永遠のブルー


 なぜお前が膝をついているんだ。
 跡部景吾は、瞬きをするのも忘れてその男をネット越しに見つめた。
 中学生男子テニス・関東大会。初戦の試合だった。シングルス1、多くの学校が部長を据えるこのゲームは、跡部と手塚の初対決でもあった。
 手塚国光は、青春学園テニス部部長だ。
 国内の中学生プレイヤーならば誰もがその存在を知っていると言っても過言ではない。寡黙ながらも正確で冷静なプレイスタイルには跡部も一目置いていて、戦いたい相手ではあった。当然ながら自分の力を見せつけて圧勝するものとして。
 だがその認識は誤っていた。
 冷静に状況を判断して時には妥協もするだろうと思っていた男は、ただチームを勝利に導くために自分の腕さえ懸けるような、とんでもない男だった。
 分かりやすく弱点を攻める跡部に、『遠慮するな、本気でこい』などと煽るようなことまで言って、実際本気でやらなければこちらがやられると思わせる。『それでも俺が勝つ』とでも言いたげな球筋が腹立たしくて、跡部も全力で返した。
 いつしか、弱点を攻めていたことなど忘れていた。
 手塚が激痛に顔を歪めて肩を押さえ、膝をついた瞬間に沸き上がってきたのは、怒りと焦燥感。
 自分が弱点を攻めていたにもかかわらず、なぜだ、と思った。なぜ今この瞬間なのだと、身勝手にもだ。
 もう少し早ければここまで心技ともに昂ぶっていなかっただろう。もっと遅ければ、必ず自身の勝ちという結末を迎えていたはず。
 そもそも持久戦など受けて立たずに退いていてくれれば、所詮その程度かと嗤(わら)ってやれたのに。
 攻め立てたのは跡部で、選んだのは手塚だ。
 互いの間にあった糸が、ぷつりと切られたような気がした。
 青学のベンチで、他の部員たちに棄権を促されている中、跡部はただコートで待った。
 納得できない。
 ――――こんな形で終われるわけがねえ。俺たちがこんなところで終わっていいはずがないだろう!
 ぐっと強くラケットを握る。燃え上がった心はあの男でなければ鎮められない。
 ――――出てこいよ、手塚。手塚。……――手塚ァ!
 祈り、怒り、信じて待った。こんな終わり方では納得できないのはお互い同じだと根拠なく思って。
 いや、根拠はあった。手塚が打った球のひとつひとつにだ。
 果たして、手塚は部員たちの反対を聞き入れず、親友と生意気な後輩の後押しを受けてコートに戻ってきた。
「待たせたな、跡部。決着をつけようぜ」
 背筋を、何かが駆け抜けていったような気がした。武者震いに似た歓喜。
 やはり同じ気持ちだったと、ラケットを握り直す。
 決着をつけなければ前に進めない。いや前ではない、上だ。お互い部長同士で、チームを率いている以上責任がある。勝って次の試合に進むのは自分たちだと、それぞれ思っていたはずだ。負けるつもりでコートに立つプレイヤーなどいやしない。
 だがこの時ばかりは、個人としての闘志が渦巻いていた。お互いにしか分からない機微だったとしても、それは事実だった。
「なんだ手塚ァ! このサーブは!」
 球を打ち返す。激痛に顔を歪め、肩も充分に上がりきらない相手のボールを、容赦なく打ち返すなんて非情だと責める者もいるだろう。始めのリターンエースを見ていてそれを言うならば、眼科に行けと言ってやりたい。
 そもそも、手を抜くべき場面ではない。それは手塚に礼を欠く。手塚は激痛に耐えてまで、勝つためにコートに戻ってきた。容赦がないのは手塚の方だ。あのボールを受けてみれば分かる。この期に及んで、負けるつもりなど毛頭ないことに。
 手塚の息が上がっている。跡部の息も乱れている。
 どちらも引くということを知らない男だ。その事実を、観戦している誰もが初めて知った。相対しているお互いさえも。
 こんなにがむしゃらで熱いプレイをする男だったなんて。こんなアイツは見たことがない――近しい相手すらそう言うのだ。今までろくに言葉を交わすこともなかった状態では、当人たちだって同じ思いを抱いているだろう。
 自分の中にもこんな必死さがあったのかと、自分自身に驚いてさえいるかもしれない。
 跡部はそれを自覚していた。幼い頃イギリスで同年代の少年たちに負け続けていた時だって、ここまで必死になった覚えはない。
 自分自身の未熟さに腹を立てて技術を磨いたが、あの時とは全然違う。己の内にあるすべてのもので挑まなければならない相手だ。
 間違いなく、この先の人生で無二の試合になる。直感でそう感じた。
 体も、心も、魂も、比べるもののない試合になると分かる。
 だからこそ打ち込む球に最高の力を込める。誰になんとそしられようと構わない。
 この球を受ける相手に――手塚には分かっているはずだ。
 トスを上げる直前に交錯した視線で、手塚がわずかにグリップを握り直したことで、それが自分の独りよがりではないと確信ができた。
 たとえこのタイブレークがどれほど続いたとしても、自分を――そして、手塚がテニスに懸ける想いを裏切ることのないように、すべての力をもってプレイをしよう。
 ――――手塚、ありがとよ。今ここでお前と戦っていなければ、お前が全力で挑んできたりしなければ、俺は俺の進化を自分で止めていた。
 一瞬たりとも気など抜けない。全神経をボールと手塚の動作に集中させているのに、それでも横を抜かれる。仕返しに足元を撃ち抜いてやっても、すぐ次の手に備えなければならない。
 一ポイント取っても、次は取られる。全力で打っているのに、向こうも全力で打ち返してくる。
 だが不思議と腹が立たない。悔しくはあるが、余計に気分が高揚した。魂が吼(ほ)えたような気分を味わう。
 いつしか、審判のカウントの声も聞こえなくなっていた。
 聞こえるのは、コートを踏みしめる音と、強烈なインパクト音。互いの咆哮と、荒れた吐息。それだけだった。
 いつまで続いたっていい。
 日が暮れたって構わない。
 ずっとこうして、球を交わしていたい。
 だが終わりというのはいつかくるもので、ポイントを取るために打った手塚の零式は彼の思惑に反した軌道を描き、跡部のラケットがそのボールを拾い返す。その際に倒れ込んだ跡部の反応が遅れる。
 手塚が打ち返してポイントを取られ、まだタイブレーク状態が続くものと思われた。だが手塚の打った球が跡部のテリトリーにまで届くことはなく、ネットに捕らえられて――落ちた。
 ゲームセット! という審判の声で、周囲の音が戻ってきたように思う。
 ああ終わったのか。終わってしまったのか。
 跡部は立ち上がって、ネット際に歩んできた手塚の顔を見た。相変わらず表情は読みづらく、この勝敗をどう思っているのか分からない。
 跡部はじっと手塚を見据え、彼の背負うものに思いを巡らせた。
 勝ちは、勝ちだ。そして、負けは負けだ。
 だがそれでも、差し出された右手を握り返して、高く掲げてみせる。
 お互いが勝者で、お互いが敗者だと。
 周りが驚いているのが空気で分かる。手塚すら驚いているようなのが手のひらを通して伝わってくる。
 他にどうもできなかったのだと、跡部自身らしくないことを理解していて、長くはそうしていられない。
 ゆっくりと手を放せば、「跡部」と小さく呼ばれる。だが何も聞くつもりはなくて、揃って審判への礼を終わらせ自陣へと戻った。
 ベンチに腰をかけ、息を整える。
 ここまでとは思わなかった。手塚という男が。跡部景吾(じぶん)という男が。
 満たされた気分だ。そう思う傍から、まだ足りないと思う自分がいる。
 まだ、もっと、高みへ行ける。恐らく同じ思いを抱えている男がいるから。
 だが、と跡部は吐き出した息を飲み込んで止めた。
 ――――次の補欠戦、恐らく負ける。手塚が目をかけている新人だってえんだから、相当な腕の持ち主だろう。日吉まで回ることを想定していなかった俺のミスか。
 日吉も二年の中では優秀なプレイヤーだが、まだメンタル面に未熟なところがある。次代の氷帝を背負うには、ここを乗り越えられるかどうかにかかっている。
 ふと顔を上げると青学ベンチの手塚が目に入った。何をしていやがる、と眉間にしわが寄る。早く病院に行けと叩き出してやりたい。
 ネット際で握手をした時だって、わずかながら左手が震えていただろう。その肩はすぐに治療をしなければいけないのではないのか。周りの連中も、いったい何を悠長に構えているのだ。
「おい、てづ……」
 思わず腰を上げかけた時、気づく。手塚がじっとコートを見据えていることに。
 後輩である越前の試合を、余すところなく見届けなければならないと。その勝利を信じ、熱望して。
 跡部は上げかけた腰を下ろし、ふっと口許を緩めた。
 そうだ、信じて観ないでどうするのだと。これは個人戦ではなく団体戦なのだ。率いているキングが周りを信じなければ、誰もついてこない。
 自分がするべきことはした。自分自身も想定外に熱くなった試合は日吉の闘志を刺激しただろうし、準レギュラーですらない部員たちにも、何か響くものがあったはずだ。そして自分のペースで心技ともに磨いていくきっかけになっただろう。それでいい。後はここでどっしりと構えているべきだ。
 それがキングたりうる者の使命。
 ――――勝ってこい、日吉。今お前の持てるすべてでぶつかってこいよ。
 信じてここで待っている。
 跡部はいつものしたたかな笑みをたたえ、ちらりと手塚を見やった。
 周りを信じられるかどうか――自分たちの勝負はまだ続いている。青学と氷帝の勝負であり、頂点同士の勝負でもある。
 ――――同じなんだろ、手塚。背負うものは俺もお前も変わらねえ。てめぇとの決着は、まだついちゃいねぇぜ!
 どよめきやインパクト音が響く中、跡部はふっと視線を上げて目を細めた。
 まだ昇っていける。あの高みへ。あの瞬間の快感を忘れることなどできやしない。
 ――――ああ、なんて……鮮やかな青をしてやがる。
 夏に向かう色だ。
 日吉の――氷帝の敗北がきまったのは、それからしばらくの後だった。


「手塚、九州やて?」
 手塚が療養のために九州へ向かったことは、人づてに聞いた。
「ああ、そうみたいだな」
 跡部はそう返すしかできず、ふいと顔を背ける。
「見舞い、行かへんの」
 忖度も何もなく無遠慮にそう訊ねてくるのは忍足で、ある程度予測のできたものだった。
「九州までか?」
「跡部なら金の心配はあらへんやろ。自家用ジェットでも使たらすぐなんとちゃう?」
 暗に行かないと答えたつもりなのに、懸念事項はないとばかりに続けてくる。
 確かに金銭的な問題はない。ヘリでもジェットでもすぐに使える立場にはある。
 生徒会やテニス部のことで時間がないと言っても、この男は「跡部がそんなつまらん言い訳するやなんてなあ」と言ってくるに違いない。そして実際、調整できないわけでもない。
「行って何するってんだ、テニスができるわけでもねえのに」
「よう言うわ。朝から晩まで気にしとるくせに。詫び入れたいんやないんか?」
「詫び、ねえ……」
 手塚が療養に行ったのは、跡部との試合で痛めた肩の治療のためだ。
 罪悪感は、ある。
 弱点を攻めて潰しにかかったのは跡部なのだから。だが跡部にとって誤算だったのは、肩に負担がかかっていると理解しつつも手塚が退かなかったことだ。
 なにも、本当に再起不能にしようとしたわけではない。選手生命にも関わる部分だ。およそすべてのプレイヤーが、その先を考えて棄権するか、攻め急いで墓穴を掘るかだと思っていた。今まで相手にしてきたどの選手もそうだった。
 それなのにあの男は、肩の不調を抑え込んでまで持久戦を挑んできたのだ。
 読み切れなかったことで、手塚の肩を破滅させた。
 詫び、で済むのかどうか。
 もし今後テニスができなくなったりしたら――どうすればいいのか。あれほどの選手を、自分が死なせてしまうのか。
 九州には確か、青学大附属の病院があったはずだ。そこに罹っているのだろう。
 これが跡部家の息がかかった施設なら最優先にしろと手を回すところだが、……と思いかけて、踏み留まる。
 治療を必要としている人はなにも手塚だけではない。それこそ一生をふいにする怪我を負っている患者だっているだろう。それを押し退けて治療を優先させろなどとは、口が裂けても言えやしない。
「手塚がそんなもの受け入れるかどうか……」
 口許に苦笑を浮かべて、忍足に答える。望まれるなら詫びでもこの先の生活補償でもするが、手塚はそれを受け入れないだろう。「必要ない」とにべもなく言ってのける姿が、目に浮かぶようだ。
「お前がそないに苦しそうな顔するんやったら、やっぱりあの時止めといたら良かったわ」
 けど、とそこでいったん言葉を止める忍足を振り仰ぎ、そこに苦笑する友人を見つけた。
「なんやあの時は、止められへんかった。あないに必死にボール追う跡部やなんて、そうそう見られるもんとちゃうしなあ。手塚に関しての読み違いはあそこにおる全員がそうやったろうけど、跡部も大概やで。観たかったんや、宿敵同士のまたとない試合。止めへんで、堪忍な」
「……宿敵同士?」
 跡部は目を丸くする。何の不思議もなく出てきたその単語が、ストンと自分の中に落ちてきて、じわりと体中に染みこんでいく。
「なんでそこで驚くん、自分。変なこと言うたか?」
「い、いや……そうじゃねえが、アイツが俺を宿敵として認識したように見えたってのか?」
 確かに跡部は手塚をライバルとして意識していた。だがあの試合まで彼とはろくに言葉を交わしたこともなかったし、手塚が他人をそう意識しているようには見えなかったのだ。
「俺のことはあくまで敵対校の部長だとしか思っていなかったはずだぜ」
「そないなどーでもいい相手とあないにアツい試合繰り広げるんかいな」
「……手塚だからだろ」
「分からんなら、本人に訊いたらええんとちゃう?」
「連絡先を知ってると思うか?」
「せやから見舞い行って直接訊け言うてんねん。自分やったら、宿敵に見舞い来られたら嬉し……いや、ちゃうな、跡部の場合は。発破かけにきたんかってテンション上がって、それまで以上にリハビリ頑張んのやろな」
 忍足は、どうしても跡部を見舞いに行かせたいらしい。
 一度くらいは顔を出すべきだと思うが、それでテンションが上がる手塚など想像もできない。本当に宿敵と思ってくれているなら悪くない気分だが、当の手塚はそれどころではないだろう。
「男らしゅうないで、跡部」
「アーン?」
「あの試合からずっと手塚のこと考えとるくせに」
 男らしくないとは聞き捨てならねぇなと煽るようにすごんでみたが、次に忍足が発した言葉に瞠目し、息を呑んだ。
 ずっと手塚のことを考えている――それは、事実だ。その事実に今気がつかされただけで。
「…………それは、仕方ねえだろ」
 肩の怪我は。治療はどのくらい進んでいるのか。今も痛むのか。次の試合には間に合うわけがない。青学はどうしているんだ。この先テニスはできるのか。
 日がな一日、考えるのはそんなことばかりだ。
 手塚がどう思っていようと、跡部が怪我のきっかけを作り一因になったのは間違いない。その跡部が手塚のことを心配するのは、なんらおかしなことではないはずだ。
「気にかかることがあるのに、行動に移さんてのは男らしゅうないて言うてるやん。毎日そないに眉間にしわ寄せられてたら敵わんで」
「眉間にしわだと?」
「自覚しとらんのか、跡部。部室になんか来とらんと、はよ見舞いに行きや」
 言いながら自身の眉間を揉む忍足に、跡部の眉根が寄る。それに気がついて舌を打ち、顔を背けた。
 手塚のことを考えている時、いい気分でないのは仕方がないにしても、周りに悟らせたどころか気を遣わせていることを不甲斐なく思った。
 跡部はふうーと盛大にあからさまなため息をつき、ジャケットを脱いでネクタイを緩め、着替えを始めた。それを見て、忍足の方こそあからさまにため息を吐いた。
「ジャージで行ったかて、手塚とテニスはできんで」
「自主トレだ、バァカ。これ以上てめぇのたわごとなんざ聞いていられるか」
 制服の替わりにバサリとジャージの上着を羽織って、跡部は更衣室を後にしようとする。ドアを開ける直前、口許に笑みを浮かべて振り向いた。
「気を遣わせてすまねえな、忍足。今この瞬間からは、そんな気遣いは捨てな」
 体を翻したこの瞬間からは、もう周りに心配をかけるようなことはないと暗に含み、足を前へと踏み出す。それは氷帝のキングとしての一歩だ。
 キングの背に、忍足のため息は届かなかっただろう。
「あの日で氷帝オレらの夏は終わったのに、お前の夏はあの日に始まってもうたんやな、跡部。なんちゅう皮肉や」
 そんな呟きさえも。







2022/04/10