キスインザダーク-嵐の夜に-【18】

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ベッドの上で目を覚ましたのは、話し声が耳に入ってきたせいだと思う。幸人はゆっくりと目蓋を持ち上げ、そこにシキの背中を見つけた。
(……今、何時だろ……も、何回したのか分かんない……)
何度目からか、ベッドに移動してもらったことは覚えている。抵抗するどころか、するならベッドに行きたいと、誘いをかけてしまったことを思い出して、自身の浅ましさに嫌気がさした。

「……延長は」
「なにを言ってるんです~もう悪魔になれるんですから、いつまでもこんなとこいる必要ないですよう~。それでなくても明後日にはテスト終了ですし~」
「そうか……」
誰かと話しているのか、と認識して、幸人は少し頭を上げる。シキの肩越しに、小さな怪物が飛んでいるのが見えた。
大きな目玉がひとつ。それを覆っている皮膚は青く、すぐ横から左右に伸びた青い羽根。とてもこの世界の生き物とは思えないものだ。
(あれも、悪魔の仲間とかかな。シキが人の形してるから、あんま実感湧かなかったけど、やっぱ、違う世界なんだな……)
そして、気づく。シキと、あの小さな怪物が話していたのは、進級試験のことなのだと。

――もう悪魔になれるんですから――

確かに、そう聞こえた。
ああ、と息を吐く。

悪魔になれるのか。

そう思って、安堵と、どうしようもない寂しさに襲われた。
「幸人、目が覚めたのか」
「あ、うん……」
吐いた息の音で気がついたのか、シキが振り向いて見下ろしてくる。小さな瞳と出逢い、それが金色に光っているのに気がついた。
「おや~お目覚めですか~美味しそうなフレアの匂いがしますね~」
シキの肩に止まった小さな怪物が、話しかけてくる。目玉だけかと思っていたら、その下に羽根の付け根まである口があった。そんな小さな悪魔にも分かってしまうほど、幸人のフレアは美味だというのだろうか。
「手を出すなよ」
「分かってますよう~」
シキが爪の先でそれをピンとはじく。転げ落ちたそれを指差して、幸人は訊ねた。
「それ、なに……?」
「使い魔だ。教官どもの犬といったところだな。候補生たちが不正を働いていないか監視する役目と、申し訳程度のサポート役だ」
「……悪魔が不正だのなんだの気にする理由が分かんない……」
「悪魔になるというのは難しいことなのです~レベル、能力、お家柄、その他もろもろ~。あなた方を不幸にしてさしあげるのですから、それはもう大変な手続きと規約が」
「もういい、消えろ。授与式には戻る」
怪物の声を遮って、シキはため息をつく。悪魔になるのに、そんな手順や規約があるなんて、初めて知った。
「了解しました~このたびはおめでとうございます、シキ殿~」
では後ほど~と言って、小さな使い魔はすうっと消えていった。

「うるさくしてすまなかったな、幸人。喉が辛そうだったから治しておいたが、どこかおかしいところはないか?」
「え、あ……」
言われ、幸人は喉を覆う。そういえばあんなに声を上げていたのに、喉へのダメージはなさそうだ。そこまで思って、ボッと顔を赤らめた。濃密すぎたあの行為を思い出してしまって。
「べっ、別になんともない!」
「ならいい。もうすぐ日が昇ってくるが、眠っておけ」
「ん……」
髪を撫でてくれるシキの手が、今までのどの瞬間よりも優しい。心地好くて、忘れてしまいそうだった。

「なぁシキ……この場合さ、おめでとうって言うべきなんだよな?」
「ん?」
「……悪魔になれるって、さっきのヤツ言ってただろ」

シキが、念願だった悪魔になれるという事実。A級だったシキが、S級をすっ飛ばして悪魔になれるのだ、嬉しいだろう。
「ああ……そうだな……なれるんだ」
それなのに、シキの声は明るくない。嬉しくないのか、とシキを振り仰いだそこで、苦しそうに笑う彼を見つけた。

どくんと、心臓が痛む。

どうしてそんな顔をするのだろう。幸人には不思議でならない。悪魔になりたかったのではないのかと。
「あれ……ちょっと待てよシキ。飛び級したってことは、レシピ……手に入ったのか? なんで? 同じA級のヤツとケンカしたのが駄目だった……いや、よかったのか?」
そうだ、シキはまだA級だったはずだ。S級を飛び越してしまったということは、よほどポイントの高いレシピを手に入れたということになる。探し求めていたレシピを手に入れて、念願の悪魔になれるというのに、シキの顔は笑っていない。
「ま、不味かったとか……?」

「……いや……最高に美味かった。この世にこんなものがあったのかと思うくらい、甘くて、まろやかで、温かなものだったな……。ただ……」

「ただ……?」
シキの手がすっと伸びてくる。汗で張りついた前髪をかき分け、露わになった額に、そっと触れてくる唇。それはそっと触れるだけで、じんわりと熱を広めていくようだった。

「確かにこのレシピは、触れるべきものではなかったな……。この世界を離れなければならないのが、どうしようもなく寂しい。こんな気持ちになるとは思っていなかった」

「シキ……」
幸人はぱちぱちと目を瞬く。目の前にいるこの男は、本当に悪魔になりたかった男だろうか? 悪魔になるべき男だったのだろうか?
悪魔になるために生まれてきて、悪魔になるために学び、力を手に入れ、そのレールしかなかった生き方には、哀れみさえ感じる。
(もっと楽しいこと教える時間があればよかたな……)
「本当に……戻るしかないのか? ここにいたいなら、いればいいだろ」
人に不幸を与えるだけの時間なんて、寂しすぎる。幸人はゆっくりと体を起こして、シキと目線を近くする。それでもまだシキの方が高いのが、少し気に食わなかった。
「俺のこと不幸にしないで、よかったのかよ」
最初の夜に言われた言葉は、今も耳に残っている。最上級の不幸をくれてやる、と、凶悪な微笑みで言ってのけた男は、幸人に快楽しか与えていない。
「不幸になりたかったら、呼べ、幸人。絶対に来てやる」
「はぁ?」
「必要なら、俺を呼べと言っているんだ。破格で願いを聞いてやろう」
両手で頬を包まれる。そう言って上がる口の端は、最初の夜とおんなじだった。

「悪魔になったお前を呼んだら、俺その後どうなるんだよ。不幸まっしぐらじゃないか」
「ふふ、そうだろうな。俺と不幸になる覚悟ができてからにしろ」
「呼ばねーよ、馬鹿」

悪魔を召喚するということは、代償が必要だ。その道には疎くても、想像ができる。そう思って拒絶してやったら、シキはおかしそうに笑った。
「幸人、だから、今、呼んでくれ。俺の名を――最後に」
は、と息を吐く。今ならまだ、悪魔になってはいない。名を呼んでも、召喚したことにはならないだろう。
幸人はまっすぐにシキの瞳を見つめ、シキからもまっすぐに見つめ返される。
ただ名を呼ぶだけなのに、心臓がドクドクと騒がしい。これが、シキと呼べる最後なのだと思うと、体中が冷えていった。

(シキ)

心臓が痛い。

(シキ)

視界が、どうしてか濡れて、揺れる。
「……シ、キ」
喉が詰まって、うまく音になってくれない。これが最後なのにと、幸人は大きく息を吸い込んで、笑った。

「シキ」

これが最後なのだからと、両頬を包むシキの手を覆い、そのふたつの音を奏でた。
その音を覆って包み込むように、そっと触れてくるシキの唇。

触れて、三秒。

離れていった唇から、震える音が発せられた。
「……ありがとう幸人……、……幸福だ……」
そうして悪魔候補生は消えていく。今までそこにあったシキの体が、透けて、向こう側の壁が見えた。

シキ。

幸人は小さく名を呼ぶ。それが音になったかどうかは分からない。頬を伝う雫の意味を理解する頃にはもう、幸人はその部屋にたった独りきりになっていた。
「う……っ」
また独りになってしまった。そんなこと慣れていたはずなのに、数日の騒がしさが、幸人に独りじゃない幸福さを思い出させてしまっていたのか。
そうだ、たった数日だ。片手にも満たない日数。
幸人は流れてくる涙を拭いもせずに、天井を見上げた。

「アイツ、最悪……やっぱり俺に最上級の不幸落としていきやがって」

恋をしていると分かった瞬間、相手が目の前から消えてしまった。もう名を呼ぶことすら叶わない、悪魔。

(シキ、シキ……シキィ……っ)
音にすればきっと彼は来てくれる。望みを叶えてくれる。その後の不幸と引き換えに。
幸人は痛む心臓を押さえて体を丸めた。これ以上の不幸なんかあるものかと、伝えることすらできなかった恋を呟く。
「……き、だよ、好きだよ、馬鹿……!」
悪魔を好きになったって、報われることなんてない。それならば、あの男に不幸にされてしまいたい。
「……どうせなら、俺のこのレシピでアイツに悪魔になってほしかった」
悪魔になれることが確定してしまったのだから、もう美味くもないレシピは不要だ。シキは望むこともないだろう。彼は授与式を終えて正式な悪魔になれば、ヒトの求めに応じて召喚され、主のために力を使うはず。もうこれ以上、幸人を不幸にはしてくれない。
幸人が望めば、きっと来てくれる。
だけど、自分はもう不幸にはなれないと幸人は思う。
シキに逢うことが目的で、逢えてしまえばそれは幸福にしかならなくて、彼が望むような不幸には陥らない自信がある。そんな幸人に用はないはずだ。

「……シキ……」

幸人はベッドの上で何度も深呼吸をし、囁き損ねた恋を吐息と一緒に吐き出した。言えなかった、おめでとうの言葉とともに。

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