- きみに逢いに 2026/02/22 11:10:24 NOVEL,テニプリ,塚跡
- クリスマスには早いけど 2025/12/25 00:00:00 NOVEL,テニプリ,塚跡
- 恋人たち 2025/10/11 22:15:31 NOVEL,その他ジャンル
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幸福を握りしめた日
降り始めた雪が、横顔にちらつく。
綺麗だな、なんて言ったら、笑われてしまうだろうか。至は苦笑して肩を竦める。
「茅ヶ崎、寒い?」
それを誤解してか、彼が――千景が声をかけてきた。
「寒くないわけないでしょ。雪ですよ、雪。本場の」
至は素直に本音を口にする。寒いかと訊かれて、余計に寒さを実感してしまったではないか。
ふる、と身を震わせる。北の大地ということから、防寒対策はしてきたつもりだったが、本当に〝つもりだけ〟だったらしい。甘く見ていた。
「じゃあ、俺の上着のポケットに手を入れてみる? 少しは暖かいだろ」
「監督さんにフラレたからって俺に振らないでくださいよ。再利用禁止」
「ひどいな」
つんとそっぽを向いてやるのは、ちょっとした意地悪だ。曲がりなりにも自分という恋人がいるのに、その傍で他の女性に気を持たせるような言動をするなんて。
せっかく綺麗なイルミネーションと、狙ったかのように綺麗な雪が見られたのに、心がささくれ立つ。至は眉を寄せて俯いた。
自分にこんな感情があったなんて。
これはまぎれもないヤキモチで、綺麗な気持ちではない。
聡い千景は絶対に気づいているはずで、居たたまれなかった。至はごまかすように、イルミネーションを他の角度からも見ようと足を踏み出す。
はずだった。
「えっ……」
手を取られ、ぐいと引き寄せられる。絡め取られた手はそのまま千景の上着のポケットに突っ込まれてしまった。
「せ、せんぱ……」
こんなところで、と至は慌てて引き抜こうとするが、ポケットの中でがっちりと指を絡め、縫い止められている。今回の弾丸旅行は、自分たちだけでなく、他のメンバーもいるというのに。
「茅ヶ崎が寒がるからって言い訳は、成り立つ。最近忙しくてご無沙汰なんだから、これくらいさせろ」
ボッと、顔の熱だけ上がったような気がする。
確かにここ最近は職場の方が忙しくて、恋人らしい触れ合いができていない。今回無理に有給休暇を取ったのは、千景とこういったイルミネーションを見てみたかったからだなんて知られたら、恥ずかしくて死ねる自身があった。職場のみんなには、申し訳ない気持ちもある。
だけど、触れたかった。
千景はそういう気持ちを汲んでくれる。
至はそれでも、仕方なくといったふうに、ポケットの中で千景の手を握り返した。
「ん?」
「なに」
「先輩、これ俺のカイロ……」
ポケットの中、やけに温かい物がある。気がつけば、自身のポケットに入っていたカイロがどこかへ行っていた。
「待っていつの間に抜き取ったんですか」
「人を泥棒みたいに。まあ盗ったんだけどね。ついさっきだよ。茅ヶ崎がイルミネーションに見惚れてるとき。可愛かったな」
「からかってます?」
「バレた?」
「先輩この野郎」
「冗談。可愛いなって思ったのは本当だよ。カイロがなくなれば、寒くて俺のとこきてくれるかなって思ったのに……全然きてくれないから、ついに焦れただけ」
きゅ、と手を握る指に力が込められる。千景の言葉を頭から反芻して、把握して、至は頬を赤らめた。
彼はときどき、恋に溺れていることを隠しもしない。噓をつくのが得意なくせに、これは噓で覆わないようで。
「茅ヶ崎、寒くない?」
「……もう、寒くないです。先輩が、隣にいてくれるんで」
「そう、良かった」
寒くない、だけでは離れていってしまう。至は、千景が傍にいて手を握ってくれているからなのだと強調して、こつりと肩に額を当てる。
「来年、どこかにイルミネーション見に行こうか。二人きりで」
「旅費、先輩持ちですよね」
「いいけど、夜は覚悟してもらうことになるかな」
「やっぱりワリカンで」
残念、と千景の笑う声が聞こえる。
目の前に広がるイルミネーションが、涙でぼやけて見えた――。
#両想い #ラブラブ #千至
リクエスト
「うわ、マジ辛そう」
「そんなことないだろ」
いや絶対に無理、と至は首を振る。
見るからに辛そうな色のカレールーを前にしては、誰だってそうすると思うのだ。もっとも、そうせずに犠牲になった団員もいるのだが。
千景が辛い物好きだということは知っているし、ランチを共にした際に激辛の物をそれでも不満そうに食べるのを何度も見たことがある。彼いわく、辛さが足りないそうだ。
「大丈夫だって。俺を信じて」
「先輩を信じるくらいなら悪魔を信じた方がマシですよ」
だいたい、今まで散々からかい目的でたくさんの嘘をついてきた男が何を言っているのか。至は大袈裟にため息をつき、肩を落としてみせる。
「茅ヶ崎、俺に対する扱いが大分ひどくなってきたな」
「それも愛情です」
「愛してるならちょっと食べてみてよ」
「愛情とは言いましたが愛してるとは言ってませんよ????」
確実に愛してはいるのだが、そんなつもりで愛情と言ったわけではない。そもそも、愛があれば何でもできるわけがないのに。
「頑張って作ったのにな……」
しょんぼりと肩を落とし、珍しく眉を下げた千景に、至はぐっと言葉に詰まる。頑張って作っただろうことは分かる。ジャンケンにわざと負けたとはいえ、あのメンツでは本当に大変そうだ。
至とて、恋人(+α)の手料理は食べたい。
「……じゃあ、一口だけ。いや一口っていうか一舐め?」
しょんぼりとした千景は可愛らしくて、もっと見ていたい気持ちもあるけれど、それもちょっと忍びない。
至は千景からスプーンを受け取って、辛そうなカレールーをほんの少し掬う。口許に近づけるだけで、辛そうな匂いが鼻をつく。いい匂いなのは確かなのだが、これは「辛そう」なレベルを越えている。
それでも意を決して、舌を出しペロリと舐めてみた。
「……ッ」
一舐めでギブアップ。これはご飯と一緒でも頬張れるものではない。
「どう?」
「先輩はこれで人を殺せると思います。っていうかこれ食べれるのあなたくらいでしょ」
「茅ヶ崎、涙目になってる」
「誰のせいですか!」
やっぱり、愛があってもできることとできないことがある。
「こんなの他のヤツらに食べさせたら怒りますよ。咲也とか椋とか、無理して食べそうだし。絶対に駄目」
「……そうか、じゃあ辛さはどうにかしてみるよ。何か具のリクエストある?」
不評にはがっかりしているものの、大事な家族が無理をして食べるのは嫌らしく、受け止めてくれる。至はホッとして、遠慮なくリクエスト。
「“ち”がつくもの。好きなんですよねー」
「ち? 俺かな」
「バカなんですか!?」
「だって“ち”がついてお前の好きなものだろ」
確かに千景にも“ち”がついていて、至が大好きなものだけれども。今はそういう話をしている状況ではなかったはずだ。
「チーズですよ、チーズ!」
「チーズ?」
「結構定番だと思うんですけど。マイルドになるし」
「なるほど。ちょっと取り入れてみるよ」
「頑張って、みんなが食べられる辛さにしてくださいね。あ"ーほんと辛かった……死ぬわ……」
まだ舌の上に残っているような気さえする。効果はないだろうが、ヒリヒリとした舌の熱を冷まそうと、口から出してパタパタと手で扇げば。
「んんッ!?」
その舌を舐めて押し込んでくるものがあった。
「ん、んん……」
もう慣れてしまった、千景の舌の感触。舌に残っていた辛さを紛らわしてくれているのかと思うが、うっかり別の熱があがってきそうである。
「……ちかげさん……」
寮でなければ、このままなだれ込んでもいいのだが、彼にはまだ大事な仕事が残っている。やんわりと千景の体を押しやって、名残惜しげに唇を離した。
「"ち”がつくもので口直しかな」
「……直りました」
「そう、なら良かった。じゃあ、みんなの好みも聞いてくるよ。夕飯楽しみにしてて」
「あ、千景さん」
「ん?」
美味しいカレーとの戦いに向かう千景を呼び止めて、至はもうひとつ、リクエストをする。
「今のじゃ足りないんで、デザート、いつものホテルでくださいね」
“ち”のつく至の好きなもの、あんなキスでは全然足りない。
千景には想定範囲だったようで、笑いながらOKと返してくれる。
さて美味しいはずの夕飯まで、ゲームをして待っていようかと、至はソファの上に座り直した。
#両想い #ラブラブ #千至
自覚
暴れる男を押さえつけて、枕を押しつけた。
何度経験しても胸くその悪い感触だ、と千景――いや、エイプリルは眉を寄せて舌を打った。
手の下で暴れているのはヒトではない。電池の入ったヌイグルミだ。やけに大きくて力の強いヌイグルミ。
そうでも思わなければ、やっていられない。
反面、ヒトであると認識していないと、今度は自分がヒトでなくなったような感覚に襲われる。
助けてくれ。枕の下からそんな言葉が聞こえた気がした。
悪いが助けられる立場にはない。個人的な恨みもなければ、助ける義理もないのだ。
いや、恨みというか、悪意はあった。組織の密売ルートに干渉してこなければ、目をつけられて自分にこんな任務が回ってくることもなかったのにと。
組織を甘く見ていたのが、この男の運の尽きだろう。
エイプリルは深く息を吸い込み、そこで止めて、震える唇を、笑うことでごまかした。
「憐れな男に神のご加護を――クソッタレ」
そうして、手にしたベレッタの引き金を引く。
サイレンサーを通過し、枕を突き抜けて、弾丸は男の頭を撃ち抜いた――。
あとの〝始末〟は組織の専門部隊に任せればいい。エイプリルは〝卯木千景〟に戻り、普段通りの生活をすればいいだけだ。
(……こんな、震えた手で、どうやって……)
仕事用のグローブを外し、ヒトを殺したホテルを離れても、手の震えは治まらない。血の匂いがするようで、どこにも触れられない。
どこにも行けない。アジトにも戻れやしない。もう誰もいないあそこに戻って、何になると言うのか。
(こんなんで、よくアイツの敵を討つなんて……)
くらりと視界が揺れる。殺したいほど憎い相手がいるのに、そこまでたどり着けない。
そもそも〝彼〟も本当に生きているのか分からない。
生きているのか死んでいるのか分からない相手の代わりに、命じられるままに邪魔な人間を消していく――反吐が出そうだと頭を振った。
そのとき。
プライベート用のスマートフォンが着信を知らせる。煩わしいと思うが、音が鳴り止まない。こんな気分の時にいったい誰だと、怒鳴りつけてやろうかと取り出した電話の画面に、
「……茅ヶ崎?」
会社の後輩の名前が浮かんでいた。
『あ、やっと出てくれた。もしかして取り込み中ですか?』
「……取り込み中だったけど?」
彼の名は茅ヶ崎至。潜入した商社の後輩社員だ。とは言っても直接関わりのある部署ではないが、ある理由でそれなりに親しくしている相手だった。
『は~昨日の今日で浮気とかマジ意味がワカラン』
「何が浮気だ。何の用?」
親しく、というのはつまりそういう意味であり、しかしながら恋人ではない関係、である。
『俺が先輩に電話するなんて、用件はひとつだけだと思いますけど』
「昨夜のじゃ足りなかったか? 淫乱」
『あれで満足させてるつもりだったんですか? ヘタレ』
「殴るぞ。……茅ヶ崎、悪いけど、今日はそういう気分になれないんだ」
満足させているかどうかは問題ではない。自分の性欲が満たされればそれでよかったし、相手を気遣わないで済む関係は、千景には心地が良かった。
だけど、今日は逢うわけにはいかない。
こんな気持ちのまま、触れるわけにはいかないのだ。彼まで汚れてしまう。
『……逢いたいんですけど』
「俺は逢いたくないんだよ」
『何かありました? 声がおかしい』
「何もない」
『嘘つき』
即座に見抜かれる。電話越しだというのに、いったい何をどこまで分かっているのだろう。いっそ恐ろしい。
そういえば、彼には最初から、貼り付けたような笑顔が嘘くさくて気になったと言われていたのだったか、と思い出す。
『今どこですか?』
「茅ヶ崎、逢えない」
『俺を抱くくらい簡単ですよね』
「話を聞け……」
『聞いてるから言ってんですよ。何があったか知りませんけど、俺のことめちゃくちゃに犯して忘れればいいでしょ』
そういう問題ではない、と言いたいのに、どこにも行きたくない自分を受け入れてくれるのは、たぶん彼しかいない。
『……ね、今、どこですか?』
端末越しに聞こえる声が、いつもより優しく感じられる。千景はめいっぱいためらって、近くのホテルを指定した。
「眼鏡、してないんですね」
「裏の仕事中だったんだ。ヒトを殺してきてね」
シャツの裾から手を忍ばせて至にそう告げるが、彼は動じる様子もない。信じていないのか、どうでもいいのか。
「何の反応もないのはちょっと傷つくな。俺のことどうでもいいみたいだ」
「どーでもよくはないですけど、他の相手のことなんて聞いても楽しくないですし」
「……他の相手?」
「あれ? そういう意味じゃなかったんです? てっきりベッドの上で抱き殺してきたのかと思ったんですけど」
なるほどそういう誤解をするのかと、千景は笑ってしまう。普通の生活をしていれば、所属した組織の命令でヒトを殺すなどという発想には至らないのか。
「そういうんじゃないよ……そもそも、今はお前しか抱いてないのに」
「うわ殺し文句か」
ベッドの手前まできて、至が身を寄せてくる。正直、本当にそういう気分にはなれなかったけれど、誰かの温もりが欲しい。許されるものではないが、罪ごと包み込んでもらいたい。
至が望むのならばと、腰を抱いてベッドに落ちていこうとしたけれど。
「やめましょ」
腰の手をやんわりと押しやって、至が行為の中断を促してきた。彼の方から誘ってきたはずなのに。
「どうして」
「そういう気分じゃないなら、盛り上がらないし」
「お前がしたいって言ったんだろ」
「分かりません? 口実ですよ。あんな声出されて、放っておけるわけなかったから。……ああ、俺らしくもない。他人にこんなふうに思うこと、ないのに」
言って、至が千景を抱きしめる。シャツ越しの体温はいつもと変わらず、情欲でない何かが全身を包み込んでいくようだった。
「何があったのか分からないですけど、ひとりにしたら駄目だって思ったんですよ。実際に逢ったら、余計にそう感じちゃって」
「茅ヶ崎……」
