No.444

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ふたりの約束-016-

カクテルキッス04 2019.08.04

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

「マジで忘れてんのかよ……」「ど、どうしよう、一時的なものだといいんだけど……」 事故のショックが大…

カクテルキッス04

ふたりの約束-016-


「マジで忘れてんのかよ……」
「ど、どうしよう、一時的なものだといいんだけど……」
 事故のショックが大きいのだろうと、紬は思いたいようだった。確かに、物理的にも精神的にも衝撃的なできごとで、普通の生活をしてきた人間なら、それも仕方ないかもしれない。
 だけど、千景は普通の世界で生きてきた男ではない。
 至が想像する以上の修羅場をくぐり抜けてきたのだろうことが、眉を寄せた密から伺いしれる。ただの交通事故のショックで、記憶まで飛ばしてしまうなんて思いたくなかった。
 いくら千景でも記憶のコントロールまでできるわけはないと分かっていても、強靱な肉体と精神をしていると思っていたのに。
「ひ、ひそ……か、ごめん……」
 至は俯いたままぼそりと呟く。密の顔は見ることができなかった。
 千景自身が何よりも大切にしていた、密のことまで忘れてしまった。どれだけ腸が煮えくり返っているだろう。
「オレのことはともかく、至のことまで忘れるとは思わなかった、千景」
(……え……?)
 密が、責めるように呟く。それは至が千景が密を忘れたことに対して思ったのと同じことで、自身のことには触れられない。
「お前が守りたかったのって、至なの、それとも自分なの」
 言って、密は病室を出ていく。至は思わず後を追った。
「密! 今の、なに……どういう意味」
 廊下で、呼び止めた密の背中に問いかける。守りたかったというのは、どういうことだろう。
「至……ごめん、アイツはただ、臆病なだけ……。オレたち三人の中で、いちばん情が深かった」
「三人……え、あ、……オーガスト、さん」
 密は立ち止まって振り向き、こくりと頷いた。彼らがどうやって出逢い、どうやって暮らしてきたか、至は知らない。踏み込んではいけない領域だと思っている。
「……密は、怒ってる? 先輩が忘れちゃったこと。大事な家族なんでしょ」
「別に怒ってはない……でも、アイツが落ち着いたら、謝らなきゃいけないとは……思ってる」
「え、なんで……」
「オレも千景を忘れてた。再会するまで。再会しても、怖がって思い出すのを拒絶した」
 あ、と至は思い出す。そういえば、密も記憶喪失だったのだと。
 何がきっかけで、どこまで思い出しているのか至は知らないが、劇団の稽古や、彼の所属している冬組との関係性に、支障はなさそうで気にしていなかった。
「オレがあそこでのんびり暮らしてる間、千景もこんな思いをしてたんだって……気づいたから、怒っては、ない……寂しいのはあると思うけど、言ってなんかやらない」
 ずきりと胸が痛んだ。記憶がない間、密の周りにはたくさんの仲間がいた。千景はそれを、どんな思いで見ていただろうか。
「至、ごめん……」
「なんで密が謝るの。俺だって、先輩を怒る気持ちなんかないし。突然一方的に別れられたことに関しては、怒ってるけど……今はそんなこと言ってる場合じゃない」
 別れを切り出しておいて優しくするような無責任な男ではあるが、それと記憶喪失の件は別問題だ。
「日常生活には、たぶん問題ないと思う……オレがそうだったからって、アイツがそうだとは限らないけど。受け答えもしっかりしてたし、医者がいいって言えばすぐ出られる……」
「そっか……」
 記憶喪失経験者――というのはおかしいかもしれないが、密がそう言うなら、千景の日常生活に関しては、それほど心配したことでもないのかと、肩の荷が下りた。
「じゃあ、オレは帰る……ここにはマシュマロがない」
 そう言って、密はくるりと踵を返す。帰る理由が密らしいなと肩を竦め、至は病室へと戻る。
 だがそうしても、やっぱり千景の記憶は戻らないままだった。
「物事に対する知識はしっかりありますから、生活に問題はないでしょう。自分自身と、周りの環境を覚えていないようで、一時的なのか、それとも長期的になるのか」
 医師は言葉を濁して、いづみたちに説明をしていた。不安そうにする面々の中で、左京は比較的落ち着いて状況を把握し、今後必要なことを確認している。
 ひとまず検査のためもあり入院は必要なようで、身の回りのものを準備しなければいけない。
「着替えなら俺取ってきますね。先輩、ほんとに私物ないんで、そこらへんは楽でいいわ」
「茅ヶ崎……お前、大丈夫か?」
 左京なりに気を遣って、具体的な言葉にはしない。その気持ちはありがたいが、至は苦笑した。
「平気です。それと、あのことは内緒にしてくださいね。混乱させるべきじゃない」
「至さん、どこ――」
「いったん戻る。俺の車、パーキングだし。あ~……会社に連絡しなきゃいけないのか……明日出勤したら即だな……」
 至も、千景に背を向けて病室をあとにする。心配して、紬と万里が追いかけてきた。
「至くん、ねえ、さっきの話」
「どの話?」
「とぼけんのかよ、別れたってやつ、マジなのか?」
「それと、千景さんには内緒にしておくっていうの、本気なの?」
 エントランスへ向かう階段を下りながら、至はややあってうんと頷く。
 納得していないとはいえ別れたのは事実だし、そのことを今の千景に言うつもりもない。
「見た? あの先輩が、めいっぱい不安そうな顔してんだよ。自分のことも分からない、周りには知らないヤツばっか。怪我までしてんのに、なにがあったのかさえ思い出せない。そんな状況で、なにを言えって言うんだよ」
 首を傾げ、目を細め、不審げに片眉を上げて見つめられた。本当に知らない男を見るような瞳は、不安でいっぱいだった。後ろにいた万里たちには、それは分からなかったかもしれない。
「そりゃ、今は混乱させるだけだって分かるけどさぁ! アンタこのままでいいのかよ!」
 万里の苛立った声が耳に届いて、至は自動ドアの前で勢いよく万里を振り向いた。
「いいわけないだろ! たった一度の初恋なんだぞ!」
 万里が、紬が、息を飲む。
 この先、もしかしたら恋をするかもしれない。千景ではない別の相手と。
 だけどそれは初めての恋ではなくなるし、千景はどうしても至の心に住み着くだろう。
「でも、先輩が望むんだったら俺は忘れたふりして生きてくわ」
 忘れてほしい――そう言ったあの時の千景の声が、まだ耳にこびりつく。
 忘れてほしいと言った彼の方こそが、すべてを忘れてしまったのは、なんとも皮肉な話だ。
 しかし、スイッチを切り替えるように、すべてを思い出させることなんてできやしない。
 奇しくも自分たちは、客の前で別人を演じる舞台役者ではあるが、実際の生活では早着替えもシナリオも存在しないのだ。
「悪い、万里、紬。ちょっと一人にしてくれ」
 それだけ言って、至は病院の自動ドアをくぐり抜けた。悔しそうに、寂しそうに二人が立ち尽くしているのは気配で分かったけれど、今の至には彼らを気遣う心の余裕がない。
 だけど思ったよりも自分の足取りはしっかりしていて、千景が車を停めたであろうパーキングまで、たどり着くことはできた。
 ひとまず精算と出庫を終え、寮へと向かう。
 気づけば時刻は午前三時。
 終電もとっくに終わっていて、この車がなければ人数的にタクシーを使うしかなかった。その点だけは、車を持ってきてくれた千景に感謝しておこう。無駄な出費はしたくない。
 信号をいくつかやりすごして、横断歩道は特に慎重に走らせて、強くステアリングを握る。
 自身の手にも巻かれた包帯が、現実を知らせてくる。
 じんじんと痛み出す擦り傷が、胸の痛みにすり替わっていく。
 運転している時にあまり考え事はしたくないと、できるだけ速く、それでも法定速度で車を走らせた。
 寮の駐車スペースに着いてようやく、至はシートに体を沈めた感覚を味わう。
 ステアリングから手を放そうとすると、ガチガチに固まっていることに気がついた。そんなに緊張していたのかとゆっくり息を吐き、吸い込み、止めて、唾を飲み込んでまた息を吐いた。
「……っ」
 途端、あふれてくる涙。
「やば……ヤバい、駄目だ」
 手のひらで目元を覆う。その手のひらがどんどん濡れていき、せき止めていられなくなり、?を雫が伝った。
 ――寂しい。
 悔しさより、悲しさより、何よりも寂しさが先立つ。怒りなんてない。千景が千景であることを最優先した結果なのだと、納得したい。
 至は腰を折って、ステアリングに額を当てる。ボタボタと滴り落ちる涙が、スーツにシミを作っていった。
「……っ、ふ、う……ぅ、うぅ」
 ――寂しい。
 一度知ってしまった彼の温もりを、どうやれば忘れられるだろう。距離を置けば、口を利かなければ、いっそ彼のようにすべてを忘れられたらいいのにと、口の端を上げて笑う。
「せんぱい……そんなに、忘れ、た、かった、のかな……っ」
 記憶の喪失は潜在意識と防衛本能だと何かで読んだことがある。
 それが大学の講義資料だったのか、はたまたラノベだったのかさえ思い出せないが、それが本当なのだとしたら、千景は至とのことを忘れたかったということになる。
 それが、千景が千景であるための衛りだというのなら、なおさら無理に思い出させることはできない。
 混乱は混乱を呼び、取り戻せる記憶さえ閉じ込めてしまうかもしれない。
 また一から始められるなんて前向きなことはまだ思えないけれど、受け入れるしかなかった。
 ただ少しここで泣き納めだと、至はステアリングに爪を立て、声を殺して一人で泣いた。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス