- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.363, No.362, No.361, No.360, No.359, No.358, No.357[7件]
たった一度のI love you-004-
「俺たち、お互いのこと本当に何も知らないんですね、先輩。あんなにセックスしてるのに、先輩は俺の欲しいものなんか分からないし、俺も、先輩が何を望んでいるのか分かりません」
「俺が望んでいるもの? これ以上踏み込んでくるなってだけだ。分かりやすいだろう。だから、対価を言えと言ってるんだよ」
「未発売のゲームもテストプレイの権利もいりません。正規に手に入れたものならまだしも、絶対違うでしょう」
例えば未発売のゲームをできたとしても、誰にも話せない。ネット上でも盛り上がって楽しめない。そんなもの、欠片も欲しくない。
(ほらな万里。両想いだなんて、お前の勘違いだよ。好きな相手が、そんなもの欲しがってるとか思わないだろう、普通……)
分かっていたことだけれども、こうして実感させられると、胸が痛い。
少しでも想う心があるのなら、そんな不正を提示してくるはずがないのだから。
(なんで、こんなに近くにいるのに……!)
胃の中が焼けただれそうに熱くて、痛い。体の中から引きずり出して、這い回る黒い気持ちを全部、洗い流してしまいたかった。
「昨日のカクテル……」
だけどそんなことは物理的にできない。何度か深呼吸をして、膝の上で手を組み、視線を泳がせる。
その視線の先で、どうしてか、千景の指先がビクリと固まったように見えた。
「あれの意味、〝最後〟ってことなら、取り消してください」
「……え……?」
「取り消して、ください。最後になんかできない」
昨日、千景と?がった。
今まででいちばん優しい行為だった気がするけれど、だからこそ、最後になんかできない。してほしくない。
「俺が、欲しい、のは……」
至はゆっくりと腕を上げて、人差し指で千景の唇に触れる。
(俺が欲しいもの)
ほんの一瞬、千景が目を瞠った。
言えなかった。言うつもりもなかった。
「キス……、と、セックス」
でも――言ってしまえばよかったとも思う。卯木千景が欲しいのだと。
「……先輩、抱いてください」
思えば、明確に口にしたのはこれが初めてだった。
いつも、いつでも、ろくに大事な言葉もかわさず?がってきた。今さら千景に求めるのは、卑怯だ。
心がもらえないのは知っている。だからせめて、千景に教えられた快楽を、まだ終わらせないでほしい。それは至の、本音だった。
「茅ヶ崎」
「先輩のせいで、これハマっちゃったんですから、責任取ってくださいよ」
冗談めかしてそう呟けば、千景の指先が、至のしたように唇に触れてくる。
息を吐く暇もなく重ねられて、至は目を閉じた。触れるだけの唇を煽るように吸えば、仕返しのように吸われて、舐められて、唇の形を確かめるように食はまれる。
「は……ぁ、ふっ」
「んん……う」
もっと深く千景が欲しくて肩に腕を回せば、その手のひらはジャケットの隙間から忍んでくる。シャツ越しに胸を撫でられるだけでも、簡単に熱が上がって、羞恥が這い上がってきた。
「んっ……んぅ」
「は、はぁ、ん……」
それでも唇が離れきる瞬間などなくて、吸い合う濡れた音が、車内に響く。触れ合う衣擦れの音が混ざる。
「んッ……!」
腕を回されて抱き込まれ、至はびくりと肩を揺らす。まるで初めて触れ合うような錯覚に陥り、体が強張った。
まさかこんなところで、という思いと、そんなものかなぐり捨てて触れ合いたい思いが交錯する。ドキンドキンと高鳴る心音を千景に悟られてしまう――と押しやるのに、千景はさらに手のひらを押しつけてくる。
こんなに狭い空間で密着していれば、心音なんてとっくに悟られているだろうし、気づかない男ではないと分かっていて、無駄なあがきをした。
「はあっ、せん、ぱ……待って、ここじゃ」
「……っ分かってる、お前が煽るからだろ、馬鹿」
「俺だけの、せいに、しないで、くださいっ」
吐息と一緒に抗議をすれば、ようやく千景の唇が離れていく。彼の呼吸もひどく荒れていて、それさえ刺激に?がってしまった。
どちらが先に欲情したのか、もう分からない。
正直、もっと車の通りがなくて、人が来ないような場所だったら、このままここで?がってしまっていたかもしれない。
千景は体を離し、エンジンをかけ直す。
至はそんな千景の横顔を見て、はしたなくも欲情した。昨日あんなに濃密に体を?げたのに、まだ足りない。少しも満足できない。
そう思うのは、心が?がっていないからだろうか。
(でも、もし……万が一、先輩と恋人みたいなものになっても、先輩を欲しがるのは変わらないんだろうな)
そんなことは起こり得ないのだろうけど、と思うが、夢を見てしまう。
こんなに近くにいるから、もしかしたらと期待をしてしまう。
ゲームの中のレアカードよりも、遥かに現実的なのに、恋愛イベントに発展する確率は低い。だからこそ、逃したくない。
至はステアリングに乗った千景の左手にそっと触れる。そうしてその手を持ち上げて、コンソールの上で指を絡めた。
「……茅ヶ崎?」
「先輩、こうしとかないとすぐどっか行っちゃうでしょ」
「……なんだそれ」
「片手じゃ運転できないなんて、言わないでくださいね」
「平気だけど、危なくなったら振り払うからな」
「……分かってますよ」
たぶん、運転のことではないのだろうなと思い、痛む心臓をごまかすように外の景色に視線を移す。
コンソールの上で千景の手をきゅっと握ったら、向こうからも同じだけの力で握り返されて、心臓が飛び出そうなほど驚いた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-003-
自分のデスクから、千景のデスクをちらりと見やる。相変わらず仕事をそつなくこなす〝エリート〟を、ほんの少し恨みがましく睨みつけてやった。
まだ怪我が治っていないはずなのに、涼しい顔をしている。
いや、良くはなっているのだろう。そうでなければ、昨夜あんなに情熱的な行為をしかけてくるはずがない。
昨夜の情事を思い出しかけ、ハッとして唇の手前でぎゅっと拳を握った。
(駄目だ、思い出すな。気づかれる)
また千景を目で追ってしまう。
(隠せ、押し込めろ、できるだろ)
劇団の連中ならまだしも、職場にこの関係を知られるわけにはいかないのだ。
至はふるふると首を振って、千景のことを考えたがる意識を、無理やり散らす。
そうやって、なんとか一日の仕事を終えた。
さすがに今日は千景からランチの誘いはなくて、忙しかったのもあって、コンビニで買ってきた弁当をデスクで食べた。
千景のことを考えないですむのは好都合だったけれど、仕事が終わってしまえばまた、あの男は至の意識を支配する。
本当に憎たらしい男だ、とエレベーターに向かった。
「茅ヶ崎、今日はもう終わり?」
声をかけられて、ドキ、と胸が鳴った。相手が千景なのだから、そうなっても不思議はない。至は精一杯に平静を装って、千景を振り向いた。
「午後に結構スムーズに進んだので。先輩も、今帰りですか」
「まぁね」
数人の同僚たちとエレベーターに乗れば、みんなそれぞれに仕事の話をしている。こういう時、自社ビルだというのはありがたい。他の社も入っていれば、共有部分での仕事の話は御法度だ。
至はエレベーターの奥の壁にもたれ、表示階数が減っていくのを、千景の隣でぼんやり眺めていた。
「お前がデスク立つの見たから、追ってきた」
だから、ぼそりと小さく呟かれた千景の言葉に、すぐには反応できなかった。
ぎ、と音がしそうなほど硬い動作で千景を少し振り向けば、眼鏡越しに冷たい視線が振ってくる。
「今日は俺が運転してやるよ、茅ヶ崎」
たぶん至にしか聞こえないだろう囁きに、指先が冷えていく。普通の恋愛であれば、好きな人と一緒に車で帰れると喜ぶところだろうが、千景が相手ではそうもいかなかった。
「……はい」
エレベーターが一階に着く。他の人たちに続いて降り、駐車場へと向かう。
重い足取りは、改めて終わりを告げられる可能性から逃げたいからだろうか。
「茅ヶ崎、鍵」
言われてひょいと投げると、千景は慣れた仕種で受け取る。
聞き慣れた電子音とともにロックが外れるが、至は自分の車の助手席のドアを開けるという行為に、違和感を覚えた。
「ドア、開けてやればよかったか?」
「……結構ですよ。俺は先輩のオンナじゃないんで」
諫め合うような言葉を交わし、至はドアを開けて助手席に乗り込む。別にそんなエスコートを望んだわけではなくて、これからされるであろう話の内容に、今から落ち込む自分が情けなくて仕方がないだけだ。
(別れ話、か……いや、つきあってもないのに、それはおかしいけど)
昨日飲まされたXYZの味が、まだ口の中に残っているような気さえしてくる。至は無意識のうちに指先で唇を撫で、あのグラスの冷たさと、千景の唇の温度を思い起こした。
そっと静かに、車が走り出す。
何度か千景と一緒に通勤したことはあるが、そのどれもが至の運転だった。さすがに先輩の運転で通勤するのは忍びないということもあったし、千景が運転免許を持っているかも知らなかった。
「免許、持ってたんですね」
「海外での仕事が多かったから、日本での右ハンドルにはまだ慣れないけどな。ちなみに俺の免許は偽造だよ」
流れにそって、千景はアクセルを踏む。
ハンドルと席の位置に慣れないというのは、理解ができる。
だけど、免許が偽造だという言葉には、なんと返せばいいのか分からなかった。年齢の問題ではないだろう。恐らく持病の関係もないはずだ。
「偽造、って……」
「身元が簡単に分かるものを、俺が持っているわけないだろう。それに卯木千景という名前も、俺の本当の名前じゃない」
ぎゅう、と心臓が締めつけられるようだった。
千景が裏の仕事をしていることを、ちゃんと実感したのはつい昨日のことで、そこまで頭が回っていなかった。ガンガンと頭を殴られているような衝撃に襲われて、至は膝の上でぎゅっと拳を握る。
(名前も……本当のものじゃ、ないんだ……密は、知ってるんだろうか……)
千景のことで知っている事実など、自分にはないような気がしてきた。
名前も、生活も、もしかしたら年齢だって、すべてが作られたものかもしれない。
「なんで……俺に、そこまで話すんですか。知りすぎたからって、昨日あんなもの飲ませたくせに」
「スリルのある非日常は、好きじゃない? 中二病患者だろ、茅ヶ崎は」
「お気遣いをどうも」
くくっと楽しそうに笑う千景の横顔さえも、偽りのものに思える。至は千景から視線を逸らし、窓の外を流れる景色に意識を向けた。
「卯木千景っていう名前は、誰がつけたんですか? これは、NG?」
「はは、お前本当に怖いもの知らずだな。普通は空気を読んで、何も訊かないところだろ」
「空気読めない後輩ですみませんね」
「……その名前は、俺の大事な家族がつけてくれた。血も?がってない、俺の――俺たちの、大事な家族だった男がな」
と千景の指先が、ゆっくりとしたリズムでステアリングを叩く。速度は違うものの、あの家のノックのリズムと同じだった。
その人とは、あの家で一緒に過ごしていたのだろうかと考えるが、恐らくここは踏み込むべきところではない。また千景の傷をえぐるようなことになる。
至はそっと目蓋を伏せ、ゆっくりと持ち上げた。
「じゃあ……、偽名にしても、先輩にとっては大切なものなんですね」
彼の、本当の名前はなんだろう。そうは思うものの、それほど気にはならなかった。至が出逢ったのは、他の誰でもない、〝卯木千景〟という男だからか。千景が言いたければ聞くだろうが、至がその音で呼ぶことはないだろう。
ふと視線を感じて振り向けば、探るような目をした千景がいた。
「なんです?」
「……いや……つくづく思うが、おかしな男だな」
「先輩のことですか。確かに」
「お前だよ」
車の量が少なくなって、流れはスムーズなもの変わる。それなのに、千景は車線を変更してスピードを緩めた。
「先輩?」
「普通は、偽名である理由とか、本当の名前とか訊くものじゃないのか」
「先輩が言いたければ、どうぞ。聞きますよ、大人しく」
ほんの少し、沈黙が流れる。
言いたいことではないのだろうなと、至は短く息を吐いた。
「俺と先輩の関係に、それはどうしても必要ですか?」
本当の名前など知らなくても、生きていける。たとえ偽名でも、呼んで返事をしてくれればそれでいい。
無理に話すことはないと、それで示したつもりだった。
千景は車をゆっくりと路肩に停め、エンジンを切った。ついに切り出されるのかと、至は顔を背ける。
「茅ヶ崎」
千景の声が、いつもより大分低い。太腿の上で握った拳に、じんわりと汗がにじんだ。
「万里に、どこまで話したんだ」
「え?」
「昨日、あの後。何も訊かれないってことはないだろう」
「素直に言いましたよ。……先輩とはセフレなだけってこと」
素直に言った、と口にした瞬間、千景を取り巻く空気がピリッと張り詰めたような気がした。彼が気にしていたのはその部分だったのかと、ようやく気がついた。
「だって俺の妄想なんか話しても仕方ないでしょ。アイツはそういう遊び、付き合っちゃくれませんからね。どっちかって言うと、紬の方が中二エチュードしてくれますよ」
至が、千景の真実を話すと思ったのだろうか。まだ欠片ほどしか知らないだろう、千景の真実を。
(そんなもったいないことできるかっての……)
千景の秘密をほんの少しでも知っているという事実は、至に優越感に似たものを味わわせてくれる。
ひどく個人的な秘密を暴かれることの胸くその悪さと、その後に起こる空虚さを知っているから、誰かに千景のことを話そうとは思わなかった。
「お前が頭のいい人間で助かったよ、茅ヶ崎。そうじゃなきゃ、お前を消さなきゃいけないところだった」
ステアリングから外れた千景の手が、至の喉元に伸びてくる。〝消す〟というのは、社会的にという意味でなく、物理的にということだろう。冷えた指先が、襟をやり過ごして素肌に触れてきた。
だけど至は、身をよじることもせず、目を逸らすこともなく、じっと千景を見つめた。
千景がそんなことをするはずがないという思いでなく、まっすぐに見つめてくる千景から、視線を逸らすのがもったいなかっただけだ。
千景の意識すべてが、今この瞬間、自分だけに向かっている。それだけが幸福だった。
「……冗談だ。少しくらい怖がれ」
「先輩の思い通りになるとか、癪なんで」
「だろうな。安心しろ、お前に何かしたら、密が黙っていない。面倒なことになるのはごめんだ」
千景はそう言って、運転席に深く腰をかけ直す。
密が至を気にかけてくれているのは知っているが、千景の口から密の名が出るたびに、胃が重くなり心臓がざわつくのは、馬鹿げた嫉妬だ。
「密が黙っていないから、……ですか。じゃあ先輩個人としては、俺を消したい?」
「そうなっても仕方ないことがあればな」
千景の目がすっと細められる。
密をねじ伏せてでも、必要ならば千景は平気で喉を絞めてくるのだろう。まだそのラインには踏み込んでいないということか。
至は「言いませんよ」と口を開きかけたけれど、
「口止め料、何がいい?」
そうする前に千景の声に遮られた。
至は目を瞠る。
取り引きをする際に、対価が必要なのは分かっている。仕事でもゲームでもそうだ。何かと交換、というのは、理解ができる。
だけど、分かってはいても、ショックだった。対価を払わねばならない相手だと思われていることが。
千景へ向かっていく恋心を知らないのだから、当たり前だ、仕方ない。
そう思う気持ちと、そんな人間に見られていたのかという沈んでいく気持ちが、至の中でごちゃ混ぜになる。
「欲しい……もの」
「何でもいいぞ? 発売前のゲームデータとか、テストプレイの権利とか。そういうの好きだろ」
至はドアに肘をかけ、目元を覆った。ぎり、と歯を食いしばりたくなる。
千景の中で、茅ヶ崎至という人間は、そういうものを欲しがるように見えるらしい。いや、あれだけ廃人レベルのゲーマー姿を見せていれば、それも仕方ない気がする。
「いりませんよ、そんなもの……」
それでも、もう少しくらい分かってほしいと思う。腹の底から絞り出すような声を上げて、千景を責めた。
(ふざけんな、殺すぞ鈍感。なんでこんな人なの。なんでこの人なんだよ……!)
こんなに想っているのに、少しも気づいてくれない。
気づかれてしまっても困るのに、わがままな思いだけが体を巡った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-002-
至は翌朝、一人きりの部屋で目覚めた。触れて確かめずとも、千景のベッドは冷えているのが分かって、昨夜は帰ってこなかったのだと知れる。
(まあ、そうだろうな。気まずい、だろ……)
顔を合わせなくて済んだことに安堵する。
だけど顔が見たかった。複雑な気分だ。
至はベッドを降り、身支度を調えてダイニングへと向かった。
テーブルでは万里が、トーストされたパンをかじっており、ひらりと手だけ振ってくる。
高校時代には、朝から登校なんかかったりィなどと言っていた男も、大学でやりたいことを見つけたらこれだ。いい傾向である。
(お)
そうしてその向かい側に、紬の姿。それはいつからか見慣れてしまった光景だったが、至を視界に認めた途端、恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまった。
(ははぁー、ナルホドね)
恐らく昨日、関係を打ち明けてしまったことを万里から聞いたのだろう。
別にからかうつもりもなかったが、そんな愉快な様子を見てしまっては、うずうずと悪戯心が這い上がってきてしまう。
至は、あえて紬の隣に腰をかけ、にっこりと笑ってみせた。
「おはよ、紬」
「お、はよう、至くん」
「……ったるさァん」
「はは、ごめんごめん、怒るなって」
万里の鋭い視線と低くなった声音に、両の手のひらを向けてみせ、ホールド・アップ。こんなことで争うつもりはない。
万里が理解してくれたように、至自身も彼らの理解者でありたい。
「紬、万里に泣かされたらいつでも相談きていいよ」
他の団員もいる手前、こっそりと紬に耳打ちすると、彼は驚いたように、目を見開いて振り向いた。そうしてはにかむ顔は、現在の彼の幸福さを物語っている。
「うん、ありがとう。今のところ大丈夫かな」
「……誰が泣かせっかよ」
ぼそりと呟いた万里の声は、本当に小さかったが、至にも、もちろん紬にも聞こえてしまった。恥ずかしさにか、紬は両手で顔を覆ってしまう。
幸せそうだなあと、あんなことのあった翌朝に、至はじわりと胸を温かくした。
そうしていつも通りの朝食を終える。カレーじゃなくてよかったと思うのは、どうしてもカレーから千景を連想してしまうからだ。
(でも、カレーじゃなくてよかったって思う時点でもう、先輩のこと考えちゃってんのワロ。……昨夜は、向こうで寝たのかな……)
それでも千景のことを考えてしまう自分が情けなくて、玄関で苦笑を漏らす。今日は電車でゲームに励む気にもならないし、車で行こうとキーを握りしめたところへ、声をかけられた。
「至くん」
「紬? どっかの客演稽古? 乗っけてこうか。まだ時間あるし」
ゆったりとした朝食を終えてきた紬だった。
彼は家庭教師のアルバイトをしているが、まさか平日この時間から家庭教師もないだろう。そうなると、時おり呼ばれる客演関係だ。そちらの稽古に行くのかと思いそう返したが、紬はふるふると首を振った。
「あの、その……ごめん、至くんのこと、万里くんに聞いちゃって」
気まずそうに視線を背けられ、ああそうかと至は肩を竦めた。
万里との関係を話したことを聞いた際に、至自身の恋も聞いたのだろう。それはごく自然な流れであり、万里を責めるつもりもないし、紬に口止めをするつもりもない。
「別に、紬が気にするようなことじゃないだろ。俺だって紬たちのこと聞いちゃったんだから、おあいこだって」
「うん……でも、ちょっとびっくりしちゃって」
「だろうね。こっちは一方通行だし」
一緒に玄関を出て、車までの短い距離を共に歩く。
知られてしまった恋心は、なぜか至自身、すんなりと受け入れられる。
今まで、千景を好きになるのはいけないことだと思っていた。今でも、少なからずそう思っている。
だけど、この想いを知っている男の誰もが、一切否定をしてこない。否定したがったのは、たぶん至ひとりだ。いけないことなのだと思うことで、意図的に千景から逃げてきたような気さえする。
「でも、誰かを好きになるっていうのは、いいことだと思うよ。叶うにしても、叶わないにしても。俺は運良く叶ったっていうか、気づいた時には好きになられてて、なってただけだし」
「そうなんだ。今度聞かせて、紬たちの話」
「うん。至くん、あの……、千景さんて、大丈夫……?」
「――え?」
紬の言葉が歯切れ悪くなる。至は息を飲んだ。
紬は、千景の何かを知っているのか。
以前の拉致事件の時に、密から何か聞いているのかもしれない。同じ組にいるのだから、そういうやりとりがあっても、おかしくないはずだ。瞬時に、いろいろな仮定が頭の中を廻った。
ここは、なんと言うべきなのか。千景のことは知っているふうに返せばいいのか、それとも何も知らないふりをしていればいいのか。
(どっちだ? 紬、何をどこまで知ってるんだ……先輩が言うわけないけど、密の方から何か聞いてる……いや、でもここで肯定したら、知らなかった場合にまずい)
「大丈夫って、何が? あ、あの人は同性がそういう対象だから、そういう意味なら平気だよ」
あの拉致事件で、恐らく千景と密の間に、何かあったことくらいは知っているのだろう。
あの二人が昔からの知り合いであったこと、軽くない確執があったこと、あの事件で和解できたことくらい、誰だって推察ができる。
千景がどんな組織に属しているかまでは、紬は知らないはずだ。
至はそう解釈して、話題を逸らしてみた。
千景の立場が悪くなることだけは避けたい。その引き金を引いて、嫌われたくない。恐らくあの男は、邪魔になると知ったら平気で手を離す。だから、紬には踏み込んでほしくない。
「そうじゃなくて……千景さんて、なんだかちょっと、何を考えているか分からない時があるっていうか。あ、ごめんね貶す意図はないんだ。あの人を相手にして、至くんが傷つくんじゃないかって、俺、心配で」
「――以前よりは、格段に分かるようになったけどね。壁が、薄くなってる。ありがと紬、俺は大丈夫だから、心配しないで」
そうだよなあと、至は心で思って笑う。
以前の千景は、顔は笑っていても、奥で何を考えているか分からない時があった。
心理学を専攻していたらしい紬には、それは顕著に感じられただろう。職場で接していた至でさえそうだったのだから、紬がそう思うのは仕方がない。
「あの、だからね、苦しくなったら、ちゃんとよりかかってね。俺でも、万里くんでもいいから、ちゃんと言ってほしい」
至は目を瞠って、紬を振り向いた。
どうやら、本当に言いたかったのは、そっちの言葉らしいのだ。回りくどいことをせずに、直球で言ってくれればいいのにと、目を瞬く。だけど、紬らしいとも思ってしまう。
「うん……そうするよ、ありがとう紬」
「よかった、口出すなって言われるかと思っちゃった。今度俺の話も聞いてね至くん」
「ハハ、紬の場合はさ、愚痴っていうよりのろけになるんじゃない?」
「えっ? そ、そんなことないと思うけどなあ」
言いながらも、紬の頬は赤い。きっと幸せな恋愛をしているのだと、至の心も軽くなった。
(うん、でも……本当に、肩の荷が下りたっていうか、楽になった。話せる誰かがいるって、こういうことか)
そういえば、高校時代にも同じような感覚を味わったことがある。
ゲーム好きなことを隠して、自分を作っていたあの頃、話せる相手がいた時もある。
あの時も、すっと体から力が抜けていったような気がするのだ。
「じゃあ至くん、いってらっしゃい。気をつけてね」
「ん、ありがと」
至は車に乗り込み、見送ってくれる紬にひらりと手を振って、アクセルを踏み込んだ。
(これで、俺と先輩のことを知ってる人は三人、か……)
知られたくはなかった。できれば、墓まで持っていきたい事実でもあった。
千景にこれ以上ハマりたくないと思う傍らで、もっと溺れてしまいたいという思いがある。
それを、許された気分だった。
(誰も否定しないんだもんな。ほんと、お人好しばっか)
誰か一人くらい、〝馬鹿なことはやめろ〟と止めてくれてもいいものを、彼らはいとも簡単に、人の恋心を受け入れてしまう。
否定してくれるのはきっと、千景くらいしかいない。
(否定されたい気持ちと、受け止めてほしい思いがごちゃ混ぜだ……恋って面倒くさい)
面倒くさいと思うのに、やめてしまえない。
至の瞳は千景を映したがる。唇は彼の名を呼びたがる。指先は触れたがる。
信号で停まるたび、至は両手で握りしめたステアリングに突っ伏して、ゆっくりと息を吐いた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
たった一度のI love you-001-
両想いなんじゃねーの?
摂津万里が、突拍子もないことを口走った。
「…………は?」
至は慣れないその単語を頭の中で反芻して、目を眇め首を傾げ、指先で支える。カクテルXYZに含められた意味を、もう一度考えた。
両想い。
両想いということは、至が千景を好き――これは確定事項だが、加えて千景が至を好きだということだ。
想い合う気持ちがあるのかもしれない。視線を重ねて、指先を絡ませ合って――そんなもしもを想像して、浮かれ気分になったのは一瞬だった。
「ねーわ」
至は万里の仮定を否定する。すっと目を細めて、一瞬でも夢を見てしまった自分を自嘲して、口角を上げた。
「ない。それだけは絶対にない」
「なんでっすか。そんなに険悪な感じには見えなかったけど」
「好きな男相手に、……あんなことできるかよ。馬鹿言うな」
至は項垂れて頭を抱える。
不思議そうな万里の視線には気がついたけれど、口に出せない。このソファで犯されたことも、薬なんか飲まされたことも。
好きな相手に、そんな乱暴なことできるはずがない。少なくとも自分はそうだ、と至は長い息を吐いた。
「至さん、アンタ……」
「万里、頼むからほんと、期待させるようなこと言うな。俺と先輩の間には、お前と紬みたいな優しい空気はないんだよ」
心臓が潰れそうに痛い。万里たちならうまくいっているのだろうと思うと、自分たちの――いや、自分だけの不毛な想いが、馬鹿馬鹿しくなってくる。早くやめてしまいたいと思うのに、思う傍から千景に触れたくなる。どうしようもない。
「俺らだって、最初からうまくいったわけじゃねーんだけど……」
「は、めっずらし。人生イージーモードの摂津万里が?」
「あー、でもこれだけはハードモードだわ。優しくしてぇのに、紬さんに俺のわがまま押しつけそうにもなるし、何考えてっか分かんない時あるし」
へえ、と至は驚嘆の相づちを打つ。何でもできそうな摂津万里でさえ、真剣な恋にはそんなふうに悩むのかと。だったら自分が悩んでいても、何もおかしいことはないのだと、ほんの少し安堵する。
「冬組の旗揚げ公演の頃だったな、気づいたの。大変な時だったのに、紬さんに告ってさ。そんでもちゃんと考えるって言ってくれた時はすげー嬉しかった」
「旗揚げって、GOD座とのタイマンACTん時じゃん。万里、空気読めよ。……あ。思い出した。そういやお前あの頃、抜きネタ何使うか訊いてきたよな。あー、なるほど納得」
そう古くない記憶ではあるが、至はその時の記憶を掘り起こす。
性欲処理に何を使うのかと、当時高校生だった万里に訊ねられたことがある。どうも身近な相手をネタに使ってしまったことに、後ろめたさを感じていたようなのだが、その理由が今分かった。あの時の〝身近な相手〟が紬だったなんて、思いもよらなかったけれど。
あの時万里は、「好きな相手に乱暴なことはできない」と言っていた。至もそれに、「俺だってそーだわ」と返したような気がする。
あの頃から、少しも変わっていない。
それなのに、まさか自分がこんなふうになってしまうなんて。
万里は恋を叶えた。自分は恋をした。叶いそうにない、絶望的な恋を。
「……いーなぁ……」
「アンタでも、そんな弱音吐くんだ」
「いや吐きまくりだろ。仕事行きたくないとか仕事行きたくないとか仕事行きたくないとか」
「そうじゃなくて。アンタ恋愛方面はうまいことやってんのかと思ってた」
「期待を裏切ってすみませんー」
「俺に話すみたいに、千景さんにも言えばいいのに」
「いや、あの人に言うくらいなら、我慢してセックスだけしてひとり枕を濡らす方がましだわ」
「言い方」
千景にはどうしても知られたくない。同性を性対象にする千景でも、パートナーにするならそれなりの相手を選ぶはずだ。
(あっちの仕事に何も言わないヤツだろうな。もしくは仕事仲間かな。そうだよな、その方が説明しなくて済むんだから、楽だし。……俺なんかまるっきり対象外。体力ねーし)
膝の上で頬杖をついて、いつか千景の隣に並ぶだろう相手を想像してみる。あまりにも現実感がなくて、笑ってしまった。
「千景さんて、そんな乱暴な感じなんすか。俺もいまだに読めねー。脱出ゲームしてんのは楽しいけどさ」
「ああ、そういや先輩とたまに行ってんだっけお前」
春の公演が終わってから、千景と他の団員たちの距離も少しずつ縮まってきた。
監督拉致のことがあったせいか、最初は戸惑いもあったようだが、徐々に薄れてきているようだ。
それは、素直に嬉しいと思う。万里も、脱出ゲームに誘ったり誘われたりしているらしい。
(先輩は、ある意味専門家みたいなもんだしな。チート技いっぱい使ってんだろうけど。……万里は、何も気づかないのか、それとも、明け透けだったのは俺に対してだけなのか)
千景は以前から、至に対して裏の仕事をほのめかすようなことを囁いてきていた。決定的なものはなかったにしても、気づいてしまう要素は、そこかしこに鏤ちりばめられていた。知ってしまえば、あれも、これも、千景にとっては真実だったのだと気づく。
どうして自分に、と胸が熱くなる。
自惚れたくないと思うのに、万里が言った、夢みたいな言葉のせいで、浮かれてしまう。
(違う……違う、そうじゃない。期待したら駄目だ)
「先輩は……たぶん優しいと思う。俺を抱く時も、他の相手にするよりは優しくしてるって、言ってくれたし。まぁそういうとこデリカシーないんだけどな。マジ殺したい」
「……ガチでセフレなんだ、アンタら」
「だからそう言っただろ。同じ相手と二度はないって言ってたけど、俺とは続いてるから、都合がいいんだろ。同じ職場で同じとこ住んでると、予定も把握できるし」
続いた理由なんか、それしか思い当たらない。至が千景の立場だったら、わざわざワンナイトの相手を探すより、事情を知っている男に声をかけるに違いない。
「そういうもんかな……」
「そういうもんなの。大人には大人の事情ってものがあるんだよ、未成年」
「分かりたくねーわそんなもん」
万里が隣で息を吐く。どことなく怒っているように見えるのは、やはり〝セフレ〟という関係に納得していないからだろう。至は苦笑して、視線を逸らした。
「でも、ありがとな、万里」
「何がすか」
「聞いてくれて。ちょっとキャパオーバーしそうだったから」
千景を好きなことは、きっと変わらない。
犯されようが、妙な薬を飲まされようが、この先どれだけ騙されようが、至の千景への想いは消えないのだろう。恋なんて不確かなものに、心を持っていかれるとは思っていなかったせいで、体と心と脳の許容量が、限界ギリギリだった。
「……俺で良ければいくらでも聞くし。なんなら肩でも胸でも貸すぜ?」
万里はそう言って、ぽんぽんと肩を叩く。至は目を瞠って、くくっと喉を鳴らして笑った。
「いや、紬に恨まれそうだから遠慮しとくわ。妬いてる紬も見てみたいけど」
「それはそれで見てーわ俺も」
はは、と笑い合う。まだ、笑える自分がいることに、至は安堵した。
いくらこんな恋が初めてでも、世界のすべてが千景で染まってしまうわけではない。千景がいないと生きていけないわけではない。
この胸の痛みは、生きていく中で考えたら、ほんの些細なものなのだと、思うことができた。
「でもマジで言ってんだぜ至さん。アンタと千景さんどっちか選べって言われたら、悪いけど俺は至さんを選ぶし、アンタが苦しんでるんなら、力になっから」
「万里……」
まっすぐに見つめてくる万里の瞳には、一切の迷いも?もない。心の底からの言葉なのだと分かる。友情ごっこは苦手、と思っていても、素直に嬉しかった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
ただ、静かに触れて
「今日、遅くなる」
千景が、ルームメイトである至にそう言ったのは、朝の通勤途中だった。
「そうなんですか? じゃあ好き勝手実況しとこ」
「お前はいつも好き勝手に実況してるじゃないか」
同じ劇団に入っていて、同じ寮に住んでいて、さらに同じ部屋ともなれば、こんな会話は日常茶飯事だ。
「えぇ? 一応気は遣ってますよ? 先輩日付越えるギリギリに戻ってくるから、毎回その前には終わらせたりね」
「……涙が出るほど嬉しいね。実況中に入ると付き合わされるから」
「まだ根に持ってる。前に無理やり引き込んだの、怒ってるんですか」
「怒ってないよ、別に」
本当に? 至がそう訊ねると、信号待ちの隙に、ふっとキスがかすめていった。
「怒ってない」
「……いきなりするのやめてもらえませんかね」
「口許笑ってる、茅ヶ崎。嬉しいときは素直になった方がいいぞ」
「呆れてるんです!」
こんなところで、と言いつのるも、千景は肩を揺らして笑うだけ。結局千景に敵うことなんてなくて、至はいつも諦めるのだ。
「遅くなるって、出張ですか。予定入ってましたっけ?」
恋人の予定は聞いているつもりでも、急に変更になるときだって多々ある。それは至も同じことで、たとえばデートの約束がふいになることも。仕事の大変さと重要さは分かっているから、怒れない。
今日は特に約束をしていたわけではないけれど、千景と過ごす時間が減るのはやっぱり寂しいなと思った。
「…………」
「先輩?」
「…………飲み会」
千景が沈黙したのが気にかかり、促してみれば、ためらいがちにそんな言葉が返ってくる。至は目を瞠った。
「飲み会、ですか」
「うん」
千景は、基本的に飲みの席を断っている。飲めないというわけでも、酒乱のケがあるというわけでもない。自分に必要ないことに時間を割きたくないタイプのようだった。
それは至も同じで、できることなら会社の飲み会など避けたい。そんなものに参加している時間があれば、ゲームをしていたいのだ。千景だって、ネットサーフィンをしたり大好きな激辛料理でも食べにいきたいのだろう。それは、とても共感ができた。
だから、そんな千景が〝飲み会〟に行くということは、本当に珍しいことだった。しかも、そんなふうに眉間にしわを寄せてまでとは。
至には分かってしまう。これはイレギュラーなのだと。嫌でも、参加しなければいけないものなのだと。
じっと前を見据え、至は口を開く。
「……〝仕事〟ですか?」
親しい人たちとの飲み会ならば、そんなふうに眉は寄せない。会社の飲み会だとしても、乗り気じゃないだけでこんな顔は見せない。
となれば、答えはひとつだった。
千景の、もうひとつの顔である、危険な仕事の方に違いない。
沈黙が、肯定を示していた。
(なるほど)
至は、恋人のそんな状況を非難するでもなく、かといって擁護するわけでもなく、ただひとつ瞬いて、許容する。
「ホテル、いつものとこでいいですよね」
「……ああ。悪い、茅ヶ崎」
そうしてふたり、車の中でエリート商社マンの仮面を被って出勤した。
LIMEで、部屋番号だけ送信しておいた。既読マークはつかないが、〝仕事中〟なら当然だと、ゲームをしながら彼を待つ。
ライフの回復時間などを計算しいくつかのゲームを掛け持ちで進め、そろそろ日付が変わろうか、という頃。
部屋のインターフォンが鳴る。ルームサービスは頼んでいないから、彼が来たのだと分かった。至は寝転がっていたベッドを降り、足早にドアへと向かう。ロックを外し、一仕事終えてきたのだろう千景を迎え入れた。
「先輩」
なだれ込むようにして足を踏み入れた千景を、まずは抱きしめる。
やはり、酒のにおいはしなかった。
代わりに、彼にしては珍しい埃っぽさと、ほんの少し――血のにおい。
いったい何をしてきたのか、誰を傷つけてきたのか、訊くつもりはない。千景自身の心の疲弊が分かるからだ。
千景は、至に噓をつくことだってできたのに、〝仕事〟なのだとあえて悟らせた。だけど至は行かせないと止めることも、頑張ってと送り出すこともしない。
いつも、いつも、ただこうして抱き留めるだけだ。
「お風呂、一緒に入りましょうか。今日は俺が髪洗ってあげますね」
千景は何も言わずに、ただ頬をすり寄せてくる。ぽんぽんと背中を叩いてさすり、千景の前髪をかき分け、現れた額にキスをした。
「怪我しないで俺のとこに戻ってきてくれた、ご褒美です」
「……うん」
「さ、お風呂入ってもう寝ましょ。一晩中ぎゅーってしててもいいですよね」
「暑くないか……」
「そういうとこですよ、ノーロマン」
ふ、と千景が吐く息の重さが変わる。至は満足そうに笑い、千景をバスルームへと引っ張り込むのだった。
#両想い #千至 #ワンライ
みんな知らない
休憩スペースで、至は微糖の缶コーヒーを飲んでいた。
本当はコーラが良かったけれど、それは駄目だ。なぜか寮にいるようなスイッチが入ってしまう。職場でそれはまずいのだ。何しろ至は筋金入りの猫かぶり。別に悪気があるわけではないし、仕事や人間関係が円滑になるための手段としか思っていない。
苦みのあるコーヒーはそんな意識を保つためのアイテムだ。
だけど、ひとつだけ、至を素に戻してしまうものがある。
「ね~、見たぁ?」
「見た見た! 今日絶対いいことある!」
「だよね、超レアじゃん、卯木さんの笑顔とか~」
休憩室の外をご機嫌で歩いていく女性社員たちの会話に、危うく口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
(は?)
至は眉間にしわを寄せる。
これだ。至を素に戻してしまうもの。
「そもそも海外行ってること多いから、社内で見られることも少ないよね」
「それ~! 最近は出張少なくなったけど」
「同じフロアでよかった~目の保養だわ~」
(先輩、なんかレアキャラ扱いになってる)
ガチッ、と飲み口を軽く噛んで、話題の人物を思い浮かべた。
卯木千景。職場では先輩であり、劇団では仲間であり、個人的には恋人だ。
彼の名前が出てくると、途端に猫がかぶれなくなる。だからできれば、会社では彼に逢いたくない。名前も聞きたくない。
(うそ。逢いたい……顔、見たい)
最初に好きになったのは、絶対に自分の方だ。千景を包む毒のような闇に、どうしてか惹かれた。
「この暑い中爽やか笑顔だった~幸せ~」
「ホントだよね。ベスト暑くないのかな? 腰ほっそ」
「卯木さんが汗かいてるとこ見たことなくない?」
ないね~などと言いながら、女性たちは休憩室の前を通り過ぎていく。至はハア、と息を吐いた。彼女たちは、千景のいったい何を見ているのだろうと。
確かにあのうさんくさい笑顔は爽やかに見えるだろう。それが千景の仮面であるというのに。寮で見せるのとは全然違う。
しかし一人の女性についてはどこを見ているのか。暑くなる前まで着用していたジャケットを脱げば、確かに体のラインが浮き彫りになる。見んな、ときつく目を閉じて、不愉快さを散らそうと試みた。
(確かに見た目細く見えるけど、わりと筋肉ついてるから! あんなのでガンカン突かれるこっちの身にもなっ……――)
そこまで思って、ハッと我に返る。まだ仕事中だというのに、千景との濃密な時間を思い出すのはよろしくない。とても平静ではいられなくなる。
(やば……この間のが、ちょっと、激しかった、から)
ついうっかり、と視線を泳がせるけれど、頭から離れていかない。ホテルのベッドの上で、千景のあの体に乗っかられる自分というのが、いまだに現実だとは思えない。
片想いだと思っていたのに、そうではなかったと知ったときの衝撃。なかなか手を出してくれなかったこともあり、千景と恋人同士であるということが、夢みたいに思えるのだ。
だからだろうか、いけないと思うのに、千景とのことを必要以上に思い出してしまうのは。
(先輩だって汗かくし……首筋とか、おでこ、すごい色っぽいんだよね……)
会社の誰も知らないことかもしれない。千景は汗まで調節できるのか、仕事中に汗で不快そうにしているところは見たことがない。だけど、そんな彼もちゃんと汗をかく。
ベッドの上で、至を組み敷き、髪を湿らせ、汗を落とす。
茅ヶ崎、と吐息のように呼ぶ声に、荒れた息に、顎から落ちてくる汗に、感じてしまうことを、彼はきっと気づいてる。
体の間で互いの汗が混じるのを、幸福に思っていることも。
抱き寄せた肌に浮かんだ汗をぺろりと舐めるのが、わりと好きなことも。
不謹慎にも稽古中に、運動で浮かぶ汗にドキリと胸が鳴ってしまうことも。
きっと、全部知っているに違いないのだ。
(駄目だ、やっぱあの人のこと考えて平静でいられるわけなかった)
顔どころか、体が火照る。
至は携帯端末を取り出して、LIMEを立ち上げた。
今日時間があれば、と誘おうとして、失敗する。
『あと2時間、我慢してろ、茅ヶ崎。何があっても定時で上がれよ』
文字を打ち込む前に、千景からのメッセージが画面に現れた。当然すぐに既読マークがついて、え? と至は首を傾げ、ハッとして顔を上げた。
休憩室の前の廊下、会議資料らしきものと携帯端末を持った千景の姿。
よこされる目配せは、いさめるようでも、なだめるようでもあった。
もしかして見られていたのだろうかと思うと、恥ずかしくてしょうがない。こんな言葉を送ってくるということは、顔に出ていたに違いないのだ。千景との濃密な行為を思い出していた破廉恥な思いが。
千景は休憩室に入ってくる様子はなく、そのまま歩みを進める。会議室の方向だなと気がついて、至は急いで文字を打ち込んだ。
『会議、ちゃんと終わるんですか、定時に』
『ああ。そんな余計な心配するくらいなら、明日足腰立たないかもって方を心配しておくんだな』
誘った以上千景も定時で上がれるのだろうなと言質をとったつもりだったが、そう返されてしまって撃沈した。
それならそれで、せいぜい密度の濃い時間を過ごさせてもらおうと、残った仕事を片づけに休憩室をあとにするのだった。
#両想い #千至 #ワンライ
/ /

一瞬、胸が鳴った。
千景は、夜の景色をフロントガラス越しに眺めながら、少し目を伏せた。
(あり得ないって分かってるのに、何を期待するんだ)
対価を言えと詰め寄ったら、至の指先が唇に触れた。
それは〝卯木千景〟を求めているのかと、一瞬、胸が鳴った。
少し考えれば、今まで通り、体だけ?げる関係を望んでいると分かるのに、彼の瞳があまりにも切なげで、胸が痛くなって、心が揺れた。
(茅ヶ崎は、駄目だ。こいつはもっとちゃんと、普通の世界の人間と結ばれるべきで)
いっそこの気持ちを告げて、取り込んでしまおうかと思ったことがある。恋愛ではないにしろ、好感情は持たれているようだし、茅ヶ崎至という一人の男を手に入れるのは簡単だ。
存在だけ、ならば。
閉じ込めるだけなら、非力な男の一人や二人、千景にとっては簡単なことだ。茅ヶ崎至ならば、いっそ楽しげに軟禁されてくれるかもしれない。
だけど、そうしても千景の望む彼は、手に入らない。
危険な世界に身を置いている以上、大切な人間は作るべきではない。弱みになる、それは組織にさえ利用されることを、千景は身をもって知っている。
武術の心得があり、組織にも属していた彼らならまだしも、人一倍体力のない茅ヶ崎至では、簡単に壊される。
(駄目なんだ。俺は、もう……誰もなくしたくない)
だからここで離れようと思った。また以前みたいに隠れアジ家トの方で過ごし、彼との接触を避ければ、この心は死んでいってくれると。
それなのに、今。
どうしてだろう、コンソールの上で、茅ヶ崎至と指を絡めている。
〝すぐどっか行っちゃうでしょ〟
指先が唇に触れた時とは別の意味で、胸が鳴った。
茅ヶ崎至は、ときどき勘が鋭い。
以前、黙って劇団を出ていこうとした時も、気づいたのは彼だったと、咲也に教えられた。
どうして、人が離れようとしている時に限って、読みがいいのだろう。
困った、と右の人差し指でステアリングを叩く。
こうして引き留められてしまえば、無碍にできない。大事な家族に引き留められたのだからと、相手のせいにしてここにとどまっていられてしまう。
欲しいと求められてしまったから、仕方ないと言い訳をして、遠慮なく触れられてしまう。
駄目なんだと思った傍から、相手に理由を押しつけて、触れる。そうできることに内心で喜ぶ自分が、どうしても情けない。
こんな男に、誰が恋をするものかと、千景は自嘲気味に口の端を上げた。
至の吐息が、空気を揺らす。
千景はぐっと伸び上がって、煽るように彼のいいところを突き上げた。
「いっ……あ、あ、う」
「茅ヶ崎、中、すごい」
「し、しらなっ……あ、待っ、いや、そ、こ……!」
逃げかける至の腰を抱え、ぐいと引き寄せる。無駄なことをするなよと囁けば、悔しそうにシーツを握る手に自身の手を重ね、さらに揺さぶりをかけた。
「ひぅっ……」
ぴたりと肌が合わさる。互いの間で汗が潰れて、逃げ出してくる。それを受け止める思考はなくて、ただ奥で果てたいと熱を押し込むだけだった。
至の指先が、肩から腰にかけての包帯を乱す。爪に引っかかったことに気がついたのか、彼はハッとしてしがみついていた手を離してしまった。
「す、みませ……」
「今さらだろ。痛みは引いてる」
「でも、見られるの嫌なんでしょ」
「ふぅん、この状況で俺の傷口を見る余裕があるんだ? 茅ヶ崎」
「は!? あ、ちょっと、待っ……無理ぃっ……」
ああなるほど、と千景は至の足を肩に担ぎ上げて、ぐんと奥に突き立てる。油断をしていたのか、至は背をしならせて高い声を上げた。
千景はそれを楽しそうに眺め、
「お前が、欲しいって言ったんだからな」
至のせいにして、至を何度も何度も突き上げた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス