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ふたりの約束-019-
「へえ、散歩ですか。人が必死で仕事してる間に、優雅なもんですね」
至が仕事を終えて帰ってきたのは、夜の八時頃。残業でもしていたのだろう彼からは、とげとげしい嫌みが返ってきた。
「……ごめん」
「いや冗談ですよ。先輩は休暇中なんですから、好きなことしててください」
素直に謝ったら、決まりの悪そうな顔でそっぽを向かれて、気分が沈んだ。以前はそんな冗談もすぐに分かっていたのだろうなと思うと、寂しくてしょうがない。
「で、どこ行ってきたんです?」
「えっと、このお店。なんかタブレットの方にブックマークしてあったから、よく行ってたのかと思って」
「あ~~、なる。お気に入りのとこでしたね、そこ」
至がひょいとタブレットを覗き込んできて、呆れたように呟く。不意に香ってきたのは、彼のつけている香水だろうか。
思わず息を飲んで、顔を背けた。近い、と心の中で呟いて、視線をあちらこちらに泳がせる。
「じゃあ俺、ご飯食べてきますね~」
そんな千景の挙動には気づかずに、ひらひらと手を振って、至は一〇三号室を出ていく。ホッと胸をなで下ろし、彼が持って帰ってきてくれたお見舞いの品を確認することにした。
「甘そうなお菓子……これはそういう好意が含まれてるのかな」
どんな人からもらったのか分からないが、その気持ちには応えられそうにない。
(……至のこと、好きみたいだし)
困ったように眉を寄せて、千景は考え込む。この気持ちは、以前からあったものなのか、それともこの数日で生まれたものなのか。
だがこの安堵感を考えると、以前の自分も至に好意を抱いていたと考える方が自然だ。
病院にいる間、ずっと至の顔が見たかった。至に傍にいてほしかった。加えて、手を伸ばしたがるこの衝動。拒まれる未来が見えないのは、もしかしたら恋人同士として過ごしていたからなのではないか。
(そう考えれば、ぜんぶ説明がつくんだけど。なんで至は平気な顔して俺の隣にいられるんだろう? やっぱり違うのかな……まさか、俺の片想いだった?)
以前から、至に好意を抱いていたのは認識できた。そうでなければ、ずっと彼を視線で追いかけてしまう理由がない。密の言った言葉の意味も理解ができる。
〝至のことまで忘れるなんて〟
少なくとも密は、千景の想いに気づいていたはずだ。あの様子では、万里も知っていたに違いない。
問題は、至がそれを知っていたのか、どう思っていたのかだ。
千景はソファの上で頭を抱え、ぐるぐると思考を巡らせる。
普通に考えれば、同性からの好意など煩わしいに決まっている。だけど、至は優しくしてくれた。同じ想いでいてくれたのか、それとも憐れみだったのか。
同じ部屋で、どうやってこの想いをコントロールしていたのか、以前の自分に訊いてみたい。
?がったロフトベッド、本当に手の届く位置で好きな相手が眠っている状況を、どうやって乗り切ってきたのか。
「至に……訊いてみてもいいのかな、これは……」
以前の自分が至とどうやって過ごしていたのか、気持ちを知っていたのかどうか、今また、好きになってもいいかどうか。
タブレットで、劇団の公式サイトを眺める。いや、正確には劇団員紹介ページ。もっと詳しく言うのなら、至のページだ。
個人の携帯端末に、写真は保存されていなかった。消えてしまったのか、もともと写真を撮らないタチだったのかは分からないけれど、至の顔をじっくり見ようと思えば、このページか実物か、だった。
(……触れたい、な)
つ、と指先で髪に触れる。もちろん画面越しでは感触は伝わってこない。冷たくて硬い画面が、千景を拒んでいるかのようだった。
至が部屋に戻ってきたら、勇気を出して聞いてみようと心に決める。思い出せなくても、傍にいたいのだと、千景はそっと目を閉じた。
至が夕食を済ませて部屋に戻ってくる。食事が済んだばかりで話題にするのもどうかと思ったが、至の希望だった宅配ピザのオーダーを開始した。
「あ、これサラミ追加で。あとイカも。チーズ増しで」
「そんなに追加するの? 具だくさんだな……」
「先輩の金だし、こういう時に贅沢しとかないと」
「なるほど」
千景はタブレットに指を滑らせながら、肩を震わせて笑う。こんなふうに甘えられるのは心地がいいと。以前もこんなふうに過ごしていたのだろうか。
「あ、これ美味しそう。俺も頼もう」
「えええまさかの便乗。先輩がこういうの頼むのは珍し……あ、すみません」
サイドメニューとしてポテトやチキンナゲット、デザートが並んでいる。千景はその中からアップルパイをチョイスして、カートに入れた。
それを至が珍しがったが、以前とは違うのだと気がついたようで、気まずそうに謝罪をしてきた。
「別に構わないよ。至とどう過ごしていたか、まだ思い出せないのは俺のせいだし。前はこんなことしなかった?」
「……はい、どっちかっていうと俺がこういうの頼むのに呆れてるみたいでしたけど」
「ふぅん。それなら、もしかしたら本当は至と一緒に食べたかったのかもね? 前の俺は素直じゃなかったっぽいから」
「そうですね。じゃあ一緒に食べましょ。コーラ追加してください」
至の希望通りにトッピングを追加したピザと、アップルパイとコーラと緑茶。割といい額になったが、千景は気にせずオーダーを通した。届くまでの間に、至は入浴を済ませるようだった。
こんなに楽しく過ごせるならば、思い出せなくてもいいかなんて考え始める。
至と特別な関係だったかどうかはまだ分からないが、宙ぶらりんを楽しむのも悪くない。以前がそうだったのならば、遅かれ早かれいずれ恋人同士になれるだろう。
それまでは、至をいちばん近くで見られる幸福に甘んじておこうと、彼が脱ぎ捨てていたスーツをハンガーに掛けて整えた。
そうして宅配のピザを受け取って至を待ち、部屋に戻ってきた彼がピザの箱を開けて、パッと華やいだその笑顔に心臓を撃ち抜かれる。
頭を抱えながらも、二切れほどピザを分けてもらい、二つ入っていた小さなアップルパイを二人で分けて、ドリンクで喉を潤した。
至はゲームが好きらしく、合間に食べる仕種がどうしても可愛らしい。途中でガチャというものをやらされて、なんだかよく分からないが至が喜んでいたのでよしとした。
贅沢な夜食を終えて、幸せな気分で就寝の準備をする。千景がこの寮で迎える二度目の夜は、とても充実したものだった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-019-
千景が目を開けると、辺りはすっかり明るい。
ぼうっとした頭で起き上がり、充電していた携帯端末に目をやれば、何かメッセージが届いていた。至からだ。
『おはようございます。珍しくすやすや寝てたんで、起こすの可哀想だったから、そのままにしときますね。行ってきます』
?がったもう一つのベッドを見れば、足下に追いやられた掛け布団が見えるが、持ち主はすでにいない。時刻を確認すればもう午前十時。平日なのだ、当然もう出勤していなければいけない時間帯。
至の立てただろう物音にも気づかないくらい、ぐっすり眠っていたようだ。
千景はベッドを降り、着替えをすませてから談話室へと向かう。学生組はすでに登校しているからか、静かなものだった。昨日の騒がしさが?のようだ。
「あれっ、千景さん。はよっす」
「おはよ、万里。えっと……大学生だっけ。コマ空いてるの?」
その時、ひょいと万里が顔を出す。彼は大学で演劇の勉強をしているらしいのだが、今の時間は講義がないのだろうか。
「あー、これから。やっぱ朝はタリィわ」
「学業との両立は大変そうだね」
「アンタだって社会人だろ。俺もリーダーとしての役割はあるけど、幸なんかガッコと衣装と役者だし、莇はメイクだし、綴なんかホント頭上がんねーわ。至さんも至さんで仕事と廃人ゲーマー兼任て感じだし」
二人でトーストを作って、ヨーグルトを分けて、サラダにドレッシングをかける。万里が手際よく目玉焼きを作ってくれた。
「ありがとう。至のゲーム好きには少し驚いたよ。いつもあんな感じなのかな」
「……まぁ、そうだな。千景さんがあの人のこと至って呼ぶの、ちょいびっくりしたけど」
「え?」
「前は茅ヶ崎って呼んでたぜ」
「そうなのか? ……至、何も言わなかったけど……気を遣わせたかな。茅ヶ崎って呼んだ方がいいんだろうか」
多くが彼を至と呼んでいたから、なんの思惑もなく倣ったが、至にしてみれば苦痛だったかもしれない。以前とは違うということを、まざまざと実感させられる。
「至さんがそれで返事してんなら、いいんじゃねーの。むしろ、茅ヶ崎呼びの方が、今の至さんにはキツいかもな」
マーガリンを塗ったトーストを?張りながら、万里が肩を竦める。どういうことかと訊ねようとしたその時、パタパタと慌ただしい足音。
「あっ、よかった万里くんまだいたっ……あのね俺のスマホ、あ、千景さんおはようございます」
困った顔をして顔を出したのは、月岡紬。彼が万里より七つも年上だと聞いた時は驚いた。仲が良さそうに見えるから、てっきり歳が近いのだと思っていたのに。
「おはよう、紬」
「どしたんすか、紬さん」
「あのっ、俺のスマホ動かなくなっちゃって、どうしたらいいのか」
「は~? なに、見せてみ」
万里は嫌な顔一つせずに、むしろ頼りにされて嬉しそうに、紬の端末を受け取る。動作を確認して、十秒ほどで問題を解決したようだった。
「直ったぜ」
「えっ、なんで!? ありがとう、何がダメだったのかな。ごめん、俺ホント機械に弱くて」
「処理が多すぎてフリーズしてただけっすよ。強制終了して電源入れ直した」
「そ、そうなんだ……ごめんね、こんなこと万里くんに頼んじゃって。もうちょっと詳しくなるよう頑張るから」
あんなに悪戦苦闘したのに、と紬は肩を落とす。それを見て、万里は紬の手を指先でつつき、優しく笑った。
「いいっすよ別に。いつでも訊いて」
「……うん」
それに、紬も嬉しそうに笑って返す。
千景は、不思議な感覚にとらわれた。不自然なようでいて、それが当たり前のような彼らの仕種。違和感が仕事をしてくれない。
「あ、やべ、俺ももう出ねーと」
「これから大学? 俺も一緒に出るよ、客演先の稽古なんだ」
「おー、じゃあ途中まで。ちょっと待ってて」
万里は慌ててヨーグルトを平らげ、ガタリと席を立つ。食器をまとめ始める彼に、千景はハッとして声をかけた。
