- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
カテゴリ「カクテルキッス03」に属する投稿[22件](2ページ目)
たった一度のI love you-011-
至はベッドを降り、バスルームへと向かう。
シャワーヘッドから流れてくる温かな湯で汗を流し、千景で一杯になってしまった思考をとろかす。それでもやっぱり、頭の中は千景でいっぱいだった。
(稼ぎがいいってだけで、いるわけじゃないんだろうしな……先輩ってその気になったら、それこそ不労所得で生活できそう。それでも組織を抜けないのは……たぶん)
たぶん、密のためだ。
漠然とした、だけど、確信に近いものがある。
いつだか冗談めかして言っていた、〝アイツは組織を抜けたから、追われてる〟という言葉が、ひどく現実的なものに思える。
組織にいる千景と、昔からの知り合いだったということは、密もそこにいたのだろう。そう推察できる。
別に密のことをとやかく言うつもりはないし、深く探ろうとも思わない。至が、軽率に踏み込んでいい部分ではないのだ。必要なら、それこそ密自身の口から語られるだろう。
(密を守るため――密が見つけた安息の地を守るために、先輩はいろんな情報を操作してるんだろうな……そうするためには、内部にいないと無理だ)
情報を得るには、組織の内部にいるのがいちばん確実で手っ取り早い。
密が見つからないように、劇団が壊れてしまわないように、千景はひとりでその手を罪の色に染める。
(馬鹿……)
きゅ、と蛇口をひねって湯を止める。
こんな時、千景にとってどんな存在だったら、殴ってやれるのか。どんな距離にいたら、撫でてやれるのか。
(少なくとも、セフレじゃ無理だわなー)
ひとりで背負い込まないでほしい。至が千景にそう言ったところで、笑って一蹴されるのが落ちだ。
千景のために何かできるわけではない。密のために、すべてを投げ出せるわけでもない。
ただ、他のメンバーよりは、卯木千景という人間を知っている――ただそれだけの存在が、口を出せるわけがないのだ。
(一夜限りの相手ばっかだったのも、弱みを作らないためなんだろうな。理解はできるけど、寂しくないのかな……や、引きこもりの俺が言えることでもないけどさ)
バスルームを出て、どうしようかなと思ったが、至は寮へ戻ることにする。
いつものホテルではあるが、少しでも千景の存在を感じられる寮の方が、落ち着いていられるだろうと。
ゲームもしたいし、ここにいたらまた変な気分になってしまう。
至の鞄と、千景の鞄を持って、停めていた車へと向かった。
いまだに千景とのこういの余韻に浸っていたからか、気づかなかった。背後から向かってくる、光る刃の存在に。
「うわあああっ!」
「……はっ?」
奇声とともに、バタバタと忙しない足音が聞こえた。腕をかすめる、何か。
最初は、酔っ払いかと思った。ふらふらと揺れる体、ふらつく足下、かろうじて、相手が男だと言うことは理解できた。
「は、な、なに!?」
至は慌てた。いったい、何が起こっているのか分からない。ぶつかられただけだと思ったら、相手は振り向いてまた至の方へ向かってくる。その右手には、光るナイフのようなもの。
「ちょ、待てなにこれ、なんなんだよッ!」
「わああぁあ、死ねっ、死ね、殺してやる!」
ぞ、と青ざめる余裕もなかった気がする。足が震えて、逃げ出すこともできない。
どうにか動いた足が、車のボンネットに当たる。尻で乗り上げて、滑るようにして向こう側に移動し、男との間に障害物を作った。
(え、なに、なにこれ、俺? 俺が狙われてんの? つか誰アイツ、通り魔? 的な? いや無理無理、どうやって回避すんのこんなもん!)
ゲームだったら良かった。何かしら武器が与えられているし、そもそも自分の体ではないし、体力が消耗していても、アイテムで回復ができる。
だけど、これは、現実らしい。武器もなければ、千景との行為で疲労した体は回復していない。
金曜日、夜、ホテル街。悲鳴が響いた。女の悲鳴、男の悲鳴、誰か通報しろ、という震えた声、傷つけられる車のボディ。
ナイフを持った男は、他に人がいるにも関わらず、至だけを狙っているようだった。
何か恨みを買うようなことでもしただろうかと、どこか他人事のように考えた。
(ひとまず、動け、動け! あ、動くわ、おkおk、走れる)
気の狂ったような声を上げながら、男は追ってくる。きっと誰かが通報してくれるはずだと祈りながら、至は夜の街を走った。しかし走ったと言っても、どれだけも距離は稼げていない。
(エート、なんだろあれホント。なんで俺?)
少し振り向いて、鬼のような形相をした男を確認してみるも、見覚えはない。もっとも、普段の顔と今の顔がまったく別だったら分からないが。
(……先輩のお相手だった、とか。いや、でも入るとこ見られてないはずだし、今だって別々に出たし!)
男同士という関係上、ホテルに入る時は細心の注意を払っているはずだ。そもそも千景がそんなドジを踏むわけもなくて、男の目的がさっぱり分からない。
ひとまず逃げなければ、とビルの間、車の隙間、追いつかれないように走るのが精一杯だった。
二人分の鞄、というのがこんなにも邪魔になるなんて。だけど、放り出していくわけにはいかない。千景に?がってしまう。自分のだけでも放り出せば良かったと後で思うのだが、今の至にはそこまで思考が回らない。
何事か叫びながら追いかけてくる男。なんてホラーゲームだ、と息が上がる。
どんな恨みを買ってしまったのだろうと、考えながら走っていると、パトカーのサイレンが聞こえてくる。ああ誰か通報してくれたのだと、ホッとした。
「逃げるな、卑怯者! お前さえっ……」
(知るか、逃げるわ普通に)
「お前さえいなければ、彼女は戻ってきてくれる!!」
「は?」
思わず声がうわずった。ようやく聞き取れた、男の動機らしきもの。
(アホらし。何それ)
その言葉から察するに、交際相手だか片想いの相手だかが、至にご執心なのだろう。彼女の心を取り戻すために実力行使に出たようだが、なんて馬鹿馬鹿しい。
本人にとっては馬鹿馬鹿しくもなく、とても重要なのだろうが、他人を巻き込まないでほしいと息を吐いた。しかも、至が知り得ぬところでだ。
その彼女とやらに、面識と、奪った心当たりでもあればまだしも――と思ったあたりで、顔が引きつった。
(あ~れ~、もしかして、今日もらっちゃったアレかなあ~)
そういえば車の中でも話題にしたが、財務課の女性社員から名刺と一緒にプレゼントをもらった。贈られる謂われもないが、無碍に突き返すわけにもいかなくて、ひとまず受け取りはしたものの、もう彼女の顔も思い出せない。
そのことに関わりがあるのだろうか。いや、そうだとしても、いきなり切りつけられていいはずがない。
どう切り抜けたらいいのか、と少し振り向いた時、追ってきていたらしい警官とパトカーが、至と男の間に割り込んだ。
「うわあっ!」
「ナイフは危ないだろう、捨てるんだ、いいか!?」
「退け、邪魔だ! 俺はアイツをっ!」
「大丈夫ですか、こっちへ!」
「下がって、下がってください!」
駆けつけた警官に取り押さえられ、男は地面に突っ伏した。手からナイフがはたき落とされて、危険な状態は脱したようだ。
「放せ、放せえっ! アイツがいる限り駄目なんだ、生きてちゃいけない!」
男はまだ錯乱しながら、至への攻撃を諦めていない。しかし、警官に視界を遮られ、至がそれ以上男を見ていることはできなかった。
「大丈夫ですか? 怪我は」
「え、あ……ちょっと、切られただけなんで」
訊ねられて、自分の状態を確認してみれば、右腕にじわりとにじんだ血の跡。最初の攻撃で避けきれなかったのかと、自覚したら痛みが襲ってきた。
「病院へ送ります」
「いえ、そこまでじゃ。血もすぐ止まりそうですし、平気です」
「ところで、あの男はお知り合いで?」
ああこれが事情聴取というヤツかと、初めての経験に気分が高揚する。そんな場合ではないというのに、安堵したことも手伝ってか、心臓がドクドクと大きな音を立てているようだった。
「いえ……見覚え、ないです。たぶん、あの人の好きな子に、俺がプレゼントもらっちゃったからだと……俺がいなければ戻ってきてくれるーみたいなこと、言ってました」
ちらり、と警官の横から、取り押さえられた男を見直すも、やっぱり覚えがない。仕事柄、人の顔というか、特徴を覚えるのは得意な方だと思っているのだが、さっぱりかすりもしない。
