キスインザダーク-嵐の夜に-【20】

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部屋のドアの前、何か・・がうずくまっている。いや、何かというよりは、人だ。人の形をしている。全身黒ずくめ、床についた長い髪。
ドクンと胸が跳ねて、躍った。

「シキ……?」

その名を呟くとともに、駆け出していた。階段からそこまではどれほども距離がないはずなのに、遠い。
(どうして、なんでっ……幻覚!?)
はやく、早く、はやく、確かめたい。
幸人は必死で足を踏み出して、その人型へと駆け寄った。

「シキ!」

ずざ、と膝をついて、その人型に触れてみる。
(シキ……シキだ。間違いない、でも、どうして)
悪魔になれたはずの彼が、どうして今、ここにいるのか。どうしてここに、来てくれたのか。
「幸人……!」
シキが顔を上げて幸人の姿を認める。その目は大きく見開かれて、驚いているようだった。震える指先が持ち上げられ、
「シキ、ど、どうして……っんぅ」
問う間もなく、強く抱き寄せられた。唇に触れる熱を認識して、幸人はぱちぱちと瞬く。

どうしてここに。
なぜ今になって。
なんでこんな熱をくれるのか。

「ん、は……う」
問いたかったすべてが、唇の間で潰れて舌先に絡め取られていく。幸人は目を閉じて、シキの唇を、吐息を感じた。
「はぁ……っ」
唇を離しても、シキは腕をほどいてくれない。
「幸人、幸人……」
「……シキ……」
このまま抱きしめられていたいと、ドアの前でシキを抱き返そうとした時、力強いその腕が小さく震えていることに気がついた。
(シキ……震えてる……?)
遠くで鳴り響く雷の音に、幸人はハッとする。こんな雨の中、こんなところで座り込んでいたら寒いのは当然だ。さらに、雨に濡れてしまった幸人を抱きしめたりしたら、余計に体温が奪われていってしまう。
「ばっ、馬鹿、お前寒いんじゃないのか!? なんでこんなとこっ……ああもう、いいから入れ!」
「あ……」
幸人はシキの肩をグイと押しやり、体を離す。
「そういうことじゃないんだがな……」
どうしてかバツの悪そうな顔を背けたシキに手を差し出して、家の中へと招き入れた。また行き倒れを拾ってしまったが、この場合は逢いたかった相手なのだから仕方ない。

「な、何か食べる? っていうかなんで外で待ってたんだよ。お前なら、鍵なんかなくてもすり抜けて入れるだろっ……」
問いかける声が震えてしまう。こんなことが訊きたかったわけではないのに、もっと別の言葉を紡ぎたいのに、思い通りに動いてくれない。
「……今、魔力が制限されてる。無理をして力を使うより、お前を待っていたかった」
「制限……? なんで。何か悪いことしたのか? ああ、いや、悪魔なんだから悪いことすんのは当然か。なんで今こっちいんの? また候補生のテスト始まってんだろ、この雷雨。なんで――」
「ま、待て幸人。一つずつにしてくれないか」
矢継ぎ早に訊ねた幸人に、シキのストップがかかる。幸人は、思っていたよりも動揺している自分に気がついて、短く息を吐いた。
濡れたままの靴下で、落ち着こうと廊下を歩き、リビングでようやくカバンを下ろす。
訊きたかったことがある。いちばん訊きたかったことがひとつ、ある。自分の中にこんな面倒な感情があるなんて知らなかった。
幸人は髪をくしゃりとかき混ぜ、俯いた。
「……幸人?」
「なんで……」
そんな幸人を、シキがそっと覗き込む。

「なんでずっと来なかったんだよ! 俺っ……何度も呼んだのに!」

叫ぶ速度と同じスピードで、シキを振り仰いだ。
「呼べば……俺が呼べば絶対に来るって言ったじゃないか!」
あの時の言葉は嘘だったのかと、シキを責める。嘘だったのかもしれないと分かっても、逢いたがった自分を責める。涙だけはどうにか我慢した。

「仕方がないだろう、悪魔になれなかったんだ! お前に呼ばれてもっ……、――え?」
「えっ?」

言い返したシキの息が止まる。幸人が目を見開く。

「よ、……呼んだ、のか……?」
「あ……悪魔になれなかったって……なんで……?」

シキの声が震えた。幸人の指が震えた。
「なぜ呼んだ!? 悪魔オレを求めれば自分がどうなるか分かっていただろう! 馬鹿なことをするな!」
「そんなの、逢いたかったからに決まってるだろ! なのになんで、どうして……だってあの時、あの使い魔、悪魔になれるって」
あの時現れた小さな怪物は、確かにシキが悪魔になれると言っていた。だからこそシキは、この世界を離れたのではないのか。
シキは目を逸らし、背け、くしゃりと髪をかき混ぜる。
「……失効したんだ。ポイントが」
「は!?」
「向こうに戻ったら、入ってたポイントがほとんど消えた」

悪魔になるには、人を不幸にした分のポイントが必要だ。
数、質、ドラマ性、恐らくその他にもいろいろなことが必要なはずなのだが、シキはあの時、手に入れたと言っていたのに。

「どうして……お前飛び級で悪魔に……」
「なれたはずだった。せっかくお前に……不可触の不幸レシピをもらったのに」
「え?」
シキの手がそっと伸びてきて、両頬を包まれる。見下ろしてくる黒い瞳は、謎に揺らいでいるように思えた。
「えっ……なに、それ……俺、何もしてない……」
不可触のレシピは、簡単に手に入るものではない。その素材は自分自身、ソースは不幸。候補生自身の不幸が、最大で最難関、最上級の不幸とされていた。
よく考えてみれば、シキはあの時、その不幸を手に入れたのだ。何が彼の不幸だったのだろう。しかも、原因は幸人だと彼は言う。
思い返してみても、何かした覚えはない。何かされていた記憶はあるが、あの行為がよほど駄目だったのだろうか。
(あ……も、もしかして、俺がシキのこと好きになっちゃったせい……? 悪魔たちにはこういうの……毒なのかな……)
あの時、シキに恋をしていると気がついた。恋情なんて向けられても、彼らには迷惑かもしれない。

「お、俺のせい……? 俺がお前を――」
「いや、お前が悪いんじゃない。お前を抱いたあの時間は、信じられないほど甘やかで、幸福で――不幸だった」
「わ、分かんないよ、何それ、俺お前のこと不幸になんてしたくなかった!」
自分が不幸になることで、彼にポイントが与えられればいいなと思ったことはあるけれど、彼を不幸にしたいなんて思っていなかった。それなのに、どうして。

「理解なんてしなくていい。ただ俺が、お前を愛しただけだ」

眉を寄せ、目を細め、息を吐くようにシキはそう音にしてくる。
「え――?」
幸人は目を瞠り、耳を疑うようなその音を頭の中で反芻した。
(……愛、した……?)
「俺が人間を……お前を愛しても、報われることなんてない。理屈でそう理解しているのに、止まらなかった……お前を抱く幸福と、叶うことのない不幸は、確かに不可触と言うのに相応しい」
想っても叶わない相手に、恋をしてしまった。それは確かに幸福なことではないだろう。悪魔候補生自身の不幸――それは、納得のできるレシピ。
「……お前を愛している、幸人」
「う、そ……」
幸人は、足から力が抜けていくのを感じ、シキの肩に掴まる。それを支えるように背を抱いてくれるシキの熱は、本物だった。

「嘘や勘違いならよかった。なぜ失効したのか分からないんだ。使い魔だって俺が悪魔になれることを確信していたというのに……なれないのなら、あのまま少しでもこちらにいたかった」
「シ、シキ……」
「失効の理由を聞いても、協会の連中は何も言わん。ただ落ち度はあるからと、もともとあったポイントに上乗せをさせて、進級はできたがな……協会にケンカを売った罰として、今は普段の半分くらいしか魔力がない。そんな状態でテストも何もないだろうに」
ため息をついたシキに、幸人は震える唇で告げる。
ごめん、と。
「幸人?」
「ごめん、やっぱ、俺のせい……シキが悪魔になれなかったの、絶対俺のせいだよ」
口を覆い、幸人はシキの腕の中で歓喜に震えた。そんな幸人を、怪訝そうに覗き込んでくる悪魔候補生。
「ポイント失効したわけ、分かった……」
「なんだと!? いったい、どういう」

「俺がお前を愛したからだ」

シキの言葉を真似て、だけど心の底からの本音を、事実として音にする。惚けたようなシキの瞳が、まっすぐに見下ろしてきた。
「好きだよ、シキ」
「…………お前が、俺を?」
「好きになっても報われないってお互い思ってたんだな。不幸だと思う・・心はあっても、不幸だという事実・・はなかった。それじゃポイント加算されないんだろ?」
不幸のレシピは幸福のレシピへと変わり、シキはポイントを失った。協会の連中も、そりゃあ言えやしないだろう。人の不幸を欲するはずの悪魔候補生が、人と恋をして幸福を手に入れただなんて。
「……待て。だったら俺は、お前のおかげで不可触のレシピを手に入れ、お前のせいで悪魔になれなかったということか」
「ごめん」
そんなつもりはなかったけれど、と幸人はシキの頬に手を伸ばす。その手をシキに覆われて、きゅうと胸が締めつけられた。

「お前の、せいか、幸人……!」

責めるような言葉を吐くのに、シキの声は幸福そうに震えている。
幸人はすいと踵を浮かせて伸び上がり、シキの唇にキスをする。

「お詫びに、お前には極上の快楽と最上級の幸せくれてやる、シキ」

ニ、と口の端を上げ、あの日極上の快楽と最上級の不幸をくれるつもりだったシキを、力いっぱい抱きしめた。

【END】

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