ff-フォルティッシモ-

 跡部が訪ねてきたのは、まだ暑い九月のことだった。
 元テニス部の三年生たちで図書館に行こうという話になった日。部を次世代に託し、一応の引退をした手塚たちは、勉学に励んでいた。
 さしあたって月末のテストに向けて勉強をしないかという意見と意欲には賛成だ。学校の図書室は他の生徒もたくさんいて机が足りず、町立の図書館へと連れ立って学校を出ようとした時、いつもと違うざわつきがあるのに気がついた。
「校門がやけに騒がしいね」
「そうだね、何かあったのかな?」
「俺ちょっと見てくる!」
 ざわざわというよりはそわそわと落ち着かない女生徒たちが多い。まるで縁遠い芸能人にでも遭遇したような様子だ。その原因を確かめるべく、菊丸が駆け出していく。慌ててその後を追う大石の姿も、もう見慣れた光景だった。
 フットワークが軽いと言えばいいのか、好奇心が旺盛と言えばいいのか。もう少し落ち着かないものだろうかと、手塚もその様子を眺める。「あー!」と菊丸が声を上げた後、大石が驚いたような顔をして、次いで笑顔になった。
「知り合いだった確率百パーセント」
「誰だろう? 他校のテニス部とかかな」
 乾が眼鏡のブリッジを押し上げる。河村がその隣で首を傾げた。
 それならば自分たちも顔見知りである可能性が高い。挨拶程度はした方がいいだろうと、手塚は足を踏み出した。
「あ、来た来た手塚。お客さん」
 歩み寄る手塚に気づいた大石が、校門の外側にいる人物を指さして振り向いてくる。「俺に?」と手塚は不思議そうに声を上げた。まるで心当たりがないが、自分に用なら聞かなくてはと外へ身を乗り出す。
「――よう、手塚」
「…………跡部」
 そこには、顔見知りどころではない相手が佇んでいた。
 氷帝学園テニス部部長、跡部景吾その人である。
 なるほどそれでこの騒ぎかと納得もした。その整った容姿だけでなく、財閥の御曹司という肩書きまで持っているのだから、女生徒たちが色めき立つのは分かる。
「あまり騒ぎを起こすな」
「俺のせいじゃ、…………まあ俺様のせいか」
 むっとして眉間にしわを寄せる跡部だが、周りの状況を把握して呆れと諦めとで笑い、人差し指に口づけて投げてやる。周りにいた女生徒たちは悲鳴を上げて、腰を抜かす者までいた。
「跡べーすご……」
「大丈夫かなあ、保健室運んであげたほうがいいかもしれないね」
「大丈夫だよタカさん、余韻に浸らせてあげよう」
 その様を、若干引き気味に眺める元レギュラー陣たち。手塚は腕を組んで、じっと跡部を見やった。
「騒ぎを起こすなと言ったはずだが」
「あー悪い、氷帝じゃこれくらい日常茶飯事だからよ……」
 素直に非を認める跡部に、いささか驚く。自分本位なのは相変わらずだが、引き際というものはわきまえているのかと気まずそうな顔を眺めた。しかし、いったい何の用だろうか。わざわざ青学にまで来るのだから、よほど重要な案件なのかもしれない。
「それで、何の用だ」
「……ちょっと、いいか、手塚」
「この後皆で勉強をすることになっている」
「そんなに時間取らせねえよ。十分……いや、五分でいい。空けろ」
 下手に出ていたかと思えば、強引に時間を空けろと言ってくる。まるで叶わないことなどないというような風情だ。財閥の御曹司であることから、あながち間違いでもないのだろうが、そんなになんでもかんでも簡単にいくとは思わないでほしい。なぜかこの男を前にすると体の中にメラリと炎が揺らめく。
 きっと、あの試合のせいだろう。
 関東大会初戦、シングルス1。それまで跡部に抱いていたイメージはことごとく壊され、印象深いものになっていた。
 もう一度対戦したらどうなるだろうか。そんなことを考えているせいか、素直に聞いてやりたくない思いがわき上がってくる。
「今日でなければいけないのか。俺の都合も考えろ」
 約束も何もなしに突然訪ねてきておいて、有無を言わさずというのはいただけない。大石たちとの勉強会の方が先約だ。
 それでも強引に腕を引くのだろうと思っていたが、跡部の視線が下を向いたのに気がつく。そういえば約束もなにも、個人的な連絡先を交換しているわけではなかったと思い出し、やりようがないのだと悟った。
「悪い、出直す。明日なら――」
「手塚、俺たち先に行ってるから。聞いてやれよ」
 背後から、大石がぽんと肩を叩いてくる。すでに図書館の方向へと足を向けている者もいて、大石もそれを追うようだった。
「わざわざ青学まで来たんだから、大事な用なんでしょ、跡部。手塚はそういうところ本当にアレだよね」
「融通が利かないっていうか、真面目っていうか。じゃあ、後で」
 ふふっと笑って不二が、肩を竦めながら大石が、先に向かった乾たちを追いかけていく。あの物言いは気にかかるが、分かったと頷く他にない。
 確かにわざわざ出向いてきたのを突っぱねるには「対戦校の部長だから」という言い訳がもう通用しない。跡部も引退して次代に引き継いだのだ、公式試合で当たることはなくなった。
「……お前いつもこんななのか?」
「こんな、とは?」
「他人を寄せ付けねえよな。俺だけってわけじゃねえみたいだが」
 手塚とは反対方向に歩いていく楽しそうな背中を眺め、跡部が静かに口にする。寄せ付けないという言葉が重くのしかかってくるようだった。
