お風呂上がりはノンアルコールのシャンパンで

 知らない番号からの着信だった。
 プライベート用の番号を知っている者は少ないし、気安く教えてはいない。それなのに登録されていない番号からとは、と、跡部は不思議に思って首を傾げた。
 普段であれば、そのまま出ずに放置しただろう。通話の方へ指をスライドさせたのは、ほんの気まぐれだったと思う。

「跡部です」
『本当にお前の番号だったか。手塚だが』
「は?」

 聞き覚えのある声、聞き慣れた名前。跡部は目を瞠った。手塚とは手塚国光のことで、つい先日関東大会で対戦した相手だ。だがしかし、スマートフォンの番号を教えた覚えはない。そんなにしたしくなどないし、そもそも対戦校の部長同士というなかなかに面倒くさい間柄だ。

「手塚……? 本物か?」
『俺の偽物がいるなら由々しき事態だな』
「いやちょっと待て、お前どこからこの番号」
『宅配便が届いた。伝票に電話番号が書いてあったので、礼をと思ったんだが』

 宅配便と聞いて、思い当たることがあった。九州に治療へ向かった手塚に、見舞いにと送ったものがある。あれか、と得心がいった。いつもなら使用人たちにまかせるけれど、こればかりは自分でと伝票を書いたのを覚えている。電話番号を書く欄があったから、必要なのだろうと思って記入した。
 それで礼の電話をしてくるとは義理堅い男だなと思う。

「無事に届いたようで安心したぜ。気分転換になるだろうと思って、俺様が直々に選んでやったんだ。ありがたく思いな」
『もらう理由がないが』

 返ってきた言葉に跡部は片眉を上げた。義理堅いとは思ったが、素直に厚意を受け取らないのはどうなんだと。別に妙なものを贈ったつもりもないんだがと中身を思い起こす。

「タオルとか、どれだけあったっていいだろうが。最高級の品質だぜ」
『それはいい。まあ……たしかにふわりとしていて手触りがいいな』
「紅茶嫌いだったか? 道具がねえだろうと思ってティーバッグってヤツにしてもらった」
『嫌いではない。まだ飲んではいないが、ありがたくいただこう』

 仏頂面で頷いている光景が目に浮かんで、ふっと口の端を上げる。ん? と首を傾げた。概ね好評のようだが、何が問題だったのだろう。

『跡部。このシャンパンというのは、酒ではないのか』

 ぱちぱちと目を瞬いた。確かにシャンパンも入れた。ワレモノシールとかいうものも貼ってもらったはずだ。割れてはいないだろうが、恐らく手塚には馴染みのないものだったのかもしれない。

「ククッ、ハッハッハ! ハァーッハッハッハ!」

 おかしさがこみ上げて、思わず高い笑い声を上げた。『うるさい』とこの跡部景吾を捕まえてそんなことをのたまうのは手塚国光しかいないだろうと、愉快な気分にもなった。

「ばぁか、ノンアルコールに決まってんだろ。未成年だろうが、アーン?」
『ノンアルコール……そうなのか。すまない、思い違いだ。お前は未成年らしからぬ言動が多いようなので、俺の認識が不適切だったんだろう』 
「てめぇに言われたかねえぜ。まあ何にしろ、味は保証する。リハビリの息抜きにでも飲んでみな。俺様も毎日風呂上がりに飲んでるヤツだ」
『お前と味覚が合うかは分からないが、試してみよう』

 どこか引っかかりを覚える言い様だが、元気そうで安堵する気持ちの方が大きい。肩の故障で大会を断念せざるを得ず、落ち込んでいるかとも思ったが、まあそんなことあるわけがなかった。手塚国光はいつも、いつでも、上を目指している。

 ぞわりと肌があわ立った。
 テニスがしたい。
 ぐっと拳を握り込む。
 手塚とテニスがしたい。

「肩の具合は訊かねえ」
『ああ』
「治してさっさと戻ってこい」
『お前に言われるまでもないが』
「戻ったら報せろ。うちのコートに招待してやるぜ」

 みなまで言わずとも、これで伝わるだろう。もう一度手塚とテニスがしたい。いや、もう一度だけなどと言いたくない。もっとずっと、一生涯、あの熱い魂とぶつかり合いたい。

『分かった。楽しみにしている。見舞いの品には礼を言っておこう。では』

 ぷつりと、やや一方的に通話が切られる。跡部は通話の終わった端末画面を、信じられないような気持ちで眺めた。

「……楽しみ? 手塚が……? そういう男なのか……なるほどね! 楽しみじゃねーの!」

 試合中は必死でがむしゃらで、とても楽しんでいるような雰囲気ではなかったが、そんな男でもテニスを愛しているらしい。跡部は口許を緩め、着ていたシャツを脱ぎ捨てた。トレーニングに向かおうと、着慣れたウェアに身を包み、着信履歴の番号をちゃっかり登録してから部屋を出た。



 テーブルに置かれたシャンパンの瓶と二つのグラスに、手塚は目を瞬く。

「本当に風呂上がりに飲むんだな、跡部」
「アーン? これがねえと落ち着か……おいてめぇ髪くらい乾かしてきやがれ。……ったく、ほらこっち来い」

 招かれるままにソファに座ると、先ほどまで跡部が使っていたらしいドライヤーで髪を髪を乾かされる。彼の指先はひどく優しく、心地が良かった。

「そういや感想聞いてなかったな。これ美味かっただろ?」
「あの時は……そうだ、同じ病室の人とか、見舞いに来た人、仕事が終わったという担当医の人と一緒に、……」
「? なんだよ? 別に構わねーぜ、誰と飲んだって」

 跡部の顔をじっと眺める。今思い返しても不思議な光景だったと手塚は思うのだ。

「……同室の患者が、いやそれ以外にも、氷帝のメンバーを彷彿とさせる人たちばかりだったんだ」
「アーン?」
「向井さんは向日にそっくりだったし、見舞いに来た人は芥川一郎さんだった。担当医は忍足しのびあし先生だったな」
「……しのびあし? 忍足じゃなくてか?」
「しのびあしだ。顔もそっくりだったんだ」

 その他にも、萩滝之介先生や三吉先生、樺島先生や小鳥先生、獅子導先生といったメンツがいたことを話す。見る見るうちに跡部の顔が不審げなものに変わっていくのが面白かった。

「どうなってんだ青春大付属病院……いやちょっと待て、芥川一郎?」
「知り合いだろう。中学生にエールを贈りたいなら『お坊ちゃまになれ』と言われたが」
「待てなんでお前がその会話知っ…………まさかとは思うが手塚ァ!」
「傍にいた。お前のアドバイスはためにならないな。なぜお前になるのがエールなんだ」

 放心したような跡部の手からドライヤーを取り上げ、スイッチを切る。一瞬ハッとして、把握した跡部の眉間にしわが寄った。

跡部景吾オレさまからエール贈られりゃアガんだろうが」
「それは跡部景吾おまえだからだ。俺が真似したって意味ないだろう」
「……つながってると分かってりゃ、直接アドバイスしてやったのに」
「思わぬところでつながるものだなと、不思議な縁を感じた」

 面白くなさそうに睨みつけてきていた跡部だが、やがて諦めたように「そうだな」とシャンパングラスに手を伸ばす。一つを手渡され、チンと音を立てて合わせた。

「こうして風呂上がりに一緒にシャンパン飲むような関係になるとは思ってなかったが」
「何がどうしてこうなったのかは分からないが、まあ必然的だったのだと思う。お前は俺を好き過ぎるだろう」
「テメェに言われたかねえっつってんだろうが。どれだけ俺様のこと愛してやがんだ、アーン?」

 指先で顎を持ち上げられ、手塚はその位置から跡部の顔を見下ろす。右目の下のチャームポイントは、やはり目立つなと思った。

「知りたいなら教えてやるが、ここではなくベッドでだ。行くぞ跡部」
「望むところだ。朝までつきあいな、手塚ァ!」

 二人でぐいとノンアルコールのシャンパンを飲み干して、指先を絡めながらベッドへと向かう。宣言通り朝までかけて、濃密に答えを教え合うことになるのであった。




2023/07/24