情熱のブルー

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 跡部についてやってきたのは、屋内のコート施設だった。跡部の会社が管理しているようで、受付ではバタバタとした様子で出迎えてくれる。
 別に本格的な視察ではないと跡部が言うあたり、きちんと運営されているか確認しに来ることもあるのだろう。
 視察がてらいつでもプレイができるようにと、跡部は自分用のウェアとラケットを置いているらしい。氷帝のユニフォームでないせいか見慣れないなと思うが、そもそも氷帝のユニフォームを着た跡部だって、慣れるほど見たわけでもない。
 手塚はジャージの上着を脱いで軽く畳み、ストレッチを開始した。
 テニスができる。肘を痛めた時も止められた期間はあったが、あの時よりもずっと切実にテニスがしたかった。
 恐らく、跡部のプレイに触れたからだろう。触発されるというのが正しい表現かは分からないが、同じだけの熱量を持って挑みたいと思わせる〝何か〟が彼のテニスにはある。持って生まれた才能なのか、努力によって培われたものなのか。
 ともかく、そんな跡部景吾と球を交わせるというのはひどく気分が高揚する。公式試合でもないのにだ。
「セルフジャッジ、ワンセットマッチだ」
「ああ、構わない。跡部、手加減はなしだ」
 ネットを挟んで対峙する。青い空も、観客もない。審判も、声援もない。ふたりだけの勝負。
 サービスを跡部に譲り、受け止めるためにラケットを構えた。自分が緊張しているように思える。跡部がトスを上げる様をじっと見つめ、コースを読む。
 手塚は眉を寄せた。打ち込まれたボールは、本気のものではない。
 手加減はなしだと言ったのに、その場しのぎだと思われたのか。跡部の打ったサーブを足元に打ち返してやった。
「油断しているお前が悪い」
 そのボールを追って振り向く跡部に、煽るような言葉を吐く。ギラリと光る瞳が睨みつけてくるのを、ぞくぞくと背筋を震わせながら受け止めた。楽しそうに口の端を上げて、今度は思いきりラケットを振ったようだ。
「確かに手加減なしでいいみてえじゃねーの! 手塚ァ!」
 返ってきたボールに手塚は追いつけず、跡部が笑うのに合わせて手塚もわずかに口の端を上げた。
「そうこなくてはな、跡部」
 打たれる。拾う。たたき返され、迎え撃つ。長いラリーになった。
 手加減がほしいわけじゃない。真剣にただこのボールを追っていたい。何も考えずに、無心に。リハビリ中にはできなかったことだ。
 足を踏み込み、腕を振り抜く。ただそれだけで、だんだんと神経が研ぎ澄まされていく。
 インパクト音と、床を踏むシューズの音。時折聞こえる相手の呼吸と、自分の吐息。互いの間を何度も行き来する黄色いボールからは、一瞬たりとも目を離せない。
 決めるつもりで打ったのに返される。悔しいが、それは跡部の方も同じようだった。肌があわ立ち、パァンとボールを返す。追いつけなかった跡部から点を取った。
 それでも諦めるでもなく睨みつけてくる跡部が、なんとも言えず闘志を奮い立たせる。
「次は俺が取るぜ」
「俺は負けない」
「だからそういうとこだっつってんだよ!」
 今度は跡部の球に足元を撃ち抜かれる。したり顔で挑発を受ける彼を、負けず嫌いだなと思わざるを得ない。だが手塚にはそれが心地良かった。向かってくるギラついた視線は、上を目指す者の瞳だ。引きずられそうなほどに、目が離せない。
 跡部の視線の方向へボールが向かう。時にそれはフェイクとなり、改めてこの男の技術を知った。
 こんな男だったのか。上手いのと強いのとは、似ているようで異なるが、跡部景吾はそのどちらをも備えているようだ。
 その男からポイントを取った瞬間よりも、打ったボールをきっちり拾われた瞬間の方が楽しいと思っていることに、手塚は薄々感づいていた。まだ続けられると思うと、ポイントを取るよりも嬉しい。
 恐らく顔には出せていないだろうが、このラリーがずっと続けばいいなどと考えてさえいる。
 点を取らなければ決着はつかないのに、それでも、跡部とのこんな時間をもっと長く過ごしたい。負けたくないという思いと同じほどの強さでだ。
 気がつけば、打ち合い始めてから二時間ほど経過していた。
「手塚ァ! そろそろバテてんじゃねーのか!」
「お前こそ、スピードが落ちているぞ、跡部」
「抜かせ!」
 煽ったつもりはなかったが、気に食わなかったのか、跡部の球速が上がる。突然のことに対処しきれず、強い打球が手塚のラケットを跳ね飛ばした。
「……っ」
 引きつった痛みを感じる。指先の痺れが、肩にまで伝わってきた。
「手塚!」
 それに慌てたらしい跡部が、わざわざネットを越えてくる。駆け寄ってくる彼の切羽詰まった表情に、どうしてか胸が鳴った。
「今の変な打ち方しただろ。痛みはあるか? すぐ医者に――」
「いや、問題ない。少しタイミングを誤っただけだ」
「本当にか? 欠片でも噓が混じってやがったら許さねーぜ。俺はお前の下についてるヤツらじゃねえんだ、意地張ってねえで、俺にだけは本当のことを言え」
 手塚はひとつ目を瞬く。
 彼の言うことはなんとなく理解できるような気がした。
 部長という立場がある以上、弱みは見せたくない。部員たちの士気に関わるからだ。跡部自身そうなのだろう。だからといって対戦校の部長に弱みを見せたいかといえば、絶対に違うのだが。
 しかし例えばここで弱みを見せたとして、跡部が弱みを見せられる相手はいるのだろうかと考える。
 部員たちには見せない部分を、誰が支えてくれるのだろう。
 そんなことを考えていたら、睨みつけてくる跡部の瞳の強さが増した。噓が混じっているとでも思っているのだろう。
「……本当のことを言っている。お前相手に遠慮したところでどうにもならないだろう」
「それはそうだが……」
 跡部の眉間にしわが寄る。珍しく引き結ばれた唇は、何を言いたがっているのか。まっすぐに左肩へと向かってくる視線は、いっそ手塚の方こそ痛々しく思う。あの日目の前で膝をついてしまったことが悔やまれる。もしかしたら、跡部の中に傷を残してしまったのかもしれない。
 あの時跡部は、本当に潰すつもりなどなかったはずだ。手塚が途中で棄権するか攻め誤るかで勝利をもぎ取ろうとしていた。手塚がそれを意地で続行させたのは、跡部にとって大きな誤算だったに違いない。
 手塚が、またあの時の感覚を味わうのかと恐れてイップスに陥っていたのと同じく、跡部も、自分の打球が今度こそ一プレイヤーの未来を絶つかもしれないという恐れと戦っているのだろう。
 そこに気づけなかったのが、悔しくてならない。跡部にそんな顔をさせたくて試合をしたわけではないのに。
「跡部、俺は平気だ」
 強くそう言い放てば、跡部はそっと口を開けた後に躊躇って閉じ、また開く。
「……触れてもいいか?」
 視線はじっと左肩に張り付いたままだ。手塚はコクリと強く頷いた。
「ああ」
 もう治ったと口で言うだけでは信じられないのなら、いくらでも触れてくれて構わない。跡部がゆっくりと上げた手が左手だったのは、意図してなのかどうか。
 そっと触れてくる指先。当然痛みなど感じない。そんな小さな接触では、感覚もない。伺うように手のひらで包まれてようやく、触れられていると実感した。
 手塚は目を瞠る。肩に触れた手の上に、跡部が額を乗せてきたせいだ。重みが増し、距離が近くなる。
 ――――近い、……どころではない……。
 頬に、首筋に触れる髪がくすぐったい。誰かとこんな距離で接したことはなく、どちらかと言えば苦手な方だ。
 だけどここで跡部を押しやれば、またおかしな誤解をさせるだろう。肩はなんでもないのだと跡部が納得するまでこうしているほかにない。
 額を乗せていた手を抜き、ゆっくりと腕のラインを確かめるように下りていく。ウェア越しに感じる手のひらの温もりに、危うく息を呑みそうになった。
 いったい何をしているんだと言いたい。いや、肩の様子を確認しているのは分かるが、そんな触れ方をする必要があるのだろうか。
 跡部の指先が肘を滑り、やがて手首にまで下りる。握ったラケットに爪の先が当たったところで、跡部はようやく満足したように息を吐いた。
「良かった……」
 小さく呟かれたそれに、また胸が鳴る。これは本当に心を砕かせていたのだと気づく。
 自身が関わったからでなく、手塚国光というプレイヤーの肩が壊れていないか、思い悩んでいたのだろう。手塚の復帰を誰よりも望んでくれたに違いなく、心の底から安堵した様子を晒す跡部に、急激に何かがせり上がってくる。
 顔が熱い。その熱を認識した直後、ハッとする。わずかに上がった右手は、どこに向かっていたのか。
 跡部の肩を抱こうとしたか、それとも髪を撫でようとしたか。定かではないが、彼に触れるためだったことに気づいて困惑した。
 ――――俺は、何を。
 支えなければならない状況ではない。触れなければいけない場面でもない。それなのに、なぜこの右手は下ろすことを躊躇っているのだろう。
「俺様としたことがつい熱くなっちまったぜ……。今日はもう切り上げるぞ、手塚。二時間以上も打ってりゃテメェも満足しただ、ろ……」
 跡部が、そう言いながら顔を上げる。さっと右手を下ろしたことには、気づかれていないといい。
 思っていたよりも近い距離にいたことに気づいたのか、跡部がわずかに体を強張らせた隙に、手塚は顔を背けて眼鏡を押し上げた。
「五―四でお前がリードしている状態だな」
「そこは目をつむれよ。お前のためを思って言ってやってんだろうが」
 お前のためというのがどこまで本音か分からないが、今これ以上心音が大きくなったら気づかれる。
 何にどう気づくのかと言われたら明確な答えが出てこないが、きっと良いことではないはずだ。
 そんなことを考えていたら、勝負に納得がいっていないと思わせたらしく、「次は今の続きから」と返される。それでも跡部は負けるつもりなどないのだろう。それは手塚だって同じことだ。
 だが、次があるというのは嬉しい。跡部と打ち合うのは、やはり有意義だと感じていた。ならば今日はこのくらいにしておくべきかと、帰り支度をすることにした。跡部はと思って横目で見やると、グリップの状態を確認している。
「お前はまだ帰らないのか」
「ああ、もう少しだけな。気をつけて帰れよ手塚」
 そう言ってフレームを撫でる跡部は、本当にテニスを大切に思っているのだと分かる。気遣って投げられる言葉にも、やはり律儀な男だと思わせた。
「今日は付き合わせてしまって悪かったな。だが、いいプレイができたと思う」
「そりゃ何よりだ」
 ふっと笑う跡部に、手塚はひとつ目を瞬く。肩の力が抜けていくような妙な感覚に襲われた次の瞬間、息の止まりそうな衝撃に身を強張らせた。
 ――――……は……?
