- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.421, No.420, No.419, No.418, No.417, No.416, No.415[7件]
2.22に祝福のキスを
カクテルキッスシリーズの挿話
「厄日だ……」
至は、ソファの上で屍のように体を横たえた。悪態をつく気力すらない。
「またガチャ爆死したのか?」
床に腰を落としてソファに背をもたれかけていた千景は、愛機のモニターから顔を上げてそんな至を振り向いた。その視線の先には、嘆き悲しんでソファに突っ伏した一人の男。手にはスマホが握られており、状況は聞くまでもなかったが。
「音にしないでください、突き刺さる……」
「咲也に頼めばいいのに」
「今お風呂行ってるっぽいので……」
何で上がってくるまで我慢できないのだろう、と千景は短く息を吐き、突っ伏した至の背中で頬杖をついた。
「そんなに欲しいカードなのか? 限定ガチャ、結構頻繁にあるよな」
「欲しいですよ、欲しいに決まってんでしょ、推しのにゃんこ姿ですよ!?」
至は体をひねって振り向いて、声を大にして言い放つ。
今日は二月二十二日、猫の日にちなんでか、今日限定のガチャがあるらしい。至の上から端末を覗いてやろうと思っていた千景は、その発言に呆れつつも、そういえばと思い起こしてふっと口の端を上げる。
「前もこんなことあったな。一年前?」
「え、あ……」
至も思い出したようだった。
奇しくも一年前の二月二十二日、同じゲームで同じような限定カードが配信された。そのときも至は物欲センサーが発動して欲しいカードが引けていなかったのだ。そのゲームに興味がない=物欲センサーが発動しない千景の指を貸してくれと至が提案したのが、そもそもの始まりだった。
「あの日、初めてお前にキスをした」
「そ、う、……でしたね」
至が体を横向けて空いた分、千景が腕を乗せて身を寄せる。至の顔が赤いのは充分に見える距離。泳ぐ視線に千景は機嫌を良くして、端末を握る至の指先にちゅっと口づけた。
「またあの時みたいにする? 欲しいんだろ、カード」
千景はあの時、至に力を貸してやることに対してメリットがないと、唇にキスをしたのだ。至の気を逸らさせて、物欲センサーを押さえ込み、ガチャを引かせる――のと同時に千景自身がキスを楽しんだ。
結果、至は欲しかったカードを同時に三枚引いたらしく、目論見は成功したのだ。今年も同じ方法で引けないだろうか。
「ほ、欲しい、ですけど。うん、今年も俺の推しは可愛い……」
「どれ? ふぅん……お前は推しに猫耳着けたいのか」
「いや、だって萌えるでしょ」
「じゃあ俺も猫耳着ければいいのか? ちょっと引くよ、それは」
「先輩は推しじゃない。いや推しっていえば推しだけど、違うでしょ、その、推しと恋人とは!」
しかしあの時はなんとも思っていなかった相手と、まさか恋人――そう呼んでいい関係になるなんて思わなかった。千景はその音が心地いいなと目を細めて笑うが、至は恥ずかしそうに顔を覆ってしまう。
「こ、こいびと……えええ」
「自分で言って自分で照れるとか、面白いな茅ヶ崎は」
「俺もびっくりですよ! ……ちょっと、まだ、慣れなくて。片想いだとばかり思ってたので」
「こっちの台詞かな」
こうして恋人同士になるまでは、いろいろなことがあった。本当に、いろいろ。ワンナイトのつもりで体を重ねたり、恋をしていると自覚しながらセフレ関係に甘んじてみたり、強引な行為も優しい行為も嬉しくて哀しかったり、ザフラでの騒動があったり。
こうやって至近距離で視線を重ねられるのは、それらを乗り越えてきたからだ。この感情をしまい込んでしまわないでよかったと、お互いに思う。
どちらからともなく顔を寄せて、目蓋を伏せて、唇を重ねた。
少し乾いた唇だけど、それを感じる暇もなく相手の濡れた吐息で湿っていく。唇で相手の唇を挟み、感触を楽しみ、押しつけて引っ張って、舌先でつつく。同じタイミングで舌を出せば、真ん中で絡み合って互いの唇の中へと押し込まれていった。
「んっ……」
鼻から声が抜けていく。至の手は端末を逃し、それを感じ取った千景が手のひらを重ねた。指が絡み合って、ソファの上で互いの手を握り込む。千景の空いた手は至の髪を撫で、至の空いた手は千景の肩を抱き寄せた。
きっと今なら物欲センサーが散ってしまっているだろう。
「いいの、引かなくて……」
千景は少し唇を離して訊ねる。ちら、と至の視線は傍に転がる端末に向かったけれど、すぐに目蓋が閉じられた。
「別の物欲出てきちゃってるんですけど……」
「ん? 何が欲しいのかな」
「……推しのエロいキス」
「猫耳着けた方がいい?」
鼻先をすり寄せると、至がふはっと笑いを漏らす。唇に何度か小さなキスをして、なだめて、煽る。
「ここじゃ、これ以上は……な」
「どっか行きます? 先輩運転よろ~……って、あ!」
重ねていた手を、千景が至の端末の上に持っていく。画面のロックを解除すれば、二人の指先は十連ガチャのボタンをタップできる位置。至の人差し指と千景の人差し指が、そこを押した。
ピロン、ピロン♪とご機嫌そうな音が響く。レアリティの高そうな輝きが至の目に映った。
「……にゃんこキタコレ」
「推しのにゃんこ?」
「だって今ロードした! ちか、千景さん、二枚目! ……は?」
開かれていくカードは、確かに至が欲しかったもの。しかも二枚目もお目見えだ。と思ったら、なんと三枚目。去年と同じく、にゃんにゃんにゃんの三枚抜きを果たしてしまった。
「…………何かしました?」
「何もしてないよ。だいたい、引いたのお前だろ」
「先輩の指も触れてたでしょ! 去年も三枚引けたのに、こんなのアリ?」
「良かったな、引けて。おめでと」
千景は茫然とした至の唇に祝福のキスをして、抱きしめる。眼鏡越しに窺うような目を向けてやれば、甘えるように両手を背中に回してくれた。
「カード重ねるの、後にしますね」
「ん?」
「他に重ねるものいっぱいあるんで」
こことか、と唇が重なる。
至なりのお礼とお誘いだろうかと、千景は楽しそうに口の端を上げ、出掛ける準備をするのだった。
#両想い #ラブラブ #千至 #シリーズ物 #カクテルキッス
はつこい
ホテルの部屋でジャケットを脱いで椅子の背にかけ、ネクタイをほどいて襟元をくつろげる。何気なく視線をやった大きな鏡の中、散らばる朱に気がついた。
「あ……」
至は思わず声を上げる。まだ残っていたのかと、指先でそれをなぞった。
先週の同じ時間、恋人につけられたキス・マーク。至は襟を広げて、鏡に正面から向き合った。デスクライトを点ければ、より鮮明に肌に浮き上がって見え、体がざわつく。
たぶん、嬉しい――のだろう。
(いやいやガキじゃあるまいしこんなものが嬉しいとかね。嬉しいです)
正直いって真面目な交際をした相手など彼しかいない。初恋と言ってもいいくらいだ。
まあ本当の初恋はゲームのキャラだ。なんて言ったら呆れられるに決まっている。そんな恋愛初心者の状態で、恋人と触れ合った証しが嬉しくないわけはない。
どうしても顔が緩んでしまう。こんなの、誰にも見せたくないと、至は口許を覆って顔を背ける。会社の連中にはもちろんのこと、劇団の仲間にだって見られたくない。なんでもそつなくこなすイケメンエリートが、ただの廃人ゲーオタが、キスマークひとつでこんなにふにゃふにゃな顔をするなんて。
「ほんと見てて飽きないね、茅ヶ崎は」
「げ。いつから」
「さっきから。俺の熱い視線に気づかないなんて、ひどいんじゃないかな?」
「いや俺は先輩みたいに人感センサーついてないんで」
背後からかけられた声に、一応平静を装って答えてみるものの、きっと心臓がうるさいことは気づかれているだろう。いちばん見られたくなかった相手に見られるとは、不覚。
「で、なに? 俺がつけたキスマーク、そんなに嬉しい?」
その相手――千景は、楽しそうに笑いながら両手を腰に回してくる。こうしてからかわれるのが目に見えていたから、いやだったのだ。
「自惚れおつ~。俺は〝こんなとこにつけやがってクソが〟って思ってたんです~」
だから、一応ごまかしと対抗を試みて――。
「そっか……俺は嬉しく感じるから、茅ヶ崎もそうかと思ったんだけど」
そして、負けた。
千景にはどうやっても勝てない。それがお為ごかしでも本音でも、寂しそうな顔には一発でノックアウトだ。ぐぬぬ、とうなりながらも、最終的には鏡越しに視線を合わせ、俯いて口にしてしまう。
「……嬉しい、です」
よくできましたと言わんばかりに、千景が頬に口づけてくる。扱い方を心得られてしまっているなあと、至は千景の方を向いて、唇へのキスをねだった。
ちゅ、と音を立ててキスをされている隙に、千景の指先は至のシャツのボタンを外してしまう。なだめるように撫でてくる手のひらが心地良くて、されるがままになっていた。
「あ、ちょっ、先輩、そこ見えるから」
「ギリギリ見えない。つけさせて」
首筋を舐められ、唇が当たったことに気づく。流れと雰囲気からそこにキスマークをつけたいのだろうことは理解できた。が、襟で隠れるかどうかという位置だ。勘弁してほしい。
「だ、め、……って」
優しいキスにほだされた至が、千景を拒めるわけもなかった。肩を強く抱かれ、唇で肌を吸われる。それだけでもぞくぞくと快感に支配されるのに、どうして押しやれるだろう。
ふと目蓋を持ち上げれば、嬉しそうに肩へと唇を滑らせる千景の顔と、うっとりと欲情にまみれた自身の顔がその目に映った。鏡の前ではそうなってしまうのも道理で、至はカアッと頬を染める。
千景のそんな顔を見られるとは思っていなかった。そもそも触れ合う時はいまだにいっぱいいっぱいで、そんなことに思考が回らないのだ。
もしかして、いつもそんなふうに触れてくれていたのだろうか。いつもこんな顔で千景の愛撫を受けていたのだろうか。
嬉しいのと恥ずかしいのがごちゃまぜになって、至は体を強張らせたようだった。
「茅ヶ崎? どうした」
「えっ、あっ……」
千景がそれに気づかないわけはなくて、唇を離して訊ねてくる。気まずくて視線を逸らしたのに、一瞬遅かったようで。
「……鏡? ああ、茅ヶ崎がそういうプレイ好きならここで抱くけど」
「ち、ちがっ! あ、あの、せ……先輩が」
「俺がなに?」
シャツがするりと落ちていく。鏡越しに視線が重なるけれど、物足りなくて千景を振り向いた。
「先輩が、あんなに嬉しそうに俺に触ってるの、知らなかったので」
「そりゃね。何しろ初恋の相手だぞ」
そう言ってこめかみにキスをくれる。至は目を瞠った。千景は今なんと言ったのだろうか。
「…………――初耳なんですけど!?」
「あれ。言ってなかったっけ」
「知りませんよ! ちょ、kwsk」
分かってると思ってたんだけどなあとうなりながら、千景は天井を見上げる。そうして手を差し出してきた。
「ほらおいで。絶対朝までかかるけど」
至は鏡の傍を離れ、千景の手に誘われてベッドに沈む。詳細は、文字通り朝までかけて伝えてもらった。
#両想い #ラブラブ #千至 #ワンライ
移り香
夜の風の冷たさに、至は思わずぶるりと体を震わせる。こんな日に限ってマフラーを忘れてきたのが悔やまれた。
(まだかな)
だが、寒いにも関わらず、心だけはそわそわふわふわほわほわ。
誰かを待つということが、こんなにもくすぐったい気持ちになるなんて思わなかった。ちゃんと来てくれるかという不安はない。何しろ同じ職場で同じ劇団で部屋まで同じという相手なのだ。
だがだからこそ〝待ち合わせ〟という概念がない。取引先への直行でもなければ出勤は毎日一緒。デートに出掛けるにしたって同じ部屋からでは待ち合わせる必要もない。わざわざLIMEして都合を聞いて落ち合うなんてことは、仕事が終わった後しかなかった。
『一緒に帰れる?』
『いーですよ』
『少し遅れる。待ってて』
『おk』
なんて短いやりとりが、至には嬉しい。待っている間にゲームのクエストもこなせるし、彼を待つのは嫌いじゃない。
寒くなければ、の話だが。
自慢じゃないが寒さには弱い。できることならずっとコタツに入ってぬくぬくしていたいのだ。待つのは嫌いじゃないが早く来てほしいなと思っているところへ。
ひやり。
「ひえっ」
首筋に冷たい感触。至は幽霊にでも遭ったかのような声を上げ、そのひんやりの正体を振り向いた。
「先輩、やめてくださいよ!」
「ははっ、悪い。予想以上の反応してくれて嬉しいよ」
「俺を驚かせるために手袋しないで来たんですか? タチ悪い」
待ち人来たる。恋人である千景はちゃっかりマフラーを巻いてはいたが、手が寒々しい。確か朝はしていたはずだけど……と思い起こせば、理由なんてひとつしか思い当たらず、憎らしげに睨んでみた。
「いや、急いでてね。なんで外にいるの、どこか店でも入ってれば良かったのに。窓から見えて驚いた」
「え、窓ってどこから」
「十三階の会議室」
「分かりやすい噓おつ。店探して歩きながらだとゲーム無理だし、ここで待ってた方が楽なんですよ」
千景がその辺りをさすのを、乾いた笑いで返し、会社のビルのすぐ傍で待っていたことに言い訳をした。職場ではまだ猫を被ったエリート商社マンなのだ、ビル内でのプレイは控えたい。幸いこちら側の道は駅と反対側で、人通りは少なかった。
「それにしてもな……見てるこっちが寒い。これ巻いてて」
「え? あ」
言って、千景は自分のマフラーを外して至の首に巻き付けてくる。つい二秒前まで千景が巻いていたせいか、それは温もりと移り香を伴って至を包んでくれた。
思わぬ優しさに頬が火照るのを自覚して俯けば、千景のマフラーからほんのりと漂う彼の匂いに目眩がする。
「で、でも、先輩が寒いんじゃ」
「俺は平気だよ。待たせて悪かったな。次から、待ち合わせはどこかお店にしようか」
「え、でも」
「俺が〝遅れてごめん〟って走ってくるのが好きって理由は、却下な」
「何で知っ……――あ」
なんでそれを知っているのかと言いかけて、墓穴を掘ったことに気づく。飛び出た声を今さら戻すことなどできやしない。
見透かされていたことが恥ずかしくて、気まずくて顔を背けるのに、千景は手袋をしないままでそっと手を握りしめてくる。
「俺がそうだから。息切らせて走ってくるの、ときめくよな」
「……今度からゆっくり歩いてくることにします」
自分がそうだからお前もだろうなんて、さも当然のように言ってのける千景が憎たらしい。そしてそれが事実であることが悔しい。今回も急いで来てくれたのが嬉しかった。
結局惚れたらもう負けなんだよなあと、諦めたように息を吐いて項垂れる。
ふわりと香ってくる千景の匂い。悔しいくらい胸が疼いて、握られた手をきゅっと握り返す。
「……マフラー、ありがとうございます」
「ん、寒くないか?」
「寒いには寒いけど、平気ですよ。これ、先輩の匂いがしますね」
「ちょっと変態っぽいな」
「ちがっ、移り香っていうか! このノーロマンが!」
「へぇ、移り香って……ちょっと色っぽいよね」
引かれたかなと思い離れようとしたら、千景は逆にぎゅっと握った手を引き、髪に鼻先を埋めてきた。
「ホントだ、茅ヶ崎の匂いがする」
カッと体中に熱が充満するかのようだった。こんなところでそんなことをして、注目を浴びないほど日本はまだオープンじゃない。だが千景が人に見られるようなそんなヘマをするわけもなく、辺りはしんとしていた。
「そ、それは移り香っていうかもはや俺の匂い……」
「いい匂いがする」
すん、と鼻から息を吸う音が聞こえる。こんな往来ではしがみつくこともはばかられて、握りあった指先で千景の手の甲を撫でてみた。
「先輩、まっすぐ帰るつもりじゃ……ないですよね?」
「まあ、体も冷えたしね。マフラーじゃなくて、お前に匂い移してやろうか」
「じゃあ、俺は先輩に移しますよ」
そうして二人、匂いが相手に移ってしまうほど濃密な夜を過ごすことになるのだった。
#両想い #ラブラブ #千至 #ワンライ
イタダキマス。
「昨日よりはマシ」
「評価がカライ」
乾いた笑いを漏らしながら、茅ヶ崎は皿の上のおにぎりを見下ろしている。
正直驚いた。なんでおにぎりをこんなにいびつな形に握れるんだ? それはむしろ才能なんじゃないのか。
監督さんへの感謝をこめて、みんなそれぞれで手料理を振る舞うってことになったんだけど、案の定というか何というか、茅ヶ崎は料理ができないらしい。正確には、料理ができないことが分かった。興味も情熱も、ゲームに一直線だったのか。
今はそれに芝居が加わっているわけだ。
「それにしても、もう少しくらい形を整えないと、真澄チェック厳しいぞ」
「それな。なんでこうでこぼこになるんだ……」
うーん、と茅ヶ崎は首を傾げる。これが職場じゃなんでもそつなくこなすイケメンエリートっていうんだから、世の中には不思議が多い。こんな姿を知ったら、女の子たちはどういう反応するんだろう。
幻滅する? ああそれは歓迎だよ、うるさい虫がいなくなる。
それとも母性本能がくすぐられたり? 作ってあげたいとか思うのかな。どうぞお帰りください、これは俺のだ。
「先輩それ早く食べて。もう一個くらいイケます?」
「まだ作るのか。というかお前が食べればいいんじゃないのか? 俺はおにぎり処理機じゃないんだけど」
茅ヶ崎がおにぎりの練習をし始めてからというもの、毎日付き合わされている。それは別にいいんだ。食べられない量を押しつけられているわけでもないし、たかがおにぎりひとつで一所懸命になってる恋人を見るのは楽しい。
その頑張りが俺のためではないってことが、少し寂しだけだ。
「先輩なら胃袋もチートでしょ」
「意味が分からない。はあ……いいけどね」
でこぼこのおにぎりにスパイスを振りかけて、口へと運ぶ。小さめなのは、女性である監督さん向けだからだろう。
再び手の中でご飯を握り始める茅ヶ崎が、やっぱりどうにも可愛い。眉間にしわ寄ってるの、気づいてないんだろうな。
どうも思い通りにいかないようだ。何が原因なのかな、ってじっと手元を眺めてみる。ややあって、なるほどと思い当たった。
「茅ヶ崎、ストップ」
「え?」
「一回そこで角作って、止めて」
こんもりと山を作らせた手の甲にそっと手のひらを重ね、茅ヶ崎の動きを止める。不思議そうにマゼンタが振り向いてきて、うっかりキスをするところだった。してもよかったけど。
「角作った? その角こっちに移動させて、ここに山。あともう一つ。その三つ崩れないように握って。慌てなくていいから」
茅ヶ崎の手に添えて一緒に動かしてやる。素直に従うの可愛いな、監督さんのために頑張ってるんだ。
「茅ヶ崎は角の位置取りがおかしいんだ。せっかく作った角、次のタイミングで潰しちゃうからでこぼこになるんだよ」
「……あー……」
心当たりがあったのか、茅ヶ崎はうなりながらさっき作った角を潰さないよう大事そうに握っていく。その位置が決まってしまえば、あとは力加減だけだろう。
「っしゃぁ、できた!」
「…………側面整えること考えろ。お前本当にゲームにしか特化してないな」
角は綺麗になったけど、側面がこんもりしている。どうかすると肉まんの形に見えてくる。まあこれでもマシになった方か。
「側面……こんな感じですか? おお、おにぎりっぽくなった」
「良かったな、これならちゃんとおにぎりに見えるぞ」
側面を平らにして、茅ヶ崎は満足そうに笑う。おにぎり一つでそのドヤ顔はどうかと思うけど、可愛いからまあいい。これでおにぎり三昧から卒業だろうか。
「じゃあ記念すべき綺麗なおにぎり第一弾なんで、先輩にあげますね。はいアーン」
ご飯粒がついた指先で、やっと綺麗に握れたおにぎりをつまみ上げ、俺に差し出してくる。うかつだった。そんな手でくるなんて卑怯だぞ茅ヶ崎。
「お腹いっぱいです?」
「いや、そういうわけじゃ……記念、自分で食べなくていいのか?」
「綺麗に握れた最初のヤツは、先輩にって決めてたんで」
肉弾戦でも頭脳戦でも茅ヶ崎に負ける気はしないけど、コイツには絶対に敵わないと初めて思う。これがあれか、惚れた方の負けっていうものか。
はよはよ、って急かす茅ヶ崎に身を寄せて、おにぎりを――素通りして唇にキスをした。
「……そっちじゃなくてこっち! おにぎり!」
〝アーン〟なんて食べさせる仕種をするくせに、なんでキスひとつでこんなに赤くなるんだろう。主導権の問題だろうか。
まあいいか。今夜どちらもイタダキマス。
#両想い #ラブラブ #千至
既読。
横を向いて、スマホの画面を眺める。いや、スマホ越しにベストを羽織る男を眺めた。
ああ今日も帰るのか。そう思うと胃の辺りがずしりと重たくなる。こんな時間がとてつもなく嫌で、眠ったふりをしていたいのに、自分を散々抱いたあとシャワーをして、こうしてベストを羽織る姿も見ていたい。
どうしようもないなと、至は無意識のうちに眉間にしわを刻んだ。
「何か変なメッセージでも来てるのか? 茅ヶ崎」
「来てませんよ」
手首に高そうな時計をはめて、彼は――卯木千景は甘みの欠片もない声で訊ねてくる。至も、同様に素っ気なく返してみた。実際、眼前のスマホ画面には変なメッセージなど来ていない。
あるのは、千景との部屋番号のやりとりだけだ。職場の先輩で、ただのセフレというだけの、それこそ素っ気ないもの。
「そう? ならいいけど。お前終わったあとっていつもスマホ睨んでるから、誰かにバレて変なことになってんのかなって思ってね」
「え……、俺いつもそんなですか?」
「わりとね。セックスしたあとそんな顔されるのは、気分良くない。何かあるのか?」
千景はジャケットに手をかけないで、じっと至を見下ろしてくる。そんなつもりではなかったが、これは弁解をした方がよさそうだと、至は千景とのLIME画面を伏せてベッドに置いた。
「やだな、誤解しないでください。先輩とのセックスが気持ちよくないわけないじゃないですか。あなたがいちばんよく知ってるでしょ、俺の反応」
腕を千景に向かって伸ばせば、身を寄せてキスをしてくれる。気持ちよくないわけではない。求めに応じてくれたことを嬉しく思う気持ちと、同時に苦しく感じてしまう至の方に問題があった。
「……茅ヶ崎、もし誰かにとがめられるようなことがあれば、俺に言え。そいつ消してやるから」
「うーわー、先輩が言うとなんかガチっぽいんですけど。……大丈夫ですよ、誰にもバレてません。ウチの劇団にもね」
「今日は稽古よかったのか? ……そう。茅ヶ崎、――言えよ」
唇にキスを落として、千景は眼鏡を押し上げ離れていく。至は瞬くことでそれに答え、千景が口の端を上げた。
「じゃあ茅ヶ崎、おやすみ。またね」
「おやすみなさい先輩。また、気が向けば」
愛のこもった言葉を交わすことはおろか、手を振りあうこともせず、それは突然、世界が変わったかのように終わりを告げる。まるで舞台の幕が下りたようだと至は目を閉じた。
消せるものならば、この胸の痛みを消してほしい。引き留めたい思いを、触れたいこの気持ちを、せめて朝まで一緒になんて願うみじめさを、ひとつ残らず消してほしい。
「またって、あんのかよ、本当に……」
スマホを持ち上げロックを解除すれば、素っ気ない文字だけのLIME画面。間違っても恋人同士のそれではない。ズキンズキンと痛む胸をかきむしりたい。こんなLIME消してしまいたい。
千景の、噓か本当か分からない「またね」に期待をしてしまう自分自身を消してしまいたい。
何度も千景を受け入れた部分より、心臓の方がひどく痛む。いっそこっちが劇中であればいいなんて思った。
千景が海外出張が多いのは知っていた。帰国して少し本社に顔を出してまた違う国へ、なんてのも、ザラだったのも知っている。だけどひょんなことで関係を持つようになってからは、減っていた気がしたのに。
(ほぼ二ヶ月未読って、あの人何してんの……?)
帰国日を訊ねるLIMEに、既読の印が付かない。忙しくて見る暇がないのか、スマホをどこかに置き忘れてでもいるのか。千景の所属している部署に探りを入れてみても、出張の内容さえ分からなかった。
千景には謎が多すぎる。度重なる出張、多忙だろうにジムで鍛えてでもいるかのような肉体、すべてを覆い隠すような眼鏡、ときおり混ざる危ない発言。普通の商社マンとしては捉えられないような人間だった。
(……次いつ逢えるのか、とか。そういうの気にしなきゃならないの、本当にしんどい……面倒くさい、もうやめたい、こんなの)
一日に何度もLIME画面を気にしてしまう。今までそんなふうになるのはゲームに関することだけだったのに。千景のことで頭がぱんぱんになってしまう。連絡がないから余計にだ。
何度も、本当に何度も自問自答して、眉を寄せてLIME画面を見下ろす。こんなに長い間既読も付かないのは、千景の中でそう重要な相手にはなれなかったのだ。そう思って、至は唇を噛む。
〝このIDをブロックしますか〟というご丁寧な確認に、OKボタンを押して返した。
稽古のない金曜日、もう無理して定時で上がる必要もなくなった。定時で上がれればそれはありがたくダッシュで会社を抜け出すが、それはゲームのためでしかない。千景との時間を増やすために、昼食時間を削ってまで仕事をすることはなくなったのだ。
「お先に失礼します、お疲れ様」
まだ仕事の残っているらしい同僚たちにお決まりの挨拶をして、ぺこりと頭を下げて職場を出る。時刻は午後九時三十分、帰って美味しいご飯にありつこうと、少し沈んだ気分を上昇させた時だった。
「お疲れ、茅ヶ崎」
車のドアの前に、逢いたくて逢いたくなかった男の姿を見つける。
至は思わず後ずさる。けれど、心のどこかで願っていたのか、簡単に捕らわれてしまった。
「なんで逃げるのかな。お前の車だろ?」
「か、帰ってたんですか、先輩」
「俺の帰国日も知らないって、薄情だよね。乗れ、茅ヶ崎」
助手席を促されて、至は顔を背ける。このままいつものお決まりのパターンになるのかと思うと、気が重い。
「茅ヶ崎」
責めるように呼ばれ、至は回り込んで助手席のドアを開ける。IDをブロックしてしまったことは、なんと言って責められるのだろう。まるで死刑宣告でも受けるかのように、心臓が嫌な音を立てた。
「何かあったのか?」
車が発進してわりとすぐ、運転席から声がかかる。苛立ちをちゃんと隠した声はさすが卯木千景と言えばいいだろうか。だが至は、そんな千景から顔を背けた。
「別に何もありません」
「何もなくていきなりIDブロックするのか? おかしいだろう」
「おかしいのは俺たちの関係でしょう? いいじゃないですか、ただの先輩後輩に戻ったって」
窓ガラスに映る千景の顔を眺める。きっと今自分の眉間にはしわが寄っているのだろうなと自覚はしていた。
「また、抱いたあとと同じ顔してる。いつもいつも、誰からのLIMEであんな顔してたんだか知らないが、面倒なことになってるなら言えって言っただろう!」
「今この状況がいちばん面倒ですよ! 何も言わずにブロックしたのは悪かったかもしれないですけど、普通空気読んで距離置いたりしません!?」
勢いだけで振り向けば、同じく振り向いた千景の目が驚愕に見開かれていく。それはすぐに正面に戻っていったけれど、千景は長く細く息を吐いたようだった。
「……単に、俺との関係を解消したいってだけだったのか」
「え? あ、はい……?」
千景のことを考えるのがしんどい。セックスが終わるたびに惨めな気持ちになりたくない。そういった気持ちを一切説明せずにブロックしてしまったが、言わなくても分かると思っていた。何か気に入らないことがあったことくらいは。
「俺とのことでお前に何かあったのかと思って――気が気じゃなかった」
「は……? 先輩まさか、本当に俺が面倒ごとに巻き込まれてると思ってたんですか?」
「〝またね〟って言っただろ、関係を解消したがってるなんて誰が分かるか! 連絡が取れなくて俺がどんな思いでいたと思ってるんだ!」
「なっ……それはこっちの台詞ですよ! 二ヶ月も既読付かないし何かあったのかとか俺が何かしたのかとか思うじゃないですか! 心臓潰れそうだったのに!」
「それはっ……」
弁解をしようとしてか、千景が再度振り向きかけて、途中で視線が戻る。弁解できる要素がないのだろうか。
「それは……悪かった。ごめん」
至は耳を疑った。まさか千景から謝罪をうけるなんて思っていなかったのだ。「先輩?」と小さく呼べば、千景の眉間にしわが寄せられていく。
「……俺には敵が多いから、一緒にいるとお前も危険かもしれない。今までその事実から目を背けてきた」
「え、いや何言ってるんですか。社内の評判知らないとは言わせませんよ。社内どころか社外だって」
「たぶん俺は茅ヶ崎のことを気に入ってて、手放したくなかったんだと思う」
「は……え……いや、なに……何言ってんですかホント……」
困惑がそのまま頬の熱になる。危険かもしれないというのはどういうことか。それを黙っていたのは手放したくなかったからというのはどういうことか。
「でもお前が嫌ならやめようか。送るよ。えっと……劇団の寮まででいいのか?」
ドキンドキンと胸が鳴る。痛みは相変わらずあったけれど、潰れそうなほどのものではない。至は口を押さえ、うっかり飛び出てきそうな何かに耐える。
(な、なんだこれ、なに、どういうこと、死にそう、心臓、マジでか)
顔が熱くて、体が熱くて、むずがゆい。汗まで浮き出てきそうな情動に、至は慌てた。
「茅ヶ崎?」
「え、あ、は、はい……あの、寮で。ナ、ナビします」
「……よろしく。寮の場所知らないから」
少しの間と、消えない眉間のしわが気にかかる。気になる間も心音は治まってくれなくて、ナビしようとする声が震えた。
「茅ヶ崎。心配かけてごめん」
苦笑して少しだけ振り向いてくる。
瞬間、恋に落ちたと自覚して、くらりと目眩。
ああ苦しかったのはこのせいかと初めて気づいて、震える唇を開く。
「先輩……行き先変えていいですか。いいですよね」
「え?」
「どこでもいいんで近くのホテル。二ヶ月音沙汰なかった分、ちゃんと既読のマークつけてください」
自覚をしたらしたできっとつらい。それでも、触れたい思いの方が勝ってしまう。きっと胸の痛みは千景がどうにかしてくれるはずだ。
「二ヶ月分とか、お前月曜日にまともに出社できると思うなよ」
「え、あ、え」
ほんの少しの後悔も、恋と夜の闇に溶けていく――。
#両片想い #千至 #ワンライ
はじまりのための
金曜日、仕事帰り、浮かれた企業戦士たちが多い中、千景は至を無理やり助手席に押し込んだ。
逃げ出しそうな至に「話がある」と釘を差して、バタンとドアを閉める。
千景は運転席に乗り込み、すべてのドアをロックした。
「先輩」
抗議のような声は聞こえてきたけれど、構いもせずエンジンをかけアクセルを踏んだ。ゆっくりと走り出す車。助手席の至は、仕方なくシートベルトを締めるが、落ち着かない様子で視線を泳がせる。太腿の上できゅっと握りしめられた拳には、千景も気がついていた。
「先輩、停めてください。降りますから」
「話があるって言っただろう」
「俺にはありません」
「俺にはある」
らしくないテンポで会話が進む。かみ合っているようなかみ合っていないような、ちぐはぐなものが。至は明らかに話をしたくないようで、一度も千景を見ようともしない。
「……いい加減にしてくれ茅ヶ崎。いくら俺でも怒るぞ」
「もう怒ってるじゃないですか」
「このままどこかへ連れ去ってやろうか」
舌打ちのあとに、千景はそう呟く。至はきゅっと唇を噛んで俯いた。
「運転、しながらとか、危ないと思いますけど」
「俺の話を聞く気はあるのか?」
至は顔を背け、押し黙る。それを肯定と執ったか否定と取ったか、千景は近くのパーキングに車を滑り込ませた。
それでもドアのロックは解除せず、ステアリングから手だけをそっと下ろす。
「……茅ヶ崎」
静かな声に、至の肩がびくりと揺れる。
「もう終わりにしよう」
ああ……、と至は心の中で嘆く。ついにその時がきてしまったのだと。俯いたまま、太腿の上で拳を握りしめる。
「理由は分かっているんだろう?」
責めるような千景のこえに、至は震える唇を開いた。
「……でも、先輩……」
「分かってるはずだ、茅ヶ崎」
「まだ気持ちの整理が」
「今さら何を言ってる……!」
至の心臓がドクドクと異常な速度で大きな音を立てる。相変わらず千景の方を見ようともしない至を、落ち着けようとしてか、逃がさないようにと思ってか、ステアリングから降りた千景の手が、至の拳に被さってきた。
「せんぱ……っ」
「分かってるはずだろ、そうだと言え……!」
「分かってますよ! だけどこんなふうになるなんて思わなかった!」
「俺だってそうだ!」
千景の手のひらが、助手席側のドアを叩く。至近距離でその声を受けた至は、ぞくぞくと体を震わせた。
「後ろめたくないのか、茅ヶ崎。俺とセックスするだけの関係なんて」
ぐ、と言葉に詰まる。後ろめたさがなかったわけじゃない。
職場はもちろん、家族にも、劇団の仲間にも、誰にも言わずに関係を続けてきた。
恋情の伴わない関係のはずだったのに。
「カミングアウトしろって言ってるんじゃない、クローゼットで構わないんだ。ただ、終わりにしたい」
終わりにしたいと言う千景の唇が、泣き出しそうな至の唇に触れてくる。触れたその唇が震えているのに、至はそこでようやく気がついた。
「茅ヶ崎……」
鼻先に、目蓋に、髪の先に、千景の唇が降る。怖がっているのは自分だけではないのだと気がついて、至はようやく長く息を吐いた。
「――ちゃんと、恋人同士になろう」
恐る恐る目蓋を持ち上げれば、そこにはすがるような顔をした千景。
きゅう、と心臓が締めつけられた。
何か言って返したいのに、胸がいっぱいになって何も出てきてくれない。自分だけの想いだと思っていたのに、こんなふうになるなんて。相手の気持ちに気づいたのは、たぶん同じタイミング。
だけど恋人同士なんて幸せな関係になって、もしも壊れてしまったら――怖くて仕方がない。劇団の仲間にも言えないこんな恋、続けていく自信なんかなかった。
「頼む、茅ヶ崎……頷いて……」
ずっと続けられる自信なんて、誰にもあるわけがない。この先、何があるかなんて、誰にも分からない。相手が相手なだけに、余計にだ。
それでも。
至は千景の背中に両腕を回し、肩に額を押しつけ、千景にも分かるようにコクンと頷いた。
今の至には、これが精一杯だ。どうか伝わってほしいと千景を強く抱きしめる。
耳元で、ちがさき、と吐息のように呼んだ千景の声は、伝わったと考えていいだろう。
そうして二人は、セフレという関係に別れの言葉を贈ってやった。
#両片想い #千至 #ワンライ
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ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
背中の両サイドに四つずつ、赤いライン。指先が、そのラインをゆっくりとなぞる。申し訳なさそうに戸惑う指先がくすぐったい。ひりつく痛みを和らげるようでも、広げていくようでもあるその指先が、どうしようもなく愛しい。
「先輩……ごめんなさい、傷」
こてん、と恋人の額が背中にぶつかってくる。彼のふわふわした髪は汗で少し濡れていて、先がつんつんと傷に当たる。そんな痛がゆささえ気持ちがいいなんてマゾっぽいことを考えて、俺は振り向いて口の端を上げた。
「別に構わないけどね」
「いや、でも痛そう。ほんとすみません、俺、あの、気持ちよくて、夢中で……」
うん、何を言ってるか自覚してないんだろうな、茅ヶ崎は。夢中になるほど気持ちよくて、俺の背中にしがみついてきてくれたこと、嬉しいだけなんだけど。
「茅ヶ崎をそこまで夢中にさせられた証しってことかな。すごくよさそうだったな」
「バッ……そういうこと言ってんじゃないですよ!」
「じゃあどういうこと?」
う、と顔を真っ赤にして体を離す茅ヶ崎が、可愛くて仕方がない。こいつにつけられる傷なんて、傷のうちにも入らないのに、俺を気遣ってくれる茅ヶ崎が、本当に愛しい。
茅ヶ崎の爪痕は、俺にしてみたら幸せの証しなんだ。
髪を撫でて、抱き込むように頬に口づける。俺のそんな余裕が気に入らないのか、茅ヶ崎は口を尖らせて眉を寄せるんだ。余裕じゃなくて愛情だって、早く気づいてくれないか?
そうして茅ヶ崎は、何を思ったのか背中の傷跡に再度指を滑らせ、身を寄せて口づけてきた。濡れた舌の感触を覚えて、いったん収まった火がまたついてしまう。
「こら、茅ヶ崎」
責任を取れるのかと諫めたつもりだったが、茅ヶ崎の舌はついた爪の痕を癒やすように舐め上げる。くすぐったさと、痛みと、熱と、それを全部覆い尽くすほどの愛しさが広がっていった。
「つけた俺が言うのもあれですけど、早く治りますように。先輩の背中につくのは俺のキスマークだけでいいんですよ」
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。背中の両サイドについた傷ぜんぶに、祈りをこめて口づけてくれた恋人を、これからどうやって幸せにしてやろう。
抱きしめる他に方法が思いつかなくて、俺は情けなさに天井を仰いだ。
#両想い #ラブラブ #千至