情熱のブルー
三日、最後のリハビリに励んだ。病院での手続きを済ませて、いちばん早い飛行機に乗った。今日はちょうど、全国大会の組み合わせ抽選日のはずだ。くじを引くまでに間に合うだろうか。
青学が無事に全国大会へと勝ち進んだことは伝え聞いていて、信じていたがやはり安堵した。
全国大会という大舞台で、またテニスができる。
医師からはあまり無茶をしないようにとクギを刺された。できるだけそうしたいが、どの学校も強敵ばかりだろう。王者立海大付属とも当たるだろうし、油断はできない。
――――氷帝は……跡部はどうしているだろう。
いちばん気にかかるのはそこだ。
彼らの〝夏〟は終わってしまった。怪我を負いながらも全国大会に進んだ自分が、「テニスをしたい」などと、ともすればいやみにも取られかねないことを跡部に望んで、受け入れてもらえるかどうか。
そもそもどうやって連絡を取ればいいのか。ふわりと跡部の顔が頭に浮かんで、唐突に顔の熱が上がった。また無意識に跡部のことを考えてしまっている。
あまりにも強烈な印象を残した試合だったから、頭から離れないのだと思う。そうしておきたい。そうに決まっている。何も問題はない。ともかく跡部のことは全国大会が終わってからだと心に決めた。
そうして空港から電車を乗り継ぎ、抽選会場である立海大付属の校舎に着いた。
途中で竜崎に連絡を入れたら、もっと早く連絡しなと怒られた。失念していたのは手塚の落ち度だ。それでもホッとしたような竜崎の声に背中を押されて来たわけだが、抽選はどうなっているだろうか。青学がまだ引かれていないのなら、自身のこの手で引いてみたい。
ドアのノブに手をかけたら、中から青学の代表を呼ぶ声がした。どうしてか笑い声も聞こえて、若干躊躇う。それでもギッとドアを開け、中の様子を目の当たりにした。
今まさに、大石が抽選の壇上に向かうところだ。間に合ったと安堵するより早く、たった一度きりのくじは自分が退きたいという欲求が駆け抜けた。
「大石、それは俺に引かせてくれないか」
声をかけた瞬間、ざわついていた室内がしんと静まりかえる。手塚の声を認識して、大石が振り向いた。安堵と歓喜でくしゃくしゃになった顔が、手塚をも安堵させる。大石が、どれほど頑張って部を支えてくれたかが分かるようだ。
手塚は壇上に向かって段を下り、駆け寄ってきた大石に頷いた。
「おかえり手塚、待ってたぞ」
「ああ、遅くなってすまない。次は全国だな、大石」
嬉しそうに頷いて、大石は元いた席に腰をかける。くじを引く役目を果たそうと壇上に視線をやって、途中、息が止まりかけた。
――――跡部。
視界の端に、跡部景吾が映ったせいだ。一瞬だけの交錯を、彼は認識しただろうか。驚いたような表情は、あの日ボールをたたき返した時のものよりも幼く見えた。
――――そうか、開催地枠。出られるんだな跡部…………よかった。
上位枠はもう埋まっていたはずだ。それなのに、敗退した氷帝学園の代表としてここにいるということは、開催地枠としての出場が決まっているということだ。
くじによっては、氷帝学園と当たることもあるのかと手塚は口の端を上げた。叶わないと思っていた公式戦で、彼のプレイを見られる。胸がざわめいて、指先がそわついた。
ざわざわと、自分のことを囁く声が聞こえる。噂話は本人のいないところでやるものではと思いつつ、気に留めるほどのものでもない。
「ふん、手塚がなんぼのもんじゃい。ワシのスーパーテニスで――」
「やめとけ。テメーじゃ十五分ももたねーよ」
ただ、跡部の声だけが鮮明に耳に届く。なぜ跡部が得意げなのだと眉が寄ったが、じわじわと胸の辺りが熱くなってくる。
――――なぜ、こんなふうになるんだ。
顔を見ただけだ。声を聞いただけだ。会話をしたわけでもないのに、なぜこんなにも胸が鳴るのか。
段を下りる途中、長い足を突き出されたが、そんなものに引っかかりはしない。
「随分と長い足だな」
そう挑発し返してやったら、高笑いが返ってくる。楽しそうだなと思っていたら、跡部が肩を震わせているのに気がついた。何かおかしなことをしてしまっただろうかと心配にもなった。
あれ以来初めて顔を合わせる。いや、合わせたというレベルではないが、元気そうでなによりだと思う。タイミングが合えば、連絡先の交換ができればいいと思いながら、生涯で一度きりの、全国大会の抽選くじを引いた。
氷帝学園はもう決まっていた。勝ち進めば、準々決勝で当たる。それを認識した瞬間、ドクンと心臓が大きな音を立てた。
湧き上がってくるのは純粋な闘志で、ぐっと強く拳を握る。
――――テニスがしたい。思いきりラケットを振りたい。
欲求は尽きない。抽選会が終わって青学に向かえば誰か相手をしてくれるだろうかと、珍しく心が逸る。
己を律することがいつもより難しくて、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
「手塚、本当に良かった。もう万全なのか? 大会、出られるんだよな?」
「ああ、心配ない。大石、皆を率いてくれて感謝する。全国大会に出られることを、本当に嬉しく思うぞ」
席に戻れば、大石がそわそわしながら訊ねてくる。手塚は頷きながらそれに答えた。
どのような練習をしたのか、どのような試合運びだったのか、あとで聞かせてもらおうと静かに抽選会を見守る。
大石の顔を見て安堵したが、跡部の姿を認識した時とは全く違う。
跡部も全国大会に出られるのだと知って嬉しかった。それは好敵手として認識しているからであって、何もおかしなことではないはずだ。
それなのに、どうしてこんなにもそわそわしているのだろう。同じ空間にいるというだけで、抽選の結果より彼の動向の方が気になってしまう。座った位置からでは彼が見られないということが、余計にそうさせていた。
――――終わったら、声をかけるのはおかしくないだろうか。しかし何と言えば……? また戦えることを嬉しく思うというのは、変だろうか……。
自分から行動をするのはあまり得意ではない。
普段はどうしてか相手から声をかけられることが多く、テニス以外ではイニシチアブを取るのが上手くなかった。お互いラケットを握っていれば簡単なのに、跡部は制服だ。テニスをする格好ではない。
どう声をかけるべきか、そもそも声をかけていいものかどうか悩んでいるうちに、抽選会は終わってしまった。大石に声をかけられてハッとしたくらいだ。よほど深く考え込んでしまっていたのだろう。気がつけば室内に人はまばらで、跡部の姿もなかった。
手塚は失態に気づき、眉を寄せた。悩んでいるうちに対象を逃してしまうなんて。
「さあ手塚、青学に行こう。みんな喜ぶよ」
「ああ……」
大会中にでも声をかけた方が自然かと諦めて立ち上がり、抽選会に使われていた教室を出る。青学のメンバーに報告もしなければいけないし、彼らの報告も聞きたい。今日は顔が見られただけでよしとしようと、やはり不可解な感情に悩まされた。
「手塚」
だが、教室を出たところの廊下で声をかけられて目を瞠った。跡部がたった一人でそこに佇んでいたからだ。
「話がある。少し、いいか」
神妙な面持ちはたぶん珍しいのだろう。
何かあったのかと心臓が嫌な音を立てたが、せっかく向こうから声をかけてくれたのだ、この機会を逃す手はない。
「ああ、構わない」
頷きながらそう返せば、跡部はどうしてか驚いたような顔をした。自分から誘っておきながらどういうことだと目を瞬く。
「大石、すまないが竜崎先生への報告を任せてもいいだろうか」
「え、あ、ああ……いいけど、大丈夫かい? 手塚」
大石が、心配そうに視線をよこしてくる。それは跡部にも向かっていって、手塚はなるほどと胸の内で納得した。あの日の試合のことを気にしているのだろう。容赦なく弱点を攻めてくるような男相手に、平気なのかと言いたいようだ。二年前テニス部の先輩に絡まれていたことを目の当たりにした大石が、心配するのは理解ができた。
「心配は無用だ」
「分かった、何かあったら連絡してくれよ」
そう言いつつも、大石はまだ心配そうに跡部を通り過ぎていく。気まずそうな顔をした跡部を、手塚は物珍しそうに眺めた。
「トップがこの調子じゃ、苦労してそうだな、大石は……」
ぼそりと呟かれた言葉が耳に入る。どういう意味だと訊ねてみたいが、ひとまず用件を聞くために跡部に歩み寄る。少しずつ距離が近づくにつれて、鼓動が速くなっていくようだった。
「それで、話とは?」
「…………肩、どうなんだ」
触れられるくらいの位置にまできて、手塚は促す。眉間にしわを寄せて、跡部が口を開いた。視線は左肩に向かってきていて、まあそこは気になるだろうなと軽く頷く。
「治療は終わった。もともとそんなにひどいものでもなかったのでな」
「どの口が言いやがる。俺様にあんな姿さらしておいて」
目を背け舌を打つ跡部に、ぐっと言葉につまる。彼の前で膝をついてしまったことは、悔しくてしょうがない。だが、事実は事実として受け止めなければと、コクリと唾を飲んだ。
「本当のことだ。どうも、心の方が重症だったようだが……イップスも克服してきた」
そう告げれば、跡部がわずかに目を瞠ったようだった。お前ほどの男でもイップスに陥るのかとでも言いたげだ。
良い経験ができたとは思っている。自分の中の弱さを理解できた。世間に言われるほど強くはないと思うのだが、跡部がそれだけ評価してくれているのかと考えると、胸のあたりがくすぐったい。
だが、次の瞬間手塚は目を瞠った。跡部がすっと頭を下げてきたせいだ。
「悪かった」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。困惑ばかりが胸の中に渦巻いて、口をついて出たのは「なんの謝罪だ?」と訊ねかける言葉。いやみでなく、なぜ跡部がそうするのか本当に分からなかったのだ。
「あァ?」
跡部の顔が、不可解そうに歪む。そうしても元の美しさを損なわないのはすごいなと、この状況で的外れなことを考えた。
ふと思い当たる。
「……跡部、まさかとは思うが、気にかけてくれていたのか、肩のこと。ずっと」
跡部が頭を下げる理由などないが、思い当たるのはそれしかない。彼との試合で痛めてしまった肩のことを、謝罪しているのか。
「なっ……てめ……、気にかけるだろうが、普通は! テメェのその怪我は、元は俺がっ……」
何を言っているんだと憤る跡部に、お前の方こそ何を言っているんだと言ってやりたい。肩を指してくる指先には見向きもせずに、手塚は跡部の瞳をじっと見つめ返した。
「跡部、言っておくがこの怪我は俺の責任だ。俺が選択した結果だろう。お前には関係ない」
そう強く言い返した瞬間、さっと跡部の顔から血の気が引いたように見えた。そうしてから気がつく。これではまるで、拒絶のようではないか。
そういうつもりではなかったのだが、硬直した跡部の表情をみるに、誤解させてしまったに違いない。
「いや、関係ないというのは語弊があるな。お前に責任はないと言いたかった」
思っていることを言葉にする難しさを痛感する。こんな時テニスならば、簡単に伝わるのに、ラケットを握っていないと途端にこれだ。印象が悪くなってしまっただろうかと、胸が痛む。その理由を探したくはなかったけれど。
「……責任がねえわけねえだろ」
「ないと思うが」
「あるんだよ」
「ないと言っている」
強情な男だなと手塚は思う。自分のことを棚に上げているのは気づかずに、どうあっても譲らないと言いたげに突き刺してくる視線を、同じだけの強さで押し返す。謝罪を受け入れられなくて戸惑っているようで、瞳が揺れていた。
しかし事実として、跡部が直接手塚に何かをしたわけではない。無意識に肘をかばっていたせいで、肩に負担がかかってしまっただけだ。跡部に咎はない。
「……俺がテメェに対してできることはねえのか」
跡部の苦しそうな声音が耳に届く。責めてさえいるようなそれに、手塚は「肩はもう治っている」と小さく首を振った。
「だが、リハビリのせいで練習時間は奪われただろう」
「それは仕方がない。跡部、本当に気にしないでくれ」
対戦相手の怪我を気にするような男ではないと思っていたのに、また裏切られたようだ。義理堅いとでも言えばいいのか、それはそれで跡部景吾としての資質を損ねていない。
「逆の立場だったら、テメェは気にせずにいられるのかよ」
問いかけられて、手塚はわずかに目を瞠る。それは、無理だ。
真剣勝負とはいえ、相手の選手生命を絶っていたかもしれないというのに、一切気にかけないというのはできやしない。その沈黙を答えと取ったようだったが、手塚にも言い分はある。
「では逆の立場なら、お前は気に病んでほしいのか」
跡部が一つ瞬いて、チッと舌を打つ。言葉として答えは返ってこなかったが、それだけで充分に伝わった。
本意ではないのだ、お互いに。
あの時試合を棄権しなかった手塚と、全力で迎え撃った跡部。
お互いの責任――なんて格好つけたものではなく、ただ単に真剣に球を交わしたがった情熱だ。それで負った怪我に、どちらがどれだけ悪いということもないだろう。
「しかし跡部、そんなに心配したのなら、一度くらい顔を出してくれてもよかったんじゃないのか?」
お互い連絡先は知らないが、跡部の財力と行動力をもってすれば、九州に飛ぶことなど造作もなかっただろうに。
手塚はやんわりとため息交じりに責めてみる。跡部景吾が手塚国光の帰りを待つだけだなんて、らしくない。
「アーン? 俺様が見舞いに行ってやらなかったからって拗ねてやがんのか、手塚ぁ?」
責めたはずが、返り討ちにあった気分だった。
見舞いに来てほしいと思っていたのかと――今気づかされて、いたたまれない。いや、見舞いなどと大袈裟なものでなくて良かったのだ。顔が見たかった。
――――いやそれもおかしいだろう。なんで跡部の顔を見たがるんだ。
やはり不可解な感情が渦巻いて、眉が寄る。テニスがしたいというならまだしも、〝顔が見たい〟という願望が先に出てきたのに困惑した。
「……まあ、テメェがそう言うんだったら気にしねえようにしてやる。できるだけな。けど力になれることがあるようならいつでも言ってこいよ。なんでもいいから」
「何でも……その方がお前の気持ちが軽くなるのなら、そうしよう」
「だから、俺がどうこうより、自分のためにって考えろよ。無欲なヤツだな」
呆れた調子で肩を竦める跡部に、何を言っているのだと言ってやりたい。自分ほど強欲な人間はいないだろうにと。テニスがしたい。その欲は、誰よりも強い。
「……分かった。だがそれをしようにも、お前の連絡先を知らないのだが。個人的なことで氷帝に電話をかけるわけにもいかないだろう。都合が悪くなければ、何かしらの連絡先を交換しないか」
流れに乗った形で、跡部の連絡先を求める。不自然ではなかったはずだ。そう思うと、跡部の提案はありがたかった。いきなり連絡先が知りたいなどと言っても、不審がられるだけだっただろう。
跡部はハッと気がついたように目を瞬いて、「そうだな、構わないぜ」と端末を取り出してくれた。手塚もポケットから端末を取り出して、操作をしようとした。
したが、やり方が分からない。
なんてことだ。せっかく教えてもらえるのに、どうやったらここに登録できるのか分からない。
青学テニス部のレギュラー陣は登録されているが、向こうにやってもらった――というか登録された形だ。自主的に登録しようと思ったのは、これが最初。
手塚は気まずい思いながらも、一時の恥だと口を開いた。
「……跡部、すまない、やり方が分からないんだが」
素直にそう呟くと、跡部はぽかんとした顔で見つめてきた。間抜けなものだと自分でも思うが、どうしようもない。跡部はクックッとおかしそうに肩を震わせて笑い、それでも手を差し出してきた。
「貸してみな」
跡部は慣れているのだろうと、手塚は躊躇いもせずに顛末を手渡す。個人情報の塊であるにもかかわらずだ。しかし跡部景吾が妙な真似をするとは考えづらい。
そう思って彼を見やると、ひどく優しげな表情ですいすいと画面をなでていた。そんな表情は見たことがなくて、息を呑む。
ほわほわとしたむずがゆさを感じて、そっと顔を背ける。
――――コートの外では、そんな顔もするのか……。
本当に跡部景吾のことを知らないのだなと改めて実感する。あの日の試合で彼を知ったような気になっていたけれど、ほんの一欠片に過ぎないのだろう。
「ほらよ。できたぜ」
「あ、ああ、すまないな、ありがとう」
登録ができたらしい端末を返されて、手塚はホッとする。
これでいつでも連絡が取れるのだと思うと、指先が落ち着かない。
「手塚、本当に……試合、出られるんだよな」
険しい顔つきで、跡部が訊ねてくる。心配しているが、気に病むなと言われた手前、抑えているらしいその表情が、痛々しかった。
「肩は治ったと言っただろう。全国大会に支障はない。氷帝とも、準々決勝で当たるな。……楽しみだ」
そう返すと、跡部が目を見開く。氷帝が、青学と当たる前に負けるとは思っていない。そう暗に含んだつもりだったが、明確に伝わったようだった。負けるつもりで挑む試合などひとつもない。それは、誰もがそうだろう。
「俺も、楽しみにしてるぜ、手塚」
跡部が口の端を上げながらそう返してくる。ざわりと肌があわ立ったように感じられた。
このまま会話を終えて別れるしかないだろうか。つい先ほど、テニスがしたいと強く思った。対等な相手と、ボールを交わしたい。
目の前の男は、この欲に応えてくれるだろうか。
手塚は俯いて、たった今連絡先を登録したスマートフォンを見下ろす。
いつでも連絡が取れる状態にはなったけれど、跡部にも予定というものがあるだろう。今この機会を逃したら、ずっと重ならないかもしれない。
そもそも、申し出を受け入れてくれるかどうか分からない。肩のことを気にして、無理だと言われるかもしれない。できたとしても、手加減をされる可能性は高い。
「手塚?」
「先ほど……力になれることがあるならと言ったな。なんでもいいのか?」
俯いて黙りこくった手塚を怪訝に思ったのか、跡部が声をかけてくる。訊ねれば、どこかホッとしたような表情に変わった。力になれることがあるのかと安心したようだ。
「ああ、こっちでのリハビリ施設でも見繕ってやるか? それともジムの方がいいか。体力もちょっと落ちてんだろ。英気を養いたいってんなら、俺が最高のプランを考えてやろうじゃねーの」
生来世話好きなのか、生き生きとした声で提案をしてくる。どれも手塚の望みからすれば的外れなものだが、気遣いは嬉しく思った。
「いや、そういうことではなく……」
「なんだよ、俺様が叶えられないことがあると思ってやがんのか?」
「本来なら、頼むようなことではないと思う。望まないかもしれない相手に言って叶えたところで、それが本当に叶ったと言えるのかどうか」
「おい、俺様に哲学でも説きたいってんじゃなきゃ、さっさと言え手塚。まどろっこしい」
呆れたように跡部が息を吐く。手塚は意を決して、跡部をじっと見つめた。
そうして、あの日からずっと、焦がれている思いを音にした。
「俺はまたお前とテニスがしたい」
跡部が目を瞠るのを至近距離で見つめる。その青の瞳はあの日と何も変わっていなくて安堵した。
「……俺と?」
やはり戸惑ってはいるようだが、搦め捕るような深さは同じだ。そうだ、この瞳が見たかった。ネット越しでしか見られなかったその青が、今傍にあることが、手塚の胸に火を落とす。
「ああ、お前とだ。公式戦でなくても構わない。時間の都合がつけば、今からでもいいんだが」
「……頭沸いてんのか?」
「いや、沸いてはいない」
思考は正常だ。そんなふうに言われるほどおかしなことを言ったのだろうか。
跡部が、困惑と憤りを込めて一歩踏み出してくる。
触れてしまえそうな距離だが、跡部はいつもこんな距離で他人と言葉を交わすのかと、妙なところに思考が向かう。
それでも、跡部とテニスがしたいという思いは変わらない。
「どこの世界に! 怪我のきっかけになった相手とうきうきゲームしたがるヤツがいるんだよ!」
「なるほど。ならば世界初かもしれんな。うきうきというよりはうずうずだが」
跡部が何に困惑して、憤っているのか理解した。気にしないでいてやると言いつつも気にしているようで、まだ素直に受け入れられないのか。今の肩の状態を知らない――というより、あの日肩を痛めた時の様子をいちばん間近で見ていたせいなのだろう。
逆の立場であれば、手塚も跡部と同じだっただろうなと思うが、怪我のせいでテニスができないとは思わせたくない。
やはり、跡部とだからこそ今ボールを交わすべきだと感じた。
「……俺とお前は準々決勝で当たるだろうが」
敵同士だと跡部は眉を寄せる。データでも盗むつもりじゃないだろうなと疑う言葉を突きつけられて、その発想はなかったなと新鮮な気持ちだった。
乾であれば確実にデータを取るのだろうが、跡部とプレイしながらデータを取るなど、そんな余裕があるとは思えない。それに、プレイデータを晒すのはお互い様だ。リスクは同等である。
そう説いたら、「誰がデータなんか取らせるかよ」としたたかに跳ね返される。その根拠と自信はどこからくるのだろう。いっそ心地良いほどのプライドだ。
「ならば問題ないだろう。お前が……俺とはやりたくないというのなら、仕方ないが」
データの搾取が問題でないのならば、あと拒まれる理由はひとつだ。「お前とやると負けるの分かってるから」などと言って対戦してもらえないことが、今までに何度かあった。
跡部がそんな弱気なことを言うところは想像できないが、好まないプレイスタイルというのもあるだろう。
事実、手塚だって跡部のプレイスタイルはあの日まで好きではなかったのだ。跡部にとっての手塚のプレイがそれに当たれば、この先ボールを交わすのは難しくなる。
「いや、そんなわけねえだろ。どこからそんな発想出てくるんだよ、アーン?」
思考をむしばみ始めたそれは即座に否定された。
「俺はお前のプレイ好きだぜ」
否定されたどころか、逆に好きだと言われた。あまりに明け透けな言葉に面くらい、心臓がトクンと音を立てる。
外国での暮らしが長かったと聞いたことがあるが、そのせいなのだろうか。
「予想外に強引で傲慢なアレを打ち負かすのを想像すると楽しいな」
ふふんと楽しそうに鼻を鳴らす様子に、手塚は目をぱちぱちと瞬いた。自身が勝つことを前提にされたのもそうだが、強引で傲慢と表現されたことに驚く。
「傲慢……そんなことは初めて言われたな」
強引だというのは分かる気がする。いつの間にか手塚ゾーンなどと名付けられた技は、ボールの回転を利用してすべて自分のところに返ってくるよう打つからだ。相手の打ちたかった軌道を強引に変えるそれは、そう言われても仕方がない。しかし、傲慢というのはどういうことだろう。
「そうかよ? でもまあ、頂点に立つものには必要な要素だろう。自分は周りを引っ張っていくべき立場、自分にしかできないっていう自信は、プレイにも現れる。褒めてるつもりはねえが、貶したわけでもねえんだぜ」
氷帝学園テニス部の二百余名を率いている跡部が言うのは、さすがにリアルだ。元々のカリスマ性に加え、その自信に満ちたプレイで周りを引っ張ってきたのだろう。強引に、傲慢に。それを褒めたわけでも貶したわけでもないというのは、自身に向けたものでもあるのかもしれない。
改めて、すごい男だと思った。本当に同い年なのだろうかと疑いたくなるほどだ。
だが、あの日知った情熱に、歳など関係ない。
強引な情熱。傲慢なほどの自信。交錯した視線の強さは、背筋を震わせた。
手塚はぐっと拳を握る。
「跡部、やはり今からテニスがしたい」
「……俺様は制服なんだが」
「何でもいいと言ったな?」
火を付けたのは跡部だ。ラケットやウェアなどどうにでもなる。使い慣れたものでないと本来の力が発揮できないと言うのなら、それをそろえてからでも構わない。次の機会など待っていられないと強く見返せば、跡部の瞳には戸惑いも躊躇いも見受けられない。あの日と同じ強さで見つめ返されて、胸が熱くなった。
「……近くのコート、屋内でもいいか」
「ああ、構わない」
頷けば、跡部はどこかに電話をかけ始めた。屋内だろうが屋外だろうが、コートがあればどこでもいい。
そうは言ったが、まさかコートを借り切るとは思っていなくて、彼が財閥の御曹司だということをすっかり忘れていた。
「何も貸し切りにしなくとも……お前が跡部だということを忘れていた」
「ハ、テメェが万が一肩の怪我で無様なプレイしてもギャラリーに見られないようにっていう、俺様の配慮だぜ。感謝しな」
「余計な世話だが」
「冗談だ」
意地悪く片眉を上げる跡部に、手塚は眉を寄せる。本当に余計な世話だ。
そんなプレイしかできない状態で戻ってきたわけではないのだと続けようとしたが、じっと前を見据えながら跡部がぼそりと呟いた言葉に、そんな抗議は飲み込まれていく。
「邪魔されたくねえ」
跡部は音にしたつもりはなかったかもしれない。誰にも聞こえないように呟いただけだったかもしれない。
だが手塚の耳には届いてしまった。
邪魔をされたくないと思うほど、力を入れるつもりらしい。それは嬉しくて、胸のあたりがむずがゆい。
「……俺の肩のことは気にするなと言ったが、お前に貸しができたのだとでも思えば、なかなか愉快だな、跡部」
それを誤魔化すように返してみれば、当然面白くなさそうに跡部が振り返る。
「アァン!?」
「冗談だ」
先ほどの跡部を真似てそう呟いたら、彼は引きつったような笑みを浮かべた。
「テメェ、いい性格してるじゃねーの」
「褒め言葉か?」
「褒めてねーが!? まさかこういうヤツだったとはな……読み切れなかったぜ……」
冗談を冗談で返してくるような男だとは思っていなかったのだろう。指先で額を押さえ睨みつけてくるが、手塚には心地よさだけが残る。
予想外だったのは恐らくお互い様なのだ。手塚は跡部景吾をこんなに真摯な男だとは思っていなかった。跡部は手塚国光がこんなに強引な男だとは思っていなかった。
「まぁいい。おら、行くぞ手塚ぁ」
「ああ、楽しみだ」
まだ知らない面がたくさんあるのだろう。ボールを交わす間に、もう少し知ることができるかもしれないと、手塚は珍しくそわそわとした足取りで跡部の隣を歩いた。
2023/03/19