カテゴリ「カクテルキッス02」に属する投稿21件]2ページ目)

(対象画像がありません)

愛のひとつも囁けない-011-

カクテルキッス02 2018.07.01

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

 今日だけは勘弁してほしかったなと、千景は息を吐く。 せっかく至の方からの誘いだったのに、流さざるを…

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-011-



 今日だけは勘弁してほしかったなと、千景は息を吐く。
 せっかく至の方からの誘いだったのに、流さざるを得なくなってしまった。
「ターゲットは?」
「C棟の地下一階、第二研究室の奥。見取り図は把握してる。監視カメラの映像細工してからだな」
「了解」
 合流したエージェント・メイとともに、今回の獲物とルートについて確認する。
 ある製薬会社が、危険な薬を開発してしまったらしく、組織はそれが欲しいらしい。まともなところで幻覚作用の強いドラッグか、最悪なものを想定すれば細菌兵器。しかし防護服着用の指示が出ていないあたりを見るに、ウィルスやなんかの類いではないようだ。
 いくらエージェントが捨て駒だと言っても、ミッションを成功させるまでは、生かしておくはずである。何しろ、そのために孤児を拾い育ててきたのだから。
「中身は、知っているのか?」
「俺たちが知る必要はない、ってさ。いつものことだろ、エイプリル」
「……そうだな」
 しかし製薬会社の研究施設ともなれば、警備は厳重だ。どれだけの訓練を積んでいるかは知れないが、雑魚でも数がいるとなると多少面倒になる。
「俺が盗んでいる間、警備どうにかしてて。かかってるセキュリティこじ開けるのと、戦闘同時は難しい」
「殺さない程度でいいだろ? 警備員とはいえ、この国じゃ子供だましも同然だ」
「いいんじゃない。上からは生死の如何は指示されてない」
 分かった、と千景は黒のグローブをはめる。指紋を残すわけにはいかない。
 本来なら今夜、この手は至に触れるはずだった。その手で今、罪を犯さなければならない。ミッションが成功しても、その名残を残したまま触れることなど、許されるはずもない。
 指紋を残さないこと、そして罪の香りをあの男に悟らせないこと――それが千景の任務だった。
 そうして、仕事用の眼鏡をかける。フレーム傍のスイッチに軽く触れれば、グラスの色が変わった。エイプリルの視界に通常は見られない世界(モニター)が広がる。
 サーモグラフィ。現代ならほぼすべての人間が持っているであろう、通信媒体のポイントマーク。余計な電流が通っていないか。エトセトラ。
 気づかれずに侵入するには、あらゆる情報がリアルタイムに必要となってくる。
「待て、メイ。少しおかしい」
 その小さな画面上での動きを追いかけて、エイプリルは訝しげな声を上げた。
「どうした?」
「人の動きが多すぎる。研究員はほぼ帰宅している時間だろ。そうでなくても、研究室にこもっているはずなのに」
 せわしなく動く、赤いマークがうっとうしい。中で何か問題が起こっているのだろうか。
「北口に集中しているみたいだ」
 タブレット端末に指を滑らせて、見取り図と照合してみる。日付が変わった直後の時間帯にしては、やはり人が多すぎだ。
「予定ルートの南口には来てないんだろう? 好都合じゃないか。侵入(はい)りやすくなる」
「見つかる可能性の方が高い。少し時間を――」
 エイプリルの制止を振り切って、メイは塀に飛び乗ってしまう。感知システムがないからいいものの、接触による作動システムだったらどうするのだと、相方の無謀に舌を打った。
「エイプリル、上がってこい」
 周辺に異常がないことを確認したらしいメイが、腕を伸ばしてくる。仕方なくその腕を取り、タイミングを見計らってエイプリルも塀の上に飛び乗った。
 ストンと地面に降りて辺りの様子を窺うも、やはりこの時間帯にしては、異様なざわめきが感じられた。今回のミッションは、日を改めた方がいいのではないかと、本能が警鐘を鳴らす。
「予定ルートの変更はないな」
「おい、本当にやるのか」
「エイプリル。今回のミッションは俺が担当、お前はサポート。文句を言うなら帰っていいぞ。本部に報告しておくから」
 メイの語気が強くなる。手柄を争うつもりはないし、上からの指示に盾突くつもりもない。
 ただ、ミッションの放棄を報告されるのは、ありがたくない。オーガストやディセンバーのことで目をつけられているかもしれないのに、この上幹部連の心証を悪くするのは避けたい。
 警告音が鳴り響く頭の中を、無理やりシャットアウトして、エイプリルは仕方なく息を吐いて同行を決めた。
「ターゲットはC棟地下一階の四ブロック。現物とデータの確保が目的。逃走ルートは戻るより三階まで上がって、連絡通路から別棟渡った方がいい」
「それで問題ない。行くぞエイプリル」
 メイが、気安く肩を叩いてくる。別に嫌悪するわけではないが、気分のいいものではない。
 以前までならそれは、オーガストだったりディセンバーだったりしていた。
 今さらあの頃に戻れるわけはないし、密を組織へ渡すつもりもない。
 背負うのは、自分一人で充分だ。
 従業員用の出入り口へ素早く駆け寄り、非接触型のカードリーダーに、無理やりアクセスを仕掛ける。
「二十秒で開ける。それ以上はセキュリティ会社に自動通報が……待て、向こうが騒がしい」
 だが彼は作業を進める前に、その向こう側がひどくざわついているのに気がついて、手を止める。エイプリルも辺りを警戒した。
 侵入に気づかれたのかと思うが、そんなヘマはしていないはずだ。赤外線の感知システムもなかったし、監視カメラの類いは避けてきたはず。
「誰か向かってくる。一人じゃない」
「隠れるぞ」
 ドアの向こうから、数名分の足音が聞こえる。ひどく慌てた様子に思え、恐らくこのドアを開けて、外に出ようとしているのだろう。
 そう推察した二人は、ロックの解除を諦めて壁の陰に身を潜めた。
「侵入者感知のセンサーにでも触れたか」
「馬鹿な。こっちのサーチシステムの方が上だ。こんな民間企業に後れを取るような技術じゃない!」
「……まあ、そうだろうけど」
 メイは本当に、組織でしか生きられない人間だなと、エイプリルは哀れみさえ感じる。少し前までは、自分こそがそうだったにも関わらずだ。
 しかし彼の言うとおり、ここは民間経営の施設だ。スポンサーは多数いるだろうが、国家機密にさえ関わる仕事をこなす組織に比べたら、セキュリティはザルのようなものに違いないのに。
 ともかく見つからないようにしなければと、息を潜めて気配を殺す。事と次第によっては、戦闘もやむなしか、と懐の武器を確認した。
 できれば使いたくない。麻酔針つきの指輪、ワイヤー、ナイフ。エイプリルはぎゅっと拳を握る。
「急げ、急いで避難するんだ!」
「警察には誰かっ……それより、救急車と消防車は!」
「さっき主任が連絡してました! いいから早く出て!」
 ドアから数人、ここの研究者らしき者たちが走り出てくる。どう見ても警備員ではなく、侵入に気づかれた気配は欠片もない。それどころか、我先にと逃げ出していく様子は、いったいどういうことだろうか。
(中で、何か……?)
 警察、救急車、消防車――とくれば、中で火事があったのだと推察される。それも、慌てて逃げ出さなければいけないほどの。人の動きが多かったのは、このせいだったのかと納得した。
 しかし、納得してばかりもいられない。エイプリルは、ちらりと振り向いてきたメイと視線を合わせる。
 この混乱に乗じない手はないと、二人で頷いた。
 二人は、研究員たちが出てきたドアが閉まりきる寸前、手を差し入れてロックを防ぎ、向こう側に人の気配がないことを確認して、するりと身を滑り込ませた。
 火元はどこだろうかと確認する。人の熱源はほぼ確認できず、無事に逃げ出しているのだと、エイプリルはホッとする。
 法に触れる薬を作り出してしまった企業だとしても、多くは何も知らずに研究にいそしんでいた一般人だ。犠牲を出すのは本意ではない。
「メイ、火元は隣の棟だ。ただ、ここも連絡通路で繫がっている以上、危険はある」
「防火扉動いてないのかよ。ずさんだな」
「早く終わらせるぞ」
「分かってるさ」
 熱源はこの棟ではなく、隣接する研究棟のようだった。今すぐ煙に飲まれるということはなさそうだが、じきに通報を受けた警察や消防隊が到着するだろう。その前に、ミッションを完了させなければいけない。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

(対象画像がありません)

愛のひとつも囁けない-010-

カクテルキッス02 2018.07.01

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

 それからというもの、二人は折に触れて体を重ねるようになった。 合図は、カフェオレの缶ひとつ。 休憩…

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-010-


 それからというもの、二人は折に触れて体を重ねるようになった。
 合図は、カフェオレの缶ひとつ。
 休憩中に、外出戻りに、渡されるショート缶。二度目のあの日、きっかけとなったアイテムだ。
 どちらかがそうしようと言ったわけでなく、そのひんやりとした感触と視線の交錯。それだけで意味を悟れるくらいには、二人は「大人」だった。
 抱きたいも、抱かれたいも、何ひとつ言葉なく交わされる約束。ホテル近くのカフェで相手を待ち、LIMEが入ってくるのを待つ。
 そんなことが、何度か続いていた。
 今回は、至からの誘いだった。稽古のない金曜日、というのがこの関係の常だったが、たまにどうしようもなくそういう気分になったとき、翌日が平日でもカフェオレがやりとりされる。
 あれから生まれた暗黙の了解――寮にはそういうものを一切持ち込まないこと。
 密に気づかれ、責めさせ、つけないでいい傷を千景につけさせた。
 あれだけは自分を責めたいと、至は今でも思っている。あのとき、どんな目で千景を追っていたか自覚をしていれば、千景が寮であんな暴挙に出ることもなかったのだと思うと、胸が痛む。
(仲良い相手に責められたらね、しんどいでしょ。いくら先輩でも)
 本当はあのとき、千景が密をディセンバーと呼んだあたりから話を聞いていた。あの二人の間には、何かがあるのだと知って、最初に感じたのは、情けないかな、やはり嫉妬だった。
 どうかすると密とさえ関係しかねない千景の闇を、垣間見てしまった気がしたのに、それよりも衝撃だったのは、〝終わるはずだから〟と千景が口にしたこと。
 なぜそうなるのか分からなかった。少し考えれば分かったかもしれないが、あのときの至には、どうすれば千景の近くにいられるのかということの方が、重要だった。
 だから二人の前に出て、続きそうだった言い合いを止めて、何でもないふりをしたのだ。
 臣の作ってくれた夜食もほとんど喉を通らなかったが、無駄にするわけにもいかず、どうにか腹に収めて戻った部屋で、千景に伝えたつもり。
 終わらせないでほしいと。
 終わるなら、本当の気持ちを伝えて拒絶してからにしてほしい。そうでなければ終われない。至はずっと、千景を想い続けることになってしまう。恋に慣れているわけでもない至には、そちらの方が地獄だったのだ。
(ペテン師を騙すとかね、いつまでできるか分からないけど……マジ攻略マニュアルはよ)
 千景を繫ぎ止めるゲームは、何よりも困難だ。
『今日ご飯いらない』――すっかりご飯係になっている臣に、そんなLIMEを送って、定時を三十分ほど過ぎて職場を出てきた。
 千景はまだデスクに残っていたから、『お先に』とだけメッセージを送った。
 そうして、いつものカフェで待つこと、二十分。頼んだラテは飲み干してしまって、口が寂しい。だが、もう一杯頼むほど時間もないだろう。
 至は携帯端末でアプリを立ち上げて、ゲーム画面にログインした。
 途中で千景が来ても、クリアするくらいまでは待ってくれる。何しろ職場でのエリートっぷりを知っていながら、寮での姿を見てもさほど驚かなかった千景だ。ゲームの一つや二つで、うるさく言ったりはしないだろう。
 これからの目的を考えて、職場に近いところで待ち合わせるようなヘマはしていないし、幸い店内はほどよい客数でざわついていた。
 とはいえ、エキサイトしすぎても、万が一知り合いがいたら「完璧なエリート」が台無しである。
 時間潰しに、さほど盛り上がりもしない、見られても構わないパズル系のアプリを選んだ。落ちてくるアイテムを並べ替え、消し、ポイントやボーナスアイテムをもらう。時間制限つきのものならば、切り上げやすい。
 至は端末の画面に指を滑らせながら、千景を待った。
 いつだか、〝器用な指先だな〟なんて言われたことを思い出して、頬が染まったような気がする。
(先輩に言われたくないよな、アレ)
 千景は指先が器用だ。咲也とのコイン勝負も、真澄に教える手品も、器用でなければできないことだ。
 そうして至には、他の団員とは違う〝快楽〟を教えてくれた。
(惚れてなくても、たぶん先輩とのこれにハマってたわ)
 もう何度、千景の毒に触れたのか分からない。何度、その毒を注がれたのか分からない。
 指先から、唇から、猛る雄から、千景の毒をもらった。たぶんもう、他の誰とも性的快楽は得られないだろうと思うほど。
(……遅いな、先輩。まだ仕事終わってない?)
 至はチラリと時計を見やる。定時からもう一時間も経っていた。連絡も入らないところをみるに、まだ職場なのだろう。何事もそつなくこなす千景にしては、珍しいことだった。残業している姿なんて、ほとんど見たことがないのに。いや、そもそも海外出張が多くて、あまり交流さえなかった相手だ。
 しかしさすがに心配になってきた。案件を無理に片付けて、疲れているだろう彼に、ベッドの相手まで頼むのはどうにも気が引ける。
 至はゲームを中断して、じっと待ち受け画面を見下ろした。
『今日はやめておきませんか』――そうLIMEを送ろうと、アプリを立ち上げようとしたところへ、ピロンッと小さな音を立てて、小さなメッセージがポップアップしてきた。
『悪い、急な出張が入った』
 は? と目を瞠る。
 慌ててアプリを立ち上げて、メッセージを読み直すけれど、先ほどと一言一句変わっていない。
(出張? このタイミングで? ……んな馬鹿な)
 仕事はもう終えていいはずの時刻に、なぜ出張なんか決まるのか。上長の承認は取れているのか。邪魔してくれやがって、と至は眉を寄せて歯を食いしばる。
『やっとアポが取れた客がいる。これから逢ってくれるそうだ』
 続けて入ったメッセージに、至は分かりやすく不機嫌に目を細めた。
(翌営業日におかけ直しください)
 抱えていた案件が進むというのが、どれだけストレス回避に繫がるのか、至にも分かっている。それでも、よりによって今日でなくてもいいだろうと、どこだか知らないがその取引先の担当とやらを恨んでみた。
「……」
 だが至は、千景いわく器用な指先で、返信のメッセージを打ち込んでいく。
『お疲れ様です。気をつけて』
 送信してから、クソがと小さく呟いた。こちらの先約を優先しろとは言えない。恋人でもないのに、いや、恋人であったとしても、そんなことを吐いた途端に冷たく見下ろされるはずだ。
(めんどくさいの嫌いだもんなあの人。俺だってごめんだわ)
 だけど、心臓が痛むことくらいは許してほしい。至は手の甲に額を預け、はあーと大きく息を吐いた。
(大丈夫、何でもない。そういう気分だっただけに、落差激しいだけだ)
 逢えると思っていた。千景の熱を、毒を感じられると思っていた。
 その期待が、ふしゅうと萎んでしまっただけだ。
 寂しいだとか、担当との会合が終わってからでも逢いたいだとか、そんなこと言えない。
『正直、先輩がその案件に手こずってるの見ると、メシウマ』
『おい茅ヶ崎』
 言えない分、からかい混じりの言葉で遊ぶ。
『それとも、裏のお仕事の方ですか? どんな取り引きなんだか』
 少し間を置いてそんなメッセージを送っても、すぐに既読マークがつく。手は空いているらしく、それで安心できた。
『とある企業への非合法な侵入と、データの窃盗ってとこかな』
『なんかガチっぽいやつキタコレ』
 そう打ち返すものの、千景のこんな噓にはもう慣れた。
 怪しいと思うことは多々あるものの、危険な組織とやらに身を置いている人間が、こんなにのんびり劇団員をしているものか。
 そう思うからこそ、言葉遊びを楽しめる。
『じゃあ気をつけて、先輩。俺帰りますね。あ、口止め料は魔法のカードでよろ』
『金額いちばん低くしてやる。茅ヶ崎も、気をつけて』
 返ってきたメッセージに、思わず笑ってしまう。気をつけてと気遣ってもらえた。そんな些細なことに浮かれてしまうなんて、随分安い恋だ。
 約束を反故にされたというのに、気分がいい。
 至はにやける口許を端末で覆い隠し、空いた時間を有意義に使おうと、もう少しジャンクな店へと移動していくのだった。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

(対象画像がありません)

愛のひとつも囁けない-009-

カクテルキッス02 2018.07.01

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

「うーわー……ナニコレ、もしかして俺、超修羅場に遭遇したかな」「ち、が、さき」 声が震える。千景はパ…

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-009-


「うーわー……ナニコレ、もしかして俺、超修羅場に遭遇したかな」
「ち、が、さき」
 声が震える。千景はパッと密の胸ぐらを放し、至へと素早く歩み寄った。
「お前、どこから聞いてた?」
「あの、先輩」
「どこからだと言ってるんだよ」
 どこからでもまずいことには変わりないが、至への想いに気づかれでもしたら、どうしたらいいのか分からない。
「……俺がなんのためにここにいると思ってる、あたり……ですかね」
 至は目を逸らし、静かにその部分を口にする。
 千景はホッとした。いや、安堵できる部分でもないが、オーガストとのことや、至への感情を悟られそうなところでなかったのには、心の底から安堵した。
「なに、先輩。もしかして密にバレちゃったんですか」
 困惑ぎみに、諦めぎみに、至は肩を竦めて、千景越しに密を見やる。
 ただれた関係を持ったことは確実にバレていて、否定のしようがない。至は沈黙をそのまま答えとしたようで、項垂れて額を押さえた。
「あー……、すみません先輩。そりゃ修羅場にもなりますよねー。密と仲良いんでしょ、密が怒るの無理もないですよ」
「どういう誤解だ」
「ああ、そうじゃなくて。俺だって万里が誰かとおかしな関係になってたら、張り倒すってことですよ。マジな恋愛ならまだしも」
 至の口から出てくる、万里の名にさえ嫉妬する。恋を絡めているのはこちらの方だけだ。
 確かに大事な友人が、褒められた関係でないものに足を突っ込んでいれば、怒りもする。至はそう解釈してくれたようだ。
「……至、体、平気……?」
 密がゆっくりと歩み寄ってきて、至を覗き込む。相変わらず足音がしないのは、心臓に悪かった。
「そう聞かれるとなんかちょっと生々しいな……罪悪感」
 無茶なことされたんでしょと、言外に含む密の口調。反論できないのが歯がゆくて、千景は眼鏡を押し上げて視線を背けた。
「平気だよ、密。もともと、仕掛けてきたのは先輩だけど、誘ったのは俺の方だし。煽った自覚はしてる」
「……至が、傷ついてないなら、いい。けど、エイ、……千景と一緒にいるつもりなら、覚悟、いるかも」
「は?」
「密」
 覚悟? と至は首を傾げる。千景は牽制して、密を呼んだ。もう終わることに、覚悟も何も必要ないだろうと。
「部屋へ戻れ。廊下で寝こけても、俺はもう運ばないぞ」
「……うん。おやすみ、千景、至」
 言いたいことの半分も言い合えていないと、その音の中に隠した二人。すれ違う寸前、密の手首を至が取った。
「密、あのさ」
「……至、大丈夫。誰にも言わない」
「そう……頼むわ」
 至の声音に、安堵が混じる。そこを気遣ってやれなかったことに、舌打ちしたい気分だった。
 部屋へ戻っていく密の背中を二人で見送って、同時にため息。
「バレたのが密で良かったですね、先輩」
「……謝らないぞ。お前が悪い」
「別に、終わったこと謝られてもムカつくだけなんで」
 煽られて、我慢しきれなかった責任は千景にあるが、そもそも、寮内であんな無自覚の挑発をしてきたのは至だ。乱暴だったことは謝るべきかと思い直すが、〝終わったこと〟という言葉に、一瞬体を硬直させた。
「どいてください、先輩。腹減って仕方ない……」
 何かあるかな、とキッチンの方へ向かっていく至と肩が触れ合って、千景は我に返る。
「……臣が、消化のいいもの作ってくれてる。朝になったら礼言っておけよ」
「マジか、さすがおかん」
 上機嫌でキッチンへ向かっていく至の背中を、複雑な気分で眺めた。あんなことは何でもないらしいのが、気にくわない。
(信じられない男だな。自分をひどく犯した男と密着しても、震えのひとつもないなんて)
 至は、どういうつもりでいるのだろう。謝罪も受け付ける様子のないあの男は、腹の中で怒りを煮えたぎらせているのだろうか。
 いや、今の様子ではそんなこともないのだろう。
 本当に、終わったことだと認識しているだけなのか。
(……最後になるなら、もっと堪能しておけばよかったかな)
 この気持ちは告げられない。また隠し事が増えた。
 千景はふっと短く息を吐いて、一〇三号室へと足を向けた。
 テーブルの上で愛機を広げ、状況を確認する。
 組織がこの劇団を認識している様子はない。隠れ蓑にしてるだけだと面倒そうに説明したが、どこまで真実と受け取っているか。潜入時の演技力を鍛えるためにもね、と付け加えたのはよかったかもしれないが、いつディセンバーの生存を知られるか、分かったものではない。
 オーガストは守れなかった。ディセンバーも傷つけた。
 もう誰ひとりとして、犠牲にはさせない。
 この毒に、触れさせてはいけないのだ。
 ぎゅ、と拳を握る。触れた三度の過ちを、いつまでも引きずっているわけにはいかない。
 千景はすうーと息を吸い込んで、ふうーと吐き出した。
「まだ、起きてたんですか。先輩」
 夜食を終えたのか、至が部屋に戻ってくる。普段と変わりない彼の態度に安堵した。
「ああ。少し調べ物があって」
「そうですか。あ、そういえば、エイプリルって、先輩のあだ名?」
 目を瞠った。舌先が凍り付いて、一瞬何を言われたのか把握できない。
「な、……にを」
「密がそう呼んでたでしょ」
 ぐるり。胃が回る。
 危険だと感じた。至がその名を知るということは、秘密の漏洩に繫がる。至がその名に興味を持って調べようとすれば、エイプリルと、ディセンバーの真実にたどり着いてしまう。
「ちが、さき」
 知られたくない。この手が血で汚れていることなど。その手で至に触れたことなど。
 いや、百歩譲って自分のことは諦めるにしても、密のことまで気づかせるわけにはいかない。
 危険だ、と頭の中で警鐘が鳴る。至自身の危険にも繫がるだろう。
 どうごまかそうか――いろいろな考えが頭の中を巡る中、
「先輩たちって、なんかあれでしょ、ネットのコミュとかで知り合った感じ? ハンドルネーム?」
 至はソファに腰をかけ、まるでなんでもないように続けた。
「……コミュ?」
「それとも大学のサークルかな」
 ああ、と心の中で安堵した。そうだ、普段平和に暮らしている人間は、別の名イコール危険な組織とは結びつけない。特にネット社会の今、偽名を使ってコミュニケーションを取る者は多いのだ。
「まあ、そんなもんかな」
 千景はためらいのない動作でキーを叩き、作業に戻る。
「映研とか? 絶対インドア系でしょ。あ、お酒繫がりとか。密はザルですもんね」
「犯罪研究会」
 ふ、と笑ってみせた。もっともらしい噓は時として真実に成り代わり、真の事実は覆い隠される。
「うわーありそー。ガチのやつキタコレ」
「世界各国で起こった事件を調べてたな。殺人・宗教・テロ、エトセトラ。ああ、そういえば詐欺事件を追っていたときは、すごく楽しかった」
「それが今に活かされてるわけですね」
「そうなるな。危ない組織にスカウトされて、法に触れるようなこともして、いろんな人を手にかけた」
 織り交ぜられる、真実。非日常を匂わせた方が、作り話らしくなる。至には度々話して遊んでいたし、おかしなことはないはずだ。
「――って言ったら、驚く?」
「今さら驚きませんよ。そういう中二設定、むしろアガるんで」
「だろうな」
 千景はふふっと笑う。茅ヶ崎至という男相手にだからこそ、話を作ってみせたのだ。そうでなくては困る。
「じゃあ、銃とかナイフとか、クラックにも詳しい感じですか」
「昔の知識しかないよ。銃は合法下で撃ったことがあるけどね」
「マジか。さすが海外慣れしてるわ」
「日本は、民間人の拳銃所持が禁止されていていいね」
 ゲームセンターに置いてあるものは、本当にゲーム画面用だし、シューティングバーやサバイバルゲームのも、言い方は悪いがおもちゃである。
 本物を撃つときの、衝撃と胸くその悪さに比べたら、子供だまし以外の何物でもない。
「茅ヶ崎、エイプリルという名は、外では絶対に呼ぶなよ。ディセンバーもだ。アイツは途中で組織を抜けたから、追われる理由がある」
「なーる、そういう設定ね。おkおk」
「そういうわけだから、俺に近づくと危ないっての、分かるよな?」
 多数の意味を含めて、静かに口にする。茅ヶ崎至という男は、つくづく変わった男だと思った。自分が犯された場所で、自分を犯した男の傍で平然と座っているのだから。
「……肝に銘じますよ」
 視線がこちらを向かない。ソファの上で、軽く拳が握られる。どこまで本気で取っているか分からないが、少なくとも性的な方面での身の危険は、理解しているはずだ。
「んじゃ俺、寝るんで。先輩は、まだ?」
「……ああ、もう少しね」
 そーですか、と至はソファから腰を上げる。
「あ、そうだ先輩」
 ベッドに上がった至が、ひょいと身を乗り出して見下ろしてくる。見下ろされるのは好きではないが、この状況なら仕方がない。千景は至を見上げた。
「次は、ちゃんとホテルでしましょうね」
「……――は?」
「ははっ、レア顔げとー。おやすみなさい、先輩」
 カシャ、と携帯端末のシャッター音が耳に届く。我に返る隙も与えず、至はベッドに寝転んでいた。
 千景は上げかけた腰をとすんと落として、眼鏡のブリッジを押さえる。
(次? 次ってなんだ……次があるのか?)
 次はホテルで――それはつまり、終わらないということだ。もう触れることは叶わないと思っていた。合意も得ずに無理に繫がった事実は消えないのに、なぜ次をほのめかすのだろう。しかも、近づき過ぎたら危険だぞと忠告したあとで。
「馬……鹿な、ヤツ……」
 思わず口を突いて出たのは、稽古で、公演で、何度も音にしてきた台詞。〝エイプリル〟でなく〝卯木千景〟としての日常だ。
 千景はパソコンを閉じて、頭を抱える。
 続けるべきではないと分かっているのに、歓喜する気持ちを隠しきれない。至がベッドに上がってくれていて良かったと、口許を押さえた。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

(対象画像がありません)

愛のひとつも囁けない-008-

カクテルキッス02 2018.07.01

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

「あれ、至さんまだ寝てるんですか?」 夕食の時間にも、至の姿はなかった。食事当番である臣が、心配そう…

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-008-


「あれ、至さんまだ寝てるんですか?」
 夕食の時間にも、至の姿はなかった。食事当番である臣が、心配そうに呟く。
 至のルームメイトである以上、現状を確認されるのが千景だというのは仕方のないことだが、部屋割りを恨みがましく思った。
「ああ、さっき声はかけたんだけどね。寝ているみたいだったから」
「そうですか……消化いいもの作っておいた方がいいですかね、夜食にでも」
「いいと思うよ。まったく、茅ヶ崎はここでも甘やかされているな」
 千景も食卓につき、ペスカトーレに自前のスパイスを掛けて口を運ぶ。
「ここでもって、職場でも?」
「甘やかされている至か……ふふ、可愛いね」
 紬と東が、会話の中に入ってくる。千景は当たり障りがない言葉を選び、答えた。
「甘やかされてるというか、あの顔利用して自分の仕事を最小限にしているというか。周りが手伝ってしまう感じかな。もちろん、茅ヶ崎の能力が低いわけじゃない」
「ハハッ、至さん顔だけはいいもんなぁ。寮じゃあんななのによ」
「この劇団で、いちばん裏表が激しいのはアイツだろうな。まったく……二十二時就寝だって、何度言ったら分かるんだ」
 至とゲーム仲間である万里が、節制を謳う左京が、それぞれに思ったことを口にする。
 何だかんだ言いつつ、劇団の全員が〝茅ヶ崎至〟という人間を、ありのままに受け入れている。
 それがどうしてか、嬉しい。
 無意識に、口の端が上がった。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、御影密がじっとこちらを見ていた。怪訝に思って眉を寄せ、首を傾げた。
「密? なんだ」
「……別に」
 それはすぐにふいと逸らされて、密の内面を見ることはできない。
 不審に思いつつも、千景は目の前の食事を片付けることにした。
 そうして、臣が至の夜食にと、冷製野菜ポタージュを作ったり、明日の朝食の下ごしらえをしている傍ら、リビングで劇団のメンバーと過ごす。
 以前はあの家で過ごしていたが、公演を終えてからは、この場所を心地よく思うようになった。チャンネル争いをする賑やかさ、晩酌をする気楽さ、時折レッスン室の方から聞こえてくる、稽古の熱気。
 改めて、自分のすべてを懸け、この劇団を守ろうと思った。
 必要ならば、法に触れる罪を犯しても。
 実際今、ディセンバーの生存については、情報を操作して気づかれないようにしている。
 組織には〝恐らく死亡〟と報告しているし、表立った捜索は打ち切られた。
 密が落ちたあの海は、潮の流れの関係で、自殺者がいても遺体はめったに上がらないとされている。生きて流れついた密は、よほど運が良かったのだろう。
 自分がこの劇団にいることは、危険なことでもあるが、外にいるよりは守ることができる。
 そうして、左京の決めた就寝時刻を大幅に回って、日付を越えてから、千景は一〇三号室に戻ることにした。
 至は一度も顔を出さず、さすがに心配になってくる。まさか、あのまま眠ってしまったのではないだろうかと。風邪を引いてしまう。
 だが途中の廊下で、背後から呼び止められた。
「千景」
 ひゅ、と息を飲む。千景は背後を振り返った。
 声をかけられるまで気配に気づかなかったのは、至のことに気を取られていたからか、相手が密だったからか。どちらであっても不覚である。
「なんだ、密。お前は相変わらず、気配を消すのがうまいな」
 すっと目を細め、ほの暗い廊下で密と向き合った。
 大人組も未成年組も、さすがに自分の部屋で、思い思いに過ごしている時間帯だ。余計に静かで、千景は声を潜める。
「どういう、つもり」
「……なにがだ?」
 密の静かな声の中、ほんの少し怒りが込められているようで、不審に思った。
 いつも眠そうにして、多くを語らないこの男は、千景以上に感情を出すのが不得手に思うのに。
「至に何をしたの」
 ぎくりと、体が強張った。
 まさか、至とのことを気づかれていたのか。血の気が引いていく。
 怒りは責めに変わり、遠慮なく突き刺してくる。指先がすうっと冷えていくような感覚を味わった。
「千景、至はお前じゃ無理だし、至にもお前は無理だと思う」
 ドクンドクンと心臓が鳴る。密はやはり気がついているのだ。夕食時のあの視線は、そういうことだったに違いない。
「至は駄目……」
「うるさい」
「千景」
「うるさいぞ、ディセンバー!」
 ダン、と傍の壁を叩く。思わずコードネームの方で呼んでしまってから、ハッと口をつぐんだ。今はその名で呼ぶべきではない。彼は、ここで、御影密という名を受け入れて受け止めて、自分のものにしているのだから。
「……何を勘違いしているか知らないが、合意の上の関係だ。別に薬を盛ったわけでもないし、もっと言えば誘ってきたのは向こうだぞ」
 やはり御影密という男は厄介だと、千景は震えそうな顎を隠すために口を覆う。気づかれているのだとしても、否定をしなければいけない。この毒で茅ヶ崎至を冒す男は、恋なんてしていてはいけないのだ。
「お前はどうか知らないが、俺にも性欲はあるんだよ。合意の上で近場で処理するのに、どうしてお前の許可がいる? アイツが駄目だって言うなら、お前が相手をしてくれるのか?」
 く、と喉を鳴らして笑う。指先で密の顎を撫でれば、すぐさま払われた。
「オーガストみたいにすればいいの? 絶対に無理」
 ハッと目を瞠る。返り討ちに遭った気分だ。
 あの頃、たわむれにオーガストと関係を持っていたことも、密は知っていたのかと。
「密、俺は」
「別に怒ってるわけじゃない。オーガストとお前がそれでよかったんなら、俺が口出すことじゃない」
 唇を引き結んで、ぐっと噛みしめた。
 彼に対して恋情があったかというと、そうでもない。彼の方もそうだろう。
「でも、至は違う……何がしたいの」
 責めて突き刺してくる視線に、不安と、不満が見え隠れする。遊びの相手にするなと責める奥、怯えが見えるような気がした。
「お前の都合だけで、至を傷つけないで、千景。ここは俺の居場所なんだ……あと、お前の居場所でもある。心地が良い場所。でも、俺たちがここにいることの危険性は、分かってるんでしょ……エイプリル」
 千景はこらえきれず、密の胸ぐらを摑み壁に強く押しつけた。
 密なら避けられただろうに、あえて受けてみせた彼に、腹の底から声を絞り出した。
「俺がなんのためにここにいると思ってる……! 守るって言っただろ、密……ッ」
 危険なことは分かっている。だけど守るためにも、ここにいるしかない。眼鏡のレンズ越しに、共犯者たちの視線が重なる。
「劇団を壊すつもりなんてない。お前の、……俺の家族を巻き込むつもりも、もうさらさらない。お前が気をもむ必要はないんだ。守りたいなら、黙ってろ……!」
 胸ぐらを摑む拳に力を込めて、摑めない自分の心臓の痛みをごまかした。
「それに、茅ヶ崎がどうこうという話なら、それこそ無駄な心配だ。アイツとはもう、……終わる、はず、だから」
 声が沈んでいくのが自分でも分かる。心臓の痛みが増すのが煩わしい。
 あんなことをしてしまったのだ、至が次を望むとは思えない。お互いの気まぐれと事故で始まった関係が、そんなに長く続くわけもない。
 壊してしまったのは、千景の恋心。
「……千景……? お前、……あ」
 密の声に、驚愕が混じった気がしたその瞬間、視線が左にそれる。
「至」
 密が呼んだその声に、千景はさっと血の気が引いていく音を聞いた。
 慌てて密の視線の先を振り向けば、気まずそうに顔を引きつらせた茅ヶ崎至が佇んでいた。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

(対象画像がありません)