「そうですか……災難なことでしたね。今日は、お一人ですか?」
ここはホテル街だ、一人で通りすがっただけだと言ってもおかしくはないが、至は一瞬動揺する。二人分の鞄を持っているのは気づかれているだろうし、下手にごまかすのは良くないと判断した。
「いえ、一応、……恋人、と。急用が入って行っちゃいましたけど」
さすがにセフレとは言えない。恋人、と口にする時に声が震えてしまったけれど、気づかれていないといい。
恋人。
千景とそんなものになれたら、どんなに幸せだろうか。ひとり放置されていくこともなく、あの腕に包まれて朝を迎え――そこまで思って、ないな、と考えを改めた。
たとえ恋人になったとしても、千景は何も変わらないはずだ。仕事が入れば平気で放置していくし、ひとりでシャワーを済ませて身支度を調えているだろう。
いっそ潔い、と卯木千景という男に、心の中で褒め言葉のような悪態をついた。
「そうですか。現行犯逮捕になりますから――」
警官に状況の説明を終えれば、今後の対応について説明をされる。身辺に気をつけてだの被害届がどうたらこうたら、イケメンは大変ですね何やかや、世間話も交えて、少し探られるような気配を感じながらも、至は被害者として終始した。千景のことを除けば、後ろめたいことなど何もない。
見回りもかねてお送りしますと言われ、至はその言葉に甘えた。どうせ終電はもうないし、この状態で車を運転していく気力はない。
そうして寮の近くまで送ってもらい、当然連絡先を渡して別れた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-008-
「で、どういう弁解したかったんだ、茅ヶ崎は。昨日嘘をついたことに対して?」
「嘘なんてついてません」
「好きな人はいないんじゃなかったの?」
「それはっ……」
部屋の中央で千景と向き合うけれど、視線が合わせられない。こうも動揺した状態では、千景に悟られかねない。
「それは、過去っていうか、その、そう、昔の話で……どうにもならないっていうか」
嘘をついた。過去でもなんでもない。千景の話をしていた。今現在の、恋の話をしていた。
「……そうまでして隠したいなら、いいけど。まさかその男の代わりにされていたとはね」
至は目を瞠った。千景を振り向くけれど、珍しく千景も顔を背けていて、視線は一度も重ならない。
「先、輩っ、ちが、違う!」
だけど、これだけは否定しておかねばならない。至は千景の腕を掴んで、無理やり振り向かせた。
「代わりとか思ってない、代わりになんかっ……誰かの代わりになんか、なるはずないでしょ……!」
千景を、誰かの代わりにしたことなんかない。
卯木千景という人間の代わりなど、誰にもできるはずがない。
誓って、そんなつもりで接していたのではないと訴えかける。
「俺は、先輩としたかった! 先輩だから……してほしかったんですよ、代わりなんて、思ってない、他の誰とも、あんなこと……できません」
じっと眼鏡越しの瞳を見つめる。
もう、これで知られてしまってもいいと思うほど、千景もまっすぐに見つめ返してきてくれた。
(先輩は、ちゃんと俺を見てくれてる。恋愛って意味じゃなくても、こうして見てくれる……なんかもう、それだけでいい気がしてきた)
「先輩が……こういう俺のこと嫌なら、やめ、ても、いい、かなって……思います、けど」
千景が好きだ。
止められない想いは苦しいけれど、言えない想いは胸が痛いけれど、それは至の勝手だ。千景を巻き込むことはない。途切れ途切れの言葉は、本音と裏腹であることを物語っていたけれど。
「茅ヶ崎」
千景の手が、頬を撫でる。返事をする意味で、至はひとつ瞬いた。
「一応確認するけど、俺は、――お前を抱いていてもいいのか?」
千景が、苦しそうに顔を歪めて訊ねてくる。とても行為を望んでいるふうには見えないのだが、その言葉に甘えてもいいものだろうか。
「……はい」
欲には勝てない。千景が何をためらっているのか分からないが、触れてくれるのならば甘えたい。至は結局そう返して、目を閉じた。
少しの間があって、千景の唇が触れてくる。触れるだけのキスは、自分たちにしては珍しくて、深いものより照れくさい。だけど、心地がよかった。
「さっき……」
「はい?」
「さっき、万里にものすごく睨まれたんだけどね。お前、俺のことどう言ってるの、茅ヶ崎」
そうしてふたりでソファに腰を下ろし、まるで恋人同士みたいな距離で言葉を交わす。
「別に何も言ってませんよ。あ、昨日先輩が鬼畜だったことくらいですかね」
今日の仕事大変だったんですけど、と付け加えると、千景はふふっと笑った。
「あれくらいで?」
「うわやだこの人」
「ハハッ、冗談だよ。さすがに昨日はね、無茶したかなと思ったんだ。体平気か?」
「今気にされても困る」
遅い、と目を細めれば、困ったような顔をされた。不思議に思って、至こそ困った顔を向けた。
「今日ずっと、俺のこと避けていたじゃないか。気を遣いたくてもできなかった」
気まずそうにそう返されて、ボッと顔が赤らんだのが分かる。
普通にしていようと思って、千景を視界に入れなかったのは意図してのことだ。
少しあからさまだったかと、至は項垂れて反省すると同時に、気にかけてくれていたことが、やっぱり嬉しくて、浮かれてしまう。
「こういうとこな……」
「ん? なに?」
「なんでもないです」
傍にいられるだけで、見ていてもらえるだけでいいと思った傍から、千景はその決意を決壊させる。
好きだと言ってしまいたい。好きになってもらいたい。
その願望をぐっとこらえて、千景が困らない距離でいようと、息を吐く。
「でも俺、万里にバレて良かったなって思いますよ。今なら」
「へぇ? 死にたくなるかと思ってたけど」
「や、俺もそうなると思ってましたよ。セフレなんてただれた関係知られたら、逃げ出したくなるって。でも……万里は俺を否定しなかった。紬も」
できれば知られたくなかったという思いは、今もある。綺麗でキラキラした恋をしているあの二人には、知られたくなかった。
「だからね先輩。話を聞いてくれる相手がいるってのは、楽なんだなって気づいたんですよ」
千景を好きだということも、万里はなんの不思議もなさそうに受け入れてくれた。大丈夫かと、紬も心配してくれた。
「問題を解決したいとか、そういうことじゃなくて、ただ自分の中だけにしまっていた感情を、ちゃんと聞いてくれる。それだけで、肩の力が抜けてくんです」
自分を思いやってくれる相手がいることが、どれだけ幸福か、改めて実感する。
至はそっと千景を振り向き、口を開いた。
「先輩も、もし抱え過ぎてつらくなることがあったら、言ってくださいね。俺、ゲームしながらでも先輩に抱かれながらでも、聞いてあげますから」
千景が、どれだけの闇を抱えているか分からない。
彼の過去に、何があったのか、密とはどんな出逢いだったのか、知ることはできない。踏み込んでいいものではない。
それでも、千景が望めばいくらでも受け止める。千景の生きている世界をすべて知ることはできなくとも、へえそうなんですかと、まるで夕食のメニューでも話しているかのように、聞くことはできる。
「聞いてあげます、ねぇ……」
「エート、聞きますから、で。細かいなクソ」
最後だけ小さく呟くと、千景はふっと吐息のように笑った。不快そうではなくてホッとした。
踏み込まれることを望んでいない千景に、どこまでしていいのか分からないけれど、ひとまずこれは許容範囲らしい。千景が、話すかどうかは別としてだ。
「……こういうとこだな」
「え? なんです?」
「なんでもない」
千景の呟いた言葉を聞き取れなくて、訊ねてみたのにごまかされた。彼の音を逃したくなどないのに、千景はふいと顔を背けるばかりだった。
(近づいてんだか離れてんだか、分かんないっての)
千景との距離を?みきれない。
近づいたと思ったら突き放されて、だけどまたすぐに距離が縮まる。
(生殺しっていうか、駄目なら駄目で諦め……らんないけど。好きって言いたい。好きになってって言いたい。昨日の対価、変えられるもんなら変えたいわ)
「茅ヶ崎」
「えっ……」
「一応、心に留めておくよ」
気まぐれに千景が抱き寄せてくれて、至は目を瞠る。
(うそ、何これ)
さっき万里がしてくれたのと同じように、肩が押し当てられた。ドキン、ドキン、と胸が鳴って、顎が震えてカタカタと歯がぶつかる。
(なんで? バレた? 違うよな? 鳴るなよ心臓っ)
