情熱のブルー

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 走り込みからの素振り、サーブ打ち、すべてどの部員より多くこなした。リハビリでなまってしまった体と感覚を早く取り戻したくて……というのが建前だが、その実なにも考えたくないせいだった。
 跡部景吾の顔がちらつく。
 昨日あの後もずっと頭の中を彼の顔が支配していて、寝起きには明らかに疲れていた。少しも休めた気がしない。
 こちらを混乱させるために跡部が何か仕組んだのではないかとも思ったが、そんなことを考えるほどに混乱しているのだと気づくだけだった。跡部に責があるわけではないだろう。なぜなら、そんなことをしたら〝本気で勘違いされる〟というリスクが彼にもあるからだ。
 混乱させて全国大会を有利に進めるというだけのコマにしては、利が少な過ぎる。
 加えて、跡部ほどの実力をもってすればそんな小細工は必要ない。
 小細工をするような男だというのは、跡部に対する侮辱に他ならない。すぐに考えを改めて、ため息を吐くこと、何度か。
「手塚、あまり飛ばすと肩に良くないんじゃないかな」
 不二が声をかけてくる。いつも通りだがと返すと、彼は肩を竦めた。手塚はここにいる誰よりも努力を重ねてきたという自負がある。
 そう思った傍から、同じく努力を重ねてきただろう跡部のことが頭をよぎってどうしようもなかった。
 ――――考えるな。考えるな。跡部のことは、今は必要ない。全国大会で勝ち進むことだけを考えるんだ。
「は~、何か鬼気迫るものがあるっすね、手塚部長」
「手塚はそれほど、全国大会にすべてを懸けているということだろう」
「さすがっすね乾先輩……俺、もう十周走ってくるっす」
「テメェ海堂、抜け駆けはいけねーな、いけねーよ!」
「あぁ!? 知るか! ついてくんじゃねえ桃城!」
 言い合いながらも、我先にと駆け出していく二年レギュラー。
 身近にライバルがいるってのは刺激になるよねと不二が笑うのが耳に入って、手塚はカッと頬の熱が上がったのに気づく。ライバルという言葉に反応してしまった。そんな些細なことにも反応してしまうなんて、集中できていない証拠だ。
「大石、菊丸、相手をしてくれないか」
 雑念を振り払うように軽く首を振り、黄金(ゴールデン)ペアを呼ぶ。
「ご指名だぞ、英二」
「にゃはは~、負っけないよん!」
「手塚は誰と組むんだ?」
 大石は、他のレギュラー陣を振り向く。いちばん可能性が高いのは不二だろうかと思っているようだが、当の不二は河村を振り向いて、河村はスタイルが合わなすぎるよと頬を掻いた。
「いや、俺は一人でいい。二人とも、手加減はなしで頼むぞ」
「えっ、一人で俺と英二を相手にするのか? あー……まあ手塚ならできそうだけど」
 誰とも組まずにやると口にすれば、大石は驚き、菊丸はもちろん手加減なんかしないよんと楽しそうに相棒を振り向く。
 河村はすごいなあと感心し、不二は見物だねと穏やかそうに見えて不敵に見据えてくる。乾は眼鏡を押し上げて、興味深そうにノートを広げた。
 手塚がリハビリから戻ってきて初の練習だということもあって、部員たちは皆、固唾を呑んで見守るようだ。グラウンドを走っていたはずの桃城と海堂までもが、速度を緩めて手塚のサーブを眺めている。
 トスを上げ、怪我をする前までと変わらない速度でラケットが振り抜かれる。わっと上がる歓声。
 大石が嬉しそうに笑い、菊丸もホッとしたようだったが、きちんと返球が成される。安堵という隙をついて、手塚は返されたそのボールを彼らのコートにたたきつけた。
「おっと……こりゃ大変」
「おーいし~これマジで手加減しなくていい感じだよね?」
 大石も菊丸も、その瞬間に〝戻ってきた仲間〟という意識から〝対戦相手〟という認識に切り替えたようだった。
「さあ、油断せずに行こう」
 手加減などしてもらっては困ると、手塚もラケットを握り直す。
