いつかこの唇で


「ん……っ」
 頼りなげな指先が、腕を滑り落ちていく。浮かんだ汗がそれを追いかけ、爪の先を濡らした。とさりとベッドの上に落ちた手に指を絡めて、そのまま握りしめた。
「すまない跡部、もう少しつきあってくれ」
「ん、ん……悪い、イけてねえんだろ手塚……いいぜ、イかせてやるよ」
 浅い呼吸をしながら、恋人はそう言って笑う。この状況でさえ強気なところが、実はとても気に入っていた。
「……っあ、んぅ、んっ、ン!」
 達したばかりのそこを、抉るように突き進む。絡みついて収縮する無意識の動作に、意識が持っていかれそうだ。引き抜いて、押し込んで、揺さぶって、中を散々にかき回す。とろけた顔と湿った吐息でそれを受け入れてくれる跡部に、愛しさが募った。
「手塚、手塚ぁ……ッ」
 空いた手がしがみつくように背中に回される。立てられる爪の感触にわずかに痛みを覚えるが、それ以上につながる快感が勝ってしまって、気に留めてもいられない。迫り来る波のような熱を恐ろしくさえ感じるのに、その度に「気持ちいい」と跡部の唇が呟く。きっと無意識なのだろうが、たまらなくなる。
「……っ跡部……」
 詰まるような声で名を呼べば、嬉しそうにきゅう……と締めつけてくる。勘弁してくれと、何度思ったことだろう。こらえきれずに何度も打ち付けて、達する。
 脳天を何かが突き抜けていくような感覚と、その後にくるとんでもない疲弊感は、いつまで経っても慣れない。テニスをしている時とはまるで感覚が違うせいだろう。
「……おつかれ、手塚……よかったぜ」
 汗の流れるこめかみに、跡部の唇が当たる。受け身側なのに、この余裕がどうにも癪だ。時折その感情にまかせて抱き潰すこともあるけれど、今日はやめておこうと思う。何しろ心が満たされている。
「今日、どうした……? やけに甘えてきたじゃねーの」
「甘……、そんなつもりはない」
 跡部の中から引き抜いて息を整えたら、疲労が窺えつつも楽しそうな声が耳に届いた。どういうことだと眉を寄せる。
「そうかよ? いつもより俺を呼ぶ回数が多かったし、キスも。二回くらいおねだりしてきただろうが」
「…………覚えていない」
「無意識かよ。まあ……そんだけ俺に夢中になってくれたってことだろ。嬉しいぜ」
 乱れた髪を梳いてくれる手が、いつにも増して優しい。彼の言うことに理由の心当たりはあるものの、最中にそんな行動に出てしまう程だとは思わなかった。
 手塚は、自分で思っているよりも跡部のことが好きなのだと実感する。
 何のことはない、跡部が試合で勝利を収めたというだけなのだ。それが嬉しかった。世界ランク一位のスペイン相手に戦って、プレッシャーを踏み越えて見事に勝利を手にした恋人。
 また強くなったのだと、わき上がったのは歓喜だった。
 常に高みを目指すこの男を尊敬しているし、誇らしく思っている。何度壁にぶち当たっても必ず乗り越えて、その度に魂の輝きを強めて隣に並んでくる。
「……お前が、あんなことを言うからだろう」
「アーン? 恋人にプロポーズして何が不思議だ」
 指先で、髪をつんと引っ張ってくる。とても楽しそうで何よりだとは思うのだが、もう少し世間の常識というか空気というものを身につけてくれないだろうか。
「チームメイトの前でか」
「証人がいていいだろ」
「俺が断るとは思わなかったのか」
「断られる理由がねえじゃねーの」
 どうしてくれようかこの男、と目を細める。そもそも恋人関係であることを公にしていたわけでもないのに、試合後に突然やってきて「結婚しようぜ」などとのたまうものだから騒ぎになったのは言うまでもない。簡単な日本語だったせいか言葉の意味を検索するチームメイトもいて、把握してざわめきが広がっていったのだ。
「まあうちの連中のぽかんとした表情も面白かったな。ククッ、式には全員招待してやるぜ」
「跡部、俺はまだプロポーズに答えていないんだが」
「俺の中でイッておいて言う言葉じゃねーな。…………まさか、嫌なのか?」
 今まさにその可能性に気がついたとでも言わんばかりの顔に、手塚は目を瞠る。どうも言葉が少ないせいで誤解を与える事が多いようだ。それにしても、恋人からのプロポーズを嫌だと感じる理由がどうしてあると思うのだろうか。
「違う、嫌なわけではない」
 内心焦りながらも、しっかりと否定しておいた。ホッとしたような顔をしたところを見るに、不安にさせてしまったのだと気がつく。
「ただ、突然で驚いた。お前がこういうことに開けっぴろげなのは理解していたつもりだが、俺もまだまだだな」
「まあ俺も、あんなとこで言うつもりはなかったんだがな」
「そうなのか? では、なぜ」
「てめーのせいだろ、どう考えたって。俺だってな、プロになって生活基盤が整って、周りにも理解してもらって、夜景の綺麗なところとか、指輪とか花束とか用意して……って思ってたんだぜ。全部めちゃくちゃじゃねーの」
 てちっと額をはたかれる。そうだ、突然だったことも驚いたが、跡部ならそういうシチュエーションを用意するのではないか。そこまで思って、それを受けるのは当然自分だと思っていることに気がついた。
 自分の未来には跡部がいて当然だと思っているのが、どうにも気恥ずかしい。そして跡部の未来にも自分がいて当然だとも思っている。
「……そういう未来を思い描いていたのなら、尚更なぜあんなところで」
「お前が! お前が……俺が勝ったの嬉しそうにしてたから、あふれてきちまったんだよ。仕方ねーだろ、もう、そんなの……」
 気まずそうに、照れくさそうにふいと顔を背ける跡部に、珍しく手塚の頬が火照った。あの時自分はいったいどんな表情をしていたというのだろう。跡部が勝利を収めて嬉しかったのは事実だが、彼の想いがあふれてしまうくらいだというのだから、相当なものだったに違いない。
「そ、それは……すまない、と言っておいた方がいいのだろうか」
 唐突なプロポーズが、まさか自分のせいだとは思わなかった。そこまでの想いをあふれさせてしまうほど、表情に出てしまうなんて。
「で、手塚。返事は?」
「まだ結婚できる年齢ではない」
「何も今すぐ結婚しようなんて言ってねーだろ。それとも今すぐ結婚したいほど俺にベタ惚れだってか? アーン?」
「それはどうか分からないが、俺の方から言いたかった」
「は?」
 思わず口を突いて出た言葉に、手塚の方こそ驚いた。そして、そうか、と納得もする。この先の未来にお互いがいるのは当然なのだから、婚姻を結ぶのもおかしくはない。同性の結婚はまだ認められていないが、気持ちの問題である。
 そもそもお互い、将来は事業やツアーなどで多忙になるはずだ。婚姻を結んだからと言って一緒にいる時間が多くなるわけでもない。
「そういうことを考えるのはもう少し先だと思って、油断していた」
「……手塚も、プロポーズしたかったのか?」
「ずっとともにいるならけじめも必要だろう」
「俺が断る可能性、考えてねーな」
「断られる理由がない」
 跡部の言葉を真似て返すが、そんな可能性は微塵も考えていない。色々な壁にぶち当たるのだとしても、自分たちならば打球で打ち壊せるだろうと思った。
「そうか。……ん、じゃあ、お前がその時だと思ったタイミングでプロポーズしな。それを正式なものとしよう」
「いいのか」
「お前を驚かせられただけで俺は満足だぜ。それにしても、フフッ、手塚国光からのプロポーズね……楽しみだな。バラ色の未来じゃねーの」
 跡部が、嬉しそうに、楽しそうに笑って、腕を首に巻き付けてくる。手塚はそんな跡部の素のままの胸に手を滑らせて、心地良い感触を味わう。
 遠くない未来で言うべき言葉をうっかりここで言ってしまわないように、唇をキスで塞いだ。
 

 



2023/12/12