 確かに他人に興味を持つ性質(たち)ではないが、今の態度がそう思わせたのならば仕方がない。優先したい順番の問題なのだが、改善しなければいけないだろうかと跡部を見やる。
 友人とまではいかないにしろ、単なる顔見知り程度ではないのは確かだ。テニスの腕はすごいし、そういう意味では注目している相手でもある。
 今夏の大会で、全体を通していちばん印象に残っている相手だというのに、先ほどの態度は良くなかったなと心の内で反省した。
「すまない。どうも他人との付き合いが上手くないようでな」
「別にいいさ。テメェはテニスに一直線てだけだろう。それで、手塚。話なんだが、……ここじゃちょっと言いづらい」
 別にいいと軽く受け流してしまう跡部は、器が大きいのかそれとも気に留めるほど関心がないのか。それはどちらでもいいが、周りに目を向けると確かに煩わしいほどの視線を感じる。ちらちらともったいぶった視線は跡部に向かっており、雑談程度でも難しそうだ。
「車待たせてんだ。中で話せるか」
「分かった」
 ホッとしたような跡部について行くと、想像していたような大仰な車ではなかった。高級車ではあるものの、人気の高い国産車。目立つのが好き――というよりはどうしても目立ってしまう跡部にしてみたら、随分と大人しい訪問だ。
 何か深刻な相談でもあるのだろうかと、少しばかり緊張した。
 運転手に後部座席のドアを開けられ、跡部に促されて車内に入る。
 ゆったりとした空間は、しかし落ち着かなくさせた。反対側から跡部が乗り込んできて、ふうーと息を吐く。このままどこかへ移動するのかと思ったが、運転手はドアの外で待機したままだ。
 不思議に思って跡部を振り向くと、険しい顔をしている。
「他人に聞かれたくねえ」
「……そんなに深刻なことなのか? なぜ俺に」
 テニスに関わることなのだろうかと、心臓が嫌な音を立て始める。
 もしかしたらどこかに故障を抱えてしまい、今後プレイができなくなるとかだとしたら。
 ――――跡部がプレイできなくなる?
 そう考えた瞬間、冷水を浴びせられたような気分に陥った。あの強気でがむしゃらなプレイが見られなくなるのか? ボールを受けることが、打球を返すことができなくなるのか。
 それは、いやだ。
 そもそもなぜそれを自分に告げようとしてくるのか。肩を痛めた経験があるから、何かアドバイスを聞きにきたのかもしれない。手塚は、視線だけで自身の左肩を見やり、あの日の試合を思い起こした。
 チリ、と焼けるような熱さを指先に感じる。ラケットを握りたい。隣にいるこの男とは、今度いつ試合ができるだろうかと考えてみたりした。
 だが跡部は、何も言おうとしない。重苦しい空気が流れる。じれったい緊張が、手塚に拳を握らせた。
「跡部、五分だ」
 静かに言い放つ。校門のところで逢って「五分」と言われた時から、すでに時間が経過している。正確に計っているわけではないが、それくらいは経っているだろう。まだ用件を何も聞いていないが、五分と言ったのは跡部の方だ。このまま無為に過ごすような暇も義理もない。
 ドアを開けようと手を伸ばした手塚を遮るように、跡部が口を開いた。
「お前が好きだ、手塚」
 振り向きもせず前を見据えたまま、険しい顔で唐突に告げられる、好意。手塚はノブに伸ばしかけた手を引っ込めて、跡部を振り向いた。
「……それは、どういう種類の好意だ」
「恋愛感情だよ。わざわざ言うんだから分かるだろうが」
 告げたことで開き直ったのか、跡部の肩から力が抜けたように思う。手塚はひとつ瞬く。恋愛感情、と頭の中で反芻して、理解をした。
 理解はしたが、それと跡部の気持ちに応えることは別だ。
「そうか」
 ただそう頷く。誤解をされるだろうかと一瞬ひやりとしたが、跡部はそんな手塚の様子にふっと笑った。
「へぇ……そういう反応すんのか。てっきり意味が分からないとあしらうもんだと思ってたが」
「意味は分かるが理由が分からない。だが説明も要らない。どう言ったところでお前のそれは変わらないんだろう。聞いても無駄だ」
「そうだな。俺の中の事実は変わらねえ」
 片方の口角だけが上がる。だいぶいつもの調子に戻ったように見えて、重苦しかった空気の理由を知った。どう告げようか迷っていたのだろう。その割にはなんともシンプルなものだったが。
「それで、お前は俺にどうしろと言うんだ、跡部」
 面倒なことだと思う。
 まさか跡部にそんな感情を抱かれるなんて、思いも寄らない。これは確かに他人には聞かれたくない話だ。跡部が運転手さえ遠ざけた理由が分かった。
 これまで好意を告白されたことがないわけではない。それはもちろん女性からだったが、判を押したように交際したいと望んでくる。それは自然な願望であり、仕方ないとも思うのだが、断るのが面倒くさい。
 では断らずに交際をすればいいというわけでもなくて、テニスに打ち込みたい今、そういったものは煩わしい以外の何者でもないのだ。
 この男も、好きだから交際してほしいなどと言ってくるのだろうか。できるわけがないと思っていることは、態度で察してほしい。
「……別に、何もしねえでいいが」
 それを明確に察したのか、本音なのか、跡部はそう返してきた。手塚はわずかに目を見開く。何もということは、交際も、傷つけないようにと気を揉むこともしないでいいというのだろうか。
 望まないでほしいと思いながら、望んでこないとなると肩透かしを食らった気分だった。







2023/07/30