているが、どうしたらいいのか分からない。一方的な別れに納得は当然いかないが、受け入れるしかない。すがりついてまで引き留められない。
(俺にだってメンツってもんがあるし、人並みにプライドもあるしね。……カッコつけておきたい時がある)
なりふり構わずに千景にすがりついて、体だけ引き留めたってしょうがない。千景の体だけが欲しいのではない。心も、全部欲しい。
〝忘れてほしい〟と言ったあの男が、すがりついたくらいで意志を変えてくれるわけもない。
まだ、千景の声がこだまする。
忘れてほしい。忘れてほしい。忘れてほしい。
ごろりと寝返りを打って、ぐぎゅうと締めつけられるような痛みを擁する胃を押さえる。
勝手な男だ、と歯を食いしばった。
忘れてほしいと言いながら、あんなキスをしていくなんて。まるで恋人同士みたいな熱いキス。
「……すれ、られるわけ、ないだろ、クソがッ……!」
ギリギリと痛む胃を抱え込むようにして、至は強く目をつむった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-007-
携帯端末の画面をタップして、至はゲーム画面を閉じた。これで今日のデイリーは全部回収したはずだ。
「はああぁあぁぁぁ~~」
「すっげえため息」
ごろりとソファに寝転がると、自然と息が漏れてくる。座部を背もたれにして床に座っていた万里が、その大きなため息を聞いて顔だけで振り向いてきた。至はクッションを抱きかかえて、携帯端末を手放す。
「至さんどうしたんすか。今日はあんまりノらねーカンジ?」
「いや、ちょっと心臓が忙しい」
「把握」
「把握すんな。っていうか、俺ヤバくね? LIMEひとつでこんなに浮かれてんの。しかもリアタイじゃないヤツな」
手放したはずの端末を再び手探りで持ち上げて、LIMEを立ち上げる。昼間のトークが残っていた。もちろん千景とのだ。
他愛のない、昼食の誘い。それは以前もあったはずで、別段変わりないように見える。それなのに、メッセージのひとつひとつが嬉しくなってしまう。
「だいぶ重症だなアンタ。初恋? なんだっけ?」
訳知り顔の万里が、面白そうに訊ねてくる。視線は端末画面に固定したままだ。確かに万里の言う通り、これは初めてと言っていい恋だ。
今までも、もしかしたら恋らしきものを経験したかもしれないが、明確に恋だと認識できるのは、これが初めて。
「何か自分が馬鹿になったみたいで悔しい。両想いじゃなかったら、まだ抑えてられたのに、全然ダメ」
「いいんじゃないすか。まだ付き合ってあんま経ってねーだろ。半月くれぇ?」
「十日です。だってなんかさ、先輩の声っていうか、顔っていうか、仕種っていうか、もうそういうのが全部甘ったるいんだよ。ナニコレ。世の中の、こ、恋人同士って毎日こんな思いしてんの?」
恋人という単語に、まだ言葉が詰まる。それに気がついて、万里が噴き出した。「小学生かよ」と。できれば中学生あたりまで上げてほしいとは思うが、どれだけも変わらない。
「付き合い始めはそうかもな。でも、分かるっすよ、LIMEのメッセひとつでも嬉しいって思うのは。俺だっていまだに顔が緩む」
「ものすごいのろけを食らった」
「いやアンタのが先だわ」
はあ、とため息をつくけれど、憂鬱なものではない。肩の力が抜けていく。
正直、こんなふうに話せるとは思っていなかった。恋が叶ったからということもあるが、まだあまり一般的でない想いを、ゲームやおやつを楽しむかのように会話にできるなんて。
「いつになったら慣れるんだろコレ。先輩ここ数日LIMEの量が増えたっつーか」
「へぇ。なんにしても意外だな、千景さんがそんなに恋愛方面にハマり込むなんてよ。だいぶなくなったけど、なんか一線引いてる感じあるだろ、俺らにも」
「それな。だからギャップっていうか、この甘やかし状態に心臓が忙しいんだっつってんだろ」
昼食時には必ず誘ってくれる。
通勤時にも運転をしてくれる。
残業をしたって待っていてくれる。
一緒にいる時間が増えるのは純粋に嬉しくて、車内で二人っきりの時には、恋人らしい会話も交わされる。
世の恋人たちは、こんなふうに過ごしているのか。
恥ずかしくも照れくさくもあり、あまり気の利いたことができていないのも確かだが。
「で、千景さんは? 今日も一緒に帰ってきたよな」
「え? ああ、ちょっと出掛けてる。ここ数日、夜はそんな感じ。たぶん、ここじゃ騒がしくて片付けられない仕事片しに行ってんだろ」
「ふーん。浮気とか心配しねーんだ」
「それはない。だってあんな、…………なんでもない、今のナシ」
思わずガバリと起き上がって抗議しかけたが、とんでもないことを口走りそうになってまた寝転がる。
浮気だのなんだの、考えたこともなかった。
浮かれていて意識の片隅にもなかったのが本音だが、あんなに激しく愛してくれておきながら、他の男に目が行くとは思えないのだ。
(それに、たぶん……ここ数日いないのって、向こうの仕事だろうなって思うんだよね。邪魔するわけにはいかないじゃん。劇団が関わってない限り、俺は部外者だし)
この一〇三号室に着くまでは、千景はいつもと変わりない表情でいる。
だけど「少し出掛けてくる」と言って踵を返す彼は、表情が硬い。
ほんのわずかの変化かもしれないが、傍で見てきた至には分かる。声に、若干の焦りが感じられるのも。
(危ないヤツじゃないといいんだけど。……心配くらいはいいよな、したって。あ、怪我とかしてたらどうしよう、俺手当てとか分かんないわ、……って、あの人が怪我した状態でこっち帰ってくるわけねーか)
抱えたクッションに顔を埋めて、改めて自分のスキルの低さを実感した。
エリート面はしていても、普段の生活の中で至は実はそうスキルの高い方ではない。
料理はからっきしだし、掃除も駄目だし、洗濯も面倒くさい。
ゲームだけして生きていければいいなんて思っていた弊害が、ここにきて出てきてしまった。怪我の手当てなんかやり方が分からない。傷口に触れさせてももらえなかったのだ。
組織の仕事に関わらせたくないのは分かっているが、何かあった時にくらい力になりたい。千景にはそんなこと言えやしないけど。
「至さん?」
「……なあ万里、お前さ。紬の力になりたいって思ったことある?」
相談相手がいてくれることを、本当にありがたく思う。初めてのことばかりで、どうしたらいいのか分からない。こんなことを思っていていいのか分からない。
他の人はどうなのだろうと、至は万里を振り向いた。
「紬さんの? あー……あるっちゃあるけど、あの人ほんとに芝居馬鹿だから、どうしてもそっち方面になるんだよな。エチュードとか、脚本ほん読みとかな。結果として俺の技術も上がってくから、ありがてーっすよ」
「そっか……万里と紬は、カフェ巡りって趣味も合うしな」
彼らも、そうなるまでには時間がかかっただろう。自分たちは体の関係だけ長くて、心を通わせ合ってまだ日が浅いだけだ。
