- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
No.348, No.347, No.346, No.345, No.344, No.343, No.342[7件]
愛のひとつも囁けない-013-
春組グループLIMEに、千景から連絡が入ったのは、翌朝のことだった。
朝起きたときに、千景のベッドに何の変化もなかったことを不思議に思って、連絡しようとした矢先のこと。
『出張入っちゃってて、二~三日留守にする。もしかしたら、日曜くらいまでかかるかもしれない。稽古に出られなくてごめん』
アプリの画面を確認して、至はくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。昨日終電逃したのかなと思うと、恨めしい気持ちにさえなった。千景の出張が終わるまで、逢えないということだ。
『千景さんお疲れ様です、お仕事頑張ってくださいね!』
『お土産期待してるヨ~』
『社会人は大変っすよねえ。お疲れ様です』
『至を見てるとそうは思えないけど』
(オイコラ真澄)
次々と画面に流れ込んでくる、春組メンバーのメッセージ。真澄には一言もの申したいが、寮の自分しか知らないのだから、そう言われるのも無理はないかと、ぐっとこらえた。
至はどう返信しようかと考えて、結局『ラジャ』としか返せなかった。
まだ、千景への想いを覆い隠すには修行が足りない。何を返信しても、端々にあふれてしまいそうで仕方がないのだ。素っ気ないと後で怒られても、そうするしかできなかった。
「しっかし、ほんと出張多いよなあ先輩……おつ」
こんなことなら、昨日無理にでも逢瀬をもっておくべきだった。取引先との会合が終わってからでも、朝までの時間はあったはずだ。
(先週の金曜は稽古入ってて駄目だったし、だから昨日……逢いたかったのに)
もう何日、触れ合っていないのだろう。恋人同士でもないのに、いや、だからこそなのか、至の体は貪欲に千景を求めてしまう。そうさせたのは千景だ。
キスもしてない、とベッドの上で唇をなで、朝っぱらから甘ったれた気分に浸りそうになり、至はふるふると首を振った。
「俺も社会人だからね、仕事仕事~」
本当ならゲームだけしていたいとは思うものの、大事な課金資材を稼いでこねばと、ベッドを降りた。
身支度を調えリビングへ向かうと、食欲をそそる匂いが出迎えてくれる。
「おはようございます、至さん」
「おはよ、臣。いい匂い」
「卵、スクランブルエッグで大丈夫ですか?」
「うん、おk。いつもありがと」
これが至の何でもない日常だ。いつも通りに起きて会社に行って、社畜おつと思いながら仕事を片付け、帰ればそれなりに熱くなれる稽古が待っている。
「うわ~マジかよあれ」
「あそこ結構大きなとこじゃないの。怖(こわ)」
聞き慣れた、万里や幸の声にふっと顔を上げると、朝のニュースで火災が報じられていた。
誰もが一度は聞いたことがあるであろう、製薬会社の研究施設が、火事になったらしい。現在消防署や警察署が原因を調べているようだが、かなり大きな規模の火災にもかかわらず、研究員たちは全員避難できていたらしい。人的被害がなかったのは、せめてもの救いだろう。
朝っぱらから嫌なニュースだなと、至はトーストされたパンをかじった。
(あれ、そういやあの製薬会社って、どっかの部署で取り引きなかったっけ……気のせい?)
被害に遭った会社は確かによく聞く名だ。それを会社で聞いたのか、日常生活の中で聞いたのか、判然としない。もし二次的、三次的にでも取り引きのあるところなら、仕事に影響してくるだろうかと考える。んー、としばし考え込み、ないなと小さく首を振った。影響があるとしても、至が所属している課ではない。該当の部署があればご愁傷様と、コーヒーを流し込む。
今日の出勤は車ですけど、と千景に声をかけようとして、はたと息を飲む。そういえばいないのだったと。
(マジか)
正直、こんなにも日常に影響してくるなんて。自分の仕事には関係ないどこかの会社の悲報より、千景の存在の方が、至には大問題だった。
(……めんどくさい)
何しろ、いても困るし、いなくても困る。
出張から帰ってきたら、八つ当たりでもしてやろうかと思うくらいだ。至は小さく息を吐き、千景の毒を無理やり散らした。
ふと、じっとニュースの映像を眺めている男がいるのに気がつく。
(……密……?)
この時間帯に、密がここにいることがもう珍しい。普段なら、社会人の自分たちや学生組が、寮を出てから起き出してくるようなのにだ。おかげで朝はあまり逢ったことがない。早朝のバイトでも入っているのだろうか。
(それにしても、いつの間に。密って本当に気配がないよな。ネコみたいだ)
足音がしない。どこでもすぐに寝る。気まぐれ。わがまま。ネコそのもののようだ。
(ハハッ、あれもスカウトされた組織とやらの訓練のたまものかね)
いつだか千景が話していたことを思い出す。お得意の小さな噓だ。
千景と密が仲が良いらしいのは事実だが、本当に犯罪研究会なんてもので出逢ったのかどうか。九割が噓に違いない。
千景の言うことを頭から信じていたら、本当に身が持たないのだ。
咲也あたりはよく騙されているようだが、あれは本当に純粋培養すぎる。千景がからかいたくなるのも分かる気がした。
(からかって遊ぶには、俺は役者不足ですよね~)
遊ばれたいわけではないし、別の意味では遊ばれているようなものだが、千景はいったい、茅ヶ崎至という男を何だと思っているのだろう。一度真面目に聞いてみたい。そんなふうに思いながら、朝食を済ませた。
ふと視線を感じて、顔を上げる。テレビから興味を外したらしい、密のものだった。
「密? どうかした?」
「……ううん、別に。至、仕事いつも通り?」
「そだねー。あ、バイトなら乗っけてこうか?」
訊ねてみたが、密はふるふると首を横に振った。マシュマロの補充に来ただけなのだと。ああなるほどと納得してしまうあたりが、密だった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
眠そうな声にふっと笑みが漏れてしまう。きっと数秒後には、ソファで眠ってしまうのだろう。いや、ソファならまだましな方だ。床でだって密は平気で寝てしまう。
至は変わらない日常を実感しながら、MANKAI寮を出た。
今日と明日を乗り切れば、土日、嬉しい連休が待っている。千景がいないのは寂しいが、それはどうしようもないと車へと乗り込んでいく。
先週は千景を横に乗せて出勤したなあと、シートベルトを締めるときでさえ思い出してしまう、馬鹿げた恋心に、何度目かの苦笑を浮かべた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-012-
二人は地下階へと続く階段へと走った。そこにも、ロックのかかったドアがある。大事な企業秘密がある場所だからか、セキュリティは厳重そうだった。
「解除できるか、メイ」
「十秒くれれば」
「任せる」
エイプリルはメイを背中にし、辺りを警戒した。組織で一通りの知識と技術を叩き込まれたとはいえ、電子機器に関しては彼に任せた方がいい。
しかし、この火事はいったいどういうことだろうか。謀ったかのかのようなタイミングで、こちらとしてはありがたいのだが、発火しやすい物でもあったのか。
いや、研究施設をしてそれは、あまりにも危機管理ができていない。実験用のマウスたちもいるのだろうに、火の管理がずさんなわけは――と思考を巡らせているうちに、メイがドアのロックを解除する。
「エイプリル」
呼ばれ、頷いて階段を駆け下りる。二人とも足音を立てないのは、組織での教育のたまものだ。
地下一階、四ブロック。そこに、今回組織が欲しがる機密情報があるはず。この火事騒ぎのせいで、警備員さえいなかった。
「指紋認証……強制解除、くそっ、面倒なアルゴリズムだな!」
「メイ、あまり時間をかけられないぞ」
「分かってる!」
さすがにこのフロアのセキュリティは強力らしい。語気が強まるのは、焦りか、むしろ好戦的になっているのか。
電子音が響く。アルゴリズムの解読に時間がかかれば、その先に使える時間が少なくなっていく。
エイプリルはグラスと端末をコードで繫ぎ、サーチシステムを最大限に活用した。
別の棟で発生している火災が、どんどん広がっていっている。ワンフロア延焼はまぬかれないなと思うと、駆けつけるであろう消防車の数と、見物人、固唾を呑んで見守る研究員たちの目から、どうやって逃れるべきか。
ルートを確保しておかなければ、こちらの命が危うくなる。火事でという意味でなく、誰かの目に触れたら、組織からの制裁があるからだ。どちらかというとそちらの方が危ない。
(上に行くのは危険だな。かといって、地下じゃ……)
元々のルートは、三階の連絡通路を渡って別棟に行き、そこから階下へ降りて東方面から逃げるはずだった。
だが上のフロアは、消火活動で人が出入りする可能性が高くなってきた。不用意に上がるわけにはいかない。
(地下からの避難経路……向こうか。カメラが近くにあるな。そこのカメラにも細工してる時間があるかどうか……やっぱりあまり使いたくないが……仕方ないだろう)
見取り図と、サーチシステムを重ね合わせる。数十メートル先に、非常口があるはずだ。使えるかどうか、グラスのモニタを拡大した。
おかしなことに気づく。
非常口の扉が、開いているように見えた。
いや、たった今、閉まった。
ということは、誰かが今使ったのだ。普通に考えたらここの研究員たちだろう。しかしそれにしては、自分もメイも、気配に気づかなかったなんて。
(気配がなかった――?)
ぞく、と背筋を何かが這い上がってくる。嫌な予感がした。
「よし、開いた! 来いエイプリル!」
非常口から出ていったのが、何者なのか確認しようとしたところへ、メイの声がかかる。
「モニターの映像は? 痕跡を残すわけにはいかないぞ」
「待て、今やって……どういうことだ、アクセスできない!」
「アクセスできないってなんだ!? 現地でやるって言ったのはお前だろう!」
「よそからの干渉があるんだよ! くそっ……」
研究室内のモニター映像を、一秒前の正常な室内動画に切り替えようとするものの、その回線にアクセスができない。それを行わないと、カメラに自分たちの姿が映ってしまう。犯行の一部始終が、残ってしまうというのに。
(よそからの干渉……?)
焦るメイの手元を眺め、エイプリルは先ほど閉まった非常口の方を振り向く。
まさか、と思った。
向き直りドアをそっと開け、中の様子を確認する。
人の気配はやはりない。全員が避難しているのだろう。
「メイ。アクセスできないなら、壊すかあとで消すかしかない。現物を確認してくる」
「エイプリル、待て! 指示は俺がっ……」
待ってなどいられないと、エイプリルはどれだけかの確信を持って中へと踏み込んだ。
ご立派な最新設備の整った室内が、足下の間接照明でぼんやりと浮かび上がる。新薬の保管庫は、このフロアを突っ切った奥のはずだ。素早く駆け寄ったが、ロックのかかっていない扉が、それを知らしめていた。
(やっぱり、ない)
厳重なはずの保管庫の中、それらしき物体は見当たらない。エイプリルは踵を返し、メイのところへと戻った。
「盗られてる」
「はぁ!? なんだよそれ!」
「どこのどいつかは知らないが、俺たちの前に侵入(はい)ったヤツがいたみたいだ。たぶん、データやなんかも、根こそぎやられてる」
「……どけっ!」
エイプリルを押しのけて、メイも室内に入った。保管庫へ一直線に駆けるも、ややあって「なんでだよ!」という悲鳴にも近い叫び声が聞こえた。
「どういうことだよ! あったはずだろ!」
上から指示されたミッションは、現物とデータの確保。
現物どころかデータもないのでは、示しがつかない。早い話が、失敗だ。
「データも全部抜かれているな。手遅れだ」
エイプリルは、近くにあったパソコンの内部を確認してみる。この施設に似つかわしくない、まっさらな機械(ガラクタ)でしかなかった。
恐らく、先ほど非常口から出ていった輩が、エイプリルたちより先に監視カメラに細工をし、データをコピーし新薬を持ち出して、痕跡をすべて消していったのだろう。
火災を発生させたのも、作戦のうちに違いなかった。研究員や警備員たちが避難して、ここを離れた隙の犯行を、計画していたようなのだ。
「メイ、引き上げるぞ。本部の指示を仰いだ方がいい」
「ふざけるな、出し抜かれたままで退けるか! 何か痕跡が残ってるはずだ、そいつらの情報探り出して、叩き潰してやる……!」
「メイ! 深追いはよせ!」
メイはエイプリルの制止も聞かず、自身用にカスタマイズを加えた端末をデスクに広げる。
もうどれだけもしない内に消防隊がやってくるはずだ。発見されるわけにはいかないのに、メイは頭に血が上っているのかと舌を打った。
確かに、失敗したとなれば何らかの罰則は下されるだろう。これまでの成績が悪ければ、放逐も考えられる。
組織の制裁に対する怯えと、出し抜いてくれた連中への怒りと、自身のプライドが、メイの正常な判断力を奪っているように思えた。
メイの指先は、端末やカメラへのアクセスから、どうにか痕跡を探り出そうとキィを叩く。いくつもの画面を同時に操作して、必死で挽回しようとする彼を、普段であればサポートしていただろう。
組織の制裁は、確かに恐ろしい。だが今のエイプリルには、それよりもっと恐ろしいものがある。
自分を受け入れてくれたあの劇団の生活が、壊れてしまうこと。
こんなとこで下手を打って、民間人に見咎められ、組織の不利益になるようなことをしでかせば、〝エイプリル〟に監視がつきかねない。それは即ち、卯木千景としての生活の崩壊である。
さらに、所属団体への調査が入るだろう。今は何の興味も持っていない組織も、エイプリルの隠れ蓑としてふさわしいのかどうか、調べるはずだ。
そうなったら、ディセンバーの生存が知られてしまう。それだけは避けなければ。
「メイ! 深追いするなって言っ――」
ひとまずここを離れた方がいいと、メイに手を伸ばしたその先で、ピ、ピ、という嫌な電子音を聞いた。
その、直後。
ドオオォォォオン!!
爆発音とともに、体が吹っ飛んだ。
「ガハッ……」
壁に叩き付けられ、飛んできた何かの破片が腕に突き刺さる。
痛みより先に、驚愕が襲ってくる。いや、何かしらの予感はあったような気がする。ざわざわと足下からせり上がってきていた不快感。あれは、エイプリルの危機本能を刺激していたに違いない。
爆弾が仕掛けられていたのかと、エイプリルは目眩の残る頭を振って、意識をはっきりさせる。衝撃でグラスはどこかに飛んでいったようだ。
しかしこの爆発は、こちらへの攻撃というより、自分たちの犯行の痕跡を消すためのものに思える。運悪く、ターゲットが被ってしまったのだろう。あからさまに敵対勢力がいたなら、あらかじめ対処もできたのに、おかげで予測ができなかった。
「くそっ……メイ! 無事かっ! メ――」
エイプリルは目を瞠る。そうして、細めた。
眼前で、ごうごうと燃え上がる炎。爆破されたいくつもの端末は、熱で溶けかけており、どこが元なのかも分からない。
そんな中で、爆発で破壊された機材の欠片に貫かれたメイの姿。
恐らく爆発物の間近にいたのだろう。確認するまでもなく、彼は絶命していた。
く、と喉を詰まらせる。もっと早く気づいて、彼を無理にでもここから撤退させていたら。そう思うと、後悔ばかりがエイプリルを襲う。
(勘が鈍ってる……平和ボケしやがって……!)
そう頻繁に組んでいたわけでもないし、個人的な交流はなかったものの、組織に属する意味では仲間でもあった。
その死は悼みたいが、ゆっくりしている場合ではない。まだ爆弾が仕掛けられているかもしれないのだ。早くここを離れなければ。
エイプリルは支給されている端末で、組織司令部へのアクセスを試みた。
「エージェント・エイプリル。ミッションコード668。本部、ミッションは失敗に終わりました」
『声紋及びコード確認しました。詳細を』
部屋を出て、非常口へと向かいながら呼び出せば、端末の向こうから抑揚のない声が返ってくる。
失敗したというのに、相変わらず感情を動かさないオペがいたものだと、妙なところに苦笑した。
「ターゲットがブッキングしていたようで、我々の前に侵入した者がいた。現物もデータも確認できなかった。仕掛けられていた爆発物でメイがロスト。痕跡が残る。至急処理班を向かわせてくれ」
『エージェント・メイがロスト、了解しました。遺体の処理と情報の操作はこちらに任せてもらいます。エージェント・エイプリル、理由の如何問わず、任務の失敗はランクダウンになります。すぐにそこを離れて、次のミッションに備えてください』
「イエスサー」
抱えていたエージェントがロストしてさえ、あの組織はいつもの通りだと、いっそ安堵さえする。安心して、嫌悪することができる。
あとの処置は組織の専用部隊に任せようと、エイプリルは痛む半身を引きずって非常口へと向かい、商売敵が使ったであろう逃走ルートをたどった。
もちろん痕跡などなかったが、そこを使ったということは、ある程度安全が確保されているはずだと。
「……っつ、う」
腕に突き刺さる金属片。傷が疼いて、今になって痛みを自覚し始める。だがここで抜くわけにはいかないと、唇を噛んで足を踏み出した。
こんな任務がなければ今頃は、茅ヶ崎至を抱いていたのになと、この期に及んで恋い焦がれる。
この怪我では、しばらく寮に帰ることもできないかと、腹の中を不甲斐なさが這い回った。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-011-
今日だけは勘弁してほしかったなと、千景は息を吐く。
せっかく至の方からの誘いだったのに、流さざるを得なくなってしまった。
「ターゲットは?」
「C棟の地下一階、第二研究室の奥。見取り図は把握してる。監視カメラの映像細工してからだな」
「了解」
合流したエージェント・メイとともに、今回の獲物とルートについて確認する。
ある製薬会社が、危険な薬を開発してしまったらしく、組織はそれが欲しいらしい。まともなところで幻覚作用の強いドラッグか、最悪なものを想定すれば細菌兵器。しかし防護服着用の指示が出ていないあたりを見るに、ウィルスやなんかの類いではないようだ。
いくらエージェントが捨て駒だと言っても、ミッションを成功させるまでは、生かしておくはずである。何しろ、そのために孤児を拾い育ててきたのだから。
「中身は、知っているのか?」
「俺たちが知る必要はない、ってさ。いつものことだろ、エイプリル」
「……そうだな」
しかし製薬会社の研究施設ともなれば、警備は厳重だ。どれだけの訓練を積んでいるかは知れないが、雑魚でも数がいるとなると多少面倒になる。
「俺が盗んでいる間、警備どうにかしてて。かかってるセキュリティこじ開けるのと、戦闘同時は難しい」
「殺さない程度でいいだろ? 警備員とはいえ、この国じゃ子供だましも同然だ」
「いいんじゃない。上からは生死の如何は指示されてない」
分かった、と千景は黒のグローブをはめる。指紋を残すわけにはいかない。
本来なら今夜、この手は至に触れるはずだった。その手で今、罪を犯さなければならない。ミッションが成功しても、その名残を残したまま触れることなど、許されるはずもない。
指紋を残さないこと、そして罪の香りをあの男に悟らせないこと――それが千景の任務だった。
そうして、仕事用の眼鏡をかける。フレーム傍のスイッチに軽く触れれば、グラスの色が変わった。エイプリルの視界に通常は見られない世界(モニター)が広がる。
サーモグラフィ。現代ならほぼすべての人間が持っているであろう、通信媒体のポイントマーク。余計な電流が通っていないか。エトセトラ。
気づかれずに侵入するには、あらゆる情報がリアルタイムに必要となってくる。
「待て、メイ。少しおかしい」
その小さな画面上での動きを追いかけて、エイプリルは訝しげな声を上げた。
「どうした?」
「人の動きが多すぎる。研究員はほぼ帰宅している時間だろ。そうでなくても、研究室にこもっているはずなのに」
せわしなく動く、赤いマークがうっとうしい。中で何か問題が起こっているのだろうか。
「北口に集中しているみたいだ」
タブレット端末に指を滑らせて、見取り図と照合してみる。日付が変わった直後の時間帯にしては、やはり人が多すぎだ。
「予定ルートの南口には来てないんだろう? 好都合じゃないか。侵入(はい)りやすくなる」
「見つかる可能性の方が高い。少し時間を――」
エイプリルの制止を振り切って、メイは塀に飛び乗ってしまう。感知システムがないからいいものの、接触による作動システムだったらどうするのだと、相方の無謀に舌を打った。
「エイプリル、上がってこい」
周辺に異常がないことを確認したらしいメイが、腕を伸ばしてくる。仕方なくその腕を取り、タイミングを見計らってエイプリルも塀の上に飛び乗った。
ストンと地面に降りて辺りの様子を窺うも、やはりこの時間帯にしては、異様なざわめきが感じられた。今回のミッションは、日を改めた方がいいのではないかと、本能が警鐘を鳴らす。
「予定ルートの変更はないな」
「おい、本当にやるのか」
「エイプリル。今回のミッションは俺が担当、お前はサポート。文句を言うなら帰っていいぞ。本部に報告しておくから」
メイの語気が強くなる。手柄を争うつもりはないし、上からの指示に盾突くつもりもない。
ただ、ミッションの放棄を報告されるのは、ありがたくない。オーガストやディセンバーのことで目をつけられているかもしれないのに、この上幹部連の心証を悪くするのは避けたい。
警告音が鳴り響く頭の中を、無理やりシャットアウトして、エイプリルは仕方なく息を吐いて同行を決めた。
「ターゲットはC棟地下一階の四ブロック。現物とデータの確保が目的。逃走ルートは戻るより三階まで上がって、連絡通路から別棟渡った方がいい」
「それで問題ない。行くぞエイプリル」
メイが、気安く肩を叩いてくる。別に嫌悪するわけではないが、気分のいいものではない。
以前までならそれは、オーガストだったりディセンバーだったりしていた。
今さらあの頃に戻れるわけはないし、密を組織へ渡すつもりもない。
背負うのは、自分一人で充分だ。
従業員用の出入り口へ素早く駆け寄り、非接触型のカードリーダーに、無理やりアクセスを仕掛ける。
「二十秒で開ける。それ以上はセキュリティ会社に自動通報が……待て、向こうが騒がしい」
だが彼は作業を進める前に、その向こう側がひどくざわついているのに気がついて、手を止める。エイプリルも辺りを警戒した。
侵入に気づかれたのかと思うが、そんなヘマはしていないはずだ。赤外線の感知システムもなかったし、監視カメラの類いは避けてきたはず。
「誰か向かってくる。一人じゃない」
「隠れるぞ」
ドアの向こうから、数名分の足音が聞こえる。ひどく慌てた様子に思え、恐らくこのドアを開けて、外に出ようとしているのだろう。
そう推察した二人は、ロックの解除を諦めて壁の陰に身を潜めた。
「侵入者感知のセンサーにでも触れたか」
「馬鹿な。こっちのサーチシステムの方が上だ。こんな民間企業に後れを取るような技術じゃない!」
「……まあ、そうだろうけど」
メイは本当に、組織でしか生きられない人間だなと、エイプリルは哀れみさえ感じる。少し前までは、自分こそがそうだったにも関わらずだ。
しかし彼の言うとおり、ここは民間経営の施設だ。スポンサーは多数いるだろうが、国家機密にさえ関わる仕事をこなす組織に比べたら、セキュリティはザルのようなものに違いないのに。
ともかく見つからないようにしなければと、息を潜めて気配を殺す。事と次第によっては、戦闘もやむなしか、と懐の武器を確認した。
できれば使いたくない。麻酔針つきの指輪、ワイヤー、ナイフ。エイプリルはぎゅっと拳を握る。
「急げ、急いで避難するんだ!」
「警察には誰かっ……それより、救急車と消防車は!」
「さっき主任が連絡してました! いいから早く出て!」
ドアから数人、ここの研究者らしき者たちが走り出てくる。どう見ても警備員ではなく、侵入に気づかれた気配は欠片もない。それどころか、我先にと逃げ出していく様子は、いったいどういうことだろうか。
(中で、何か……?)
警察、救急車、消防車――とくれば、中で火事があったのだと推察される。それも、慌てて逃げ出さなければいけないほどの。人の動きが多かったのは、このせいだったのかと納得した。
しかし、納得してばかりもいられない。エイプリルは、ちらりと振り向いてきたメイと視線を合わせる。
この混乱に乗じない手はないと、二人で頷いた。
二人は、研究員たちが出てきたドアが閉まりきる寸前、手を差し入れてロックを防ぎ、向こう側に人の気配がないことを確認して、するりと身を滑り込ませた。
火元はどこだろうかと確認する。人の熱源はほぼ確認できず、無事に逃げ出しているのだと、エイプリルはホッとする。
法に触れる薬を作り出してしまった企業だとしても、多くは何も知らずに研究にいそしんでいた一般人だ。犠牲を出すのは本意ではない。
「メイ、火元は隣の棟だ。ただ、ここも連絡通路で繫がっている以上、危険はある」
「防火扉動いてないのかよ。ずさんだな」
「早く終わらせるぞ」
「分かってるさ」
熱源はこの棟ではなく、隣接する研究棟のようだった。今すぐ煙に飲まれるということはなさそうだが、じきに通報を受けた警察や消防隊が到着するだろう。その前に、ミッションを完了させなければいけない。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-010-
それからというもの、二人は折に触れて体を重ねるようになった。
合図は、カフェオレの缶ひとつ。
休憩中に、外出戻りに、渡されるショート缶。二度目のあの日、きっかけとなったアイテムだ。
どちらかがそうしようと言ったわけでなく、そのひんやりとした感触と視線の交錯。それだけで意味を悟れるくらいには、二人は「大人」だった。
抱きたいも、抱かれたいも、何ひとつ言葉なく交わされる約束。ホテル近くのカフェで相手を待ち、LIMEが入ってくるのを待つ。
そんなことが、何度か続いていた。
今回は、至からの誘いだった。稽古のない金曜日、というのがこの関係の常だったが、たまにどうしようもなくそういう気分になったとき、翌日が平日でもカフェオレがやりとりされる。
あれから生まれた暗黙の了解――寮にはそういうものを一切持ち込まないこと。
密に気づかれ、責めさせ、つけないでいい傷を千景につけさせた。
あれだけは自分を責めたいと、至は今でも思っている。あのとき、どんな目で千景を追っていたか自覚をしていれば、千景が寮であんな暴挙に出ることもなかったのだと思うと、胸が痛む。
(仲良い相手に責められたらね、しんどいでしょ。いくら先輩でも)
本当はあのとき、千景が密をディセンバーと呼んだあたりから話を聞いていた。あの二人の間には、何かがあるのだと知って、最初に感じたのは、情けないかな、やはり嫉妬だった。
どうかすると密とさえ関係しかねない千景の闇を、垣間見てしまった気がしたのに、それよりも衝撃だったのは、〝終わるはずだから〟と千景が口にしたこと。
なぜそうなるのか分からなかった。少し考えれば分かったかもしれないが、あのときの至には、どうすれば千景の近くにいられるのかということの方が、重要だった。
だから二人の前に出て、続きそうだった言い合いを止めて、何でもないふりをしたのだ。
臣の作ってくれた夜食もほとんど喉を通らなかったが、無駄にするわけにもいかず、どうにか腹に収めて戻った部屋で、千景に伝えたつもり。
終わらせないでほしいと。
終わるなら、本当の気持ちを伝えて拒絶してからにしてほしい。そうでなければ終われない。至はずっと、千景を想い続けることになってしまう。恋に慣れているわけでもない至には、そちらの方が地獄だったのだ。
(ペテン師を騙すとかね、いつまでできるか分からないけど……マジ攻略マニュアルはよ)
千景を繫ぎ止めるゲームは、何よりも困難だ。
『今日ご飯いらない』――すっかりご飯係になっている臣に、そんなLIMEを送って、定時を三十分ほど過ぎて職場を出てきた。
千景はまだデスクに残っていたから、『お先に』とだけメッセージを送った。
そうして、いつものカフェで待つこと、二十分。頼んだラテは飲み干してしまって、口が寂しい。だが、もう一杯頼むほど時間もないだろう。
至は携帯端末でアプリを立ち上げて、ゲーム画面にログインした。
途中で千景が来ても、クリアするくらいまでは待ってくれる。何しろ職場でのエリートっぷりを知っていながら、寮での姿を見てもさほど驚かなかった千景だ。ゲームの一つや二つで、うるさく言ったりはしないだろう。
これからの目的を考えて、職場に近いところで待ち合わせるようなヘマはしていないし、幸い店内はほどよい客数でざわついていた。
とはいえ、エキサイトしすぎても、万が一知り合いがいたら「完璧なエリート」が台無しである。
時間潰しに、さほど盛り上がりもしない、見られても構わないパズル系のアプリを選んだ。落ちてくるアイテムを並べ替え、消し、ポイントやボーナスアイテムをもらう。時間制限つきのものならば、切り上げやすい。
至は端末の画面に指を滑らせながら、千景を待った。
いつだか、〝器用な指先だな〟なんて言われたことを思い出して、頬が染まったような気がする。
(先輩に言われたくないよな、アレ)
千景は指先が器用だ。咲也とのコイン勝負も、真澄に教える手品も、器用でなければできないことだ。
そうして至には、他の団員とは違う〝快楽〟を教えてくれた。
(惚れてなくても、たぶん先輩とのこれにハマってたわ)
もう何度、千景の毒に触れたのか分からない。何度、その毒を注がれたのか分からない。
指先から、唇から、猛る雄から、千景の毒をもらった。たぶんもう、他の誰とも性的快楽は得られないだろうと思うほど。
(……遅いな、先輩。まだ仕事終わってない?)
至はチラリと時計を見やる。定時からもう一時間も経っていた。連絡も入らないところをみるに、まだ職場なのだろう。何事もそつなくこなす千景にしては、珍しいことだった。残業している姿なんて、ほとんど見たことがないのに。いや、そもそも海外出張が多くて、あまり交流さえなかった相手だ。
しかしさすがに心配になってきた。案件を無理に片付けて、疲れているだろう彼に、ベッドの相手まで頼むのはどうにも気が引ける。
至はゲームを中断して、じっと待ち受け画面を見下ろした。
『今日はやめておきませんか』――そうLIMEを送ろうと、アプリを立ち上げようとしたところへ、ピロンッと小さな音を立てて、小さなメッセージがポップアップしてきた。
『悪い、急な出張が入った』
は? と目を瞠る。
慌ててアプリを立ち上げて、メッセージを読み直すけれど、先ほどと一言一句変わっていない。
(出張? このタイミングで? ……んな馬鹿な)
仕事はもう終えていいはずの時刻に、なぜ出張なんか決まるのか。上長の承認は取れているのか。邪魔してくれやがって、と至は眉を寄せて歯を食いしばる。
『やっとアポが取れた客がいる。これから逢ってくれるそうだ』
続けて入ったメッセージに、至は分かりやすく不機嫌に目を細めた。
(翌営業日におかけ直しください)
抱えていた案件が進むというのが、どれだけストレス回避に繫がるのか、至にも分かっている。それでも、よりによって今日でなくてもいいだろうと、どこだか知らないがその取引先の担当とやらを恨んでみた。
「……」
だが至は、千景いわく器用な指先で、返信のメッセージを打ち込んでいく。
『お疲れ様です。気をつけて』
送信してから、クソがと小さく呟いた。こちらの先約を優先しろとは言えない。恋人でもないのに、いや、恋人であったとしても、そんなことを吐いた途端に冷たく見下ろされるはずだ。
(めんどくさいの嫌いだもんなあの人。俺だってごめんだわ)
だけど、心臓が痛むことくらいは許してほしい。至は手の甲に額を預け、はあーと大きく息を吐いた。
(大丈夫、何でもない。そういう気分だっただけに、落差激しいだけだ)
逢えると思っていた。千景の熱を、毒を感じられると思っていた。
その期待が、ふしゅうと萎んでしまっただけだ。
寂しいだとか、担当との会合が終わってからでも逢いたいだとか、そんなこと言えない。
『正直、先輩がその案件に手こずってるの見ると、メシウマ』
『おい茅ヶ崎』
言えない分、からかい混じりの言葉で遊ぶ。
『それとも、裏のお仕事の方ですか? どんな取り引きなんだか』
少し間を置いてそんなメッセージを送っても、すぐに既読マークがつく。手は空いているらしく、それで安心できた。
『とある企業への非合法な侵入と、データの窃盗ってとこかな』
『なんかガチっぽいやつキタコレ』
そう打ち返すものの、千景のこんな噓にはもう慣れた。
怪しいと思うことは多々あるものの、危険な組織とやらに身を置いている人間が、こんなにのんびり劇団員をしているものか。
そう思うからこそ、言葉遊びを楽しめる。
『じゃあ気をつけて、先輩。俺帰りますね。あ、口止め料は魔法のカードでよろ』
『金額いちばん低くしてやる。茅ヶ崎も、気をつけて』
返ってきたメッセージに、思わず笑ってしまう。気をつけてと気遣ってもらえた。そんな些細なことに浮かれてしまうなんて、随分安い恋だ。
約束を反故にされたというのに、気分がいい。
至はにやける口許を端末で覆い隠し、空いた時間を有意義に使おうと、もう少しジャンクな店へと移動していくのだった。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-009-
「うーわー……ナニコレ、もしかして俺、超修羅場に遭遇したかな」
「ち、が、さき」
声が震える。千景はパッと密の胸ぐらを放し、至へと素早く歩み寄った。
「お前、どこから聞いてた?」
「あの、先輩」
「どこからだと言ってるんだよ」
どこからでもまずいことには変わりないが、至への想いに気づかれでもしたら、どうしたらいいのか分からない。
「……俺がなんのためにここにいると思ってる、あたり……ですかね」
至は目を逸らし、静かにその部分を口にする。
千景はホッとした。いや、安堵できる部分でもないが、オーガストとのことや、至への感情を悟られそうなところでなかったのには、心の底から安堵した。
「なに、先輩。もしかして密にバレちゃったんですか」
困惑ぎみに、諦めぎみに、至は肩を竦めて、千景越しに密を見やる。
ただれた関係を持ったことは確実にバレていて、否定のしようがない。至は沈黙をそのまま答えとしたようで、項垂れて額を押さえた。
「あー……、すみません先輩。そりゃ修羅場にもなりますよねー。密と仲良いんでしょ、密が怒るの無理もないですよ」
「どういう誤解だ」
「ああ、そうじゃなくて。俺だって万里が誰かとおかしな関係になってたら、張り倒すってことですよ。マジな恋愛ならまだしも」
至の口から出てくる、万里の名にさえ嫉妬する。恋を絡めているのはこちらの方だけだ。
確かに大事な友人が、褒められた関係でないものに足を突っ込んでいれば、怒りもする。至はそう解釈してくれたようだ。
「……至、体、平気……?」
密がゆっくりと歩み寄ってきて、至を覗き込む。相変わらず足音がしないのは、心臓に悪かった。
「そう聞かれるとなんかちょっと生々しいな……罪悪感」
無茶なことされたんでしょと、言外に含む密の口調。反論できないのが歯がゆくて、千景は眼鏡を押し上げて視線を背けた。
「平気だよ、密。もともと、仕掛けてきたのは先輩だけど、誘ったのは俺の方だし。煽った自覚はしてる」
「……至が、傷ついてないなら、いい。けど、エイ、……千景と一緒にいるつもりなら、覚悟、いるかも」
「は?」
「密」
覚悟? と至は首を傾げる。千景は牽制して、密を呼んだ。もう終わることに、覚悟も何も必要ないだろうと。
「部屋へ戻れ。廊下で寝こけても、俺はもう運ばないぞ」
「……うん。おやすみ、千景、至」
言いたいことの半分も言い合えていないと、その音の中に隠した二人。すれ違う寸前、密の手首を至が取った。
「密、あのさ」
「……至、大丈夫。誰にも言わない」
「そう……頼むわ」
至の声音に、安堵が混じる。そこを気遣ってやれなかったことに、舌打ちしたい気分だった。
部屋へ戻っていく密の背中を二人で見送って、同時にため息。
「バレたのが密で良かったですね、先輩」
「……謝らないぞ。お前が悪い」
「別に、終わったこと謝られてもムカつくだけなんで」
煽られて、我慢しきれなかった責任は千景にあるが、そもそも、寮内であんな無自覚の挑発をしてきたのは至だ。乱暴だったことは謝るべきかと思い直すが、〝終わったこと〟という言葉に、一瞬体を硬直させた。
「どいてください、先輩。腹減って仕方ない……」
何かあるかな、とキッチンの方へ向かっていく至と肩が触れ合って、千景は我に返る。
「……臣が、消化のいいもの作ってくれてる。朝になったら礼言っておけよ」
「マジか、さすがおかん」
上機嫌でキッチンへ向かっていく至の背中を、複雑な気分で眺めた。あんなことは何でもないらしいのが、気にくわない。
(信じられない男だな。自分をひどく犯した男と密着しても、震えのひとつもないなんて)
至は、どういうつもりでいるのだろう。謝罪も受け付ける様子のないあの男は、腹の中で怒りを煮えたぎらせているのだろうか。
いや、今の様子ではそんなこともないのだろう。
本当に、終わったことだと認識しているだけなのか。
(……最後になるなら、もっと堪能しておけばよかったかな)
この気持ちは告げられない。また隠し事が増えた。
千景はふっと短く息を吐いて、一〇三号室へと足を向けた。
テーブルの上で愛機を広げ、状況を確認する。
組織がこの劇団を認識している様子はない。隠れ蓑にしてるだけだと面倒そうに説明したが、どこまで真実と受け取っているか。潜入時の演技力を鍛えるためにもね、と付け加えたのはよかったかもしれないが、いつディセンバーの生存を知られるか、分かったものではない。
オーガストは守れなかった。ディセンバーも傷つけた。
もう誰ひとりとして、犠牲にはさせない。
この毒に、触れさせてはいけないのだ。
ぎゅ、と拳を握る。触れた三度の過ちを、いつまでも引きずっているわけにはいかない。
千景はすうーと息を吸い込んで、ふうーと吐き出した。
「まだ、起きてたんですか。先輩」
夜食を終えたのか、至が部屋に戻ってくる。普段と変わりない彼の態度に安堵した。
「ああ。少し調べ物があって」
「そうですか。あ、そういえば、エイプリルって、先輩のあだ名?」
目を瞠った。舌先が凍り付いて、一瞬何を言われたのか把握できない。
「な、……にを」
「密がそう呼んでたでしょ」
ぐるり。胃が回る。
危険だと感じた。至がその名を知るということは、秘密の漏洩に繫がる。至がその名に興味を持って調べようとすれば、エイプリルと、ディセンバーの真実にたどり着いてしまう。
「ちが、さき」
知られたくない。この手が血で汚れていることなど。その手で至に触れたことなど。
いや、百歩譲って自分のことは諦めるにしても、密のことまで気づかせるわけにはいかない。
危険だ、と頭の中で警鐘が鳴る。至自身の危険にも繫がるだろう。
どうごまかそうか――いろいろな考えが頭の中を巡る中、
「先輩たちって、なんかあれでしょ、ネットのコミュとかで知り合った感じ? ハンドルネーム?」
至はソファに腰をかけ、まるでなんでもないように続けた。
「……コミュ?」
「それとも大学のサークルかな」
ああ、と心の中で安堵した。そうだ、普段平和に暮らしている人間は、別の名イコール危険な組織とは結びつけない。特にネット社会の今、偽名を使ってコミュニケーションを取る者は多いのだ。
「まあ、そんなもんかな」
千景はためらいのない動作でキーを叩き、作業に戻る。
「映研とか? 絶対インドア系でしょ。あ、お酒繫がりとか。密はザルですもんね」
「犯罪研究会」
ふ、と笑ってみせた。もっともらしい噓は時として真実に成り代わり、真の事実は覆い隠される。
「うわーありそー。ガチのやつキタコレ」
「世界各国で起こった事件を調べてたな。殺人・宗教・テロ、エトセトラ。ああ、そういえば詐欺事件を追っていたときは、すごく楽しかった」
「それが今に活かされてるわけですね」
「そうなるな。危ない組織にスカウトされて、法に触れるようなこともして、いろんな人を手にかけた」
織り交ぜられる、真実。非日常を匂わせた方が、作り話らしくなる。至には度々話して遊んでいたし、おかしなことはないはずだ。
「――って言ったら、驚く?」
「今さら驚きませんよ。そういう中二設定、むしろアガるんで」
「だろうな」
千景はふふっと笑う。茅ヶ崎至という男相手にだからこそ、話を作ってみせたのだ。そうでなくては困る。
「じゃあ、銃とかナイフとか、クラックにも詳しい感じですか」
「昔の知識しかないよ。銃は合法下で撃ったことがあるけどね」
「マジか。さすが海外慣れしてるわ」
「日本は、民間人の拳銃所持が禁止されていていいね」
ゲームセンターに置いてあるものは、本当にゲーム画面用だし、シューティングバーやサバイバルゲームのも、言い方は悪いがおもちゃである。
本物を撃つときの、衝撃と胸くその悪さに比べたら、子供だまし以外の何物でもない。
「茅ヶ崎、エイプリルという名は、外では絶対に呼ぶなよ。ディセンバーもだ。アイツは途中で組織を抜けたから、追われる理由がある」
「なーる、そういう設定ね。おkおk」
「そういうわけだから、俺に近づくと危ないっての、分かるよな?」
多数の意味を含めて、静かに口にする。茅ヶ崎至という男は、つくづく変わった男だと思った。自分が犯された場所で、自分を犯した男の傍で平然と座っているのだから。
「……肝に銘じますよ」
視線がこちらを向かない。ソファの上で、軽く拳が握られる。どこまで本気で取っているか分からないが、少なくとも性的な方面での身の危険は、理解しているはずだ。
「んじゃ俺、寝るんで。先輩は、まだ?」
「……ああ、もう少しね」
そーですか、と至はソファから腰を上げる。
「あ、そうだ先輩」
ベッドに上がった至が、ひょいと身を乗り出して見下ろしてくる。見下ろされるのは好きではないが、この状況なら仕方がない。千景は至を見上げた。
「次は、ちゃんとホテルでしましょうね」
「……――は?」
「ははっ、レア顔げとー。おやすみなさい、先輩」
カシャ、と携帯端末のシャッター音が耳に届く。我に返る隙も与えず、至はベッドに寝転んでいた。
千景は上げかけた腰をとすんと落として、眼鏡のブリッジを押さえる。
(次? 次ってなんだ……次があるのか?)
次はホテルで――それはつまり、終わらないということだ。もう触れることは叶わないと思っていた。合意も得ずに無理に繫がった事実は消えないのに、なぜ次をほのめかすのだろう。しかも、近づき過ぎたら危険だぞと忠告したあとで。
「馬……鹿な、ヤツ……」
思わず口を突いて出たのは、稽古で、公演で、何度も音にしてきた台詞。〝エイプリル〟でなく〝卯木千景〟としての日常だ。
千景はパソコンを閉じて、頭を抱える。
続けるべきではないと分かっているのに、歓喜する気持ちを隠しきれない。至がベッドに上がってくれていて良かったと、口許を押さえた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
愛のひとつも囁けない-008-
「あれ、至さんまだ寝てるんですか?」
夕食の時間にも、至の姿はなかった。食事当番である臣が、心配そうに呟く。
至のルームメイトである以上、現状を確認されるのが千景だというのは仕方のないことだが、部屋割りを恨みがましく思った。
「ああ、さっき声はかけたんだけどね。寝ているみたいだったから」
「そうですか……消化いいもの作っておいた方がいいですかね、夜食にでも」
「いいと思うよ。まったく、茅ヶ崎はここでも甘やかされているな」
千景も食卓につき、ペスカトーレに自前のスパイスを掛けて口を運ぶ。
「ここでもって、職場でも?」
「甘やかされている至か……ふふ、可愛いね」
紬と東が、会話の中に入ってくる。千景は当たり障りがない言葉を選び、答えた。
「甘やかされてるというか、あの顔利用して自分の仕事を最小限にしているというか。周りが手伝ってしまう感じかな。もちろん、茅ヶ崎の能力が低いわけじゃない」
「ハハッ、至さん顔だけはいいもんなぁ。寮じゃあんななのによ」
「この劇団で、いちばん裏表が激しいのはアイツだろうな。まったく……二十二時就寝だって、何度言ったら分かるんだ」
至とゲーム仲間である万里が、節制を謳う左京が、それぞれに思ったことを口にする。
何だかんだ言いつつ、劇団の全員が〝茅ヶ崎至〟という人間を、ありのままに受け入れている。
それがどうしてか、嬉しい。
無意識に、口の端が上がった。
ふと視線を感じて顔を上げれば、御影密がじっとこちらを見ていた。怪訝に思って眉を寄せ、首を傾げた。
「密? なんだ」
「……別に」
それはすぐにふいと逸らされて、密の内面を見ることはできない。
不審に思いつつも、千景は目の前の食事を片付けることにした。
そうして、臣が至の夜食にと、冷製野菜ポタージュを作ったり、明日の朝食の下ごしらえをしている傍ら、リビングで劇団のメンバーと過ごす。
以前はあの家で過ごしていたが、公演を終えてからは、この場所を心地よく思うようになった。チャンネル争いをする賑やかさ、晩酌をする気楽さ、時折レッスン室の方から聞こえてくる、稽古の熱気。
改めて、自分のすべてを懸け、この劇団を守ろうと思った。
必要ならば、法に触れる罪を犯しても。
実際今、ディセンバーの生存については、情報を操作して気づかれないようにしている。
組織には〝恐らく死亡〟と報告しているし、表立った捜索は打ち切られた。
密が落ちたあの海は、潮の流れの関係で、自殺者がいても遺体はめったに上がらないとされている。生きて流れついた密は、よほど運が良かったのだろう。
自分がこの劇団にいることは、危険なことでもあるが、外にいるよりは守ることができる。