気取られたくなくて、ぎゅっと歯を食いしばり、胸を突き破って出てきそうな言葉を、必死で飲み込んだ。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-007-
「鬼か」
「至さん顔怖ぇよ」
結局どれだけも睡眠を取れずに出社して、体の痛みと気怠さをどうにか隠して仕事をこなし、どうしても遅れがちになる案件を必死で片付けて、やっぱり定時に帰れず残業をして寮に戻ってきた。
監督が用意してくれた夕食のカレーが、とても美味しかったのが救いで、稽古もなかったのが幸いした。
風呂で汗を流して、最近ご無沙汰だった万里との協力プレイに突入したところだ。
鬼か、といっても、ゲームの進行のことではない。また、万里に対して言ったものでもない。
「あー……悪い、疲れてて」
「いっすよ。なんか把握できたし」
「俺お前のそういうとこ嫌いだわ」
一応クエストだけは進めるものの、ハードなバトルは選ばなかった。疲労が顔に出ているのだろうが、万里が言っているのはそういうことではない、と分かってしまうのも癪だった。
「千景さんとまーた何かあったんだろ。つか、俺にバレたことでモメたりしてんの?」
「そうやって人の傷えぐんな。……モメてはない。いろいろ言われたけど」
「平気なんすか」
ああ、と至は悟る。ゲームの共闘はいつものことだけれども、万里は心配してきてくれたのだと。
(どいつもこいつも、お人好し。だから力技って言われるんだよ)
「さぁ……とりあえず、セフレは続けてくれることになってるけどね。首の皮一枚で?がってる感じ」
?がっている、のだとは思う。
対価を言った至に対して、きっちりと抱いてくれたわけだし、あれで〝終わり〟にはならないはずだ。
「勢いで告ればよかったのに」
「馬鹿、言ったらマジで終わるわ」
無責任なこと言いやがって、と至は思う。
この関係が良い方向に変わればいいが、とてもそうは思えない。
「そうかな、無理っぽくもないと思うんすけど」
「無理な事情があるんだよ」
千景は、普通の世界の人間ではない。命の危険さえあって、今回は本当に運が良かっただけで、もっと危険な任務もあるのだろう。
そんな彼が、色恋沙汰にうつつを抜かすとは思えない。もしそんな相手ができたとしても、組織のことをよく分かっている、かつ自分の身をちゃんと守れる人だけだろう。
至には、無理だ。
千景のことを、ほんの少し知ることができたけれど、知るだけでは、駄目なのだ。
中途半端に知るくらいなら、いっそ何も知らない方が良かったのではないかとさえ思う。
「好きってだけじゃ、どうにもならないものがあるんだ」
だから自分たちはセフレでいいのだ。
想うこの気持ちを抑え込んででも、傍にいられればそれでいい。
たくさんの闇を抱え込んでいる千景の、逃げ道にでもなれればいい。
心臓の痛みなんて、なんでもない。千景に離れていかれることを考えたら、恋心を押さえつけることなんて、簡単にできる。
隠して、押し殺して、笑いながらセックスに満足して、じゃあまた今度、なんてキスで終わることくらい、なんでもない。
今日だって、職場では普通にできたはずだ。
なんでもないふうを装うために、視線を重ねることはなかったし、自販機でカフェオレのボタンを押すこともなかったし、ランチの時間もわざとずらした。
千景が退社していくのを確認してホッとして、ようやく仕事に本腰を入れたくらいだが、不自然なことはなかったと思っている。
「そんな顔で言うことかよ。ったく……」
「うわっ」
万里がコントローラーを放り出して、至の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「そんなしんどそうな顔して、諦めたようなこと言わないでくださいよ」
そのまま肩に抱き寄せてくれて、千景とは違う体温が至の肌に伝わってくる。
「アンタの言う事情がどんなもんか知らねーけど、本当にどうにもなんないんすか? 向こうだって、アンタの気持ち知ったら、考え変わるかもしれないだろ」
「どうだろ……難しいと思うよ。そもそも俺は言う気がないし、言っても変わるとは思わない」
至は自嘲気味に笑う。単純に、フラれるのが目に見えていることもあるが、それ以上に、千景の考えを変えられるほどの力など、ない。
それを実感するのが怖くて、千景にその理由を押しつけている。こんな狡さを知ったら、万里は応援なんてしてくれなくなると、口を噤むのだ。
「こんな俺に好かれても、あの人だって困るだろ」
「何言ってんだよ、イケメンエリートが」
「いや、そんなの武器にも盾にもならん。向こうが手強すぎる」
「あー」
「でも、慰めてくれてありがとな、万……」
いつまでもこうしていたら紬に悪い、と至は万里の肩から体を起こす。
千景とは違う温もりも心地よかったけれど、これは自分のものではない。他に必要としている人がいる上に、自分も求めている温もりはたったひとつだ。
そう思ったところに、衝撃が走る。
万里の向こうに、千景を見つけたからだ。
頭が真っ白になった。
彼は開けたドアの枠にもたれかかり、じっとこちらを眺めている。唇を引き結び、心が読めない、表情のない顔でだ。いや、そもそも千景の心が読めたことなどないが、問題はそんなことではない。
「至さん? ……あ」
至が硬直したせいか、万里も千景の存在に気がついたようで、ドアの方を振り向く。だけど万里は、気まずそうな素振りも見せず、ハハッと笑った。
「やっぱ鈍すぎって思うんだけどよ、これ」
ぼそりと呟いた万里の言葉が、至に届いたかどうかは、分からない。至は、動揺でそれどころではなかったのだ。
「せん、ぱ……いつから」
千景に、どこから聞かれていたのかということが、頭の中を支配する。
千景の気配を感じ取れなかった理由は、過ぎるほどに分かるが、寮内でする会話ではなかったとカタカタ顎を震わせた。
千景に知られたかもしれない。
浅はかで、馬鹿げた恋心。千景に受け入れられるわけもない想いを、知られたかもしれない。
「先輩、聞いてました? どこから!?」
「気づかない方が悪いんだろ、怒るな」
「どこからだって訊いてるんですよ!」
ふっと既視感に襲われる。以前同じようなことがあったのを思い出す。立場はまるっきり逆だが、千景が密と話し込んでいるところに、遭遇してしまったことがある。
あの時は、どこから聞いていたんだと至が訊かれる立場だった。
「場合によっては、弁解させてもらいます」
「至さん、弁解って」
「万里、いいから黙ってて」
どこから聞かれていても、まずいような気がした。心臓がドクドクと音を立て、時間を巻き戻したい衝動に駆られる。
「〝向こうだって、アンタの気持ち知ったら〟……あたりかな」
千景が、ドア枠にもたれていた体をゆっくりと起こし、部屋の中に足を踏み入れてくる。至は必死で自分の中の時間を戻し、その時点からこっちで、決定的な言葉を出しただろうかと思い起こした。
「あ……そ、う、ですか」
幸いにも、千景の名や先輩という音は口にしていない。ホッとして力が抜けていく。冷や汗までかいていたことを自覚して、乾いた笑いを漏らした。
「至さん」
「あー、平気、ありがと万里。大丈夫だって」
心配そうな声で、万里が声をかけてくる。誤解をされるとは思わないが、なぜか機嫌の悪そうな千景の傍に、これ以上万里をいさせるわけにはいかなかった。
「ごめん万里、ちょっと先輩と話すから」
「あー、いっけど、お互いに素直になった方がいいと思うぜ」
万里はそう言って、ソファから腰を上げる。呆れたようなため息には苦笑を返して、千景とすれ違う万里を見送った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-006-
疲れ果てたのか、隣に寝転び髪を撫でても、至は目を閉じたままだ。
千景にはそれが好都合で、珍しくゆっくりと彼の寝顔を眺めた。
いや、ゆっくりも何も、こんなただれた関係になってから、こうして寝顔を眺めたことなんて、片手で足りるのではないだろうか。
いつも、翌日も仕事だったり稽古があったりと、なんだかんだで寮まで戻っている。そうすると当然ベッドは別々で、隣で眺めるなんてことはない。
「うーん……やっぱり顔は好みだな……」
「体は?」
「……起きてたのか。たぬきめ」
「今覚めたんですよ。誰かさんが無茶してくれるから」
「へぇ、誰だろうな」
ホテルのこの部屋には当然二人きり。誰だろうなも何もないのだが、千景はあえてとぼけてみせる。
無茶をしてしまうほど至に溺れていたとは、認められないのだ。
「言っておくけど、もう一回っておねだりしてきたのは、茅ヶ崎だぞ」