 三秒。
 ――――いや、馬鹿な。
 浮かんだ思いをさっと振り払って、言わなければいけない言葉があるのに気がついた。
「……跡部」
「……なんだよ?」
 怪訝そうに見返してくる。気づかれたのだろうかと思うが、そんなはずはないなと心の中で否定をして、躊躇いつつも口を開いた。
「俺は言葉にすることが不得手だ。しかし、やはりちゃんと言っておかなくてはいけない。お前には感謝している」
「…………アァン?」
 跡部は怪訝そうに歪めた顔をさらに不審げに傾げたが、それにさえ胸がおかしな音を立てる。
 そんなわけはないと何度か否定しているのに、音は秒を重ねるごとに鮮明になっていく。
「何を寝ぼけたこと言ってんだ、手塚ァ。俺はお前に恨まれる覚えはあっても、感謝される覚えはこれっぽっちもねえぞ」
 寝ぼけたことを言うなと言うのは、こちらの台詞だと手塚は思う。肩の怪我は跡部のせいではないと何度も言ったのに、何が〝恨まれる覚えはある〟だと。
 やはり、言葉にして良かったと苛立ちさえ覚える。この先ずっとそんなふうに思われていたのでは、たまったものではない。
「お前とのあの試合、俺にとっては無二のものだ。自分があれほどまでがむしゃらになれるとは思わなかった。お前が全力で向かってきてくれたからだろう、跡部」
 跡部が目を瞠る。息を呑んだようにも感じられて、もしや同じ思いでいてくれたのだろうかと気がつき体が熱を持った。
「俺はまだ、上を目指していける。ここで立ち止まっていたくない。そう思わせてくれた。相手がお前でなければ、俺はどこかで諦めていただろう。負けたくない、最高のプレイがしたい。それに応えてくれた」
 言葉を飾っているつもりはない。すべてが心の底からの本音だ。正直、跡部でなければ肘を庇ったプレイをすることもなかったし、結果として肩の痛みを我慢してまでコートに戻ることはなかった。このボールを逃したくないという思いだけで、あんなにがむしゃらになれるなんて。
 プロへの道が見え出したことで、どこか達成感のようなものさえ感じていた自分が恥ずかしい。まだ上に行ける。まだ道が前にあると、あの試合を通じて知った。跡部が教えてくれたのだ。
「お前と試合ができて良かった、跡部。お互いの都合が合えば、また打ち合おう」
 言いたいことはすべて言い終わったとばかりに、なぜか硬直している跡部をそこに残し手塚はコートを後にする。
 建物を出て左に曲がり、駅の方角へと足を向ける。
 跡部と打ち合った建物から三メートル、五メートル、十メートルと離れるにつれて、歩調が速くなった。
 ――――待て。
 手塚は混乱していた。顔が熱いのは、つい先ほどまでテニスをしていたからだ。体が熱いのも、テニスのせいだ。
 ――――待て、ちょっと……待ってくれ、頼むから……なんでだ……!
 うめきが漏れそうな口を左手で覆って、タ、タ、と足を踏み出す。顔の熱は温度を増したようで、さらに困惑した。
 心臓はうるさく音を奏でて、視線が泳ぐ。危うく電柱にぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。止めたそこで、再度足を踏み出す気力がなくなる。
 ド、ド、と心音だけが手塚の耳に届き、思考を濁らせた。
 そんなわけがない。そんなわけがないのだ。
 あの男は好敵手であって、それ以下ではないし決してそれ以上であってはならないのに。
 ――――違う。違う、違う、絶対にだ……!
 特別な相手ではあるが、まさか、そんな。
 好きだなんて、そんなことあるわけがない。
 ガンガンと頭を鈍器で殴られてでもいるような衝撃が煩わしい。手塚はその場で深呼吸を繰り返し、なんとか思考をクリアにしようと務める。
 ――――跡部だぞ? 俺もアイツも、男だ。通常はその……恋、というものの対象から外れているだろう。アイツとはただテニスがしたいだけであって、そういう……恋愛方面の話にはならないはずだ。
 冷静に、極めて冷静になろうとして、話に聞く恋愛というものとは違う面を探してみる。
 まず第一に同性であって、自分がそういった性指向の持ち主だとは考えつかなかった。かといって女性に興味があるかといえば、この年頃の男子にしては薄いような気もする。だが同性に恋愛的な興味などあるわけもなかった。
 ――――恋というものがどんなものかは分かっている……つもりだが……経験がないから、勘違いしているんだろう。そうに違いない。そうでなければ、よりにもよって跡部をそんな対象に据えるわけがない。馬鹿馬鹿しい……!
 確かに、跡部景吾に対する印象があの試合からこれまででガラリと変わってしまったことは認めよう。そのギャップからくる勘違いに決まっている。好感は持っているが、性愛につながる感情などではない。
 跡部景吾との間にあるのは、テニスだけで充分だ。そうだ、テニスができた喜びで頭と体が混乱しているのだろう。
 手塚は目を伏せて、開け、唇を引き結んで足を踏み出す。こんな余計なことを考えている場合ではない。間に合ったからには全力で大会に挑まねばならないのだと、前だけを見据えた。
 ドキンドキンと鳴る心臓には気づかない振りをし、寸前に浮かんできた気安く笑う跡部の幻を見なかったことにして。

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