No.454, No.453, No.452, No.451, No.450, No.449, No.4487件]

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ふたりの約束-025-

カクテルキッス04 2019.08.04

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

「オレはこれを片付けてくる。至、……エイプリルに話すかどうかは、任せる」「待って密、その仕事、ここで…

カクテルキッス04

ふたりの約束-025-



「オレはこれを片付けてくる。至、……エイプリルに話すかどうかは、任せる」
「待って密、その仕事、ここで片付く程度のものなの?」
「平気……オレは実働の方が向いてるけど、できないわけじゃない」
 そう言って、密は部屋の一つに籠もってしまった。そこに何があるのかは、至は知らない。
 ここで知っているところと言えば、このリビングと、寝室と、バスルームくらい。あとはキッチンを少々。
「任せるったって……俺だってほとんど知らないのに」
 ここまで来た以上、千景には知ってもらわないといけない。困惑している千景に、何をどこまで、どこから話そうか。
「えーと、何か飲みます? ビールと日本酒以外はあるみたいなんで」
 以前ここに来た時に、千景にそう言われたことを思い出し、キッチンへと足を向ける。その後を、千景もそっとついてきた。
 ティーバッグの紅茶がある。それにブランデーでも少し垂らしてやろうと、ケトルに水を入れた。
「至」
 咎めるような口調で呼ばれ、至は千景を振り向くことができない。さすがに彼も、尋常なことではないと察しているのだろう。
「ねえ、至」
「……はい」
「さっきの、俺と至が付き合ってるっていうの、たとえ話じゃないんだろ」
「――……えっ、そっち!?」
 千景から投げかけられた、疑問符のつかない言葉に、思わず振り向いてしまう。
 てっきり、密の口にした〝エイプリル〟のことを考えているのだと思ったのだが、違ったようだ。あの怪しげなメールのApr.と結びつけるのは容易なことだろうに。
「至、本当のことを話してくれ。俺と至は――付き合ってた?」
 千景の指先が、カップを用意する至の手に触れてくる。確信を持って指を絡めてくる千景に、これ以上の?は吐き通せなかった。
「……はい」
 肯定して俯き、目を閉じて息を吸い込む。
 そうして顔を上げた時には、もう迷いなど消えていた。
「やっぱり、そうだったんだ」
「ちゃんと話しますから、向こうで待っててください。逃げたりしませんよ」
「お湯が沸くまで時間がある」
 落ち着いてゆっくり説明しようと思ったが、千景は促してくる。思っていたよりせっかちなタイプなのだろうか。違和感が襲ってきたけれど、
「俺が至のこと気になるのは、おかしなことじゃなかったんだよな?」
 不安げに、絡めた指に力を込めてくる。そこで至は気がついた。自分の中に渦巻く感情に、思い悩んでいたのだろう。記憶をなくす以前には付き合っていたと分かって、安心したのかもしれない。
「先輩……」
「至を好きだと言ってもいい?」
 まっすぐ視線が降りてくる。そんなにストレートな言葉で訊ねてくる千景が新鮮でもあったし、本当に覚えていないのだなと複雑な気分でもあった。
 湯が沸いて、二人分の紅茶を入れ、それぞれのカップを手にリビングへと戻る。ソファに腰をかける位置は、ものすごく近かった。
「いや近いわ」
「恋人だったんだろ、普通じゃないのか」
「……俺たちの場合、普通じゃなかったかもしれません」
 至はテーブルにカップを置いて、膝の上で両手の指を組んだ。
「どういうこと?」
「今まで?吐いててすみません。俺と先輩は、確かに付き合ってました。体の関係もあったし、俺は先輩のことものすごく好きだった」
「……何か問題があった? ひょっとして、今密が何かしてるのも、関係してるのか」
「別れたんですよ、俺たち」
「え!?」
 千景が珍しく大きな声を上げる。
 数秒続く沈黙は、にわかには信じられなかったからだろうか。
「先輩が事故に遭う前ですね。結構長いことセフレで、ようやく叶ったのに、恋人でいられた期間は十日ほどしかなかった」
「ど、……どうして」
 困惑する千景に、至は項垂れてガシガシと頭を掻く。
「こっちが聞きたい。ホントに突然だったんですよ。いきなり飽きたから別れたいなんて言われて! 俺のことは忘れてほしいなんて言いやがって! それで自分の方が忘れてるんだから、笑い話にしかならんわクソが。あー……腹立ってきた、馬鹿」
 別れを告げられた時のことを思い出して、胃が痛む。
 ちゃんと納得できる理由を聞こうとした矢先に、千景が事故に遭った。
 結局聞けずじまいで、千景の記憶は戻らない方が幸せだなんて考えていたせいで、胸の奥に閉じ込めていた不満と不安が、一気に押し寄せてきた。
「だいたい、なんで最後のセックスがあんなに激しかったんだよ。翌日キツかったの知ってます!?」
「いや、俺に言われても、あの、ごめん」
「あんなセックスしといて飽きたとか、信じるわけないだろ、もうちょっと上手く?吐いてくださいよ!」
「え、あ、はい」
 隣にいる千景にそれをぶつけても、彼は〝知らない〟のだから、仕方がない。
 記憶にございませんという、わざとらしい責任逃れをしているわけではないのだから、今の千景に当たっても仕方ないことは分かっている。
 千景の困惑はそのまま音にされて、怒気が失せた。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

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ふたりの約束-024-

カクテルキッス04 2019.08.04

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

 寮に戻ると、談話室で愛機を広げネットサーフィンをしている千景に出くわした。「あれ、早いね至」「え、…

カクテルキッス04

ふたりの約束-024-



 寮に戻ると、談話室で愛機を広げネットサーフィンをしている千景に出くわした。
「あれ、早いね至」
「え、あ、ちょっと、半休もらって」
「体調でも悪い? ご飯とか食べられる?」
「平気です。密見かけてません? 今日バイトかな……」
 いつもよりだいぶ早い帰宅に不思議がりつつも、安堵の表情を見せる千景が気にかかったけれど、まずは密に確認しなければいけない。賄賂としてマシュマロもゲットしてきたのだ。
「今日は見かけてないな。部屋で寝てるんじゃない?」
 どこかそわそわとしている千景に礼を言って、至は密たちの部屋がある二階への階段を上がり掛ける。数段上ったところで、ちょうど起きてきたらしい密と鉢合わせた。
「密、よかったいてくれて」
「至? 今日仕事はいいの……」
「いやそれどころじゃないっていうか、ちょっと聞きたいことがあって」
 内容が内容なだけに、至は声を潜める。平日の真っ昼間ということもあって寮内は静かだが、誰がどこで聞いているか分からない。
「密、教えて。任務の依頼って、いつも電話でくる?」
 組織からのとは言わなかった。もし誰かに聞かれても、ごまかせるように。
「……至」
 密の眉間に、しわが刻まれる。咎めるための視線は、彼にしては珍しいものだった。
「ごめん、俺が踏み込む領域じゃないのは分かってる。でも、知っておかないと先輩を守れない」
 千景からそれを遠ざけるにしても、プロセスがないと何もできない。
 危険なことだとは分かっているのだが、それを避けて千景が千景でなくなることの方がつらい。
「密、お願い」
「……三人でいたときは、オーガストが持ってきた。メールなのか、電話なのか、手紙なのか、オレには分からない」
 密も思うところがあったのか、渋々といったふうではありながらも口を開いてくれる。だけど、有益そうな情報ではなかった。
「向こうの人たち、今の先輩の状態、知らないんだろ? そんなんで、任務とか来たら……危ないよね」
「……千景の様子は見てた。退院してから、特に変わったことはなかったと思う。今はまだ……大丈夫だと思う。でも、至の言う通り、コンタクトに何も返さなかったら、アイツらは簡単に裏切り者の烙印を押す」
 密の目つきが鋭くなる。それは至の知っている御影密ではなくて、きっとディセンバーとしての感情があるのだろう。役者として別人になりきるのは日常茶飯事だが、コレは、本当に別人のように思えた。
 ゾッとして、至は思わず自身の腕を握りしめた。
「至……怖い? オレたちのこと」
「えっ、あ、……怖くない、とは言えないけど、違うんだ、そうじゃなくて。先輩もそういう顔ときどきしてたから、大丈夫……ただ、そのまま戻ってこなかったらどうしようって、そっちのが怖い」
 千景が、組織からの任務を受けた場面に、一度だけ遭遇したことがある。どこの国の言葉か分からない会話と、鋭くなる千景の瞳。行為の最中に放置されていって、憤慨したものだ。
 その時はちゃんと戻ってきてくれて、隣で眠らせてくれたけれど、次はどうか分からない。
 行ってらっしゃいを言えないかもしれない。
 おかえりなさいを言わせてくれないかもしれない。
「先輩が、記憶をなくしたの、少しだけ嬉しかったんだ。組織のこと忘れて生きていけるなら、それでいいんだって……でも、向こうはそうはいかない」
 悲しさも寂しさも当然あったけれど、それで千景が普通の人間として生きていけるのなら、思い出させるべきではないと思った。それは本当のことだ。
 思い出しても、至と千景の関係はもう終わっているのだから、胸が痛むことには変わらないと。
 こんな弊害があるなんて、考えていなかった。
「知らないってことが、こんなに危ないことなんて」
 悔しさを紛れ込ませて呟いて、――気がついた。
 ひゅ、と何かが下からせり上がってくるような感覚を味わう。足下から脳天に突き抜けたそれは、すとんと落ちて至の中にじわりと染み込んでくる。
「あ……」
 至は思わず声を上げて、その口を押さえた。
「知らない、から……」
 知らないということが、時として自分の身に危険を及ぼす。危険だと知らなければ、回避できない。日常が突然終わりを告げるなんて、誰も知らない。
 例えば、川の増水は危険だと知らなければ、回避できない。機械の使い方を知らなければ、怪我をする可能性もある。
 踏み込んでいいライン、手を触れてはいけない部分、回避すべき事象。
 至はそれを何も知らない。
(先輩、もしかして)
 もしかして、千景は――そう思った時、談話室の方から千景が顔を出す。先に気がついたのは、密の方だった。
「千景、どうしたの」
 その声に、至もハッと顔を上げる。そこには、困ったような顔をした千景がいた。もしかして今の会話を聞かれたのかとも思ったが、彼の手には彼自身のパソコンが乗っている。
「何か、メール届いてるんだけど、これ俺宛てなのか分からなくて……至が何か知ってたらと思ったんだけど。職場の関係?」
「え、メールですか? まあ会社のアカウント見れるようにしてる人たちはいますけど……先輩そんなのしてたかな。たいてい主任とか課長とか、そういう管理者クラスの人たちですよ」
「そうなのか……じゃあ迷惑メールかな? Apr.って、これエイプリル、かな……」
 一緒に千景の端末を覗き込めば、ずらりと並ぶメールタイトル。
 未読のままのそのひとつに、至は目を見開いた。
 エイプリル――それは千景のもうひとつの名前だ。
「密、これ……!」
 千景から端末を取り上げて、密に向けてみせる。密も、険しい顔でそのタイトルを睨みつけていた。
「千景、これ中身見た?」
「え、いや、まだ……危ないもの? その添付ファイル、ウイルスとかそういうヤツかな」
「……うん、そんな感じ」
 密が、低く呟いて肯定する。密がそう言うのなら、これは組織からの任務に違いないのだと、至はこくりと唾を飲んだ。
 いったいどんな任務なのだろう。これを千景にやらせるわけにはいかないのだが、どう返信すればいいのか分からない。
「至、車出して。ここじゃ処理できない」
「えっ、俺!?」
 密がメールを確認し、至を振り向いてくる。処理をするというのは、密がこの任務を受けると言うことだろうか。
「向こうの家の方がいい」
「え、あ……うん、分かった」
「あと、千景も一緒にきて。説明する」
「え?」
 向こうの家というのは、千景が使っていたアジトのことだろう。密が記憶をなくすまで、もう一人の仲間がいなくなってしまうまで、そこは一緒に使われていたのかもしれない。
 寮よりは安心して仕事ができるのかもしれないと、至は玄関に向かいかけ、密の発した言葉に驚いて向き直る。
「密、先輩に言うの?」
「知らないっていうのは、危ないこと……至もさっき言ってた」
「そうだけど! だけど、先輩は」
「ねえ、なに? 説明って、これ、前の俺がやってたことなの? なら、知っておいた方がいいよね。次は俺ができるかな」
 千景は忘れたかったかもしれない。せっかく忘れられたのに。そうは思うが、危険だと思うのも本当だ。
「知って、お前がどうするかは、お前が決めればいい。しばらくはオレが代わりにやる」
「分かった。ありがとう密」
「……お前が素直にお礼言うとか、やっぱり薄ら寒い。千景、早く思い出せ」
「できる限りの努力をするよ」
 心底嫌そうに顔を歪める密に、千景が肩を竦めて苦笑する。そんな千景の手を引いて、密が至を追い越して玄関を出ていく。至も仕方なく、彼らを追って寮を出た。
 向こうに着くまで眠るという密の横で、千景が困ったように彼を眺める。それをバックミラーでチラリと見やり、至はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 密は千景の愛機をぎゅっと胸に抱え込み、千景がそれ以上のことをまだ知らないように守っているように見えた。そんな密を、千景は不安そうに見つめていた。
「至、どこまで行くんだ」
「割と近くですよ。変なとこじゃないんで、安心してください。もう一つの家、かな。オレは一度しか行ったことありませんけど」
「そっか……」
 家という単語で、千景は幾分安堵したようだった。何も知らない状態で、行き先も知らないのでは、不安が募るばかりだろう。
 そんな彼に、告げていいのかどうか。いや、もう告げておくしかないのだが、迷う。千景の心の平穏を奪うことになる。
「先輩、一応訊きますけど。……記憶、あった方がいいですか?」
 ずるい訊き方だと思った。
 記憶がないというのがどんなに不安なことか、千景の様子を見ていて分かっているのに、千景からの後押しが欲しい。
 千景の過去を告げることは、千景が望んだことなのだからと逃げてしまえる。
「そりゃ、あった方がいい。何も思い出せないのは……つらいよ」
「……どんな記憶でも?」
「怖いこと言うな」
「例えば俺と先輩は付き合ってたとかでも?」
「えっ……?」
 あくまでたとえとして口にする。
 けれど答えを聞く前に、アジトの方に着いてしまった。至は車を停め、密に声をかける。
「密、着いたよ。俺はここで待ってるから」
 至の声に、密がむくりと起き上がる。マシュマロなしでも起きたのは、事態が事態だからだろうか。
「至も来て。大丈夫だから」
「は? え……俺も行くの? 監視とか、そういうのは」
「オレが守る」
 以前ここに来たときは、千景に薬を飲まされて、意識のない状態で連れ出された。〝生きた状態の誰か〟と一緒に帰るのはマズイのだと言っていたが、そんな危険を冒してもいいのだろうか。
「密、巻き込んでごめん……」
 危険、なのかもしれない。密はそれでもふるふると首を振り、促してくる。至は車を降り、千景の後ろからついていった。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

