恋を羽織る

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「狭いな」
 部屋に通されて最初の言葉がそれだとは、さすが跡部景吾だ。
「お前の部屋に比べたら、どこでも狭いだろう」
 知らないが。手塚はそう付け加えて小さくため息を吐く。跡部はそれに、「冗談だ」と返してきた。
 手塚も、それほど跡部の言動を気にしているわけでもない。ベッドと勉強机とチェスト。一般的な広さと家具だし、何も不便などない。そもそも『跡部景吾』の言動をいちいち気になどしていられるものか。何しろ日本屈指の財閥の御曹司だ。狭いというのも、本音ではあるのだろう。
 生活環境や価値観などは、違っていて当然だ。
 違うからこそ、惹かれてしまう。
 きょろりとゆっくり部屋を見渡す跡部を、ちらりと視線だけで見やる。少し前からは考えられないことだ。跡部景吾が自分の部屋にいるなんて。落ち着かない気分で学ランを脱ぎ、畳んでチェストの上に置いた。
 どうしてか視線を感じて振り向くと、パッと逸らされる。若干気分が降下しながらも、跡部の視線が自身の上着に移ったのに気づいた。
「……上着、かけておくか?」
 くつろげないだろうとハンガーを手に取れば、跡部が苦笑しながらボタンに手をかける。指先で器用に外して腕を抜いていく様を、じっと凝視してしまった。おかしな思考にならないうちにハンガーを手渡して、手塚は踵を返す。
「座ってろ、お茶を入れてくる」
「ん、ああ」
 ハッとして跡部が返事をしてくる。ぎこちないと思ったのは、初めて訪れた場所だからだろうか。そう思いながら、跡部を部屋に残して階段を降りた。制服姿をまだ見慣れていないせいか、心臓が必要以上に速い気がする。
 落ち着かなければいけない。何も特別なことはないのだから。今日はただ、跡部が読みたがっていた本を貸すことになって、初めてテニスを絡めずに同じ時間を過ごすというだけだ。
 だからこの厄介な恋情は、今は押し込めていないといけない。
 キッチンへ差しかかった辺りで、なぜ、と思う。なぜ抑えないといけないのだろう。手塚国光が跡部景吾を好きだという事実は、もう何をしようと変わらないのに。それならばむしろ、言わない方が不誠実なのではないだろうか。
「珍しいのね国光。お友達連れてくるなんて。学校も違うようだし」
「氷帝の……他校のテニス部部長なんです。試合を経て、……親しく、なれたと」
「そう。もっと仲良くなりたい相手、ということね。国光、嬉しそう」
 母親がお茶を入れてくれる。このカステラは父の好物ではなかったかと彼女の顔を見やったら、内緒ねと唇に人差し指を当てられた。母親というものには敵わないと、こんな時いつも思う。きっと、気づかれたのだろう。
「そうですね」
 否定することはせず、入れてもらった紅茶とフルーツのゼリーをトレーに載せ階段を上がった。
「跡部、入るぞ」
「ああ」
 声をかけると、跡部がドアを開けてくれる。普段は開けてもらう側だろうに、こうやって気の利くところは好ましい。
「すまない、助か……」
 だが、次の瞬間そんなほのかな想いが吹き飛んでいった。手塚は目を瞠る。トレーを落とさなかったのは、褒められてもいいくらいだろう。
「な、……にをしてる、跡部」
 何しろ、跡部が学ランを羽織って待ち構えていたのだ。それは間違いなく手塚のものだろう。困惑ばかりが襲いかかってくる。
「ん? ああ、これかよ。悪い、ちょっと気になっちまってな」
 硬直した手塚に気づいたのか、跡部の視線が肩の学ランに落ちる。それでも脱ごうとはせず、手塚は頭の中の混乱を結んでぽいと放り投げ、ため息一つで平静さを取り戻した。
「ああ、氷帝はブレザーだしな。だからといって何も人のを勝手に羽織ることもないだろう」
「怒るなよ」
「怒ってはいない。呆れているんだ。ほら、脱……いや、いいが」
 脱げと言い掛けて、破廉恥な思考になりそうで踏みとどまる。跡部がそうしたいというなら放っておこうと、小さなテーブルを出して紅茶とゼリーを並べた。
「サンキュ。美味そうじゃねーの」
「桃と葡萄、どちらがいい?」
「桃がいいな。そっちも一口くれ」
 桃のゼリーを跡部の方に差し出して、手塚は再び硬直する。違う方も食べてみたいという気持ちは理解できるが、心臓に悪い。だが断る理由もない上に、非常に可愛らしくて頷いてしまった。
 跡部のスプーンが葡萄のゼリーをすくっていく。つるりと吸い込まれていく唇に、どうしても目が行ってしまった。
「ほら手塚、こっちもやるよ」
「え、あ、ああ」
「食わせてやろーか?」
「結構だ」
 どうにか平静を装って、桃のゼリーをすくって食べる。あまり味がしないのは、緊張していたせいかもしれない。
 跡部はどうも学ランが気に入ってしまったようで、ずっと肩に羽織ったままだ。寒いというわけでもないだろうに、たびたび指先で触れる仕種が目に入る。氷帝のシャツの上に羽織られる青学の学ランというのは、愉快な光景だ。
 跡部の体を、自分の学ランが包んでいるというのは、良くない光景だ。そんなことは絶対にないのに、跡部を抱きしめているような錯覚に陥ってしまう。
「なあ。そういやこういう学ランて、卒業式に第二ボタン分捕られるって聞いたが、そうなのか?」
 ふと思い出したように、跡部が第二ボタンを見下ろして撫でる。分捕られるという表現はどうなんだと思いつつ、手塚は眼鏡の位置を直した。
「どこからの情報だ。まあ確かに、昔からそういう風習はあるようだが。意中の相手の、心臓にいちばん近いところのボタンをもらいたいという想いかららしい。もちろん、男の方からボタンをやるというのもあるな」
「ふぅん? 心臓に近いっていったら、中のシャツでもいいようなもんだが。そこはロマンてヤツか?」
 手塚も跡部も、中学三年生。あと何ヶ月かすれば、中等部を卒業しなければいけない。卒業式には、いくつかのボタンが飛び交うことになるのだろう。基本的には持ち上がりの高等部に進学するというのにだ。
 しかし、手塚は卒業したら青学の高等部には上がらずドイツに行くと決めている。もっと強くなるために。
 この恋はここに置いていかなければいかなければならないだろうか。せっかく初めての恋だというのに。
 やはり、告げておいた方がいいかと思う。告げられないまま離れたら、きっとずっと引きずってしまう。せっかく二人きりなのだし、今言ってしまおうかと、口を開いた。
「跡部」
「第二ボタン、お前も誰かにやる予定あんのか?」
 出鼻をくじかれた気分だ。話の流れとしてはおかしなものでもないが、このタイミングでは勘弁してほしかったと、手塚は頭を抱える。
「いや、やる……というか、もらってほしい相手はいるが……」
「へえ、そういう相手がいんのかよ。お前も隅に置けねえなあ」
 ふっと笑いながら跡部が言う。これは脈も何もないなと、手塚は盛大にため息を吐いた。いっそ卒業式に氷帝学園に行ってボタンを押しつけてやろうかとさえ思う。
 どうするのが正しいのだろうか。脈もないのに告げて、跡部は困らないだろうか? もう友人としてさえつきあえなくなるのは、嫌だ。それならば、黙っていた方がいいのかもしれない。初めての恋だが、初めてだからこそ壊したくない。
 逃げるのか、と言われても、そうだとしか返せない。
 あと少しだ。あと少ししか一緒にいられないのだから、その間くらいは〝親しい〟のだと錯覚させてほしい。衣服を羽織られるだけで触れているような気になる、そんな馬鹿げた錯覚でも構わない。
「……そっか……いんのか……」
 跡部の、沈んだ声が耳に届く。いつも強気な彼にしては、珍しいものだった。
「行く当てがねえんなら、可哀想だから俺様がもらってやっても良かったんだけどな」
「………………は……?」
 何を言われたのか分からない。もらってやっても良かったというのは、どういう感情からなのだろうか。
「大石とか、不二とか、引く手数多だろ。ふふ、てめェはどうだよ、手塚ァ」
 真意を訊ねようとしたところで、もういつもの口調に戻った跡部が笑う。単純に、欲しがる相手がいるかどうかということらしい。もう何も期待するものかと眉間にしわを寄せた。
「そういうお前はどうなんだ、跡部。氷帝には、そういう習慣はないのか?」
「ウチはネクタイだな。卒業式でなくても、恋人とネクタイ交換して着けてるヤツはいるみたいだぜ」
 言いながら、跡部は指先でネクタイをすくい上げる。絡んだそれは、運命の赤い糸のように見えた。
「誰かにあげるのか」
「いや、誰にも。跡部景吾が誰か一人のものになるわけにはいかねーだろ」
 跡部景吾という男が、多くの人間に慕われているのは知っている。それらに平等に接しているらしいことも。もしや自分もその中の一人なのかと思うと、無性に腹が立った。同時に、悔しくて仕方がない。このままでは、跡部の中でなんの意味もない存在になってしまう。
「お前の博愛主義をどうこう言うつもりはないが、それなら俺が欲しいといってももらえないのだな」
「………………は……?」
「俺は跡部のネクタイが欲しい」
「な、に、言って」
 跡部の目が大きく見開かれる。逆に、手塚の目はすっと細められた。
「意味が分からないほど馬鹿じゃないだろう」
「テメーこそ意味分かって言ってんのかよ! 俺のっ……ネク、タイ、欲し、い、とか」
氷帝そちらの風習を充分に理解した上で言っている」
 跡部の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。それは珍しいものを見たと思わせ、手塚はぱちぱちと目を瞬いた。青い瞳はゆらゆらと泳ぎ、唇が震えているように見える。
「だ……って、お前、ボタンやりたいヤツがいるって……今言ったばっかじゃねえかよ……」
「いや、だからそれは」
「俺のイノチ欲しがるってんなら、お前も心臓よこすのが筋ってもんだろ! 学ランこれごとよこせ!」
 跡部は言いながら、第二ボタンごと学ランを握りしめる。手塚は目を見開いた。
 言葉で、まっすぐな瞳で、分かりやすい仕種で、欲しがってくれている。一瞬遅れてそれを理解して、思わず学ランごと引き寄せていた。
「んっ……」
 気がついた時にはもう唇同士が触れていて、ほんのりとフルーツゼリーの味がする。思いがけず叶ってしまった恋は、この唇でこれからゆっくり語り合えるだろうか。
 唇を離すと、感触を確かめるように指先で撫でながら、跡部が右肩に寄りかかってくる。
「……手が……早ぇ……!」
 押し殺したような声は、責めているのか喜んでいるのか分からない。手塚はひとまず自分に都合の良いように解釈してから、跡部の体を学ランごと抱きしめた。これで、錯覚なのではなくなる。確かに自分の腕が抱いているのだと実感して、耳元で囁いた。
「好きだ、跡部」
 ややあって、応えるように跡部の腕が背中に回ってくる。
「……俺も、好きだぜ手塚」
 抱き合った互いの体温はシャツ越しでも温かかったが、そんな恋人たちの傍では紅茶が徐々に冷めつつあった。

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