「覚えてませーん」
「無意識に男を誘うのか、危険だな」
「誰とでも寝るみたいなこと言わないでください、腹立つんで」
眉がつり上がって、キッと睨みつけられる。そういうつもりで言ったわけではないのだけどな、と苦笑して、簡単に誘われてしまう自分の浅ましさを、喉の奥へと飲み込んだ。
「それより、あの、先輩、包帯直してください」
「え?」
「終わるまで寝てるんで」
「……あぁ、悪いな」
至は千景から顔を背けながら、そう呟く。千景が自分の体を確認してみると、確かに緩んでほどけた包帯。隠れていた素肌もちらちらと見えていて、至はそれから視線を逸らしたらしい。
千景はベッドの上で体を起こし、包帯を外して傷口を確認した。
痛みは感じないし、傷も塞がっている。目を背けたくなるような痕というわけでもないが、少し残るかもしれないなと苦笑した。
「お前は、本当に何も訊かないな」
「楽しい話じゃないでしょ、それくらい分かります」
この怪我を負ったのは、先週水曜の夜だ。至との約束を反故にしてまで就いた任務先で、仕掛けられていた爆弾の爆発に巻き込まれた。
とは言っても、人を攻撃するためのものではなく、侵入した痕跡を消すためのものだったせいか、規模としては大きなものではなかった。不運にも、組んでいたエージェントは破片に貫かれて犠牲になり、千景――いや、エイプリルも怪我を負ったのだ。
そのため、しばらく寮には帰らず治療していたのだが、ついた?に気づいた至が、隠れ家アジトの方まで来てしまった。
だけど経緯を訊くでもなく、ただ、手当ては済んでいるのか、食事は取れているのかと確認してきた。
(そうか、あれ、心配してくれてたのか……)
千景は、今になって初めて気がつく。彼が密を問い詰めてまであの隠れ家へ来たのは、ただ心配してくれたからなのだと。昨夜は動揺した上に頭に血が上っていて、そんなことにも気づけなかった。
今も、見られたくないのだろうと体ごと顔を背けてくれている。
昨夜も、彼はこの包帯を気にしていたなと、千景は思い出す。密には手当てさせるのにと爪を立ててきたことも。
気にならないわけはないだろうが、千景はどうしても、彼には傷口に触れてほしくなかった。至はそれを、「見られるのも嫌」なのだと解釈したようで、思考がすれ違う。
(これは、エイプリルの負ったものだ。これ以上茅ヶ崎をエイプリルに触れさせたくない)
卯木千景として負った怪我であれば、別に見られようが触れられようが構わなかった。
だけどこれは、至とは違う世界のモノだ。
触れられたくない。触れさせたくない。
(いくら俺が止めても、茅ヶ崎はたぶん、エイプリルさえ受け入れてしまう。そんなこと、させられるわけがないだろ)
受け入れてほしいなんて、思うことさえおこがましいと感じているのに、茅ヶ崎至という男は、深く考えることもせずに〝アガる〟などと言ってしまうのだろう。
それで、赦されたと思ってしまいそうな自分がいることが、何よりも赦せない。
罪がそんなに簡単に赦されるわけもないのに、拒絶されなかったら、それだけで安堵してしまう。ずるずると心地よさに流されて、罪を忘れてしまう。
そんなことが赦されるはずもない。茅ヶ崎至を、そのきっかけにしたくない。
だから、彼にこれ以上踏み込ませてはいけないのだ。
千景は痕がひどい部分にだけ包帯を巻き直して、シャツを羽織った。
「先輩、そこらへんに俺のスマホ落ちてません?」
「は? スマホが恋人の茅ヶ崎が、手元に置いておかないなんて、今日は雪でも降るかな」
「いやー、さすがに彼氏、こ……恋人は生きたものがいいです」
何を言い直したのだろうと思いつつ探してやると、脱ぎ散らかしたジャケットの傍に、見慣れてしまった彼の端末が見えた。それを拾い上げた瞬間、言い直した理由に気づく。
(今アイツ、彼氏って言ったのか。彼女じゃなくて)
千景は、恋人とだけ言った。それを至は、うっかり彼氏と言い、気がついて言い直したらしい。
彼の中で、恋人イコール同性の彼氏になってしまっていることに、さっと血の気が引いていく思いだった。
対価に関係の継続を望んできたことからも窺えるが、至の性的対象が明らかに変わってしまっている。
(俺とのことで慣れたってのは分かる……でも、そんなにすぐに彼氏って出てくるってことは……)
「茅ヶ崎……もしかして、好きなヤツでもできた?」
千景は端末を片手にベッドに舞い戻ると、無意識に音にして訊ねていた。言ってから、しまったと口を押さえるけれど、びくりと肩が揺れたのを見てしまった。
「なっ、なんでそんな」
「……彼氏って出てくるってことは、そうなりたい相手がいるんじゃないのか? まあ、今のお前が女を抱けるとは思わないから、そういう意味で言ったんだとしても、理解はできるけど」
至は背けていた顔を振り向かせてくるが、肯定はしていないが否定もしてくれない。
「好きなヤツがいるなら、なんで俺とのこと継続させたいの。今の茅ヶ崎だったら、ノンケの男だって転ぶと思うけどね。最初の頃に比べたら、色気が半端ないぞ」
自覚しているのかいないのか、至の頬が赤い。
これは本当に、好きな相手ができてしまったのかもしれないと、千景の体が冷えていく。
至は普通の世界の人間なのだから、普通の世界の、普通の人と結ばれるべきなのだと思っておきながら、いざそういう現実を突きつけられると、相手をひねり潰したい衝動に駆られる。
「そ、そういうんじゃないですってば。あの、確かに今の俺じゃ女の子相手にできないだろうし、そういう意味で捉えてください……っていうか色気ってなに、意味が分かりません」
「色気は色気だろ。職場でも、お前のことちらちら見てる子増えてるの気づかないか? たまに男も混じってる」
「知りませんよそんなの」
至は千景から携帯端末を分捕ると、いつものようにゲームアプリを立ち上げたようだった。どうもこの話題から逃れたいらしい。
「好きなヤツできたんだったら、俺はいつでも解放するから、言えよ茅ヶ崎」
自分で言っておいて、ズキンと心臓が痛む。鋭いナイフを突き立てられたかのように、その痛みは深い。
端末を弄る至の手が、ギシリと音がしそうなほど強張ったのにも気がついた。
「お前と寝るのはわりと好きだから、手放すのは惜しいけどね」
「……そういうんじゃないって言ったでしょ。おじいちゃん耳が遠くなったのかな」
「言えない想いってのはあるだろ。例えば……相手が万里だったり、か?」
「はァ!? ――……ふ、っざけんな!」
千景はあえて、身近にいる男の名前を挙げた。
至は万里と仲がいい。それは事実だ。彼らの間に恋愛感情がないのは分かっているけれど、いちばんあり得そうな例え話だ。
「万里とはなんでもない、そういう目で見んな!」
怒りに任せて、ブンと端末が飛んでくる。
千景はそれを難なく受け止めて、ひょいとベッドに放って返した。
「例えばって言っただろう。相手が相手だから、言えない想いを抱えるってのは、しんどいだろうなって思っただけだ」
「それ先輩の方じゃないですか。密相手に」
「なんであの寝太郎が出てくる。そっちこそ、そういう目で見るな」
言えない想いは確かにあるけれど、それは目の前の男相手にだ。
「大体、万里にはつむ――あ、な、なんでもないです」
「……ああ、紬? そういえばそうだったな」
至が言葉を切るけれど、そのあとを千景が引き継ぐ。そうすれば、至は驚いたように勢いよく振り向いてきた。
「先輩、知ってたんですか?」
「万里と紬のことだろ。入団した時から気づいてたよ。あれで気づかないのはよほど鈍……茅ヶ崎、知らなかったのか?」
「すみませんね鈍くて!」
素直に、気づかなかったことを認める至に、千景の方はホッとする。やはり恋愛方面には疎いのだと。
この分なら、うっかり千景の想いに気づいてしまうこともないのだろうなと、感謝さえした。
「じゃあ、もう一組の方にも気づいてないのか」
「へ? あ、そういや万里がもう一組いるって……」
「十座と左京さんだろ」
「はぁぁ――!?」
至からものすごい驚愕の声が上がる。
確かに衝撃的な組み合わせだろうなと思うと、それも無理からぬ話だ。
「え、は、いや、ちょっと待ってマジで? どこからそうなった。全然分からん……あの左京さんが」
「さあ……そこまでは知らないけど、たまに二人で出かけてるみたいだから」
「……セフレって感じじゃ、ない、ですよねー」
「感情が伴ってないセックスを繰り返してるのは、俺たちだけだと思うけど?」
お互いに、とは言えなかった。
少なくともこちらの方には、特別な感情が含まれてしまっているのだから。至の苦笑が、どういう意味なのか分からない。訊ねることもできない。
「キラキラしてますねー。青春て感じ。左京さんはどうだか分からないけど」
「俺とお前じゃ無理があるな、キラキラとか」
「禿同」
本来なら千景は、恋なんかしないつもりだった。できるとも思っていなかった。予定外の、最後の恋だ。
「ま、何にしろ、うまくいってほしいですね。同じ劇団内で問題起こるとやりづらいし」
「あのカンパニーは何か問題があっても、内から外から、力技でなんとかするイメージがあるけど」
「ハハッ、主演と総監督の失踪とか。力技でなんとかされちゃったんですか、ワロス」
「力技と変わらない、あんなの……」
だが力技とはいっても、心の方だ。真実を聞かされたあの瞬間の衝撃は、もう何も上回るものがないだろう。
(オーガスト……)
彼の――彼らのことを思うと、いまだに震えがくるほど自責の念に駆られる。
どうして信じていられなかったのか、何度自分に聞いても明確な答えが返ってこなかった。
「先輩?」
急に静かになった千景を不審に思って、至がベッドの上に体を起こして呼んでくる。
こういう油断と隙が、踏み込ませる要因になっているのだと、千景は気を引き締めた。
「なんでもない。それより、お前だって力技でなんとかされたクチだろう。聞いたぞ、旗揚げ公演の時の脱退騒ぎ」
「げ、誰から」
シトロン、と愉快そうに笑って返してやると、至は途端に凶悪な顔を作ってぶつくさ文句をたれる。
この変わり様さえ面白くて好ましいと思うのだから、もうどうしようもないと千景は苦笑した。
「けど、俺は先輩や真澄と違って、黙っていくことなんてないですからね」
「出ていこうと思う時点で同じだろ」
「全然違うでしょ、心の準備とか」
「そう?」
「……先輩、ねえ、俺に知られたからって、また出ていこうとしてるんじゃないですよね?」
つん、とシャツを引っ張って、至は顔を引きつらせて訊ねてくる。
そういうつもりはなかったが、必要になれば、自分はいつでもあの温かな劇団を抜けていくだろう。
千景にとってあの場所は、もう壊す対象ではなく守る対象に変わっているのだ。あそこに所属しているひとりひとりが、大切な家族だ。
今度こそ、大切にしたい家族だ。
自分があそこにいることが、危険な賭だとは分かっている。
だが、あそこにいることで守ることもできるはずだ。
だから、本当に危険な状態にならない限りは、あそこを出て行けない。
惚れた相手の傍にいたいという、愚かしい思いを除いても、今はその時ではない。
「へえ、お前が、俺の何を知ったって?」
千景は口の端を上げて、至にぐっと身を寄せた。ぐ、と言葉に詰まったような彼にホッとして、それでいいのだと鼻先に口づける。
「お前は俺の何も、知っちゃいないよ、茅ヶ崎。そうだろう?」
「……あーはいはい、その方が都合いいんでしょ、知ってますよ」
至は千景の意図を悟り、両方の手のひらを向けてくる。千景はその手を片方取って、ベッドの方へ押し戻してやった。突然かけられた力に抵抗できず、至の体は千景ごとベッドに沈んでいく。
「は? ちょっ」
「お前が、俺を引き留めたくてしょうがないみたいだったから」
「こういう意味じゃないでしょ! ちょっと、待っ……あの、さすがに無理がある」
「大丈夫、俺もお前も、明日は出張予定ないから」
「そういう問題じゃっ……!」
抗議を続けたがる唇を無理に塞いで、千景は至に触れていく。
すぐに上気する頬にも口づけて、あの時コンソールの上で?げた手を、今度はベッドの上で?げて、体の全部で繋がった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-005-
一瞬、胸が鳴った。
千景は、夜の景色をフロントガラス越しに眺めながら、少し目を伏せた。
(あり得ないって分かってるのに、何を期待するんだ)
対価を言えと詰め寄ったら、至の指先が唇に触れた。
それは〝卯木千景〟を求めているのかと、一瞬、胸が鳴った。
少し考えれば、今まで通り、体だけ?げる関係を望んでいると分かるのに、彼の瞳があまりにも切なげで、胸が痛くなって、心が揺れた。
(茅ヶ崎は、駄目だ。こいつはもっとちゃんと、普通の世界の人間と結ばれるべきで)
いっそこの気持ちを告げて、取り込んでしまおうかと思ったことがある。恋愛ではないにしろ、好感情は持たれているようだし、茅ヶ崎至という一人の男を手に入れるのは簡単だ。
存在だけ、ならば。
閉じ込めるだけなら、非力な男の一人や二人、千景にとっては簡単なことだ。茅ヶ崎至ならば、いっそ楽しげに軟禁されてくれるかもしれない。
だけど、そうしても千景の望む彼は、手に入らない。
危険な世界に身を置いている以上、大切な人間は作るべきではない。弱みになる、それは組織にさえ利用されることを、千景は身をもって知っている。
武術の心得があり、組織にも属していた彼らならまだしも、人一倍体力のない茅ヶ崎至では、簡単に壊される。
(駄目なんだ。俺は、もう……誰もなくしたくない)
だからここで離れようと思った。また以前みたいに隠れアジ家トの方で過ごし、彼との接触を避ければ、この心は死んでいってくれると。
それなのに、今。
どうしてだろう、コンソールの上で、茅ヶ崎至と指を絡めている。
〝すぐどっか行っちゃうでしょ〟
指先が唇に触れた時とは別の意味で、胸が鳴った。
茅ヶ崎至は、ときどき勘が鋭い。
以前、黙って劇団を出ていこうとした時も、気づいたのは彼だったと、咲也に教えられた。
どうして、人が離れようとしている時に限って、読みがいいのだろう。
困った、と右の人差し指でステアリングを叩く。
こうして引き留められてしまえば、無碍にできない。大事な家族に引き留められたのだからと、相手のせいにしてここにとどまっていられてしまう。
欲しいと求められてしまったから、仕方ないと言い訳をして、遠慮なく触れられてしまう。
駄目なんだと思った傍から、相手に理由を押しつけて、触れる。そうできることに内心で喜ぶ自分が、どうしても情けない。
こんな男に、誰が恋をするものかと、千景は自嘲気味に口の端を上げた。
至の吐息が、空気を揺らす。
千景はぐっと伸び上がって、煽るように彼のいいところを突き上げた。
「いっ……あ、あ、う」
「茅ヶ崎、中、すごい」
「し、しらなっ……あ、待っ、いや、そ、こ……!」
逃げかける至の腰を抱え、ぐいと引き寄せる。無駄なことをするなよと囁けば、悔しそうにシーツを握る手に自身の手を重ね、さらに揺さぶりをかけた。
「ひぅっ……」
ぴたりと肌が合わさる。互いの間で汗が潰れて、逃げ出してくる。それを受け止める思考はなくて、ただ奥で果てたいと熱を押し込むだけだった。
至の指先が、肩から腰にかけての包帯を乱す。爪に引っかかったことに気がついたのか、彼はハッとしてしがみついていた手を離してしまった。
「す、みませ……」
「今さらだろ。痛みは引いてる」
「でも、見られるの嫌なんでしょ」
「ふぅん、この状況で俺の傷口を見る余裕があるんだ? 茅ヶ崎」
「は!? あ、ちょっと、待っ……無理ぃっ……」
ああなるほど、と千景は至の足を肩に担ぎ上げて、ぐんと奥に突き立てる。油断をしていたのか、至は背をしならせて高い声を上げた。
千景はそれを楽しそうに眺め、
「お前が、欲しいって言ったんだからな」
至のせいにして、至を何度も何度も突き上げた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-004-
「俺たち、お互いのこと本当に何も知らないんですね、先輩。あんなにセックスしてるのに、先輩は俺の欲しいものなんか分からないし、俺も、先輩が何を望んでいるのか分かりません」
「俺が望んでいるもの? これ以上踏み込んでくるなってだけだ。分かりやすいだろう。だから、対価を言えと言ってるんだよ」
「未発売のゲームもテストプレイの権利もいりません。正規に手に入れたものならまだしも、絶対違うでしょう」
例えば未発売のゲームをできたとしても、誰にも話せない。ネット上でも盛り上がって楽しめない。そんなもの、欠片も欲しくない。
(ほらな万里。両想いだなんて、お前の勘違いだよ。好きな相手が、そんなもの欲しがってるとか思わないだろう、普通……)
分かっていたことだけれども、こうして実感させられると、胸が痛い。
少しでも想う心があるのなら、そんな不正を提示してくるはずがないのだから。
(なんで、こんなに近くにいるのに……!)
胃の中が焼けただれそうに熱くて、痛い。体の中から引きずり出して、這い回る黒い気持ちを全部、洗い流してしまいたかった。
「昨日のカクテル……」
だけどそんなことは物理的にできない。何度か深呼吸をして、膝の上で手を組み、視線を泳がせる。
その視線の先で、どうしてか、千景の指先がビクリと固まったように見えた。
「あれの意味、〝最後〟ってことなら、取り消してください」
「……え……?」
「取り消して、ください。最後になんかできない」
昨日、千景と?がった。
今まででいちばん優しい行為だった気がするけれど、だからこそ、最後になんかできない。してほしくない。
「俺が、欲しい、のは……」
至はゆっくりと腕を上げて、人差し指で千景の唇に触れる。
(俺が欲しいもの)
ほんの一瞬、千景が目を瞠った。
言えなかった。言うつもりもなかった。
「キス……、と、セックス」
でも――言ってしまえばよかったとも思う。卯木千景が欲しいのだと。
「……先輩、抱いてください」
思えば、明確に口にしたのはこれが初めてだった。
いつも、いつでも、ろくに大事な言葉もかわさず?がってきた。今さら千景に求めるのは、卑怯だ。
心がもらえないのは知っている。だからせめて、千景に教えられた快楽を、まだ終わらせないでほしい。それは至の、本音だった。
「茅ヶ崎」
「先輩のせいで、これハマっちゃったんですから、責任取ってくださいよ」
冗談めかしてそう呟けば、千景の指先が、至のしたように唇に触れてくる。
息を吐く暇もなく重ねられて、至は目を閉じた。触れるだけの唇を煽るように吸えば、仕返しのように吸われて、舐められて、唇の形を確かめるように食はまれる。
「は……ぁ、ふっ」
「んん……う」
もっと深く千景が欲しくて肩に腕を回せば、その手のひらはジャケットの隙間から忍んでくる。シャツ越しに胸を撫でられるだけでも、簡単に熱が上がって、羞恥が這い上がってきた。
「んっ……んぅ」
「は、はぁ、ん……」
それでも唇が離れきる瞬間などなくて、吸い合う濡れた音が、車内に響く。触れ合う衣擦れの音が混ざる。
「んッ……!」
腕を回されて抱き込まれ、至はびくりと肩を揺らす。まるで初めて触れ合うような錯覚に陥り、体が強張った。
まさかこんなところで、という思いと、そんなものかなぐり捨てて触れ合いたい思いが交錯する。ドキンドキンと高鳴る心音を千景に悟られてしまう――と押しやるのに、千景はさらに手のひらを押しつけてくる。
こんなに狭い空間で密着していれば、心音なんてとっくに悟られているだろうし、気づかない男ではないと分かっていて、無駄なあがきをした。
「はあっ、せん、ぱ……待って、ここじゃ」
「……っ分かってる、お前が煽るからだろ、馬鹿」
「俺だけの、せいに、しないで、くださいっ」
吐息と一緒に抗議をすれば、ようやく千景の唇が離れていく。彼の呼吸もひどく荒れていて、それさえ刺激に?がってしまった。
どちらが先に欲情したのか、もう分からない。
正直、もっと車の通りがなくて、人が来ないような場所だったら、このままここで?がってしまっていたかもしれない。
千景は体を離し、エンジンをかけ直す。
至はそんな千景の横顔を見て、はしたなくも欲情した。昨日あんなに濃密に体を?げたのに、まだ足りない。少しも満足できない。
そう思うのは、心が?がっていないからだろうか。
(でも、もし……万が一、先輩と恋人みたいなものになっても、先輩を欲しがるのは変わらないんだろうな)
そんなことは起こり得ないのだろうけど、と思うが、夢を見てしまう。
こんなに近くにいるから、もしかしたらと期待をしてしまう。
ゲームの中のレアカードよりも、遥かに現実的なのに、恋愛イベントに発展する確率は低い。だからこそ、逃したくない。
至はステアリングに乗った千景の左手にそっと触れる。そうしてその手を持ち上げて、コンソールの上で指を絡めた。
「……茅ヶ崎?」
「先輩、こうしとかないとすぐどっか行っちゃうでしょ」
「……なんだそれ」
「片手じゃ運転できないなんて、言わないでくださいね」
「平気だけど、危なくなったら振り払うからな」
「……分かってますよ」
たぶん、運転のことではないのだろうなと思い、痛む心臓をごまかすように外の景色に視線を移す。
コンソールの上で千景の手をきゅっと握ったら、向こうからも同じだけの力で握り返されて、心臓が飛び出そうなほど驚いた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-003-
自分のデスクから、千景のデスクをちらりと見やる。相変わらず仕事をそつなくこなす〝エリート〟を、ほんの少し恨みがましく睨みつけてやった。
まだ怪我が治っていないはずなのに、涼しい顔をしている。
いや、良くはなっているのだろう。そうでなければ、昨夜あんなに情熱的な行為をしかけてくるはずがない。
昨夜の情事を思い出しかけ、ハッとして唇の手前でぎゅっと拳を握った。
(駄目だ、思い出すな。気づかれる)
また千景を目で追ってしまう。
(隠せ、押し込めろ、できるだろ)
劇団の連中ならまだしも、職場にこの関係を知られるわけにはいかないのだ。
至はふるふると首を振って、千景のことを考えたがる意識を、無理やり散らす。
そうやって、なんとか一日の仕事を終えた。
さすがに今日は千景からランチの誘いはなくて、忙しかったのもあって、コンビニで買ってきた弁当をデスクで食べた。
千景のことを考えないですむのは好都合だったけれど、仕事が終わってしまえばまた、あの男は至の意識を支配する。
本当に憎たらしい男だ、とエレベーターに向かった。
「茅ヶ崎、今日はもう終わり?」
声をかけられて、ドキ、と胸が鳴った。相手が千景なのだから、そうなっても不思議はない。至は精一杯に平静を装って、千景を振り向いた。
「午後に結構スムーズに進んだので。先輩も、今帰りですか」
「まぁね」
数人の同僚たちとエレベーターに乗れば、みんなそれぞれに仕事の話をしている。こういう時、自社ビルだというのはありがたい。他の社も入っていれば、共有部分での仕事の話は御法度だ。
至はエレベーターの奥の壁にもたれ、表示階数が減っていくのを、千景の隣でぼんやり眺めていた。
「お前がデスク立つの見たから、追ってきた」
だから、ぼそりと小さく呟かれた千景の言葉に、すぐには反応できなかった。
ぎ、と音がしそうなほど硬い動作で千景を少し振り向けば、眼鏡越しに冷たい視線が振ってくる。
「今日は俺が運転してやるよ、茅ヶ崎」
たぶん至にしか聞こえないだろう囁きに、指先が冷えていく。普通の恋愛であれば、好きな人と一緒に車で帰れると喜ぶところだろうが、千景が相手ではそうもいかなかった。
「……はい」
エレベーターが一階に着く。他の人たちに続いて降り、駐車場へと向かう。
重い足取りは、改めて終わりを告げられる可能性から逃げたいからだろうか。
「茅ヶ崎、鍵」
言われてひょいと投げると、千景は慣れた仕種で受け取る。
聞き慣れた電子音とともにロックが外れるが、至は自分の車の助手席のドアを開けるという行為に、違和感を覚えた。
「ドア、開けてやればよかったか?」
「……結構ですよ。俺は先輩のオンナじゃないんで」
諫め合うような言葉を交わし、至はドアを開けて助手席に乗り込む。別にそんなエスコートを望んだわけではなくて、これからされるであろう話の内容に、今から落ち込む自分が情けなくて仕方がないだけだ。
(別れ話、か……いや、つきあってもないのに、それはおかしいけど)
昨日飲まされたXYZの味が、まだ口の中に残っているような気さえしてくる。至は無意識のうちに指先で唇を撫で、あのグラスの冷たさと、千景の唇の温度を思い起こした。
そっと静かに、車が走り出す。
何度か千景と一緒に通勤したことはあるが、そのどれもが至の運転だった。さすがに先輩の運転で通勤するのは忍びないということもあったし、千景が運転免許を持っているかも知らなかった。
「免許、持ってたんですね」
「海外での仕事が多かったから、日本での右ハンドルにはまだ慣れないけどな。ちなみに俺の免許は偽造だよ」
流れにそって、千景はアクセルを踏む。
ハンドルと席の位置に慣れないというのは、理解ができる。
だけど、免許が偽造だという言葉には、なんと返せばいいのか分からなかった。年齢の問題ではないだろう。恐らく持病の関係もないはずだ。
「偽造、って……」
「身元が簡単に分かるものを、俺が持っているわけないだろう。それに卯木千景という名前も、俺の本当の名前じゃない」
ぎゅう、と心臓が締めつけられるようだった。
千景が裏の仕事をしていることを、ちゃんと実感したのはつい昨日のことで、そこまで頭が回っていなかった。ガンガンと頭を殴られているような衝撃に襲われて、至は膝の上でぎゅっと拳を握る。
(名前も……本当のものじゃ、ないんだ……密は、知ってるんだろうか……)
千景のことで知っている事実など、自分にはないような気がしてきた。
名前も、生活も、もしかしたら年齢だって、すべてが作られたものかもしれない。
「なんで……俺に、そこまで話すんですか。知りすぎたからって、昨日あんなもの飲ませたくせに」
「スリルのある非日常は、好きじゃない? 中二病患者だろ、茅ヶ崎は」
「お気遣いをどうも」
くくっと楽しそうに笑う千景の横顔さえも、偽りのものに思える。至は千景から視線を逸らし、窓の外を流れる景色に意識を向けた。
「卯木千景っていう名前は、誰がつけたんですか? これは、NG?」
「はは、お前本当に怖いもの知らずだな。普通は空気を読んで、何も訊かないところだろ」
「空気読めない後輩ですみませんね」
「……その名前は、俺の大事な家族がつけてくれた。血も?がってない、俺の――俺たちの、大事な家族だった男がな」
と千景の指先が、ゆっくりとしたリズムでステアリングを叩く。速度は違うものの、あの家のノックのリズムと同じだった。
その人とは、あの家で一緒に過ごしていたのだろうかと考えるが、恐らくここは踏み込むべきところではない。また千景の傷をえぐるようなことになる。
至はそっと目蓋を伏せ、ゆっくりと持ち上げた。
「じゃあ……、偽名にしても、先輩にとっては大切なものなんですね」
彼の、本当の名前はなんだろう。そうは思うものの、それほど気にはならなかった。至が出逢ったのは、他の誰でもない、〝卯木千景〟という男だからか。千景が言いたければ聞くだろうが、至がその音で呼ぶことはないだろう。
ふと視線を感じて振り向けば、探るような目をした千景がいた。
「なんです?」
「……いや……つくづく思うが、おかしな男だな」
「先輩のことですか。確かに」
「お前だよ」
車の量が少なくなって、流れはスムーズなもの変わる。それなのに、千景は車線を変更してスピードを緩めた。
「先輩?」
「普通は、偽名である理由とか、本当の名前とか訊くものじゃないのか」
「先輩が言いたければ、どうぞ。聞きますよ、大人しく」
ほんの少し、沈黙が流れる。
言いたいことではないのだろうなと、至は短く息を吐いた。
「俺と先輩の関係に、それはどうしても必要ですか?」
本当の名前など知らなくても、生きていける。たとえ偽名でも、呼んで返事をしてくれればそれでいい。
無理に話すことはないと、それで示したつもりだった。
千景は車をゆっくりと路肩に停め、エンジンを切った。ついに切り出されるのかと、至は顔を背ける。
「茅ヶ崎」
千景の声が、いつもより大分低い。太腿の上で握った拳に、じんわりと汗がにじんだ。
「万里に、どこまで話したんだ」
「え?」
「昨日、あの後。何も訊かれないってことはないだろう」
「素直に言いましたよ。……先輩とはセフレなだけってこと」
素直に言った、と口にした瞬間、千景を取り巻く空気がピリッと張り詰めたような気がした。彼が気にしていたのはその部分だったのかと、ようやく気がついた。
「だって俺の妄想なんか話しても仕方ないでしょ。アイツはそういう遊び、付き合っちゃくれませんからね。どっちかって言うと、紬の方が中二エチュードしてくれますよ」
至が、千景の真実を話すと思ったのだろうか。まだ欠片ほどしか知らないだろう、千景の真実を。
(そんなもったいないことできるかっての……)
千景の秘密をほんの少しでも知っているという事実は、至に優越感に似たものを味わわせてくれる。
ひどく個人的な秘密を暴かれることの胸くその悪さと、その後に起こる空虚さを知っているから、誰かに千景のことを話そうとは思わなかった。
「お前が頭のいい人間で助かったよ、茅ヶ崎。そうじゃなきゃ、お前を消さなきゃいけないところだった」
ステアリングから外れた千景の手が、至の喉元に伸びてくる。〝消す〟というのは、社会的にという意味でなく、物理的にということだろう。冷えた指先が、襟をやり過ごして素肌に触れてきた。
だけど至は、身をよじることもせず、目を逸らすこともなく、じっと千景を見つめた。
千景がそんなことをするはずがないという思いでなく、まっすぐに見つめてくる千景から、視線を逸らすのがもったいなかっただけだ。
千景の意識すべてが、今この瞬間、自分だけに向かっている。それだけが幸福だった。
「……冗談だ。少しくらい怖がれ」
「先輩の思い通りになるとか、癪なんで」
「だろうな。安心しろ、お前に何かしたら、密が黙っていない。面倒なことになるのはごめんだ」
千景はそう言って、運転席に深く腰をかけ直す。
密が至を気にかけてくれているのは知っているが、千景の口から密の名が出るたびに、胃が重くなり心臓がざわつくのは、馬鹿げた嫉妬だ。
「密が黙っていないから、……ですか。じゃあ先輩個人としては、俺を消したい?」
「そうなっても仕方ないことがあればな」
千景の目がすっと細められる。
密をねじ伏せてでも、必要ならば千景は平気で喉を絞めてくるのだろう。まだそのラインには踏み込んでいないということか。
至は「言いませんよ」と口を開きかけたけれど、
「口止め料、何がいい?」
そうする前に千景の声に遮られた。
至は目を瞠る。
取り引きをする際に、対価が必要なのは分かっている。仕事でもゲームでもそうだ。何かと交換、というのは、理解ができる。
だけど、分かってはいても、ショックだった。対価を払わねばならない相手だと思われていることが。
千景へ向かっていく恋心を知らないのだから、当たり前だ、仕方ない。
そう思う気持ちと、そんな人間に見られていたのかという沈んでいく気持ちが、至の中でごちゃ混ぜになる。
「欲しい……もの」
「何でもいいぞ? 発売前のゲームデータとか、テストプレイの権利とか。そういうの好きだろ」
至はドアに肘をかけ、目元を覆った。ぎり、と歯を食いしばりたくなる。
千景の中で、茅ヶ崎至という人間は、そういうものを欲しがるように見えるらしい。いや、あれだけ廃人レベルのゲーマー姿を見せていれば、それも仕方ない気がする。
「いりませんよ、そんなもの……」
それでも、もう少しくらい分かってほしいと思う。腹の底から絞り出すような声を上げて、千景を責めた。
(ふざけんな、殺すぞ鈍感。なんでこんな人なの。なんでこの人なんだよ……!)
こんなに想っているのに、少しも気づいてくれない。
気づかれてしまっても困るのに、わがままな思いだけが体を巡った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

パトカーに乗るという貴重な体験もできたし、ナイフで切りつけられるという、日々を平穏に過ごしていれば、なかなか体験できないことまでしてしまった。なかなか濃い一日だったなと、息を吐く。
(さてこの傷をどうするか。シャツだけでよかった……捨てなきゃな)
切りつけられた腕は、シャツに穴が空いて、血がにじんでいる。とても使いものにならない。まあたかが数千円のものでよかったと、部屋の前で胸をなで下ろした。
(えーと、ひとまず消毒とー回復魔法ー。ねーわ)
部屋に入り一息ついて、傷の状態を確認した。思っていたより浅そうでホッとしたが、痕にならなければいいなと、役者魂がむくりと起き上がる。
「こういうの慣れてないし、どうやりゃいいんだろ。ひとまず洗ってこよ」
傷口の洗浄は鉄則だろう、と部屋を出て、洗面所へ向かう。誰にも逢いませんようにと願ったけれど、祈りもむなしく出くわしてしまった。
「至さん、何それ」
「タイミング悪すぎワロ」
洗面所の手前、コーヒーでも入れにきたらしい万里と。
とっさに右腕を隠したが、万里の視界にはしっかりと映ってしまったようだ。
「え、なに、怪我? してんすか? なんで!?」
「し、ちょっと、声デカい。あんまりみんなに知られたくない」
そう言って唇の前に人差し指を立ててみれば、万里もハッとしたようで寮の中を振り向く。幸いにも、どの部屋にも聞こえていなかったようで安堵した。
「で、何それ。転んだとか言わねーよな?」
「転んだ」
「馬鹿か」
テヘペロなんて舌を出しても、余計にわざとらしい。万里をごまかせるわけもなくて、左腕を引かれた。
「なんかあったんすか。遅えなーって思ってたけど、どうせ千景さんといるんだと思ってたのに」
「いや、先輩とは別行動。ちょっと、モテる男はつらいなっていうアレだ」
万里に促されるままに、洗面所で傷口を洗い、改めて状態を確認した。深くはないなという万里の言葉に、安堵もした。
「痴情のもつれ?」
「っつか、それに巻き込まれた感じ。いきなりナイフで切りつけられた」
「は? どこのどいつだよそれ、秒でヤッてくっから教えろ」
「警察に逮捕されたから平気だって。現行犯てやつ。別にニュースにもならないんじゃない?」
「あぁ……ならいいけど」
部屋に戻り、万里が消毒からの手当てをしてくれる。さすがにケンカ慣れしてるんだなと苦笑した。
「これくらいなら痕は残らないと思うけど……」
「そっか、良かった。サンキュ」
「なあ、アンタほんといろいろ自覚した方がいいぜ」
手当てを終えて、万里が心配そうに呟く。痕は残らないだろうという見解に、やはり役者としてはホッとした。
「自覚?」
「女に好かれやすいっていうか」
「万里に言われたくない」
「でもさ、至さん。変な意味じゃなくて、最近のアンタ、艶っぽいの分かってる?」
眉間にしわを寄せて、万里はとんでもないことを返してくる。まさか彼の口から、艶なんて言葉が出てくるとは思わなかった、と若干失礼なことを思いつつ、目を瞬いた。
「千景さんとのことがあるからなんだろうけど、前より、たぶん……いい感じになってっから。あ、だからって俺がどうこうは全然ねぇんだけど」
「いやそりゃ分かるけど。艶……艶ぁ? 万里、お前大丈夫? 眼科行く? なんなら俺の使い捨てコンタクトやろうか?」
「真面目に聞けよ。今回はこれくらいで済んだけど、また変なことに巻き込まれっかもしれねえだろ」
万里は呆れと怒りを混じらせて、包帯を巻いた右腕を指さしてくる。
女性に好意を持たれやすいというのは、自惚れでなく自覚しているし、最近ちょっと、そういうふうに絡まれることが多いなと感じていたけれど、そんな理由だとは思っていなかった。みんな恋がしたい季節なんだよと、無理やり納得していた気がする。
「アンタに何かあったら、劇団のヤツら困るし、何より心配すんだろ。俺だってそうだよ。だから、もうちょっと気をつけろって言ってんの」
年下のくせに、いや、下手に歳を取っていないからなのか、万里はこういうとき、ひどく素直に心を表してくる。彼が素直にならないのは、ライバルである十座に対してだけなのだろう。
至は手当てされた右腕にそっと触れ、俯いた。
「うん……ごめん、今回のこと、軽く考えてるわけじゃないよ。気をつける」
「ん。そんで、何かあったらちゃんと言ってくださいよ。秋組はカチコミ慣れてっし」
「ははっ、そうならないようにしとくよ。ありがと万里、手当ても」
「おー。……今寮にいるヤツらには、言わない方がいいんすか?」
至が素直に謝ると、万里は照れくさそうにしながらも、安堵してくれたようだ。至は万里の問いかけにそうだなと頷いて、ナイトウェアに着替えた。
「俺個人のトラブルだし、事故みたいなもんだしね。変に心配させることないだろ」
「あー、特に咲也とか、めちゃくちゃ心配しそうっすね。リョーカイ。じゃあ俺部屋に戻るわ」
肩を竦めて、万里は至の意向を汲んでくれる。まったくありがたい存在だと、胸をなで下ろした。
二人部屋に、ひとりきり。
ふう、と息を吐いてやっと、実感が湧いてくる。
闇に光る鋭いナイフ。向かってくる悪意。足下からせり上がってくる恐怖。
(うわ、マジかよ……)
ぞわり、と体が震える。あからさまな悪意が、これほどにおぞましいものだとは思わなかった。
刺した刺されたという世間のニュースを聞いても、所詮は他人事だと思えた。怪我をした人は気の毒だと思うが、そんな非日常が、どうにも思い浮かばなかったのだ。
千景に逢うまでは。千景の真実に気づくまでは。
「……ねえ、こんなのでも怖いし、こんなかすり傷でも、痛いんですよ、先輩……」
至は、手当てされた右腕をさする。避けきれなかった傷は痛みを伴って、至を現実へ引き留める。
万里も言うように、深い切り傷ではなかったのに、痛みが残っているのだ。
あの短時間の悪意でも恐ろしいのに、こんな小さな傷でも痛いのに、千景はこれまで、どれだけの痛みを負ってきたのだろうか。物理的にも、精神的にも。
千景をすべて知ることなどできやしない。
だけど彼は、その痛みを許容してまでも、大切なものを守ろうとしている。それは過去の思い出でもあるし、今手の届く距離にいる家族でもある。
(俺もその中に入れてんのかな、とか……そういうの、考えるより先に、心臓痛くなんのな)
千景の感じた孤独が、ほんの少し見える。
密が記憶を失っていたということは、彼はその時、独りだったはずだ。どこにいるかも分からない状態で、どういう感情を抱いたかまでは分からない。
(でも、だから、今……あの人はここを守ろうとしてんのか……)
胸が締めつけられる。怪我を負う危険を、命さえ危ういことを理解していても、千景は家族のために闇に身を落とす。
なんて不器用で、大きくて、深い愛情なのか。
至の中の想いが、大きくなる。深くなる。不器用すぎて伝えられもしない想い。
「怪我、してないといいな……」
今日の仕事はいったいどんなものなのだろう、と息を吐く。詳しく聞く権利はないし、そこまで千景の世界に踏み込めない。千景の守ろうとしているものが、日常の平和であればあるだけ、自分がそちらに踏み込むわけにはいかないのだ。
「あの人が守ってるのは、日々を演劇に燃やす愛すべき馬鹿たちだしね。密は別にしても」
だから至は、必要以上に踏み込まないでいればいい。千景が〝日常〟を感じられる要素であればいい。
他の団員よりほんの少し、卯木千景という人間を知っている。それだけでいいのだ。
どうか無茶なことをしていませんように。
そう祈りながら、いつものようにゲームに手を伸ばす。それこそが、至の日常だ。
ゲームに興じていれば、自分の身に起きた非日常など忘れてしまえる。少し右腕の動きがぎこちないが、すぐに治るだろう。
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