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ふたりの約束-023-

カクテルキッス04 2019.08.04

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

 またミスをした。至は打ち込んでいた文章を消して、打ち直す。が、何度も変換ミスをして、余計な時間がか…

カクテルキッス04

ふたりの約束-023-



 またミスをした。至は打ち込んでいた文章を消して、打ち直す。が、何度も変換ミスをして、余計な時間がかかった。
 至は項垂れて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜる。
 朝からずっと、仕事に集中できないでいた。
(あ~……ほんとどうしよう。マジでヤバいんじゃないのあの人……)
 原因は、千景だ。
 朝出勤する際、ものすごく不安そうな顔をされた。どうしてか引き留めたそうな顔をして、だけど引き留めることはせずに〝気をつけて〟と言ってきただけ。
(なんだったんだろ、あれ。今日はできるだけ早く帰ろうかな)
 千景の記憶は、まだ戻っていない。夜にうなされる以外は何も問題がないし、それでいいと思っていた。自分と恋人だった痕跡は消したし、まっさらな状態でいるのがいいと。
 千景が忘れたかったのならば、望むようにした方が彼のためなのだと。
(うなされてんのは、プレッシャーか、それとも……いや、向こうの仕事のことかな。……先輩があっちの仕事でどこまでヤッてんのか知らないけど……手が血まみれになるような、こと、も……あったんだろ……)
 思い出したいという気持ちが、重圧になっていることもあるだろう。だけど、起きた後に自分の手を確認してホッとしているところを見るに、体の記憶と脳の記憶の齟齬そごが彼を不安にさせているのだ。
(クラッカーの匂いが懐かしいとか、たぶん火薬だよな……銃、なのかな。使ってたんだろうな……)
 恋人だった期間は短かった。だけど体の関係はそこそこあって、それなのに千景のことを何も知らない。
 推測でしかないが、千景は所属している組織の命令でいろんな犯罪に手を染めてきたのだろう。
 そこを深く追求するつもりはない。私利私欲のためというならば話は別だが、そうではないはずだ。好きでやっていたとは思いたくない。
 千景が忘れたかったのならば、忘れたまま、ただの一般人として暮らしていけるのならば、その方がいいに決まっている。
 だけど、千景の体は覚えているのだ。においを、感覚を。いったいどのくらいその組織で過ごしてきたのかも知らない。千景の中に根を張るそれらが、今になって恨めしい。
(いいだろ、先輩が忘れたがってんだから、解放くらいしてくれたって! もしこの先記憶を取り戻したとしても、別に組織の秘密とかバラさないだろうし、普通に役者として過ごさせてくれよ)
 犯罪に手を染めた組織から、簡単に抜けられないのは分かる。裏切り者には死の制裁をというのは、よく聞く話である。
 ただそれは至にとって、ラノベや漫画、ゲームの中の話だった。
 それでも、それが千景には日常だったのだ。
(住む世界が違う……分かってたつもりなんだけど、こういう時どうすればいいのか分からない。先輩は、どうしたかったのか。ちゃんと聞いておくべきだったのかな)
 千景が忘れたからといって、組織から抜けたかったかどうかは、至には分からない。至の思う〝当たり前〟と、千景の考える〝最善〟は違うかもしれない。
 今まで生きるために、利用され、利用してきた環境。そこを離れて、千景の世界は保たれるだろうか。
 デスクについた両手で額を支え、至は唇を噛みしめる。
 千景のためには、どうするのがいちばんいいのか。
 恋人だったことも、組織のことも、密との間にあった確執も、何も話さないままでいていいのかどうか。
 そこまで思って、至はハッとして顔を上げた。
(待って……全然考えてなかったけど、あの人向こうの仕事どうしてんだ? いや、どうしてんだって何もしてないに決まってんだけど、それヤバくないか? 組織のヤツら、先輩が記憶ないって知ってんの? 知らないよな? いきなり仕事とか入ってきたら、どうすれば)
 今の今まで気がつかなかった。記憶のない今、裏の仕事をよこされても対応ができない。千景と組織が、どのようにしてコンタクトをとっていたのかも分からないのでは、向こうに知らせることもできない。
(メール? 電話? 何か暗号文? 前は電話かかってきてたよな)
 ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。
 どれくらいの頻度で仕事が舞い込むのかも分からず、心構えもできない。
 もし組織からの命令があっても、今の千景では可否を返すこともできないだろう。いや、否を返せるものではないのだろうが、何もアクションを起こさなかったら、裏切り者として扱われることにならないだろうか。
 最悪の場合、そこから劇団に手を伸ばしてくるかもしれない。
 それは、千景がいちばん避けたかった状態のはずだ。
(ど、どうしよう……踏み込んじゃいけないなんて言ってる場合じゃない)
 至は、千景の日常でありたかった。彼が守りたかった日常を謳歌している恋人でありたかった。それこそが、千景が千景であることを守ることになると思っていたけれど。
(密なら知ってるかな、組織のこと。……先輩は密を巻き込みたくないかもしれない。いちばん守りたいひとだって分かってる。でも……ごめん先輩、俺だけじゃ無理だ、先輩を守れない)
 千景のことをもっとよく知っておけばよかったと、悔しさがこみ上げてくる。体だけ立派に知り尽くして、心の方がついていかなかった。
(そりゃフラレるわ……浮かれてるばっかりだったしな)
 こんな自分に、愛想を尽かしてしまったのかもしれないと、至は苦笑する。そうして、いつもの三倍速で仕事の量を把握して片付け、外面と日頃の行いの良さで半休をもぎ取った。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

