ここで重なり合うもの

この記事は約6分で読めます。

混ざり合っていた音が、不意に解かれた。止まってしまった演奏に、跡部は顔を上げる。視線をやれば、そこにはバツが悪そうな顔をした男がいた。
「すまない、音を飛ばした」
素直にそう謝罪を入れてくる相手に口の端を上げて、跡部も手を止める。肩の力を抜いて譜面を見直すと、確かに運指が難しい箇所だった。それでも懸命に弾こうとする彼は、とても好ましい。

「構わねーぜ、手塚。慣れねえことだしな。少し休憩するか」
斜めにかけていたギターを下ろし、傍に置いていたドリンクを手塚に向かって放ってやると、左手で器用に受け取ってくれた。
「ああ。しかし、難しいな……ギターを弾きながら歌うというのは」

テニスの合宿に来ているというのに、自分たちは今ギターと歌唱の練習をしている。というのも、協調性を高めてチームの力を伸ばし独創的なプレイで評価を得られる可能性、という突拍子もない提案のせい……もといおかげである。
結束力を高めるというには良いことかもしれないし、楽器を演奏することで筋力の強化ができるというメリットはあった――というのは、建前で通るかどうか。三船入道のお達しを拒否できるわけもないという以前に、フェスと聞いて食いつく男たちが多数いるのだ。
チームを組んでより良い演奏をと言われ、何にでも真剣に取り組み高みを目指す跡部が熱を入れない理由はなかった。

それともうひとつ、同じチームに手塚がいるということが、跡部を熱くさせる理由。

テニス以外は不器用と思われがちな男だし、それは概ね事実でもある。
それでも釣りや登山といった集中力や技術のいる趣味があるのも知っていた。だから一度始めてしまえば、手塚ならばさほど時間をかけずにマスターできるだろうと思ったのだ。
それでも、ギター演奏と歌唱とを同時に行うのは大変らしい。
「さすがのお前も苦戦してるみたいじゃねーの」
くくっと笑いながらそう口にすると、普段からあまり変わらない表情にほんの少し変化が起こる。わずかに目が細められ、眉間にしわが寄ったのだ。本当に、かすかな変化。それを感じ取れる距離が心地良い。

「ただでさえ慣れないことを、同時に二つも行っているんだ。仕方がないとは言いたくないが、もっと鍛錬が必要だ」
「クソ真面目が。ノリでどうにかしようとは思わねえんだよな、お前は」
ため息が混じった前向きな発言に、跡部は苦笑する。手塚という男は妥協を知らないのだ。やるからには全力で、怠慢も油断もなくやり遂げたいという不器用な男である。そんなところが本当に愛おしい。

「同じチームにお前がいるからな。余計に手など抜けないだろう」

それと同時に、憎たらしい。
この男は自覚なく、最高の賛辞を投げてくる。跡部は頭を抱えたくなったが、これしきのことでめげていては手塚と付き合ってなどいられない。
跡部がいるから余計にという気持ちも純粋に嬉しくて、素直に受け止めるだけにしておいた。

「それにしても、お前はなんでもできるのだな。弾けるのはピアノだけではないのか」
「アーン? 俺様を誰だと思ってやがる。コツさえ掴めばなんでもねーよ」
「それならなおさら、俺がギターとボーカルを兼ねる必要はないと思うが」
お前一人でいいのでは? と首を傾げる手塚に、「音に厚みを出したいと言ってるだろう」と反論してみせる。
木手はドラム、徳川はベース、とリズム隊はそろっていて、ギターとボーカルが必要なのは誰にでも分かる。二人でどちらもすることはないのではと手塚は言うが、せっかく面白くできそうなメンツなのにもったいないと説いたのは跡部だ。

「手塚、まさかテメェ、俺様と一緒ってのが嫌だって言うんじゃねえだろうな」
「そんなこと言ってないだろう。ただ、お前がうまくできるものを、俺のつたない演奏や歌で邪魔をしたくない」
「つたな……い、って、お前なあ……」
跡部は今度こそ項垂れて頭を抱えた。
この男は自分というものを分かっていない。譜面の読み方を秒で覚え素早い運指でさえこなしているのに、どこがどうつたないというのだろうか。そもそもこの跡部景吾が、できない男に大事なポジションを任せるわけもないというのに。
「あー、まあ確かに、お前と一緒にりてぇし歌いたいっていう俺様の私情も多分に入ってるぜ。けどな、俺はお前にならできるって思ったから任せたんじゃねーか」

跡部は手塚へと歩み寄り、先ほどまで弦をはじいていた左手を取って指を絡める。そうして、ひとつひとつの指先にそっと口づけた。

「無茶して怪我をするのは許さねーが、お前なら大丈夫だ」
「…………何を根拠に言うんだ」
「この指先が何よりも情熱的で器用・・・・・・なことは、俺様がいちばんよく知ってるからな」
なあ? と煽るように覗き込んでやれば、含んだ意味に気がついたようで、手塚が目を瞠る。この手がどれほど器用にうごめくのか、知っているのは跡部景吾しかいない。
「はしたないぞ、跡部」
「アーン? 今なにを考えやがった?」
いったいどんなはしたない格好になっているところを想像したのだろう。もちろんそうやって想像するだろうことを見越しての言動だったが、手塚の声に僅かな動揺が混ざったことが思いのほか嬉しい。
「事細かに言ったら恥ずかしいのはお前だと思うが」
しかし返ってきた言葉にぱちぱちと目を瞬く。手塚もいつまでもからかわれっぱなしではないということか。
もう少しからかう算段だったが、逆に散弾を食らった気分だ。二人きりでの練習とはいえ、自身の痴態を言葉にされるのは御免被りたい。跡部は絡めていた指を外し、両の手のひらを向けてみせる。降参だ、と。機嫌を損ねた手塚が面倒くさいのはよく分かっているし、ケンカをしたいわけではない。

「でも言ったことは本当だぜ。お前ならできると思ってるし、俺様と演りあえるのはお前しかいねえ」
音楽で高みを目指そうとは思わないが、最高の演奏をというのなら相手は手塚しかいない。
相手の音を聞き、追いかけ、重ねる。
考えただけでゾクゾクする。

「それにな、俺様はテメェが思ってるよりずっとテメェの声に惚れてんだよ」

冷静に見える男の、熱のこもった声。
日常の中で跡部と呼ぶ声にすら胸が高鳴ってしまうこの事実を、いつか言ってやろうと思っていた。悔しいほどに惹かれているのだと。
「なあ……聴かせろよ、手塚ァ」
その声を聴き、追いかけ、重ねる。
想像するだけでソワソワする。
テニスだけでなく、この男とならどんな世界でも熱くなれるだろうと思った。

跡部は手塚に体を寄せて、耳元で「手塚」と囁く。そうして正面から視線を合わせ、唇を重ねた。触れるだけの柔らかなキスだけれども、気持ちは充分伝わるだろう。
「聴かせろと言いながら口を塞ぐのはどうかと思うが」
至極真面目な顔をしてそんなことを言うのに、腕はしっかり腰に回して抱き寄せてくる素直な恋人に、跡部も寄り添った。

一秒の視線の交錯。同じタイミングで目蓋を伏せて、唇を触れあわせる。押しつけて、離れて、もう一度合わせた後には互いの舌先を誘い込んだ。
吐息と吸い合う音。心音は何よりも近いところで重奏し、離れがたい思いをあふれさせた。
それでもこれ以上触れあっていたらまずいことになる。互いの理性で軽く舌を噛み合い、名残惜しげに体を離した。

「……俺は自分で思っているよりお前に好かれているのだな」
こつりと額を合わせてくる手塚が愛しくて、跡部は楽しそうに口の端を上げる。
「今頃気づいたかよ?」
「こういうことには慣れていないから、何が正解か分からない」
「お前はもう少し自惚れてもいい。お前の中の“俺”に間違いはねえ」
鼻先にちゅっと音を立ててキスを贈れば、手塚はぱちりと目を瞬く。
「すべてが俺の生き様、……いや、俺たちの生き様ということか?」
「ハッ、覚悟があればいいってヤツか。どんな愛し方スタイルでも構わねーぜ、手塚。俺とお前が永遠に共にいるためならな」
歌詞を唇で追い、指先で旋律をなぞる。手塚の瞳に強い光が灯ったのを、跡部は見逃さなかった。
「跡部。今回のフェスも俺にできるすべての力をもって挑もう。お前に負けるわけにはいかない」
「くくっ、お前のそういうとこ、ホント愛してるぜ」
やってやろうじゃねーの、と高らかに声を上げて、二人は短くて濃密な休憩を終わらせた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました