いちばんではないけれど
泡のついたスポンジが腕をなぞっていく。ゆっくりと優しく通り過ぎていくそれはくすぐったくもあり、またじれったくもあり、手塚は唇を引き結んだ。目の前の男の首筋にかぶりつきたくなるからだ。
つい先ほどまで充分に堪能していたはずなのに、もう触れたくなるのを、どうしたらいいのだろうか。
「なんだよ?」
視線に気づいたのか、恋人が――跡部が訊ねかけてくる。さすがに人の視線に慣れている男だ。手塚はそっと口を開き、「いや……」と濁してみた。それに機嫌を損ねたふうもなく、跡部は口の端を上げてくる。
「お前に見つめられると、まーだドキドキすんなぁ」
手塚は目を瞠って、瞬いた。
周りの……主に女性の視線をほしいままにする跡部景吾が、たった一人の男の視線に心臓を高鳴らせているというのか。恋人関係になってしばらく経つし、体だってつなげているのに、視線ひとつで? と不思議な気分だった。
「今まで見ているばかりだったからな。お前の視線が俺に向いてんのかと思うと、……照れくさくて、嬉しい」
頭を抱えたくなる。
跡部景吾という男は、自身の言動がどれだけ他人に影響を与えるかを分かっていない。いや、違う。分かってはいるはずなのだ。しかしながら手塚国光が相手となるとどうも勝手が違うようなのだ。
手塚だけが特別。そう考えると、胸のあたりがむずがゆい。
「確かにお前からの視線はものすごかったな。まさかそれに恋情が含まれているとは思わなかったが」
「なんでだよ、普通気づくだろう」
恋人でありながら、まだ跡部景吾という男のことがさっぱり分からない。同性への恋情を、そんな明日の天気でも話すように言わないでほしい。
「はなから選択肢のうちに入っていないんだ。そんなことを言うならお前だってそうだろう。俺が好きだと言ったのに最初は疑っていたじゃないか」
「なっ……」
テニスを通して知り合い、好敵手として過ごしてきたが、世間では跡部の方がより手塚に執着しているように見て取れただろう。
言ったように、跡部からの視線はあからさまで、ないと落ち着かないまであった。
しかしそれはあくまでライバルとしてだと思っていたし、実際は手塚の方こそ深刻に跡部のことが好きだった。
「……はなから選択肢に入ってなかったんだよ、そんなの」
ほら見ろ、と目を細めてやると、気まずそうに視線が逸らされる。
お互いが、「まさか」と思ったに違いない。
好きになったからには潔く告げて散ろうと思っていた手塚が、違和感を覚えたのは恋を告げた後の跡部の表情。
怒るか、なんでもないように受け流すかすると思っていたのに、跡部は一瞬泣きそうな顔をした。悲しませたのかと胸が痛んだのをまだ覚えている。
「最初は……俺の気持ち知っててからかってんだと思った。わりとあからさまに接してたつもりだからな、俺様は」
「いや、分からなかったが」
「鈍いにも程があんだろ。アーン?」
「それは否定しないが、からかうなどという思いはなかった」
誰かをからかうなどという芸当ができるとは思わないでもらいたいと、気分が沈んでいく。そういう男だと思われているなら心外だ。
「そんな顔すんなよ手塚。そう感じたのは一瞬だった」
少し濡れた髪をひと筋、つんと引っ張られる。こんな時、跡部がどれだけ見てくれているかを実感する。
手塚は表情が読み取りづらい。自覚しているし、それで誤解を受けることだって多々あった。だけど、跡部には分かるらしい。ささいな変化でも読み取って、的確にすくい上げてくれる。
「それでもまさかって思うだろうが。男同士だし、てめぇはテニスにしか興味ねえと思ってたのに、割と手が早かったしな」
「それは謝らない」
「謝んねーのかよ」
跡部が声を立てて笑う。両想いだと分かって恋人関係になり、しばらく経ったと言っても、今三か月が過ぎたあたり。
だけど初めてのキスをするまで十日もかからなかった。手が早いと言われても仕方がない気もする。
驚いた顔も、その後真っ赤になる顔も可愛かったなと思い出して目を細める。
それが今ではこんなふうに一緒に風呂にまで入っているのだから、世の中何が起こるか分からない。
無論、跡部が本当に嫌ならば手を出したりしなかった。嫌われたいわけではないのだから、欲を我慢するくらいはできたのだ。
「くそ真面目に訊いてくるんだもんな、お前。抱きたいと思っているがいいか、なんてよ……。ほらそっちの腕よこせ」
言われるがままに左腕を差し出す。右腕と同じようにスポンジが優しく触れてくる。
「恋人とはいえ合意が必要なことだろう」
「あの時嫌だって言ってたらどうした?」
「我慢した」
当然のことを訊ねてくる跡部の真意が手塚にはよく分からない。自分のものにしたいと思うのと同じくらい、大切にしたい相手だ。強引にコトを進めた後にわだかまりが残るのは目に見えていた。
「たとえ俺が強引にお前を押し倒して抱いても、お前は俺を赦してしまうのだろうなと今なら思うが、あまり俺を甘やかすな」
「だったら簡単に甘やかされてんじゃねーよ」
トントンと指先で腕をつつかれる。確かにこうして体を洗われるというのは最上級の甘やかされだが、仕方がない。
「お前が楽しそうなのが悪い」
こちらのせいではないと口を尖らせると、跡部は一瞬きょとんとした表情をして、それから肩を震わせて笑った。
「ああ、楽しいな、確かに。俺は家だと世話されることが多いから、自分のテリトリーで誰かの世話をするってのは新鮮なんだ。それが愛しい恋人ってなりゃあ楽しいに決まってる」
「世話好きなのだろうとは思っていたが……まさか洗われるとはな……。もう慣れたが」
慣れるほど回数をこなしてきたということにもなって、照れくさいと同時にやはり嬉しい。ベッドの中では手塚の方が好き勝手しているのだから、ベッドを出たら跡部の好きにさせてやりたいという思いもあった。
「世話が好きってのもあるが、お前に触りたいってのがでけぇんだよ。ベッドん中じゃそんなこと考えてる余裕がなくてな、誰かさんのせいで」
「……なるほど」
余裕がないという部分には非常に心当たりがあるだけに、気まずい。そううさせているのは手塚だからだ。
跡部が楽しそうに笑う。そうしながら指先で腕を撫で、泡をすくい取っていく。ふ、と息を吹きかけて、手塚の方へと泡を飛ばしてきた。
「おい」
「ハハッ、泡まみれでもいい男じゃねーの」
すこぶるご機嫌な恋人が可愛くないわけではないしむしろ可愛すぎてどうしたらいいか分からない。しかしこのまま遊ばれているのは視覚的にもよろしくないだろう。
「もういいだろう跡部、自分で洗う」
「いやだね。俺の楽しみ取るんじゃねーよ」
スポンジを取り上げようとするが、ひょいと逃げていく。触っていたいなどと言うなら何をどうされても文句は言えないのだぞと言ってやりたい。手塚はほんの少し考え込んで、ひとまずこの戯れを先に進めなければと言葉を選んだ。
「………………湯船でお前とふたり、ゆっくりしたいんだが」
跡部がぱちぱちと目を瞬く。少し後ろめたい気もしたが、本音であることは間違いない。跡部の表情がパァッと華やぎ、油断していた手塚は頬を赤らめた。
「ん、そうだな。けど背中と髪は俺が洗ってやりたい。いいだろ手塚」
手塚はこくりと頷いた。跡部の機嫌がいい状態は都合がいいし、何より背後にいられる分には理性がどうにかなる可能性も低くなる。
跡部が手塚の背中に周り、そっと触れてくる。
唇で、うなじに。
「……っ跡部!」
「ハハッ、お前ここ弱いよな。怒るなって。もうしねえよ」
「本当に勘弁してくれ……お前は俺の理性を過大評価しているのか、欲を過小評価しているのか」
「そりゃこっちの台詞だ。絶対に俺の方がお前のこと好きだしな」
ゴシ、と強すぎず弱すぎず背中をたどっていくスポンジと泡の感触に、手塚は眉を寄せた。
「それは聞き捨てならないな。俺の方がお前を好きなんだが」
どうも跡部は想いの大きさを誤認している気がする。告白したのは手塚の方からだというのに、なぜそうも自信たっぷりに自分の方がなどと言えるのだろう。
「……………………そうなのか?」
不思議そうな声で訊ねかけてくる。本当に思いも寄らないといったふうにだ。
手塚は小さくため息をついた。確かに感情を表に出すことは不得手だが、ここまで伝わっていないとは思わなかった。
「お前は普段あれだけ自信で包まれているのに、なぜ俺のことになるとそうなんだ」
「だ、だって……手塚のいちばんにはならねえだろ、どうやったって……。お前の中の最上位はテニスだ」
「否定しないが、だったらお前はどうなんだ。俺がいちばんなどとは言わせんぞ」
「……………………まあそうだけどよ」
面白くなさそうに返してくる。背後にいるおかげで見えないが、きっと口を尖らせてでもいるのだろう。見たかったなと、愉快な気分にもなった。
跡部の口数が、急激に少なくなる。
洗い終えた背中の泡を流してくれるが、手つきが危なっかしい。
いちばんにはなり得ないということを、気にしてしまったのだろうか。お互い様なのになと、手塚は少し後ろを振り向いた。
「跡部、お前の中の最上位にテニスがあることが俺は嬉しい」
「え?」
首をぐいと伸ばして、唇に吸いつく。柔らかな感触は、手塚が気に入っているもののひとつだ。
「何しろお前とは、テニスをしていなければ知り合えなかった」
お互い生徒会長をしていたとはいえ、特に学校同士で交流会があるわけではなかった。
親しくなってからは合同での行事などを提案し執り行ってもきたが、それがなければ道が交わることはなかった相手だ。
跡部は財閥の跡取りで、手塚は一般的な家庭の暮らし。住む世界がまるで違う。
「俺の中での最上位がテニスだというのはもともとだし、それはこれからも揺るぎないものだ。だからこそ同じ世界にいて、同じ目線でいられるお前と出逢えたのが嬉しい」
「ああ……それは俺も同じだ。お前のことがいちばんなんて言ってやれねえが、同じ世界にいられるのはすげえ嬉しい。テニスをしてて良かった」
ホッとしたような表情をしたあと、幸福そうに笑ってくれる。
手放しでいちばん大事などとは言えないが、大切な人であることはお互い変わらない。それが分かっただけで充分だと。
「あー……テニスしてえ」
「今からは無理だろう。明日、相手をしてくれないか」
「こっちからお願いしたいところだ。ふ、やっぱりてめぇといるのは心地いいな。呆れもせずつきあってくれんだからよ」
「お互い様な気がするが……」
「確かに。ほら、シャンプーするぞ」
シャワーで髪が濡らされていく。シャンプーを泡立てて髪を洗ってくれる跡部は、やっと気分が上昇したようで、鼻歌まで聞こえる。
「なあ。俺のどこがそんなに好きなんだ? 俺がお前を想うよりもってんだから、それなりにあんだろ?」
「どこ……と言われてもな……、お前を形作るすべてと言うしかないんだが」
「お前時々大胆なこと言うよな……ベタ惚れじゃねーの」
「だからそう言っているだろう」
跡部の指先が頭皮を刺激していく。それが心地良くて、手塚は目蓋を伏せた。そうすると鼻歌がよりいっそう楽しそうに聞こえて、思わず口許が緩んでしまう。
「その指先も、好きだと思う」
「ん? ふふ、気持ちいいかよ?」
「ああ」
素直に返すと、小さく「かわいい……」などと聞こえてくる。それには同意しかねるが、髪を洗う仕草が本当に心地良くてどうでも良くなってしまった。
わしゃわしゃとかき混ぜられ、ゆっくりとなでつけられ、ややあって流される。丁寧な指先で、本当に大事にされているのだと実感させられた。
「ん、トリートメントも完了。先に入ってろ」
髪と体に湯をかけられ、泡がついていないことを確認した跡部は、湯船の方を顎で示す。お返しに洗ってやろうと思っていたのだが、跡部はそれを望んでいないようだ。
「俺には洗わせてくれないのか」
「んなことして我慢できると思うのかよ? 俺が」
「お前か。いや……うん、そうだな、無理だ、俺が」
跡部が何を言いたいのか分かって、みなまで言うなと手のひらで制してみる。そうして手塚は先に拾い湯船を堪能させてもらうことにした。
そこから、跡部が体を洗う様子を眺める。整った顔立ち以外にも、無駄のない筋肉や骨格を観察するには絶好の場所だ。
「なに見てんだよ、すけべ」
「いや、綺麗だと思って」
「……ありがとよ」
呆れと照れとを混ぜ合わせたような表情を、跡部はふいと背ける。
そわそわと足の指が浮いているのを見て、思わず口の端が上がった。
「つーかお前、眼鏡ねえのに見えんのかよ」
「そこまで悪くはない。あった方がよく見えるのは事実だが」
「……油断してたぜ」
ため息とともに泡を流し、髪をかき上げる。その仕種さえ様になっていて、さすが跡部景吾だななどと妙な感心さえしてしまった。
「まだ知らないことがたくさんあるな、俺たちは」
「そうだな」
洗い終えた跡部がバスタブに入ってくる。それはいいが、場所がおかしい。手塚はそうとは悟られないようにこっそり慌てた。
「おい、跡部」
「あ~……落ち着く」
ちゃぷりと湯船に体を浸からせ、背中を手塚の胸に預けてくる。これは、まずいのではないだろうか。
「俺は落ち着かない」
「慣れろ」
くっくっと笑いながら、脚の間でくつろいでしまった跡部を、退かすこともできない。
触れ合う時間を嬉しいと思っているのは手塚も同じだからだ。
恋人関係になって、初めて分かったことがある。跡部がこうしてわずかな時間でも身を寄せてくるほど、甘えるのが好きなようであること。
正直意外だった。甘えるのは弱さだなどと言いそうな彼が、こうして腕の中で「落ち着く」とリラックスしてくれているのは、本当に嬉しい。
「体は平気か、跡部」
「ん、そこそこな」
「……そこそこか」
「意外だよな、手塚がこっち方面にそこまでガツガツしてるイメージはなかったが」
初めて知ったことがあるのは跡部も同じようで、どこかで安堵する。
「嫌か? というか、それは俺自身も驚いている」
「嫌じゃねえよ、全然。嬉しい。……お前は? 俺がこうやってなんか……甘えてるみてーなとこ、嫌か」
「少しも嫌ではない。俺だけにそうなのであれば、可愛くてたまらないな」
「そうか」
振り向いて頬に鼻先をすり寄せてくる。くすぐったくて、仕返しのようにこめかみと首筋に唇を落とした。
「くすぐってえじゃねーの」
「お前が先にやったんだろう」
戯れるたびに、湯船に波が生まれる。押し寄せてくる小さなそれは、恋情と同化して胸をざわつかせる。
「お前と一緒に風呂入んの、落ち着くけど、落ち着かねえ……」
「慣れろ」
跡部の言葉を真似て返すと、彼はむくれるどころか楽しそうに片方の口角を上げる。
「俺が慣れるまで一緒に入るってか?」
「…………慣れても一緒に入りたいが」
ほんの少し考え込んで、手塚は答える。それは跡部にとって驚きだったようで、目をぱちくりと丸くさせた。
「……かわいいヤツ」
跡部の腕が首に回されて、唇に触れてくる。しっとりと濡れた唇は心地良くて、もっと長く触れていたい衝動で腰を抱く。
胸と胸が合わさって、長いキスになった。
「ん、……ふふ、これはどっちのせいだろうなあ?」
「お互いの責任だろう」
「加減しろよ、手塚。明日テニスすんだろ」
「分かった、努力しよう」
抑えていた互いの理性は湯に溶けて消え、結局はのぼせる寸前まで触れ合うことになってしまった。
それでも翌日はけろりとした顔でテニスを楽しむのだろうから、さすがという他にない。恋人と湯船でふたり、ゆっくりなどできなかったけれど、心身ともに満たされて、幸福な気分だった。
2023/06/30