それはまるで最初から

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「もう自宅に着いてんのか?」

電話の向こうから、「ああ」と帰ってくる。急だなことだが、この男は本当に行きたかったのだろう。プロになるために、ドイツへ。

跡部は壁にもたれ、そっと目を伏せる。

ドイツのプロチームから誘いを受けていると知った時、不思議と羨む気持ちは湧いてこなかった。むしろ、手塚ほどの男なら誘いがあって然るべきだと思ったせいだろう。さすが無二のライバルだと、誇らしくさえあった。

「お前はもう少し思慮深いヤツかと思ってたが、全然だな。計画性ってものを養いな」
『だが、せっかく背中を押してもらったんだ。早く行動に移したかった』
「……あぁそうかい」

ドイツに行きたいんだろうと手塚の背中を押したのは、跡部だ。少し気恥ずかしくて、舌を打ちたくなる。
柱とやらにこだわってチャンスを逃すなと、怒りたい気持ちもあったのは本当だ。いっそ傲慢なまでの責任感は手塚らしいと思ったけれど、ここで足踏みしていていい男ではない。
プロになれるプレイヤーなんて一握りだ。せっかく向こうから誘いがきているのに、U-17の中学生選抜を率いている場合ではないだろう。
背中を押してやれたのなら満足だ。跡部は小さく息を吐いた。

「いつ立つんだ。なんなら飛行機の手配してやってもいいぜ?」
『学校のことや手続きもあるからな……すぐ……というわけにはいかないが、でき次第といったところか』

跡部は今度こそチッと舌を打った。こんな時、手塚が他校の生徒だというのがもどかしい。氷帝学園であったなら、すぐにも手続きを済ませるよう手を回せるのに。

「それなら、送別会くらいやらせてやりゃいいのによ。なかなか薄情な男じゃねーの」

今は合宿中だ。勝手な外出は認められていない。手塚を見送りたいメンバーはたくさんいるだろうに、それさえも許されない状況だ。
他校のメンバーはともかく、青学のメンツくらい別れを言わせてやってもいいのではないか。

そういえば、〝脱落〟したメンバーたちは今どうしているのだろう。大人しく学校に戻って練習をしているのか、それとも――。
考えて、アイツらが大人しくしているタマかと心の中で思って笑う。

「そういえば手塚テメェ、総入れ替え戦チームシャッフルの結果も訊かねぇな」
『――訊くまでもないだろう。信用しろと言ったのはお前ではなかったか、跡部?』
少し言葉に詰まる。確かにそうだ。〝約束〟をした以上、負けたという報告はあり得ない。

「三勝二敗、一ノーゲーム。俺たちは三番コートに上がったぜ」

それでも一応の報告を済ませてやると、『ノーゲーム?』と怪訝そうな声が返ってくる。当然三勝二敗で終わったのだろうと思っていたようだ。

『引き分けたのか、跡部』
「ああ、入江さんとな。怒んじゃねーよ。なかなか有意義なゲームだったし、俺様はまた進化したぜ」
『別に怒ってなどいない。バスを待っている時、お前の声が聞こえた。お前は約束を果たし、俺を送り出してくれたのだと思った。それで充分だったんだが……聞き捨てならないな』

怒っていないとは言うが、声が怒っている。
気持ち良く快勝してやりたかったという気持ちもあったが、そこはさすがに高校生選抜の上位保持者だ。自身の戦略の甘さも露呈した。悔しくないとは言えない。

「ちゃんと勝ってやりたかった。悪いな手塚」
『そういうことを言っているわけではない、跡部。引き分けたということは、試合ができなくなる程の怪我をしたということじゃないのか。平気なのか?』

跡部はぱちぱちと目を瞬く。どうやら、怪我の可能性の方を怒って――心配していたようで、相変わらず分かりづらいと苦笑した。

「お前が俺様を心配するとは珍しいじゃねーの」
『跡部』

諫められて、いたたまれない気分に陥る。立場が逆なら、跡部は同じように訊ねただろう。好敵手の怪我というのは、喜ばしくないのだ。たとえしばらくボールを打ち合えなくなる相手だとしても。
しかしながら、心配されるということに慣れていない。こんなにも胸がむずがゆいものなのかと、落ち着かない気分だった。

「大したことねーぜ。左足首を、ちょっとな。入江さんにも見抜かれて、持久戦に持ち込まれた。ザマぁねーな、この俺様が」
『足か……骨に異常は?』

ないと答えてやると、安堵したように『そうか』と返ってきた。

『だが、のちのち症状が出てくるかもしれない。跡部、油断せずに行こう』
「テメーが言うとさすがにリアルだぜ。まあ俺様もこんなとこで立ち止まってるわけにはいかねぇからな」

手塚は一足早くプロの道へと進む。すぐに追いかけると言った気持ちに、嘘偽りはない。
思った以上に自分の人生に食い込んでしまったテニスというスポーツ。高みを目指さずにはいられない。

跡部ウチもスポンサー契約してるプレイヤーがいる。そっちの関係で、お前の情報は嫌でも入ってくるぜ。無様な醜態さらすんじゃねーぞ、手塚ァ」
『無論だ』

いやみを含んだ激励をさらりとかわしてくる辺りが、少しも可愛くない。
いや、手塚が可愛くても困るじゃねーの、と短く息を吐いて、跡部は通話を打ち切ろうとした。

「準備の邪魔しちゃ悪いしな、そろそろ切るぜ。アイツらに何か伝えておくことはあるかよ?」
『いや。特にはないが、跡部』
「アーン?」

『俺がプロになったら、結婚しないか』

その言葉を理解するのに、数秒かかった。その分の沈黙が流れる。
手塚の言葉を頭の中で反芻して、はたと我に返り、跡部は腕を組んだ。

「なんの冗談だ、アーン?」
『冗談を言ったつもりはない』
「なら寝言は寝てから言いな」
『その場合、お前は寝ている俺の傍にいることになるのか?』
「誰がいてやるかよ」

そういうことじゃねえ、と舌を打つ。
確かにドイツでは同性婚が認められているようだが、問題はそこではない。

「まだ中学生の分際で何言ってやがる」
『もちろん結婚ができる年齢になってからで構わない』

それはそうだろうなと跡部は目を細める。プロへの誘いを受けてドイツへ行く状態だが、すぐにプロになれるわけでもない。技術や条件などが合って双方の同意でプロ契約が結ばれる。
そんなことをしている間に、結婚ができる年齢にもなるだろう。
しかし、そこも問題ではない。

「ドイツ行きに浮かれて勢いで言うもんじゃねーな」
『ドイツに行けることはありがたいし嬉しく思っているが、浮ついた気持ちで言ったわけではない』
「そうかい。しかしな手塚よ。ここで大きな問題がある」
『問題とはなんだ』

「俺とお前はつきあってるわけじゃねえだろうが」

そうだ。結婚などという話をしつつも、跡部は手塚と交際をしているわけではない。お互いの間で、そういった話が出たこともない。色恋には、一切合切関わりがなかったのだ。つい先ほどまで。

「男同士だなんだと野暮なこと言うつもりはねーぜ。だがな、そういうことは惚れたやつに言うもんだ」
『だから言ったんだが。今』
「つきあうっていう過程をすっ飛ばしてプロポーズとは、やるじゃねーの手塚ァ」

跡部自身、裕福な家庭環境のせいか少し常識を外れた振る舞いをすることはあった。周りはよくついてきてくれたと、今になって思う。
まさか手塚がこういった行動に出るなんて、読み切れなかった。得意の眼力インサイトを持ってしてもだ。しかも腹立たしいのが、断られるとは微塵も思っていないようなところである。

「……お前、俺のこと好きなのか」
『そうでなければ、結婚など申し込まない』
「今までそんな素振り見せもしなかっただろう」

眼力インサイトを持ってすれば、恋心のひとつやふたつ、簡単に見透かせる。だが、いくら思い返しても手塚からのそういった周波は送られてきていなかった。
それがなぜ、いきなり結婚などということになるのだろうか。

『それは仕方ないだろう。生涯を共にするならお前がいいと思ったのは、今日だ』
「――開いた口が塞がらねえじゃねーの」

なんて男だと、呆れ果てる。百歩譲って、今日気づいたのが本当だとしても、色んなことをすっ飛ばし過ぎだ。
普通なら想いを告白して恋人として逢瀬を重ね、結婚なんてものはその先のはず。にもかかわらず、こちらの気持ちも都合も確認せずにプロポーズとは。

「今日の今日でプロポーズはしねぇもんだぜ、普通はな。俺がお前を好きじゃないとは思わなかったのか。アーン?」
『……思わなかったな。何故かは分からないが、跡部は受け入れてくれると思っていた』

この男は、と頭を抱えたくなった。
この腹立たしい程の自信はいったいどこから来るのか。
交際という過程も同性同士だということも得意の手塚ファントムで弾き飛ばして、跡部景吾からの好意だけを手塚ゾーンで引き寄せたとでもいうのだろうか。
手塚国光ならやりかねないと思ってしまうあたり、自分も相当おかしくなっている、と跡部は息を吐いた。

『跡部、返事はもらえないのか』
「必要ねえな。お前は俺が断るとは微塵も思ってないんだろ。アーン?」
『そうだな。跡部とは、そうなることが自然で、当然のことのように思う』

おそらく、あの時から。
そう続ける手塚に、いったいいつの時点を言っているのだとは訊かなかった。訊かなくても分かる。
関東大会の、あの試合。
お互いの、今まで見せなかった部分をさらけ出して戦ったあの時だ。
跡部は、ふっと口許を緩めた。

「…………プロポーズ早々遠距離恋愛に突入とはな。順序がバラバラだぜ」
『逢えないのは寂しい』

ほんの少し沈んだ声に、今どんな顔をしているのだろうと想像する。見たかったなと思うあたり、もうどうしようもない。

「手塚ァ。合宿終わってからになるが、新しい端末のナンバー教えてやる」
『電話変えるのか?』
「バーカ。……お前専用のだよ」

また端末が増えることになるが、悪くない気分だ。恋人――もとい婚約者専用のというのが、思った以上に胸をむずがゆくさせる。

『そうか。楽しみにしている』
「見送り、行けなくて悪いな」
『構わない。お前には、たくさんのものをもらった。感謝する』

一歩踏み出すきっかけと、エールと、イエスの返事。その他にもたくさんのことを、と手塚は言う。
無二の好敵手である手塚の力になれたのならばいいと、跡部の中が充足感で満ちてくる。

「おやすみ、手塚」
『ああ、おやすみ跡部。また連絡する』

そうやって通話を打ち切ってから、跡部はずるずると壁を伝い崩れた。

「好き、なの、かよ……ッ」

こんなことになって初めて気づく、手塚の気持ち。そして、自分の中にあった想い。
まるで最初からそうなるべきだったかのような自然さが、自覚させなかった原因だろうか。

顔が熱い。画面に表示された手塚国光という文字にさえ胸が鳴る。恋人という期間をすっ飛ばして一気に進んでしまったこの関係を、どうすればいいのか分からない。体中の力が抜けてしまったようだった。

「あ……の、馬鹿」

自分にしか聞こえないような小さな声で悪態を吐く。腕にかかった吐息が熱くて、しばらく冷えてくれそうになかった。

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