きっといつか、並の恋人同士のようになれる。千景が好きだという気持ちがあれば、きっと、いつか。
「アンタも、千景さんの力になりたいとか思ってんの?」
「そりゃな。助けたいってことはあるけど、あの人チートすぎて俺の手なんかイラネってハナシ。……なんで俺のこと好きになってくれたんだか、分かんない」
「そういうの、紬さんも思ってんのかな」
「あ?」
「ほら、俺も割となんでもできっから」
「自慢おつ。でも紬の場合ほら、それこそ芝居のキャリアは万里よりあるわけだし、そういうとこで力にはなれるだろ。俺の場合、本当になにもできないんだよ。趣味も合わないし食べ物の好みだって合わない。合うのは体の相性くらいかな」
千景の気持ちを疑っているわけではない。疑ってしまうのは、彼に好きでいてもらっている〝自分〟だ。
何が彼の琴線に触れたのだろう。同性相手のセックスは千景が初めてで、技術も何もあったもんじゃない。
踏み込み過ぎないという、弁え方が気に入ったのだろうか。だったらそれは買いかぶりだ。他人と関わるのが苦手だっただけだし、踏み込む勇気がないだけだ。
踏み込んで、千景を困らせたくない。積極的に踏み込みたいかと問われればノーと返すし、千景との距離感が分からなくなった。
「セフレだった時は、こんなこと思わなかったのにな。手を放しても、放されても、すぐ立ち直れるように壁作ってたんだと思う」
「……両想いになったら、タガが外れちまったってことかよ?」
「たぶん。今までどうやって隣にいたんだっけ、って考えないと普通にしてらんないの、ヤバいわ。その内バレそうで怖い」
千景とのことは秘密の約束だ。目一杯考えて、気をつけて、神経を張り詰めていないと、すぐふにゃふにゃになってしまう。それでも職場では、もともと被っていた猫のおかげで随分楽なのだ。切り替えスイッチがあるらしい。
「そのうち慣れるだろ。紬さんも最初そうだったぜ。〝万里くんごめんねちょっと待って心臓落ち着けるから〟ってしゃがみ込むの、すげー可愛かったけど。今じゃあのニコニコ顔で俺を煽ってくるんすから」
「ぶはっ、紬の手のひらの上で転がされてんじゃんお前」
「アンタも頑張って千景さん転がせば?」
「無理だろ、いや可愛いけど。……可愛いな? 先輩が照れるとことか見てみたい」
あの千景を操ることなんてできそうにないけれど、想像するのは楽しい。
これからもっと楽しいことが増えていくのだと思うと、嬉しくてしょうがなかった。
「まだ始まって間もねえんだし、ゆっくり行けば? 相談とかは乗るけど、のろけは勘弁な」
「いやお前も大概のろけすごいぞ。……いちばんのろけ激しいのは紬だけどね」
「あーあれは無意識っつーか……だから余計にタチ悪いっつーか……」
「それな。万里、顔真っ赤」
「うっせぇ」
耳まで赤くなっているような気がする、貴重なゲーム仲間をからかう。
彼らのように自然な風が流れる間柄になれるまで、どれだけかかるかなと、至は少し息を吐いた。
その時、小さなノックのあとに部屋のドアが開かれる。二人でそろって振り向けば、渦中の人物の姿があった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-006-
キィを叩く音と冷蔵庫の音だけが響く、生活感のあまりない部屋。コンクリート打ち出しのままの壁は寒さを感じさせるけれど、今の千景にはそれ以上の悪寒を感じさせるものがあった。
愛機のキィを押して、千景はチッと舌を打つ。この作戦でも駄目だと。
ここ数日でいくつもシミュレートしたのに、成功するものがひとつもない。
「くそっ……」
焦りが生まれ始めているのには、自身でも気がついていた。
苛立ちがじわじわとわき上がってくるのを、ミネラルウォーターを飲むことでどうにかやり過ごしていたが、それももう効かなくなってきている。
千景は愛機をつけたままソファにごろりと寝転がり、ぎり、と歯を食いしばった。
「どうすれば……」
どうすれば、茅ヶ崎至を守り抜けるのか。
千景にとって大切な存在になってしまった以上、避けられない問題だ。
外にはもちろん、内にも敵はいる。むしろ、内の方が多いかもしれない。エイプリルという男を知っているからこそ厄介だ。
(四六時中一緒にいられるわけじゃない。あの寮には一応侵入者の検知システムつけてるし、会社でもめったなことにはならないだろう。いや、でも茅ヶ崎の感じていた視線が、組織のヤツらのものなら、会社だって危険だ)
敵の弱みにつけ込むのは、常套手段だ。実際千景――いや、エイプリルだって、何度もそうして命じられた〝敵〟を排除してきた。金銭、色事、暴力。時には殺人という罪を犯してもだ。
寝転んだまま、両手を翳す。こんな手で触れるべきではなかったと、後悔してももう遅い。
一度知ってしまった温もりを、感情を、なかったことにはできない。したくない。させたくない。
「茅ヶ崎……」
軽く握りしめた拳で目元を覆えば、浮かんでくるのは至の姿。
眠そうな顔だったり、ちょんまげ姿で夢中になってゲームをしていたり、よそ行きの顔で笑っていたり、真剣な顔で脚本を読んでいたり。心地よさそうに身をすり寄せてくる無防備さは、今は胸に苦しい。
(どうする……アイツを守るには、何をしたらいいんだ。密には頼めない。部下に頼むか? いや、私事で使ったりしたら、絶対にバレる。金をどれだけ積んだって、信用なんかできるか。やっぱり茅ヶ崎を閉じ込めるか? ゲーム環境とネット完備して、ケータリングの業者は徹底的に調べて――馬鹿か、稽古はどうするんだ。アイツは役者なんだぞ)
何をどうしても、どこかでほころびが出る。自分以外に信頼できるものなんかない。信頼していても、巻き込める相手ではない。
八方塞がりだ。
ひとつ。
ひとつだけ、すべてを解決する方法がある。至を守り、劇団の誰も巻き込まない方法が。
ただ、今の千景にそれを選ぶ勇気がないだけだ。
胃液が逆流してくる。ぐり、とひねり上げられてでもいるかのように、内臓がうごめく。
その方法を考えただけでこんなふうになるのに、実行に移してしまったらいったいどうなるのか。
至を何よりも大切にしたいのに、至のためにそれを選ぶことができない。
自分の臆病さを初めて知って、千景は目元を覆った拳を強く握りしめ、唇を噛んだ。
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ふたりの約束-005-
定時を一時間ほど過ぎてしまった。
それでも仕事の量を考えれば頑張った方で、これ以上何か仕事を押しつけられる前にと、だいぶ痛みの引いた腰をかばいつつ席を立つ。
いちばん始めに、千景にLIMEを送った。三秒ほどで既読がついて返信があった。〝ロビーで。今降りるから〟と。OKのスタンプを返せば、少しの間を置いてにっこり笑顔のウサギのスタンプが送られてきて、思わず噴き出した。
(先輩、可愛い)
こんな一面があったなんて知らなかった。まだまだ知らないことがたくさんあるのだろうなと思うと、これからの生活が楽しくてしょうがない。
明確に〝恋人〟と呼べる間柄の相手ができたのも初めてで、何をどうするのが正解なのかも分からないが、千景だってきっと同じようなものだろう。一緒に悩みながら歩んでいけたらいいと、エレベーターに乗り込んだ。
一階に着いて、観賞用に植えられた木を避けてひょいと覗き込めば、そこのベンチに腰をかけた千景がいた。長い足を組んで、携帯端末を操作している。そんな姿さえ様になるのがズルイ。そして同時に、胸のあたりがくすぐったい。
改めて千景のスペックを認識してしまい、密やかに優越感を味わった。
「先輩、遅くなってすみません」
「お疲れ茅ヶ崎、頑張ったな。まあ想定内だったよ」
褒められているのか貶されているのか分からないが、そっと髪を撫でてくれるその手が嬉しい。
だけどそこでハッとして、緩みそうだった?をきゅっと引き締めた。うっかり気を抜けば、周りに気づかれてしまう。
「ほら、キー貸して。どこか寄るところある?」
「あ、お願いします。今日は特に……コーラのストックもあるし」
「じゃあまっすぐ帰るか」
連れ立って駐車場へと向かい、千景が当然のように運転席へ回る。
朝に比べたら腰もだいぶ治ったし、自分が運転してもいいのだけど、と言いかけたけれど、ここは千景に甘えておこう。
甘やかさないと言いながらも、こうして甘えさせてくれる恋人に。
(は~まだ慣れない。……恋人って単語。俺には無縁のものだと思ってた)
助手席のシートに体を沈めて、至はシートベルトを締める。
そこから眺める千景の姿が、実はとても好きだ。
「なに、じっと見つめて」
「いやなんでもないです。……いや、なんでもなくないですけど。あの、こ、恋人になる前にも散々ドキドキしたのに、なんで今もこんなにドキドキそわそわするのか……先輩ズルイ」
「俺に怒るなよ。俺だって、お前にはドキドキしっぱなしなんだけどね」
「?でしょ」
「どっちかな」
ふふ、と笑いながら千景はアクセルを踏む。こうやってはぐらかすのは千景の得意技だ。
自分に都合の良い方に捉えておこうと、至は正面に向き直る。
「あ、ごめん茅ヶ崎、コンビニ寄っていい?」
「全然構いませんけど、何買うんです?」
「さっき真澄からLIME来てさ、ゼリー飲料買ってきてって頼まれたんだ」
「え、真澄から? めっずらし。……いや、アイツの当たりがキツいのは俺に対してだけかな」
それでも第二回公演の頃に比べたら随分柔らかくなったけど、とブツブツ言いつのれば、千景が肩を震わせた。
「真澄のあれは、甘えてる部分もあるんじゃない? お前が怒らないラインはちゃんと弁えてるし」
「その発想はなかった。なるほど可愛いヤツめ。そんな可愛い真澄のお願いを聞く先輩、ほんと甘いですよね」
「真澄用じゃないぞ。綴がまたパソコンと同化しててご飯食べてないって言うから」
「あ、なーる。綴のお世話係も板についたなー。っていうか綴大丈夫なのか? 今公演決まってるものないでしょ」
カンパニーの看板劇作家である皆木綴は、本当にいい脚本を書いてくれる。集中し出すと他のことが何もできなくなるのが心配だけれど、ルームメイトである碓氷真澄が、最悪の事態にならないように世話を焼いてくれているのだ。
だが、今は冬組の、カンパニー初の海外公演が終わったばかりで、次の公演は決まっていないはず。彼は何をそんなに一生懸命書いているのだろうか。
「ザフラの王宮すごかったから、感覚を忘れないうちにいろいろ書きためておきたいみたいだよ」
「あ、そういうことか。俺も王宮に泊まってみたかったな、……っ」
そこまで言って、至はあの夜のことを思い出し声を詰まらせた。
あの夜、王宮に泊まってほしいと言われたが、荷物を取りに戻る道すがら、千景に想いを告げて、告げられて、ホテルに戻ってそのまま体を重ねたのだ。
王宮には泊まれなかったが、恋人になって初めての夜を国外でという貴重な体験をした。傍に他の団員の荷物もある中でという、若干背徳感をミックスした状態で。
「茅ヶ崎、顔が赤い」
「うるさいですよ!」
何を思い出してしまったか分かっているくせに、千景は意地が悪い。くすくすと笑う横顔もいいなと思ってしまうあたり、責める理由が弱くなる。
この想いが通じてから、どんどん大きくなっているような気がした。もう抑えなくていいのだと思うと、貪欲に千景を想ってしまう。
信号待ちで、千景の左手がステアリングから離れる。それは膝に置いていた至の右手にそっと触れ、指を絡めてきた。至は驚いて千景を振り向くけれど、彼はなんでもないように前だけを見据えていた。至も指を絡め返して、視線を正面に戻す。
「……千景さん、好きです」
「うん」
ほんの少し俯いて、言えなかった時間の分の想いを音にする。千景はただ相づちのように頷くだけだった。
だけど、絡む指の強さが変わる。至には、それで充分だった。
〝一度しか言えない〟
そう言った千景の気持ちは分かるから、それでいい。音じゃなくても、こんなに想いを示してくれる。それが分かる距離にいたいと、信号が青に変わる直前に手を離した。
「そういえば、右腕の怪我大丈夫か?」
車を発進させて、千景が訊ねてくる。至は心当たりがなくて、首を傾げた。ややあって、思い出す。そういえば先月右腕を怪我していたのだと。
「全然、なんともないです。忘れてました、そんなこと」
「……本人が忘れてるくらいだから、大丈夫か」
「痕もたぶん残ってませんよ。怪我っていうほどのものじゃなかったでしょ」
ジャケットとシャツの袖を捲って、患部を確認する。どこだっけと思うほどには大したものではなくて、だけど、気をつけて見てみれば、うっすらと痕のようなものが見える。
それは、とある痴情のもつれに巻き込まれ、一方的な悪意をぶつけられたものだ。至に好意を寄せている女性の元カレだかストーカーだかが、刃物を持って追いかけ回してきたことがある。
幸いにも、通行人たちが通報してくれて現行犯逮捕されたが、今考えただけでも刃物のきらめきが恐ろしい。
だけどザフラでは、千景を助けるためにとっさにナイフを投げることができた。まあ結果的に千景に投げ直されただけだったが、気持ちひとつで刃物のきらめきさえ恐ろしいとは思わなくなるのだと、改めて感じた。
(とっさだったとはいえ、ためらわなかった……。それってヤバくないか? 気をつけないと、先輩の望んでる日常じゃなくなる)
この体力と経験で千景の役に立てることはもうないだろうが、怖い。
千景のためならと、ためらいもせずに誰かを傷つける日がくるかもしれないのだ。
それは茅ヶ崎至の日常ではないし、卯木千景の望む日常でもない。
(俺は体力皆無の引きこもり廃人ゲーマー、猫かぶりのエリート商社マン。あ、でも体力はつけたい。稽古とか公演のためにも)
千景のことが好きだから、千景の守りたい茅ヶ崎至でありたい。
〝立派に相棒してくれた〟と言われて、嬉しかったあの気持ちは、あの瞬間限りでいいと、至は袖を元に戻して腕をぎゅっと握った。
「今度何かあったら、ちゃんと言えよ茅ヶ崎。心配かけたくないとか、そういうのはいらないから」
「あ、……はい。あんなこと、そうそうあってもらっちゃ困るんですけどね」
「は、どうだかな。弊社の王子様は女性社員全員虜にしてるだろ」
「いや全員は盛り過ぎだし、先輩だってそういう女の子いっぱいじゃないですか」
「嬉しくない」
「でしょうね」
千景はもともと、女性が苦手なタイプだ。会社では軽くあしらっているようだが、本音はそんなところだろう。至は肩を震わせて笑った。
「あ~、でもそういえば一昨日? 帰る途中でやけに背後が気になったな……なんか、見られてる気がして」
「……なんだと」
千景の声が低くなる。至はそれを不思議に思って、振り向いた。そこには、目を見開いてぎゅっと強くステアリングを握る千景がいた。
「どこで」
「え? あ、どこらへんだったかな……会社出てすぐくらい? 尾行つけられてんのかなーとか、そういうのちらっと考えましたけど。中二病なんで」
「なんでそういうのすぐに言わないんだ!」
「……っ」
千景が、珍しく声を荒らげる。思わず体が強張って、声が詰まった。
それに気がついたのか、千景はハッとしたように息を吸い込んだように見える。
「……悪い、ちょっと、心配で」
「大袈裟だな、先輩。確かに嫌な視線でしたけど、五分くらいでなくなりましたし」
「……お前を好きな子かな。あんまり気を持たせるようなことするなよ茅ヶ崎」
自意識過剰だと笑われるかと思ったが、千景は本当に心配してくれているらしい。以前のことがあるから余計にだろうと解釈し、深刻になりすぎない程度に頷いておいた。
「万里にも言われてるんですよね。千景さんを好きになってから、艶が増してるって。ハハッ、艶ってなんだよ、ワロス」
「それは万里に同意かな。茅ヶ崎、抱くたびに色気が増していったから。そうか、それ、俺のせいだったんだ」
「なにちょっと嬉しそうな顔してるんですか。腹立つ」
片想いだと思っていた時期が自分にあるのと同様に、千景にもあるのだと改めて実感させられて、至の方こそ顔が緩んでいく。
好きな人に好かれているという事実が、こんなにも幸せなものだなんて。
これから先、どんなに可愛らしい女性、美しい女性、癒やしてくれる女性に好意を向けられても、応えられることはないのだろうなと思うと、件の視線の主にも申し訳ない気持ちがある。
(だけど俺は今、この人しかいないから)
誰になんと言われようと、せっかく捕まえたこの手を放すつもりはない。こんなに好きになるなんて思わなかったけれど、それは至の本音だった。
そうして、無事にMANKAI寮の駐車スペースにたどり着く。無事じゃなかったのは、高鳴る至の心臓だけだ。
「お疲れ、茅ヶ崎」
「ありがとうございます、運転」
言い合ってシートベルトを外し、ドアのノブに手を伸ばしたところで、ぐっと腕を掴まれて引かれる。千景の方へ傾いだ顔に影がかかって、唇が触れた。そっと触れて、押しつけられるだけのキスだった。
「せん、ぱ……」
「恋人同士はここまでな」
「え、あ、は、はい」
すぐに離れた唇と、千景の笑顔。至はほんのりと?を染めて、車を降りる。深呼吸で心を落ち着けてから、寮の玄関へと向かった。
ここから先、千景とはただの劇団仲間でいなければならない。
千景が、至より少し遅れて玄関に向かってくるのも、落ち着く時間をくれているのだろうと解釈して、至は玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
「あっ、おかえりなさい至さん、千景さん! ご飯できてますよ!」
「ただいま。今日は何のカレー?」
「チキン煮込みにしました」
総監督であるいづみが、ドヤ顔で迎えてくれる。今日もカレーかと項垂れる至と、楽しみだなとご機嫌の千景。
どうしてこんなにも違う自分たちが、こんなことになったのかなと、心の内で考えた。
「ひとまず着替えてくるわ。あ、咲也、あとでガチャよろ。限定きてるんだ」
「あっ、オレでよければ」
いづみの楽しそうな顔と咲也のふわふわの笑顔。仲間たちの談笑する声。
千景と二人きりだったドキドキをそれらで充分に癒やして、薄めて、至は着替えに部屋へと向かう。
千景はいづみと何か話し込んでいるようで、またスパイスの話題かなと肩を竦めながら。
「スパイスの話題には入り込めないもんな~」
少しだけ寂しい気持ちを呟きながらも、まだ片想いを引きずっていることに気がついて、ふるふると首を振った。話題に入り込めないからといって、嫉妬する必要はないのにと。
恋人になれたのだから、違うところで、もっと深く繋がれている。
千景がこの劇団を大切にしているのは分かっているし、至だってそれは同じだ。自分だけの千景ではない。千景だけの自分ではない。
浮かれ気分は最高潮だけれども、恋人という距離感を、少しずつ、ゆっくり味わって、自然なものにしていけたらいい。
人と深く関わるのが苦手だった自分が、こんなことまで思い始めるなんて。きっと姉あたりが知ったら天変地異の前触れかなどと言い出すのだろう。
その気持ちはよく分かるが、天変地異など起こりませんようにと祈るのみ。ただでさえここ最近おかしなことが起こり過ぎているのだ、ゆっくり心を落ち着けたい。
そう思いながら、着替えを終えてダイニングへと戻るのだった。
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ふたりの約束-004-
腰が痛い。この痛みは尋常じゃないと、至は自身のデスクにもたれかかり腰を押さえた。じんじん、じんじんと内側から叩くような刺激を味わって、ぐぬうと小さくうなりを上げる。
「茅ヶ崎さん、大丈夫ですか? なんだか具合悪そう……」
デスクの傍を通りかかった同僚に声をかけられて、慌てて、だがそうと感づかれないように顔を上げて、王子様の笑顔を作ってみせた。
「あ、いや、大丈夫。今朝ちょっと階段から落っこちちゃって」
平気だよと小さく手を振れば、周りの女性陣から悲鳴のような声が上がる。
親しみやすいエリートイケメン王子様を演じるのも楽ではない。
「茅ヶ崎さんでもそんなことあるんですね! あんまり痛むようだったら病院行かなきゃですよ!」
「うん、ありがとう」
そう言って、至はなんでもないようにチェアに深く座り直し、パソコンのモニターに向かった。
きゃいきゃいとはしゃぐ女性陣たちの声が煩わしかったが、ここで顔を崩すわけにはいかない。
気を引き締めていないと、昨夜のことを思い出しそうになる。
この腰の痛みは、階段から落っこちたせいではない。昨夜の激しい行為のおかげだ。
(昨夜の……)
思い出さないようにと思った傍から思い起こしてしまって、至は項垂れて顔を覆った。
(先輩の馬鹿、あんなに激しくすることないだろっ……!)
拒めなかった自分が恨めしい。拒ませない千景が憎たらしい。上がってしまった顔の熱を、どうやって冷ませばいいのか。
つい一週間ほど前、ずっと好きだった相手と恋人同士になれた。卯木千景とだ。
まさか両想いだとは思わずに、ザフラでの告白は、あの瞬間本当に一生の不覚だった。
ずっと言わないでいるつもりだったのに、シトロンを無事に救い出せたこと、その時に若干ゲーム展開になってしまった非日常の興奮が、気持ちを高ぶらせたのだろう。
さらに、千景に〝立派に相棒してくれた〟なんて言われてしまって、抑えが効かなかったのだ。
戯れ言だと、聞き流してほしいと前置きをした状態で、千景が好きだと告げた。
そのまま追い越して逃げ出したかった体を、千景の両腕が抱きしめてくれた時は、なんの冗談かと思ったものだ。
もっとも、そんな思いはほんの一瞬だけで、すぐに千景の本当の想いに気がついた。
自分と同じ想いでいてくれる。なぜそれに気がつかなかったのかと不思議に思うくらい、千景の方からもあふれていた。
恋人としてセックスをして、恋人として手を?いで、恋人として視線と口づけを交わして、ひとつ、約束をした。
みんなの前では変わらないでいること。
テレビのニュースやネットなどで、何かと性的少数者が取り沙汰される昨今だが、いまだに壁は厚い。至自身、劇団の仲間たちにこの関係を告げる勇気はないのだ。
軽蔑されるかもしれないという思いや、未成年の教育によろしくないという大人ぶった建前、秘密を共有したいという子供じみた優越感。
それらいろんなことが混ざり合って、千景との約束はわざわざ言葉にするまでもなかった。
このことを知っているのは、至と仲が良い摂津万里、彼と交際している月岡紬、千景とただならぬ関係の御影密。
(いや、別に今さら密と先輩のことどうこう言うつもりはないけど。俺には入り込めない部分がある)
もちろん、千景と密の間に恋愛感情があるとは思っていない。大事な家族なのだろう。
分かっていても、自分の知らない千景を知っているという嫉妬は生まれてくるもので、やるせない。
千景が、あまりよろしくない組織に所属しているのは知っている。以前からそう匂わせる発言はあったし、怪我を隠して帰ってこなかった日もあった。
ザフラでのあの行動は、とても一介の商社マンとは思えなかったし、何よりも、千景が言った言葉。
〝一度しか言えない〟
絞り出すようにして告げられた言葉。その理由は、理解しているつもりだ。
千景は生涯、大切な人間は作らないつもりだったのだろう。それを覆してしまったのが自分なのかと思うと申し訳なくも思うが、嬉しくてしょうがない。
だから、言葉なんてなくても大丈夫だった。一度だけと決めたそれを、自分にくれたのだから。
(っていうか、言葉以上に態度っていうか、熱量がね、すごいから……)
まだ顔が火照っている。
今日も仕事だったのに、昨夜ホテルに連れ込まれて激しい熱を分け与えられた。セフレ時代でさえ、そういう逢瀬は翌日が休みの日だったのに、平日ど真ん中にあんなにするなんて。
おかげで今日の仕事がつらい。体が痛くて怠くて重い。開いた文書ファイルの文面すら頭に入ってこない。
それでも千景を責める気になれないのは、浮かれているからだろう。
恋が叶って、幸せ絶頂の今。
どこかで大きなどんでん返しでもあったらどうしようとは思うものの、二人きりの時はあんなに分かりやすく愛情を示してくれる千景に、思いきり甘えていたい。
「茅ヶ崎、ほら」
その時、頭のすぐ横でガサリとビニール袋の音。そちらを振り向けば、有名なファストフード店のハンバーガー。
「これで良かった? あんまりああいうところ入らないから、新鮮だった」
「ありがとうございます、先輩」
それは、千景が買ってきてくれた至の昼食。期間限定のハンバーガーとポテトとドリンクのセット。
会社から近いところに店舗があるが、今日この腰の状態で歩いていくのがつらかったのだ。さらに昼食時ともなれば、レジにはたくさんの客が並んでいるだろう。十分ほど並ぶだろうことは明白で、避けたかった。
それはコンビニも、うどん屋も、定食屋も、恐らく同じだろう。
「まったく、先輩をパシリに使うなんて、お前くらいだぞ」
「ははっ、可愛い後輩の役に立てて良かったじゃないですか」
「自分で言うな」
LIMEで欲しいものを頼んだ時には、自分で行けと返ってきたが、腰が痛くて動けないと嫌みも含めて返信したら、これである。何だかんだで、千景は至に甘い。
「あれ、先輩も?」
「ああ、ついでだし。このエビのヤツ美味しそうだったから」
「じゃあここどうぞ。今日出張でいないんで」
「そう? じゃあ椅子だけ借りようかな」
そう言うと、千景は素直に至の隣のデスクから椅子だけ借りてくる。広くはない至のデスクで、膝をつき合わせてイケメン二人がハンバーガーにかぶりつく光景というのは、そんなに物珍しいのか、女性陣どころか男性陣からも何やらキラキラとした視線を向けられているような気がした。
「わりとサクサクしてるんだな。うん、悪くない」
「そうでしょ。やみつきになりますよ」
「茅ヶ崎じゃあるまいし」
「ちょ、ここ職場なんで猫かぶらせてくださいよ」
「ジャンクフードとコーラ頼んでおきながら、何を言ってるんだか」
千景と一緒にいると、どうしても気が抜けてしまう。加えて食べ慣れたジャンクフード。イケメンエリートの仮面が取れてしまいかねない。気を引き締めて、ポテトを一本口へと運んだ。
「今日、定時で上がれそうか?」
他愛のない会話を交わしながら、昼食休憩終わりの時間を迎える。ゴミを小さくまとめるあたりが千景らしいなと思いつつ、至は振り向く。
「え? えーと……ちょっと定時は難しいかもしれないです。書類溜まってて」
「手伝わないぞ」
「今の、手伝う流れじゃなかったんですか」
「俺はお前を甘やかさないことに決めてるから」
これのどこがだろう、と至の分のゴミまでまとめて捨ててくれる千景に、それは言わないでおいた。
「じゃあ待ってるから、終わったらLIMEしろ。一緒に帰るぞ」
「へっ? あ、先輩」
ひらひらと手を振って、千景は自分の部署がある方へ行ってしまう。終わるまで待っていてくれるのか、という嬉しさと、至が断ることを想定しない気安さと強い想い、恐らく腰のことを気遣ってくれているのだろう優しさが、体中に染み渡っていく。
できるだけ早く仕事を終わらせようと、溜まっている仕事の量と優先度を把握するところから始めることにした。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-003-
「茅ヶ崎っ……!!」
ド、と心臓を撃ち抜かれたような気分だった。いちばん始めに視界に飛び込んできたのは、何も映っていないテレビのモニター。黒い画面には千景の姿がぼんやりと映り込んでいた。
「あっ……」
先ほどまでの暗闇はなく、ルームライトの薄明かりが部屋を温かく包み込んでくれている。千景は恐る恐る自身の手を見下ろした。手にも、シーツにも、血などついていない。
「は、あ、っはあ、はぁ……っ」
夢、だったのだと、ようやく呼吸をした。
けれど。
あるはずのものが、ない。
あのはちみつ色の髪。いくつもの赤い花を散らしたあの白い肌。抱いていたはずの恋人の姿がない。
千景は青ざめて、ベッドを飛び降りた。
「茅ヶ崎!」
考えたくない。もうあんな思いはしたくない。あれは夢だ、夢でしかない、現実になどさせやしない。
どうか、――どうか、かみさま。
「あれっ、先輩起きちゃったんですか」
バスルームの方から、ローブを羽織った至が顔を出す。それはいつもと変わらない笑い顔で、どこにも怪我などしていないように見えた。
「珍しいですよね、先輩が寝こけちゃうなんて。お疲れだったんです?」
そう言って歩み寄ってくる動作にも、なんの違和感もない。千景は震える手をどうにか持ち上げて、彼の喉に触れてみた。傷はない。触れても、血の流れた痕はない。
「先輩?」
「茅ヶ崎……っ!」
間違いなく夢だったのだと、指先に触れる温もりが教えてくれる。だけどそれだけでは足りなくて、強く抱き寄せて唇を塞いだ。
「んんっ?」
突然のことに驚いたのか、くぐもった声が鼻から抜けていく。シャワーをしていたのか、しっとりと濡れた唇を舐めて、強引に入り込んで、舌を捕らえた。呼吸を奪って、隙間を埋めて、押しつける。
「ん、はっ……ぅ」
乾いていない髪に指を梳き入れて、強く力を込める。離れていたくない。茅ヶ崎至という男を、この腕の中に感じていたい。
「茅ヶ崎……茅ヶ崎」
「わ、ちょっと、せんぱ……んぅっ」
そのまま傍のベッドに二人で倒れ込んだ。スプリングのバウンドをお互いの体で相殺して、千景は至の素肌に手を滑らせる。傷ひとつない、きめ細やかな肌に。
「ん、んむ」
その間にも手のひらは、指先は至を暴いていく。ぎ、とベッドが軋んで、至の指先が肩に回ってくる。驚きはしているようだが、拒む様子はなくてホッとした。もっとも、拒まれても強引に押し進めていただろうが。
「茅ヶ崎」
「っも、先輩、なに……ちょっと乱暴……っ」
「悪い、抱かれて」
「あっ、待っ……!」
肌に吸いついて、喉に痕を残す。そうしてから失敗したと思った。喉の赤い痕――どうかすると血痕に見えてしまう。
それを視界に入れないようにと、千景は至に覆い被さって、体で押さえつけて彼の体を性急に暴いていった。
「先輩待って、あの、んっ……ふ、う」
待ってやれない。至がこの腕の中にいてくれる時間をひとときも逃したくない。声を、体温を、汗を、匂いを、欲をすべて飲み込んでしまいたい。たとえこれで嫌われてしまってもいい、生きているということを、この体ぜんぶで確認したいのだ。
肩に立てられる爪の痛みも、安堵に変わっていく。のけぞる体を追って抱きしめ、何度も何度も突き上げた。髪があちこちに揺れ、汗が飛び散る。絶え絶えに呟かれる呼称にぞくぞくと背筋を震わせ、もう一回、もう一度、とねだってイかせた。
手を貸してと言われても、応えられずに夢中でむさぼっていたら、至の足を抱えていた手を引き?がされて、手のひらを重ね、指を絡められた。そこでやっと彼の望みを理解し、愛しさがこみ上げる。ようやく優しいキスを降らせて、何度も中に流し込んで、もう無理だと音を上げて気を失った至から、自身を抜いた。
間違いなく生きている至の髪を撫で、口づける。
茅ヶ崎至という男が恐ろしい。
こんなふうに、周りが見えなくなるほど激しい想いを、彼は受け止めてしまう。
こんな感情が自分の中にあったことも驚愕だが、至はそれを包み込んでしまう。だからこそ、甘えてしまうのだろう。
「冗談だろ……」
千景は頭を抱えて細く息を吐き出した。
恋なんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。相手の一挙一動に右往左往して、顔を赤らめて青ざめさせて、他のことが何も見えなくなるなんて、そんなこと、愚かの極みだと思っていた。
それを、茅ヶ崎至は長くない時間で覆してしまった。
失いたくない。巻き込むわけにはいかない。
それは分かっているのに、この手を離せない。
叶わないと思っていた恋が叶ってしまったから、余計にずぶずぶと沼にはまり込んでいくようだった。
だが、あんな思いはもう二度としたくない。
夢だと分かった今でさえ、思い出すとこんなに寒気がする。
至は、千景にとって弱点になり得る。
いや、もう手遅れだ。至の存在が組織に知られたら、上の連中はまだしも、自分の存在をよく思っていない連中には恰好の標的だ。
エージェントとしてそれなりの成績を残してきた。それをよく思わない――有り体に言えば、嫉妬とプライドを〝任務遂行〟というシートにくるんでぶつけてくる連中がいる。
そんなものを気にしたことはなかったが、それがまた彼らの神経を逆なでするのだろう。
「どうすればいい……どうやれば、茅ヶ崎を」
守り抜けるのか。
二人きりの時以外は、仲のいい劇団仲間として接して、職場では極力接触を控えるべきか。
劇団の仲間たちにも、絶対に知られてはいけない。知られれば知られるだけ、秘密が漏れる。
(知っているのは、万里と……紬か。あと、密。……アイツに頼めば、茅ヶ崎のガードくらいしてくれるだろうか。いや、だが……アイツこそ巻き込めない。組織のことに、関わらせるべきじゃないんだ。これは、俺が全部処理しないと)
自分一人では、至を守りきれないかもしれない。四六時中傍にいられるわけではないのだ。状況が許すなら、そうするところだが、と苦笑した。
(俺は、茅ヶ崎を閉じ込めたいわけじゃない。あの時……ザフラで俺の助けになろうとしてくれた茅ヶ崎を、そんなふうには扱えない。惚れた男のひとりも守れないで、何が〝約束〟だ)
密と、約束をしている。あの劇団はなにがあっても潰させない。メンバーの誰も傷つけさせない。守り抜いてみせると。
閉じ込めて守れるのは、肉体だけだ。
感情が渦巻く舞台を演じる魂と熱い心は、閉じ込めていては死んでしまう。ゲームがいちばんだと言う至も、芝居は別物らしい。それは、千景自身よく分かる。
(茅ヶ崎……)
いったいどうすれば。眉間に深くしわを寄せて考え込む千景の傍で、至が寝返りを打つ。ぶつかった千景の腕に、当然のようにすり寄ってきた。千景は目をぱちぱちと瞬いて、すっと細める。
温もりを求めているのは自分だけではないのだと、無意識下でも教えてくれる至を、心の底から愛おしく思った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-002-
――まさか、お前がねえ。
どこかから声が聞こえる。頭の中に直接響いてくるようなその音は、不愉快でしょうがなかった。
誰だ、と辺りを見回すけれど、暗闇ばかりで何もない。
――こんな男に骨抜きにされるなんて思わなかったよ、エイプリル。俺の気配も読めないなんて、随分と弱くなったじゃないか。
暗闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる、はちみつ色の髪と、白い肌。血の気が引いた。その喉に絡みつく闇色の指先は、どう考えても友好的なものではない。
「茅ヶ崎! やめろ、何をしてる!」
――何って、制裁だよ。お前は組織を裏切った。裏切り者には死を――知っているだろう?
「何の話だ、裏切ってなんかない! 茅ヶ崎は関係ないだろう、放せ、今すぐだ!」
――上からの命令だ、こっちだって仕事なんだよ。まったく、なんで上の連中は、お前なんかを生かしておけって言うんだ? 俺の気配すら読めないほど幸せボケした男を、なんで必要とするんだか。
上の、と聞いてざあっと血の気が引いていく音を聞いた。組織の命令は絶対だ。
エイプリルを生かしておけという上の真意は分からないが、アイツの腕がこちらに伸びてくることはないだろう。
だが、なぜ至が標的になっているのか分からない。
――お前が弱くなったの、コイツのせいだろ? 任務に支障を来きたすって思われたんだろ。自業自得だよ、エイプリル。ああ、コイツが女だったら、殺す前にお前の前で犯してやったのにな。俺は男は趣味じゃない。
「なっ……俺は何も変わってない! 任務だってしっかりこなしてきたはずだ! そいつは何も知らない、これからも俺の邪魔になることなんてない!」
至は何も知らない――ということにはなっているが、実際は違う。千景が危険な組織に属しているのは知っているし、だからこそ自分は千景の日常でありたいと言ってくれたのだ。彼を失うわけにはいかない。彼がいるからこそ、生きたいとさえ思っているのに。
――邪魔だよ。事実、コイツがいるからお前は俺に攻撃さえしてこない。見られたくない? 傷つけたくない? ふふっ、お笑いじゃないか、エイプリル。お前の手はそんなにも血で汚れているのに。今さら普通の恋愛なんてできると思ってるのか?
「だったらできなくていい、茅ヶ崎を放せ! そいつは何も悪くないんだ!」
手を伸ばそうとするのに体が動いてくれない。攻撃をしようにも、指一本動いてくれないのだ。
どうして。どうしてこんな時に!
ドクンドクンと鳴る心臓の音がうるさい。自分の声さえかき消されてしまいそうなのに、その声だけは、はっきりと耳に届いた。
先輩。
至の、いつもの声だ。
その――直後。
暗闇の中に光る刃が、彼の喉をかき切った。
「――茅ヶ崎ィッ!!」
体を戒めていた何かがふっと消えていく。必死で腕を伸ばして、彼の体が倒れ込む前に抱き留めた。
「茅ヶ崎、茅ヶ崎! しっかりしろ、こんな血、すぐに止めて――」
ぬるりと、至の血で手がどんどん濡れていく。至は目も開けてくれない。口も開いてくれない。
「な、んで……こんな」
まだ温かいのに。ついさっきまで、腕の中で笑ってくれていたのに。どうしてこんな理不尽に、命を奪われなければいけないのか。また守れなかった。目の前で逝かせた。家族に、彼の本当の家族に、なんと言えばいいのか。
「ちがさき……頼む、目を」
目を開けてほしい。そしてなんでもないように笑ってゲームゲームと日常に戻っていってくれないか。
そのためなら、自分はどんなことだって――。
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「あれ、茅ヶ崎まだ戻ってないのか?」
一仕事終えて寮に戻れば、団員たちが温かく迎えてくれた。
千景はホッとしつつ冷蔵庫を開ける。ストックしているミネラルウォーターを手にしたとき、おかしなことに気がついた。
至が大好きなコーラが昨日と同じ本数で鎮座している。三本だ。なくなったら買ってくるタイプの至が、一本買って一本飲んでいるということは考えにくく、まだ職場から戻っていないのだと分かる。
「今日はまだ帰ってきてないね。残業かな?」
大変だねと東が時計を仰ぐ。すでに二十一時を回っており、いくらなんでも遅すぎると千景は体を硬直させた。
(まさか、何かあったのか!?)
こんなに遅くまで残業していたことはあるだろうか。千景の知る限りでは、ない。そんなに大変な案件を抱えていた記憶もない。
ドクンと心臓が鳴る。そういえば妙な視線を感じたと言っていた。どうして彼を一人置いてきたのだろうと、千景はいったん一〇三号室へ向かう。
重い仕事道具を置き、愛機と携帯端末のみ持ち上げる。
LIMEメッセージは何も入っていない。組織の方からも、何も変わった連絡などない。震える指で、LIMEメッセージを送信した。
『茅ヶ崎、今どこ』
彼とのやり取りはいつも簡潔なものだったが、これほどに早く、明快な答えが欲しいと思って送ったものはない。
(茅ヶ崎、頼む)
既読がまだつかない。スマホ中毒と言ってもいい彼が、触れられない状況にあるというのだろうか。全身から汗が噴き出してくるかのようだ。
「……っ」
あの夢が、頭の中にフラッシュバックする。
なくしたくない。誰よりも大切にしたい人なのに。傍にいさせたらいけない相手――いなくならないでほしい。
「茅ヶ崎……っ」
こらえきれずに、通話のボタンを押そうとしたその時、既読のマークが付く。
千景はハッとして、祈るように両手で端末を握りしめた。
『どこって、まだ会社ですけど。そろそろ上がります』
返ってきたメッセージに、体から力が抜けていく。はあ~と大きく息を吐き、崩れ落ちそうだった体を踏ん張って支えた。
『残業してたのか。迎えに行くから、エントランスで待ってろ』
素早くそう打ち返したのは、夜遅く至を一人で歩かせたくないせいだ。
遅いと言っても二十一時過ぎ。今から帰る準備をして会社を出るにしても、深夜というわけではない。成人男性の帰路を心配する時刻ではなかった。
『なんで』
短く返されて、返答に困る。心配だからと素直に返していいのか、怖いと深く心を明け渡していいのか。
『先輩、別れた男にそうやって優しくするのやめてください。デリカシーの欠片もないな』
ズキリと心臓が痛む。昨日告げた別れは、至の頭にしっかりと残っているらしい。今日一日少しも視線が合わなかったことからも、裂けているのだとは分かるし、そうさせているのは千景自身だ。それなのに、こんなにも胸が痛むなんて。
(……こんな身勝手な男に、恋なんてするからだよ、茅ヶ崎)
傷つけただろう。唐突な別れに、納得なんてしていないはずだ。むしろそうであってほしいとさえ思う。
恨んでも、憎んでもいいから、自分とのことは忘れて、いつか他の相手と幸せになってほしいと思う反面、ずっと捕らわれてほしいと願う、身勝手さ。
『ちょうどそっちに行く用事があるんだよ。いいから待ってろ』
?をついて、深呼吸をして、部屋を出ようとしたそこで、ドアが開かれた。
千景は息を飲む。珍しい客だった。
「密……」
「至、いないの」
至とのことを知っている、数少ない人物。大切にしたい仲間で、家族で、共犯者でもある密だ。手にはマシュマロの袋を抱えており、彼は部屋を見渡す。
「まだ会社だ。今から迎えに行く。アイツに用があるんだったら、伝えるけど」
どうしても密相手だと、言葉が雑になる。仮面をつけていない状態で出逢って、仮面をつけていない状態でずっと一緒に過ごしてきたせいだ。それは密の方も同じようで、目つきが少し鋭くなる。
「朝……ご飯食べられなかったみたいだから、マシュマロなら食べられるかと思って、持ってきた」
「え?」
密は大事そうに袋を抱え直す。至にあげるつもりなのだろうが、その力に未練が見られる。だが彼が大事なマシュマロを差し出すほどに、重大な事柄だったのだろう。
朝は、アジトの方から直接出勤したせいで、朝の至の様子は知らない。
食べられなかったというのは、時間的な問題だろうか。そう思いかけたが、そんなのはいつものことで、密が心配するような日常ではない。
「さっき紬が言ってた。サラダ、少ししか食べなかったって……風邪なのかなって、心配そうに」
千景は目を瞠る。そういえば、会社でも昼食を取った様子がなかった。
ランチの時間に席を外していたものの、コンビニの小さな袋を提げてすぐに戻ってきていた。
だがそれにも関わらず、通りかかった時にちらりと見やった彼のデスクに、食べるはずだった惣菜パンが置かれていたのだ。昼をだいぶ過ぎた、三時頃。
食事を取る暇もないほど忙しかったのなら、この残業も頷ける。だけど朝も昼も食事を抜いて、さらに夕食はどうしているのだろう。
固形の栄養補助食品なんかでごまかしていないといいが、と眉を寄せた、その時。
「千景。至に何をしたの」
密の低い声が耳に届いて、はじかれたように顔を上げた。すぐ傍まで詰め寄られていて、その気配に気づかなかったことが悔しくてたまらなかった。
「なっ、……んで、だ」
「朝すれ違った時、至泣きそうな顔してた……お前が何かしたんでしょ」
鋭い爪でえぐられたように、ズキ、と心臓が痛む。至がそんな顔をしているところは、見たことがない。泣かせたことはあるけれど、それはベッドの上だけだ。
「至がそんなふうになる理由、お前しかない。至を傷つけないでって言ったのに」
密の手が、千景のネクタイのノットを掴む。声の低さと強さが、本気で責め立てているのだと気づかせた。
何より、防ぐ余裕もなかったことからも、密の怒りを伝えてくる。
居場所を与えてくれたカンパニーのみんなを、密はとても大切に思っている。
なかなか表には出してこないが、危機に陥れば千景と同様、何を置いても救い出すだろう。至だけが特別というわけではない。
いや、千景が関わっているところから、他のメンツより少しだけ気にかけていたのかもしれない。千景はその手を振り払って言い放つ。
「仕方ないだろう、あれ以上は無理だった」
「……何をしたの、大事な家族だろ」
「っ……大事だから、家族に戻っただけだ! ただの家族なら……アイツを、狙う理由も、なくなる」
言葉がうまく出てこない。出そうとするのに、痛む喉が邪魔をする。詰まるような感覚は、その決定的な言葉を音にさせてくれない。
密が目を瞠ったのが分かる。〝狙う〟という単語は、自分たちにとってあまりにも日常的なものだった。
「至、誰かに狙われた? いつ、どこで」
密はすぐに、千景の言わんとしていることを悟り、ガッと腕を掴んでくる。その力の強さは、焦りと困惑が混じっていた。
千景はふるふると首を振る。
「違う、まだ……平気、だと思う。だけどこのまま一緒にいたら、いつかそうなる。俺のことを気にくわないヤツがいたの、知ってるだろ」
「だから至を捨てたの?」
「捨ててない! だけど俺に茅ヶ崎は無理だって、茅ヶ崎にも俺は無理だって、お前が言ったんだろう!」
こんなこと言いたくない。選んだのは自分自身だ。茅ヶ崎至を守る、唯一の方法。大切だから、彼を失うことが何よりも怖い。自分の人生に巻き込んで、あの優しい男をこれ以上傷つけられない。
今、離れてしまうのがいちばんいいのだと、導き出した結論だった。
「俺の力になりたいなんて思わせてる。冗談じゃない、なんで危険だってことが分からないんだ、アイツは」
昨日、万里との会話を聞いてしまった。ザフラで力になってくれたことはありがたいけれど、あれは運が良かっただけだ。
ただでさえ体力のない一般人を、これ以上巻き込むわけにはいかない。
「アイツは、俺に……縛られるべきじゃない。俺のことは忘れて、誰か他のヤツと幸せになってほしいんだよ。女だって抱けるだろうし、結婚して、子供育てて、芝居に打ち込んで、ゲームにのめり込んで、笑っててくれればいい」
「千景の幸せは……どこなの」
「はぁ……そんなの考えるだけ無駄だろ。アイツを迎えに行ってくる。待たせてるんだ」
眉を寄せて得心のいかない表情を隠さない密を押しのけて、千景は一〇三号室を後にする。
これ以上傷つけないために別れを選んだ。傷が深くなる前の方がいいに決まっていると、千景は至の車に乗り込んでエンジンをかけた。
傍にいれば、深く関係すれば、いつか気づかれる。自分だけでは至を守り切れないと悟ったから、今のうちに離れただけだ。
これ以上進んだら、あの夢が現実になったとき、耐えられない。立ち直ることさえできない。
自分がいないところでなくしてしまったオーガストとは違い、至はまったくの民間人なのだ。巻き込めない。
「……茅ヶ崎、早く忘れて……」
アクセルを踏みながら、待っているであろう至を思い浮かべた。
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