 そうして、練習と言うにはあまりにも白熱したプレーが繰り広げられることになったのだった。


 物足りないなと、贅沢なことを考える。他の部員たちの仕上がりも見なければならない以上、自分の練習だけに熱中しているわけにはいかない。こんな時部長という立場が、ひどく煩わしい。そんなことを言えた義理ではないのにだ。
 支えるべき立場の手塚を欠いていても、部員たちは全国大会に向けてしっかり鍛錬をしていたようで、レギュラーでない者たちも触発されて全体的な底上げになっているようだ。大石の尽力には感謝しなければいけない。戦線を離れた手塚が全国大会に行けるのは、彼らのおかげだ。その状態で、物足りないとは口が裂けても言えやしない。
「手塚、お疲れ様。肩は本当に大丈夫みたいだね、安心したよ」
「ああ……皆には迷惑をかけてすまない」
「ふふ、むしろそのおかげで皆に火がついたところもあるのかな。少なからず、手塚を全国に連れていこうっていう気持ちがあったと思うよ」
 部室で着替えをしながら、出られなかった試合の詳細を聞いたり、リハビリ中の出来事を話したりして、ようやく頭の中からおかしな感情が消え去ったと思った矢先、鞄に入れていたスマートフォンに指先が当たる。その瞬間にまた跡部の顔が浮かんでしまって、手塚は珍しく項垂れた。
 ――――跡部、こんな時にまで邪魔をするんじゃない。
「そういえば手塚、昨日はあの後大丈夫だったのかい? 跡部と二人だったんだろう」
「あ、…………ああ、別に心配されるようなことはない」
 昨日一緒にいたことを知っている大石が、他意なく訊ねてくる。さらに輪郭のハッキリとした感情になってしまって、眉を寄せた。
「え、跡部と? へぇ……仲良くお茶でもしてたの?」
「な、……ぜ、そうなる。肩の様子を訊かれたから、少し話をして、テニスをしに行っただけだ」
 いったいどういう思考回路なのだと不二を軽く睨み、訂正をする。
 更衣室にいたレギュラー陣らは一様に目を丸くし、呆れたように口々に囁いた。「テニス馬鹿」と。それは否定しないと着替えを済ませ、翌日の集合時間を今一度確認して部室を後にした。
 ふう、と息を吐く。ポケットに入れていた端末を取り出して画面を見てみるも、通知がないのには変わりがない。
 まあ昨日の今日で連絡を取り合うような間柄でもないのだから、当然と言えば当然だがと思って、はたと気づく。自分は今、跡部から連絡がないか確認したのだと。家族でなく、跡部を真っ先に思い浮かべてしまった。
 今の練習が物足りなかったせいだろうか。力に差のない相手と何も考えずにただボールを打ち合いたいと思うのは、何もおかしなことではないと思う。
 強い相手ならば、跡部でなくともいい。
 いいが、テニスがしたいと言ってすぐに受けてくれそうな相手が、他に浮かばない。それだけだ。
 ――――それだけ……なんだが……。
 なぜ思い出すのが、あの時肩に触れてきた温もりなのか。髪の感触なのか。良かったと吐息のように小さく呟く声なのか。テニスをしている時の跡部ならばまだ話も分かるものを。
 いっそ腹立たしいと、跡部を責めてやりたい。向こうはたまったものではないだろうが、こちらとて不可解な感情に振り回されているんだと理不尽さを押し込めて、逢いたいと思う気持ちをテニスがしたいという建前で塗り替える。
 手塚は道の端で立ち止まり、トークアプリで跡部の連絡先をタップする。しかし氷帝はまだ練習中かもしれないと思い留まって、通話ボタンを押しかけた指を引っ込める。
 だがそれならそれで、チャットで予定でも訊けばいいのではないかと、これ以上考える隙を作らないようにボタンをタップした。
 コール音はあまり長く続かなかった。跡部がすぐに出てくれたからだ。
『なんだ、手塚ァ』
 向こう側から聞こえた不遜な声に、なぜだかホッとした。昨日の今日で連絡してしまったことに驚かれてはいないようだ。
 そうしてホッとしたのも束の間、今度は鼓動が速くなる。昨日浮かんだ馬鹿馬鹿しい仮定のせいだろう。勘違いなのだから気にすることはないと軽く首を振り、手塚は口を開いた。
「すまない、練習中だっただろうか」
『いや、一応は終わってるぜ』
「今から打てないかと思ったんだが」
 声は震えていない。言う言葉も間違っていない。
 うっかり「今から逢えないかと」などと言おうものなら、世界が変わってしまう。テニスがしたいだけだと心の中で言い訳を繰り返す。
『アーン? 今からって……テメェ、昨日の今日で言うか、普通』
 やはり驚かれてしまった。というか、呆れられてしまっただろうか。跡部なら、テニスがしたいと言っても笑わないでくれると思ったのだが、どうにも決まりが悪い。
『昨日のじゃ満足できなかったってか? そんなに俺様とのテニスが恋しいのかよ』
 耳元で聞こえる声に、カッと熱が上がった。
 ある意味で満足はした。だが別の意味では満足していない。結局跡部のリードで終わってしまったからだ。だからその続きをしたいに過ぎないのに、恋しいなんて言われたくない。それが真実のようになってしまいそうで怖かった。
 何も言わないでいると、『仕方ねーな』と笑うような吐息が聞こえてきた。
『屋外のコートでもいいか? 予約しておく』
「どこでも構わない。テニスができるなら」
 じゃあ後でと通話を切って、手塚はその場で項垂れた。声を聞くだけでなぜこんなにもそわそわするのか分からない。嬉しいと感じているのか、胸の辺りがくすぐったいし、まだ場所の連絡も来ないのに足を踏み出しそうになる。
 好きかもしれないという思いが、現実味を帯びてきた。
 テニスができるというだけなのに、こんなに浮かれる理由が見つからない。
 いや、確かにテニスができるのは嬉しいが、跡部でなくてもこんなにそわそわするだろうか。
 いったいどんな顔で今の電話を受け、仕方ねーなと申し出を受け入れてくれたのだろう。楽しそうな顔だったろうか。それとも優しげな顔だろうか。傍で見たかったというのは、どうにもおかしなことだ。
 ややあって、コートの場所が送信されてくる。氷帝からも、青学からもほど近い中間点。
 自分に都合の良い場所で構わないのに、わざわざ中間点を指定してくるあたりが憎たらしい。
 手塚は一番早く着けるルートを確認して、足を踏み出した。
 早くテニスがしたい。その思いだけで充分だと、どこか罪悪感めいたものを抱きつつも。


「終わらねえ、じゃ、ねーの」
 お互いの荒い吐息が空気を揺らす。昨日の続きから始めたはいいものの、長いラリーからの取っては取られてを繰り返し、ちっとも勝負がつかない。
 長く続けられるのはいいが、これでは無駄に体力だけが消耗されてしまう。手塚のサービスに移ったところで、トトンとボールを止めて手塚も呟いた。
「終わらないな」
「少しインターバル挟むか?」
「ああ、そうした方がいいだろう」
 今は夏真っ盛りだ。日差しも強く、ここら辺で休憩を挟んでおかねば危ない。集中すると周りが見えなくなるというのは、あの日の試合で分かった。時間も水分不足も気にせずプレイしていたら、熱中症になってしまう。
 したたり落ちる汗を拭う跡部の姿に視線が釘付けになって、ハッとして目を背けた。
 ベンチに腰をかけて、汗の処理と水分補給を行う。距離が近いのは落ち着かないが、それでも昨日触れた温もりに比べたらなんてことはない。まさか自分の人生で、跡部景吾の隣にいて落ち着かないなどということがあるとは思わなかった。
 気づかれないようにしなければ、跡部はまたおかしな誤解をするだろう。手塚はゆっくりと呼吸をして、冷静にいつも通りを装った。
「肩、本当に大丈夫みてーだな」
「……ああ。お前と長いラリーを続けられるくらいだからな。なぜあれが拾われるのか分からんが、大会にもちゃんと出られる」
「なんで拾われるって、そりゃこっちの台詞だぜ。フン、憎たらしいくらい絶好調かよ」
 パタパタと手で仰ぐ跡部を見やり、絶好調と言われる程でもないような気がするがと、心の中で思う。
 それでも、部活よりは打ち込めた。部活より打ち込んでしまったことが、不甲斐ない。本来打ち込むべきは、部活での練習の方ではないのか。部長として率いている以上、そうするべきだ。自覚が足りないのかと、情けない気持ちにもなった。
「……なにかあったかよ?」
 そんな気持ちを見透かすかのように、跡部が声をかけてくる。
「……なぜだ」
「絶好調ってわけでもねえみてぇだな? 俺様とテニスをしてるってのに、辛気くせえツラしてやがるじゃねーの。今は引き分けだからな、負けて悔しいってわけじゃねえだろうが」
 手塚は驚いて跡部を振り向く。気づかれるとは思っていなかった。
 したり顔で見つめてくる跡部に胸が鳴りそうになって、手塚はふいと顔を背けた。
「悟られるとは思っていなかった。俺は分かりづらいとよく言われるんだが」
「ククッ、俺様の眼力(インサイト)を見くびってもらっちゃ困るぜ。アーン?」
 なるほどと手塚は目を瞬く。相手の弱点を見抜くという彼の眼力(インサイト)は確かにすごいものだ。それは魔法などという非現実的なものでも、インチキという矮小なものでもない。実際に弱点を見抜かれた手塚にはそれがよく分かる。隠しても無駄かと、小さく息を吐いた。
「昨日お前に言われたことを思い出していた」
「アン?」
「俺のプレイは傲慢だと言っただろう。意識したことがなかったが、そうなのだろうなと思う」
 視線を俯ける。跡部は昨日、貶しているわけではないと言っていた。だが褒めているわけでもないと。認識してしまったこの傲慢さは、どうやって昇華していけばいいのだろうか。
「今日、青学のメンバーと練習をしていて、物足りないと感じてしまった。怪我で皆に迷惑をかけてしまった俺が、こんなことを言えた義理ではないのに」
 膝の上で、拳をグッと握りしめる。自分がこんなに身勝手だとは思わなかった。ただテニスで上を目指したいという欲だけで生きていけたらいいのに。
「青学のメンバーじゃ、練習相手にならないってか?」
 跡部の口にした言葉に、体が硬直した。ベンチの背に肘をかけてこちらを振り向いてくる跡部の口許には、笑みが浮かんでいたけれど、それは苦笑いのように感じられた。
「ま、テメェは口には出せねえだろうな。それが真実だとしても」
「跡部」
「ヤツらが弱いと言ってるんじゃない。それでも自分が強くなるための練習相手にはなり得ねえんだよ」
 諌めるために、もう一度跡部の名を呼ぶ。否定できないのが歯がゆい。確かに自分は傲慢だと、改めて思う。眉間に刻まれたしわが、深さを増した。
「皆、それぞれに頑張っているんだ。追いついてこいなどとは言えない。個性もあるし、俺が敵わない部分だってある」
 お前は傲慢だと責められるのは分かる。だが、青学のメンバーに対しての誤解だけは解いておかねばならない。言い訳でも、その場しのぎのでまかせでもない。レギュラー陣は手塚とは全く異なるプレイスタイルの個性的な選手ばかりだ。手塚が彼ら相手に本気になれないことと、彼ら個人の能力は全く別のことだと強く言い放つ。
「そこが分かってんならいいだろうが」
 すうっと、何かが脳天を突き抜けていったような気がする。それは強い衝撃ではなく、まるで靄(もや)だけが引き抜かれていったような感覚だった。
「力の差もそうだが、お前は青学を率いる立場だ、手塚。強いというだけで務まるもんじゃねえ。下のヤツを指導するってのは、時には自分の鍛錬を犠牲にしなきゃならねえ時もあるだろう」
 跡部の表情が、硬いものに変わる。彼自身にも覚えがあるのだろう。
 自分の技術向上を捨てて、次の世代を育てなければならないというのは、痛いほどに分かる。自分だけが強ければいいというわけでもないのだ。
「俺のとこは、下剋上だっつって分かりやすく俺を倒したがるヤツも、虎視眈々と頂点を狙ってるヤツもいる。お前のとこは、いねえのか?」
「青学は、そういうのはないな……。強いて言うなら、越前だろうか」
 分かりやすいのは、ルーキーである越前リョーマだ。
 能力を隠しながらというなら乾や不二もだろうが、彼らの本気はまだ見たことがない。
 大石は副部長として支えてくれるし、菊丸はテニスでトップを目指すと言うよりはいかに相棒と長く楽しくできるかの方が重要そうだ。河村は青学で無二のパワープレイヤーだが、自分自身の向上に専念しているように見える。桃城と海堂は、頂点を目指すと言うよりは互いに相手に負けたくないという思いの方が強いのだろう。越前リョーマは、いっそ清々しいほどに負けん気が強い。だからこそ、青学の柱になれと彼に言ったのだ。
「あーなるほどアレね。ククッ……でも、アイツを育てたいって気持ちが大きいだろ」
 跡部が軽く肩を震わせる。手塚はややあってそれに頷いた。
「今までは育てる側で、後は一人で練習してたんだろうが、俺との試合で欲張りになっちまったんだよ、テメェは」
 楽しそうに口の端を上げながら跡部は続けた。手塚は不思議な気分に陥る。なぜそんなことを、よどみなく言ってこられるのだろう。
 その言葉の一つ一つを頭の中で反芻して、手塚は跡部を振り向いた。
「なぜ」
「アン?」
「なぜ分かるんだ。言われて考えてみたが、的を射たもののように思う」
 部長という立場上、周りを育てていかねばならない。それに不満はなかった。ないと思っていた。だけど、試合で初めてと言っていいほどがむしゃらになったことで、欲が出てきてしまったというのか。
 跡部は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふっと苦笑気味に口角を上げた。
「俺も同じだからだよ」
「お前も?」
「テメェのせいだぜ、手塚」
 その言葉が意味するところが、分からないわけではない。
 つまりは跡部も、手塚との試合で貪欲になってしまったということだ。
 それはなんだか、嬉しくて照れくさい。跡部景吾の中に、手塚国光という存在が刻まれているのか。
 手塚は小さく「そうか」としか返せなかった。
 鼓動が速くなったのが、どういう理由からなのか考えたくない。考えないようにしようとすればするだけ、隣に座る跡部の存在をまざまざと感じてしまっていけない。
 ――――これは本格的に良くない……。
 眉間にしわを寄せて目蓋を伏せた手塚をどう誤解したのか、跡部が面白そうに指摘してくる。
「何小難しい顔してんだ、手塚ァ。……ははーん。さてはテメェ、俺様を憂さ晴らしに使ったのが後ろめたいんだろ」
「…………憂さ晴らし……?」
 何を言っているのだこの男は、と手塚は跡部を振り向く。
 憂さ晴らしのつもりで跡部を呼び出したわけではない。ただ思いきりテニスがしたくて、相手が彼しか浮かばなかっただけだ。物足りないと思ってしまう胸の隙間を埋めてくれそうなのは、跡部しかいなかった。
 おかしな感情に振り回されそうになるだろうことを、分かっていてだ。
「うまくいかねえからって、お前は表に出すわけにもいかねえだろ。まあよりにもよって対戦校の、しかも俺様を使いやがるとは大したもんだが」
「跡部、俺は」
 ただの憂さ晴らしだなんて思われたくない。ではどう思われたいのかと言えば、答えにしたくない。
 跡部に逢いたかったなどと言おうものなら、熱を疑われるかもしれない。そもそもが自分でさえこの感情を理解しきれていないのに、跡部に理解されてたまるかと妙な意地がわき上がる。
 そういうつもりではないと言いかけたのに、それは跡部の愉快そうな笑い声で遮られる。
「いいじゃねーか。お前には俺がいる。俺にはお前がいる。憂さ晴らしでも練習台でも、好きにしろよ。それで強くなったテメェを、俺様が打ちのめすってわけだ。楽しいじゃねーの!」
 跡部がパチンと指を鳴らすけれど、手塚は楽しいか楽しくないかを考える余裕などなかった。
 本当にこの男は何を言い出すのだ。互いに互いがいるという宣言は、まるで情熱的な告白のようだ。跡部にそんなつもりがなくても、俺にはお前がいるなどと言われてしまえば、誤解されてもしょうがないのではないだろうか。
 彼はいつもこんな調子なのだろうか? と面白くない気分にもなった。
 しかしともかく、宣戦布告されてしまえば受ける他にない。相手が跡部なら不足はなかった。
「俺は負けない」
 手塚は眼鏡を押し上げながらそう返す。不敵な視線をよこされて、負けじと強く視線で押し戻した。ベンチの上、互いの真ん中で視線が絡み合う。
 ――――なるほど。確かに俺には跡部がいて、跡部には俺がいるのだな。
 その視線の交錯は、先ほどの跡部の言葉を如実に物語っている。安堵と闘争心が混じり合ったような、妙な気分に駆られた。
「どうする、手塚。決着ついてねえが」
 視線が外れないまま、跡部の声が耳に届く。すぐ傍のコートは自分たちを待ってでもいるようだ。
「そういえばそうだったな。お前さえ良ければまだ打っていたいが、…………いや、やはりやめておこう」
 手塚も視線を逸らさないままに返しかけたが、ふと思い留まった。
 跡部はそれを不満に思ったのかわずかに眉を寄せ、それでもからかうような口調で指をさしてくる。
「なんだ手塚ァ、俺様に弱みを見せちまって恥ずかしいってか? これ以上ボロ出さねえようにしねえとな?」
「そうではない。弱みを見せてしまったことは恥じてもいるし謝罪もするが、終わりそうにないと思ったからだ」
 物足りないと思い悩んだ身勝手さを晒してしまった。それこそ、よりにもよって跡部景吾にだ。
 羞恥心というか不甲斐なさもあり、そんなことに付き合わせてしまったことには一言言わないといけないだろうが、やめようと言い出したのはそんな理由からではない。からかうなと強い視線で睨み返してやった。
 跡部とこのまま続けていたら、いつ終わるのかちっとも分からない。そもそも、終わらないからきりの良いところでインターバルを挟んだのだ。次はいつになることやら。
「アーン? 終わりたければ、全力出してやろうか? 俺様はまだあの日の半分も力を出しちゃいないぜ」
「そんなのは、ボールを受けている俺がいちばんよく分かっている」
 それは本当のことだ。長いラリーになっても、強烈なスマッシュを食らっても、あの日とは比べものにならない。
 素直に受け止めてやれば、跡部は面食らったように目を瞬いていた。
「今は日が長いといっても、あまり遅くなると家族が心配する。お前のとこだってそうだろう」
「あぁ……まあ、……そーだな」
 二人でそろって立ち上がり、沈みかけた陽を眺める。珍しく歯切れの悪い言葉は、どこか寂しそうに感じられた。
 そのせいだろう。絶対にそうなのだが、もうやめておこうという提案を撤回したくなってくる。本当ならば、いつまでも打ち合っていたい。しかし自分にも、彼にも、帰る家があるのだ。
「暗くならないうちにお前を帰せる自信がない」
「……あァ?」
 残念に思う気持ちが、その言葉にため息を混じらせる。跡部が落としたラケットが、カランカランと音を立てた。それを拾い上げて渡してやり、続ける。
「お前と打ち合っていると、終わりたくないと思うことが多々ある。決着をつけたい思いと、このままラリーしていたいと思う気持ちがごちゃ混ぜになるんだ」
「…………手塚、お前……、俺が女でなくて良かったな……。女相手にそんな台詞吐こうもんなら、誤解されるぞ」
 跡部の頬が、心なしか赤く染まって見える。
 今の言葉のどこが――と思いかけて、ハッとする。〝暗くならないうちに帰せる自信がない〟と言ったあれか、と。それはつまり本当は暗くなっても帰したくないと言っているのと同じだ。確かに跡部の言う通り、誤解をされかねない。
「……誤解をされた経験でもあるのか、跡部」
 手塚自身にその発想はなかった。誤解されるという可能性をすぐに思い浮かべるあたり、跡部はこんなことには慣れているのだろう。面白くない。
「ねーよ! 俺様がそんなヘマするわけねえだろ!」
「そうだろうな。跡部なら、上手く立ち回るのだろう。俺には誤解させるような親しい女性はいないし、今はそういったことを考えないようにしている。テニスに集中したいんだ」
 手塚は、どちらかというと自分に言い聞かせるように跡部に返す。
 テニスに集中したい。跡部に恋をしているかもしれないなどとは考えたくない。どれだけ胸が高鳴っても、どれほど体の熱が上がっても。
 ――――俺は恋などしていない。
「今日はもう帰ろう」
「あぁそーだな……テメェといると本当に疲れるぜ……」
「そうか、それはすまない」
 こちらの台詞だと言ってやりたいが、そうしたらなぜだと突っ込まれそうで恐ろしい。
 跡部とこうしてテニスをして過ごすのは楽しいけれど、それと同じくらいに疲れる。胸が高鳴るのを否定する理由を探し続けなければいけない。
「跡部、明日また逢えるだろうか」
 だけどそれを無視してでも、取り付けたい約束があった。逢いたいわけじゃない、テニスがしたいだけだと心の中で言い訳をして、跡部の言葉を待った。
「テニス、……だよな」
 先ほどの誤解されかねない言葉のせいか、跡部が妙な間を開ける。テニス以外に何をするのだと言ってやりたい。
 失敗したなと手塚は思った。跡部に対して特別な感情でもあるのではないかと思われたらたまったものではない。だからあえてそれに気づかない振りをして、なんでもないように返した。
「ああ、青学の練習が終わってからだが」
「同じ時間、ここでいいか」
 まだどこか警戒しているような表情だったが、手塚は頷く。本当に、跡部とはテニスをしたいだけなのだ。夜遅くまで語り合いたいだとかそんな気は一切ない。
 明日の約束を取り付けて、気をつけて帰れとバッグを担いで踵を返した。何事か文句らしきものを言っているのが聞こえたが、相手にしないでおこうと素知らぬふりをして。
 今日も有意義な時間が過ごせた。腹の中にくすぶっていた物足りなさは充分に解消できたし、期せずして身勝手な不満を理解されてしまった。
 ――――跡部が、ここまで人の心の機微に聡いとは思っていなかったな。気分が晴れたのは、アイツの的確で忌憚ない指摘のおかげなのだろう。
 家に向かって歩き出しながら、跡部のことを考える。薄々気づいていた身勝手な不満は、ここで吐き出さなければ積もるだけだっただろう。鬱憤が溜まって、良いプレイができなくなる可能性だってあった。
 己を律することも鍛錬のうちだと思ってはいるが、気分が晴れたということは、ストレスでもあったのだと今になって気づく。
〝いいじゃねーか。お前には俺がいる。俺にはお前がいる〟
 冷静になって考えてみれば、ものすごい台詞だ。誤解させるなと言う跡部の方こそ、言動に気をつけた方がいいのではないだろうか。こんな、相手を唯一みたいに扱う言葉なんて、帰せる自信がないと言うよりもずっと情熱的ではないか。しかもそれが様になるのだから困りものだ。
 胸が高鳴るのを止められない。顔が火照っているのに気づいても、早く跡部から距離を取ることの方が先決で、隠していられなかった。
 ただそれと同じだけ、距離ができるのを寂しく思う自分がいるのに気づいてもいた。
 明日も逢うというのに、たった少し離れただけで何を考えているのだろう。
 速かった歩調を緩めて、手塚は跡部と打ち合ったコートの方を振り向く。さすがにもう見えやしなかったけれど、目蓋の裏に浮かんでくる。今日も目一杯丁寧に返球してくれたあの男のしたたかで華やかな笑み。
「明日も、逢える……」
 そう小さく呟いて、正面に向き直って再び足を踏み出す。つい数日前まで考えられなかったことだ。こんなに頻繁に逢うようになるなんて。テニスがしたいと言って、すぐに予定を合わせてくれる好敵手。
 明日も、同じほどの熱量でテニスができる。その貴重な幸福を思って、知らず口の端が上がった。

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