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ふたりの約束-022-

カクテルキッス04 2019.08.04

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 しんどい。 至がそうこぼしたのは、千景が退院してから四日目のことだった。 万里はゲームの共闘に付き…

カクテルキッス04

ふたりの約束-022-



 しんどい。
 至がそうこぼしたのは、千景が退院してから四日目のことだった。
 万里はゲームの共闘に付き合いながら、どう声をかけていいか迷う。
「こんなにランク下がったの初だわ」
「そっちかよ」
 項垂れつつも手は止めない至が、低くそう呟くのに呆れて、だが安堵もしてしまった。
 恋人が記憶をなくしているという状況は、どんなに寂しいだろうかと思っていたのに、ゲームのランクの方が彼に取っては重要らしい。
(あ、別れてんだっけ。とてもそうは思えねーけど……何が原因だったんだろ)
 千景が事故に遭う直前に、彼らは関係を解消していたのだったと思い出し、至があまりダメージを受けていないように見える違和感を拭う。
「千景さんどこ行ってんの?」
「なんで俺に訊くんだよ」
「ルームメイトじゃん」
「じゃあお前、十座が今どこで何してるか知ってんの?」
「は? 知ってたら怖ぇわ!」
「俺だって先輩の全部知ってるわけねーじゃん。たぶん病院かなとは思うけど。検査」
 何だかんだで把握していることを、至は気がついているだろうか。千景の怪我の経過は良いようで、痕もさほど残らないとか。
 だけど記憶は一切戻っていない。
 談話室で、中高組の宿題を見てやっている場面に遭遇したが、以前と変わらない光景に思えたし、カレー地獄も最初不思議そうにしていたが、もうすでに受け入れているように見えるし、他の団員たちも遠慮などしていないように感じた。
 以前と違うところがあるとすれば、まだ職場に復帰していないのと、至との関係性だろう。
「正直……このままでいいかなって思うんだよね」
 至は、万里のそんな心配を読んだかのように、ぼそりと呟く。ちょうど最後の敵キャラを倒したところで、お互いが手を止めた。
「でもアンタ、千景さんのことまだ好きなんだろ」
「まあ、そうなんだけど。なんていうかさ、前とあんま変わんないっつーか。いやむしろ先輩が俺を甘やかしてくるっていうか」
「のろけか」
 至が言葉に詰まる。万里はぱちぱちと目を瞬いた。
 てっきり否定されると思っていたのに、至は気まずそうに視線を泳がせるだけ。
「勘違いかもしんないんだけど、先輩からの視線が甘ったるいっていうか、その……いくら俺でも気づくっていうかさ」
「あ~、なる。千景さん、至さんのこと好きなんだな。確かに前より雰囲気柔らかくなったっつーか、そういうのはあるかも」
 愛されてんじゃん、と言いかけて、万里は首を傾げる。
「アンタら、なんで別れたんだ?」
「知らんわ」
 記憶をなくしても、また至に好意を寄せているようなのに、どうして千景は、至を突き放したのだろうか。何かやむを得ない事情があったのかもしれない。
「でもまあ、ヨリ戻すにしたって、千景さんには前のことちゃんと話してからの方がいいんじゃね?」
「……あぁ、そうだな……」
 至の顔が曇る。声が沈む。
 千景からの好意は嬉しく思っているようなのに、ヨリを戻さないのはなぜだろうか。前のことを話せない理由がさっぱり分からない。
 今までずっと片想いだと思ってきたせいで、千景からの明け透けな好意を楽しんでみたいのだろうか。
「上手くいくといいな」
「……サンキュ」
 苦笑する至の頭をぽんぽん叩いて、激励をしてやるくらいしか、今はできそうになかった。



 千景からの好意には気づいている。優しい目でずっと追いかけられれば、誰だって気がつくだろう。そういう視線には慣れているし、何より交際していた実績があるのだから。
 至の方も、万里に言われた通りにまだ千景のことが好きで、大好きで、できれば以前みたいな関係になれたらと思っている。
 だけど、そうするにはまず以前のことを話さなければならない。
 セフレだったこと、片想いだと思ってきたけど実は両想いだったこと、恋人同士になれたこと、そして――突然別れを告げられたことなどを。
 至はベッドの上でごろりと寝返りを打ち、小さく息を吐いた。
 話すとなれば、ザフラでのできごとをごまかすことができない。綴のように、話を構成する力があれば別だったかもしれないが、隠したまま千景を納得させるだけの話術がない。
 ザフラでのことを話すならば、千景の裏の仕事も話さなければならないだろうか。
 踏み出せないいちばんの理由はそこだった。
「う……」
 至は、自分のではうめき声に気づいて、顔を上の方に向ける。そこは千景が寝ているベッドだ。
「先輩」
 至は体を起こして、千景の状態を確認する。胸の辺りでシャツを握りしめ、不快そうに歯を食いしばっているようだった。
「先輩、しっかり」
 ベッドの仕切りから乗り出して、千景の肩を揺さぶる。
 千景は、寮に戻ってきてからずっと、うなされている。もしかしたら、病院でもそうだったのかもしれない。夜眠るのが怖いと言っていたこともあるし、明らかに安眠ではない。
「千景さん」
 至は少し大きめの声で彼を呼び、ぐっと肩を掴んで強く揺さぶった。
「あ……っ」
 それで気がついた千景が、勢いよく目を開けて起き上がる。荒い呼吸で空気が揺れて、肩が上下しているのが見えた。起こしてくれたのが至だと認識してからは、それが次第に落ち着いてくる。
 ずっとそんなことの繰り返しだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「至……俺、またうなされてた……?」
「盛大に。怖い夢でも見たんですか」
「……思い出せない。真っ暗だったことしか分からない」
 目を覚ました後は何も覚えていないようで、ただ不快さと不安だけが残っているのだという。
「至、ごめん、起こした……」
「いえ、まだ寝てなかったし。平気ですよ」
「あの……さ、至」
 肩を撫でて落ち着かせようとした至の手を取り、ぎゅっと強く握ってくる。
「なんですか?」
「め、迷惑かもしれないけど……傍にいてほしい。いなくならないでくれ……」
 至は目を瞠る。これはいったいどいう感情からのものだろうかと。不安からなのか、それとも純粋に恋心からなのか。
「……大丈夫ですよ、ここにいますから。何度でも起こしてあげるんで、眠ってください」
「うん、ありがとう……」
 千景は大きく深呼吸をし、再びベッドに寝転がる。
 それを確認してから、至も布団に潜り直して、皮肉なものだなと唇を引き結んだ。
 劇団内の誰よりもいなくなりそうな男が、「いなくならないで」とは。
 記憶がない不安は、そこまで彼をむしばんでいるのか。
(傍にいてほしいなんて……あの人なら絶対に言わなかっただろうな……でも、心のどこかで、そう思ってくれてたのかも)
 みんなの前では普通にしている彼だけど、うなされ方は日に日にひどくなっているような気がする。起きたあと、必ず自分の手のひらを確認しているのは、血に濡れていないかを確かめているかのようにも思えた。
 記憶をなくしても、あの組織は千景の平穏を邪魔してくれる。
 憎たらしいと、よく知りもしない組織に悪態をついて、至も浅い眠りに就いた。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

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ふたりの約束-021-

カクテルキッス04 2019.08.04

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 一〇三号室。ここが、至と一緒に過ごしていた部屋のようだ。「中庭まであるんだ。劇団ていうから、もっと…

カクテルキッス04

ふたりの約束-021-


 一〇三号室。ここが、至と一緒に過ごしていた部屋のようだ。
「中庭まであるんだ。劇団ていうから、もっとこぢんまりしたところかと思ってたんだけど」
「維持費はそれなりにかかるでしょうね。最初劇団の借金膨れ上がってましたから。はい、おかえりなさい」
 至がドアを開けてくれる。千景はお邪魔しますと言いかけて、口を噤んで開き直した。
「た、ただいま……?」
 おずおずと足を踏み入れる。
 すぐに黒いソファが目に入って、パソコンだとかゲームのコントローラーが視界を覆う。二つ?がったロフトベッドと、隅の方に白いチェア。テーブルの上に、飲みかけのコーラ。
「先輩のスペース、そっち側です。最初一人部屋だったんで、俺の私物多くてすみません」
「え、いや……それは別に構わないっていうか……なにこれ」
「一応片付けて掃除はしたんですけど」
「そこじゃなくて……俺の私物って、これだけなの?」
 千景のスペースだという場所には、チェアとトランク、ウサギの置物。
 衣服はクローゼットなのだろうが、いくらなんでも少なすぎやしないだろうか。
「……そうですね。あんまり物に執着しないタイプだったんじゃないですか?」
「……眼鏡たくさんあるけど……度が入ってないし、伊達眼鏡なんだよね……そのくせ服とか小物がたくさんあるわけでもない。俺って男がますます分からない」
「無理に昔の先輩に戻ることないでしょう。パーティーでも、みんな普通だったじゃないですか」
 至の言う通り、少しぎこちなさはあったものの、それは千景の気負いだけだった。
 退院パーティーという特性上、主役扱いではあったが、客扱いはせずに、会話が途切れることもなく、以前の話を不自然に持ち込んでくることもなかった。
「寮ではよくパーティーとかするの?」
「あー、わりと」
 至がドサリとソファに腰を下ろす。一人掛けではないそのソファに、座ってもいいのかどうか。
「どうぞ。さっきも言ったけど、遠慮とかそういうの要らないんで。したいことがあれば言えばいいし、知りたいことがあればいつでも教えますよ」
 戸惑いに気がついたのか、至が振り仰いで、促してくれる。
 千景はゆっくりと至の隣に腰を下ろした。背もたれに体を預けると、ようやく心が落ち着いた気がした。
「やっぱり、落ち着く……至の声」
「それ、女の人に言ったらアウトなヤツ」
「だからそういう意味じゃな、……い……」
 と至を振り向けば、彼はポータブルのゲーム機で何かのゲームを楽しんでいた。どうしてだか、胸がズキズキと痛む。
 傍にいると肩の力を抜けるのは本当なのに、後ろめたさがわき上がる。
(なんで、至だけ……)
 こんな感覚、他の団員たちには感じなかった。
 見舞いによく来てくれて、接し方が分かってきたというのなら説明はつくが、さっき文句のように呟いてしまったように、至が来てくれたのは一度きり。
 いづみたちの方が、頻繁に来てくれていて、だいぶ打ち解けてきた感じはあった。
「先輩、今日楽しかったですか? 退院早々ああ騒がしいんじゃ、疲れたかな」
「え? あ、ああ……楽しかったし、嬉しかったよ。わざわざ飾り付けまでしてくれて」
「ははっ、ここ、ホントに何かっていうとパーティーですからね。公演の打ち上げしかり、団員の誕生日しかり。夏にはバーベキューとかしますし。みんなね、何か理由をつけて騒ぎたいんですよ」
 どうりで片付けなども手慣れているはずだと、千景は苦笑する。
「ああ、だからなのかな。クラッカー慣らされた時、なんだか懐かしい匂いがしたんだ。そんなに頻繁なら、以前の俺もあの輪の中にいたんだろうね」
「え……?」
 千景は、あの時感じた懐かしさを思い出して目を閉じる。団員たちの誕生日には、自分もクラッカーを鳴らしたりしてたのだろうか。家族がいないと聞いたが、ここの団員たちが家族のようなものだ。随分と大家族だけどと、知らないうちに口許が緩む。
 このカンパニーでならば、記憶がなくても幸福に過ごしていくことができるだろうと、そこまで思って、違和感。
(カンパニー……? って、こんなだったっけ……? なんだろう、モヤモヤしてる)
 カンパニーという単語が、頭に引っかかる。こんなに暖かなものだっただろうか。
 もっと別の何かがあったような気がするのに、思い出せない。
「せ、先輩疲れてるでしょ。もう寝た方がいいですよ」
「うん……至はまだ寝ないの? 明日仕事なんじゃ」
「このクエスト終えたら寝ますよ。さっき飲み過ぎたし」
 違和感が拭えない千景の頭を、至の手がぽんぽんと叩いてくれる。優しくあやすような笑顔に、胸が締めつけられた。
「夜更かしは良くない」
「えええこれでも早く寝る方ですけど」
「いつもそんなに遅いの? 若いうちだけだぞ」
「お父さんかよ。いや、まあ、お父さんか……ハハッ」
「なにそれ、俺は至のお父さんなの?」
「明日話してあげますよ。今日はもうゆっくり寝てください」
 千景が至の父親であるはずはないのだが、劇団の演目の話だろうか。まだまだ知らないことばかりで、明日はどうなるか分からない。
「…………そのクエストってのが終わるまで待ってる」
「えっ……いやいや先輩どうしたん……」
 至が、信じられないというように顔を上げて、振り向いてきたけれど、その顔は次第に真剣なものに変わっていった。
「先輩……もしかして、夜とか寝られなかったりしました?」
「……ちょっと」
 こんなことを言うのは情けないけど、と千景は視線を逸らして肯定する。
 病院にいる間中ずっと、ゆっくり眠れたことなどない。記憶がないということが、自分で認識しているよりも負担になっているのか、心が安まる瞬間などなかった。
 それは、眠ろうと目を閉じても同じことらしい。
「眠るのが怖い……というか、目を開けるのが怖い。誰もいなかったら怖いって思ってた」
 至が、ゲーム機を置いて俯く。中断させる気はなかったのだが、言ってから、こんなことを呟けばゲームをする気にもならないだろうと苦笑した。
「見舞い……行けなくてすみません」
「いや、仕事忙しかったんだろ? 病院も、まあ誰かしらいるわけだしね。まったくの他人だけど」
 病院という場所柄、個室ではあるもののドアひとつ隔てて常に誰か行き来していた。
 夜はさすがに静かだったが、救急車や入院患者の往来で、他人の存在を感じることはできたのだ。
「事故に遭ったからなんだろうけど、ときどき自分が血まみれのような気がして、飛び起きることもあった。怪我の程度から、そんなに重症だったわけないのにね」
 室内灯を消していたにも関わらず、生暖かい血液が鮮明に見えた夜もあった。すぐに自分の状態を確認して、なんともないことにホッとしたけれど、心臓に悪かったと、思い出して口許を覆う。
「せん、ぱ……それって」
「本当に情けないな、ごめん……」
 至の声が震えているような気がして、千景はハッと我に返る。
 弱音を吐くつもりはなかったと至を振り向けば、彼は不安そうに顔を強張らせていた。
「至? ごめん、怖がらせた?」
「え、あ、……あ、いえ、違います。先輩でも、そういう普通の感覚あったんだなって」
「どういう意味だよ、まったく」
「じゃあ、もう寝ましょう。疲れてるでしょ。俺も寝ますから」
 至は、そう言ってソファから腰を上げる。夜着に着替えるのか、服の裾に手を伸ばした。
「でも至、さっきの……クエスト、いいの?」
「大事なデイリーは消化したし、いいです。やり出すと止まらないんで、軽く二時間くらい経ちますよ。先輩をそこまで付き合わせるわけにもいかないでしょ」
「そんなにゲーム好きなのか」
「俺の人生ですから」
 至は勝ち気に笑って、脱いだ服の代わりに夜着を身に着ける。どうしてか目をそらせなくて、至の体を上から下まで眺めてしまった。
「何見てんですか。エロ」
「は? え、あ、いや、……ごめん、なんでだろ。見たかった……?」
「いや意味が分からん。ほら先輩も早く着替えて。手伝いますか?」
「だ、大丈夫……」
 自分でも分からない、と千景は額を押さえて、促されるままに着替え、ゆっくりとロフトベッドに上った。
「狭いんで、一緒にとは言えませんけど」
「いや、ないだろ一緒にとか。野郎同士で」
「それな。ま、うなされてたら起こしてあげますから」
「うん……お願い」
 そう言って、至が横になったのを確認してから、千景も布団の上に横になる。病院のベッドより落ち着くのは、自分の匂いがあるからだろうか。
「あ、先輩」
「なに?」
「おやすみなさい」
「……うん、おやすみ至」
 なにかと思えば、おやすみの挨拶。何げないことで、至には当然のことなのかもしれない。
 だけど、数日を病院で過ごした千景には、それ以前の記憶がない千景には、とても新鮮で、ものすごく特別なことのように思えた。
 傍に誰かがいてくれる。自分のことを何も知らない他人ではなく、今の自分よりも自分を知っている誰かがいるのは、想像していたよりずっと心を落ち着かせてくれた。
 至が寝返りを打てば、シーツがこすれる音がする。やがて規則正しい寝息が聞こえ始める。
 それだけのことが、どうしようもないほど嬉しくて、こみ上げてくるものがあった。
 だけど、せっかく至がゲームをやめてまで眠る時間をくれたのだ。その厚意を無駄にしないように、千景はゆっくりと眠りについていった。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

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ふたりの約束-020-

カクテルキッス04 2019.08.04

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

「千景さん、退院おめでとうございます!」 パンパンと、そこかしこでクラッカーが音を立てる。飛び出して…

カクテルキッス04

ふたりの約束-020-



「千景さん、退院おめでとうございます!」
 パンパンと、そこかしこでクラッカーが音を立てる。飛び出してきた紙切れや紙テープが舞って、千景の髪や肩に降り立った。
「あ、ありがとう……飾り付けまでしてくれたの?」
 事故から数日後、千景は無事に退院した。
 怪我の経過は概ね良好で、後遺症も見受けられかったようだ。ヒビの入った左腕はまだ吊ったままだが、それ以外に問題があるとすれば、千景の記憶がまだ戻ってこないことくらい。
 談話室は、千景の退院パーティーだとかで綺麗に飾り付けられており、テーブルにはところ狭しと美味しそうな料理が並んでいる。
 千景は、すんと鼻を揺らす。何か、懐かしい匂いがした気がして。それは生活感なのか、料理の匂いなのか、仲間たちが集まった温かさなのか。
「千景さん退院おめっす! 落ち着いたらまた脱出ゲーム行こうぜ」
「千景、おかえり。ねえお酒は飲んでも大丈夫なのかな。いいお酒が手に入ったから、平気そうだったらボクの部屋に来てね。いつでも歓迎するよ」
「千景さん、一応消化の良い物作ったので、好きなの取ってください。あ、でも激辛料理はなくて……すみません」
「退院直後に激辛なのとか、あんまりよくないんじゃないかな……?」
 団員たちが、わらわらと周りに集まってくる。どの顔も公式サイトで見た顔ばかりなのに、違和感が拭えない。本当にここで過ごしていたのかと、疑ってしまう。
「あの……ごめん、俺まだ全然思い出せてないんだ。俺の言動とか、戸惑うとは思うけど、いろいろ教えてほしい」
 改めてみんなに向き直り、正直な心の内を明かした。公式サイトのおかげで顔と名前は分かるけれど、その人たちとこれまでどう過ごしてきたのか、どう過ごしていくべきなのか、何も分からない。
 もしかしたら面倒だったり、薄情だと離れていかれる可能性だってあった。
 千景はぺこりと頭を下げる。これだって、以前の自分なら取らない行動だったかもしれないのに。
「大丈夫ですよ、千景さん! 思い出せなくても、これから覚えていけばいいんです!」
 明るい声がして、千景は顔を上げる。そこには、花のように笑う佐久間咲也がいた。
 確か、春組のリーダーだったはずだと思い出し、なるほどと腑に落ちる。至が言った言葉が、そのまますとんと体の中に落ち着いた。
「そうッスよ千景サン、また一緒に公演とかできるんッスから、嬉しいッス~!」
「まあそうは言っても、卯木が殊勝だと落ち着かないけどな」
「丞さんって結構言うよな」
「ちかげ、お祝いのサンカク~」
「ねえ、入院で変に痩せたり太ったりしてないよね? 採寸とか面倒なんだけど」
「幸、お前そればっかりだな。ちょっとはねぎらうとか」
「うるさいポンコツ役者」
 どれにどう答えていいのか分からないくらいに、ぽんぽんと会話が進んでいく。いっそ当事者を無視して進められていくそれに、千景は口の端を上げた。
(そうか、こういうところで暮らしてたのか)
 騒がしさの中に、確かな暖かみ。これはここに居着きたくなってもしょうがないなと、まだ実感できなかった自分の役者人生を思い描いてみた。
 そうして、乾杯が行われる。退院直後なのでとジュースを持たされたことが若干不満ではあったが、ありがたくもあった。
 我先にと美味しそうな料理に手を伸ばす団員たち。なんとこのプロ顔負けの料理の数々を、伏見臣が作ったというのだから驚きだ。
「これ、全部? 職業間違えてない?」
「ハハ、俺は趣味でやってるので。料理とかしてると、楽しいんですよね」
「美味しい。ありがとう」
「いえ、無理のない程度に、好きに食べてくださいね」
 食欲をそそるローストビーフ。口に運ぶと、柔らかな歯ごたえとタレが中に広がる。コレは胃袋を掴まれてしまっても仕方ない。
 見れば食べ盛り育ち盛りの青少年ばかりで、食事も大変だろうなと肩を竦めた。
 そんな中、自家製ピザに手を伸ばしている男が見えて、千景は歩み寄っていった。
「至」
「え? あ、先輩退院オメデトウゴザイマス」
 それは茅ヶ崎至。この寮に戻ってきてから、交わした第一声がこれだ。
 なぜだか千景の胸がチクリと痛む。
 おめでとうとは言ってくれながらも、他のメンバーのように、手放しで喜んでくれている様子が見られなかった。
「どうしたんですか?」
「……あれから、一度も来てくれなかったの、なんで」
「へ?」
 ピザを?張ったまま、至が振り向いてくる。目を丸くして、ぱちぱちと瞬く。ラズベリーピンクの瞳が、揺れ動いた。
「劇団のこと教えてって言ったのに、来なかったじゃないか……」
 入院していたのは数日だ。至が見舞いに来てくれたのは事故の翌日だけで、そのあとは、いづみや左京が入れ替わり立ち替わり来てくれただけ。
 面会時間が終わるまで、至が顔を出したのはあれっきりで、日に日に気分が沈んでいったのを、彼にどう説明すればいいだろう。
「……もしかして、待ってました? すみません、仕事忙しくて。連絡入れれば良かったですね」
「仕事……」
「残業続きだったんですよ。面会時間に間に合わなかったので」
 すみませんと彼は軽く頭を下げる。千景が待っているとは思っていなかったのだろう。見舞いの約束をしたわけではなかったし、彼にも彼の生活があると、言い聞かせはしていたけれど、寂しさだけが抜けていかなかった。
「じゃあ、面倒じゃない? えっと……部屋も同じなんだろ、もし至が嫌なら俺、どこか他のところで」
「うわホントだ、先輩が殊勝だと落ち着かない。なにこれキモチワル」
 先ほど丞が言った言葉を引き継いで、至は真顔でそう呟く。千景なりに気を遣ったつもりなのだが、無駄な気遣いだったようだ。
「言うね」
「まあ、戸惑わないって言ったら?になりますけど。先輩チートだから、すぐに環境に慣れるでしょ。そしたら以前と変わらなくなりますよ」
「……そう。度々至の手を借りることになると思うけど、遠慮しなくていいってことかな」
「遠慮とかするような間柄じゃなかっ……、あ……、いえ、別に、遠慮とか、なくていいので……」
 至が言葉を途切れさせ、不自然に顔を背ける。また千景の胸が痛んだけれど、その痛みをちゃんと認識したくて、至の横顔をじっと眺めた。
 そうして夜も更け、パーティーは終わりを告げる。片付けを手伝おうと思ったのだが、主役が何を言っているのかと追い出されてしまった。至が笑いながら部屋へと案内してくれる。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #記憶喪失 #カクテルキッス

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カクテルキッス04 2019.08.04

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「へえ、散歩ですか。人が必死で仕事してる間に、優雅なもんですね」 至が仕事を終えて帰ってきたのは、夜…

カクテルキッス04

ふたりの約束-019-


「へえ、散歩ですか。人が必死で仕事してる間に、優雅なもんですね」
 至が仕事を終えて帰ってきたのは、夜の八時頃。残業でもしていたのだろう彼からは、とげとげしい嫌みが返ってきた。
「……ごめん」
「いや冗談ですよ。先輩は休暇中なんですから、好きなことしててください」
 素直に謝ったら、決まりの悪そうな顔でそっぽを向かれて、気分が沈んだ。以前はそんな冗談もすぐに分かっていたのだろうなと思うと、寂しくてしょうがない。
「で、どこ行ってきたんです?」
「えっと、このお店。なんかタブレットの方にブックマークしてあったから、よく行ってたのかと思って」
「あ~~、なる。お気に入りのとこでしたね、そこ」
 至がひょいとタブレットを覗き込んできて、呆れたように呟く。不意に香ってきたのは、彼のつけている香水だろうか。
 思わず息を飲んで、顔を背けた。近い、と心の中で呟いて、視線をあちらこちらに泳がせる。
「じゃあ俺、ご飯食べてきますね~」
 そんな千景の挙動には気づかずに、ひらひらと手を振って、至は一〇三号室を出ていく。ホッと胸をなで下ろし、彼が持って帰ってきてくれたお見舞いの品を確認することにした。
「甘そうなお菓子……これはそういう好意が含まれてるのかな」
 どんな人からもらったのか分からないが、その気持ちには応えられそうにない。
(……至のこと、好きみたいだし)
 困ったように眉を寄せて、千景は考え込む。この気持ちは、以前からあったものなのか、それともこの数日で生まれたものなのか。
 だがこの安堵感を考えると、以前の自分も至に好意を抱いていたと考える方が自然だ。
 病院にいる間、ずっと至の顔が見たかった。至に傍にいてほしかった。加えて、手を伸ばしたがるこの衝動。拒まれる未来が見えないのは、もしかしたら恋人同士として過ごしていたからなのではないか。
(そう考えれば、ぜんぶ説明がつくんだけど。なんで至は平気な顔して俺の隣にいられるんだろう? やっぱり違うのかな……まさか、俺の片想いだった?)
 以前から、至に好意を抱いていたのは認識できた。そうでなければ、ずっと彼を視線で追いかけてしまう理由がない。密の言った言葉の意味も理解ができる。
〝至のことまで忘れるなんて〟
 少なくとも密は、千景の想いに気づいていたはずだ。あの様子では、万里も知っていたに違いない。
 問題は、至がそれを知っていたのか、どう思っていたのかだ。
 千景はソファの上で頭を抱え、ぐるぐると思考を巡らせる。
 普通に考えれば、同性からの好意など煩わしいに決まっている。だけど、至は優しくしてくれた。同じ想いでいてくれたのか、それとも憐れみだったのか。
 同じ部屋で、どうやってこの想いをコントロールしていたのか、以前の自分に訊いてみたい。
 ?がったロフトベッド、本当に手の届く位置で好きな相手が眠っている状況を、どうやって乗り切ってきたのか。
「至に……訊いてみてもいいのかな、これは……」
 以前の自分が至とどうやって過ごしていたのか、気持ちを知っていたのかどうか、今また、好きになってもいいかどうか。
 タブレットで、劇団の公式サイトを眺める。いや、正確には劇団員紹介ページ。もっと詳しく言うのなら、至のページだ。
 個人の携帯端末に、写真は保存されていなかった。消えてしまったのか、もともと写真を撮らないタチだったのかは分からないけれど、至の顔をじっくり見ようと思えば、このページか実物か、だった。
(……触れたい、な)
 つ、と指先で髪に触れる。もちろん画面越しでは感触は伝わってこない。冷たくて硬い画面が、千景を拒んでいるかのようだった。
 至が部屋に戻ってきたら、勇気を出して聞いてみようと心に決める。思い出せなくても、傍にいたいのだと、千景はそっと目を閉じた。



 至が夕食を済ませて部屋に戻ってくる。食事が済んだばかりで話題にするのもどうかと思ったが、至の希望だった宅配ピザのオーダーを開始した。
「あ、これサラミ追加で。あとイカも。チーズ増しで」
「そんなに追加するの? 具だくさんだな……」
「先輩の金だし、こういう時に贅沢しとかないと」
「なるほど」
 千景はタブレットに指を滑らせながら、肩を震わせて笑う。こんなふうに甘えられるのは心地がいいと。以前もこんなふうに過ごしていたのだろうか。
「あ、これ美味しそう。俺も頼もう」
「えええまさかの便乗。先輩がこういうの頼むのは珍し……あ、すみません」
 サイドメニューとしてポテトやチキンナゲット、デザートが並んでいる。千景はその中からアップルパイをチョイスして、カートに入れた。
 それを至が珍しがったが、以前とは違うのだと気がついたようで、気まずそうに謝罪をしてきた。
「別に構わないよ。至とどう過ごしていたか、まだ思い出せないのは俺のせいだし。前はこんなことしなかった?」
「……はい、どっちかっていうと俺がこういうの頼むのに呆れてるみたいでしたけど」
「ふぅん。それなら、もしかしたら本当は至と一緒に食べたかったのかもね? 前の俺は素直じゃなかったっぽいから」
「そうですね。じゃあ一緒に食べましょ。コーラ追加してください」
 至の希望通りにトッピングを追加したピザと、アップルパイとコーラと緑茶。割といい額になったが、千景は気にせずオーダーを通した。届くまでの間に、至は入浴を済ませるようだった。
 こんなに楽しく過ごせるならば、思い出せなくてもいいかなんて考え始める。
 至と特別な関係だったかどうかはまだ分からないが、宙ぶらりんを楽しむのも悪くない。以前がそうだったのならば、遅かれ早かれいずれ恋人同士になれるだろう。
 それまでは、至をいちばん近くで見られる幸福に甘んじておこうと、彼が脱ぎ捨てていたスーツをハンガーに掛けて整えた。
 そうして宅配のピザを受け取って至を待ち、部屋に戻ってきた彼がピザの箱を開けて、パッと華やいだその笑顔に心臓を撃ち抜かれる。
 頭を抱えながらも、二切れほどピザを分けてもらい、二つ入っていた小さなアップルパイを二人で分けて、ドリンクで喉を潤した。
 至はゲームが好きらしく、合間に食べる仕種がどうしても可愛らしい。途中でガチャというものをやらされて、なんだかよく分からないが至が喜んでいたのでよしとした。
 贅沢な夜食を終えて、幸せな気分で就寝の準備をする。千景がこの寮で迎える二度目の夜は、とても充実したものだった。


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