きゅう、と心臓が締めつけられる。この感情は、いったいなんだろう。
ヒトを殺したこの手で、触れてはいけない。だけど、触れたい。触れてほしい。
「そんな泣き出しそうな顔したひとに抱かれても、気持ちよくなんてならないですよ。せっかくだから、一緒にお風呂入って暖まりましょうか。一緒に眠って、明日の朝一緒にモーニング行きませんか」
「一緒……」
「はい」
そんなことは経験がない。千景は戸惑って、返事ができないでいた。
「抱きたくなったら、抱いてくれてもいいですよ」
ほらお風呂行きましょう、と手を引いてくれる至に、胸が鳴る。
自覚をしたら駄目だと、千景は唇を引き結んだ。この感情を受け入れてしまったら、憎しみさえ消えてしまう。
手を引いてくれる至を逆に引き寄せて、背中から抱きしめた。
「……せ、ん、ぱい?」
「…………なんでもない。風呂、入ろう」
至を追い越してバスルームに向かう。
抱きたくなったら、と言われた通り、抱きたくなったからそこで至を抱いた。体の温度が上がるのと同じ速度で、じわじわと侵食されていくようだ。
自覚したらいけない。
憎しみを凌駕するほどに――この男のすべてが欲しいなんてこと。
#千至 #ワンライ #セフレ
喫茶ペテン師にて
二見重人は、少し冷めたコーヒーを飲み干して、はあ、とため息をついた。
見失ってしまったのが痛いなと、ネオンの輝く窓の外を睨みつける。この歓楽街まで追ってきたはいいものの、途中で見失ってしまった。あまり良くない噂もあるこの歓楽街に、〝彼〟がいるなんてこと考えたくない。
(いや、でもあれは確かに只野だし……)
重人がここにいるのは、ある一人の生徒の動向を確認するためだ。ここ最近校内での様子がおかしく、気にかかっていたところに、つい先日、彼を見かけてしまった。私服だったが、わりと派手目な服装で、年上の男と歩いているところをだ。
普通なら、他校の友人か、親戚か、と思ったことだろう。だが、友人と思うには歳が上過ぎたし、上等なスーツを着たその男とは不釣り合い過ぎた。
何か困っているのだろうかと、尾行してみたが、重人のそのときの服装では悪目立ちしてしまい、気づかれる前に写真だけ撮ってその場をあとにしたのだ。
(何か変なことに巻き込まれてるのか? 詐欺とか、クスリ……いや、只野に限ってそんなこと)
校内で様子がおかしくなる前の只野は、快活で真面目に勉学に励む生徒だった。そんな彼が、何を目的に歓楽街に消えていくのか。
何か困っているのなら、相談してほしい。そうは思うが、彼に取って自分は一教師でしかない。どこまで踏み込んでいいものか。
ともかく、目的と現状を確認しなければと思い、服装をかなり派手めにして、重人はここ数日勤務が終わってからこの歓楽街を歩き回っていた。
だが、只野は見つからない。活動時間がズレている以上仕方のないことだが、その間にもし取り返しのつかない事態にでもなったらたまらない。
重人はもう一度、大きなため息をついた。
そのとき、
「お客さん、申し訳ないけどそろそろ閉店なんだよね」
そう声をかけられふっと影がかかり、重人はハッとして声の主を振り仰いだ。グリーンティーを思わせる色の髪と、眼鏡。人のよさそうな顔をしていたが、レンズの奥の瞳がどうにも気にかかった。
が、時計を見れば日付が変わる少し前。終電には間に合うけれど、そんなに時間が経っているとは思わなかった。
「ああ、すみません……じゃ、お会計」
「どうも」
気づけば、店内に重人以外の客はいない。そもそも、この歓楽街で喫茶店というカテゴリならば、それも仕方ないのかと納得はできる。場所柄、客が立ち寄るのは健全な飲み屋、カラオケ店、もう少し奥まった場所のキャバクラや性的サービスの店だろう。
「お釣りです。酔ってはないみたいだけど、駅まで大丈夫ですか?」
「え、あ、ああ……大丈夫。……ねえマスター、アンタ、この界隈長い?」
こういう場所になじみがないわけではないが、実情を探るにはそこをよく見ている人物に訊くのが手っ取り早い。重人は一つ瞬いて、その男に訊ねてみた。
「この界隈、とはまた……曖昧な質問だ」
「気分を害したなら失礼。けど、こんなとこに喫茶店開いて、しかもそこそこ続けていられるみたいなのは、素直にすごいと思ってね。長いのなら、少し訊きたいことがあった」
「おかげさまで、繁盛はしてるよ。なに、きみ、刑事さん? 聞き込みなら、できる限りの協力はするけどね」
「いや、こんなチャラい刑事いないだろ……」
違いない、と男は笑う。その一瞬あと、レンズの奥の瞳が色を変えた気がした。
男はくいと顎で傍のテーブルを示す。話しが長くなると思ったのか、協力的で助かった。重人は、示されたそこに腰を落ち着け直した。
「珍しいな。俺のこと知ってて来たわけじゃなさそう」
「え?」
「で、何が知りたいって?」
「あ、ああ……えっと……最近ここらにこの男が来てるはずなんだが、動向が探れない」
重人は、何か含んだような物言いをする男に不審さを感じながらも、早いところ話しを聞きたいと切り出す。先日撮った只野の写真を見せると、男の眉が少し動いた。
「こっちのスーツの男?」
「いや、そっちじゃない」
「ああ……うん、なるほどね」
「何か知っているのか? 彼が変なことに巻き込まれているなら、早くどうにかしないと」
男は明らかに、何か知っている様子だ。手がかりに早くもぶち当たったのは、運が良かった。
「教えてもいいけど、情報料高いよ?」
「あ? 情報料?」
男はにっこりと人のよさそうな笑顔を向けてくるが、放つ言葉は正反対の色を持つ。
「ちょっとヤバめな感じだからな。他人の懐に入り込むのにリスクはつきものだろ。対価が欲しい。というか、俺の本業そっちなんだけどね。知らないで俺に訊いてくる度胸に免じて、相場より安くはするよ」
「あー……いわゆる情報屋ってヤツ?」
話には聞いたことがあるが、本当に存在するなて思わなかった。
だがしかし、その情報は確実なものなのか分からない。重人の方こそ、金銭を支払うならガセネタであるリスクは回避したいのだ。
「残念だ、俺は割と薄給でね。アンタの満足しそうな金額なんて払えそうにない」
「そう? 充分払えると思うけど?」
「高いんじゃなかったのか」
「人によるんじゃないかな? 俺を満足させてくれればいいだけだから。体でね」
「断る」
「いいね、即座に把握して毅然と突っぱねるその態度。気に入った。ん、じゃあこれはどう? キスひとつ、情報ひとつ」
自慢ではないが、重人は自分の顔がそういう方面で使えることを知っている。男女問わずだ。だから学校ではあんなふうにしている(それだけではなく楽だからでもある)。そういう意味で声をかけられたこともある。事実、この数日この界隈をうろついていただけでも相当だった。
この男からそれを提示されるとは思っていなかったが、断るしかないことは始めから決まっている。
「……情報が先でも可能?」
しかし、只野が変なことに巻き込まれているかもしれないのだ。キスひとつで手がかりが聞けるのなら、いいのではないだろうか。キスもしたことがない状態なら拒んだだろうが、生憎そんなに初心でもない。
「いいよ。……この子ね、確かに見たことあるよ。俺が見た時は区議の男と一緒だった。その区議、浮気が原因で離婚されて奥さんへの慰謝料で大変だってのに、こんなとこ来るのかなって、少し気になった。浮気相手、男だったってのもあってね」
「え……!?」
重人は目を瞠った。それは、つまり、只野がそういうターゲットにされているということなのかと。
「でもさっき見せてもらった写真は違う男だった。……はやりのパパ活、ちょっと前の言葉で言えば、援交かな?」
「ふざけんな! 買春じゃねぇか!」
いくら言葉を変えても、たどり着くところはそこだ。重人は青ざめて、只野が食い物にされている可能性が大きくなった以上、ゆっくりしてもいられないと立ち上がった。
それに合わせるように立ち上がった男に腕を引かれ、抱き寄せられる。ぶつかったその拍子に、テーブルの上のタバスコが倒れ、カタタと音を立てた。
「んっ……」
唇が触れたと思ったら、ぺろりと舐められてビクリと肩が揺れた。驚いて油断した唇の隙間に舌をねじ込まれて、深く、深くむさぼられる。
「んっ、は、……んぅ」
舌が引き出され、絡む。ちゅ、と水音を立てて吸われれば、しびれるような痛みと熱を感じ、体から力が抜けていった。
「は……」
「お代を忘れてもらっちゃ困るね」
「べ、別に逃げるつもりじゃなかった」
強く腰を抱かれ、唇を指先で撫でられる。約束は約束で、払う気はあったのだが、気がせいてしまっただけだと男に謝罪した。思っていたよりも気持ちのいいキスに、警戒心が薄れてしまったこともあり、するりと言葉が出てくる。
「……アンタに抱かれれば、今よりもっと質のいい情報がもらえるのか?」
「そうだな、割と好みだし。名前は?」
「…………至」
だけど、この男が何者なのか分からない。重人は、偽名を名乗った。なぜその音が出てきたのか、重人には分からない。とっさにしては、それらしい名前だったと思う。
「ふぅん。至、俺に抱かれてみる?」
「名前も知らない男に抱かせるほど安くない」
「ああ、ごめん。千景だよ、卯木千景」
「……ちかげ、さん」
胸が鳴る理由が分からない。その男の名を口にするだけで、どうしてこんなに胸が熱くなるのだろう。
重人は、情報を手に入れるためなのだと自分に言い訳をしながら、今度は自分から……千景にキスをした。
#劇中劇パロ
ぼくはこのめでうそをつく
あれ、と千景は物珍しさに思わず呟いた。
「茅ヶ崎、今日は眼鏡なのか。コンタクトどうした」
ルームメイトである茅ヶ崎至が、今日は珍しく眼鏡姿で寮内にいた。土曜日の今日は、一日中部屋にこもってゲームをしているんだろうなと、〝出張先〟から直で戻ってきたところである。
「あーおかえんなさい先輩。ちょっと、ワンデーの切らしてて」
「ふぅん……買いに行かないのか」
「今日届くんで」
あくまでも寮内にこもる気らしい廃人ゲーマーに呆れ、千景はジャケットをハンガーにかける。
仕事の後だし、クリーニングに出してこようと、部屋の中を――見渡すのはやめておいた。溜まっているだろう至のシャツに手をかけたくなるからだ。
今回こそは彼自身に持っていかせるのだと、至が寝転がるソファに歩み寄る。
細いフレームの眼鏡は、やっぱり見慣れない。これで会社に行ったらまた女性陣が騒がしいだろうなと思って、覗き込んで訊ねた。
「眼鏡してないと見えないのか?」
「え? あー、別にそこまで悪いわけじゃないんですけど。少しぼやける」
「どうせゲームのしすぎだろ」
「それな」
「開き直るな」
見えないわけではないのなら、できれば会社では眼鏡姿を披露してほしくない。女性陣どころか、男性陣にまで波及しそうで面白くないのだ。
「眼鏡、寮内だけにしとけよ、茅ヶ崎」
「似合ってません? ま、俺も眼鏡は煩わしい派なんで、コンタクトしていきますけど」
似合う似合わないの問題ではない。面白いか面白くないかである。
気づかないものかな、と千景は自身の眼鏡を押し上げる。
「先輩は、いつも眼鏡ですね。邪魔じゃないです? それ伊達でしょ。何か理由があるんですか」
大事なクエストではないのか、至はちらりとこちらを見やって瞬いてくる。少し探るような視線が、逆に心地良かった。
「煩わしいとは思わないな、これに慣れてるから。オンオフの切り替えにはうってつけだろ」
「会社とプライベート? 確かに眼鏡変えてますもんね」
帰宅すると眼鏡を変えていることには気づいたようだが、眼鏡をかける本当の理由には、さすがに気がつかないらしい。
「それだけじゃない」
「え?」
この眼鏡を外すのは、眠るときと入浴時、役柄として公演に必要ないとき。そして、組織からの命令を遂行しているときだ。オンオフの切り替えというのは、そういう意味である。
切り替えないと、ミスをしてしまいかねない。
本当は普通に暮らしてみたいと思う自分がどこかにいて、遂行中に出てきてしまっては命取り。
どんなことをしてでもこの劇団とここにいる連中を守ってみせる――生きる理由をそこにシフトさせた自分を、知られたくない。
真実は、いつだって弱さだった。
千景は自嘲気味に笑ってみせて、眼鏡のフレームを指先で撫でる。
「レンズは噓を隠せる」
「さすがペテン師。遮蔽物の分、暴かれるのにタイムラグがあるってことですかね」
「ペテン師は褒め言葉かな。例えば今から噓をつくけど」
言って、ずいと至に身を寄せる。ソファの背に置いた腕で体を支え、至近距離で噓を吐いた。
「好きだよ、茅ヶ崎」
レンズ越し、至の瞳が揺れる。
噓だと思っていてほしい。噓をつく、ということがもう噓だったのだと、気づかないでいてほしい。
「ハッ、甘いですよ先輩。俺なんか愛してますからね、先輩のこと」
ややあって、至の方からも〝噓〟が吐かれる。
レンズ二枚越し、探って揺らぐ互いの視線。もっと深く探ろうと、近づいていく視線。 近づいて、近づいて、近づいて、鼻先がぶつかる寸前で止まった。
触れそうだった至の唇を千景の手が覆い、引き寄せそうだった至の手が、千景の胸を押しやる。
「こんな感じかな」
千景は慌てたふうを隠し、すっと体を離す。胸に手を置かれたら、跳ねる鼓動に気づかれてしまう。
「なるほど一瞬本気にしそうになりました」
「こっちの台詞だ。俺を騙そうなんて良い度胸だな」
そうして当初の予定通り、シャツをクリーニングに出してこようと荷物をまとめる。
「たまに、レンズの奥の真実を探ろうとするヤツはいる。隠しきるテクニックがないならやめておけよ」
「あっ、先輩クリニーング行くなら俺のも出してきてくださいよ」
「だが断る。自分で行け引きこもりが」
「ヒドス」
諦めたような笑い声を背中で聞いて、千景はドアを開けて外に出る。
うっかり至の唇に触れてしまった手のひらにそっと口づけ、ドアを背中で締める寸前、「探れ馬鹿」と聞こえてきたのは、気のせいだったのだろうか――。
#両片想い #千至 #ワンライ
ただ、それだけで
背中の方から湯をかけて、腕についた泡を流す。抱くように腕を回して、お腹にもシャワーを当てた。
「先輩、泡落ちました? 大丈夫ですか?」
千景から声は返ってこない。代わりに、こくんと頷かれる。
至は千景の右足に、左足に、順番に湯をかけて、泡を洗い流していった。最後に背中をさっと流して、湯をはじく肩にちゅっと口づけた。
「はい、いいですよ。先輩中入ってて」
そう言ってぽんぽん肩を叩けば、千景はゆっくりとした動作でバスタブの中に身を沈めていく。
今回わりと重症かなと思うのは、従順すぎるからだ。
「先輩、頭こっち。ここに乗せて。ん、大人しくしててくださいねー」
至の指示に、千景は何も言わずにバスタブの縁に頭を乗せてくる。至は目を閉じたままの千景を眺めて、シャワーの湯で彼の髪を濡らした。
「熱くないですか?」
「……平気だ」
ようやく、ぼそりとひとこと。至はそれにハイと答え、撫でるように髪を梳き湯を浸透させていく。
シャンプーで千景の髪を洗う。髪の上で泡立つシャンプーの香りは、いつものにおいと違っていたが、そんなことを気に留めている場合ではない。
「茅ヶ崎……」
「はい?」
「……悪い」
「それお風呂入る前にも聞きましたね」
ふ、と笑う吐息でやり過ごす。
数か月に何度かのペースで、千景がこんなふうになることがある。
〝仕事〟を終えてきた後なのだと分かっているが、具体的に何をしているのか、何をしてきたのか、訊いたことはない。
気にならないわけではないが、至にはそれよりもっと大事なことがある。
怪我をしないで、自分のところに戻ってきてくれた。ただそれだけでいい。
ホテルの部屋に入ってきた千景から、埃っぽさと血のにおいを感じたことも、最低限の動作しかしないことも、それですべて吹き飛ばせてしまえる。
至は千景の髪を洗い流しながら、トリートメントを施して額にちゅっとキスをした。少し時間をおいている間に自身の体を洗うのだが、
「茅ヶ崎」
「いますよ」
「……うん」
たまに、千景から確認される。物音は立てているのだし、千景が気配を悟れないわけはないのに、声で、確認されるのだ。そこにいることを。
「茅ヶ崎?」
「いますってば」
「……ん」
「さみしがり屋さんですね」
言って、少し冷えてしまった肩にキスを落とし、千景のトリートメントを落とす。自身の体の泡も洗い流し、千景の体の冷えた部分に熱い湯をかけてやってから、楽な体勢に変えさせた。
「もう少し待っててください」
頬に口づけて、自身の髪を洗う。最小限の時間に抑え、洗っている姿をじっと眺めてくる千景の元へ滑り込んだ。
「面倒にならないか? こんなこと」
「先輩相手じゃなきゃね。とっくに投げ出してますよ」
少し落ち着いたのか、背中から抱きしめた千景から声が漏れる。コツ、とこめかみをぶつけてやって、至は笑う。
確かに最初は戸惑った。どこまで触れて良いのか、どこまで許されるのか、少しも分からなかったからだ。
初めて千景がこんなふうになったところを見た時は、慌てて救急車を呼ぼうとしてしまったくらいだ。いいから傍にいてくれと頼まれて、千景の望みが見えた瞬間、ただ抱きしめていた。
こうして風呂に入ることも最初は千景に拒否されて、少しずつ、ゆっくり、間合いを詰めてきた。体に触れられることさえ厭わしかったようで、やんわりとはねのけられたことだってある。
触れられたくないと呟く千景を抱きしめて、何度も耳元で囁いたことを覚えている。
〝大丈夫〟と。
何が大丈夫なのか、具体的に説明はできない。いろいろな意味がありすぎて、三日三晩かかりそうなのだ。
体を洗わせてくれるようになるまでも、時間がかかった。特に腕は相当の葛藤があったようだが、一度そこに口づけたら、力が抜けていったようだった。
「本当にお前は……馬鹿な男だな」
「先輩に言われたくないですし」
触れることを、傍にいることを受け入れてくれた千景を、こうして抱きしめていたい。千景が何者であっても、何を隠していても、この手が血に濡れていても、ただ傍で抱きしめていたい。
風呂で体の汚れを落とし、温まり、一緒に上がって体の水分を拭き取り、至が千景の髪を乾かす。
「先にベッド行っててください」
「……一緒に……」
「あぁはいはい、分かりましたから。可愛いなくそっ」
自身の髪を乾かすからと、千景にベッドを促しても、離れようとしない。一度気を許してしまえば、千景はとことんハマり込むタイプのようで、最近はこんなふうに甘えてきてくれる。
至はドライヤーの温風で髪を乾かし、終えた後に千景の手を取った。そうしてベッドに向かい、先に寝転がった。
千景に向かって両腕を伸ばし、促す。
「ほら、千景さん。一晩中、ぎゅーってしててあげますから」
ためらう素振りを見せる千景の指先を自身のもので絡め取り、軽く引いてやる。この期に及んで何を遠慮しているのかと。
「千景さんに甘えられるの、わりと好きなんですよ、俺」
ややあって、ベッドが千景の重みを受けて、ぎ、と音を立てる。至は宣言通り千景の体をぎゅうと抱きしめ、そっと髪を撫でた。
「茅ヶ崎……」
「なんです?」
「お前がいてくれてよかった」
千景がこんなふうに素直に、胸の内を言葉にするなんて、年に何回あることだろうか。心臓がきゅうと締めつけられて、愛しさが募った。
恋人同士であって、なんの邪魔も入らないホテルの部屋で、ただ抱きしめ合って眠るだけでも、充分に満たされる思いだ。
至は千景の髪を撫で、同じシャンプーの香りがするそこに口づける。
「おやすみなさい、千景さん」
千景のすべてを知ることはできなくても、誰も知らない千景を知っている。
それだけで、この先も千景を抱いて寝るだけでいいと思えてしまえる。
一度気を許したらとことんハマり込むのは自分も一緒かと、幸福な気分で苦笑した。
#両想い #千至 #ワンライ

金曜日、仕事帰り、浮かれた企業戦士たちが多い中、千景は至を無理やり助手席に押し込んだ。
逃げ出しそうな至に「話がある」と釘を差して、バタンとドアを閉める。
千景は運転席に乗り込み、すべてのドアをロックした。
「先輩」
抗議のような声は聞こえてきたけれど、構いもせずエンジンをかけアクセルを踏んだ。ゆっくりと走り出す車。助手席の至は、仕方なくシートベルトを締めるが、落ち着かない様子で視線を泳がせる。太腿の上できゅっと握りしめられた拳には、千景も気がついていた。
「先輩、停めてください。降りますから」
「話があるって言っただろう」
「俺にはありません」
「俺にはある」
らしくないテンポで会話が進む。かみ合っているようなかみ合っていないような、ちぐはぐなものが。至は明らかに話をしたくないようで、一度も千景を見ようともしない。
「……いい加減にしてくれ茅ヶ崎。いくら俺でも怒るぞ」
「もう怒ってるじゃないですか」
「このままどこかへ連れ去ってやろうか」
舌打ちのあとに、千景はそう呟く。至はきゅっと唇を噛んで俯いた。
「運転、しながらとか、危ないと思いますけど」
「俺の話を聞く気はあるのか?」
至は顔を背け、押し黙る。それを肯定と執ったか否定と取ったか、千景は近くのパーキングに車を滑り込ませた。
それでもドアのロックは解除せず、ステアリングから手だけをそっと下ろす。
「……茅ヶ崎」
静かな声に、至の肩がびくりと揺れる。
「もう終わりにしよう」
ああ……、と至は心の中で嘆く。ついにその時がきてしまったのだと。俯いたまま、太腿の上で拳を握りしめる。
「理由は分かっているんだろう?」
責めるような千景のこえに、至は震える唇を開いた。
「……でも、先輩……」
「分かってるはずだ、茅ヶ崎」
「まだ気持ちの整理が」
「今さら何を言ってる……!」
至の心臓がドクドクと異常な速度で大きな音を立てる。相変わらず千景の方を見ようともしない至を、落ち着けようとしてか、逃がさないようにと思ってか、ステアリングから降りた千景の手が、至の拳に被さってきた。
「せんぱ……っ」
「分かってるはずだろ、そうだと言え……!」
「分かってますよ! だけどこんなふうになるなんて思わなかった!」
「俺だってそうだ!」
千景の手のひらが、助手席側のドアを叩く。至近距離でその声を受けた至は、ぞくぞくと体を震わせた。
「後ろめたくないのか、茅ヶ崎。俺とセックスするだけの関係なんて」
ぐ、と言葉に詰まる。後ろめたさがなかったわけじゃない。
職場はもちろん、家族にも、劇団の仲間にも、誰にも言わずに関係を続けてきた。
恋情の伴わない関係のはずだったのに。
「カミングアウトしろって言ってるんじゃない、クローゼットで構わないんだ。ただ、終わりにしたい」
終わりにしたいと言う千景の唇が、泣き出しそうな至の唇に触れてくる。触れたその唇が震えているのに、至はそこでようやく気がついた。
「茅ヶ崎……」
鼻先に、目蓋に、髪の先に、千景の唇が降る。怖がっているのは自分だけではないのだと気がついて、至はようやく長く息を吐いた。
「――ちゃんと、恋人同士になろう」
恐る恐る目蓋を持ち上げれば、そこにはすがるような顔をした千景。
きゅう、と心臓が締めつけられた。
何か言って返したいのに、胸がいっぱいになって何も出てきてくれない。自分だけの想いだと思っていたのに、こんなふうになるなんて。相手の気持ちに気づいたのは、たぶん同じタイミング。
だけど恋人同士なんて幸せな関係になって、もしも壊れてしまったら――怖くて仕方がない。劇団の仲間にも言えないこんな恋、続けていく自信なんかなかった。
「頼む、茅ヶ崎……頷いて……」
ずっと続けられる自信なんて、誰にもあるわけがない。この先、何があるかなんて、誰にも分からない。相手が相手なだけに、余計にだ。
それでも。
至は千景の背中に両腕を回し、肩に額を押しつけ、千景にも分かるようにコクンと頷いた。
今の至には、これが精一杯だ。どうか伝わってほしいと千景を強く抱きしめる。
耳元で、ちがさき、と吐息のように呼んだ千景の声は、伝わったと考えていいだろう。
そうして二人は、セフレという関係に別れの言葉を贈ってやった。
#両片想い #千至 #ワンライ