五分間-その後-
部屋のインターホンが鳴る。跡部は足早にドアへと向かった。
ルームサービスは頼んでいない。部屋の番号を知っているのはホテル側の人間か、知らせた恋人だけ。不用心だとは思いつつ、跡部は確認もせずにロックを解除した。
果たしてそこに待ち受けていたのは、やはり愛しい恋人の姿。
「よう、手塚」
「すまない、遅くなってしまった」
「いや、思っていたより早いぜ。お疲れ」
すぐに抱きついてしまいたいところだが、そうすればこのままここでコトが始まりかねない。なんとか我慢して、手塚を招き入れた。
「ご家族には逢えたか?」
「ああ、明日の昼食を約束してきた」
「そりゃよかった」
ドイツから帰国した手塚は、明日の夜には向こうに立つという。トンボ帰りだが、そこしか都合がつかなかったらしいのだ。家族に逢って話すことがあると聞いたが、どうせなら三日後の誕生日までいられればよかったのにとも思ってしまう。
「雑誌のインタビューというのはいつまで経っても慣れないな」
「お前はそうだろうな。空港でのこと、訊かれたか?」
「まあ……訊かれた」
昼間空港で偶然鉢合わせた時、思いがけない邂逅だったせいか、何もかもかなぐり捨てて駆け出し、たった五分間の逢瀬を持った。
手塚の帰国待ちをしていたらしいファンやカメラを構えた報道陣を放ってだ。跡部も、イギリスから一時帰国して商談や会合が控えていたというのに、待機しろと秘書を放って手塚の手を取った。
騒ぎにならないわけはなかった。
「なんて答えたんだよ?」
「いつか話すことがあるかもしれない、と。親しい友人というのも、あの状況では難しいだろう」
ソファに腰をかけた手塚に、そうだなと跡部は笑いながら肩をすくめた。立ち話程度ならそう言えるが、手を取りながらの逃避行では到底無理だ。
「雑誌の方は抑えたが、SNSまではな……。フッ、すげぇぜこれ。〝国光サマがイケメンとどっか消えた〟〝金髪美人が手塚さんさらっていったが!?〟〝追いかける隙もない〟〝秘密の逢瀬なら邪魔できない〟……だとよ」
「どちらかと言うと俺がさらっていったような気がするが」
あの時「来い」と手を差し出したのは確かに手塚だったが、言うべきところはそこではない。十中八九、勘ぐられている。手塚国光には同性のパートナーがいるのだと。
こうなることは予想できたはずなのに、あの時はどうしても抑えられなかった。
それでも跡部は、お互いの責任においてつきあってきたはずだと思い、後悔を口にすることはない。
「腹括れよ、手塚。たぶんこれから周りが騒がしくなるぜ」
「それは分かっている。お前の方が大変そうだが」
「ふん、それを乗り越えてみせねえで、跡部は束ねられねえよ」
「毎度思うが、お前のその強気なところは好ましいな」
「ふふ、ありがとよ」
きっと空港でのやりとりを見た報道陣が、こぞって取材を申し込んでくるはずだ。手塚の取材選別はこちらでしてやるかと、いくつか懇意にしている雑誌社を思い浮かべてみる。いっそ楽しくなってきてしまった。どこがいちばん愉快な記事を書いてくれるだろうか。
「跡部、楽しそうなところ申し訳ないが、先にこれを受け取ってもらえないか」
「アーン?」
振り向いた跡部の目の前に、一輪の薔薇。
突然のことに、跡部はぱちぱちと目を瞬いた。
「お前、これ」
「ここに来る前に買ってきたんだ。まだ開いている花屋があって助かった」
そういえば、部屋に入ってきてからずっと左手が後ろに隠れていた気がする。
この一輪の薔薇を隠していたのかと思うと、可愛いことをしてくれるなと口許が緩んだ。
「今日逢えると分かっていれば、もっとちゃんとしたものを用意したんだが。せっかくの誕生日に、薔薇一輪ですまない」
「いや、嬉しいぜ手塚。……ふ、これ買うためにお前が花屋に入ってくの、見たかったな」
そう、今日十月四日は跡部景吾の誕生日だ。
今日この日に手塚に逢えたことが最高の贈り物なのに、わざわざこうして花までプレゼントしてくれるなんて。
柄じゃないだろうにと思いつつ、手塚の左手からその薔薇を受け取った。
「わざとかそうでないのか、黒薔薇ってな。俺たちにふさわしい薔薇じゃねーの」
「喜んでもらえてよかった。空港でも伝えたが、誕生日おめでとう。逢えて嬉しい」
「サンキュ、手塚。逢いたかった……」
そう言って、両腕を手塚の背に回す。手塚も両腕で抱き返してくれて、ほうっと息を吐く。
慣れた体温と匂いを感じて、脳まで満たされる思いだ。
どうして、こんなにも求めて止まないのに、離れていられたのだろう。
体を離せば視線が絡んで、唇が引かれ合っていく。
「ん……」
何度もしてきたキスでさえ、いまだに胸が鳴る。それを知っているのか、確かめるように手塚の手のひらが胸に当てられた。
びくりと揺れた肩をもう片方の手でなだめられ、応えるように舌を吸う。それを合図に、キスは深さと激しさを増した。
じんとしびれるほどに強く吸われ、歯を立て舌を舐る。混ざる唾液を飲み込んで、吐息さえ奪って互いのシャツのボタンをもどかしげに外していった。
「……っ手塚、ベッド……」
「ああ、立てるか?」
「キスで腰砕けになるほどヤワじゃねえ」
「――ほう? なんなら今から砕かせてやってもいいが」
「ベッド! 行くんだろうがよ!」
差し出された手を振り払ったのは、羞恥からくる腹立たしさだったけれども、腰が砕けるくらいのキスとはいったいどれほどのものだろうか。
興味はあるが、ここでバテるわけにはいかない。何しろ夜はこれからだ。
朝が来るまで、黒薔薇にはここで待っていてもらうことにしよう。ベッドの中で花言葉を教えてやったら、手塚はいったいどんな顔をするのだろう。きっと涼しい顔で「知っている」なんて言うに違いない。
可愛くねえなんて思いながらも、愛しそうに肩を抱いて、キスをしながらベッドへと向かっていった。
翌朝、手塚は珍しくスマートフォンの着信音で起こされた。ドイツ語で応答するのはもはやくせになってしまっていて、ここが日本であることをしばし忘れる。電話の相手が、付き人だったせいもあるだろう。
「いや、構わないが……ああ、…………は?」
まだ眠っている跡部を起こさないようにゆっくりベッドを降りて会話を続けたが、向こう側から聞こえてきた言葉に耳を疑った
「それは、どういう……いや、謝らなくていいが」
動揺は声に表れ、立てた物音に跡部が起き出してしまった。手塚は通話口をそっと押さえ、「起こしてすまない」と小さく呟く。気怠げな跡部はふるふると首を振った。
「ああ、分かった。そうさせてもらう」
手塚はため息を吐きながら通話を終え、怪訝そうな顔をした跡部に向き直った。
「何かトラブルか?」
「いや、トラブルというか……まあそうなんだが」
「なんだよ、珍しくパッとしねえ答えじゃねーの」
跡部はローブを羽織りながら立ち上がる。情事の名残が散らばる素肌は目に毒だが、強気な口許は「俺がなんでも解決してやる」とでも言いたげだ。
「帰国の便が予約できていなかったと言われた。……せっかくだから一週間ほど滞在してきたらどうかとも」
「アーン?」
今日の夜、向こうに帰る便に乗るはずだったのだ。その飛行機が予約できていないとは。強行軍だったし、時間が許すのならばもう少しゆっくりしたいというのは本音だが、これは、恐らく。
「はは……ん、気の利いたことしてくれるじゃねーの」
そう、恐らくは飛行機のチケットが取れていないなんてことは嘘なのだ。めったに帰れない状況であることに加えて、昨日の空港でのことが関係しているに違いない。
「どうする手塚。俺なら、自家用機ででもお前を送ってってやれるが」
飛行機のチケットなど、今からどうにでもなる上に、恋人は財閥の御曹司だ。言い方は悪いが金に物を言わせて融通を利かせることだってできる。
跡部は楽しそうに口の端を上げ、手塚の答えを待っていた。
「結構だ。せっかくなので、一週間ほどの休暇だな」
「なら、予定合わせるから、お前の誕生日を一緒に過ごさせてくれねえか。俺もお前に黒薔薇を贈りたい」
「ああ、もちろんだ。俺たちに似合いの花だからな」
「ククッ、やっぱり知ってて選んだな」
肩を揺らして笑う跡部に、「そうだな」と今日最初のキスをする。
一週間の休暇の中で、家族に紹介する時間が取れればいいと思いつつ、昨夜散々堪能した体をもう一度抱きしめた。
黒薔薇の花言葉―永遠の愛―
2022/12/18