愛のひとつも囁けない-007-

カクテルキッス02 2018.07.01

#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

 千景はドアにもたれ、拳を叩きつけた。中の人間に聞こえていようが、構っていられなかった。(なんで、こ…

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-007-


 千景はドアにもたれ、拳を叩きつけた。中の人間に聞こえていようが、構っていられなかった。
(なんで、こんなことをした……!)
 自分のした行為が信じられない。嫌悪感さえ覚えて、千景は頭を抱える。
 レッスン室で、自分を追いかけてくる至の視線には気づいていた。
 新入りの域を脱していない千景の演技を、どうこき下ろしてやろうかという視線なら、受けてやっていただろう。
 だが、あの視線は駄目だ。
 情欲を混じらせた瞳は、嫌いではない。
 問題は、場所と、相手。
 よりにもよって大事な〝家族〟たちの前で、〝茅ヶ崎至〟に、あんな目をさせてしまったことが腹立たしい。
 至をそんなふうにしてしまったのが、自分なのかと思うと、はらわたが煮えくりかえる。
 同時に、どうしようもないほど欲情した。
 欲情されることが嬉しいなんて、あり得ないと思っていた。面倒だとさえ思っていた。
 それなのに、相手が至だというだけで、全身を覆うほどの歓喜を覚えたのだ。
 気づかれてはいけない。守るべき大切な家族を、性の対象にしているなんて。
 元々がノンケの男に、あんな目をさせているのが自分だなんて。それを喜ばしいと思っていることなんて。
(自分がこんなにも矮小な人間だったとはな……)
 あろうことか欲を抑えきれずに、無理に繫がったことなんて。
 歯を食いしばる。
 これ以上踏み込めば、これ以上踏み込ませれば、後戻りができなくなる。そう思った。
(茅ヶ崎は駄目だ、普通の世界で生きていられる人間なんだ。俺とは違う……!)
 これ以上手を出すなと、自分自身に言い聞かせる。
 だけどそう思う傍から、触れたい思いがあふれ出してくる。
 せめて傍から離れようと、千景はレッスン室へと戻るためにつま先の向きを変えた。
「あっ、千景さん。至さん大丈夫ですか?」
 レッスン室に戻れば、そわそわした様子の咲也が、駆け寄ってくる。
 そりゃあ心配だっただろう。体調の悪そうだった至を部屋へ送り届けた千景までもが、しばらく戻ってこなかったのだから。
 しまったな、と思ってほんの少し視線を背けるも、すぐににっこりと笑ってみせた。
「ああ、大丈夫だよ。寝不足と栄養の偏りかな。ジャンクなもの食べてゲームばかりしているから」
 仕方のないヤツだねと肩を竦めてみせれば、やっぱり、と綴が呆れたように息を吐く。心配だなあと、咲也が眉を下げる。アイツみたいな大人にはなりたくない、と呟く真澄と、お見合い行くヨ~と、相変わらず言い間違えるシトロン。
 誰ひとりとして、至と千景の間に起こったことには気づいていないらしい。
 彼にも言ったが、春組メンバーだけで良かったと心底思う。
(ディセンバー、……密、が、いたら……きっと気づかれていた)
 オーガストが生きて傍にいたら、恐らく彼にも気づかれただろう。
 茅ヶ崎至へ向かっていく、馬鹿げた欲と恋心。
(オーガストは、楽しそうに笑って応援してくれるかもしれない)
 ねえ、君のハートを射止めたハニーを紹介してくれよ、などと言いながら、背中を押しそうだ。
(……ディセンバーなら、口うるさいヤツに好かれて大変とでも言うだろうか)
 自分が世話を焼かれる対象から外れるなら別にいいと、絶対にそこら辺で寝てしまうはず。
(そして俺(エイプリル)なら、絶対に止めるはずだ)
 自分自身の首を絞め、誰よりも責め立ててくるだろう。
 よりにもよって、仕事に関わるターゲットでもない民間人をとは、と蔑んでさえくる。
 その感情は正しい。
 血に汚れたこの手で、なぜ普通の暮らしができると思うのか。
 犯した罪は深く、償える物ではないというのに。
(巻き込むな。誰も巻き込んだりするな、エイプリル)
 この劇団を守るためなら、ディセンバーを、大事な家族たちを、……茅ヶ崎至を守るためなら、どんなことだってしてみせる。
(まあ……さっきのアレで、茅ヶ崎には嫌われてるだろうけどね)
 あんな乱暴をするつもりはなかったが、結果としては良かったのかもしれない。これ以上踏み込ませないで済む。あとはこの痛む心臓を握りつぶして、なくしてしまうだけだ。
(簡単なことだ。自覚したのだってつい先日だぞ。完了したミッションなんだと思えば、忘れられる)
 もともと許されるわけがない恋だ。いつかは消してしまわなければいけないもので、遅いか早いかの違いだけ。至に気づかれるわけにもいかないし、感情を押し殺すことには慣れている。
 そう思って、ハッとした。
(押し殺す?)
 もともと感情を表に出すのは得意ではなかったはずだ。
 オーガストたちと一緒にいるときはまだしも、それ以外の人間がいるときは、感情なんて出てこなかったのに。
 押し殺さなければいけないほど、今この体の中に感情があふれているというのか。
 劇団の芝居で、暖かな家族に触れて、感情の渦巻かせ方を、表し方を覚えたのだとしたら、皮肉なことだ。
 彼らによって引き出されたそれは、彼らのために押し殺しておかなければならない。
(……長い任務だな)
 千景は苦笑して、稽古の熱に身を投じていった。


#千至 #シリーズ物 #ウェブ再録 #カクテルキッス

愛のひとつも囁けない-006-

カクテルキッス02 2018.07.01

18歳以上ですか? yes/no

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-006-

18歳以上ですか? yes/no

愛のひとつも囁けない-005-

カクテルキッス02 2018.07.01

18歳以上ですか? yes/no

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-005-

18歳以上ですか? yes/no

愛のひとつも囁けない-004-

カクテルキッス02 2018.07.01

18歳以上ですか? yes/no

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-004-

18歳以上ですか? yes/no

愛のひとつも囁けない-003-

カクテルキッス02 2018.07.01

18歳以上ですか? yes/no

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-003-

18歳以上ですか? yes/no

愛のひとつも囁けない-002-

カクテルキッス02 2018.07.01

18歳以上ですか? yes/no

カクテルキッス02

愛のひとつも囁けない-002-

18歳以上ですか? yes/no