「いいよ万里、置いといて。俺も片付けくらいはできる」
「あ? そっすか? ん……じゃまあ、頼もうかな。サンキュ千景さん」
「うん、いってらっしゃい、二人とも」
バタバタと身支度を調えて、万里と紬も寮を出ていく。千景は彼らの出ていった方向をじっと眺め、テーブルに?杖をつき、視線を泳がせた。
(なんだろう、今の)
妙に親しげな様子だった。組のリーダー同士、話も合うのだろうか。それでも、二人のお互いを見る視線の優しいこと。
(…………まさかね)
思い当たる答えはあるけれど、それを形にしてしまうのはなぜだか怖い。
偏見のある方だとは思わないが、以前の自分はどうだっただろう。
千景はサラダを片付けて、万里の食器と一緒に洗い、棚にしまう。さすがに片腕だけでは時間がかかった。
これから何をしよう、と考え込んで、一度部屋に戻る。
自分が過ごしていた空間だ、いちばん落ち着ける。
千景はタブレットを開き、閲覧履歴を見てみた。ネットニュースやブログに混じって、スパイス専門店がいくつかブックマークされている。地図を確かめると、そう遠くない。
気分転換もかねて少し近所を散歩してみようと、テーブルに書き置きを残して外に出た。
昨日は夕方に帰ってきたからか、日射しの関係で景色が違ってさえ見える。
舗装された道路、手入れされたよその花壇、電柱にはどこかの劇団のフライヤーなどが下がっており、演劇の聖地だというのがよく分かる。掲示板にも、所狭しと催し物のお知らせが貼ってあった。
「演劇、ねえ……」
いまだに、自分が劇団に所属していたということに実感が湧かない。
稽古や演目をこの目で見てみれば、また違うのだろうかと、千景はじっと手を見つめた。
何度か、この手が血まみれになっている錯覚を覚えた。事故で負った怪我の程度は重くなかったようだし、腕も裂傷も経過は良好だ。
「血のりでも使った演目でもあったのかな」
そうだとすれば、体が覚えているということになる。まだ何も思い出せないが、早くすべてを思い出したい。
いや、欠片だけでもいい。あの暖かな仲間たちの輪の中に、早く溶け込みたいのだ。
この道を歩いていた自分も思い出せない。仕事をしていた自分も、芝居をしている自分も。
前にも横にも後ろにも、進むべき道などないように思えてしまう。早く思い出さなければと、千景はぎゅっと拳を握った。
そうして、迷わない程度に近所を散歩した。木の匂い、土の匂い、花の匂い。病院にはなかったそれら自然の恵みを、全身で感じ取りながら。
「いらっしゃいませ」
店のドアを開けると、そう広くはないスペースにぎっしりと商品が並んでいた。
千景以外にも客はいて、思い思いのものを買い物かごに放り込んでいる。居づらい雰囲気は少しもなく、千景は少し店内を見て回ることにした。
そこは、タブレットにブックマークされていたスパイス専門店。品名を見ても、手に取ってみても、何に使うものなのかさっぱり分からない。
レシピ本も販売されており、値札にもちゃっかりとオススメされている。
ここでは常連の立場にあるのか、店員が軽く会釈をしてくる。千景の方は覚えてもいないが、当たり障りなくにこりと笑って会釈だけしておいた。
(そんなにスパイス好きだったのか……そういえば、監督さんとお店に出掛けたりってこともあったって、至が言ってたな)
至、と彼を思い起こして、ハッとする。万里が、千景は以前彼のことを、茅ヶ崎と呼んでいたと言っていたことを思いだした。
(茅ヶ崎って呼んだ方がいいのかな……でも、何も言わなかったし、覚えてない俺にそう呼ばれるのが苦痛なのかもしれない……)
至とは、今までどんなふうに過ごしていたのだろう。覚えていないのが悲しい。思い出せないのが悔しい。
自分のことより先に、彼と過ごしていた時間のことを思い出したい。
(職場が一緒ってことは、通勤も? 車……どっちが運転してたんだろう。お昼とか、一緒に行ってたんだろうか)
千景は商品を手に取り眺めながらも、頭の中に思い描くのは至の顔だった。
(なんでだろうな、至のこと考えると、毎回後ろめたさというか……気まずさがあるのは)
至を初めて見たときから感じていたのは、泣きたくなるような切なさと、胸を突き刺すような贖罪の思い。
(何かあったのかな、俺たち)
忘れてしまいたくなるような、重大な事件でもあったのだろうかと、ため息を吐く。
至の態度は冷たくないし、他のメンバーと変わらないように思う。喧嘩をしていただとか、そんなことはなさそうだ。
そもそも事故に遭ったのは夜遅くまで仕事をしていた彼を、迎えに行った時だというのだから。
(とっさだっただろうに、至をかばうほど……大事にしてたはずなんだけどな)
どうしてそんな相手を忘れてしまったのだろう。千景はだんだん気分が沈んできて、結局何も買わずに店を出た。記憶に?がりそうなこともなく、寮を出たときとは裏腹に憂鬱な気分だった。
その時。
ピロン、と可愛らしい音が聞こえた。ポケットにしまっていた携帯端末からだ。
(あ……)
それは、LIMEの受信音。至からのものだった。
『せーんぱい、なんかまたお見舞いもらっちゃったんで、持って帰りますね』
というメッセージの後、律儀に写真が送信されてくる。どこだかのブランドの焼き菓子のようだが、千景の好物というわけでもなさそうだ。
『モテんのも大概にしてくださいね、重いんですけど』
そして、怒っているような、キャラクターのスタンプが届く。
千景は思わず笑ってしまった。
『ごめん、至。受け取ってくれてありがとう。早く復帰できるようにするよ』
そう返して、ごめんねと謝るウサギのスタンプを送る。こういうスタンプが購入されてるとは思わなかったが、普段から使っていたのだろうか。
(卯木の卯ってことかな。お茶目さんだな、俺)
『運送のお礼は何がいいかな』
『別にいいですけど、そんなの。あ、やっぱピザとコーラで。夜食に食べる』
『分かった、宅配のヤツでいいんだよね? 欲しいの言ってくれれば、頼んでおくよ』
『えー食べたいのありすぎて決められませーん。帰ったらメニュー見ながら選ぶんでよろ~』
高いの頼もう、と追記され、千景は思わず目を細めた。不愉快さにではなく、胸の辺りがむずがゆくて、くすぐったかったからだ。
(可愛い……)
千景は目を見開いた。
(え、今……俺、なんて)
端末の画面から顔を上げて、再度見直す。
音にこそならなかったものの、他愛のないメッセージを可愛いと思った。メッセージそのものではない、メニューを見て悩むだろう至を想像して、なんの不思議もなくそう感じたのだ。
(可愛いって、至は男だぞ。何を考えてるんだ)
男性に対して、それは褒め言葉ではないかもしれない。千景自身、可愛いなんて言われたら顔をしかめてしまうだろう。至だって、姿形は整っていても〝イケメン〟の部類に入るはずで、可愛いという形容は合っていない。
合っていないはずなのに、違和感が仕事をしてくれないのだ。
至の仕種を、言動を、可愛いと思ってしまう自分に、違和感がない。
(……なんでだ)
そういえば、至が見舞いに来てくれなくて寂しかったことを思い出す。至の声や寝息に安堵していたことを想い起こす。
千景は頭を抱えた。
浮かび上がってきたひとつの可能性を、否定――しきれなくて。
(いや、違うだろ。違う。……はず。違うと思うけど)
もしかして、と考えてしまったその瞬間から、鼓動が速くなる。不愉快な高鳴りではないのが困りもの。
(だって俺が至を好きだなんて)
浮かんでしまった可能性が、体の中にすとんと落ちてくる。
好き、というのは、恐らく恋愛感情でだ。
それを肯定する理由はいくらでも浮かんでくるのに、否定できる理由がひとつも見つからない。強いて言えば同性だということくらい。
千景はあてもなく歩きながら、ガンガンと痛む頭を押さえた。
同性ということで、上手くいかない可能性は高い。最初から諦めたい気持ちはよく分かる。こんなことは誰にも言えないし、受け入れてもらえるとも思えない。
(あんまり、よろしくないだろ、中学生だっているんだし……多感な時期だ。あぁ……でも、万里と紬は、たぶんそうなんだよな。みんなが知ってるかは分からないけど)
朝、万里と紬の間に流れていた空気のことを思い出す。親密な様子は特別な関係を匂わせていて、隠す素振りもなかった。公認の仲なのかもしれないなと、千景は少し頭を休めるために近くのコンビニへと足を踏み入れた。
コーヒーでも買おうとドリンクコーナーへ向かって、目に入ったのはコーヒーでなくコーラ。色は似たようなものだが全然違う。
きっとさっき至が「ピザとコーラ」とLIMEしてきたからに違いない。千景はそれを認識して、自覚できるくらいカッと?を紅潮させた。
(違う違う、そうじゃない。そうじゃないけど。……違わない、気が、して……きた)
些細なことでも彼を思い出してしまうなんて。それが嬉しいなんて。
小さくうなりながら、ドリンク棚から無事に缶コーヒーを手に取り、レジへと向かう。
レジ傍のフードケースに、美味しそうなピザまんが誰かに買われるのを待っていた。それにまた反応して、挙動不審になってしまう。無糖と間違えて微糖を買ってしまったことなんて、小さな悩み事になった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-018-
「密のこと、何か覚えてるんですか!?」
「……いや、分からない。昨日いた、よね……」
「ああ、はい……先輩の無事が分かったら帰りましたね……」
そういう意味かと、至は再度腰を下ろした。
密のことだけでも思い出したのかと思ったのにと、がっかりしたのが伝わってしまったのか、千景が気まずそうな顔をした。
「ごめん……」
「あっ、いや、すみません、俺らのことは気にしないでください。別に思い出さなくてもいいし、誰も責めやしませんよ」
「……ねえ、至って、俺と特別親しかったりしたのか?」
「……――は?」
ドクンと心臓が音を立てる。思い出さなくていいと言った傍から、千景は核心をついてきた。頭のどこかに、残っているのだろうか。
「な、んで」
「昨日彼が……密が言ってた。オレのことはともかく、至まで忘れるなんて、って……密だけが、唯一俺を責めてきたんだ」
至は目を瞠った。まだ千景自身混乱していただろうあの時、密の放った言葉を明確に認識していたというのか。
「だから、至とは親しかったのかと思って。それなら本当に申し訳ない……」
「い、いや、だってほら、職場も部屋も組も同じなんで。そりゃ他のメンバーよりは、多少仲が良かったかもしれませんけど。と、特別な意味なんてないですよ」
至は慌ててぶんぶんと手を振り、特別の意味を払いのけた。特別イコール恋人だったとは思っていないだろうが、変な気を遣わせたくない。事実、自分たちは特別な関係ではなくなっていたのだから。
「あの……先輩、俺のこと迎えに来てくれてたんです。そこで事故に遭って……俺のことかばったんですよ。謝るのは、俺の方です。俺のせいでこんなことになって、すみません……」
本来なら千景が負わなくていい怪我だった。忘れなくてもいい記憶だった。いや、彼は忘れたかったのかもしれないが、原因のひとつに至があることは否めない。
「至を? ふぅん……そうなんだ」
千景は目を丸くして、そしてじっと見つめてきた。普段になかった名前で呼ばれ、そんなにまっすぐ見つめられてしまっては、胸が変に騒ぐ。気を引き締めていないと、言いそうになってしまう。
自分たちは恋人なのだと、都合のいい〝嘘〟を。
「至が謝ることないと思うけど……もしそれを苦しく思ってるなら、お願い聞いてもらってもいいかな」
「お願い? えっと……なんです? 俺ができることであれば」
「もっと劇団のことを教えて」
「は? そ、そんなの……他にもっと適任いるでしょ、監督さんとか……あと、左京さん。眼鏡のヤクザっぽい人いたでしょ、昨日」
「至から聞きたい。至の声、すごく安心するっていうか……心地いい? なんでだろう……」
千景はそう言ってぽすんと体をベッドに沈める。至はカッと?を紅潮させた。そんなことは、千景からも聞いたことがない。
恥ずかしくて嬉しくて、至は口許を押さえた。
「あ、ごめん、でも至も仕事忙しいよな。彼女とデートとか、あるだろうし……ごめん、都合も聞かずに」
「いやっ、それはいいんですけどね。先輩って今までそういうカンジで女の人口説いてたのかなって。今の、男の俺でもちょっとキたっていうか、恥ずかしい」
「えっ? そういうつもりはなかったんだけど、ごめん」
千景が慌てて否定をしてくる。ほんのりと?が染まっているようで、新鮮なものを見た気分だ。
「俺でいいならいくらでも。ちょうどそういう親しい相手もいませんしね」
「そうなの? でも至はモテるだろ。ああ、女の子にしてみたら、イケメンすぎて近寄り難いのかな」
先輩に言われたくありません、とにっこり笑って返してやった。実際、見舞品だって九割が女性からなのに。
「そういえば、俺は? 誰かそういう……恋人とか、いたのかな……いたのなら、その人にも知らせてあげないと」
「彼女の話なんか聞いたことないですよ。もちろん見たことも。仕事終われば帰って稽古だし、公演なくたって他の組のサポートとかあるし、休日だって先輩は引きこもってネットサーフィンか、万里と脱出ゲームか監督さんとスパイス巡りかだったし」
そもそも女性に関心がなかったようだとは、言わないでおいた。同性愛者だと分かれば、いつか至とのことに行き着いてしまうかもしれない。他人に聞かされた〝先入観〟や〝責任〟だけで、ヨリを戻してほしいわけではない。
(例えばこのまま記憶をなくした状態で、知らない女の人と幸せになるルートだって、あるわけで。……ある、ん、だよな……しんどいことに)
千景に自分とのことは言わないと決めた以上、彼がこの先誰を好きになろうが責めることはできない。
できればそれを祝福できるよう、心を強く持たなければと、気づかれないように太腿の上で拳を握った。
「俺もフリーだったのか……というか、芝居ばっかりだったのかな」
「そのケはありましたよ。入った当初は、ホント素人のくせに演技だけは上手かったし。腹立つ」
ちょっとしたいざこざを乗り越えてからは、芝居馬鹿……というか、春組馬鹿になった。
「紬と丞ほどじゃないんですけどねー。割と、まあそれなら仕方ないかって言いながらも、すごい楽しそうにしてました」
至は劇団サイトの紹介ページを見せながら、それぞれの個性を呟いていく。平均年齢がいちばん低い夏組は元気で騒がしいだの、秋組はガラが悪くて面白いだの、お酒を飲むなら冬組での飲み比べはやめた方がいいだの。
そして春組は、いちばん丁寧に、ゆっくりと説明した。
「真澄はね、本当に監督さんのこと大好きなんですよ。重いなーって思うけど、若さですかね。分かりやすいアプローチしてて、いつか実るといいなあって。綴はうちの大事な劇作家。役者と作家の両立って本当に大変だと思いますよ。加えてちゃんと大学行ってんですから。あ、脚本読んだんでしょ? どうでした? 泣きますよね」
至が話している間、千景は小さく相づちを打ってくれる。言葉が途切れた辺りで、質問が飛んでくる。それに答え、また話す。変な茶々を入れられることもなく、ゆったりと時間が流れた。
「シトロンは日本語の使い方が面白くて。たまにわざとやってるみたいですけどね。だけど笑いが絶えないから、ある意味ムードメーカーなのかも。咲也は大事なリーダー。一見頼りなさげに見えるけど、芯が強くて、まっすぐなんです。何よりも芝居が大好きで、その情熱で俺たちを引っ張っていってくれる。みんな大事なメンバーです」
「……至は?」
「は、俺ですか? いやー俺はどうだろ……休日どころか平日だってゲームしかしてないし、芝居はそこそこ好きだけど、体力ないし、人と関わるの苦手だったし、そういう俺が、なくてはならない存在だなんて、言えないでしょ」
「でも、いてくれなきゃ困る」
え、と至はタブレットから顔を上げる。そこで千景の瞳とぶつかった。
「何言って……あ、人数的な意味なら、そうかも」
「違う、そうじゃなくて……こんなに丁寧に、嬉しそうに春組のこと話せるのは、至が大切に思ってるからだと思うよ。俺は芝居のことは分からないけど、気持ちをひとつにできなきゃ駄目なんだろ? 至が大切に思ってることは、きっとみんな知ってるから、至だって大事なメンバーの一人なんじゃないの?」
技術的なものでなく、構成的なものでもなく、感情として、必要とされるもの。それは大切なことだ。技術も構成も、割とどうにかできるものだが、感情だけは強制されるものではない。
「一緒にやりたいって思ってるから、こんなにたくさんの公演してきたんだろ。自信持って、至」
特に悩んでいるわけでもなかったが、言われて悪い気はしない。
至は恥ずかしそうに目を泳がせて、はいと頷いた。
「今は、そこに俺の居場所がないかもしれないけど、いつか一緒に舞台立てるといいな」
「は? 何言ってんですか。退院したら様子見ながら稽古に決まってんでしょ。一応ファンもついてきたんですよ、次の公演だってあるんですからね。記憶がなくたって、先輩にも頑張ってもらいますから」
「…………お手柔らかに頼むよ」
千景は目をぱちぱちと瞬いて、顔を引きつらせる。
いったいどれだけ厳しい稽古なのかと、案じているに違いない。
「まぁ大丈夫ですよ。体力のない俺がついていけるくらいの稽古ですから。……体力は、ちょっと、つけようと思いますけど」
「ははっ、じゃあ、まあ俺にできる限りで、頑張るよ。ありがとう至」
つけようと思う気持ちはある。あるのだが、実施にいたらないのが情けない。目を逸らした至に、何かを察したのか、千景が片を震わせて笑った。
胸が鳴る。それを自覚して、至は腰を上げた。
「じゃあ、俺そろそろ帰りますね。何か足りないものとかあります? 明日監督さんに持ってきてもらうよう頼みますけど」
「いや、大丈夫。あんまり迷惑かけるわけにもいかないだろ」
「は~それ禁止~。俺らには迷惑かけてもいいんですよ。後で三倍返ししてもらうんで。先輩、甘えるの下手ですよね」
「……そういうものなの? いや、でも足りないものとか特にないから、平気だよ。ありがとうね」
不思議そうに首を傾げる。そんな仕種はあんまり見たことがなくて、やはり以前の千景とは違うのだなと実感させられた。
「じゃあ、おやすみ至。気をつけて帰ってね」
「……はーい。おやすみなさい、先輩」
だけどこれが千景でないとは言えない。千景の中に眠っていた性質なのかもしれない。
至は病室を出たが、直後、大きなため息が聞こえた。千景のものだ。それは疲労を伴っていて、思わず振り返って戻ろうとしたが、千景はそれを望んでいないだろうし、面会時間ももうすぐ終わってしまう。
(そりゃ、疲れるよな……何も分からない状態で、俺らにも気を遣って……。検査とかもあるんだろうに)
至は、気づいてやれなかったことを申し訳なく思いながら、病院を後にした。
過度な接触は、お互いのために良くないと思い、翌日は見舞いに行かなかった。その次も、その次の日も。
お互いがお互いであるためには、それが最前だと、この時は思っていたのだ。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-017-
いづみからの一報で、千景の無事は分かっていた団員たちだったが、朝改めて現状を知らされた時も、動揺を隠せない様子だった。
「そんな、千景さんが……」
「ちかげ、ぜんぶわすれちゃったの~?」
「Oh……昔のヒソカと一緒ネー……」
「劇団、どうすんの?」
「怪我の方はどうだったんですか?」
昨夜、というか朝方だったが、いづみたちの帰宅を待たず就寝させられた面々が、特に質問責めにしているようだった。
至は臣の作ってくれた朝食を無理やり、そうとは見えないように詰め込んで、千景の着替えを見繕っていづみに渡し、早めに寮を出た。万里や紬の視線を感じたけれど、振り返ってなどいられない。
この状態では今日も運転は危ないかなと、自身の体調や昨夜のフラッシュバックを懸念して、電車通勤に切り替える。タトンタトンと単調な振動に揺られていれば、心を無にできた。
職場の方はかなり慌てたが、不思議と仕事は少しの振り分け程度で済むらしくて、千景には長期の療養期間をくれた。有休も溜まっていたのだろう。
仲介役となってしまった至は、人事部や総務部とのやり取りで、自分の仕事が少しも片付かなかったが、忙殺されていれば嫌なことは考えずにすんで、むしろありがたかった。
(……職場の方でも完璧っていうか……いや、こっちだから、かな。いなくなっても仕事回るようにしてある……)
昼休みには、お見舞いだのなんだのを持ってくる社員、主に女性たちであふれ、至のデスクはあっという間に千景への見舞品で一杯になった。
そのうち何名かは、至と話す口実にしていたようだが、さてこの荷物をどうしよう、と思案する。
千景の入院も、そう長いものではないし、ナマモノだけ病室に届けてやろうと整理を始めた。気を利かせた同僚が紙袋をどこかから調達してきてくれて、ありがたく使わせてもらう。
そうして仕事が片付かないまま、至は定時で退社した。定時で上がらなければ、病院の面会時間が過ぎてしまう。
電車で二駅。
歩けない距離ではなかったが、この荷物を持って歩くのは避けたかった。もっとも、この時間帯では電車も混んでいて、押し潰されそうな見舞品を守るのに大変な思いをしたわけだが。
病室の前について、至はごくりと唾を飲み、深呼吸を三回ほど繰り返した。
千景に、普通に接せるだろうか。会社の後輩として、劇団の仲間として。
(普通に、普通に。普通ってどうやるんだっけ。ホント思い出せない)
千景と、ただの先輩後輩として接していた時のことが思い出せない。いっそ自分も記憶喪失のようだと思ったが、ここでこうしていてもしょうがないと、意を決してノックをし、返事を聞く前に勢いだけでドアを開けた。
「あ」
千景はベッドの上に体を起こして、本を読んでいたようだ。至の姿を認め、少し気まずそうに顔を歪めたのが、心臓に突き刺さる。
「先輩、具合どうですか」
「え、ああ、うん。痛みとかはないんだ、平気。えっと……ごめん、きみの名前も分からなくて。昨日の人たちが、至って呼んでた気はするんだけど……それで合ってるかな」
どき、と胸が痛みでない感覚を伝えてくる。
名前は至で合っているが、千景にその音で呼ばれたことはない。
「は、い……茅ヶ崎、至です。俺、会社の後輩で、同じ劇団に所属してました。寮も……同じ部屋で」
「そうなんだ。うん、劇団に入ってたってことは、今日来た……えっと、いづみさんに教えてもらった。さっき脚本も読ませてもらったよ。俺が役者だったなんて、まだ信じられないけどね」
千景はまだ何も思い出せないらしい。
頭にも、腕にも包帯が巻かれたままだ。
記憶をなくす前よりも穏やかに音を操るのは、不安に揺れているからだろうか。
「会社の後輩ってことは、至とも、仲が良かったんだろ。ごめん、忘れてしまって……職場の方、大丈夫なのかな。仕事回るのかどうか……」
「まあ、職場でもそれなりにやりとりはありましたね。部署は違うんですけど。あ、これみんなからお見舞いです。入院、そんなに長引くわけじゃないんですよね。ナマモノ以外は寮に持って帰ります。あと、職場からは長期療養もらいました。落ち着いたら復帰してほしいって」
至は、千景とは逆に早口になってしまう。自分とのことを知られないようにと思えば思うほど焦りが生まれて、まともに顔が見られなかった。
「それと、仕事は部署の方でちゃんと回るみたいです」
「そうなんだ? 俺いなくても回るんだったら、あんまり大した仕事してなかったのかな……」
「違いますよ、誰が見てもできるようにしてたんでしょ。海外の取引先多かったから、俺は手伝えませんでしたけど……先輩は、よく……俺のこと気にかけて、手伝ってくれました」
しょんぼりと肩を落とした千景に、至は即座に否定を返す。千景が仕事のできない、ただのイケメンというだけなら、こんなに早く会社の手続きが終わるはずがない。こんなにたくさんの見舞品が集まるわけがない。それはひとえに、千景の人望だ。
「だから、先輩が大丈夫だって思うタイミングで、復帰したらいいと思います。日常生活には問題ないって、先生も言ってたんでしょう。俺も、その……さ、支えますから」
「ありがとう、至。ハハ、家族がいないって聞かされて、ちょっとショックだったんだけど、後輩や仲間には恵まれたみたいだな」
千景はそう言って笑う。うっかりときめいてしまいそうになって、慌てて顔を背けた。
「あ、先輩のタブレット持ってきましたよ。暇つぶしにはなるでしょう」
「俺が使ってたもの? 助かるよ。ここら辺から何か思い出せないものかな」
千景は至から荷物を受け取って、肩を竦めて苦笑する。至はなぜか、渡したくないような気分になって、タブレットをぎゅっと握った。
千景は忘れたかったのではないのか。このまま忘れていた方がいいのではないか。無理に思い出すことはないと。
「至?」
「えっ、あ、す、すみません……」
タブレットから手を放そうとしない至を、不思議そうに呼ぶ千景。至はハッとして手を放した。思い出せば、聞かなくてはいけないことが出てきてしまう。
どうして、と、納得のいく答えをもらうまで放せなくなるだろう。
思い出してほしいけれど、思い出してほしくない。
「ねえ至、劇団って公式サイトみたいなものあるのかな。見てみたい」
覚えていなくても、千景はここにいてくれる。以前みたいに、以前より、穏やかに、優しく笑いかけてくれる。それ以上は望みたくない。
「ありますよ。夏組にデザインやってるヤツがいて、すっごい格好いいの作ってくれてます。えーと……URL」
ブラウザを立ち上げて、そう長くはないURLを打ち込むか検索してもらおうと思ったが、千景が途中で「あ」と手を止めた。
「これかな。ブックマークに入ってた」
至がそうさせるよりも早く、千景の指先が動いた。タップして開いたのは、確かにMANKAIカンパニー公式サイトで、至はぱちぱちと目を瞬いた。そうして、思わず噴き出す。
「マ、ジか、せんぱ……っかわい、サイトをブックマークとか、本当カンパニー大好き過ぎだろ……っ」
千景が劇団を大切にしているのは知っていた。直接言われたことはなくても、分かる。自分という人間を受け入れてくれた、大切な居場所だろう。
そういう意味では、千景に負けないくらい至も劇団を大切に思っている。
「劇団員紹介……ああ、確かに俺がいるね。至と同じ春組なのか……」
「はい。最初は五人だったんですけど、先輩が入ってくれて、六人に。ちなみに他の夏秋冬もおんなじ感じですよ」
劇団員の写真やプロフィールが載っているページを、千景は熱心に確認している。やがて、ある人物のページで指先が止まった。
(――あ)
それは、御影密の紹介ページ。
「この子……」
他の団員と反応が違う。至は思わず、ガタリと腰を上げた。
#両想い #シリーズ物 #ウェブ再録 #千至 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-016-
「マジで忘れてんのかよ……」
「ど、どうしよう、一時的なものだといいんだけど……」
事故のショックが大きいのだろうと、紬は思いたいようだった。確かに、物理的にも精神的にも衝撃的なできごとで、普通の生活をしてきた人間なら、それも仕方ないかもしれない。
だけど、千景は普通の世界で生きてきた男ではない。
至が想像する以上の修羅場をくぐり抜けてきたのだろうことが、眉を寄せた密から伺いしれる。ただの交通事故のショックで、記憶まで飛ばしてしまうなんて思いたくなかった。
いくら千景でも記憶のコントロールまでできるわけはないと分かっていても、強靱な肉体と精神をしていると思っていたのに。
「ひ、ひそ……か、ごめん……」
至は俯いたままぼそりと呟く。密の顔は見ることができなかった。
千景自身が何よりも大切にしていた、密のことまで忘れてしまった。どれだけ腸が煮えくり返っているだろう。
「オレのことはともかく、至のことまで忘れるとは思わなかった、千景」
(……え……?)
密が、責めるように呟く。それは至が千景が密を忘れたことに対して思ったのと同じことで、自身のことには触れられない。
「お前が守りたかったのって、至なの、それとも自分なの」
言って、密は病室を出ていく。至は思わず後を追った。
「密! 今の、なに……どういう意味」
廊下で、呼び止めた密の背中に問いかける。守りたかったというのは、どういうことだろう。
「至……ごめん、アイツはただ、臆病なだけ……。オレたち三人の中で、いちばん情が深かった」
「三人……え、あ、……オーガスト、さん」
密は立ち止まって振り向き、こくりと頷いた。彼らがどうやって出逢い、どうやって暮らしてきたか、至は知らない。踏み込んではいけない領域だと思っている。
「……密は、怒ってる? 先輩が忘れちゃったこと。大事な家族なんでしょ」
「別に怒ってはない……でも、アイツが落ち着いたら、謝らなきゃいけないとは……思ってる」
「え、なんで……」
「オレも千景を忘れてた。再会するまで。再会しても、怖がって思い出すのを拒絶した」
あ、と至は思い出す。そういえば、密も記憶喪失だったのだと。
何がきっかけで、どこまで思い出しているのか至は知らないが、劇団の稽古や、彼の所属している冬組との関係性に、支障はなさそうで気にしていなかった。
「オレがあそこでのんびり暮らしてる間、千景もこんな思いをしてたんだって……気づいたから、怒っては、ない……寂しいのはあると思うけど、言ってなんかやらない」
ずきりと胸が痛んだ。記憶がない間、密の周りにはたくさんの仲間がいた。千景はそれを、どんな思いで見ていただろうか。
「至、ごめん……」
「なんで密が謝るの。俺だって、先輩を怒る気持ちなんかないし。突然一方的に別れられたことに関しては、怒ってるけど……今はそんなこと言ってる場合じゃない」
別れを切り出しておいて優しくするような無責任な男ではあるが、それと記憶喪失の件は別問題だ。
「日常生活には、たぶん問題ないと思う……オレがそうだったからって、アイツがそうだとは限らないけど。受け答えもしっかりしてたし、医者がいいって言えばすぐ出られる……」
「そっか……」
記憶喪失経験者――というのはおかしいかもしれないが、密がそう言うなら、千景の日常生活に関しては、それほど心配したことでもないのかと、肩の荷が下りた。
「じゃあ、オレは帰る……ここにはマシュマロがない」
そう言って、密はくるりと踵を返す。帰る理由が密らしいなと肩を竦め、至は病室へと戻る。
だがそうしても、やっぱり千景の記憶は戻らないままだった。
「物事に対する知識はしっかりありますから、生活に問題はないでしょう。自分自身と、周りの環境を覚えていないようで、一時的なのか、それとも長期的になるのか」
医師は言葉を濁して、いづみたちに説明をしていた。不安そうにする面々の中で、左京は比較的落ち着いて状況を把握し、今後必要なことを確認している。
ひとまず検査のためもあり入院は必要なようで、身の回りのものを準備しなければいけない。
「着替えなら俺取ってきますね。先輩、ほんとに私物ないんで、そこらへんは楽でいいわ」
「茅ヶ崎……お前、大丈夫か?」
左京なりに気を遣って、具体的な言葉にはしない。その気持ちはありがたいが、至は苦笑した。
「平気です。それと、あのことは内緒にしてくださいね。混乱させるべきじゃない」
「至さん、どこ――」
「いったん戻る。俺の車、パーキングだし。あ~……会社に連絡しなきゃいけないのか……明日出勤したら即だな……」
至も、千景に背を向けて病室をあとにする。心配して、紬と万里が追いかけてきた。
「至くん、ねえ、さっきの話」
「どの話?」
「とぼけんのかよ、別れたってやつ、マジなのか?」
「それと、千景さんには内緒にしておくっていうの、本気なの?」
エントランスへ向かう階段を下りながら、至はややあってうんと頷く。
納得していないとはいえ別れたのは事実だし、そのことを今の千景に言うつもりもない。
「見た? あの先輩が、めいっぱい不安そうな顔してんだよ。自分のことも分からない、周りには知らないヤツばっか。怪我までしてんのに、なにがあったのかさえ思い出せない。そんな状況で、なにを言えって言うんだよ」
首を傾げ、目を細め、不審げに片眉を上げて見つめられた。本当に知らない男を見るような瞳は、不安でいっぱいだった。後ろにいた万里たちには、それは分からなかったかもしれない。
「そりゃ、今は混乱させるだけだって分かるけどさぁ! アンタこのままでいいのかよ!」
万里の苛立った声が耳に届いて、至は自動ドアの前で勢いよく万里を振り向いた。
「いいわけないだろ! たった一度の初恋なんだぞ!」
万里が、紬が、息を飲む。
この先、もしかしたら恋をするかもしれない。千景ではない別の相手と。
だけどそれは初めての恋ではなくなるし、千景はどうしても至の心に住み着くだろう。
「でも、先輩が望むんだったら俺は忘れたふりして生きてくわ」
忘れてほしい――そう言ったあの時の千景の声が、まだ耳にこびりつく。
忘れてほしいと言った彼の方こそが、すべてを忘れてしまったのは、なんとも皮肉な話だ。
しかし、スイッチを切り替えるように、すべてを思い出させることなんてできやしない。
奇しくも自分たちは、客の前で別人を演じる舞台役者ではあるが、実際の生活では早着替えもシナリオも存在しないのだ。
「悪い、万里、紬。ちょっと一人にしてくれ」
それだけ言って、至は病院の自動ドアをくぐり抜けた。悔しそうに、寂しそうに二人が立ち尽くしているのは気配で分かったけれど、今の至には彼らを気遣う心の余裕がない。
だけど思ったよりも自分の足取りはしっかりしていて、千景が車を停めたであろうパーキングまで、たどり着くことはできた。
ひとまず精算と出庫を終え、寮へと向かう。
気づけば時刻は午前三時。
終電もとっくに終わっていて、この車がなければ人数的にタクシーを使うしかなかった。その点だけは、車を持ってきてくれた千景に感謝しておこう。無駄な出費はしたくない。
信号をいくつかやりすごして、横断歩道は特に慎重に走らせて、強くステアリングを握る。
自身の手にも巻かれた包帯が、現実を知らせてくる。
じんじんと痛み出す擦り傷が、胸の痛みにすり替わっていく。
運転している時にあまり考え事はしたくないと、できるだけ速く、それでも法定速度で車を走らせた。
寮の駐車スペースに着いてようやく、至はシートに体を沈めた感覚を味わう。
ステアリングから手を放そうとすると、ガチガチに固まっていることに気がついた。そんなに緊張していたのかとゆっくり息を吐き、吸い込み、止めて、唾を飲み込んでまた息を吐いた。
「……っ」
途端、あふれてくる涙。
「やば……ヤバい、駄目だ」
手のひらで目元を覆う。その手のひらがどんどん濡れていき、せき止めていられなくなり、?を雫が伝った。
――寂しい。
悔しさより、悲しさより、何よりも寂しさが先立つ。怒りなんてない。千景が千景であることを最優先した結果なのだと、納得したい。
至は腰を折って、ステアリングに額を当てる。ボタボタと滴り落ちる涙が、スーツにシミを作っていった。
「……っ、ふ、う……ぅ、うぅ」
――寂しい。
一度知ってしまった彼の温もりを、どうやれば忘れられるだろう。距離を置けば、口を利かなければ、いっそ彼のようにすべてを忘れられたらいいのにと、口の端を上げて笑う。
「せんぱい……そんなに、忘れ、た、かった、のかな……っ」
記憶の喪失は潜在意識と防衛本能だと何かで読んだことがある。
それが大学の講義資料だったのか、はたまたラノベだったのかさえ思い出せないが、それが本当なのだとしたら、千景は至とのことを忘れたかったということになる。
それが、千景が千景であるための衛りだというのなら、なおさら無理に思い出させることはできない。
混乱は混乱を呼び、取り戻せる記憶さえ閉じ込めてしまうかもしれない。
また一から始められるなんて前向きなことはまだ思えないけれど、受け入れるしかなかった。
ただ少しここで泣き納めだと、至はステアリングに爪を立て、声を殺して一人で泣いた。
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ふたりの約束-015-
「摂津もきたのか。御影まで……わらわらと大所帯だな」
病室へ入れば、ちょうど手続きを終えた左京と鉢合わせた。ベッドには千景が寝かせられており、非日常を窺わせた。
「監督さんは?」
「電話しに行った。さっき医者に聞いたが、骨折というかヒビが入ったみたいだな、腕。退院しても、しばらく稽古は休ませた方がいいだろう。首や背骨に異常はなかったそうだ」
それを聞いてホッとした。外傷はなくても内に傷があるかもしれないと危惧していたが、それもないようで。
「ただ、頭打ってるからな。意識が戻ってからもう一度検査するらしい。この程度で済んだのは運が良かったとさ」
「こんなとこまでチートなんですかね……」
至はベッドの傍に佇み、包帯の巻かれた千景の頭に触れた。そして、擦り傷のついた?へ。指先で鼻筋を撫で、唇を押す。
彼の意識がある時には、もう触れられない場所だ。
「千景さん、早く目ぇ覚めるといいね、至くん」
「つーか、左京さんとか密さんて、知ってんの、これ」
背後で、紬と万里が呟く。そういえば密は知っているが、左京はどうだっただろうと、至はようやく思い至った。
「オレは知ってた……千景の様子がおかしかったから」
「……まあ、薄々な。寮の秩序は乱してねえみたいだし、そこはその、俺がどうこう言えたもんじゃねえ」
「ははっ、確かにな」
左京も、同性の恋人が劇団内にいる。その事実は至も知っているけれど、彼らから直接聞いたわけではない。あまり深くは突っ込まないようにしてやろうと、口の端を上げた。
「このメンツだから言うけどさ。俺……先輩とは別れたんだ」
別れた、という音を、当事者以外に発するのはこれが初めてだ。途端に事実を認識して、体が急激に冷えていく。
「え……は!? なに、言って」
「えっと……どういうこと、至くん」
「そんな素振りなかったと思うが……事実、コイツは夜遅いからってお前を迎えに行ったんじゃねえのか」
万里が肩を掴んで振り向かせてくる。紬は目を大きく見開いて、左京は眉間に深いしわを刻んでいた。
「どうもこうも、言葉の通り、別れた。一方的なものだったけど……忘れてほしいって言われたよ」
「はあァ!? なんッだそれ、ふざけんな!」
「ば、万里くん落ち着いて。至くんに言ってもしょうがないじゃない。でも、どうしてそんな……ザフラで、ちゃんと気持ち確かめ合ったんじゃないの?」
至が怒れなかった分、万里が怒ってくれる。至が訊けなかった分、紬が訊いてくれる。
「突然だったから、俺だって驚いたよ。まだ納得できてない。でも、先輩の気持ちは変わらないんだろうなって思って、優しくするのはやめてくださいって言った矢先だったんだよね、事故」
「そりゃ納得なんかできねえだろう。距離を置くならまだしも、過保護に迎えに来るようじゃ」
「そうなんですよね……余計なことしやがって、クソが……」
至は傍にあった椅子に腰をかけて、息を吐いて肩を落とす。結局、千景の真意は聞けていない。どういうつもりで抱いていたのか、なんのつもりで迎えになんか来たのか。
目が覚めたら、いの一番に訊いてやろうと、千景の寝かされたベッドに突っ伏す。千景の匂いがしないベッドは、落ち着かなかった。
「至……千景は、至のこと」
押し黙っていた密が、ぼそりと呟く。何か知っているのかと思ったのは、密がいちばん千景に近かったからだ。
仕事で何かあったのか、今ここで訊ねるわけにもいかないが、至は体を起こして密を振り返った。
「至のことが、大事なだけ……」
「は? いや意味が分からん」
思わず口をついて出た。大事だと言うならば、ちゃんと納得させてほしい。そう思った時、
「う……」
千景のうめく声。腕に触れていた指先が、その腕と一緒に浮き上がり、落ちる。
「千景さん!」
「摂津、ナースコール!」
紬が嬉しそうな声を上げる。左京が素早く指示を出す。万里がすぐさまボタンに手を伸ばし、密もベッドの近くへ歩み寄ってきた。
そして、至は。
「せん、ぱい……」
重たそうに持ち上がった腕が、額に乗るのを見て、ようやく声を発した。
千景の意識が戻った。
命に別状はないと分かっていても、不安で仕方なかったものが、全部払拭された。
千景の真意を問いただそうとは思っていたものの、今はそんなことどうでもよくなってくる。千景が意識を取り戻してくれた。それだけで、充分だと。
「千景さん、大丈夫っすか。痛みは? すぐ医者とか来っから」
「ちょっと入院が必要だそうなんで、あとで荷物とか準備してきますね」
「千景……大丈夫……?」
「てめぇら、怪我人の頭の上で騒ぎ立てんじゃねえ!」
諫める左京の声がいちばん大きい、と万里が反論をする前に、コールを聞きつけた看護師たちが駆けつける。至たちは、千景の症状を確認するより先に、病室の隅に追いやられてしまった。
そうして、寮への報告を終えてきたいづみも加わり、手狭感が否めない。だけど千景が無事であることを確認するまで、立ち去ることもできやしない。
「と、とにかく目が覚めて良かったね。骨のヒビも、千景さんなら明日には治ってるかもしれないし」
「いやそれはねーわ」
「いくら千景さんでも、それはちょっと……」
「現実を見ろ、監督さん」
いづみの突拍子もない物言いに脱力する面々の中、医師たちは意識の戻った千景に、自覚症状を聞いているようだった。痛み、違和感、不快感など。機械の検査だけでは分からないことも多々あるのだろう。
そして、一瞬医師たちの声が静まりかえった瞬間があった。
「どうしてこんなところにって、ここは病院だよ。何があったか覚えている?」
「……いえ、分かりません……」
それは確かに、医師と千景の声だった。え、と短く息を吐き、全員でそれを振り向く
。医師は看護師に何かを伝え、看護師は慌ただしく病室を出て行った。
「え……なに、今の」
「ど、どうしたんでしょう、何かあったのかな」
万里が顔を引きつらせる。紬が不安そうに、看護師の出ていった扉を見つめる。
至は足を踏み出して、医師の元へ歩み寄った。
「先生、あの、何かあったんですか」
「え、ああ、いえ……その、どうも記憶が混乱しているようで、なぜ自分がここいいるのか分からないみたいなんですよ。自分は専門外なので、今担当医を呼びにやっています」
「記憶が、混乱……」
「事故のショックで、一時的なものなのかもしれません。えぇと……自分の名前は言えるかな」
医師は千景を振り向く。千景は少し首を傾げ考え込み、きょろりと辺りを見回し、ベッドの柵に掲げられた表を見て呟いた。
「卯木千景と書いてあります。それが俺の名前ですか?」
言えた、とは言っても、それを自分の名前として認識している様子はない。
「なに、も、覚えて、ない……ん、ですか」
至は震える声でどうにか言葉にし、訊ねる。千景が振り向いて、じっと見つめてきた。
「何も。きみは俺のなんなんだ?」
愕然とした。自分の名前も言えないような状態で、ある程度覚悟はしていたが、こうまではっきりと言われてしまうと、感情のやり場がない。
千景が、何もかも忘れてしまった。
ぐらりと視界が揺れる。崩れかかった体を支えてくれたのは万里で、それに甘えてしまいそうになった。
「……千景。全部忘れてる……?」
「千景さん、えっと、わたしたちMANKAIカンパニーっていう劇団で一緒にお芝居してたんですよ。みんな心配してます。覚えてないですか?」
密は眉を寄せ、いづみは眉を下げ、それぞれ千景に訊ねる。千景はふるふると首を振り、
「ごめん、思い出せない」
そう、小さく呟いた。
至は血の気が引いていく思いだった。自分のことはともかく、密のことまで忘れているなんて。千景は?をつくのが得意なペテン師だが、こんな状況でタチの悪い?を吐くような男ではない。
本当に、自分が何者なのかも分からないようだった。
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ふたりの約束-014-
バタバタと騒がしい足音が聞こえる。いづみたちが到着したのだろうかと考えられるくらいには、意識ははっきりしていた。
至は長椅子から腰を上げ、彼女たちを迎える心の準備をした。
「あっ、至さん!」
「茅ヶ崎!」
「至くん大丈夫!?」
予想より多いメンツに矢継ぎ早に声をかけられ、気圧される。
「院内は走らないでくださーい。うん、たぶん先輩は大丈夫だと思う」
だが仲間たちの顔を見て安堵したのも本当で、ようやく大きく呼吸をしたように思う。
「よか、よかった――……!」
いづみが大きく息を吐き出して胸をなで下ろし、「そうか」と左京も眼鏡を押し上げる。予想外にいたメンツである紬も、ホッとした表情だった。
「それで、何があったんだ。デカい事故だったのか?」
ここに運び込まれた患者が多いことに気づいたのか、左京が険しい顔をして訊ねてくる。
至は長椅子に座り直し、横にいづみが座り、反対隣に紬が腰をかける。そっと腕を握ってくれる紬に、もしかして彼は、至を心配してきてくれたのだろうかとようやく分かった。
「よくある信号無視ですよ。歩行者信号は確かに青で、何人もの人が道路を渡ろうとしてた。そこに、追い越しプラス信号無視の車が突っ込んできたんです」
「よくあっちゃ困るだろう。よく無事だったな」
「別の車にぶつかった反動で、って感じでした。避ける暇も……なかった人たちが大半だったんだと……」
本来なら、至も避ける暇なく轢かれていたはずなのだ。それを千景が全部引き受けてくれた。
「あと、たぶん運転手は飲酒か薬物かやってたんだと思います……逃げ出したの捕まえられて、連れていかれたみたいですけど」
「あァ?」
左京の声が三段階ほど低くなる。
「事故現場……うちのシマにかすってやがんな……ふざけたマネしやがって」
「さ、左京さん?」
「ヤクの売買が関わってんなら、会長さんが黙ってるわけにゃいかねえ。ちょっと警察のヤツらとも話してくる」
左京がそう言って踵を返しかけた時、処置室のドアが開き中から医師が出てくる。至は反射的に腰を上げた。
「あのっ、先輩は」
「心配いりませんよ、腕の骨に少しヒビが入ったのと、背中の裂傷くらいでしょうか。頭を打っていたようなので、検査入院していただくようになりますが……えっと、ご家族の方は」
千景の受けていた怪我の様子を話してくれる医師に、やはり命に関わることではなかったのだと、四人で胸をなで下ろした。
「あ、えっと……彼、その、家族がいなくて……所属している劇団の責任者なんですけど」
おずおずといづみが名乗りを上げる。ここに咲也がいたら、オレたちが家族ですとでも言ってくれるだろうか。至は顔を背けた。
「そうですか。では手続きお願いしますね」
「こちらへお願いします」
「あ、はい」
「監督さん、俺も行こう」
いづみと左京が、看護師と連れ立っていってから間もなく、千景の乗せられたストレッチャーが出てくる。麻酔が効いているのか、意識はないようだった。
「あの、背中の裂傷ってひどかったんですか」
「背中というか脇腹にかけてこう、切れていましてね。恐らく車の割れた部分が裂いたのではないかと。ただ、かなり体を鍛えておられたようで、深いことはなかったです」
医師が指で患部を示してくれる。どれくらいの傷なのか分からないが、ゾッとした。至だったら、筋肉が守ってくれることもなく、深く臓器に達していたかもしれない。
「ここにも何名か運ばれましたが、命に関わるような重体の方はいませんでした。警察の方の事情聴取などもあるでしょうが、安静にさせてください」
至は頭を下げ、紬もありがとうございましたと震える声で礼を告げる。頭を下げたまま、ゆっくり息を吐き出したら、緊張の糸が切れた。
「わっ、至くん!」
至は崩れるようにそこに座り込んでしまう。うまく力が入らずに、立ち上がることもできない。危うく紬を巻き込むところだった。
「だ、大丈夫? ごめん、支えられなくて」
「いやごめん……大丈夫……情けない、腰が抜けたっぽい……」
「仕方ないよ、千景さんが無事で良かった」
紬が手を貸してくれるけれど、やっぱり上手く立てない。膝がガクガクと揺れて、自分のものではないようだった。
「あ、いた! 紬さん!」
その時、知った声が聞こえる。摂津万里のものだった。
「万里くん、来てくれたんだ。ごめんね忙しいのに」
「んなこと言ってる場合かよ、千景さんは!?」
紬が連絡したのかと、その会話から悟る。至は床にへたり込んだまま万里を振り仰いだ。
「平気だよ、先輩は。替わりに俺が大丈夫じゃありません……」
「何やってんすかアンタ……」
「腰が抜けました……ちょっと肩貸してください……」
「アハハ……俺じゃ支えられなくて。ごめんね万里くん」
しょうがねえなと言いつつ、万里はしゃがみ込んで至の腕を肩に担ぎ引き上げてくれる。大学に入って体幹もさらにしっかりとしてきたのか、ふわりと持ち上げられる感覚は、むしろ心地悪かった。
「で、千景さんは?」
「今病室に運ばれたとこ。腕の骨にヒビ入ったのと、背中の怪我? と、頭打ってるんだって。脳しんとうってヤツなのかな?」
いづみと左京が入院の手続きをしてくれていると紬が続ければ、耳のすぐ傍で、万里のホッとした吐息が聞こえてきた。
「なんだ、そっか。よかった……。だってさ、密さん」
万里がそう名を呼び、振り向く。至は目を見開いた。視線の先に、佇む密の姿。
「あ、密くん連れてきてくれたんだ、万里くん」
「おー、LIME見たの寮のすぐ傍だったからさ。丞さんに車出してもらった」
「え、丞は?」
「大勢で行ったってしょうがないだろ、だとよ。心配そうだったけど、まあそれも一理あるし。入院すんなら、個室だって全員来たら入れねーわ」
「そ、そうだね……」
丞なりに気を遣ってくれたのだろう。密が千景と仲がいいのは、誰だって知っている。至はさっと青ざめた。支えてくれていた万里から腕を外し、密の元へ駆け寄る。
「密っ……ごめ、ごめん、俺がいたからあのひとっ……先輩、俺のことかばったんだ、本当ならこんなことにはなってなかったのに」
ぶつかるようにして密の両腕を握る。いや、密の腕を握ることで、自身を支えているようにも思えた。
彼を大事に思っている、彼が大事にしている密のことをようやく認識したなんて情けない。最低だと至は俯いた。自分のことしか頭になかった。何も考えられなかった。
自分ひとりが彼を想っているわけではなかったのに。
「俺がいなきゃ、あの人はちゃんと避けられていたはずなんだよ。俺があの人に怪我させた……ごめん密……っ」
千景が一人だったら、かばう相手がいなかったら、こんなことにはならなかった。救護に回るはずだっただろう。
「……至のせいじゃないし、オレは別に千景のこと心配なんかしてない。うん……大したことなくて良かったとは思うけど」
密の手が、髪に触れて撫でる。それは思いのほか優しくて、温かくて、不意に――涙があふれてきた。
「至」
「やべ、ごめ……ちょっと、気が抜けて」
拭っても、拭ってもあふれてくる。情けなくて恥ずかしくて、至は俯いた。そうすることで余計に、あふれるものが多くなった。
「ほんとごめん……あークソ、止まれよ」
「別に止めなくてもいいんじゃねーの。彼氏が事故ってんだ、無事で良かったって気ぃ抜けるのも、気持ちが高ぶって泣いちまうのもしょうがねえじゃん」
万里も、頭をぽんぽんと軽く叩いてくれる。至は別の意味で頭を抱えたくなった。
言っておくべきか、黙っておくべきか。しかしこのタイミングで言わなければ、後々タイミングを逃してしまうだろう。
だがおかげで頭が冷えて、涙も引っ込んでくれた。至は?を拭って、深呼吸を繰り返した。
「……話しづらいんだけどさ。ていうか、病室行こう、ここ邪魔になる」
まだ治療を続けている事故の患者がいる。千景の処置は終わったのだし、どうも個室のようだし、そちらに行った方がいい。途中で寝そうになっている密を万里に引っ張ってもらって、千景の病室へと向かった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス
ふたりの約束-013-
「えっ、千景さんが? それで、容態はっ……」
「今、病院で治療中みたいなの。わたしと左京さんでひとまず行ってきます」
紬は青ざめて、口を押さえた。
命に別状はないようだが、どんな状態なのか。いづみたちだけで大丈夫だろうか、と思考をぐるぐると巡らせる。
組は違うが、大事な仲間なのだ、無事であってほしい。できれば、これからも芝居を続けていける状態ならば嬉しいが、と唾を飲んだ。
「警察の方から連絡があったんですか? ひどい事故だったのかな」
「いえ、至さんから……至さんを迎えに行った先でらしいので、詳しく聞いてないんです」
「えっ、至くんから!?」
紬は目を瞠った。瞬時に頭をよぎったのは、二人の関係だ。
いづみは彼らのことを知らないし、左京もどうだか分からない。至を支えられるのは、今この場に自分しかいないのだ。いてもたってもいられず、紬は口を開いた。
「監督、俺も行きます」
こんな時に限って万里がいない。足が震えているけれど、至はもっとつらい思いをしているはずだと、自分を奮い立たせる。
そうして玄関へと向かう途中、談話室が騒がしい。きっと千景のことでみんな動揺しているのだろう。
「左京さん、俺も」
「てめぇはここにいろ、何ができるわけでもねえだろ」
「それは、そうッスけど……」
十座が心配そうに眉を下げたのが見える。紬は、密と目が合った。そういえば、彼は千景と何かしらの?がりがあるのだったと思い出し、駆け寄った。
「密くん、ひとまず俺が様子見てくる。連絡入れるね」
「……アイツは、大丈夫だと思う。至のこと、頼みたい」
「えっ……、と、密くん、もしかして……知ってる?」
密がこくんと頷く。千景の心配より至の方を気にするということは、恐らく千景は大丈夫だろうという根拠のない自信が湧いてきた。
丞のようにとまではいかないが、かなり体を鍛えているようだし、彼の身体能力に期待をしたい。
だけど、至はそうもいかないだろう。恋人が目の前で事故に遭って、平気なわけがない。
「分かった……俺で力になれるか分からないけど。行ってくるね」
紬は拳を握りしめ、寮を出る。すぐ後から、左京も足早に出てきた。
「十座くん、なだめられたんですか?」
「アイツが行ってもしょうがねえだろ。こっちのヤツらうまくなだめとけって頼んできた。伏見もいるし、大丈夫だろうとは思うが。ああ、監督さんは後ろだ、運転すんな」
三人で車に乗り込み、紬は助手席でシートベルトを締めた。
そうして紬は、万里にLIMEメッセージを送る。千景が事故に遭ったこと、至が一緒だったということ、今自分が病院に向かっていることを。
こういったツールは未だに慣れないが、ちゃんと伝わるように言葉を選んで送ったつもりだ。
至を支えないといけないと思いつつも、やはり心細い。万里も大学の付き合いがあるだろうが、余裕があれば来てくれないだろうかと考えてしまった。
(また万里くんに甘えてる。俺の方が年上なんだから、しっかりしないといけないのに。こんなんじゃ、至くんを支えられない)
紬の心細さより、至の不安の方が絶対に大きい。紬は端末をぎゅっと握り締めて、重苦しい車内の雰囲気の中、至を思った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
ふたりの約束-012-
何を考えているのだろうと、至はエントランスのベンチに腰をかけて、携帯端末を眺めた。
LIMEのトーク画面は、千景とのやり取りを映し出している。
(迎えにって、ほんとなに? 俺ら昨日別れたよな? マジで一方的に、飽きたとか言いやがったくせに、なにこれふざけてんの?)
千景の行動の真意が、少しも分からない。
自分が飽きたからといって、こちらが割り切れているとでも思っているのだろうか。むしろ傷心の真っ最中だというのに。
人の心を推し量ることが壊滅的にできないひとなんだなと、腹立たしさを隠しもせずに足を組む。
そろそろ正面ゲートが閉められてしまう時刻なのだが、千景はまだ現れない。運転中かなと思えば電話をすることもできないし、メッセージを送ったって無駄だろう。
(ッあ~~ほんと何考えてんだよ! 別れたんだから放っとけよクソが。新手のイジメか。こっちはまだ好きなんですよ、どうしようもないくらいに好きなんですよ)
千景の迎えなど無視して、電車で帰るから大丈夫ですとメッセージだけ残して帰ろう――とならないのは、千景への気持ちが、いまだに至の中で育っているからだ。
フラれた状態で彼と一緒にいるのは苦しいけれど、嬉しくもある。今日は一日中顔が見られていない。視線も交わせていない。会話もだ。
少しくらい笑いかけてくれるかなと期待してしまうのは、どうしようもない。
(マゾっぽいな俺。イタイの嫌なんだけど)
もうすぐ着く頃だろうかと思うと、ドキドキとソワソワとズキズキが一緒にやってくる。
それと同時に、守衛がやってくる。ビルの見回りを終えたのだろう。正面のドアが閉められる時刻らしい。以降、残るのならば守衛に連絡をして、帰る時に裏口を開けてもらわなければいけないのだ。
それは面倒だなと、至はベンチから腰を上げ、もう出ますと守衛に告げて自動ドアをくぐった。
夜の冷たい風が?を撫でていく。その時、ちょうど到着した千景に声をかけられた。
「茅ヶ崎、遅くなって悪い。車、パーキングに停めてるから」
至は携帯端末から顔を上げて、スーツのままの千景を見やる。自分より早く退社したのに、スーツのままだとは。どこに寄っていたのだろうと、苦笑する。
だが、それを深く訊ける立場にはない。
「先輩って、本当に勝手な男ですよね」
「え?」
「あんまり優しくしないでくれません? ヨリ戻ることないんでしょ。さっきまでは平気かなって思ってたけど、やっぱ無理だわ。先輩と車の中で二人っきりって、かなりしんどい。電車で帰ります」
迎えに来てもらって悪いですけれどと続け、千景を通り過ぎかける。だけど腕を掴まれて、叶わなかった。
「……悪いとは思ってる。だけど夜遅いし、この間変な視線感じたって言ってただろ。最短ルート通るから、一緒に帰ろう」
至は目を見開いて、ついでぱちぱちと瞬いた。何の気なしに言ったことを覚えていたのか。それで危ないからと心配して、着替えることもなく迎えに来てくれたのか。
嬉しいと思ってしまう自分が情けない。?の筋肉が緩みそうになるのを押さえたせいで、変に歪んだ。
入団当初はあの部屋に帰ることもなかった千景が、まさか〝一緒に帰ろう〟だなんて。
「あ、の……それは、原因分かりました、し。もうなくなると思います」
「……そう。茅ヶ崎のこと好きなヤツとか? まあ、でもここまで来たから、行こう」
最短ルートを通ってくれるなら、二人きりでいる時間は少なくなるだろうし、心配をかけてしまったのは至の責任でもあって、何よりこの力強い手が逃がしてくれそうにない。
電車代だって浮くし、といろんな言い訳を探して、至はこくんと頷いた。
「あ、その前にあそこのコンビニ行っていいです?」
「ああ、もちろん。そうか、お前メシ食ってないんだろ。食欲がないなら、えっと、おかゆとかの方が」
「……なんで知ってんですか」
「密に聞いた」
「…………そうですか」
二人でそろって歩き出す。至が行きたがっているコンビニは、道路を挟んだ向こう側。こちら側にもコンビニは見えるが、少し遠い。信号待ちの時間を考えても、向こう側の店舗がいちばん近かった。
横断歩道の手前で立ち止まり、至は俯く。同じように道路を渡りたい人々が、わらわらと集まってくる喧噪の中、至は細く息を吐き出した。
隣にいることが苦しい。傍にいられることが嬉しい。この矛盾は、どうやったら消化できるのだろう。
「……別れたこと、言った方がいいんですかね」
「…………密には、話した。アイツはお前のことを気にかけていたからな」
「いや、俺っていうか先輩のことでしょ。嫌みじゃなくて……密は先輩のこと大事だから……その延長で俺を気にかけてくれてただけで」
千景と密の間には、誰も入り込めない。たとえこの先どちらかに恋人ができても、家族ができても、二人の絆は別のカテゴリにある。至も、今でさえそれには嫉妬する。
「茅ヶ崎、俺は」
「俺は先輩を知る前に、フラれちゃいましたけどね」
その絆が強い理由は、理解しているつもりだ。だからこそ、羨ましいと思うだけで留めていられる。千景の世界に踏み込めない至では、どうしようもない。
「……お前は、こっちに入ってこなくていい」
「――分かってますよ。俺だって危ないのなんかごめんです」
千景自身も、至が踏み込んでこないことを望んでいる。それが分かっていたから、彼の日常でありたかった。
これからは、会社の後輩として、劇団の仲間として、ルームメイトとしてしか、接することができない。
「分かってるならいい」
押し殺した千景の声が耳に届く。
視線を落とした先で、千景が太腿の横で拳を強く握りしめるのが目に入った。
至は顔を上げて千景の顔を見やりかけたが、その時ちょうど歩行者用の信号が青に変わる。我先にと慌ただしく道路を渡りかける人たちにつられて、至たちも足を踏み出した、その時。
右の方から、ギッギャアアァァと悲鳴のようなブレーキ音。続いて何かがぶつかるような、雷か爆発か、そんな轟音が辺りを支配した。
それは、ほんの一瞬のできごとだった。
「茅ヶ崎!!」
何かに押されて、視界が揺れる。体のどこかに、痛みを感じた気がした。
どよめきは悲鳴に変わり、至の視界がクリアになっていく。
道路の向こう側、ガードをなぎ倒してコンビニに突っ込んだ車が見える。
巻き添えを食らった車たちが、鼻先を明後日の方向に向けて立ち往生している。
歩行者用の信号は青の点滅を始めるが、道路にいる人々は動けないでいた。
「救急車! 警察っ……!」
「だ、誰か……タオル、ハンカチとか! 服でもなんでもいいから止血できるもの!」
道路を渡ろうとしていた数人が、車の追突に巻き込まれて、倒れ込んでいる。
携帯端末で電話をかける者、不謹慎にも写真や動画に収める者、倒れた人に声をかけ救護に当たる者。
「あの、大丈夫ですか、しっかりして」
肩を揺さぶられた気がするけれど、至の頭は認識してくれない。
どうして。
そこに倒れているのは、自分だったはずではないのか。
あの時押された気がしたのは、まさか、彼の――。
「せ、ん……ぱ」
視線の先で、千景が倒れている。周りの人が声をかけているのが見える。
幸いにも意識はあるようだと、その唇がうごめくのを確認して、至ははじかれたように駆け寄った。
「先輩!!」
「ちが、さき……怪我、してないか」
駆け寄ってすぐ、第一声がこれだ。この期に及んで他人の心配とは、どこまで馬鹿な男なのだろう。
「俺は平気です、それより、先輩がっ……なんでこんな」
「だいじょうぶ……きたえてる、から、これくらいで死ぬことは、ない」
「そういう問題じゃないでしょうが!」
そう叫ぶが、ホッとした。千景の綺麗な髪を血が濡らしていくが、意識はあるし、手も動いている。どこか骨折くらいはしているかもしれない。
軽症ではないが、すぐに命に関わるような状態には見えなかった。
程なくして、救急車とパトカーが、けたたましくサイレンを鳴らしながらやってくる。
至の頭には入っていなかたが、この大惨事を起こした車の運転手は、車を放って逃げ出したらしい。
数人が追いかけ確保されたようだが、飲酒運転かそれとも薬物使用か。それは今後のニュースなどで知ることになるだろう。千景の怪我の様子を見ながら、事情聴取もあるはずだ。
千景が、ぎゅっと至の手を握りしめてくる。少し荒い呼吸は、彼の苦痛を伝えてきたが、至にはその手を強く握り返すしかできなかった。
そうして、到着した救急車に一緒に乗り込み、受け入れ先の病院まで付き添った。
千景は救急車の中で意識を失ったが、救急隊員の話では骨折と打撲が主な症状らしい。倒れ込んだ拍子に頭を打った可能性があるらしく、そちらの方が心配だとか。
千景が処置室に運ばれていってから、至はようやく意識がはっきりとし出す。
びっしょりと汗をかいている背中にシャツが張り付いて気持ちが悪い。
「事故に遭われた方ですか? 怪我されてますね。手当てしますので、こちらへどうぞ」
「え、あ……でも、かすり傷なんで」
看護師に声をかけられ、至は初めて自分も怪我をしていることに気がついた。突き飛ばされて地面に転がった時にでもすりむいたのだろう。千景に比べたら何てことはないものだ。
だが、重症か軽症かを判断するのは自分たちだと言われて、素早く手当てをしてもらった。幸い、本当に大したことはなかったようだ。
千景が、かばってくれたおかげで。
千景の方は、まだ治療が続いているらしい。処置室傍の長椅子にドサリと腰を下ろし、ポケットの携帯端末を取り出した。画面も無事で、傷は付いていない。
「えっと……ここ、スマホ……」
使っていい場所なのかどうか分からず、忙しなく走り回る看護師たちに聞くのも憚られ、至は念のため場所を移した。
手が震える。今の時間ならみんなまだ起きているはずだが、ひとまず第一にいづみへ連絡をしなければと、LIMEの無料通話を開始した。
『至さん? どうしたんですか、こんな時間に? あれ? もしかしてまだお仕事ですか!?』
「ごめんね監督さん、落ち着いて聞いて。先輩が……千景さんが事故に遭って、今病院なんだ」
『……――え!? 事故!?』
三秒ほどの間を置いて、いづみの驚愕した声が返ってくる。談話室にいたのか、向こう側がどよめいたのが聞こえてきた。
『じ、事故って、何があっ……えっと、千景さん大丈夫なんですか!?』
『監督さん、代われ』
『あ、は、はい』
動揺を隠せないいづみのすぐ傍で、左京の声がした。
『茅ヶ崎、怪我の具合はどうなんだ。病院は』
いづみと替わった左京が、簡潔に用件を音にする。さすがにこういった病院沙汰は慣れているのかと、至も短く病院名を口にした。
「命に関わるようなものじゃない、とは思います。救急車到着するまで、意識もちゃんとあったので……ただ、骨折とか、そういうのはありそうです」
『分かった、待機してろ。俺も行く』
慌ただしく通話が切られる。冷静に思えた左京も、実際は動揺しているらしい。至は処置室の方へと戻り、ただ忙しなく行き交う人々の中、無言で立ち尽くした。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

「千景さん、退院おめでとうございます!」
パンパンと、そこかしこでクラッカーが音を立てる。飛び出してきた紙切れや紙テープが舞って、千景の髪や肩に降り立った。
「あ、ありがとう……飾り付けまでしてくれたの?」
事故から数日後、千景は無事に退院した。
怪我の経過は概ね良好で、後遺症も見受けられかったようだ。ヒビの入った左腕はまだ吊ったままだが、それ以外に問題があるとすれば、千景の記憶がまだ戻ってこないことくらい。
談話室は、千景の退院パーティーだとかで綺麗に飾り付けられており、テーブルにはところ狭しと美味しそうな料理が並んでいる。
千景は、すんと鼻を揺らす。何か、懐かしい匂いがした気がして。それは生活感なのか、料理の匂いなのか、仲間たちが集まった温かさなのか。
「千景さん退院おめっす! 落ち着いたらまた脱出ゲーム行こうぜ」
「千景、おかえり。ねえお酒は飲んでも大丈夫なのかな。いいお酒が手に入ったから、平気そうだったらボクの部屋に来てね。いつでも歓迎するよ」
「千景さん、一応消化の良い物作ったので、好きなの取ってください。あ、でも激辛料理はなくて……すみません」
「退院直後に激辛なのとか、あんまりよくないんじゃないかな……?」
団員たちが、わらわらと周りに集まってくる。どの顔も公式サイトで見た顔ばかりなのに、違和感が拭えない。本当にここで過ごしていたのかと、疑ってしまう。
「あの……ごめん、俺まだ全然思い出せてないんだ。俺の言動とか、戸惑うとは思うけど、いろいろ教えてほしい」
改めてみんなに向き直り、正直な心の内を明かした。公式サイトのおかげで顔と名前は分かるけれど、その人たちとこれまでどう過ごしてきたのか、どう過ごしていくべきなのか、何も分からない。
もしかしたら面倒だったり、薄情だと離れていかれる可能性だってあった。
千景はぺこりと頭を下げる。これだって、以前の自分なら取らない行動だったかもしれないのに。
「大丈夫ですよ、千景さん! 思い出せなくても、これから覚えていけばいいんです!」
明るい声がして、千景は顔を上げる。そこには、花のように笑う佐久間咲也がいた。
確か、春組のリーダーだったはずだと思い出し、なるほどと腑に落ちる。至が言った言葉が、そのまますとんと体の中に落ち着いた。
「そうッスよ千景サン、また一緒に公演とかできるんッスから、嬉しいッス~!」
「まあそうは言っても、卯木が殊勝だと落ち着かないけどな」
「丞さんって結構言うよな」
「ちかげ、お祝いのサンカク~」
「ねえ、入院で変に痩せたり太ったりしてないよね? 採寸とか面倒なんだけど」
「幸、お前そればっかりだな。ちょっとはねぎらうとか」
「うるさいポンコツ役者」
どれにどう答えていいのか分からないくらいに、ぽんぽんと会話が進んでいく。いっそ当事者を無視して進められていくそれに、千景は口の端を上げた。
(そうか、こういうところで暮らしてたのか)
騒がしさの中に、確かな暖かみ。これはここに居着きたくなってもしょうがないなと、まだ実感できなかった自分の役者人生を思い描いてみた。
そうして、乾杯が行われる。退院直後なのでとジュースを持たされたことが若干不満ではあったが、ありがたくもあった。
我先にと美味しそうな料理に手を伸ばす団員たち。なんとこのプロ顔負けの料理の数々を、伏見臣が作ったというのだから驚きだ。
「これ、全部? 職業間違えてない?」
「ハハ、俺は趣味でやってるので。料理とかしてると、楽しいんですよね」
「美味しい。ありがとう」
「いえ、無理のない程度に、好きに食べてくださいね」
食欲をそそるローストビーフ。口に運ぶと、柔らかな歯ごたえとタレが中に広がる。コレは胃袋を掴まれてしまっても仕方ない。
見れば食べ盛り育ち盛りの青少年ばかりで、食事も大変だろうなと肩を竦めた。
そんな中、自家製ピザに手を伸ばしている男が見えて、千景は歩み寄っていった。
「至」
「え? あ、先輩退院オメデトウゴザイマス」
それは茅ヶ崎至。この寮に戻ってきてから、交わした第一声がこれだ。
なぜだか千景の胸がチクリと痛む。
おめでとうとは言ってくれながらも、他のメンバーのように、手放しで喜んでくれている様子が見られなかった。
「どうしたんですか?」
「……あれから、一度も来てくれなかったの、なんで」
「へ?」
ピザを?張ったまま、至が振り向いてくる。目を丸くして、ぱちぱちと瞬く。ラズベリーピンクの瞳が、揺れ動いた。
「劇団のこと教えてって言ったのに、来なかったじゃないか……」
入院していたのは数日だ。至が見舞いに来てくれたのは事故の翌日だけで、そのあとは、いづみや左京が入れ替わり立ち替わり来てくれただけ。
面会時間が終わるまで、至が顔を出したのはあれっきりで、日に日に気分が沈んでいったのを、彼にどう説明すればいいだろう。
「……もしかして、待ってました? すみません、仕事忙しくて。連絡入れれば良かったですね」
「仕事……」
「残業続きだったんですよ。面会時間に間に合わなかったので」
すみませんと彼は軽く頭を下げる。千景が待っているとは思っていなかったのだろう。見舞いの約束をしたわけではなかったし、彼にも彼の生活があると、言い聞かせはしていたけれど、寂しさだけが抜けていかなかった。
「じゃあ、面倒じゃない? えっと……部屋も同じなんだろ、もし至が嫌なら俺、どこか他のところで」
「うわホントだ、先輩が殊勝だと落ち着かない。なにこれキモチワル」
先ほど丞が言った言葉を引き継いで、至は真顔でそう呟く。千景なりに気を遣ったつもりなのだが、無駄な気遣いだったようだ。
「言うね」
「まあ、戸惑わないって言ったら?になりますけど。先輩チートだから、すぐに環境に慣れるでしょ。そしたら以前と変わらなくなりますよ」
「……そう。度々至の手を借りることになると思うけど、遠慮しなくていいってことかな」
「遠慮とかするような間柄じゃなかっ……、あ……、いえ、別に、遠慮とか、なくていいので……」
至が言葉を途切れさせ、不自然に顔を背ける。また千景の胸が痛んだけれど、その痛みをちゃんと認識したくて、至の横顔をじっと眺めた。
そうして夜も更け、パーティーは終わりを告げる。片付けを手伝おうと思ったのだが、主役が何を言っているのかと追い出されてしまった。至が笑いながら部屋へと案内してくれる。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス