これはまるで永遠に
手のひらを翳して、改めて薬指の指輪を認識した。
婚約したのか、とどこか他人事のように思う。あまり実感が湧いていない、というのが本当のところだった。
何しろ、婚約者である手塚とは、月に一度逢えれば良い方だ。手塚国光はプロのテニスプレイヤーとして、トレーニングや試合で多忙な日々を送っている。一方、跡部景吾も事業を展開する傍らプレイヤーとして日本テニス界を背負う立場。
ドイツと日本では、遠距離恋愛もいいところだ。同じ国に住んでいてさえ、多忙を極める自分たちが逢瀬を重ねるのは非常に難しいのに、国を超えてまでというのは、さらに難題になってくる。
恋人らしい過ごし方など、あったかどうか。
いやさすがにまったくないというわけではない。もっぱら跡部からではあるが、電話だってしていたし、近況を報告しあって、甘い言葉を囁いた日もある。
初めて夜を一緒に過ごしたのは、二ヶ月前。手塚が親善試合のために日本に来た時のことだ。
かつてのチームメイトたちに囲まれて、嬉しそうな顔をしていたのは見えた。対戦者同士であることからあまりなれ合うのはな、と思っていた跡部を「借りるぞ」と氷帝メンツの中から引っ張り出した手塚に、周りが驚いてたのも覚えている。
後が大変そうだと眉を寄せたが、一緒に過ごせるのは嬉しかった。手塚の方からのアクションは珍しかったし、強引なところも変わっていなくて安堵したくらいだ。
まさかその夜、というのは、考えていなかった――わけでもないような。
期待はあった。体を繋げるまではいかずとも、もう少し恋人らしいことをできたらいいと。もう少し一緒にいたいと言ったのは跡部の方で、手を引いて部屋に引っ張り込んだのは手塚の方。
翌日に試合が控えていたおかげで、お互いハメを外しすぎることはなかったが、うまくできたとは思う。
「そっから二か月で婚約って……早すぎんだろ……」
顔が火照る。ベッドに寝転がったまま、左手の甲で目元を押さえた。
「何を言っている跡部。口約束とはいえプロポーズしてから三年ほど経っているが」
グラスにシャンパンを注いでくれた手塚が、ため息交じりにそう呟いてくる。日本の法律上、十八歳では飲酒はまだできず、当然ながらシャンパンはノンアルコールだ。
跡部はベッドの上で体を起こし、グラスを受け取って喉を潤す。風呂上がりのシャンパンが最高なのは変わりないが、傍に恋人――もとい婚約者がいるということに、幸福さが上乗せされた。
「いやあれがプロポーズとは思ってねえ」
「お前はそうかもしれんが、俺の中ではそうなんだ。お前の都合など知らん」
「おい相変わらず身勝手だなテメェはよ。あの時は本当に突然だったじゃねーの」
むっとした表情の手塚に空のグラスを押しつけて、口の端を上げる。そもそもの始まりは、手塚の突拍子もない言葉だった。
『俺がプロになったら、結婚しないか』
今思い返しても突然で、強引である。何しろその時、お互いの間にそういった関係性はなかったのだから。ライバルで、友人で、当時は日本選抜中学生チームの仲間というだけだった。それなのに、渡独のチャンスが巡ってきていた手塚の背中を押してやったその日、電話越しに言われた言葉がそれだった。
呆れ返ったが、恋情に気づいた当日に結婚の打診をしてくる愉快さと強引さと、断られるとは思っていない傲慢さに、納得してしまう部分があったのも確かだ。
『跡部とは、そうなるのが自然で、当然のことのように思う』
と言われたが、それは今も思う。そんなだから、あのプロポーズもどきを受け入れられたし、手塚への想いにも気づくことができたのだ。
「後悔しているのか」
「そんなわけねーだろ。あんまり実感がねえってだけで。恋人として過ごした時間がないってこともあるんだろうが。……嬉しかったぜ? 大事な話があるって言われて来てみりゃあ、夜景の綺麗なレストランで正式なプロポーズときたもんだ」
プロポーズをされたのは、小一時間ほど前だ。このホテルの売りである展望レストランで、指輪を差し出された。またベタなシチュエーションだなと思ったものだが、同時に手塚らしくないとも思った。
「誰の入れ知恵だ? 怒らねーから言ってみろよ」
「入れ知恵とは人聞きが悪いな。大石たちに少しアドバイスをもらっただけだ。というか、青学と氷帝のメンツだな……」
「……………………なるほどね? ということは俺たちの関係がアイツらに知れ渡ってるってことだな?」
「隠す意味が分からん」
手塚は腕を組んで、心の底から分からないと目を細める。別に隠していたわけじゃないと跡部は訂正を入れた。聞かれないから言わなかっただけだ。もっとも、何人かは気づいていて聞いてこないのだろうとは思っていたが。
「式にはアイツらも呼ぶし、まあ問題ねえよ。からかわれんのはいただけねーがな」
「お前たちは本当に仲が良いな」
そっちもだろうと言い掛けて、確かに手塚を『からかう』のは難しいかもしれないと思い直した。このクソ真面目な朴念仁をからかったりできるヤツなどそうそういない。不二や、もしかしたら幸村あたりなら可能だろうか。
そして、跡部景吾。
「妬けるか?」
ニヤニヤと楽しそうに手塚を見やれば、
「なぜだ? お前が氷帝のヤツらを大事に思うのは当然だし、逆も然りだ。嫉妬する理由がない」
予想通りの答えが返ってきた。跡部はそれに満足して、両腕を広げて手塚を呼び寄せる。
「自信満々だなあ、手塚よ」
歩んできた手塚の首に腕を回して、そのまま二人でベッドに倒れ込む。この男が嫉妬しないというのは、跡部からの愛情をきっちりと認識しているせいだ。
「お前だってそうだろう」
「まあな」
そしてそれは、跡部にも当てはまることである。手塚がこの世界のどこで何をしていても構わない。いっそ忘れていたっていいのだ。こちらは勝手に全力で愛するだけだから。
「ほら手塚、いくら夜は長くても、これ以上俺様を焦らすんじゃねえよ。存分に愛されとけ」
「こちらの台詞なんだが。全力で愛されていろ」
「言うじゃねーの手塚ァ、俺様は負けねえぜ?」
「……勝つのは、俺だ」
むずがゆい若干の違和感を、キスで拭い去る。
きっとこんなやり取りが永遠に続いていくのだろうと、二人は長くて濃密な夜を過ごすことになった。
2023/09/09