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愛のひとつも囁けない-020-
「……あのさぁ至さん」
「忘れろ、万里」
気まずそうに声をかけてきた万里を振り向けず、至は押し殺した声でそう呟く。万里が何を言うのか想像できるような、したくないような。
殴られるかもしれない。いつだか密が千景に対して怒っていたように、なんでそんなことしてんだと、怒りをぶつけてくるかもしれない。
「千景さんと付き合ってたんすか」
「付き合ってねーわ! っつーか忘れろ頼むから!」
万里が、ギシリと隣に腰を下ろしてくる。第一声がそれとは、万里は意外と純粋培養だったのかと、自虐的に嗤ってしまった。
「はァ?」
「付き合ってなんかねーわ、つかそれ地味にダメージ食らうから、ほんとやめろ、ガチで……」
付き合ってなどいない。そんな、双方向の想いがないと成し遂げられない、ハードルの高い関係は築けない。今だって、キスをすれば黙らせられると思っていたのだろう。所詮、想っているのはこちらだけなのだと、思い知らされただけだ。
「うわー、マジか、至さんの片想いかよ」
ハハッと万里の笑う声が聞こえる。片想いという単語がむずがゆかったが、至は少し視線を泳がせてからようやく万里を振り向いた。
「……否定はしないけど、引かないの、万里」
「なんで?」
「いや、なんでって……ヤロー同士でこんな」
言いづらい、と頬をかく。
同性愛や性同一性障害は、最近なにかと話題にされがちだが、身近でない限り所詮は他人事だ。
まだまだ偏見も多い中、劇団のみんなに知られたくなかった理由のひとつ。
「付き合ってはねーけど、寝てはいるんだわ、先輩と。落ちたのは俺だけで、ほんと笑えるんだけど」
「セフレってヤツなー。ま、確かに言いづらいか」
「万里のことだから、なに馬鹿なことしてんだって、殴るかと思った」
「俺そんなイメージっすか」
「わりとバイオレンスだろ、秋組」
否定はしない、と万里は笑う。そうして彼は膝の上で手を組んで、声のトーンを落とした。
「アンタが、千景さんのこと何とも思ってないのにそれだったら、確かに殴ってたかもな。でも……好きなら、別にいいんじゃないすか」
「……いや、よくはなくね?」
「なあ至さん」
「ん?」
万里が、膝に肘をついた状態で、覗き込むように振り向いてくる。今度こそ責められるのかと心の準備をしたら、
「俺、今付き合ってる人いるんすよ。劇団に」
「は? そりゃおめでと、……って、え? 劇団に? えっ、まさか監督さん?」
万里が真剣に交際している相手なんて、想像がつかなかった。しかしこの劇団内ということは、唯一の女性である立花いづみか、と考え、瞬時に真澄のことを思った。
「あ~それはそれで言いづら……」
あれだけいづみにアプローチしている真澄を差し置いて、というのは、確かに至とは違う問題があるのかもしれないと、同情しかけた。
「ちげーって。カントクちゃんは可愛いと思うけど」
「あ? なんだ、違うのかよ。びっくりさせん、な……」
だが至の予想は外れていたようで、苦笑が返ってくる。ホッと胸をなで下ろすと同時に、はたと気がついた。
この劇団内で、監督でない相手と付き合っているということは、つまり。
「え」
つまり、同性とである。
「……ガチで?」
「まあ」
「えええ全然気づかなかったんだけど何だよそれ! いつからっていうか……あの、相手は聞いてもいいもん?」
「紬さん」
「……はァあ!?」
ためらいもなく答えてきた万里に、至は目を瞠って思わずソファから腰を上げた。
「紬って、えええ、紬!?」
「うん」
慌てる様子も隠す様子もない万里に、脱力してソファに座り直す。
まさか紬と付き合っていたなんて、欠片も思わなくて、驚愕と、安堵がどっと押し寄せてくる。
「紬、紬かあ……なるほどねー」
そりゃあ至が千景を好きだと言っても、驚かないわけだと、背もたれに体を預け、天井を見上げた。改めて安堵する。
万里に、誰かに、否定されたり、拒絶されたり、軽蔑されたりしたら、心が折れるところだったと。
いや、叶わない以上、ここで折れていた方がいいのかもしれないが、もう少しだけあがいてみたい。
「あ、ちなみにもう一個カップルいんのな。そっちは俺が言うわけにもいかねーけど」
「はァ――!? なん……何なんだよこの劇団、ホモばっかりかよ……!」
がくりと項垂れて、頭を抱える。一人で、普通じゃないのだと悩んでいたことが馬鹿みたいだと、ひどく複雑な気分だった。
「いや、俺は女もイケっし。つか紬さん以外の男は無理。至さんも、……んー、ねーな」
「俺だってそーだわ、お前に欲情なんかしない」
「千景さんは? ガチなタイプ?」
「ん、あー……そうみたい。前からそういうのは匂わされてたんだけど、ちょっと二人で飲みにいったときに、な。一夜限りのはずが、なんで続いたのか、分かんない」
思えばあの最初のキスがいけなかったのだ。あれがそもそもの間違いで、すべての始まりだ。
それを考えるとやっぱり千景のせいで、悔しくて〝都合のいいオンナ〟には、とてもじゃないがなれやしない。
「惚れるなよって、言われてたのにな……」
自嘲気味に呟いて、いまだに募っていく千景への想いを実感する。
「あんなカクテル飲ませておいて、俺にまたキスするなんて、マジでずるい男……」
「カクテル? ってか、アンタ大丈夫なのか? 会社で倒れたって聞いたけど」
「は? ……あー、そういうことになってたんだ。別に倒れてないって。先輩んとこいただけ」
「仕事しろよ社会人」
「サボリ魔だったお前に言われたくねーわ」
う、と言葉に詰まる万里に、至は笑った。まだ、笑うことができる。
「ちょっとあることでトラブってて、心配だったんだよ、先輩が。でも、たぶん余計なことだったんだろうな、あの人には」
「へー。ま、詳しくは聞かねーけど、摑みどころねーもんなあ、千景さんは……」
「それな。優しく料理なんか作ってくれたと思ったら、XYZなんか出してきやがって」
「は?」
今思い出しても腹が立つ。〝最後〟という意味を持つカクテルに、睡眠薬なんか入れるなんて。あれが最後の触れ合いなのだろうかと考えることもできるが、それにしては先ほどのキスは熱っぽすぎた。
「カクテル、作ってくれたんだよ。意味知ってるだろ、お前なら」
「えっ、と、ちょい、待ち、至さん、それって」
「〝最後〟とか、〝もう後がない〟とか、もう終わりって意味だよな」
余計なことを知ってしまった至とは、これ以上続けていられない。そういう意味なのだろう。
千景の生きている世界のことを詳しく聞こうとも、やめてくれと出しゃばるつもりもないというのに。
「都合のいいオンナでいれば良かったのかね」
「いやいや、ちょっと待って至さん、何言ってんすかアンタ」
「は?」
「それ、意味ちゃんと調べた?」
引きつった笑いを浮かべる万里に、至は首を傾げる。調べるも何も、千景だってそう言っていたのに、他に何の意味があるのか。
「なあ、XYZって、アルファベットの最後じゃん」
「ああ、うん、だから――」
「あった、ほら、これ」
万里は携帯端末で何かを検索していたようで、その画面を至に向けてくる。
飛び込んできた文字を、万里の声が奏でた。
「〝これ以上ない〟〝これほどのものにはもう出逢えない〟――〝最後の恋〟だってさ」
見せられた画面には、確かにそう書いてある。
至は瞬きを忘れて、画面と、その向こうにある万里の顔を凝視した。
「え……?」
後がないというのは、これ以上ないとも捉えられる。最後に飲むカクテルとして、これ以上のものには出逢えないという意味もあるらしい。意中の相手と飲むのであれば、最後の恋にしたいと示すこともあるようで。
「両想いなんじゃねーの?」
鈍すぎ、と付け加えられた万里の苦笑が、数秒遅れて脳に届く。
「……――は?」
耳に慣れないその言葉は、千景の毒より強力に、至の頬を朱に染めていくようだった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-019-
誰かの話し声がする、とぼんやりする頭で考えた。体がずしりと重いせいか、その話し声が邪魔で仕方ない。もう少しゆっくり寝かせてほしいと。
「お前らしくない……」
「うるさいぞ」
「少し、痕が残るかも……これ、みんなになんて説明するの」
「舞台だし、そんなに目立たない。もし目立っても莇が何とかしてくれるだろうし、噓をつくのは得意だからな」
至はその声に聞き覚えがあるような気がして、そっと目蓋を持ち上げた。
薄ぼんやりとした視界に、千景と、密らしき男のシルエット。
「ミッション、失敗した……?」
「……メイがロストした。どこか他の組織からも、狙われてたみたいだな、あそこ」
「メイ……組んだことはなかったけど、……そう、残念だね」
「俺に対する罰則はランクダウンだけ。特に対処は必要ないだろう」
「うん……でも、気をつけて」
「分かってる」
「この包帯……燃やしておいていい? エイプリル」
「ああ、悪いな」
千景がシャツを着直して、ボタンを留めるのが見えた。それを認識して、至はハッと意識を覚醒させる。思わずガバリと体を起こすと、そこは見慣れた寮の自室だった。
「至、起きた」
二人分の視線がこちらへ向く。至はまず自身の状態を確認した。あの部屋で着たもののまま、ジャケットとネクタイはハンガーに掛けられている。
連れ帰られたのかと理解し、目の前の二人を睨みつけてみた。
あのカクテルを飲んだあとの記憶がない。気にくわないのは、千景が悪びれもせず、じっとまっすぐ見つめ返してくることだ。
「密、出てくれ」
「……分かった」
千景が密にそう頼んで、密は何も言わずに承諾して、汚れた包帯を持って部屋を出ていってしまう。
腹の中に、言い様のないどす黒い思いが渦巻いた。いくら密が自分たちのことを知っているとはいえ、今は彼を挟まないでほしかった。
「俺に、何したんですか」
「何って? 抱いたことか? それとも――」
「とぼけんのかよ! 薬なんか盛って、どうするつもりだったんだアンタは!」
怒りで思わず立ち上がるも、足下がふらつく。
何を飲まされたのか分からない。千景があのカクテルを作っているところを、ちゃんと見ていたにもかかわらず、彼が何か入れた形跡はなかったのに。いや、疑って見ていたわけではない。純粋に、見惚れていた。
彼が自分のために食事を、カクテルを作ってくれたのが本当に嬉しかったのに、こんな仕打ち。
「怒るなよ、ただ眠らせただけだ。ミッション失敗したせいで、どこで見られているか分からない。生きたお前と表から出るには危険だったし、裏の道はお前に知られるわけにはいかなかった」
「だったら俺に説明してくれてたら、目を閉じてるとか何か、できましたよ!」
「落ち着け茅ヶ崎、声がでかい」
ぐいと腕を引かれ、ハッとする。そういえばここは寮内だったと、息を吸い込んだ。
「無理を承知で言うぞ、茅ヶ崎。もうこれ以上俺を知ろうとするな。今度は本当に眠らせるだけじゃ済まないかもしれない」
捕まれた腕に、千景の指が食い込んでくる。その痛みより、ズキズキと痛む心臓の方が重症だった。
「関係、ない、ですよ……先輩が裏で何をしてようと、関係ないですよ、俺には! 俺はっ……」
今目の前にいるあなただけで充分だ。
そう言ってしまえたらいい。
それをぐっとこらえて飲み込んで、千景の腹に触れ爪を立てやった。
「つっ……」
「こんな怪我で俺を抱いておいて、ホントに勝手な男ですね。密には手当てさせるくせに、俺には傷口も見せないとか」
「茅ヶ崎」
お前が触れるようなものじゃない――そう言われた声が、まだ耳に残っている。
近づけたと思ったら線を引かれて、少しも距離は縮まっていない。
「ああ、そういえば俺は、先輩にとって都合のいいオンナでしたっけ。余計なことには首突っ込まずに、足開いてればいいんですか。そんなのがいいなら、勝手に他の誰か、聞き分けのいい男でも抱いてればい――」
「茅ヶ崎!」
両肩を押されて、ソファへ逆戻りさせられる。
「誰が……そんなことを言っている……ッ」
上から押さえつけるようなキスで唇が塞がれて、抗議という名の八つ当たりは、最後まで音にできなかった。
「んっ……う」
両肩を押さえつける千景の力強い腕から、熱が伝わってくる。この期に及んで、千景に触れたがる心がどうしようもない。
入り込んでくる舌先と一緒に、千景の唾液を移される。絡む舌は正直で、千景を引き込み、千景の中に入り込み、ちゅ、と吸い合う。簡単にベッドの中の熱を思い起こしそうで怖い。
卯木千景という男が、本当に恐ろしい。
見境なく、浅ましく求めさせるこの男が、恐ろしくて、恨めしくて、憎たらしくて、――愛しい。
「あっ……はぁ、んぅ」
ソファの背もたれに頭を預けて、千景の背中に腕を回そうとしたそのとき、
「至さァん、起きれたんす、か……」
ノックのあと、ゲーム仲間である摂津万里がドアを開けた。
二人はハッとして、バッと体を離した。だが、ドアとソファの位置を考えると、どう取り繕っても無駄なくらい、見られただろう。
至は口を押さえ、千景から顔を背ける。千景はほんの少し荒い息を吐き、指先で濡れた唇を拭った。
「……場所をわきまえろ、茅ヶ崎」
それだけ言って、ソファから離れていく。顔を背けたせいで、万里とすれ違い、部屋を出ていく千景を見送ることはなかった。
ドアが閉まる音は聞こえたけれど、頭を抱える。まさか万里に見られるなんて。
寮内だということを忘れていたわけではないけれど、サイアクだ、とソファの上で拳を握った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録
愛のひとつも囁けない-018-
すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえる。
千景はベッドの縁に腰をかけ、額に張り付いた至の髪をそっと払いのけた。
ひどく疲れた表情をした至を見下ろし、眉間にしわを寄せてぐっと唇を噛んだ。
そうして自身に痛みを与えても、心臓の痛みはすべてを上回る。
「茅ヶ崎……どうして」
どうしてこんなところまで来たのかと、彼を責めたい。
なぜこの場所を教えてしまったのかと、密を責めたい。
なんでこらえきれずに抱いたのかと、自分を責めたい。
至はもう、気づいているに違いない。自分が、どんな世界に身を置いているのか。元々至に対しては、他の人間より話してしまっていたが、ジョークで留めておいてくれたはずだ。
だけどもう、ごまかしは利かない。いわく彼の妄想は、あらかた当たっている。
〝あの夜組織の命令で動いて〟〝あの製薬会社調べるために〟〝治るまで戻るつもりはなかった〟……すべてが事実だ。
知られてしまったと焦る思いより、心臓をかきむしりたいほど、幸福に感じることがあった。
至は、あの事件に千景が関わっていると分かっていながらも、火事を起こしたのは千景ではないと、断定しているような節が見られる。ただのひと欠片も、疑っていなかった。
それだけで、体が歓喜に震えたなんて、至は絶対に知らないだろう。
本来なら、組織のことを知られた時点で抹殺対象だ。以前であれば、目撃者も邪魔者も、すべて消してきた。以前のままの自分なら、至の喉に手をかけるくらいはしていたかもしれない。
それなのに、この手は至を抱くためにしか動いてくれなかった。
はあーとゆっくり息を吐く。
口許を手で覆えば、震えているようにさえ感じられた。
知ってしまった恋情は、どこまで育つのだろう。この感情で身を滅ぼすかもしれない。
いや、自分だけならまだいい。恋に溺れるあまりどこかでミスをして、劇団さえ危うい立場にしてしまったら――そう考えると、恐ろしくてたまらない。
抑えなければいけないのに、知られてはいけないのに、茅ヶ崎至という男は、簡単に決壊させてしまう。
「お前が怖いよ、茅ヶ崎……」
そっと髪を撫で、千景はベッドから腰を上げた。
至はきっと、気づいた千景の真実を、見て見ぬふりをするのだろう。千景が望むようにだ。
千景はキッチンへと向かい、ミネラルウォーターで喉を潤す。
「……ふ、っは……」
ごくりと水を飲み干して、ぐいと口許を拭う。
命をかけて守るものが、もうひとつ増えた。
千景はその対象を指折り数え、苦笑する。
「……重いな」
組織に彼らの存在を知られてはいけない。
彼に、これ以上踏み込ませてはいけない。
彼に……この想いを悟らせてはいけない。
潮時だと思いながらも、茅ヶ崎至へと向かっていく想いを実感するたびに、足下からざわざわとせり上がってくる幸福さに、愚かしいと拳を握った。
(駄目なんだよ、茅ヶ崎……)
これ以上は、本当に危険だ。
「何飲んでるんですか」
そう思って短く吐いた息は、背後からかけられた声に驚いて、ひゅっとまた口の中へ戻ってきた。
「……起きたのか」
「体が思うように動きませんけどね……」
振り向いた先に、シャツを羽織っただけの至の姿。さすがに下着は着けていたが、シャツの隙間から見えるキスマークが、情事の名残を匂わせていた。
千景は、眼鏡のブリッジを押し上げるふりをして、視線を背け、冷蔵庫を開ける。
「何か食べるか? お前、昼も食ってないんだろう」
「ああ、そうですね……シャワー、借りても?」
怠そうな声と仕種で、至はきょろりと室内を見回す。千景は顎をしゃくってバスルームを指し、至を誘導した。どうも、と小さく呟いて、至はそちらへ向かっていく。
千景はこっそり横目でそれを見送って、食材と酒類を台の上に並べていった。
数十分ほどして、至がシャワーから上がってくる。髪くらい乾かしてこいと呆れると、人の家でドライヤーの場所なんか分かるわけないと、反論された。
持ってきてやると、シャワーでさっぱりしたのか、至は上機嫌で温風を当てる。
まるで何でもない日常のようで、千景は苦笑した。
そんな日常はありはしないのにと。
「ねえ、もしかして、先輩が作ってくれてるんですか」
「他に誰がいるんだ」
「料理できたんですね。ほんとチートすぎ……」
呆れも諦めも混じらせて、至のため息がドライヤーの温風とともに空気を揺らす。
「大したものじゃないぞ」
「とか言いながら、なんか肉出てきたんですけど」
至はドライヤーをカチリと止めて、テーブルの方へやってくる。冷凍肉を使ったただのサフランチキンだが、千景とこういった料理のイメージが、どうも結びつかないらしく、口許はおかしそうにゆがんでいた。
確かに、作ることが特別好きというわけではない。が、スパイスの調合や買い込みは好きだ。そんなところを見るに、食べることは嫌いではないし、作るのもそれなりに楽しいのだろう。
「一時期、食べられないときが続いたけどな。こういうのは、嫌いじゃない」
至がテーブルに着くのを待って、トマトのファルシも追加して並べた。
オーガストの死と、ディセンバーの裏切りを知らされた頃、本当に何も喉を通らなかった。口に入れても、嘔吐感がこみ上げてきて、飲み込むことさえできなかった時期がある。
激しい怒りと、悔しさと、孤独。
それら全てが、生きることを拒絶しているかのようで、このまま死ぬかもしれないと思ったことさえ。
「……今は、そんなことないんですか?」
「そうだな……食べるのを忘れることはあるけどね」
「あー俺もたまに。ネトゲとか時間経つの早いんですよ。今は、臣の作ってくれる飯がうますぎて、食いっぱぐれたくないけど。まあ、あと、監督さんのもね」
至は胸の前で手を合わせ、小さくいただきますと呟いている。何だかんだで一般的なしつけを施されている彼を、羨ましいと感じてしまった。
ゲームに没頭して食べるのを忘れる、と何でもないように返してくる気安さに、笑える自分がいる。
千景が食べられなかった理由は、そんな軽いものではないのに、さほど重要なものでもないように受け止めてしまう彼が、憎らしくて、恨めしくて、眩しくて――愛しい。
「茅ヶ崎、何か飲む?」
「何があるんですか」
「日本酒と、ビール以外なら」
「マジか。……なら、この料理に合うもの、先輩のおすすめで」
「俺の?」
ん、と至が頷くのが見える。そう返されるとは思っていなくて、並ぶボトル類を眺め、そうして目蓋を伏せた。
「……何が出ても文句言うなよ」
「おk」
千景は、バカルディとコアントローを、シェイカーに量り入れ、レモンジュースを少し多めに入れる。
トップをはめて振ると、中の氷が音を立てた。押し上げて引き戻し、下げ、引き上げる。少しずつ速さを加えていくと、至の視線が、じっとこちらを見つめているのに気がついた。
「なに」
「いや、チートっぷりに驚いてるだけですよ。さすがにそれは予想してなかった」
「たまに作るだけだ。好みの味は、自分で作った方が早くてね」
シェイクし終えて、ショートグラスに中身を注ぐ。白いスモークのような色は、千景を満足させた。
そのグラスを、至の前に差し出す。
「初めて見ますけど、何ていうカクテルなんですか?」
至はそれをじっと眺め、千景を振り仰いでくる。どこかで、ホッとした。
そのカクテルの意味を、彼が知っていたらどうしようかと、期待と不安でいっぱいだったのだ。
気づいてほしくない、気づいてほしい。
自分でも、もうどちらの思いが大きいのか分からなくなっていた。
千景は眼鏡を押し上げて、レシピから話す。
「ホワイト・ラムと、コアントローっていうリキュール。あとはレモンジュース。レモンは少し多めにしておいたから、さっぱりしてると思うけど」
「へぇ……」
「カクテル名はXYZ」
「え」
至の体が、分かりやすく強張ったのが見て取れる。どういう意味で捉えたのだろうか。その反応を見るに、千景が込めた真実の意味には気づいていないのだろう。
それならそれでいいと、その方がいいと、千景は付け加えた。
「さすがに分かるか? それが、〝最後の〟って意味を持っていることくらい」
XYZはアルファベットの最後の三文字。噓偽りのない意味だ。
「あー、はい、さすがに。何だっけ、漫画でもありましたよね。もう後がないとか、助けを求める意味だとかって」
至の視線は、千景からずっと逸らされない。まっすぐに見つめてくるその瞳に、怯えはひと欠片もないように見えた。
「先輩。ひょっとして俺、知りすぎましたか?」
「……そうだな。お前の存在は、危険だよ」
「……ですよね」
至の存在に、心が乱れる。
鼓動が、分かりやすく跳ねる。本当に、危険な存在だと思った。
「茅ヶ崎、俺が怖いか?」
「はい」
迷いのひとつもなく肯定したにもかかわらず、至はようやくカクテルに視線を戻して、ためらいもなくグラスに口をつける。
その液体が至の唇を濡らし、口の中に流れ込むのを、千景はじっと眺めていた。
「え……な、に、これ、せんぱっ……」
至の手からグラスが落ちて、床で割れ、彼の体が傾いで倒れ込むのさえ。
どさり。
抱き留める資格はないだろうなと、彼の意識がないことを確認してから抱き上げる。
「……まったく、馬鹿な男だ……」
ひとまずリビングのソファに彼を寝かせ、食卓と割れたグラスを片付ける。ポケットに入れた小瓶の中身も、洗い流した。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-016-
カーナビに住所を入れようと、手を伸ばしたそこで、思いとどまった。千景が身を隠しているのなら、その場所は秘密の隠れ家のはずなのだ。ナビに入力したら履歴に残ってしまう。
こんなときばかりは、自分の記憶力と状況判断の良さに感謝した。
アクセルを踏み込んで、覚えた住所の方面へと車を走らせる。窓の外を流れる景色は、少し速いような気がした。
そうして該当の住所に来てみれば、一見普通のマンションに見える。デザイナーズタイプなのか、しゃれた雰囲気を醸し出していた。打ちっぱなしのコンクリートの壁。以前は時折見られた、千景の冷たい瞳を思い出させる。
「ここ……?」
傍の電柱で番地が間違っていないことを確認し、近くのパーキングに車を駐車した。
胸が、ドクドクと高鳴ってしまう。
本当にあそこに千景がいるのか。いたとして、顔を見せてくれるのか。怪我をしているのなら、起き上がれないかもしれない。
管理人が常駐しているマンションなら、頼んで鍵を開けてもらうことも可能だが、千景に限って、そんな場所を隠れ家として選びはしないだろう。
密に教えてもらったノックの仕方で、どうにかドアが開くことを祈るしかない。
部屋番号を確認し、ドアの前で深呼吸をした。握りしめる手にじんわりと汗がにじんできて、気持ちが悪い。
(先輩)
どうか開けてくれますようにと祈りを込めて、密と同じタイミングでドアをノックする。
応答はない。もう一度。
まだ反応がない。もう一度。
(先輩、お願い……)
いないのか、起き上がることもできないのか、再度ドアをノックしようとしたそこで、乱暴にロックが外れる音がした。
「うるさいな! なんだひそ……、か、……ッ」
外開きのドアにぶつからないように、反射的に避けた至の視界に、千景が飛び込んできた。彼は至の姿を認め、目を瞠って息を飲んだように見える。
「茅ヶ崎……」
小さく漏れる千景の声は茫然としていて、至はその隙にドアをぐっと握った。閉じてしまわれないように、左足を挟み込んで。
「あ……の馬鹿ッ……!」
千景は苦痛に顔を歪め、腹の底から声を絞り出したようだった。
至が知っているはずのないこの場所を、密が教えてしまったことは誰に聞かずとも明白で、責めたい気持ちでいっぱいだったのだろう。
「……怪我、してるんですね、やっぱり」
千景が着ているシャツの隙間から、胸に巻かれた包帯が見える。至は俯いていた顔を上げ、じっと千景の瞳を見つめた。
「入れてください、先輩」
千景の目が、珍しく泳ぐ。知られたくなかったのは分かるが、この期に及んで諦めが悪い。
少しの沈黙のあと、千景はドアから身を乗り出して、辺りを警戒するように視線を走らせ、ぐっと乱暴に至の腕を引いた。
千景の状況を確認したい一心で、ここまで来てしまったけれど、そういえば警戒など一切しなかったと、至はそこで気がついた。監視でもついていたら、自分の存在を知らしめることにもなる。しまったと思っても、後の祭りだ。
千景のその警戒が、敵に対するものなのか、組織に対するものなのかは分からない。だがここに来たことが、千景にとって不都合だっただろうことは理解できる。
しかしともかく入れてはくれるようで、至は唇を噛みながらも安堵した。
千景のあとについて廊下を通り過ぎれば、リビング。生活感のない部屋に置かれた、ソファとテーブル。
愛機が無防備に開きっぱなしで置かれ、こんなときでも情報収集なのかと、呆れ気味に眺めた。同時に、密だと思ったのだろうなと考えると、胸が苦しい。彼だと思ったから、そんなにも無防備なのかと。
「何しに来たんだ、茅ヶ崎」
千景の低い声が、至を呼ぶ。至の視線の先には、血のついた包帯やガーゼが捨てられたダストボックス。平気そうな顔をしているが、相当ひどい怪我だったのではないだろうか。
「……手当ては」
「……済んでる」
「ご飯、ちゃんと食べられてます? ていうか、ここ調理器具……一応あるんですね」
きょろりと部屋の中を見渡す。ここが、千景の城なのかと思うと、寂しくなった。個人間契約を結んでいたあの頃も、千景はずっとここで独りで過ごしていたのか。
「茅ヶ崎。何をしに来たのかって訊いてるんだ」
苛立たしげな千景の声が耳に届く。あまり聞いたことがないなと思うと、新鮮に思えて気分が良かった。至はくるりと体の向きを変え、千景を正面に見据えた。
「何って。――あの夜先輩は、組織からの命令で動いてたんだろうなあとか、そりゃ俺との約束なんか守れないよなあとか、もしかしてあの製薬会社調べるために、ウチに入社したのかなあとか」
「茅ヶ崎」
そう並べ立てると、遮るように千景が名を呼んでくる。だけど至は、言葉を切ることもせずに続けた。
「あの火災は先輩じゃないなとか、治るまで戻ってくる気なかったんだなとか、もしかして敵対組織とやりあうことあるのかなとか、そういう」
「もういい茅ヶ崎! それ以上しゃべ……」
「そういう――俺の妄想を話しに来たとでも?」
それ以上何も言うなと、牽制した千景の目が、見開かれる。実際、至はそういう話をしに来たわけではない。納得のいく説明が欲しいわけでもない。千景には、それが分からないのだろうか。
「だったら……いったい何なんだ。こんなところまで、わざわざ抱かれに来たのか?」
目を細めて探るように見つめてくる千景に、今度は至が目を見開く番だった。
「あー……ハハッ」
至は自嘲ぎみに乾いた笑いを漏らし、コクリと唾を飲んだ。
(駄目だこの人。〝心配してた〟ってだけの発想はないのか、フツーに)
千景の真実を暴くためでも、嗤うためでも、ましてや抱かれに来たわけでもないのに。
(怪我してるかもって思ったら、心配するだろ、馬鹿)
そんな〝普通〟は、千景にはなかったのかもしれない。今までどんなふうに生きてきたのか分からないが、あまりにも切ない。
(そんなごまかし方しか知らないのか)
至は唇を引き結び、ゆっくりと千景に歩み寄った。
「怪我、平気なんですか」
分かってもらえない悔しさと、千景が普通を知らない寂しさが、至に彼を睨ませる。あからさまに挑発して、至はジャケットを脱ぎ捨てた。
ごまかされて、飲み込んで、受け止める。たぶんそれくらいしか、今の千景にしてやれない。
それを盾にして千景を求める自分を、今なら覆い隠すことができる。
「……お前を抱くくらいなら、何でもない」
「食いちぎられても知りませんよ」
自身のずるさを相手になすりつけることさえ、自分たちには正義だった。
至は千景のシャツを引き、千景は至の腕を引く。胸がぶつかって、視線を交わす前に唇を重ねた。
「あ……」
口内で絡む舌は、押し込まれたのか、引き込んだのか。舌の裏を舐められ、仕返しにと至は千景の上顎をなぞる。舌の付け根をつつかれてびくりと跳ねた肩を、なだめるような千景の腕が通り過ぎる。
ちゅ、と吸い上げて、至は千景の背中に腕を回した。
何日ぶりだろう、こうして彼に触れるのは。一週間、十日、もっとあっただろうか。
足りない、と唇を押しつけて、舌を捕まえて、肩に指先を食い込ませる。
(……千景さん)
なぜ、抑えていられるのか分からない。
触れてしまえば、こんなにも貪欲に彼を求めるのに、どうして、この気持ちを抑えていられると思ったのか。
何度も嗅いだはずの千景のにおいに、慣れない消毒液と血のにおいが混じる。
それが怖くて、悔しくて、寂しくて、かき消すように自分を押しつけて、自分のにおいが移れば良いと唇をむさぼった。
「ん、んっ……ぅ」
「は……っ」
千景の指先が髪を梳いてくる。深いキスのせいでか、千景の眼鏡のフレームが至の頬に当たった。気にならないわけではなかったが、外してもらう時間より、もっと強く抱いてキスをする時間が欲しい。
「う、……ん」
「……ふ、っんぅ」
唇を離しても、吐息を奪って重なっていく。千景が奪えば次は至が奪う番。
角度を変えて、強さを変えて、触れていなかった時間が埋まるまで、これまででいちばん深くて長いキスを交わした。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-015-
髪をくしゃりとかき上げながら端末を見返すも、やはり既読がついていない。誰もいないエレベーターで、至はあからさまに舌を打った。
自分の車に乗り込んで、LIMEの無料通話をタップする。相手は、もちろん千景だ。
呼び出し音を鳴らす端末を、いつも千景が乗る助手席に乱暴に放り投げて、アクセルを踏み込んだ。
「出ろよ……出ろよ、先輩!」
メッセージには気づかなくても、コールには気づくだろう。どうか声を聞かせてほしい。そうでなければ、嫌な予感ばかりが頭を巡ってしまう。
「先輩……っ」
きっと千景は、あの火災に関わりがある。
そう思うのは、彼が時折自分に対して見せてきた態度のせいだ。他の団員には三本ほど引いているラインを、自分だけは、千景の方から引き寄せられているような、そんな感覚があった。自惚れではないと思う。体を重ねているせいもあると思う。
他人に対して張っている膜が、ほんの少し、薄いような気がするのだ。
だが、端末は呼び出し音を鳴らし続けるばかり。応答は一切ない。
赤信号で車を止め、握りしめた拳でガッとステアリングを叩きつけた。
「くそっ!」
至は端末を持ち上げて通話を諦め、ポケットにしまい込む。
千景のすべてを受け止められるなんて、自惚れることはできない。実際、どれだけも受け止められないと思う。
受け止めるつもりなんてない。
ただ、千景の目を見て話したい。今はそれだけしか頭になかった。
(どっかで、分かってた。あの人が……普通の世界には生きてなかったこと)
悔しさがこみ上げてくる。焦りで渇く喉をミネラルウォーターで潤し、乱暴に唇を拭う。信号が変わると同時に車を再発進させた。
気づかないふりをしていたような気がする。分かっていて、目を背けてきたような気さえする。
千景は平気で噓をつく。
それを知っていたから、千景の真実さえ、噓なのだと逃れさせてもらってきた。
(密なら……きっと先輩の居場所を知ってる)
千景のことを思うと、どうしても密の存在が浮き彫りになる。
彼らの間に何があったのかは知らないし、探ろうとは思っていない。きっと、嫉妬する自分に胸くそが悪くなるだけだ。
だが、密は千景をよく知っている。千景も密のことをよく知っている。それは事実であり、至には割り込むことのできない領域だ。
自分はただ、互いの合意と気まぐれで、体を重ねるだけの間柄であり、それ以上を望んでしまったのは至の方だけだと、ちゃんと自覚している。
踏み込んでほしくないのなら、線引きはするつもりだ。至にだって、踏み込んでほしくない領域という物はあるのだから、お互い様だ。
それでも、今回だけは逢って顔が見たい。
あの火災が、千景の引き起こしたものだとは思っていない。
火災の混乱に乗じて、データだの何だのを破壊しただけなら、すぐに戻ってこられる。任務が長引くようなものなら、千景はもっとうまく噓をつく。今までの出張が、そうだったのだろうから。
至が恐れているのは、千景があの火災に巻き込まれて、怪我をしているのではないかということだ。
会社に来られないくらい、寮に戻れないくらいの、怪我でもしているのだとしたら。LIMEも見られない、電話にも出られない状態なのだとしたら。
ざわりと背筋が震えた。
千景がどんな世界で生きていようと、MANKAIカンパニーの大事な一員なのだ。無事でいてほしい。
至は、法定速度をギリギリオーバーしない程度に抑え、MANKAI寮に向かった。
「あれ、至? どうしたの……随分と早いお帰りだね」
「東さん、ちょっと、……忘れ物ですよ。密います?」
慌ただしく玄関を開けると、冬組の雪白東の姿。
最初に見つかったのが彼で良かったと思う。東なら、何も聞かずにやり過ごしてくれるはずだ。それは冷たさとは違うもの。
「密なら、さっき中庭で猫とお昼寝していたよ。良い天気だからね」
「ありがとうございます」
挨拶もそこそこに、至は中庭へと向かった。なるほど東の言ったとおり、中庭のベンチの上に一人の男が丸まっている。密だ。
「密っ」
至は駆け寄り、密を揺り起こす。のんびり昼寝しているところを申し訳ないが、それどころではない。
「……ん……至……?」
「密、先輩がどこにいるか知ってるだろ? 教えて」
ゆっくり目を開けてくれた密を、正面から覗き込んで、単刀直入に訊ねた。
「……千景?」
「そう、卯木千景……っていうより、たぶん、……エイプリル?」
密が、はたりと目を瞬く。
少し逸らされた視線は、動揺なのか、それとも享受なのか。
「会社に来てないんだ。取引先にトラブルがあったって話になってるけど、違うと思う。木曜あたりからニュースになってる、製薬会社の火災……密もちょっと気にしてたアレ、先輩が関わってる?」
至の中の確信を、ひとまずの疑問符で飾って、密の表情をじっと観察した。どれだけも変わらなかったように思うが、密がそっと口を開く。
「火事は、エイプリルじゃない……たぶん、違うヤツ」
至はひとつ瞬いた。そこを疑っているように聞こえてしまっただろうかと。
「分かってる、そんなの」
ためらいもなく答えた。
〝エイプリル〟としての彼は一切知らない。だけど、今ここの劇団員をして、そんな馬鹿な真似をする男だとは思っていない。もっと言えば、自分の仕掛けたトラップで怪我をするような、馬鹿な男でもない。そう思っている。
「だから余計に怖いんだよ。先輩、怪我してるかもしれない。帰ってこない理由がそれしか思いつかないんだ。任務とかそういうのが残ってるなら、噓をついても連絡くらいしてくれる。それもないなんて」
きゅっと唇を引き結んで、こくりと唾を飲む。
血にまみれた千景を想像してしまって、胃がぐるりと回るようだった。
「至。千景を好き?」
怪我をしているならせめて程度が知りたい。そう思って眉を寄せる至に、密の声が降る。至は目を見開いた。
「密、今はそういうこと言ってる場合じゃ」
千景とのただれた関係は知られている。千景が大事にしている彼も、きっと千景のことが大事に違いない。その千景に関わるというのなら、ある程度の覚悟をしろということだろうか。
「……好きだよ」
自分の想いも言えないような覚悟で、卯木千景に近づくなと。
(好きだよ。危ないって分かってても、先輩がそれを良く思わなくても……どうしようもない)
「先輩には、言わないで。お願いだ、密……」
自分の想いは認めるけれど、千景には知られたくない。きっと何もかも終わってしまう。
「……住所、覚えて。あと、扉を叩く強さと回数、タイミング」
密の口から、住所らしき地名と番地、恐らく部屋の番号が発せられる。至はそれを一度で覚えて、頷いた。どうもノックの仕方にも、二人の間で決まりがあるようだ。手の甲でそれを覚えさせられて、ぐっと拳を握った。
「ありがと、密」
礼もそこそこに、至は中庭を離れて車に戻る。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-014-
そうして何事もなく木曜が終わり、金曜日が過ぎ、至は土日のほとんどを部屋にこもって過ごした。
というのも、ここ最近千景と過ごしていたせいで、大分ゲームの方がお留守になってしまっている。
もちろんランクを大幅に落とすことはないのだが、一時期のように、何が何でも最大限の熱を入れて、ということはなくなったような気がする。
春組に入って、他のメンバーの熱意に気が引けて、辞めようとしたところを引き留められて、もう少し真面目に取り組んでみようと思い始めた、あの頃とよく似ていた。
(ゲームより熱くなるものなんか、ないと思ってたわ。ましてや、真面目に恋愛なんてな。クソほど一方通行だけど)
コントローラーを握る手も、できれば千景に触れていたい。画面を追う目にも、できれば千景を映したい。
明日になれば会社で逢える。出先から直(チョク)で行く予定だと言っていたし、そうなるとあと十時間ほどだ。
月曜日が待ち遠しいなんて、人生で初めてではないだろうか。
初めての男は、こんな些細な初めてまでをも持っていく。
勘弁してくれと、至はコントローラーを放り投げてソファに寝転んだ。
「マジ疲れる、ないわー……」
もしも次があるのなら、もっと楽な恋がしたい。
そう思う傍から、早く千景の顔を見たいと思ってしまうのだから、まったく始末に負えない。
気づかれてはいけないという後ろめたさとスリルが、余計に思いを増幅させているかのようだった。
「茅ヶ崎さん、おはようございます。何だか嬉しそうですね? いいことでもあったんですか?」
職場のエレベーターで一緒になった同僚に、そう声をかけられる。
「おはよう。そう見える?」
「見えます~月曜なのに、なんか羨ましい」
「ははっ、だけど別に、何があったってわけでもないんだよね~」
至は職場用の顔と声でそう答えた。内心で、危ない危ないと冷や汗をかきながら。
(やっべー、そんなに浮かれて見えんのか。気をつけないとな)
ようやく千景の顔が見られる――それだけで浮かれてしまえる、お手軽な恋。
誰にも言えないけれど、本人に伝えられもしないけれど、些細なことで幸福になれるのだ。
困った。相当溺れてしまっている。
至はきゅっと唇を引き結んで、ニヤけそうになる口許を戒めた。
そうして自分のデスクがある島に着いたが、千景の姿はまだない。寂しいような、心の準備をする時間ができてホッとしたような。
(心の準備って。ワロス。相手は先輩だぞ。……いるわ、準備)
はあ〰〰と大きなため息をついて、慣れたチェアに腰を下ろす。
千景に逢うには、心の準備がいる。恋心がダダ漏れにならないように、細心の注意を払わなければいけないのだ。
自分は同僚かつ後輩で、劇団員としては先輩で、ルームメイトでセフレ。何とも面倒な関係である。
ドキドキと胸が鳴る。
小学生じゃあるまいし、そんな初々しい想いだけではないのに、逸る鼓動が治まってくれない。
もう四日も逢えていない。寮で毎日逢えるようになってしまったからこそ、たった数日が長いのだ。
至はパソコンの電源を入れ、今日のタスクを確認しながら、どうにかして落ち着こうと、ゆっくり深呼吸を繰り返した。
だが就業時刻になっても、千景は出社してこない。
(……あれ?)
遅刻だろうか。出先から、直接出社すると聞いていたのに、定刻を三十分過ぎても姿を現さない。電車の遅延かもしれない。始めはそう思っていた。
だがさすがに一時間も来ないとなると、そんなものではないと思い始める。
至は携帯端末を覗き込むも、連絡は来ていない。
千景のデスクがある島をちらりと見やるも、誰かが慌てている様子はない。
みんな自分の仕事に精一杯なのか、それとも向こうのチームには、何かしらの連絡が入っているのか。
『先輩、どうしたんですか? 今日は出社予定でしょう』
至はそわそわとドキドキを抑えきれなくなって、個人LIMEにそうメッセージを落とした。
既読がつかない。もともと即レスをしてくるような相手ではないから、それは別にいいのだが、何の連絡もないのが気にかかる。
至は、思い切って向こうのチームに状況を聞いてこようと、腰を上げた。そのときちょうど、一人の社員が声を上げる。
「なあ、そういや今日卯木さんは?」
ピタリと動きを止めて、至はその場できゅっと拳を握った。
(それな。つかそっちにも連絡ないのか?)
「あれ、えーと……」
「ああ、卯木ならちょっとトラブルだって連絡あったぞ。なんでも製品に不具合があったとかでな。検証作業に立ち会い頼まれたらしい」
「えええマジですか」
(マジでか。つか何それ。それならそれで、連絡くらいくれたって……)
端末を見返すも、返信どころか、やっぱり既読もついていない。
トラブルがあったというのは本当らしいと、釈然としない思いを抱えつつも、椅子に座り直した。
「あーあ。今日の交渉、ついてきてもらおうと思ってたのになぁ」
「一人で行け。俺だって助っ人欲しかったわ」
千景は職場でも評価が高い。好きな相手の評価が高いというのは嬉しくて、じんわりと熱くなってくる胸を押さえた。
「そういや三課の拡販ルート広げるってヤツ、どこまで進んでんの?」
「あれしばらく無理でしょ。メインコラボの二次取引先、今大変なことになってんじゃん」
「……えっ、あっ、もしかして先週のニュースのとこ? うわー、キッツ~」
そんな会話が聞こえてくる。どうも別の課で展開していた拡販企画が、ストップするようだ。年度予算の計画に盛り込まれていたはずなのに、大きな痛手となるのだろう。
(先週のニュース? ……ああ、やっぱりあれ、取引先絡んでたのか……)
製薬会社が火災になったというニュースは、まだ覚えている。爆発があったなどという情報もあったし、火元の特定と原因の調査に入っていると報道されていたが、どうなったのだろう。社を挙げての新薬開発がなされていたのなら、損害はどれほどのものになるのか。考えたくもない。
今はそちらの対応に追われるのだろうし、生産ラインや研究がストップしてしまうのも仕方ない。
「だってさあ、研究室ほぼ燃えちゃったんだろ?」
「なんか研究データも全滅って聞いたわ。死ぬ」
(データ?)
「作ってた薬のサンプルもなくなっちゃったんでしょ? 怖いよねえ~」
「データのバックアップは? 危機管理とかどうなってんだろ」
(……サンプルもなくなった? 燃えた、……消えた?)
聞こえてくる会話の端々が、どうしてか至の頭に引っかかる。わりと最近、どこかで聞いたことがあるような気がした。
(待っ……いや、いやいやいや、ないわ。ない)
そういえば、と端末の画面をスワイプして、アプリを立ち上げる。
LIMEの履歴をたどる相手は、千景だ。
逢えなかった水曜日のログ。
『とある企業への非合法な侵入と、データの窃盗ってとこかな』
裏のお仕事ですか、と冗談十割で入れたメッセージに対して、千景が返してきたものだ。
もちろん冗談だと思った。今だって、そう思っている。思いたい。
あの火災のニュースが入ってきたのは、木曜の朝。つまりはこのメッセージがあった深夜、あの製薬会社で火災とデータの消失があった。
(待って……待て、馬鹿、そんなわけないだろ、ないわ!)
あの火災で、逃げ遅れた人たちがいなかったのは聞いている。避難経路や物の置き方に関して、消防法に違反していたという報道もされていない。
もし――もしあれが人為的な火災だったとしたら。人的被害が出ないよう、逃げられる時間を計算して起こされた火災だったのだとしたら。
本当の目的が、データの消失あるいは窃盗だったのだとしたら。
(先輩、侵入った、……の、か?)
嫌な仮定が、頭の中を廻る。
あの日からろくに連絡の取れない千景。トラブルに巻き込まれたというあやふやな情報。度々会話に織り交ぜられてきた、〝組織〟の香り。
ぞわ、と全身に鳥肌が立った。
(トラブルって、まさか……)
至は瞬きも忘れて小さく顎を震わせた。
ぶつかるかぶつからないかの震えで、時折歯がカチカチと音を立てる。
「茅ヶ崎さん? どうしたんですか? ちょっと、ねえ、顔真っ白ですよ!?」
デスクの傍を通りがかった女性社員に声をかけられ、至はハッと我に返った。
「えっ、あ、ご、ごめん何でもない……」
「何でもないわけなくないです!?」
「おい茅ヶ崎、お前ほんと顔色悪いぞ? 体調悪いのか、早く帰った方がいいんじゃ」
「タクシー呼びます? あ、でも茅ヶ崎さんマイカー出勤でしたっけ」
誰か送っていった方が、と続けられる会話のテンポに、思考がついていかない。
正直、仕事が続けられる状態でないのは本当だ。この動揺ではまともに〝エリート〟の茅ヶ崎至を保っていられない。
「あ、だ、大丈夫ですよ……でも、ちょっと、早退させてもらってもいいですかね……出社早々で申し訳ないんですけど」
こんなとき、外面だけは良くしてきた甲斐があると、実感する。誰も、何も、疑ってこない。
「一人で大丈夫か? 半休扱いにしておいてやるから、ゆっくり休め」
「すみません、ありがとうございます」
ちゃっかり上長の許可を取り、至は帰り支度を調える。
心配そうな顔の同僚たちに見送られ、エレベーターに逃れた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-013-
春組グループLIMEに、千景から連絡が入ったのは、翌朝のことだった。
朝起きたときに、千景のベッドに何の変化もなかったことを不思議に思って、連絡しようとした矢先のこと。
『出張入っちゃってて、二~三日留守にする。もしかしたら、日曜くらいまでかかるかもしれない。稽古に出られなくてごめん』
アプリの画面を確認して、至はくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。昨日終電逃したのかなと思うと、恨めしい気持ちにさえなった。千景の出張が終わるまで、逢えないということだ。
『千景さんお疲れ様です、お仕事頑張ってくださいね!』
『お土産期待してるヨ~』
『社会人は大変っすよねえ。お疲れ様です』
『至を見てるとそうは思えないけど』
(オイコラ真澄)
次々と画面に流れ込んでくる、春組メンバーのメッセージ。真澄には一言もの申したいが、寮の自分しか知らないのだから、そう言われるのも無理はないかと、ぐっとこらえた。
至はどう返信しようかと考えて、結局『ラジャ』としか返せなかった。
まだ、千景への想いを覆い隠すには修行が足りない。何を返信しても、端々にあふれてしまいそうで仕方がないのだ。素っ気ないと後で怒られても、そうするしかできなかった。
「しっかし、ほんと出張多いよなあ先輩……おつ」
こんなことなら、昨日無理にでも逢瀬をもっておくべきだった。取引先との会合が終わってからでも、朝までの時間はあったはずだ。
(先週の金曜は稽古入ってて駄目だったし、だから昨日……逢いたかったのに)
もう何日、触れ合っていないのだろう。恋人同士でもないのに、いや、だからこそなのか、至の体は貪欲に千景を求めてしまう。そうさせたのは千景だ。
キスもしてない、とベッドの上で唇をなで、朝っぱらから甘ったれた気分に浸りそうになり、至はふるふると首を振った。
「俺も社会人だからね、仕事仕事~」
本当ならゲームだけしていたいとは思うものの、大事な課金資材を稼いでこねばと、ベッドを降りた。
身支度を調えリビングへ向かうと、食欲をそそる匂いが出迎えてくれる。
「おはようございます、至さん」
「おはよ、臣。いい匂い」
「卵、スクランブルエッグで大丈夫ですか?」
「うん、おk。いつもありがと」
これが至の何でもない日常だ。いつも通りに起きて会社に行って、社畜おつと思いながら仕事を片付け、帰ればそれなりに熱くなれる稽古が待っている。
「うわ~マジかよあれ」
「あそこ結構大きなとこじゃないの。怖(こわ)」
聞き慣れた、万里や幸の声にふっと顔を上げると、朝のニュースで火災が報じられていた。
誰もが一度は聞いたことがあるであろう、製薬会社の研究施設が、火事になったらしい。現在消防署や警察署が原因を調べているようだが、かなり大きな規模の火災にもかかわらず、研究員たちは全員避難できていたらしい。人的被害がなかったのは、せめてもの救いだろう。
朝っぱらから嫌なニュースだなと、至はトーストされたパンをかじった。
(あれ、そういやあの製薬会社って、どっかの部署で取り引きなかったっけ……気のせい?)
被害に遭った会社は確かによく聞く名だ。それを会社で聞いたのか、日常生活の中で聞いたのか、判然としない。もし二次的、三次的にでも取り引きのあるところなら、仕事に影響してくるだろうかと考える。んー、としばし考え込み、ないなと小さく首を振った。影響があるとしても、至が所属している課ではない。該当の部署があればご愁傷様と、コーヒーを流し込む。
今日の出勤は車ですけど、と千景に声をかけようとして、はたと息を飲む。そういえばいないのだったと。
(マジか)
正直、こんなにも日常に影響してくるなんて。自分の仕事には関係ないどこかの会社の悲報より、千景の存在の方が、至には大問題だった。
(……めんどくさい)
何しろ、いても困るし、いなくても困る。
出張から帰ってきたら、八つ当たりでもしてやろうかと思うくらいだ。至は小さく息を吐き、千景の毒を無理やり散らした。
ふと、じっとニュースの映像を眺めている男がいるのに気がつく。
(……密……?)
この時間帯に、密がここにいることがもう珍しい。普段なら、社会人の自分たちや学生組が、寮を出てから起き出してくるようなのにだ。おかげで朝はあまり逢ったことがない。早朝のバイトでも入っているのだろうか。
(それにしても、いつの間に。密って本当に気配がないよな。ネコみたいだ)
足音がしない。どこでもすぐに寝る。気まぐれ。わがまま。ネコそのもののようだ。
(ハハッ、あれもスカウトされた組織とやらの訓練のたまものかね)
いつだか千景が話していたことを思い出す。お得意の小さな噓だ。
千景と密が仲が良いらしいのは事実だが、本当に犯罪研究会なんてもので出逢ったのかどうか。九割が噓に違いない。
千景の言うことを頭から信じていたら、本当に身が持たないのだ。
咲也あたりはよく騙されているようだが、あれは本当に純粋培養すぎる。千景がからかいたくなるのも分かる気がした。
(からかって遊ぶには、俺は役者不足ですよね~)
遊ばれたいわけではないし、別の意味では遊ばれているようなものだが、千景はいったい、茅ヶ崎至という男を何だと思っているのだろう。一度真面目に聞いてみたい。そんなふうに思いながら、朝食を済ませた。
ふと視線を感じて、顔を上げる。テレビから興味を外したらしい、密のものだった。
「密? どうかした?」
「……ううん、別に。至、仕事いつも通り?」
「そだねー。あ、バイトなら乗っけてこうか?」
訊ねてみたが、密はふるふると首を横に振った。マシュマロの補充に来ただけなのだと。ああなるほどと納得してしまうあたりが、密だった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
眠そうな声にふっと笑みが漏れてしまう。きっと数秒後には、ソファで眠ってしまうのだろう。いや、ソファならまだましな方だ。床でだって密は平気で寝てしまう。
至は変わらない日常を実感しながら、MANKAI寮を出た。
今日と明日を乗り切れば、土日、嬉しい連休が待っている。千景がいないのは寂しいが、それはどうしようもないと車へと乗り込んでいく。
先週は千景を横に乗せて出勤したなあと、シートベルトを締めるときでさえ思い出してしまう、馬鹿げた恋心に、何度目かの苦笑を浮かべた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-012-
二人は地下階へと続く階段へと走った。そこにも、ロックのかかったドアがある。大事な企業秘密がある場所だからか、セキュリティは厳重そうだった。
「解除できるか、メイ」
「十秒くれれば」
「任せる」
エイプリルはメイを背中にし、辺りを警戒した。組織で一通りの知識と技術を叩き込まれたとはいえ、電子機器に関しては彼に任せた方がいい。
しかし、この火事はいったいどういうことだろうか。謀ったかのかのようなタイミングで、こちらとしてはありがたいのだが、発火しやすい物でもあったのか。
いや、研究施設をしてそれは、あまりにも危機管理ができていない。実験用のマウスたちもいるのだろうに、火の管理がずさんなわけは――と思考を巡らせているうちに、メイがドアのロックを解除する。
「エイプリル」
呼ばれ、頷いて階段を駆け下りる。二人とも足音を立てないのは、組織での教育のたまものだ。
地下一階、四ブロック。そこに、今回組織が欲しがる機密情報があるはず。この火事騒ぎのせいで、警備員さえいなかった。
「指紋認証……強制解除、くそっ、面倒なアルゴリズムだな!」
「メイ、あまり時間をかけられないぞ」
「分かってる!」
さすがにこのフロアのセキュリティは強力らしい。語気が強まるのは、焦りか、むしろ好戦的になっているのか。
電子音が響く。アルゴリズムの解読に時間がかかれば、その先に使える時間が少なくなっていく。
エイプリルはグラスと端末をコードで繫ぎ、サーチシステムを最大限に活用した。
別の棟で発生している火災が、どんどん広がっていっている。ワンフロア延焼はまぬかれないなと思うと、駆けつけるであろう消防車の数と、見物人、固唾を呑んで見守る研究員たちの目から、どうやって逃れるべきか。
ルートを確保しておかなければ、こちらの命が危うくなる。火事でという意味でなく、誰かの目に触れたら、組織からの制裁があるからだ。どちらかというとそちらの方が危ない。
(上に行くのは危険だな。かといって、地下じゃ……)
元々のルートは、三階の連絡通路を渡って別棟に行き、そこから階下へ降りて東方面から逃げるはずだった。
だが上のフロアは、消火活動で人が出入りする可能性が高くなってきた。不用意に上がるわけにはいかない。
(地下からの避難経路……向こうか。カメラが近くにあるな。そこのカメラにも細工してる時間があるかどうか……やっぱりあまり使いたくないが……仕方ないだろう)
見取り図と、サーチシステムを重ね合わせる。数十メートル先に、非常口があるはずだ。使えるかどうか、グラスのモニタを拡大した。
おかしなことに気づく。
非常口の扉が、開いているように見えた。
いや、たった今、閉まった。
ということは、誰かが今使ったのだ。普通に考えたらここの研究員たちだろう。しかしそれにしては、自分もメイも、気配に気づかなかったなんて。
(気配がなかった――?)
ぞく、と背筋を何かが這い上がってくる。嫌な予感がした。
「よし、開いた! 来いエイプリル!」
非常口から出ていったのが、何者なのか確認しようとしたところへ、メイの声がかかる。
「モニターの映像は? 痕跡を残すわけにはいかないぞ」
「待て、今やって……どういうことだ、アクセスできない!」
「アクセスできないってなんだ!? 現地でやるって言ったのはお前だろう!」
「よそからの干渉があるんだよ! くそっ……」
研究室内のモニター映像を、一秒前の正常な室内動画に切り替えようとするものの、その回線にアクセスができない。それを行わないと、カメラに自分たちの姿が映ってしまう。犯行の一部始終が、残ってしまうというのに。
(よそからの干渉……?)
焦るメイの手元を眺め、エイプリルは先ほど閉まった非常口の方を振り向く。
まさか、と思った。
向き直りドアをそっと開け、中の様子を確認する。
人の気配はやはりない。全員が避難しているのだろう。
「メイ。アクセスできないなら、壊すかあとで消すかしかない。現物を確認してくる」
「エイプリル、待て! 指示は俺がっ……」
待ってなどいられないと、エイプリルはどれだけかの確信を持って中へと踏み込んだ。
ご立派な最新設備の整った室内が、足下の間接照明でぼんやりと浮かび上がる。新薬の保管庫は、このフロアを突っ切った奥のはずだ。素早く駆け寄ったが、ロックのかかっていない扉が、それを知らしめていた。
(やっぱり、ない)
厳重なはずの保管庫の中、それらしき物体は見当たらない。エイプリルは踵を返し、メイのところへと戻った。
「盗られてる」
「はぁ!? なんだよそれ!」
「どこのどいつかは知らないが、俺たちの前に侵入(はい)ったヤツがいたみたいだ。たぶん、データやなんかも、根こそぎやられてる」
「……どけっ!」
エイプリルを押しのけて、メイも室内に入った。保管庫へ一直線に駆けるも、ややあって「なんでだよ!」という悲鳴にも近い叫び声が聞こえた。
「どういうことだよ! あったはずだろ!」
上から指示されたミッションは、現物とデータの確保。
現物どころかデータもないのでは、示しがつかない。早い話が、失敗だ。
「データも全部抜かれているな。手遅れだ」
エイプリルは、近くにあったパソコンの内部を確認してみる。この施設に似つかわしくない、まっさらな機械(ガラクタ)でしかなかった。
恐らく、先ほど非常口から出ていった輩が、エイプリルたちより先に監視カメラに細工をし、データをコピーし新薬を持ち出して、痕跡をすべて消していったのだろう。
火災を発生させたのも、作戦のうちに違いなかった。研究員や警備員たちが避難して、ここを離れた隙の犯行を、計画していたようなのだ。
「メイ、引き上げるぞ。本部の指示を仰いだ方がいい」
「ふざけるな、出し抜かれたままで退けるか! 何か痕跡が残ってるはずだ、そいつらの情報探り出して、叩き潰してやる……!」
「メイ! 深追いはよせ!」
メイはエイプリルの制止も聞かず、自身用にカスタマイズを加えた端末をデスクに広げる。
もうどれだけもしない内に消防隊がやってくるはずだ。発見されるわけにはいかないのに、メイは頭に血が上っているのかと舌を打った。
確かに、失敗したとなれば何らかの罰則は下されるだろう。これまでの成績が悪ければ、放逐も考えられる。
組織の制裁に対する怯えと、出し抜いてくれた連中への怒りと、自身のプライドが、メイの正常な判断力を奪っているように思えた。
メイの指先は、端末やカメラへのアクセスから、どうにか痕跡を探り出そうとキィを叩く。いくつもの画面を同時に操作して、必死で挽回しようとする彼を、普段であればサポートしていただろう。
組織の制裁は、確かに恐ろしい。だが今のエイプリルには、それよりもっと恐ろしいものがある。
自分を受け入れてくれたあの劇団の生活が、壊れてしまうこと。
こんなとこで下手を打って、民間人に見咎められ、組織の不利益になるようなことをしでかせば、〝エイプリル〟に監視がつきかねない。それは即ち、卯木千景としての生活の崩壊である。
さらに、所属団体への調査が入るだろう。今は何の興味も持っていない組織も、エイプリルの隠れ蓑としてふさわしいのかどうか、調べるはずだ。
そうなったら、ディセンバーの生存が知られてしまう。それだけは避けなければ。
「メイ! 深追いするなって言っ――」
ひとまずここを離れた方がいいと、メイに手を伸ばしたその先で、ピ、ピ、という嫌な電子音を聞いた。
その、直後。
ドオオォォォオン!!
爆発音とともに、体が吹っ飛んだ。
「ガハッ……」
壁に叩き付けられ、飛んできた何かの破片が腕に突き刺さる。
痛みより先に、驚愕が襲ってくる。いや、何かしらの予感はあったような気がする。ざわざわと足下からせり上がってきていた不快感。あれは、エイプリルの危機本能を刺激していたに違いない。
爆弾が仕掛けられていたのかと、エイプリルは目眩の残る頭を振って、意識をはっきりさせる。衝撃でグラスはどこかに飛んでいったようだ。
しかしこの爆発は、こちらへの攻撃というより、自分たちの犯行の痕跡を消すためのものに思える。運悪く、ターゲットが被ってしまったのだろう。あからさまに敵対勢力がいたなら、あらかじめ対処もできたのに、おかげで予測ができなかった。
「くそっ……メイ! 無事かっ! メ――」
エイプリルは目を瞠る。そうして、細めた。
眼前で、ごうごうと燃え上がる炎。爆破されたいくつもの端末は、熱で溶けかけており、どこが元なのかも分からない。
そんな中で、爆発で破壊された機材の欠片に貫かれたメイの姿。
恐らく爆発物の間近にいたのだろう。確認するまでもなく、彼は絶命していた。
く、と喉を詰まらせる。もっと早く気づいて、彼を無理にでもここから撤退させていたら。そう思うと、後悔ばかりがエイプリルを襲う。
(勘が鈍ってる……平和ボケしやがって……!)
そう頻繁に組んでいたわけでもないし、個人的な交流はなかったものの、組織に属する意味では仲間でもあった。
その死は悼みたいが、ゆっくりしている場合ではない。まだ爆弾が仕掛けられているかもしれないのだ。早くここを離れなければ。
エイプリルは支給されている端末で、組織司令部へのアクセスを試みた。
「エージェント・エイプリル。ミッションコード668。本部、ミッションは失敗に終わりました」
『声紋及びコード確認しました。詳細を』
部屋を出て、非常口へと向かいながら呼び出せば、端末の向こうから抑揚のない声が返ってくる。
失敗したというのに、相変わらず感情を動かさないオペがいたものだと、妙なところに苦笑した。
「ターゲットがブッキングしていたようで、我々の前に侵入した者がいた。現物もデータも確認できなかった。仕掛けられていた爆発物でメイがロスト。痕跡が残る。至急処理班を向かわせてくれ」
『エージェント・メイがロスト、了解しました。遺体の処理と情報の操作はこちらに任せてもらいます。エージェント・エイプリル、理由の如何問わず、任務の失敗はランクダウンになります。すぐにそこを離れて、次のミッションに備えてください』
「イエスサー」
抱えていたエージェントがロストしてさえ、あの組織はいつもの通りだと、いっそ安堵さえする。安心して、嫌悪することができる。
あとの処置は組織の専用部隊に任せようと、エイプリルは痛む半身を引きずって非常口へと向かい、商売敵が使ったであろう逃走ルートをたどった。
もちろん痕跡などなかったが、そこを使ったということは、ある程度安全が確保されているはずだと。
「……っつ、う」
腕に突き刺さる金属片。傷が疼いて、今になって痛みを自覚し始める。だがここで抜くわけにはいかないと、唇を噛んで足を踏み出した。
こんな任務がなければ今頃は、茅ヶ崎至を抱いていたのになと、この期に及んで恋い焦がれる。
この怪我では、しばらく寮に帰ることもできないかと、腹の中を不甲斐なさが這い回った。
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会社の飲み会を断って、成り行きで別のところへ飲みに行くことになった千景と至。そこで女性客から「一夜限りのお誘い」という意味を持つカクテルをおごられそうになり、千景は意味を知って回避するが、至が口を付けてしまい……?
EP:2.22のガチャ事情
1:ONE NIGHT IN HEAVEN
2018/05/03 セフレの始まり
2:愛のひとつも囁けない
2018/07/01 気づいてしまった恋心
作中に万紬表現があります。ご注意ください
3:たった一度のI love you
2018/08/19 ザフラでの公演
作中に万紬表現があります。ご注意ください
4:ふたりの約束
2019/08/04 恋人同士になったけど……。
作中に万紬・十左表現があります。ご注意ください
5:千秒の愛に至る音 掲載準備中
2022/087/24 プレゼントをしたい。
EP:2.22に祝福のキスを
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