そうして、左京の決めた就寝時刻を大幅に回って、日付を越えてから、千景は一〇三号室に戻ることにした。
至は一度も顔を出さず、さすがに心配になってくる。まさか、あのまま眠ってしまったのではないだろうかと。風邪を引いてしまう。
だが途中の廊下で、背後から呼び止められた。
「千景」
ひゅ、と息を飲む。千景は背後を振り返った。
声をかけられるまで気配に気づかなかったのは、至のことに気を取られていたからか、相手が密だったからか。どちらであっても不覚である。
「なんだ、密。お前は相変わらず、気配を消すのがうまいな」
すっと目を細め、ほの暗い廊下で密と向き合った。
大人組も未成年組も、さすがに自分の部屋で、思い思いに過ごしている時間帯だ。余計に静かで、千景は声を潜める。
「どういう、つもり」
「……なにがだ?」
密の静かな声の中、ほんの少し怒りが込められているようで、不審に思った。
いつも眠そうにして、多くを語らないこの男は、千景以上に感情を出すのが不得手に思うのに。
「至に何をしたの」
ぎくりと、体が強張った。
まさか、至とのことを気づかれていたのか。血の気が引いていく。
怒りは責めに変わり、遠慮なく突き刺してくる。指先がすうっと冷えていくような感覚を味わった。
「千景、至はお前じゃ無理だし、至にもお前は無理だと思う」
ドクンドクンと心臓が鳴る。密はやはり気がついているのだ。夕食時のあの視線は、そういうことだったに違いない。
「至は駄目……」
「うるさい」
「千景」
「うるさいぞ、ディセンバー!」
ダン、と傍の壁を叩く。思わずコードネームの方で呼んでしまってから、ハッと口をつぐんだ。今はその名で呼ぶべきではない。彼は、ここで、御影密という名を受け入れて受け止めて、自分のものにしているのだから。
「……何を勘違いしているか知らないが、合意の上の関係だ。別に薬を盛ったわけでもないし、もっと言えば誘ってきたのは向こうだぞ」
やはり御影密という男は厄介だと、千景は震えそうな顎を隠すために口を覆う。気づかれているのだとしても、否定をしなければいけない。この毒で茅ヶ崎至を冒す男は、恋なんてしていてはいけないのだ。
「お前はどうか知らないが、俺にも性欲はあるんだよ。合意の上で近場で処理するのに、どうしてお前の許可がいる? アイツが駄目だって言うなら、お前が相手をしてくれるのか?」
く、と喉を鳴らして笑う。指先で密の顎を撫でれば、すぐさま払われた。
「オーガストみたいにすればいいの? 絶対に無理」
ハッと目を瞠る。返り討ちに遭った気分だ。
あの頃、たわむれにオーガストと関係を持っていたことも、密は知っていたのかと。
「密、俺は」
「別に怒ってるわけじゃない。オーガストとお前がそれでよかったんなら、俺が口出すことじゃない」
唇を引き結んで、ぐっと噛みしめた。
彼に対して恋情があったかというと、そうでもない。彼の方もそうだろう。
「でも、至は違う……何がしたいの」
責めて突き刺してくる視線に、不安と、不満が見え隠れする。遊びの相手にするなと責める奥、怯えが見えるような気がした。
「お前の都合だけで、至を傷つけないで、千景。ここは俺の居場所なんだ……あと、お前の居場所でもある。心地が良い場所。でも、俺たちがここにいることの危険性は、分かってるんでしょ……エイプリル」
千景はこらえきれず、密の胸ぐらを摑み壁に強く押しつけた。
密なら避けられただろうに、あえて受けてみせた彼に、腹の底から声を絞り出した。
「俺がなんのためにここにいると思ってる……! 守るって言っただろ、密……ッ」
危険なことは分かっている。だけど守るためにも、ここにいるしかない。眼鏡のレンズ越しに、共犯者たちの視線が重なる。
「劇団を壊すつもりなんてない。お前の、……俺の家族を巻き込むつもりも、もうさらさらない。お前が気をもむ必要はないんだ。守りたいなら、黙ってろ……!」
胸ぐらを摑む拳に力を込めて、摑めない自分の心臓の痛みをごまかした。
「それに、茅ヶ崎がどうこうという話なら、それこそ無駄な心配だ。アイツとはもう、……終わる、はず、だから」
声が沈んでいくのが自分でも分かる。心臓の痛みが増すのが煩わしい。
あんなことをしてしまったのだ、至が次を望むとは思えない。お互いの気まぐれと事故で始まった関係が、そんなに長く続くわけもない。
壊してしまったのは、千景の恋心。
「……千景……? お前、……あ」
密の声に、驚愕が混じった気がしたその瞬間、視線が左にそれる。
「至」
密が呼んだその声に、千景はさっと血の気が引いていく音を聞いた。
慌てて密の視線の先を振り向けば、気まずそうに顔を引きつらせた茅ヶ崎至が佇んでいた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス
/ /

そうして何事もなく木曜が終わり、金曜日が過ぎ、至は土日のほとんどを部屋にこもって過ごした。
というのも、ここ最近千景と過ごしていたせいで、大分ゲームの方がお留守になってしまっている。
もちろんランクを大幅に落とすことはないのだが、一時期のように、何が何でも最大限の熱を入れて、ということはなくなったような気がする。
春組に入って、他のメンバーの熱意に気が引けて、辞めようとしたところを引き留められて、もう少し真面目に取り組んでみようと思い始めた、あの頃とよく似ていた。
(ゲームより熱くなるものなんか、ないと思ってたわ。ましてや、真面目に恋愛なんてな。クソほど一方通行だけど)
コントローラーを握る手も、できれば千景に触れていたい。画面を追う目にも、できれば千景を映したい。
明日になれば会社で逢える。出先から直(チョク)で行く予定だと言っていたし、そうなるとあと十時間ほどだ。
月曜日が待ち遠しいなんて、人生で初めてではないだろうか。
初めての男は、こんな些細な初めてまでをも持っていく。
勘弁してくれと、至はコントローラーを放り投げてソファに寝転んだ。
「マジ疲れる、ないわー……」
もしも次があるのなら、もっと楽な恋がしたい。
そう思う傍から、早く千景の顔を見たいと思ってしまうのだから、まったく始末に負えない。
気づかれてはいけないという後ろめたさとスリルが、余計に思いを増幅させているかのようだった。
「茅ヶ崎さん、おはようございます。何だか嬉しそうですね? いいことでもあったんですか?」
職場のエレベーターで一緒になった同僚に、そう声をかけられる。
「おはよう。そう見える?」
「見えます~月曜なのに、なんか羨ましい」
「ははっ、だけど別に、何があったってわけでもないんだよね~」
至は職場用の顔と声でそう答えた。内心で、危ない危ないと冷や汗をかきながら。
(やっべー、そんなに浮かれて見えんのか。気をつけないとな)
ようやく千景の顔が見られる――それだけで浮かれてしまえる、お手軽な恋。
誰にも言えないけれど、本人に伝えられもしないけれど、些細なことで幸福になれるのだ。
困った。相当溺れてしまっている。
至はきゅっと唇を引き結んで、ニヤけそうになる口許を戒めた。
そうして自分のデスクがある島に着いたが、千景の姿はまだない。寂しいような、心の準備をする時間ができてホッとしたような。
(心の準備って。ワロス。相手は先輩だぞ。……いるわ、準備)
はあ〰〰と大きなため息をついて、慣れたチェアに腰を下ろす。
千景に逢うには、心の準備がいる。恋心がダダ漏れにならないように、細心の注意を払わなければいけないのだ。
自分は同僚かつ後輩で、劇団員としては先輩で、ルームメイトでセフレ。何とも面倒な関係である。
ドキドキと胸が鳴る。
小学生じゃあるまいし、そんな初々しい想いだけではないのに、逸る鼓動が治まってくれない。
もう四日も逢えていない。寮で毎日逢えるようになってしまったからこそ、たった数日が長いのだ。
至はパソコンの電源を入れ、今日のタスクを確認しながら、どうにかして落ち着こうと、ゆっくり深呼吸を繰り返した。
だが就業時刻になっても、千景は出社してこない。
(……あれ?)
遅刻だろうか。出先から、直接出社すると聞いていたのに、定刻を三十分過ぎても姿を現さない。電車の遅延かもしれない。始めはそう思っていた。
だがさすがに一時間も来ないとなると、そんなものではないと思い始める。
至は携帯端末を覗き込むも、連絡は来ていない。
千景のデスクがある島をちらりと見やるも、誰かが慌てている様子はない。
みんな自分の仕事に精一杯なのか、それとも向こうのチームには、何かしらの連絡が入っているのか。
『先輩、どうしたんですか? 今日は出社予定でしょう』
至はそわそわとドキドキを抑えきれなくなって、個人LIMEにそうメッセージを落とした。
既読がつかない。もともと即レスをしてくるような相手ではないから、それは別にいいのだが、何の連絡もないのが気にかかる。
至は、思い切って向こうのチームに状況を聞いてこようと、腰を上げた。そのときちょうど、一人の社員が声を上げる。
「なあ、そういや今日卯木さんは?」
ピタリと動きを止めて、至はその場できゅっと拳を握った。
(それな。つかそっちにも連絡ないのか?)
「あれ、えーと……」
「ああ、卯木ならちょっとトラブルだって連絡あったぞ。なんでも製品に不具合があったとかでな。検証作業に立ち会い頼まれたらしい」
「えええマジですか」
(マジでか。つか何それ。それならそれで、連絡くらいくれたって……)
端末を見返すも、返信どころか、やっぱり既読もついていない。
トラブルがあったというのは本当らしいと、釈然としない思いを抱えつつも、椅子に座り直した。
「あーあ。今日の交渉、ついてきてもらおうと思ってたのになぁ」
「一人で行け。俺だって助っ人欲しかったわ」
千景は職場でも評価が高い。好きな相手の評価が高いというのは嬉しくて、じんわりと熱くなってくる胸を押さえた。
「そういや三課の拡販ルート広げるってヤツ、どこまで進んでんの?」
「あれしばらく無理でしょ。メインコラボの二次取引先、今大変なことになってんじゃん」
「……えっ、あっ、もしかして先週のニュースのとこ? うわー、キッツ~」
そんな会話が聞こえてくる。どうも別の課で展開していた拡販企画が、ストップするようだ。年度予算の計画に盛り込まれていたはずなのに、大きな痛手となるのだろう。
(先週のニュース? ……ああ、やっぱりあれ、取引先絡んでたのか……)
製薬会社が火災になったというニュースは、まだ覚えている。爆発があったなどという情報もあったし、火元の特定と原因の調査に入っていると報道されていたが、どうなったのだろう。社を挙げての新薬開発がなされていたのなら、損害はどれほどのものになるのか。考えたくもない。
今はそちらの対応に追われるのだろうし、生産ラインや研究がストップしてしまうのも仕方ない。
「だってさあ、研究室ほぼ燃えちゃったんだろ?」
「なんか研究データも全滅って聞いたわ。死ぬ」
(データ?)
「作ってた薬のサンプルもなくなっちゃったんでしょ? 怖いよねえ~」
「データのバックアップは? 危機管理とかどうなってんだろ」
(……サンプルもなくなった? 燃えた、……消えた?)
聞こえてくる会話の端々が、どうしてか至の頭に引っかかる。わりと最近、どこかで聞いたことがあるような気がした。
(待っ……いや、いやいやいや、ないわ。ない)
そういえば、と端末の画面をスワイプして、アプリを立ち上げる。
LIMEの履歴をたどる相手は、千景だ。
逢えなかった水曜日のログ。
『とある企業への非合法な侵入と、データの窃盗ってとこかな』
裏のお仕事ですか、と冗談十割で入れたメッセージに対して、千景が返してきたものだ。
もちろん冗談だと思った。今だって、そう思っている。思いたい。
あの火災のニュースが入ってきたのは、木曜の朝。つまりはこのメッセージがあった深夜、あの製薬会社で火災とデータの消失があった。
(待って……待て、馬鹿、そんなわけないだろ、ないわ!)
あの火災で、逃げ遅れた人たちがいなかったのは聞いている。避難経路や物の置き方に関して、消防法に違反していたという報道もされていない。
もし――もしあれが人為的な火災だったとしたら。人的被害が出ないよう、逃げられる時間を計算して起こされた火災だったのだとしたら。
本当の目的が、データの消失あるいは窃盗だったのだとしたら。
(先輩、侵入った、……の、か?)
嫌な仮定が、頭の中を廻る。
あの日からろくに連絡の取れない千景。トラブルに巻き込まれたというあやふやな情報。度々会話に織り交ぜられてきた、〝組織〟の香り。
ぞわ、と全身に鳥肌が立った。
(トラブルって、まさか……)
至は瞬きも忘れて小さく顎を震わせた。
ぶつかるかぶつからないかの震えで、時折歯がカチカチと音を立てる。
「茅ヶ崎さん? どうしたんですか? ちょっと、ねえ、顔真っ白ですよ!?」
デスクの傍を通りがかった女性社員に声をかけられ、至はハッと我に返った。
「えっ、あ、ご、ごめん何でもない……」
「何でもないわけなくないです!?」
「おい茅ヶ崎、お前ほんと顔色悪いぞ? 体調悪いのか、早く帰った方がいいんじゃ」
「タクシー呼びます? あ、でも茅ヶ崎さんマイカー出勤でしたっけ」
誰か送っていった方が、と続けられる会話のテンポに、思考がついていかない。
正直、仕事が続けられる状態でないのは本当だ。この動揺ではまともに〝エリート〟の茅ヶ崎至を保っていられない。
「あ、だ、大丈夫ですよ……でも、ちょっと、早退させてもらってもいいですかね……出社早々で申し訳ないんですけど」
こんなとき、外面だけは良くしてきた甲斐があると、実感する。誰も、何も、疑ってこない。
「一人で大丈夫か? 半休扱いにしておいてやるから、ゆっくり休め」
「すみません、ありがとうございます」
ちゃっかり上長の許可を取り、至は帰り支度を調える。
心配そうな顔の同僚たちに見送られ、エレベーターに逃れた。
#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス