- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.382, No.381, No.380, No.379, No.378, No.377, No.376[7件]
治りませんでした
ビカ、と鮮烈な光を放った数秒後に、ゴロゴロガゴンと空が騒音を響かせた。
「うわっ……えげつない……」
至はそれに会社の廊下の窓で遭遇し、思わず肩をすくめる。雨だという予報はあったが、ここまでになるとは予想していなかった。
「今の、どこかに落ちたかな」
横から声をかけられて、振り向きもせずに窓の外を眺めた。声をかけてきた相手も同じように立ち止まって、ガラスに打ちつけられる雨を眺めているようだった。
「ひどい降りになりそうですね」
「そうだな……茅ヶ崎、今日車だっけ?」
「あー、はい。定時で上がれそうなら、一緒に帰りましょ」
「うん。俺は問題ないけど、そっちは大丈夫なの? 予算案、できあがってないんじゃなかったっけ」
視線だけで、隣に佇む恋人――千景を見やれば、愉快そうな顔で覗き込まれた。千景の言う通り書類の提出どころか完成もしていない状況で、締め切りは本日17時。あと2時間もない。
「い、今からやろうと思ってたんです」
「はいはい、ちゃんと待ってるから。頑張れ」
そう言って、千景は至の手の中にチョコ菓子を落としていく。
コンビニでよく見かけるものだが、千景が食べているところなど見たことがない。それはそうだ、彼は甘いものが好きじゃない。自分のために買うことはないし、彼に好意を持っている女性たちはもっとお高いスイーツを贈ってくる。
となれば、これは。
(やばい、可愛い、どうしよう)
千景が、仕事に行き詰まっている至のために買ってくれたものだろう。ランチの際に買ってきたのだろうが、これを持ってレジに並ぶ千景の姿を想像して、どうしても口許が緩んだ。
(がんばろ。ちょっぱやで終わらせて、ご飯誘ってみようかな。今日なら激辛カレーの店でもなんでもつきあえる)
至は辛いものは苦手だが、そこは気持ちの問題だ。小さな菓子でも至のために選んで買ってきてくれたのだから、次は千景の好きなものをあげたい。
ゲームのために働いている至だが、終わったあとのことを考えて、嫌な仕事にウキウキ気分でデスクへ戻っていった。
「残業10分とはね」
エレベーターを降りてエントランスへと向かう。結局定時ぴったりに上がることはできなかったけれど、残っていた仕事量を考えればかなり頑張った方だ。
「待たせちゃってすみませんでしたねっ」
「いやいや、許容範囲だろ」
くすくすと面白そうに笑う千景の横を、同僚たちがお疲れ様~と通り過ぎたり、今帰りなんだ~ともったいぶった視線を投げかけてくる。相変わらずの人気者で、恋人としては鼻が高い。
やきもちを妬くこともあるけれど、今日はハッピーな気分でこっそり優越感に浸っていた。
「けど、本当に雨がひどいな……さっきちょっと止んでたのに」
「止んだの一瞬でしたね。今日車にして良かったわ~、駅まで歩くとか無理」
「スーツ濡れるしな。どうしても、足が。茅ヶ崎、ちゃんとクリーニング出せよ」
「……はーい」
車とは言え、敷地内の駐車場までは徒歩である。水が跳ねて裾が濡れるのはどうしようもない。
ビカビカと元気に光る空と、降りしきる滝のような雨。ときには風も吹いて、傘など無用の長物になる瞬間も。エントランスには、いつこの雨の中足を踏み出そうか迷っている同僚たちがたくさんいた。
「茅ヶ崎、走れる?」
「頑張ります」
「ハハッ、転ぶなよ」
そんな同僚たちの合間を縫って、至は千景とともに駐車場へと向かって駆けた。相合い傘をしたいなんて可愛らしいことを言える状況でもなく、一人一本ずつの傘を差して。
「あぁ~逃げ切った」
「お疲れ」
なんとか車に乗り込んだ数秒後、また雨足が強まった上に、強風も加わる。この視界の悪さでは運転も危険で、少し時間を置くことにした。
「先輩、ご飯どうします? もうちょっとマシになったらどこかで食べていきません?」
「そうだなぁ……雨だし、ちょっと憂鬱な気分飛ばしたいしね」
「雨、嫌いですか?」
「外に出てるときの雨はね。こうして中で見てる分にはそれほどじゃない。茅ヶ崎は雨嫌いじゃない?」
至は例によって携帯端末でいつものゲームにログインし、ミッション開始している。そんな中での会話も千景は気にならないらしく、車の外の雨の音を楽しんでいるように感じた。
「雨は別にいいんですけど、雷は滅べ派」
「へぇ? もしかして、こわ――」
「オンゲとか実況配信してるときに停電にでもなったら死ぬ」
「そっちか。さすが茅ヶ崎だな」
呆れたような笑い声が聞こえる。至にとっては重大で重要な事項だが、千景には理解しがたいだろうか。
「なんですか、怖いからとでも言えばよかったですか? すみませんね可愛くなくて」
「いや、茅ヶ崎は可愛いけど」
「はっ?」
聞き慣れない言葉が聞こえてきて、至は思わず助手席の千景を振り返る。
千景は、からかうふうでなく至をじっと眺めていた。ドアに腕を乗せてこめかみを指先で支える仕草がなんとも様になって、無駄に胸が跳ねる。
「可愛いよ。俺があげたお菓子ひとつでウキウキするところとか。俺と帰るために仕事頑張って早く終わらせるとことか、たまんないよね」
「酔ってます?」
「まだ飲んでない」
「たまに全力でデレるの心臓に悪いんですけど……動悸が激しい」
おかげでミッションが完了しなかった、と諦めてゲーム画面を閉じ、ステアリングに突っ伏す。
「じゃあ治そうか」
「へ?」
肩を掴んで体を起こされ、職場の駐車場だというのに、千景の唇が重なってきた。驚く暇もなく手のひらが心臓のあたりに当てられて、唇を撫でるように舌先が通っていく。
「先輩ここ駐車場……」
「この土砂降りじゃ見えないだろ」
「っていうか悪化したんですけど」
ジャケットを除けてシャツ越しに触れてくる手のひらは、どう考えても煽っているとしか捉えられない。恋人にこんなことをされては、食欲より性欲が湧いてきてしまう。
「雨……少し弱まってきたかな」
「はい」
「……行こうか」
千景は頬にキスをくれた。それは夜が始まる合図。
雷じゃ、ゲームをするのも怖い夜。
#両想い #ラブラブ #千至 #ワンライ
あまく、やわく
これから出張なんだ。
千景がそう言うのを、至はどこかで分かっていた。
というのも、ここがあまり使われない非常階段の踊り場だったりするからだ。みんなワンフロアの移動でさえ面倒がってエレベーターを使うものだから、ヒミツの逢瀬はいつもここ。
時刻と場所の指定をしたLIMEが飛んできた時点で予想はしていて、それを裏切らない言葉に安堵しつつもやっぱり寂しい。
「どれくらいですか?」
「四日」
「……長いですね」
四日の出張を長期と捉えるか短期と捉えるかは、相手との関係次第。別にどうでもいい相手ならば、そもそも気にしたりしない。恋人が相手ならば、たとえ一日でも長いと感じてしまう。
至は残念そうにしょんぼりと俯き、長く息を吐いた。
そんな至を見て、千景は苦笑する。そんな寂しそうな顔をしないでほしいと。
「連絡入れるから」
「はい……」
「稽古出れなくてごめんってみんなに言っておいて。誰かに何かあったら必ず連絡するように」
「俺が寂しくて死んじゃうのもですか?」
「そうだな」
千景がぐいと力強く抱き寄せてくれる。素直に身を預け、四日も感じられなくなる体温を存分じ味わった。
「茅ヶ崎、俺も寂しいのちゃんと分かってるのか?」
吐息とともに、千景の方からも残念そうな甘い声。ぞわ、と背筋が震えた。
「千景さん耳元でそういう声出さないでください」
「どうして……」
どうしてと言われても、照れくさいしむずむずするし何より軽いハグだけでは足りなくなってしまう。それを分かっていて、千景は耳朶を唇に挟むのだ。はむ、と柔らかく食まれ、かじ、と軽く歯を立てられては、本当に物足りなくなる。
至は少し体を離して耳を遠ざけ、責めるように千景を見つめ返した。
それでも千景は涼しい顔をしていて気にくわない。仕返しでもしてやろうかと、怒ったままの表情で千景にキスをした。
そうして、後悔。
触れるだけではやっぱり足らない。唇を舌先でつつき、入らせてとおねだりし、緩んだそこに入り込んで仲良しな舌の挨拶。舐めて、絡めて、時には噛んで。
「千景さん、気をつけて行ってきてください」
「うん。寂しくなくても電話しといで、茅ヶ崎」
そっちがするんじゃないのかと文句を言いたいところだが、お許しが出たのだからここぞとばかりに甘えてやろう。
#両想い #ラブラブ #千至 #ワンライ
たった一度のI love you-019-
そうして、必要な荷物を取りに、みんなでホテルへと向かう。
「わあ、すごい星……! 綺麗」
「本当ですね」
「うむ、詩興が湧くよ」
シトロンを無事に連れて帰れる喜びと、王宮への期待感は、星で埋め尽くされた夜空で拍車がかかる。建物を飾る優しいライトアップの光と、空から降ってくる星の光。
胸が痛むほどに美しい光景の中を、浮き足立つメンバーたちのかなり後ろから、至は千景の隣を歩く。
千景の足取りがゆっくりだ。一仕事終えて満足しているのか、空を見上げる横顔は、いつもより優しいものに見える。
「良かったですね、先輩」
「ん?」
「家族。みんな守れて」
「一時はどうなるかと思ったけど。お前のせいで」
「まだ言う」
「一生言うかもな」
ドキ、と胸が鳴った。千景にそんなつもりはないのだろうが、一生、言える距離にいるということかと、照れくさくて口許を覆い、顔を背けた。
「でも、よく考えたら、状況判断は上手いんだよな、茅ヶ崎は。ゲーム脳っていうか、ゲームで鍛えたせいなのか。実際、危なっかしいと思ったことは何度かあるけど、絶対に駄目だっていう行動はしなかった」
「え……」
「袖の下にしてもな。有効な相手とそうでない相手、ちゃんと見極めてただろ」
まさか、千景に褒められるとは思わなかった。確かに、ゲームでは状況判断の素早さと正確さが肝となってくる。気づかないうちに、それを発揮していたのだろうか。
「それに、生意気にも、俺が危ないことしないか見張ってただろ。怪我なんかしたらただじゃおかないって、睨みつけてきてた」
笑い混じりに、千景が音にする。それまで気づかれていたのかと、至は気まずさに足を止めた。千景についていった理由のうちの一つは、それだった。
守るべき家族が傍にいれば、千景はめったなことをしないだろう――罪も最小限、怪我などもってのほかだと。
至はどうしても、千景を無傷で家族の元へ帰らせたかった。罪を犯すことさえいとわない彼に、家族のために、家族に言えないことをさせたくなかった。
あからさまに表情に出したつもりはなかったのに、どうして千景には分かってしまうのだろうと、胸が締めつけられた。
「普通はあんな状況じゃ、足がすくんで普段どおりに動けないもんだけど。立派に相棒してくれた」
ぶわ、と熱が上がる。
至は項垂れて額を押さえ、息を何度も何度も飲み込んだ。あふれ出てきてしまいそうな想いを、そうすることでしか我慢ができない。
(無理、もう……無理、だめだ)
気持ちが高ぶって、千景に言われた言葉が嬉しくて、もうどうしようもない。
「茅ヶ崎?」
立ち止まってしまった至を不思議がって、振り向きかけた千景の背中に向かって二歩ほど歩み、彼の肩に額を押し当てた。
「……先輩、俺、今から戯れ言吐きますけど、聞き流してくださいね」
「え?」
カタカタと、顎が震える。喉が、泣き出したいほどに痛い。それ以上に心臓が痛くて、抑えていられない想いが、それを凌駕する。
「――好きです、千景さん。俺を連れてってくれて、ありがとうございました」
一生、言わないと思っていた。言わないと決めていた。千景を困らせたくない。拒絶されたくない。
何より、千景と触れられる時間を、終わらせたくなかった。
千景の体がびくりと揺れたようなのが、触れた肩から伝わってくる。
(ああ、うん、これで、終わる)
至は押し当てていた額を離して体を起こし、唇を引き結んで足を踏み出した。
「ち、が、さき」
千景を通り過ぎる瞬間、かすれた声で呼ばれた気がしたけれど、立ち止まってはいられない。踏み出す一歩を大きくして、千景の傍を離れようと試みた。
「茅ヶ崎!」
だけど千景に手首を取られ、それ以上一歩も行けない。至は俯いて、声を絞り出す。
「聞き流してくださいって言ったでしょう」
「聞き流せないから引き留めてるんだ、茅ヶ崎、今のは」
「分からないほど鈍くないでしょ、先輩! あんなこと、何度も言いたくないですよ!」
千景の顔を見られない。言うつもりのなかった言葉を言ってしまった。自分の意志の弱さを実感して、至は歯を食いしばった。
「笑ってくれても、いいですから、手、放して……!」
「茅ヶ崎、落ち着け、俺の話を」
「やめてくださいよ、同情とか、そういうの、余計に惨めになるだけ――」
「聞け茅ヶ崎! 一度しか言えない!!」
ぐい、と強い力で引かれ、至の足は地面で踊る。あ、と声を上げる暇もなく、千景の力強い腕の中に、閉じ込められていた。
背中に、千景の温もりを感じる。肩口に、千景の髪の感触を覚える。抱きしめてくる腕がほんの少し震えているようにも思えて、至はそこから動けなくなった。
「……お前を、……愛してる、茅ヶ崎」
絞り出すような千景の声に、目を見開く。息が止まったかのようだった。
ぎゅっと強く抱いてくる腕の強さは、その想いの強さを表しているようで、至はカタカタと顎を震わせる。
お前を、愛してる。
誰を? 俺を?
千景の声を頭の中で反芻して、至は自分の状態を改めて認識する。
背後からがっちりと抱かれ、せめてこの言葉だけは聞いてほしいと願う千景の、静かな呼吸が聞こえる。
(先、輩)
至はゆっくりと自身の腕を持ち上げ、抱きしめる千景の腕に触れてみる。
消えていかない。これは確かに現実だ。
(……千景さん)
逃げないからとなだめるように千景の腕を撫で、そっと外させて、千景の右手と自分の左手を重ね合わせ、指を絡めた。
千景の腕の中でゆっくりと体の向きを変え、正面から互いの顔を確認する。
どんな顔をしているだろうかと思っていたが、いつもと変わらない。変わらないほどに、いつも想っていた。お互いそれが〝日常〟だった。
どうして、こんなに簡単なことに気がつかなかったのだろう。どちらからともなく唇を寄せ、満天の星の下、触れるだけの口づけを交わした。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-018-
迷路みたいだった王宮を走り、劇場の地下へとたどり着く。そこには、先ほど袖の下でたらし込んだ兵士とは、明らかに出で立ちの違う男たちがいた。
「警備兵多過ぎ……あれは酒じゃごまかされてくれませんよね……」
シトロンがいる奈落へ行くには、あの男たちをどうにかしなければいけないのに、簡単には通してくれなそうである。
「茅ヶ崎、ちょっと目つむってて」
至の手を放し、千景はまっすぐに男たちを見据える。鋭いその目つきは、卯木千景としてのものではなく、エイプリルとしてのものなのだろうか。
「それは物理的な意味で? それともこれから行うであろう犯罪行為に関して?」
「両方の意味で」
「ラジャ」
そう答え、一瞬目は閉じたものの、至は約束を守らなかった。
千景が至から目を逸らした瞬間に、目蓋を開ければ、千景の足が床を踏みしめ、素早く男たちに駆け寄るところだった。
「うわっ、な、なんだお前は!」
直後、男のひとりが、妙な声を上げてうずくまる。どうやら容赦ない肘を食らったらしい。千景はそれだけでは不十分だと、うずくまった男の首の辺りを蹴り落とした。
そうしてそのまま、右足を軸にして腕を振る。手刀は喉を突き、左足は腹を蹴り飛ばす。休む暇もなく、千景のつま先は男のこめかみを蹴りつけ昏倒させた。どこを攻撃すればいちばん効果的か、千景には分かっているのだろう。
次々と繰り出される技に、至は自分が受けているわけでもないのに痛みを感じ、目を背けそうになった。
唇をきゅっと引き結び、コクリと唾を飲む。
(……これが、先輩の世界なんだ)
千景はこうして、大切なひとを守っている。その場に共にいられる機会など、この先恐らくないだろう。彼の動向のひとつひとつを、じっとその目に収めようと思った。
(お芝居してる時とおんなじ、真剣な目だ……良かった、あの人はここにいる)
千景は、好きで人を傷つけているわけではない。そんなものに快楽を見いだす男ではない。暴力沙汰は好きではないが、ホッとした。
卯木千景が、そこにいる。エイプリルを含む、卯木千景というひとりの男だ。
「……目、つむってろって言っただろ」
あれだけいた警備兵をすべて伸のして、千景は至を振り向いた。
至が目を閉じていないことは、とっくに気がついていただろうに、終わってから指摘してくるあたり、怒ってはいないようである。
「死んで、ないですよね」
「ああ、息はしてるよ。別に、殺さなきゃいけないほどの相手じゃない」
「それは良かっ――」
千景の背後で、ゆらりと動く影がある。
死んでいないということは、まだ攻撃可能な状態だということだ。
「せんぱっ……!」
とっさだったと思う。
至はポケットからナイフを抜いて、千景の背後に向かって投げた。
「使うなって言っただろ」
だけどそれは、千景の顔の横で、彼自身の手で受け止められる。
次の瞬間、彼はその刃を握ったまま体を翻した。振り上げたナイフは千景の手を離れて、恐ろしいほどのスピードで、男の腕を突き刺した。
「ひぎゃっ……ああぁあ!」
「う、わ」
予測していなかった攻撃に、男から悲鳴が上がる。暗がりでも分かる血の色に、至は思わずうめいた。
千景はナイフを投げた方とは別の手で、至の目を覆ってくる。チ、と小さな舌打ちが耳に入った。
「行くぞ茅ヶ崎」
「……すみません」
「まったくだ。あんなことさせるために、護身用のナイフ渡したわけじゃない」
奈落へ向かって走る千景の背中を追いながら、あまりの非日常に鳴る心臓を抑える。
至の力では、そもそも相手のところまで届かなかっただろう。それを補うのと、至の手を汚させないために、千景がナイフを受け止め、投げ直すことになってしまった。
結局足を引っ張っただけだなと、至はしょんぼりと落ち込んだ。
「でも、……ありがとうな、茅ヶ崎」
「え、あ? あの、いえ、別に……」
前を行く千景から、思いもよらない言葉をかけられる。思わず口を覆って、叫び出してしまいそうな衝動をどうにか押し込めた。
シトロンを無事に助け出してからも、一騒動あったのだが、カンパニーとしてはいちばん望んだ形に落ち着いた。
シトロンの王位継承権は?奪され、国際芸術文化大臣という名目で日本への滞在を許された。従者だったガイも、シトロンのただの友人になれた。
王位継承権を?奪されたというのを、喜んでしまっていいのか分からなかったが、シトロン本人の顔は、今までにないくらい清々しくて、落ち着いて、大人びていた。
咲也なんかはボロボロと大粒の涙を流して喜び、綴も目頭を何度もこすり、真澄でさえが目を潤ませて、家族の無事の帰還を喜ぶ。
そうして至は、少し離れたところで満足そうに、幸福そうに口の端を上げる千景を見やって、ホッと胸をなで下ろした。
(よかった、家族そろった……あの人が嬉しそうで、ホントに良かった)
まあ、黙ってひとりだけ千景についていったことを、他のメンバーにしこたま怒られはしたのだが、素直にごめんと謝った。
助け船も出してくれなかった千景を憎らしくも思うが、ついてきたのはお前の勝手だろう、なんて言われてしまえば、反論もできない。
「じゃあ、明日は帰国日だからね! はしゃぐのもいいけど、明日のことも考えて、ゆっくり休んで」
監督であるいづみの目も、涙で濡れていた。
だが、今回のシトロン奪回公演は、ひどく強行軍なスケジュールであることを思い出して、みんな一様に引きつった笑いを浮かべている。
平気な顔をしているのは、海外出張が多く慣れている千景くらいだ。
「みんな、王宮に泊まってほしいヨ」
「え? でも」
「おひたしおひたしの記念、部屋はたくさんあるネ~。使わないと痛い痛いだから、みんなを使うのが一番ダヨ~」
「めでたしだし、みんなが、だろ、違ってんのか違ってないのか分かんないけど!」
「Oh……ソーリー! みんなが、の方にしとくネ」
綴が、シトロンの緊張感のなさに呆れ、いづみが現国王の方を振り向く。そんなことを勝手に決めてしまっていいのだろうかと。
「構わない。シトロニアの家族ならば、国賓の扱いをするべきなのだろうが、手が回らなくて申し訳ない」
というようなことを、ガイが通訳してくれる。許可が下りるのならばと、いづみは頭を下げた。
「ふふ、王宮に泊まれるなんて、この先一生ないんじゃないかな?」
「貴重ですよね。シトロンくんに感謝しなきゃ」
「アンタと一緒の部屋なら、どこだって天国」
「そういうのはないから」
「お、王宮とかホント……慣れないっていうか」
「慣れてるヤツの方が稀だろう」
「どこでもいい……寝たい……」
「こらこら密くん、ここはまだ部屋ではないのだよ、起きたまえ」
「じゃあ、ホテルから荷物持ってきましょうか!」
王宮に寝泊まりするという貴重な体験を前に、メンバー全員がそわそわした様子だ。いつも落ち着いている東でさえが、緊張しているようで、それこそ貴重なものを見たと思わせる。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
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背中の方から湯をかけて、腕についた泡を流す。抱くように腕を回して、お腹にもシャワーを当てた。
「先輩、泡落ちました? 大丈夫ですか?」
千景から声は返ってこない。代わりに、こくんと頷かれる。
至は千景の右足に、左足に、順番に湯をかけて、泡を洗い流していった。最後に背中をさっと流して、湯をはじく肩にちゅっと口づけた。
「はい、いいですよ。先輩中入ってて」
そう言ってぽんぽん肩を叩けば、千景はゆっくりとした動作でバスタブの中に身を沈めていく。
今回わりと重症かなと思うのは、従順すぎるからだ。
「先輩、頭こっち。ここに乗せて。ん、大人しくしててくださいねー」
至の指示に、千景は何も言わずにバスタブの縁に頭を乗せてくる。至は目を閉じたままの千景を眺めて、シャワーの湯で彼の髪を濡らした。
「熱くないですか?」
「……平気だ」
ようやく、ぼそりとひとこと。至はそれにハイと答え、撫でるように髪を梳き湯を浸透させていく。
シャンプーで千景の髪を洗う。髪の上で泡立つシャンプーの香りは、いつものにおいと違っていたが、そんなことを気に留めている場合ではない。
「茅ヶ崎……」
「はい?」
「……悪い」
「それお風呂入る前にも聞きましたね」
ふ、と笑う吐息でやり過ごす。
数か月に何度かのペースで、千景がこんなふうになることがある。
〝仕事〟を終えてきた後なのだと分かっているが、具体的に何をしているのか、何をしてきたのか、訊いたことはない。
気にならないわけではないが、至にはそれよりもっと大事なことがある。
怪我をしないで、自分のところに戻ってきてくれた。ただそれだけでいい。
ホテルの部屋に入ってきた千景から、埃っぽさと血のにおいを感じたことも、最低限の動作しかしないことも、それですべて吹き飛ばせてしまえる。
至は千景の髪を洗い流しながら、トリートメントを施して額にちゅっとキスをした。少し時間をおいている間に自身の体を洗うのだが、
「茅ヶ崎」
「いますよ」
「……うん」
たまに、千景から確認される。物音は立てているのだし、千景が気配を悟れないわけはないのに、声で、確認されるのだ。そこにいることを。
「茅ヶ崎?」
「いますってば」
「……ん」
「さみしがり屋さんですね」
言って、少し冷えてしまった肩にキスを落とし、千景のトリートメントを落とす。自身の体の泡も洗い流し、千景の体の冷えた部分に熱い湯をかけてやってから、楽な体勢に変えさせた。
「もう少し待っててください」
頬に口づけて、自身の髪を洗う。最小限の時間に抑え、洗っている姿をじっと眺めてくる千景の元へ滑り込んだ。
「面倒にならないか? こんなこと」
「先輩相手じゃなきゃね。とっくに投げ出してますよ」
少し落ち着いたのか、背中から抱きしめた千景から声が漏れる。コツ、とこめかみをぶつけてやって、至は笑う。
確かに最初は戸惑った。どこまで触れて良いのか、どこまで許されるのか、少しも分からなかったからだ。
初めて千景がこんなふうになったところを見た時は、慌てて救急車を呼ぼうとしてしまったくらいだ。いいから傍にいてくれと頼まれて、千景の望みが見えた瞬間、ただ抱きしめていた。
こうして風呂に入ることも最初は千景に拒否されて、少しずつ、ゆっくり、間合いを詰めてきた。体に触れられることさえ厭わしかったようで、やんわりとはねのけられたことだってある。
触れられたくないと呟く千景を抱きしめて、何度も耳元で囁いたことを覚えている。
〝大丈夫〟と。
何が大丈夫なのか、具体的に説明はできない。いろいろな意味がありすぎて、三日三晩かかりそうなのだ。
体を洗わせてくれるようになるまでも、時間がかかった。特に腕は相当の葛藤があったようだが、一度そこに口づけたら、力が抜けていったようだった。
「本当にお前は……馬鹿な男だな」
「先輩に言われたくないですし」
触れることを、傍にいることを受け入れてくれた千景を、こうして抱きしめていたい。千景が何者であっても、何を隠していても、この手が血に濡れていても、ただ傍で抱きしめていたい。
風呂で体の汚れを落とし、温まり、一緒に上がって体の水分を拭き取り、至が千景の髪を乾かす。
「先にベッド行っててください」
「……一緒に……」
「あぁはいはい、分かりましたから。可愛いなくそっ」
自身の髪を乾かすからと、千景にベッドを促しても、離れようとしない。一度気を許してしまえば、千景はとことんハマり込むタイプのようで、最近はこんなふうに甘えてきてくれる。
至はドライヤーの温風で髪を乾かし、終えた後に千景の手を取った。そうしてベッドに向かい、先に寝転がった。
千景に向かって両腕を伸ばし、促す。
「ほら、千景さん。一晩中、ぎゅーってしててあげますから」
ためらう素振りを見せる千景の指先を自身のもので絡め取り、軽く引いてやる。この期に及んで何を遠慮しているのかと。
「千景さんに甘えられるの、わりと好きなんですよ、俺」
ややあって、ベッドが千景の重みを受けて、ぎ、と音を立てる。至は宣言通り千景の体をぎゅうと抱きしめ、そっと髪を撫でた。
「茅ヶ崎……」
「なんです?」
「お前がいてくれてよかった」
千景がこんなふうに素直に、胸の内を言葉にするなんて、年に何回あることだろうか。心臓がきゅうと締めつけられて、愛しさが募った。
恋人同士であって、なんの邪魔も入らないホテルの部屋で、ただ抱きしめ合って眠るだけでも、充分に満たされる思いだ。
至は千景の髪を撫で、同じシャンプーの香りがするそこに口づける。
「おやすみなさい、千景さん」
千景のすべてを知ることはできなくても、誰も知らない千景を知っている。
それだけで、この先も千景を抱いて寝るだけでいいと思えてしまえる。
一度気を許したらとことんハマり込むのは自分も一緒かと、幸福な気分で苦笑した。
#両想い #千至 #ワンライ