バラ色の未来を抱いて
十八になった秋、初めて他人の素肌の感触と、温度を知った。
跡部景吾は、ベッドの上で眉を寄せた。どういう状況だと。
いや、状況は分かる。分かるのだが、理解をしたくないというか、素直に受け入れてしまいたくない。
なぜ自分は他人の部屋のベッドで体を横たえているのか。それだけならまだしも、どうして自分の体に他人の腕が乗っかっているのか。
――――重い。
しかしこの際重いのはどうでもいい。必要な筋肉が増えたのだろうかとどこか的外れなことを考えてしまうのは、きっと現実逃避に違いない。
よりにもよって手塚国光の腕が巻きついているなんて、考えたくもないのだ。
――――どーすんだ、これ。
良くないところの違和感と、自分の胸元に散らばる花びらのような痕。どう見たって事後だ。記憶はある。手塚が泊まっている部屋まで一緒にきて、何か言葉を交わすこともなく唇を重ねたのを、しっかりと覚えている。
その後の事は、あまり、思い返したくない。
――――醜態、さらしたんだろうな……分かんねーけど。
跡部は盛大にため息を吐いて、いろいろな何かを諦めて手塚の腕の中から這い出た。胸どころか腹にも腕にも散らばる花びら。
その色は、まるで薔薇のようだ。
頭を抱えたくなった。
まさか初めて肌を触れさせたのがこの男で、初めて肌に触れた相手がこの男だなんて、と隣に眠る男の寝顔を見下ろす。さすがに眼鏡はしていなかったが、いつ外したのだろうと目を細めた。
確か最中にも眼鏡はかけていたはずで、キスの時少し鬱陶しかった気がすると、些細な事を思い出す。
「……こんなヤツでも寝顔は可愛いんだな」
まったく腹の立つ、と怒気を孕んだ声で呟くと、桜色をした唇がうごめいた。
「お前の審美眼を疑う日がくるとは思わなかった」
寝息の様子から、起きているのだろうなとは思ったが、第一声がそれかよと、責め立ててやりたい気分にもなる。
「起きてんならさっさと退いてほしかったんだがな、手塚ァ」
「まだ起床時刻ではなかったからな」
だが手塚はいやみをものともせず体を起こし、コンソールに置いてあった眼鏡をかける。ようやく知っている手塚の顔になって、どこかホッとしてしまったのが悔しい。
そうして気づく。手塚の胸にも散らばる花びら。どう考えても跡部がつけたものだ。さすがにそれは覚えていない。雰囲気に飲まれて、熱に浮かされて、あの肌を吸ったのかと思うと、恥ずかしくて情けなくて仕方がなかった。
「シャワー、先にいいか?」
「…………好きにしろよ」
「そうか。では行ってくる」
手塚は珍しく脱ぎ散らかしていたシャツをたぐり寄せて羽織り、着替えを持ってバスルームの方へと向かって行った。
どうしてくれようあの男、と恨みがましくその背中を見送って、跡部は項垂れてくしゃりと髪をかき上げた。
どうしてこんなことになったのか、理由を言葉にするのは難しい。
U―17の世界大会(ワールドカツプ)、今回は日本での開催になった。跡部は日本選抜チームを率いる主将であり、誰よりも熱くこの大会にすべてを懸けているつもりだった。恐らく傍からは必要以上に熱を入れているように見えていただろう。
というのも、対戦国であるドイツチームを率いるのが、あの手塚国光だったからだ。
永遠の宿敵とやや一方的に決めた相手。
十四の夏、中学の日本一を決める大会の関東初戦。今思えば技術面も精神面も未熟なものだったけれど、今でも、これから先もずっと、最高で唯一無二の試合だ。
誤算と言えば誤算だった。あのとき手塚国光と対戦していなければ、あのとき全力でぶつかりあっていなければ、こんなにもテニスに打ち込むようになることはなかっただろう。体中の血が入れ替わったかのような感覚さえあった。
あの日から、跡部景吾にとって手塚国光は誰よりも大切な男になってしまった。
いっそ恋のような情熱で手塚を見つめていた。
だが、恋ではない。そう思っていた。
唯一の相手だが、そんなキラキラとした感情はなかったはずなのだ。
それがなぜ、こんなことになっているのか。
昨日の試合も、長いタイブレークだった。中学の時よりずっと多くの時間、手塚と打ち合っていた。取って、取られて、どちらが勝つのか観客たちも分からなかっただろう。
終わりたくない。終わらせたくない。
勝ちたい。負けたくない。
お前と戦うためにここにいる――そう言い合うように球を交わし、視線を重ね、もう流れる汗も出てこない、足も動かないとお互いプライドだけでラケットを振るっていたように思う。
果たして、勝利を収めたのは手塚だった。
負けてしまったかと空を仰いだら、陽が落ちかけた美しい夕暮れ。
悔しさは残るけれど、満足だと幸福感に満ち足りて手を差し出したら、その手を取った手塚がぐっと掲げてきた。
あの日と逆だが、同じだ。
お互いが敗者で、お互いが勝者だと、健闘を称える。
しかしあの日顔を背けていた跡部とは違い、手塚はじっと見つめてきていた。跡部も視線を逸らせなくて、夕陽の中の手塚国光をじっと眺めた。
それは数秒のことだったのだろうが、跡部にとっては永遠にも思える時間だった。
これは恐らく、恋よりも性質(タチ)が悪いと自覚したのは、恐らくその瞬間。
手塚がいないと生きていけないなどと馬鹿げたことを言うつもりはない。この男がどこで何をしていようとテニスを愛してさえいればいい。そう思った。
手塚がこれから先もテニスを愛していくのと同じように、跡部景吾は手塚国光を愛していくのだろうと、諦めにも似た感情で、笑ってしまったことを覚えている。
手塚を愛している。だけどそれを形にしようとは思っていなかった。想いを告げるつもりもなかったのだ。
それなのに、大会が終了した後の交流パーティーで一瞬視線がぶつかった。それだけで、何かが瓦解していく音と、揺らめく青い炎を認識したのだ。
カーテンの陰に引っ張り込んだのは、どちらだっただろうか。もう覚えていない。けれど、それは確かに互いの意思だった。
言葉もなく、ただ唇を合わせた。感触を覚える暇もなく舌を絡めて吸い合い、腰を抱く。衣擦れの音がやけに耳に付いて、余計に気持ちが昂ぶった。
今思い出しても、あのキスが、あの視線のぶつかり合いがいけなかったのだと痛感する。
跡部は、はあーと大きなため息をついた。
重たそうな赤いカーテンで、二人の体が隠れる。すぐ傍では大会に出場した選手や関係者たちが、ドリンク片手に談笑しているというのに、手塚と跡部にはその音さえ耳に入っていなかった。
「……っん、ぅ、ふぁ」
ちゅ、ちゅうっ、と湿った音が耳に届く。着込んだスーツが擦れ合って、普段は聞かない音も響く。指に絡ませた髪の感触は慣れないもので、跡部はことさらにゆっくりと手塚の髪をかき混ぜた。
試合の興奮が冷めやらないだけだと頭のどこかで言い訳をしながら、永遠の宿敵と決めた相手と濃密に舌を絡め合う。
手塚が、キスの仕方を知っていたとは。
そんな、若干失礼なことを思いながらも、恋人同士みたいなキスをした。唇が濡れていくのが嬉しくて恥ずかしくて、心臓が躍る。
唇が離れた隙に吐息のように「跡部」と呼ばれ、腰がずくりと疼いた。欲情しているのだと認識したくなかった感情は、手塚に唇を押しつけて舌を吸うという行動を起こさせ、まったくの逆効果だった。
「は、……はぁ、っんぅ」
「…………ッ、ん」
鼻から抜けていく手塚のくぐもった喘ぎに、体中の熱が上がる。もっと聞きたいと舌に軽く歯を立て、体を押しつける。離れがたいどころか、もっと触れたいと物足りなく思い始めた。
このスーツの奥に隠れた素肌の感触を、温度を、誰よりも先に知りたい。
手塚の胸をスーツの上から撫で始めた頃、同じように跡部の腰を明らかな意図をもって撫でてくる手に気がついた。
マジかよ、とそれで逆に冷静になったような気がしたけれど、手塚の濡れた唇が、耳元に寄せられる。
「跡部、一〇〇七号室」
その声に、ぞくりと背筋が震えた。
手塚はそれだけ囁くと、指先で唇を拭い、まるで何事もなかったかのようにホールへと戻っていく。それがなんだか悔しくて、跡部も濡れた唇を手の甲で拭った。
ホールにいた大石に、「どこ行ってたんだ?」と訊ねられて「窓からの夜景を眺めていた。なかなかの光景だったな」などと返しているのを聞いて、なんて図太い神経をしているのだと眉を寄せる。
だがこの程度で動揺していてはこの先やっていけないと持ち直し、跡部もなんでもないようにホールへと戻った。
2023/11/23